北 京・ 糞 東 ・ 熱 河 二 響 記 五〇
北
京
・翼
束
・熱
河
二
週
日
記
中
野
義
照
序 出 張 の 認 可 を 得 た の で、 昭 和 十 一 年 六 月 十 日 護 隔 北 京 翼 東 熟 河 を 一 巡 し、 二 週 日 を 費 し て 麟 津 し た。 下 の 記 述 は そ の 後 の 情 勢 を 醗 酌 し、 私 の 能 ふ 限 り の 研 究 を 重 ね、 十 二 年 三 月 報 告 し た も の で あ る。 そ の 後 の 事 に 就 て は 何 等 の 補 正 を し て 居 な い。 も と よ り 見 聞 推 考 到 断 甚 し く 徹 底 し て 居 な い こ と を 恐 れ、 各 專 門 の 條 項 の 行 屈 い た 論 策 鳩 非 常 に 多 く、 徒 に 奮 跡 を 追 う て 俳 徊 す る 憾 な し と し な い が、 私 は 當 時 誠 心 を 以 て 潮、 率 直 に 絡 観 し た 積 り で あ る。 萬 物 恒 な く 日 夜 轄 た 攣 ず る。 一 年 牛 の 聞 に 既 に 駆 史 的 記 述 に 塵 さ れ た 感 も な い で は な い 。 而 も 尚 観 察 梢 繁 肯 に 當 り、 今 の 情 勢 を 洞 見 し 得 た る 些 少 の 誇 り も あ り、 更 に 將 來 の 實 朧 を 期 し て 止 ま な い も の も 存 す る。 私 が 北 支 に 來 て 一 膿 何 を し て 居 る か と の 御 心 配 に も 答 へ た く、 宗 門 諸 大 徳 の 興 昧 を 喚 起 せ ら れ ん が 爲 に、 丈 の 冗 長 を 顧 み ず 僻 の 不 文 を 厭 は ず、 敢 て 之 を 諸 君 子 の 机 下 に 呈 し て 御 批 評 を 賜 り た い と 思 ふ 。 昭 和 十 三 年 三 月 一 日 一 北 京 に て 胡 適 氏 と 會 談 す、 六 月 十 日。 中 華 へ 來 る 文 化 人 の 誰 も が 一 度 は 胡 適 氏 と 會 談 す る を 欲 す る の だ と 後 に 聞 い た。 予 は そ ん な 積 り で ば な く、 輩 に 嘗 て 高 楠 博 士 か ら 北 京 に は 佛 教 學 の 第 一 入 者Holsteinと 中 國 文 化 の 第 一 人 者 た る 胡 適 氏 と が 居 ら れ る と 言 は れ た の で、 渡 支 以 來 た ジ 會 つ て 佛 教 に 關 す る 一 切 の 現 實 問 題 を 論 じ て み た い 念 願 だ け で あ つ 九。 昨 春 北 京 の 橋 川 春 雄 氏 に 紹 介 を 依 頼 し 兼 て 通 課 の 勢 を 取 つ て 戴 き 度 い と 願 つ て 置 い た 塵、 六 月 十 日 に 私 宅 で 會 ふ と の 快 信 を 得 た の で 至 急 北 京 に 出 向 い た。 生 憎 く 橋 川 氏 に 差 支 を 生 じ れ の で、 同 じ 文 化 研 究 所 に 居 ら れ る 小 竹 武 夫 氏 を 煩 は し て 件 れ て い つ て 貰 ひ 約 一 時 聞 會 談 す る を 得 た。誰 も 知 つ て 居 る 通 り の 事 で あ る が、 一 往 胡 適 氏 の 略 歴 を 考 へ (一) て み た い。 一 八 九 一 年 の 産 と 言 ふ か ら 予 と 同 年 で あ る。 上 海 に 生 れ 四 歳 に し て 父 を 喪 ひ、 父 の 郷 里 安 徽 省 績 浅 縣 に 返 つ て 十 三 歳 ま で 其 地 に 教 育 せ ら れ、 同 年 よ り 上 海 に 往 き 近 代 中 華 人 に は 珍 ら し く 苦 學 力 行 し、 二 十 歳 留 學 生 と し て 渡 米 コ ー ネ ル 大 學 に 入 る 迄 に は 既 に 中 國 古 典 文 學 の 精 髄 を 會 得 し て 居 た と 言 は れ る。 コ ー ネ ル 大 學 で は 初 め 農 學 を 修 め た が 自 巳 の 性 格 に 目 醍 め て 丈 科 に 韓 じ た。 次 い で コ ロ ソ ビ ア 大 學 に 入 り John Dewy の 許 に 實 用 主 義 を 研 究 し、 ﹁ 古 代 支 那 に 於 け る 倫 理 の 護 達 ﹂ を 提 出 し て 學 位 を 得、 滋 に 學 生 々 活 を 畢 へ た。 そ の 論 文 は 墨 雀 哲 學 を 書 い た も の で あ る が、 中 華 人 と し て は 時 勢 上 既 に 革 命 的 實 際 的 で あ り、 性 格 上 そ れ を 代 表 的 に 持 っ て ゐ る 上 に、 歴 史 の 淺 い 從 つ て 極 め て 自 由 實 際 な る 思 想 と 實 蹟 の 行 は れ 得 る 米 國 の 實 蹟 哲 學 を 研 究 し た の で あ る か も、 性 格 と 留 學 と が 相 侯 つ て 爾 後 の 氏 の 動 向 を 決 定 し た も の と 考 へ て 差 支 な い。 こ の 實 際 主 義 が 湛 つ て 中 國 文 學 界 に 三 大 革 命 を 起 し た の が 雑 誌 ﹃ 新 青 年 ﹄ に 寄 せ た る ﹁ 文 學 改 良 編 議 ﹂ で あ る。 軍 人 で も 輕 濟 人 で も 政 治 家 で も な い 彼 に 取 つ て 最 も 適 し た る 革 命 の 實 行 で あ つ た。 雑 誌 の 主 宰 者 た り 同 時 に 北 京 大 學 文 科 々 長 た り し 陳 猫 秀 は 氏 の 蓮 動 を 極 力 支 持 し て、 貴 族 文 學 に 封 す る 國 民 文 學、 古 典 文 學 に 封 す る 窟 蜜 文 學、 山 林 文 學 に 野 す る 祉 會 文 學 を 建 設 す る も の で あ る と し て 極 力 聲 援 し た。 民 國 六 年 聾 國 北 京 大 學 の 教 授 に 就 い た。 聞 も な く 名 著 ﹁ 中 國 哲 學 史 大 綱 巻 上 ﹂ が 上 梓 せ ら れ 天 下 に 大 名 聲 を 博 し む 之 實 に 一 年 の 講 蓑 を 纒 め 上 げ た も の に 過 ぎ な い が、 時 の 総 長 藝 元 塔 は そ の 序 文 の 中 に、 方 法 の 謹 明 的 な る こ と、 手 段 の 弛 要 的 な る こ と、 見 地 の 準 等 な る こ と、 研 究 の 系 統 的 な る こ と を 學 げ、 そ の 成 功 を 覗 し て 居 る。 民 國 十 一 年 に は 陳 濁 秀 の 跡 を 纒 い で 若 い 文 學 科 々 長 と な り、 爾 來 英 國 に 滞 在 し た 事 も あ り、 上 海 の 光 華 大 學 に 席 を 占 め た 事 も あ る が、 今 に 至 る ま で 大 騰 科 長 の 地 位 を 保 持 し、 中 國 文 學 界 に 君 臨 し て 猫 特 の 地 位 と 罐 威 と を 持 つ て 屠 る。 著 述 に は ﹁ 折 口學 史 大 綱 ﹂ の 外 に 自 話 詩 集 た る ﹁ 胡 適 交 存 ﹂ が あ り 叉 ﹁ 嘗 試 集 ﹂ が あ る。 相 當 の 讃 者 を 有 す る 主 宰 パ ソ フ レ ッ ト も あ る が、 有 名 な 程 に 纏 つ た 著 述 は な い。 實 に 今 日 の 彼 の 生 命 は、 嚢 へ な い 清 新 な 力 箪 を 以 て 時 事 を 論 じ て 青 年 を 誘 導 し、 犀 利 な る 批 評 を 下 す 評 論 家 で あ る 所 に 存 す る ら し い, 然 し 固 よ り 古 典 交 學 に 明 る く 鰍 米 の 文 化 學 た も 通 ず る の で あ る か ら、 專 門 的 の 評 述 も 時 に 散 見 し な い で も な い。 今 予 の 興 味 か ら 一 言 鰯 れ な く て は な ら ぬ も の は 彼 の (二) ﹁ 一 個 最 低 限 度 的 支 那 學 書 目 ﹂ と い 幽 論 文 で あ る。 若 い 中 國 の 青 年 が 海 外 に 文 化 研 究 の 族 を す る 際 に 必 携 必 讃 の も の と し て 論 じ た る も の で あ る。 第 一 章 は 序 言、 第 二 章 は 必 携 す べ き 重 要 滲 考 文 献 で そ の 中 に 書 目 墓 要 十 四 種 を 墾 ぐ る 中 に 佛 敏 文 献 と し て は 丁 幅 保 等 澤 編 の ﹁佛 教 大 鮮 典 ﹂ が 北 京・ 翼 東・ 熱 河 二 週 日 記 五 一
北 京 ・翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 五 二 三 つ あ る。 第 四 章 は 文 學 史 に 關 す る 重 要 文 献 を 墓 げ 第 五 章 に 敏 讃 書 法 を 教 誠 し て 遺 す 所 が な く 實 に 名 論 で あ る。 注 意 す べ き は 第 三 章 思 想 史 に 關 す る 重 要 文 獄 で 藪 に は 自 著 中 國 哲 學 史 大 綱 巻 上 以 下 七 十 二 目 を 暴 ぴ て 居 る が、 そ の 中 佛 教 に 關 す る も の は 下 の 如 く で あ る。 一、 佛 遺 教 経 二、 異 部 宗 輪 論 蓮 記 三、 大 方 廣 佛 華 嚴 経 (東 晋 課 本 ) 四、 妙 法 蓮 華 経 (羅 什 課 ) 五、 般 若 綱 要 (葛 慧 ) 六、 般 若 波 羅 蜜 多 心 経 (玄 癸 課 ) 七、 金 剛 般 若 波 羅 蜜 多 経 (羅 什 諜 ) 八、 阿 彌 陀 経 (羅 什 謬 ) 九、 大 方 廣 圓 豊 了 義 経 (佛 陀 多 羅 課 ) 三 〇、 十 二 門 論 一 一、 中 論 一 二、 三 論 玄 義 一 三、 大 乗 起 信 論 一 四、 大 乗 趨 信 論 考 謹 (梁 啓 超 ) 三 五、 小 止 観 (智 頻 ) 三 六、 相 宗 八 要 直 解 ( 智 旭 ) 三 七、 因 明 入 正 理 論 疏 (窺 基 ) 三 八、 大 慈 恩 寺 三 藏 法 師 傳 (慧 立 ) 三 九、 華 嚴 原 人 論 二 〇、 壇 経 (法 海 錐 ) 二 一 馬 古 奪 宿 語 録 二 二、 宏 明 集 (梁 侮 詰 集 ) 此 の 表 を 見 る と、 も と よ り 漢 文 語 書 を 基 本 と し て 書 か れ た の で あ ら う し、 相 當 前 の も の で 而 も 卒 直 に か N れ た も の に 違 ひ な い が、 支 那 の 文 化 入 が 自 國 の 特 殊 の 佛 教 思 想 に 如 何 に 目 醒 め て 居 な い か を 明 に 見 る こ と が で き る。 佛 教 は も と よ り 印 度 よ り 傳 來 し 九 の で あ る か ら 印 度 佛 典 の 知 識 な く し て は 支 那 佛 教 や が て 支 那 思 想 も 語 れ な い か も 知 れ な い が、 藪 に 暴 ぐ る 書 目 は 何 等 系 統 の な い ば か り で な く、 支 那 思 想 上 支 那 佛 教 思 想 上 の 優 秀 書 を 逸 し て 居 (3) る。 宇 井 伯 壽 氏 は 支 那 佛 教 思 想 史 上 の 最 重 要 書 と し て、 浮 影 慧 遠 の 大 乗 義 立早 二 六 巻、 嘉 詳 大 師 の 大 乗 玄 論 五 巻、 天 台 大 師 の 法 華 玄 義 二 十 巻、 賢 首 大 師 の 五 教 章 三 巻、 慈 恩 大 師 の 義 林 章 七 巻 を 纂 げ て 居 る が、 多 少 低 度 の も の を 附 加 す れ ば 更 に 十 種 位 之 を 纂 げ る 事 が で き る で あ ら う 。 註 (1) 清 水 安 三 氏 支 那 當 代 新 人 物 (大 正 十 三 年 ) 園 田 一 鶉 氏 支 那 薪 人 國 記 (昭 和 二 年 ) (2) 武 田 罷 氏 支 那 丈 献 の 解 題 と そ の 研 究 法 ( 昭 和 六 年 ) (3) 宇 井 伯 壽 氏 支 那 思 想 佛 教 思 想 (東 洋 思 潮 昭 和 十 年 ) 楮 て 氏 と の 會 見 談 は 大 略 下 の や う で あ つ た と 思 ふ。 ー 中 國 暫 學 史 誰 で も 問 題 に し て 居 る の は 氏 の 中 國 哲 學 史 の 完 成 で あ る。 嘗 て 輝 に 聞 く 慮 に 依 れ ば、 氏 は 佛 教 々 好 ま す、 而 も 佛 教 の 影 響 を 受 け た 唐 宋 以 後 の 哲 學 史 は 佛 教 の 知 識 な く し て は 困 難 で あ り 到 底 一 章 も 書 け な い の
で あ る 。 そ れ が 哲 學 史 禾 完 成 の 根 本 原 因 だ と い 幽 事 で あ つ た。 然 し 親 し く 聞 い て み る と 、 略 ぽ 腹 案 は 出 來 て 居 る が 多 忙 の 爲 に 書 き 下 せ な い と い ふ 事 で あ つ た 。 2 、 支 那 と 他 文 化 の 澄 性 叉 嘗 て 氏 の 言 と し て こ ん な 話 を 聞 い た 、 ﹁ 日 本 人 は 外 國 思 想 叉 は 佛 教 思 想 の 影 響 を 受 く る こ と 完 全 で 受 想 奴 果 は 正 に 百 パ ー セ ン ト で あ る 、 然 る に 中 國 は 全 罷 か ら 言 へ ば 僅 に 影 響 せ ら る N の み で あ り 、 佛 教 自 艦 か ら 言 へ ば 歎 果 は ゼ ロ で あ る か ら も 知 れ な い ﹂ と 。 此 の 見 解 は 爾 今 も 攣 ら な い か と 質 す と 、 氏 は 次 の や う に 言 ふ の で あ る 。 ﹁ 大 罷 老 大 文 化 國 は そ れ 自 身 の 固 有 な る 信 仰 と 生 活 信 條 と を 確 立 し て 居 る の で 、 他 國 思 想 の 浸 潤 は 容 易 で な く 、 從 つ て そ の 歎 果 は 容 易 に 纂 け ら れ な い 。 れ ゴ 印 度 だ け は 老 大 民 族 と し て 特 傍 の や う な 氣 が す る 。 基 督 教 の 方 で も 同 様 で 、 北 方 新 文 化 國 に 却 つ て 熱 心 に 遵 奉 せ ら れ て そ の 感 化 が 絶 大 で あ る 、 同 様 に 日 本 も 新 文 化 國 で あ る か ら 他 の 思 想 や 信 仰 が 完 全 に 侵 入 し 而 も 深 く 根 を 卸 す の で あ ろ と 考 へ る ﹂ と。 3 中 國 と 密 教 予 が 密 教 所 屡 で あ る と い 勘 の で 、 氏 は 韓 じ て 中 日 密 教 が 如 何 に 努 力 し て も 極 一 部 の 人 々 に 信 奉 せ ら れ る の み で 逡 に 唐 時 代 の 如 き 盛 行 は 到 底 期 待 せ ら れ な い 、 そ れ は 實 に 將 來 の 肚 會 を 支 配 す べ き 青 年 子 女 を ア ト ラ ツ ク ト す る 何 物 も 無 い か ら で あ る と 、 予 は 唐 時 と 同 形 式 を 以 て 復 興 ず る 事 は 文 化 の 約 束 で 固 よ り 不 可 能 で あ ら う が 、 復 興 し 得 べ き 素 材 は 絶 無 で は な い 、 又 青 年 子 女 は 常 に 青 年 子 女 で な く 、 そ の 動 向 は 精 神 司 今 の 如 何 に 依 る も の で 現 相 が 常 に 現 相 で な い と 答 へ た 、 氏 が 然 ら ば 如 何 な る 素 材 が 護 展 す べ き 因 子 と な る か と 言 ふ の で 、 約 三 項 あ る べ き を 論 じ 九 、 第 一 は 宗 教 的 修 養 の 一 と し て 念 諦 が 慶 止 せ ら れ な い 限 り は 陀 羅 尼 の 持 つ 魅 力 は 信 仰 國 民 一 般 に 受 容 せ ら る べ き も の で あ る 。 民 國 信 者 の 念 諦 す る 経 典 は 繹 と 浮 土 と に 屡 す と 考 へ ら る N も の N 外 に 多 く の 陀 (1) 羅 尼 が あ る 、 た と へ ば 携 嚴 呪 ・ 大 悲 呪 ・ 如 意 輪 陀 羅 尼 ・ 潰 災 陀 羅 尼 ・ 準 提 陀 羅 尼 等 で あ る 一、 見 方 に ょ れ ば 浮 土 及 び 輝 教 の 陀 羅 尼 教 化 せ る が 中 華 信 仰 佛 教 の 現 實 で あ り 、 之 は 教 育 の 方 法 に 依 て 青 年 子 女 に も 及 ぽ し 得 る も の で あ り 、 そ の 方 法 や 意 義 は 別 に 新 し い 方 面 に 改 造 す る 事 も 可 北 京 ・翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 五 三
北 京 ・翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 五 四 能 で あ る。 此 の 方 法 陀 羅 尼 化 の 根 本 思 想 は 中 華 思 想 の 根 本 層 と 密 接 に 瀾 係 し て 居 る、 第 二 ば 密 教 の 修 養 法 た る 修 法 は 輩 な る 坐 輝 念 佛 及 び 讃 経 に 比 べ て 夏 に 廣 く 探 用 せ ら れ 流 行 し 得 べ き 性 質 を 持 つ て 居 る。 修 法 は 廣 い 意 味 の 輝 定 で あ る が こ の 暉 的 修 養 が 現 に 歓 米 人 を ア ト ラ ツ ク ト し、 東 洋 の 深 み と 重 み と は 藪 か ら 來 る の で あ る と 報 告 せ ら れ て 居 る 位 で あ 之。 道 教 的 信 仰 の 絶 滅 し な い 所 及 び 痢 嚇 教 的 復 活 は 上 の 二 鮎 と 關 聯 が あ り、 一 般 大 衆 に 呼 び か (2) け 得 べ き 手 近 な 實 質 上 の 契 機 が 具 つ て 居 る。 第 三 に 密 教 の 持 つ 曼 茶 羅 思 想 は 從 來 研 究 せ ら れ て 居 た 以 上 に 深 刻 な 意 義 を 持 つ べ き で あ る。 之 は 從 來 は 全 く 宗 教 的 本 奪 又 は 宗 教 的 藝 術 と し て 見 ら れ た に 過 ぎ な い、 又 そ れ が 本 筋 で あ る べ き で あ る が、 此 の 宗 教 的 人 格 膿 系 に 潜 む 思 想 は 宗 教 政 治 経 濟 道 徳 戦 箏 如 何 な る 方 面 に 封 し て も、 あ る 中 心 思 想 か ら そ れ ぞ れ の 新 原 理 を 展 開 し 得 べ き も の で あ る。 か Σ る 思 想 は 青 年 を ア ト ラ ッ ク ト し 得 べ き の み な ら す、 青 年 に 注 入 す べ き も の で あ る。 以 上 の や う な 意 味 の 事 を 述 べ た が、 氏 は 自 分 の 考 と し て は、 到 底 そ れ ら は 就 會 を ア ト ラ ツ ク ト し 得 る も の に 非 す 既 に 過 去 の 一 宗 教 現 象 と し て 歴 史 に 浸 入 し 終 れ る も の、 そ の 復 活 と 進 歩 と は 期 待 せ ら れ す 期 待 す る を 要 し な い と 述 べ る。 4 中 國 と 佛 教 然 ら ば 密 教 は 且 く 措 い て 之 を 論 ぜ す、 佛 教 一 般 と し て 中 華 に 復 興 し 得 べ き や 否 や を 議 論 し た が、 途 に 之 に 封 し て も 復 興 し 得 す 復 興 を 期 待 す る 必 要 な し と 言 ふ 結 論 を 與 へ る の み で あ つ た。 氏 は 膏 に 佛 教 に 關 し て の み な ら す、 中 國 に 於 け る 基 督 教 回 々 教 及 び 或 は 宗 教 一 般 に 就 て も、 そ の 侵 潤 に 封 う る 絶 望 的 な 結 論 を 表 明 し て 居 る や う で あ つ れ。 文 化 の 階 梯 を 宗 教 時 代 哲 學 時 代 経 濟 時 代 と し 現 代 は 経 濟 時 代 だ と い ふ 入 も あ る。 然 し 何 れ の 時 代 に も 人 生 に 必 須 な る も の は 再 現 し 復 興 し な け れ ば な ら ぬ。 日 本 と 中 華 と は 二 三 事 情 を 異 に し て 居 る が、 日 本 は 唯 一 排 佛 鍛 繹 を 六 十 年 に し て 克 服 し、 佛 教 典 籍 の 謙 讃 と 佛 教 精 紳 の 實 践 蓮 動 と は 正 に 禾 曾 有 の 盛 況 を 來 し て 居 る。 佛 教 精 神 史 上 へ 最 大 の 貢 献 を な し 九 中 華 佛 教 を 放 郷 せ ん と す る は 文 化 的 無 謀 で あ 軌、 必 す 復 興 し 來 る も の と 信 じ る と、 蓮 べ 九 が、 氏 は 三 向 に 聞 題 と し な い。 氏
に は 古 代 思 想 は 凡 て 批 評 論 議 の 封 象 に は な る が、 現 代 後 代 に そ の 復 興 を 期 待 す べ か ら ざ る も の で あ り、 之 に 代 ふ る に 教 育 と 倫 理 と を 以 て す べ き で あ る と 答 へ る。 教 育 と 倫 理 と が あ れ ば 宗 教 を 要 し な い と い ふ 思 想 も 歓 米 の み な ら す 東 洋 に も 多 少 は あ る が、 現 實 の 宗 教 信 仰 に 目 を 瞑 つ て 或 は 之 を 否 定 し て、 そ の 要 求 を 満 足 せ し む べ き 手 段 を 考 究 せ す 之 を 禁 止 す る が 如 き 方 針 は、 國 家 と し て は 蘇 聯 邦 國 を 除 い て は 他 に な い。 5 中 國 佛 教 の 二 三 の 特 徴 更 に 中 華 佛 教 の 現 欺 等 に 就 て 二 三 話 し 會 つ た、 先 づ 第 一 に 中 國 寺 院 に は 全 膿 と し て 統 一 機 關 が な く、 地 方 的 に 見 て も 團 罷 的 聯 結 が な く、 小 に し て は 大 山 寺 に 於 け る 歎 箇 寺 に も 聯 絡 が な い。 勿 論 寺 院 と 檀 徒 と の 制 度 は 日 本 に て も 徳 川 時 代 の 一 制 度 に 過 ぎ な い が、 そ の 飴 勢 を 受 け て 居 る 日 本 佛 教 の 目 か ら 見 れ ば、 中 華 に 於 い て は 寺 檀 の 關 係 が 密 で な い と 思 は れ る。 佛 教 の 教 團 生 活 は 其 の 創 設 當 初 か ら 秩 序 整 然 統 一 完 備 せ る も の で あ つ た と 考 へ ら れ る の に、 亦 所 有 る 國 家 に 跨 つ て 統 一 あ る 組 織 が 行 は れ て 居 た の に、 中 國 に 限 つ て 此 の 事 を 見 出 さ な い の は 不 思 議 な る 現 象 の 一 で あ る。 思 ふ に 絶 え ざ る 攻 雫 國 家 攣 革 國 境 攣 更 等 が、 か く な ら し め た と も 思 へ る。 然 る に 他 方 に は 國 家 攣 革 の 聞 を 通 じ て 贋 い 地 域 に 統 一 聯 繋 を 有 し た 一 種 の 経 濟 的 組 合 は 古 く か ら 存 す る。 常 に 國 家 國 境 の 攣 更 が あ れ ば、 他 に 何 等 か の 統 一 あ る 國 民 生 活 の 根 抵 た る べ き も の が 必 要 で あ る の も 事 實 で あ る。 然 る に 佛 教 團 罷 は 不 幸 に し て 前 の 原 理 に 入 り、 後 の 原 理 の 範 疇 に 入 つ て 居 な い。 回 々 教 に し て も 基 督 教 に し て も、 古 い も の で は 道 教 に し て も 後 の 原 理 に 從 つ て 居 る の に、 佛 教 だ け を 前 の 範 疇 に 入 れ る が 如 き 現 象 は 如 何 に 説 明 せ ら る べ き で あ ら う か。 予 は か く 考 へ る、 中 國 の 大 寺 院 は 多 く は 王 侯 富 貴 の 狸 一 建 立 に か N り、 か N る 寺 院 は 建 立 後 大 衆 の 信 仰 を 集 め 得 た る 時 に の み 存 綾 し、 然 ら ざ る も の は 自 然 に 遺 棄 せ ら れ る。 然 る に 大 宗 教 家 又 は 大 衆 の 信 力 財 力 を 以 て 創 建 せ ら れ れ も の は 常 に 大 衆 の 支 持 を 得 て 存 績 す る と。 上 の 如 き 無 統 一 の 歌 態 は 古 代 の 法 難 や 近 世 の 長 髪 賊 の 鼠 や 民 國 當 初 の 慶 佛 な ど に 依 て 招 來 せ ち れ た る も の で な く て、 中 華 人 の 性 格 を 表 現 せ る 根 本 的 北 京 ・ 翼 東・ 熱 河 二 週 日 記 五 五
北 京 ・翼 東 ・ 熱 河 二 週 日 記 五 六 の も の で な い か と の 質 聞 に 封 し て、 胡 適 氏 は、 此 の 問 題 は 非 常 に 困 難 な 聞 題 で あ る が 階 唐 宋 の 佛 教 盛 行 時 代 に 在 つ て は 民 衆 の も の で あ つ た と 考 へ 度 い と の 答 で あ つ た。 第 二 は 佛 教 が 諸 國 に 於 て 果 し た 役 割 に 非 常 な 相 違 が あ る こ と で あ る。 印 度 で は 佛 教 の 新 思 想 が 思 想 と し て 迎 へ ら れ 大 乗 佛 教 に ま で 深 遠 な る 獲 達 を 遽 げ れ。 そ の 生 活 へ の 指 導 原 理 を 與 へ た 事 の 外 に、 統 一 あ ゐ 教 團 の 道 徳 的 生 活 が 就 會 道 徳 の 進 歩 を 促 進 し た。 佛 教 は 印 度 で は 宗 教 と い ふ よ り も 寧 ろ 道 徳 的 役 割 を 演 じ た の で あ る。 故 に そ の 特 徴 あ る 革 新 思 想 が 迎 へ ら れ す、 教 團 の 統 三 的 生 活 が 萎 靡 し、 印 度 土 俗 の 宗 教 に 迎 合 し、 回 々 教 の 教 と 創 と の 塵 迫 が 加 は る と 共 に 滅 む だ。 中 華 で も 日 本 で も 佛 教 傳 來 の 初 は 壊 災 招 福 教 又 は 婁 魂 教 と し て の 酋 悪 那 か ら で あ つ れ が、 中 華 で は 課 経 事 業 の 外 に 學 問 的 に 最 も 精 細 な る 哲 理 を 産 み だ し 江。 法 相 唯 識 の 學、 華 嚴 の 學、 天 台 の 學 及 び 輝 學 等 で あ る。 勿 論 佛 教 の 學 は 學 で 終 る べ き で な く、 そ の 原 理 を 實 践 し た も の は 大 宗 教 家 の 品 位 を 罷 現 し た の で あ る か ら、 之 を 實 修 し れ 政 治 家 経 濟 家 は 眞 に 國 家 の 大 器 と な る べ き 筈 で あ り、 之 を 薙 受 し た 民 衆 は 一 大 改 進 を な す べ き で あ つ た。 然 る に 之 は 僅 に 少 藪 者 の 曾 俗 の 自 受 法 樂 的 の 教 に 止 つ 牝。 玄 装 三 藏 も 賢 首 大 師 も 天 台 大 師 も 遽 に そ の 至 極 の 悟 境 は 之 を 民 衆 の も の と 爲 し 得 な か つ た と 見 て 差 支 な い。 從 つ て 道 教 と の 圃 箏 の 聞 に 道 教 化 し、 教 律 暉 と 言 は ん よ り は 寧 ろ 民 衆 の 性 格 に 合 す る 輻 藤 壽 的 佛 教 の み が 残 存 す る に 至 つ た。 日 本 で は 實 際 的 信 仰 と な り 常 に 祉 會 天 衆 の 支 持 に 依 て 現 存 し て 居 る。 大 衆 の 道 徳 的 生 活 信 仰 的 生 活 を 指 導 し 來 つ た の で あ り、 民 衆 教 育 も 肚 會 事 業 も 近 代 ま で は 佛 教 家 が 猫 り 行 ひ 來 つ た と 言 つ て も 過 言 で な い。 聖 徳 太 子 を 始 め 各 宗 の 組 師 が そ の 掲 創 的 な る 思 想 と 方 便 と を 以 て 直 接 民 衆 に 接 し そ の 芳 蹟 が 今 に 活 躍 し て 居 る。 第 三 に 注 意 す べ き は 寺 院 の 経 濟 と 寺 院 内 の 教 育 及 び 事 業 に 於 け る 相 違 が あ る。 印 度 に 於 い て は 寺 産 は あ つ た か も 知 れ ぬ が 比 丘 比 丘 尼 の 生 活 は 乞 食 に 依 る を 第 一 義 と す る 。 寺 院 内 の 教 育 は 漸 次 他 の 思 想 を 容 れ 逡 に 佛 教 思 想 に 絶 え ざ ろ 攣 化 が 行 は れ れ に 拘 ら す、 常 に 鮭 會 の 先 頭 に 立
つ て 思 想 の 新 装 を 行 ひ 思 想 に 相 應 す る 事 業 を 爲 す こ と を し な か つ れ。 中 華 と 日 本 と で は 大 罷 寺 院 の 創 建 は 王 侯 富 豪 と 民 衆 と の 二 大 別 を 匪 別 す る こ と が 出 來 る が、 大 衆 の 信 仰 を 維 持 し そ れ に 聯 繋 し 得 た も の は 存 綾 し 他 は 慶 棄 さ れ た。 そ の 経 濟 維 持 は 托 鉢 に よ る は 極 稀 で 大 方 は 信 徒 の 施 入 に ょ る。 獅 一 入 に て 建 て ら れ 猫 一 人 に て 維 持 せ ら れ た も の は 掲 一 人 の 死 に 依 つ て 終 る、 な る ほ ど 永 い 聞 に は 屡 々 重 修 す る 者 が 現 は れ て く る が 結 局 は 亡 ぶ。 創 建 の 如 何 に 拘 ら す 維 持 方 法 が 不 確 定 な 爲 に 中 華 の 寺 院 は 亡 び 易 い。 教 育 は 大 佛 教 家 が 出 で そ の 學 徒 が 雲 集 す る 時 は 活 濃 で あ る が、 漸 次 衰 へ て 世 聞 の 教 育 の 水 準 以 下 に 浸 し て し ま つ た。 日 本 で は 創 建 の 事 情 如 何 に 拘 ら す 千 二 百 年 を 通 じ て 之 を 維 持 し た の は 常 に 民 衆 で あ る。 寺 院 内 の 教 育 は 佛 教 學 に 止 ま ら す、 一 般 國 學 一 般 支 那 學 及 び 印 度 學 ま で に も 及 む。 君. 一 般 か ら 言 へ ば 教 育 の 中 心 を 爲 し 徳 教 維 持 の 本 殿 で あ つ れ。 礎 つ て 三 切 の 肚 會 事 業 の 中 心 で も あ つ む、 縄 え ざ る 高 檜 の 出 現 に 依 て 明 治 以 前 ま で は 思 想 の 最 高 線 を も 維 持 し て 來 れ。 寺 院 が 一 般 か ら 維 持 せ ら れ て 來 九 の は 當 然 で あ る。 然 し 印 度 で は 佛 教 は 亡 び、 大 乗 の 行 は ろ N 慮 に 亡 び な い の は 中 華 及 び 日 本 の み で あ る。 錫 蘭 緬 旬 遽 羅 は 佛 教 が 盛 で あ る が 小 乗 教 で あ る。 中 華 佛 教 の 衰 亡 は 事 實 で あ る が 復 興 し 得 べ き 契 機 が 幾 ら も 存 す る。 小 乗 佛 教 國 の 如 く 中 華 佛 教 は 世 外 的 で は あ る が 度 牒 制 度 に よ る 生 活 方 式 の 統 一 が 存 す る。 日 本 に は 生 活 方 式 の 続 三 も 無 く 僧 俗 の 匿 別 す ら 現 に 皆 無 で あ り、 思 想 の 特 異 な る 登 達 は あ つ た が 宗 派 的 根 性 が 多 年 養 成 せ ら れ 固 定 せ ら れ て 統 一 事 業 は 現 歌 を 以 て す れ ば 到 底 期 待 せ ら れ 得 べ く も 無 い。 最 小 限 度 の 戒 律 は 宗 教 の 維 持 に 必 須 の も の で あ る が 申 華 に 於 い て は 禽 之 を 櫓 俗 の 聞 に 於 て 嚴 然 と 道 修 せ ら れ て 居 る。 殊 に 信 徒 の 佛 教 的 風 手 は 燦 と し て 輝 い て 居 る。 地 方 に 依 て は 佛 教 は 寺 院 に 亡 む で 信 徒 の 家 に 維 持 せ ら れ て 居 る。 是 の 如 く 見 て く る な ら ば、 寺 院 の 統 錐、 信 徒 の 統 一 ( 之 は 居 士 林 等 の 結 集 に 依 て 既 に 行 は れ つ X あ る )、 佛 教 々 育 の 完 備、 教 育 の 完 備 に 依 る 佛 教 事 業 へ の 進 出、 此 等 が 近 き 將 來 に 出 來 る も の と す れ ば、 恐 ら く 中 華 は 今 一 度 眞 に 新 北 京 ・翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 五 七
北 京・ 翼 東・ 熱 河 二 週 日 記 五 八 に し て 偉 大 な る 佛 教 的 復 興 は 爲 し 得 る の で あ り、 之 が 完 成 は 中 國 自 身 の 続 三 完 成 と 同 様 に 必 要 で あ り、 期 待 し 得 る の み な ら す 期 待 す べ き も の で あ る。 右 の や う な 話 を し た が、 胡 適 氏 は 常 に 肚 會 と 青 年 と を ア ト ラ ツ ク し な い こ と、 教 育 と 倫 理 と が そ れ を 爲 す べ き で あ る こ と、 佛 教 復 興 の 不 可 能 と 不 必 要 と を 説 く の み で あ つ れ。 註 (1) 鈴 木 大 拙 氏 支 那 佛 教 印 象 記 八 八 頁 以 下 (2) 栂 尾 詳 雲 氏 曼 茶 羅 の 研 究、 曾 我 部 俊 雄 氏 ﹁ 大 師 主 義 三 十 講 ﹂ 中 の 後 の 十 講。 二 通 州 所 感 胡 適 氏 と 會 談 後、 信 義 洋 行 を 訪 ひ 越 智 豊 磨 氏 に 通 州 行 の 乗 合 を 尋 ね た が、 乗 員 は 満 員 を 侠 つ て 出 る と の こ と で あ り 且 つ 既 に 夕 方 に 迫 つ て 居 る の で ハ イ ヤ ー で 出 か け た。 朝 陽 門 を 出 て 間 も 無 く 左 に 東 嶽 廟 を 拝 し 疾 驕 し て 郊 外 に 出 る と 何 と 廣 々 と し た 葵 し い 暖 野 で あ る。 爾 側 の 楊 柳 は 既 に 相 當 の 樹 齢 を 保 ち、 繁 茂 し た 緑 葉 の 聞 か ら は 慶 寺 牌 縷 が 隠 見 せ ら れ、 遙 に 叢 林 と 共 な る 村 落 民 家 が 飛 ぶ 如 く 見 え る。 道 は 坦 々 と し て 東 を 指 し 四 十 支 里 に し て 通 州 城 に 入 る の で あ る。 抑 も 此 の 道 路 は 階 以 後 江 蘇 漸 江 の 南 方 物 貨 が 艇 々 九 る 大 蓮 河 を 北 上 し て 通 州 に 至 り 通 州 よ り 陸 路 北 京 に 蓮 途 せ ら れ る 所 謂 糧 道 で あ る。 多 少 破 壊 さ れ て 居 る が 中 央 部 は 切 石 を 敷 き 左 右 は 土 道 に な つ て 居 る。 清 末 鐵 道 の 激 設 せ ら る N ま で は 唯 一 の 北 都 へ の 糧 道 で あ つ れ の で あ る か ら、 百 貸 の 輻 較 蓮 輸 の 往 來 は 般 盛 を 極 め 弛 に 違 ひ な い。 卒 治 す と 錐 も 大 雨 融 雪 の 時 に は 蓮 搬 の 困 難 な る の (1) み な ら す 蓮 輪 延 滞 の 損 失 を 蒙 む る。 依 つ て 清 の 雍 正 七 年 世 宗 は 工 入 に 命 じ て 此 の 道 路 を 石 道 に 改 め た の で あ る。 碑 文 に 依 れ ば 石 路 の 長 さ 五 千 五 百 八 十 八 丈、 石 道 の 幅 は 二 丈、 土 道 は 左 右 に 各 一 丈 五 尺 で あ る と い ふ。 清 末 以 後 輪 迭 の 不 必 要 と 通 州 人 口 の 減 少 と 共 に、 此 の 糧 道 は 昔 日 の 般 盛 を 偲 ぶ べ き 何 物 も な く た " 寂 莫 な る 少 撒 の 族 人 の 往 來 に 止 ま つ 江 の で あ ら う が、 昨 秋 輩 東 防 共 自 治 政 府 の 確 立 と 共 に、 こ の 道 路 は 修 築 せ ら れ、 往 來 の 入 及 び 物 貨 は 相 當 盛 に な つ た の で あ る。 沿 道 の 耕 作 物 は 京 津 線 廊 坊 以 西 よ り も 出 來 が よ い。 暫 く す る と 右 手 に 双 橋 の 無 用 の 長 物 無 線 電 柱 を 見 る、 悲 哀 を 留 め て は 居 る が 近 代 風 景 の 秀 逸 で は あ る。 美 く し い 八 里 橋 を 越 え れ ば、 そ こ に 通 州
城 が 見 え 出 す。 蓋 し 清 初 興 隆 時 代 の 東 郊 通 州 聞 は 美 く し い 豊 な 郊 外 で あ つ た に 違 ひ な い。 こ の 時 は 初 暑 で あ つ た が 萬 物 欝 茂 正 に 來 ら ん と す る 再 盛 時 代 を 豫 想 せ し め る も の が あ る。 予 詩 情 に 乏 し く た 穿 深 線 に 陶 醇 す る の み。 れ 掌 藪 に 高 宗 皇 帝 の 通 州 道 中 の 三 句 を 暴 げ て お か う。 白 雲 紅 樹 通 州 路 変 瀧 禾 場 九 月 秋 好 景 沿 途 吟 不 了 幽 風 圖 書 望 中 牧 愈 々 西 門 を 入 つ て 通 州 新 城 に 入 つ た 繹 で あ る が、 何 と 道 路 が 狭 く て 汚 な い 事 で あ ら う。 清 の 世 宗 の 頃 膜 道 と 共 に 城 内 に 於 い て は 新 城 藤 城 聞 各 倉 門 聞 及 び 東 西 滑 河 爾 道 は 石 路 に 改 修 せ ら れ た の で あ り、 そ の 長 さ 三 千 五 十 蝕 丈 廣 さ 三 丈 二 尺 乃 至 一 丈 五 尺 だ と 碑. 文 に 出 て 居 る が、 石 路 な ど }、 個 も 見 當 ら な い。 不 取 敢 大 竹 少 佐 の 紹 介 妖 を 持 つ て 細 木 公 館 を 尋 ね、 甲 斐 大 尉 に 面 會 す る こ と を 得 て、 翼 東 通 過 地 各 縣 の 日 本 八 政 府 額 聞 に 紹 介 状 を 依 頼 し、 族 館 を 教 へ ら れ て 三 元 館 と い ふ の に 落 付 い た、 中 央 に 少 し 大 き な 建 物 が あ る が お 寺 の 跡 の や う な 氣 が し て な ら な か つ た。 之 が 抑 も 予 が 支 那 宿 に 宿 す る 第 三 夜 で あ る。 八 盤 位 の 室 が 土 聞 と 床 と に 分 れ、 土 問 に も 床 に も 机 や 卓 子 も 置 い て あ り 相 當 の も の で あ る。 日 本 人 た る の 有 難 さ と 多 年 の 寺 院 生 活 と は 何 庭 へ 行 つ て も 食 物 と 住 居 に 不 満 も な く、 心 よ く 疲 勢 し て 熟 睡 す る こ と を 得 た。 六 月 十 一 日 朝 ゆ つ く り 起 ぎ ボ ー イ を つ れ て 市 内 を 散 歩 す る。 西 大 街 よ り も 北 大 街 は 繁 華 で 相 當 な 通 り で あ る が、 こ の 北 大 街 の 外 の 通 り は 全 く 街 の 名 に 相 應 せ ぬ。 北 門 に 近 い 慮 を 左 折 し て 莫 東 政 府 の 東 門 に 至 り、 信 者 の 王 懊 文 先 生 及 び 雀 薦 青 先 生 を 訪 問 す べ く 門 衛 に 刺 を 通 じ れ が、 一 向 そ ん な 人 物 は 居 ら ぬ と 言 つ て 取 合 つ て く れ な い。 槌 メ イ ヨ ー に 財 政 騰 に 居 ら れ る と 聞 い た の で あ る が、 浸 有 一 貼 張 り で ど う す る 事 も 出 來 な い。 何 慮 で も で あ る が 特 に 支 那 で は 紹 介 が 大 切 な の で あ ら う。 般 長 官 池 秘 書 長 に 封 し て は 天 津 で 紹 介 歌 を 求 め た が 拓 絶 せ ら れ た の で、 も と も と 多 忙 な 入 や 豪 勢 な 入 に は 無 理 に 面 會 す る 氣 は な い が、 せ め て 睨 懇 な 爾 先 生 と は 懇 談 し た か つ れ が、 止 む を 得 な い。 爾 先 生 に も 會 ひ 度 い が そ れ よ り も、 政 府 の 直 ぐ 側 に 饗 え 立 つ 然 燈 佛 塔 を 直 下 か ら 観 察 し た か つ た の で あ る。 此 の 願 議 り 肌逐 に 叶 へ な か つ た。 然 燈 佛 舍 利 費 塔 止 む を 得 す 北 門 を 出 で 郊 外 か ら 之 を 眺 め 更 に 縣 治 の 南 か ら 之 を 眺 め 藪 時 間 を そ の 眺 望 に 暮 し 北 京・ 翼 東・ 熱 河 二 週 日 記 五 九
北 京 ・翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 六〇 れ と 言 つ で よ い。 (2) 清 の 朱 溶 の 然 燈 佛 舎 利 塔 記 に ょ れ ば 高 さ 二 百 八 十 尺、 座 高 即 ち 第 一 暦 の 高 さ 百 二 十 尺、 台 座 の 周 圏 は 百 四 尺 あ る と い ふ。 十 三 級 八 角 な る こ と は 遠 望 し て も 解 る の で あ る。 此 塔 の あ る 寺 は 通 州 志 に 依 れ ば 佑 勝 寺 内 で な け れ ば な ら ぬ の で あ る が、 州 志 の 地 圖 に は 聖 敏 寺 と な り 剰 つ さ へ 丈 殊 塔 と し て あ り ま た そ の 所 在 地 は 西 塔 胡 同 と し て あ り 東 塔 胡 同 に 封 し て 名 け て 居 る。 勿 論 寺 院 そ の も の は 早 く か ら 慶 棄 叉 は 縮 少 せ ら れ 寺 名 塔 名 す ら 髪 の 行 つ む と 見 て よ か ら う が、 詩 六久 は 常 に 古 塔 叉 は 舎 利 塔 と せ ら る N か ら 然 燈 佛 舎 利 塔 が 本 名 で あ ら う。 舎 利 塔 が 何 時 の 建 立 で あ る か 明 で な い。 傳 詮 上 後 周 宇 文 の 建 立 と 云 ひ 或 は 唐 貞 観 七 年 ( 西 紀 六 三 三 年 ) 尉 邊 敬 の 監 修 す (4) る 所 な り と も い ふ。 元 代 に 建 て ら れ た と い ふ 學 者 も あ る が、 重 修 の 記 事 は あ る が 同 時 代 創 建 の 読 は 見 當 ら な い。 元 の 至 徳 の 間 篤 烈 圖 之 を 再 修 す と い ひ、 或 は 元 の 大 徳 中 佳 持 月 潭 最 後 海 淵 湛 堂 等 が 之 を 修 し た と い ふ、 以 上 爾 列 名 は 住 職 と 檀 那 と の 名 か も 知 れ な い。 次 で 明 の 成 化 年 間 に は 楊 明 有 叉 は 交 珍 及 び 李 昇 等 が 之 を 修 覆 し た と い ふ。 傳 に 依 れ ば 前 者 は 塔 頂 に 舎 利 撒 百 粒 と 佛 牙 三 寸 許 り な る と を 戴 し た と。 そ の 後 清 朝 に 人 つ て も 度 々 右 縁 の 冊 俗 に 依 つ て 重 修 せ ら れ た の で あ る が、 就 中 大 重 修 考 は 冊 照 感 で、 康 熈 三 十 年 に 獲 願 し て 三 十 五 年 に 功 を 畢 つ て 居 る。 何 故 に 大 重 修 を し な け れ ば な ら な か つ 九 か と い ふ に、 實 に 康 煕 十 八 年 七 月 二 十 八 日 糞 東 二 瀞 を 襲 う た 大 地 震 に よ つ て 一 切 の 高 暦 建 築 は 慶 棄 せ ら れ た か ら で あ る。 書 妃 と は 書 い て あ る が、 何 れ の 暦 ま で 鍛 れ た の か 明 で な い。 と も 角 重 修 に 方 つ て は 古 型 を 模 し た に は 蓮 ひ な い か ら (4) 原 型 を 想 定 し て 宜 し い か も 知 れ ぬ。 學 者 に 依 れ ば 本 塔 は 昭 利 十 一 年 十 一 月 撮 影 文 廟 内 よ り 見 六 ろ 現 存 舎 利 塔。
遼 金 特 有 の 八 角 十 三 級 塔 に し て 遼 塔 の 遺 風 を 保 存 せ る も の で あ る と。 第 一 暦 の 四 面 は 入 口、 四 隅 面 は 窓 に な つ て 居 る。 た ゴ 一 つ 注 意 す べ き は、 こ の 塔 頂 に 鐵 矢 が 有 る と い ふ 傳 読 で あ る。 傳 説 に 依 れ ば 金 の 將 軍 楊 彦 升 が 射 弛 も の で 明 の 時 代 に も 爾 存 し た と い ふ。 清 の 朱 溶 に 依 れ ば、 鐵 矢 で は な く て 鐵 柱 で あ る、 高 層 壇 造 の 補 強 工 作 と し て 鐵 柱 を 八 角 瓢 に 入 れ て あ つ た の が 會 々 確 の 落 剥 に 依 つ て 露 出 し た の だ と い ふ、 鐵 柱 が 果 し て 何 時 代 か ら 用 ひ ら れ 九 か 予 は 知 ら な い が、 金 の 將 軍 と 關 聯 す る 傳 説 か ら 創 建 年 代 を も 少 し 遡 ら せ て 行 け る 絵 地 も 存 す る。 之 と は 全 く 別 の こ と で あ る が 遼 金 の 遣 風 を 傳 へ て 居 る 事 か ら、 若 し 之 を 澄 時 代 の 創 建 と で も 想 定 し 得 る 資 料 が (5) 出 る な ら ば、 之 と 關 聯 し て 考 へ ら る べ き 一 の 傳 説 が 存 す る。 そ れ は 通 州 狐 山 塔、 盤 山 雲 輩 寺 定 光 佛 塔、 蘇 州 猫 樂 寺 観 昔 閣 の 佛 燈 が 互 相 に 光 明 往 來 し て 照 映 す る と い ふ こ と で あ る。 凡 て 遼 代 佛 教 に 因 縁 淺 か ら ぬ 麗 で あ る。 都 市 の 創 建 に 寺 塔 を 必 須 と し た と 言 は れ る 契 丹 佛 教 の 一 の 特 質 も 同 時 に 考 へ て も よ い。 然 し 此 の 條 件 は 激 州 に は 當 簸 層 ま ら ぬ、 明 ら か に 明 代 の 創 建 で あ る か ら で あ る。 通 州 城 の 隆 替 に 拘 ら す 通 州 佛 教 の 興 慶 に 拘 ら す、 本 塔 は 遠 く よ り 望 み て 本 城 の 存 在 を 知 ら し む る も の で あ り、 他 に 何 等 の 古 建 築 の 存 せ ざ る 今 日 に 於 て は 唯 一 の 名 所 で あ ら ね ば な ら ぬ。 古 く よ り 通 州 八 景 の 一、 文 昌 閣 十 二 景 の 一 と な り 古 塔 凌 雲 と し て 吟 詠 の 封 象 と な つ て 居 る。 二 三 を 摘 記 し て み 下 う。 禮 然 燈 塔 明 葛 三 龍 荒 苓 留 慶 塔 千 祀 表 綾 囎 歳 月 漕 金 碧 封 彊 護 法 乗 宗 孫 五 六 組 天 歩 十 三 登 呆 呆 天 邊 日 長 明 劫 外 燈 古 塔 凌 雲 清 王 維 珍 千 尺 魏 畿 塔 勢 雄 履 零 齢 立 障 天 風 牟 室 鈴 語 雲 間 碧 元 夕 燈 光 頂 上 紅 多 費 自 慮 眞 佛 現 題 名 不 與 曲 江 同 瀦 亭 作 鎭 城 櫻 北 終 古 群 箋 五 色 籠 同 同 雲 光 水 色 瀦 河 秋 満 径 椀 花 感 奮 遊 北 京・ 翼 東・ 熱 河 二 週 日 記 六 一
北 京・ 翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 六 二 無 悲 蒲 帆 新 雨 後 一 枝 塔 影 認 通 州 古 塔 凌 雲 清 李 慶 保 蓮 座 接 蒼 冥 香 花 拝 佛 露 燈 光 千 古 照 鈴 語 上 方 聴 雁 随 題 名 舷 龍 呵 舎 利 磐 慈 雲 常 擁 護 景 仰 護 碑 銘 然 燈 佛 塔 を 眺 め 飽 い て 通 縣 々 治 に 長 友 顧 問 を 尋 ね 池。 糞 東 一 般 及 び 本 縣 に 於 け る 教 育 の 方 針 と 實 情 及 び 宗 教 一 斑 の 情 勢 を 聞 か ん が 爲 で あ る。 敏 育 方 針 は 儒 教 主 義 又 は 王 道 主 義 に 立 ち、 極 力 三 民 主 義 及 び 蒋 介 石 の 新 生 活 蓮 動 を 排 撃 す る と の 事 で あ つ 弛。 先 づ 形 式 的 の 名 前 か ら 翫 襲 す る の は 政 府 創 業 期 の 止 む を 得 な い 出 畿 黙 で あ る が、 王 道 圭 義 も 新 生 活 蓮 動 も 内 容 上 再 討 検 を 要 す る こ と で、 輩 く は 完 成 せ ら る べ き 新 皇 道 主 義 を 以 て 臨 ま れ 弛 い と 思 ふ。 清 新 な る 新 圭 義 の 下 に 之 を 古 今 東 西 に 宣 し て 謬 ら ざ る の 新 内 容 を 有 す る 思 想 を 創 造 實 践 す る の 氣 醜 が 教 育 界 に は 欲 し い の で あ る。 教 育 は 學 校 教 育 と 民 衆 教 育 と に 二 分 せ ら れ る で あ ら う。 學 校 教 育 に は 更 に 幼 稚 園、 短 期 小 學 隔初 級 小 學、 完 全 小 學 の 如 き 幼 年 教 育 機 關 と、 職 業 中 學 校、 簡 易 師 範 及 び 師 範 學 校 等 の 小 青 年 教 育 機 關 と が あ る。 京 津 に 諸 大 學 が 林 立 し て 居 ゐ の で 高 等 教 育 を 希 望 す る 者 は 雨 地 に 就 學 す れ ば よ い の で、 薫 東 全 般 を 通 じ て 唐 山 の 交 通 大 學 を 除 い て は 專 問 學 校 も 大 學 も 存 し な い。 然 し 新 理 想 を 掲 げ た る 巽 東 大 學 の 設 立 も 早 晩 要 望 せ ら れ る で あ ら う。 民 衆 教 育 機 關 に は 民 衆 學 校、 民 衆 教 育 館、 圖 書 館 及 び 閲 報 塵、 罷 育 場 等 が あ る。 識 字 蓮 動 が 叫 ば れ ろ 位 で あ る か ら、 設 備 経 費 の 不 備 な 上 に 就 學 率 は 非 常 に 低 い 。 通 縣 に は 男 女 の 師 範 學 校 及 び 爾 附 旙 小 學 校 が 直 轄 に な つ て 居 り 簡 易 師 範 も あ る。 小 學 校 等 皆 公 私 爾 立 の も の が 混 合 す る が、 私 立 私 塾 式 の も の も カ め て 奨 働 す ろ 考 で あ ろ ら し い。 通 縣 に 於 て 最 も 設 備 の 整 つ て 居 る の は 何 と い つ て も 天 主 教 経 管 の 女 學 校 と 中 學 校 と で あ る と い ふ こ と。 む。 外 國 系 の 學 校 を 如 何 に 慮 置 す る か に 就 て は 未 だ 方 針 が 定 つ て 居 ら ぬ と い 幽 事 で あ る。 日 本 で す ら さ う で あ る、 ゆ つ く り 考 へ て か ら が 善 い で あ ら う。
そ の 藪 字 を 敏 へ て 貰 ふ 事 は 出 來 な か つ た が、 通 縣 で の 宗 教 活 動 は 天 圭 教 基 督 教 回 々 教 在 理 教 の 順 序 で あ る と の 事 で あ つ た。 佛 教 は 如 何 な ら ん と の 聞 に 封 し て は、 佛 教 な ど は 問 題 で な い と の 事 で あ つ 弛。 遺 憾 な が ら 胡 適 氏 の 言 葉 を 想 起 せ ざ る を 得 な か つ た。 詳 し く は 調 査 す る 事 ぞ 得 す 從 つ て 之 を 断 言 す る こ と は 偉 る の で あ る が、 恐 ら く 右 の 宗 教 情 勢 は 翼 東 及 び 天 津 に は 當 簸 ま る こ と で あ ら う。 戒 律 を 捨 て む 宗 教 は 亡 び る、 團 禮 的 結 束 の な い 宗 教 は 宗 教 の 本 義 に 背 く の み な ら す 滅 亡 す る、 教 育 馨 療 及 び 何 種 か の 肚 會 事 業 及 び 肚 會 教 化 を な さ な い 宗 教 は 亡 び る。 而 も 爾 道 教 も 佛 教 も 完 全 に 亡 び な い の は 何 に 依 る の で あ ら う か。 (6) 今 清 朝 末 期 ま で 榮 え 叉 は 存 綾 し た 本 縣 内 の 壇 家廟 祠 宇 及 び 寺 観 苓 堂 を 纂 げ て 過 去 の 光 榮 を 偲 む で み よ う。 肚 稜 壇 等 の 四 壇、 今 爾 宏 肚 を 誇 る 關 帝 廟 を 始 と し て 外 三 十 五 廟 天 妃 宮 外 三 宮、 張 仙 祠 を 始 と し て 十 七 祠 が あ る。 凡 て 道 教 關 係 の も の で あ る。 寺 院 は 靖 嘉 寺 ・ 佑 勝 教 寺。 寳 通 暉 寺 ・ 観 音 寺 ・ 佑 國 [寺 等 の 大 寺 を 始 と し て 凡 て 六 十 七 寺 悟 仙 観 等 の 三 観、 白 衣 観 音 庵 等 の 三 十 一 苓、 彌 陀 院 等 の 三 院、 倒 坐 観 音 堂 等 の 三 堂 が あ る。 地 方 風 俗 慣 習 の 中 佛 教 に 關 す る も の に は 僅 に 喪 禮 と 四 月 八 日 の 浴 佛 會 と 十 二 月 八 日 の 騰 八 と の 三 し か な い が、 他 は 凡 て 道 教 關 係 の も の で 今 も 衙 盛 で あ る。 東 西 五 十 里 南 北 九 十 里 僅 に 四 千 五 百 方 支 里 の 中 に、 多 少 の 慶 櫨 と な つ た も の が あ る と し て も、 以 上 の 藪 の 遺 産 を 持 つ て 居 る 道 佛 二 教 を 度 外 覗 し て 就 會 教 育 を 論 じ む り 施 設 し て よ. い で あ ら う か。 午 後 砂 塵 の 暴 風 の 中 を 教 育 館 に 移 韓 中 の 細 木 公 館 を 訪 ひ、 甲 斐 大 尉 其 の 他 の 各 位 と 會 談 紹 介 状 を 受 け て 蹄 る。 折 し も 訪 問 中、 翼 東 政 府 創 立 當 初 よ り タ イ ピ ス ト と し て 滋 に 働 い て 居 た と い ふ 三 女 性 が 來 館 來 談 せ る を 見、 感 嘆 之 を 久 し う し た。 市 教 育 館 で は 之 か ら 映 書 教 育 を 實 行 す る の だ と 聞 か さ れ 大 に 賛 同 し た 次 第 で あ る。 優 秀 に し て 高 雅 な る 映 書 程 文 化 を 直 接 に 侵 潤 せ し む る も の は あ る ま い。 翼 く は 東 洋 の 風 景 美 東 洋 の 精 顧 胴美 の 映 豊 を 翼 東 の み な ら ず 北 支 に も 中 華 全 騰 に も 漸 次 宣 傳 せ ら れ た い も の で あ る。 両 羅 に 同 年 の 十 一 月 に は 水 道 も 設 備 せ ら れ る と の 事 で あ る、 既 に 電 燈 も あ る 事 で あ る か ら、 水 道 が 完 成 せ ら る れ ば 二 大 新 生 活 が 始 ま る と い ふ も の、 此 等 に 饗 す る 日 本 國 の 文 化 的 助 力 北 京 ・ 翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 六 三
北 京・ 翼 東・ 熱 河 二 週 日 記 六 四 は 感 謝 せ ら る べ き で あ る。 十 一 月 再 遊 の 際 に は 多 少 道 路 が 整 備 せ ら れ て 居 た が、 六 月 初 湛 の 時 の 所 感 と 同 じ く 術 道 路 街 魑 の 大 整 備 を 要 す る と 考 へ ら れ る。 商 業 軍 事 上 の 要 衝 と な る に 從 つ て 経 濟 的 能 力 に 相 慮 し て 都 市 は 建 設 せ ら る N の で あ る か ら、 時 代 の 要 求 す る 所 に 從 つ て 漸 次 整 備 せ ら る べ き で あ ら う が、 柳 も 本 城 は 創 建 當 初 よ り 他 の 都 市 に 見 ざ る が 如 き 不 整 均 で あ る。 古 來 要 衝 の 地 で あ つ た と 考 へ ら れ る 本 慮 も (7) 元 以 前 に 城 塞 が あ つ 九 と 傳 へ ら れ な い。 元 末 始 め て 籠 塞 を 作 つ て 城 と し、 次 い で 明 の 洪 武 元 年 (西 暦 一 三 一六 八 年 ) 大 將 軍 徐 達 僧 等 が 博 を 以 て 現 存 中 の 所 謂 奮 城 を 造 螢 し む の で あ る。 そ の 時 の 城 の 周 園 は 九 里 十 三 歩 麟 の 高 さ は 三 丈 五 尺 で、 門 は 東 西 南 北 の 四 で 順 次 之 を 通 蓮 ・ 朝 天 ・ 迎 薫 ・凝 翠 と 名 け た。 明 の 正 続 十 四 年 (西 暦 一 四 西 九 年 ) に 総 督 糧 儲 太 監 李 徳 等 が 奮 城 の 西 に 周 園 七 里 南 西 二 門 を 有 す る 高 さ 丈 鯨 の 所 謂 新 城 を 築 い た。 爾 後 順 次 修 築 増 高 せ ら れ、 特 に 顯 著 な の は 康 熈 九 年 の 修 築 で、 醤 城 の 周 園 一 千 六 百 二 十 六 丈 五 尺、 新 城 の 周 園 一 千 二 百 六 十 三 丈、 城 基 の 寛 さ 三 丈 四 尺 城 頂 の 寛 さ 二 丈 三 尺 の も の に し て 居 る。 乾 隆 三 十 年 に 醤 城 の 西 門 及 び 西 面 の 城 縞 を 折 出 し て、 現 に 見 る 如 き 都 城 と な つ た の で あ る。 爾 後 諸 種 の 建 物 の 壌 設 及 び 修 覆 相 難 い だ 事 は 言 を 倹 た な い。 か く て 清 末 ま で は 相 當 の 繁 榮 を 綾 け 民 國 に 入 つ て 衰 微 し 三 昨 年 末 よ り 俄 に 叉 繁 榮 を 始 め だ し た の で あ る。 北 京 の 如 き 大 都 城 を 見 た 者 は 小 城 修 築 の 馬 鹿 ら し さ を 感 す る の で は あ る ま い か と 思 ふ が、 小 城 は 小 城 な り に 至 急 整 備 せ ら る べ き で あ る、 矧 ん や 新 思 想 蓮 動 の 本 嫁 と な さ ん と す る 意 氣 込 あ る 所 に 於 て を や で あ る。 昔 の 西 倉 と 思 は れ る 場 所 に 相 當 藪 の 日 本 軍 除 が 最 近 に 到 着 し た と 言 は れ、 市 内 の 各 所 に 日 本 軍 人 の 往 來 す る を 見、 数 個 の 軍 關 係 の 人 々 を 除 い て は 純 梓 の 商 人 は 極 く 稀 で あ つ た。 然 し 此 の 牟 年 の 間 に 相 當 の 人 口 を 増 し 弛 と 考 へ ら れ る。 風 の 牧 ま の つ た 夕、 宿 に て 鐘 縷 の 睡 眠 の 時 を つ げ る 鐘 の 音 を 聞 い た。 得 も 言 は れ ぬ 閑 か な 膏 で あ る、 之 を ボ ー イ か ら 聞 か さ れ た、 鐘 の 寂 び た 晋 の 聞 き 手 の 胸 に 響 く も の は 日 華 入 を 聞 は ぬ の で あ る。
さ て 昨 夜 か ら 三 元 館 に 宿 り 合 せ て 居 る 團 罷 に 北 京 同 仁 讐 院 派 遣 の 莫 東 五 縣 巡 廻 診 療 班 の 一 行 が あ る。 八 木 繁 雄 博 壬 を 班 長 と す る 一 行 九 名 の 日 華 の 人 々 で あ る。 同 班 は 糞 東 政 府 と 共 同 し て 診 療 ・衛 生 講 話 ・衛 生 展 覧 會 を 執 行 す る の で あ る と い ふ。 既 に 三 日 間 診 療 に 從 事 せ ら れ た の で あ る が、 昨 十 日 の 如 き は 五 百 名 も の 患 者 が 績 々 押 し か け て 來 た と い ふ。 馨 療 に 恵 ま れ な い 日 本 の 山 村 農 村 漁 村 だ と て 同 じ 事 で は あ る が、 こ の 通 州 の 如 き 田 舎 と は 言 へ な い 所 に も 讐 療 の 設 備 は な い ら し く、 蓋 し 馨 療 の 日 支 親 善 敷 果 は 百 パ ー セ ン ト た る こ と 疑 な い。 班 の 方 々 か ら 色 々 そ の 方 面 か ら 見 た 観 察 を 教 へ ら れ、 更 に つ ジ い て 蘇 縣 違 化 の 二 城 に 宿 を 共 に す る の 因 縁 を 得 た。 予 が 少 年 の 頃 瀬 戸 内 海 燧 洋 の 島 々 を 巡 回 す る 輻 音 丸 な る も の を 見 た。 御 馳 走 と 署 療 と バ イ ブ ル と の 三 を 満 載 し た 基 督 教 傳 道 ヨ ツ ト で あ つ た。 そ れ に よ る 改 宗 者 獲 得 は 結 局 は 駄 目 で あ つ た と 聞 く、 支 那 に 於 い て も 同 様 だ と い ふ 日 華 人 も 可 な り あ る。 然 し そ れ は 宗 教 的 信 念 の 厚 薄 に 依 る も の で、 信 仰 の 具 現 せ る 人 々 が 救 貧 讐 療 に 從 事 す る な ら ば、 決 し て 敷 果 の 畢 が ら ぬ 筈 は な い。 基 督 教 の 東 洋 傳 道 は 教 育 と 欝 療 救 貧 乃 至 経 濟 を 爾 翼 と し て 行 は れ、 現 に そ の 方 式 を 支 那 に 用 ゐ て 居 る。 予 は 終 夜 こ の 事 を 考 へ た こ と で あ る。 六 月 十 一 日 早 朝 自 動 車 に て 通 州 を 議 し 蘇 縣 に 向 は ん と す。 持 参 の 繹 奪 の 糟 葉 書 一 組 を 宿 の 亭 主 に 與 へ る、 予 も 佛 教 徒 で あ る、 佛 教 で な け れ ば 駄 目 だ と い ふ 話 を 暫 く 聞 い た。 ま さ か、 総 葉 書 を 與 へ れ 禮 の 言 葉 と あ 思 は な い、 何 と な れ ば 宗 教 に 關 す る 限 り 嘘 言 を 言 は ぬ の は 中 華 人 の 特 徴 で あ る か ら で あ る。 註 (1) 世 宗 憲 皇 帝 御 製 廼 州 石 道 碑 丈 (2) 通 州 志 春 十 (3) 紳 尾 弍 春 氏 契 丹 佛 教 丈 化 吏 考 一 五 三 頁 (4) 同 (5) 通 州 志 巻 末 逸 事 (6) 通 州 志 第 二 巻 (7) 以 下 通 州 志 巻 二 建 置 に 依 る。 三 蘇 縣 中 心 1 蘇 縣 に 着 く ま で 北 京 ・翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 六 五
北 京 ・糞 東 ・ 数 河 二 週 日 記 六 六 六 月 十 二 日、 天 氣 清 朗。 七 時 孚 自 動 車 に て 出 護 ふ 伺 仁 會 署 療 班 に 便 乗 し て 行 く。 北 門 を 出 る と す ぐ 水 明 の 北 蓮 河 を 渡 る。 昔 張 家 灘 程 の 殿 盛 は 無 か つ た に し て も、 北 京 に 入 る 物 貨 は 東 門 大 街 か 石 倶 健 に 養 い た の で あ る。 左 右 の 畑 の 作 物 は 東 北 に 進 む に 從 ひ て、 段 々 と 勢 が 嚢 へ て 來 る が、 そ れ で も 京 津 線 廊 坊 以 東 よ り は ず つ と よ い、 東 北 と 言 つ て も 蘇 州 ま で N あ る。 何 時 ま で も 美 く し い 十 三 重 の 舎 利 塔 が 眺 め ら れ る。 少 し く 離 れ て 見 る と、 通 州 城 は 北 蓮 河 に 滑 ふ た 木 の 茂 つ た 都 に 見 え る、 緑 滴 ら ん ば か り で あ る 並 樹 の 如 く 見 え る の は 郊 外 南 方 に 績 く 樹 林 で あ ら う。 密 雲 昌 亭 爾 縣 よ り 流 下 す る 白 河 を 渡 る 頃 か ら 自 動 車 に 故 障 績 出 し、 實 に 熟 砂 の 上 に 立 往 生 す る 事 二 時 間 牛 で あ つ た。 同 乗 の 諸 君 子 の 談 話 を 綜 合 す る と、 此 の 蓮 韓 手 は 阿 片 患 者 だ ら う と い ふ 事 で あ る。 員 傭 の 程 は 判 明 し な い が、 と に 角 悠 々 蘇 州 に 着 く ま で 煙 草 を 興 み 綾 け て 居 た こ と に 僑 は な い。 煙 草 が き れ る と エ ン ン ヂ ン ガ 止 ま る、 エ ソ ヂ ン が 止 ま る と 煙 草 を つ け る。 加 之 道 路 が 砂 道 で 決 し て 堅 實 で は 無 い。 こ の 道 路 は 翼 東 政 府 の 手 に 依 て 通 州 か ら 遵 化 ま で 完 成 せ ら れ て 居 る、 古 來 の 藤 道 を 修 繕 し た も の で あ る が、 申 央 二 三 聞 が 小 高 く 左 右 一 聞 孚 位 が 低 く、 か な り の 廣 い 道 路 で ほ あ る が、 如 何 せ ん 僅. に 土 砂 を 盛 つ て 踏 み 堅 め た に 過 ぎ な い。 蓮 韓 手 ・ 道 路 ・ 自 動 車 の 三 悪 拍 子 揃 つ た 事 と て、 一 里 行 つ て は 下 了、 三 里 行 つ て 下 了、 遽 に 貨 物 自 動 車 は 三 河 の 手 前 で 蓮 韓 不 能 に 陥 り、 人 車 の み や つ と の こ と で 蘇 州 に 到 着 し た の が 午 後 の 五 時 牛 で あ つ た。 普 通 蓮 化 通 州 聞 乗 合 自 動 車 の 時 程 に よ る と、 通 州 三 河 聞 六 十 支 里、 三 河 蘇 州 六 十 支 里 を 四 時 聞 で 走 る 事 が 出 來 る と い ふ。 こ ん な 位 な ら 悠 々 囎 馬 に 跨 つ て 來 る の だ つ た と 思 ふ が、 今 更 脇 れ ぬ こ と で あ る。 そ れ で も 途 中 悠 々 と し て 諸 君 の 話 を 聞 き、 美 く し い 幾 多 の 村 落 も 見 物 が 出 來 て 強 ち に 無 意 味 で は 無 か つ た と 思 ひ 度 い。 夏 店 の 手 前 頃 で あ つ た と 思 ふ が、 廣 い 線 野 を 越 え て 西 北 方 に 讐 ゆ る 孤 山 の 古 塔 を 眺 め 九 思 出 は 今 に 感 慨 深 き も の が あ る。 蓋 し 孤 山 は 通 州 城 東 三 十 支 里 三 河 縣 界 に 位 す る 二 十 餓 丈 の 眞 に 孤 山 で あ る。 西 か ら 喜 峯 に 山 海 關 に 行 く 族 人 の 初 め て の 山 で あ り、 東 北 か ら 西 南 下 す る 族 人 へ の 最 後 の 山 で あ る。 孤 山 の 古 寺 古 塔 の 來 歴 は 明 で な い が、 恐 ら く 遼 時 代 の も の で あ ら う か。 塔 の 上 層 は 朽 ち 果 て コ 僅 に 中 下 層 の み 穫 存 す る と 傳 へ ら れ る が、 朽 腐 し て も 尚 遙 に 塔 存 を 遽 望 し 得 る。 顧 炎 武 の 方 輿 紀 要 に は ﹁ 孤 山 在 州 束 四 十 里、 四 面 李 暖 三 峯 猫 秀 因 名、 李 景 隆 攻 北 李 燕 王、 自 大 寧 還 至 孤 山、 列 陣 於 白 河 西 即 北 ﹂ と 言 つ て 居 る が、 四 十 里 は 三 十 里 の 誤 だ と い ふ。 通 州 八 景 の 三 に 平 野 孤 峯 と あ る の は こ の 孤 山 の こ と で あ る。 寺 名 に 就 て も 古 塔 に 就 て も 詳 細 が 傳 へ ら
れ な い と い は れ る が、 銑 に 明 の 馬 中 錫 に 登 孤 山 書 寳 峯 寺 壁 詩 が あ る か ら、 寺 は 寳 峯 寺 と 言 つ た 事 は 明 で あ り、 先 に 墾 げ れ 逸 事 の 傳 説 に 基 け ば 相 當 古 い 由 緒 あ る も の で あ ら う。 馬 氏 の 詩 に 曰 く、 輝 宮 金 壁 照 林 邸 人 道 重 経 内 監 修 鶴 擾 下 賠 人 説 法 犬 嗅 知 有 客 來 遊 山 腰 石 潤 初 過 雨 碑 額 苔 深 不 記 秋 若 少 簿 書 催 我 去 放 歌 於 此 十 旬 留 歴 訪 豫 定 地 の 一 で あ つ れ が 之 を 果 し 得 す、 僅 に 遠 望 を 恣 に し て、 清 の 部 奎 壁 が 詩 を 諦 す る の み で あ つ れ。 塞 際 一 峯 秀 團 瓢 雲 水 聞 西 風 吹 族 影 斜 日 到 繹 關 寒 近 蟄 吟 急 林 深 鶴 語 燗 湖 沙 蝕 故 愚 誰 潮 白 河 濁 2 三 河 縣 雑 記 洵 河 の 水 は 全 く 美 し く 深 い、 此 邊 に な る と 耕 作 は 勿 論 上 出 來 で あ る が、 副 業 的 に 緬 羊 な ど を 飼 つ て 居 る の が 散 見 せ ら れ る。 此 邊 か ら 徐 々 に 西 及 び 北 に 山 々 が 見 え 出 し て 來 る。 醗 つ て 三 河 縣 一 般 を 述 ぶ る に 先 立 つ て、 必 す し も 三 河 に 限 つ れ 事 で は な い の で あ る が、 そ の 震 災 最 も 烈 し か つ れ 本 縣 に 因 む で、 康 熈 十 八 年 七 月 二 十 八 日 の 地 震 記 を 詳 察 し よ う。 糞 東 一 帯 の 災 害 史 を 一 瞥 す る に 古 代 の 迷 信 的 な 天 罷 に 關 す る も の を 除 い て は 水 害 が 最 も 大 い、 次 で 旱 害、 蛙 の 害、 冷 害、 風 塵 の 害、 火 災、 傳 染 病 と な る で あ ら う。 流 賊 害 は 地 理 的 宿 命 で あ る。 北 支 に は 地 震 が 絶 無 だ な ど い ふ こ と も 日 本 人 な ら ば 言 ひ 得 る こ と で あ る が、 必 す し も 絶 封 的 で な い。 現 に 通 州 志 を 麟 い て も 明 の 威 化 十 二 年 ( 一 四 七 六 年 )十 月 に 一 度、 嘉 靖 十 五 年 ( 一 五 三 六 年 )十 月 に 一 度、 天 啓 六 年 ( 二 六 二 六 年 ) に 度 あ つ れ の で あ る。 蘇 縣 で は 更 に 多 撒 震 つ て 居 る。 然 し 激 烈 で あ つ れ の と 廣 範 園 で あ つ た の は 康 熈 十 八 年 ( 一 六 七 九 ) の 地 震 で あ つ た。 (1) 當 時 三 河 の 知 事 で あ つ れ 任 塾 の 地 震 記 に 依 る に、 巳 時 と あ る か ら 午 前 十 時 頃 で あ る。 大 畷 の 放 た れ た る が 如 く 十 萬 の 軍 馬 の 噺 く が 如 き 音 響 を 以 て 上 下 水 李 爾 動 一 時 に 來 り、 忽 の 内 に 塀 も 家 屋 も 崩 れ て し ま つ 弛 と い ふ。 彼 の 言 葉 に 倣 る と 栢 梁 松 棟 籐 似 灰 飛、 師 鐵 塔 石 橋 亦 同 粉 確 と 北 京・ 翼 東・ 熱 河 二 週 日 記 六 七
北 京 ・ 翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 六 八 あ る。 三 河 李 谷 爾 縣 が 最 も 重 く 香 河 武 清 寳 域 が 之 に 次 ぎ、 蘇 州 固 安 が 第 三 位 で あ る が、 何 れ に し て も 東 は 錦 州 西 は 彰 徳 ま で の 範 園 に 及 む で 居 る。 三 河 最 も 惨 憺 九 る も の に て 爾 來 九 ヶ 月 の 間 屡 々 震 動 し て 居 る。 震 源 が 錯 河 淘 河 飽 郎 河 及 び そ の 下 流 地 方 に 至 る 河 底 の 陪 浸 に あ つ た か、 昌 李 縣 よ り 長 城 南 を 東 北 に 連 ね る 火 山 系 の 地 底 陪 浸 に 關 す る か 固 よ り 明 で な い が、 強 弱 及 び 範 園 を 考 へ る と 爾 系 で あ つ た か も 知 れ、 な い。 と に 角 柳 河 屯 で は 二 尺 の 断 層 が 出 來、 東 務 里 で は 五 尺、 播 各 庄 で は 三 丈 の 断 層 が 出 來 れ と い ふ。 八 月 一 日 に 京 師 よ り 救 護 が 來 り 八 月 六 日 に 賑 伽 が 行 は れ、 九 月 十 五 日 に 至 つ て 歴 死 者 の 統 計 が 出 來 た と い ふ が 旗 入 男 女 大 小 二 千 四 百 七 十 四 人、 無 主 不 知 姓 名 の も の 二 百 三 名 だ と い ふ か ら、 入 口 の 稠 密 で な い 地 方 と し て は 相 當 の 被 害 で あ つ た に 違 ひ 無 い。 予 は 只 飴 り に も 無 造 作 な る 北 支 の 建 築 の 現 歌 を 見 て、 百 年 の 計 の 爲 に 多 少 顧 慮 し て は 如 何 と 常 に 思 つ て 居 る の で、 此 の 地 震 を 誇 張 記 憶 し た い と 思 ふ の で あ る。 三 河 に は 醤 城 が 今 の 縣 東 三 里 洵 河 の 南 に あ つ た が 水 害 を 受 け る の で 之 を 慶 し た。 今 の 城 塞 は 後 唐 明 宗 の 長 興 三 年 ( 西 暦 九 三 二 年 ) に 盧 龍 の 蔑 使 趙 徳 均 が 改 め て 作 つ 砦 の だ と い ふ か ら 割 に 古 い 城 で あ る。 當 時 の 城 は 方 四 里、 内 側 は 築 土 外 側 は 縛 高 さ 二 丈 閣 二 丈 四 尺、 周 園 に 三 丈 の 濠 を 廻 ら し た と い ふ。 次 い で 明 の 嘉 靖 二 十 九 年 四 十 二 年 の 爾 度 修 築 塘 高 を 行 ひ、 例 の 地 震 で 殿 れ た の を 任 塾 が 重 修 爾 後 屡 々 修 覆 せ ら れ て 今 に 至 つ た も の で あ る。 創 建 の 動 機 は 契 丹 を 防 禦 す る 爲 で あ つ た ら し い。 我 々 は 昔 な が ら の 小 じ ん ま り し た 城 を 西 門 か ら 東 門 へ と 通 過 し 九 の で あ る が、 古 圖 に は 西 門 に 三 河 塔 と 名 く る 堕 門 塔 を 書 い て 居 る の で 注 意 し た が 之 を 見 る 事 を 得 な か つ た。 現 存 す る か 否 か 之 を 確 め 得 な い が、 清 時 代 に は 城 内 に 注 目 す べ き 一 の 建 物 が あ る。 郎 ち 朝 鮮 賓 館 之 で あ る。 朝 鮮 の 貢 使 に 封 す る 賓 館 で、 康 煕 五 十 一 年 と 乾 隆 二 十 四 年 と に 修 築 せ ら れ て 居 る。 貢 使 が 來 往 し れ 位 で あ る か ら 普 通 人 の 往 來 も 可 成 り 頻 繁 で あ つ た と 解 せ ら れ る。 我 々 は 薙 に も 輩 に 朝 鮮 人 を 翼 東 よ り 排 除 す べ き で な い、 彼 等
の 堅 實 な る 職 場 を 創 作 す る の 積 極 策 に 幽 で ざ る べ か ら ざ る こ と の 因 縁 を 掴 み 度 い の で あ る。 城 内 の 壇 明 寺 院 に 就 て は 之 を 蓮 べ な い が、 東 西 七 十 里 南 北 九 十 里 六 千 三 百 李 方 支 里 の 中 に 寺 と 名 く る も の 萬 壽 寺 以 下 四 十 八 以 上、 廟 の 名 を 有 す る も の 關 帝 廟 以 下 二 十 三、 但 し 關 帝 廟 の み に て も 三 十 九 腿 に あ る。 庵 と 名 く る も の 観 音 庵 以 下 二 十 八 種 も あ り、 観 昔 庵 の み に て 三 十 二 虚 以 上 あ る。 清 末 當 地 方 の 宗 教 の 歌 勢 は 三 四 の 道 教 の 廟 佛 教 で は 観 昔 の 信 仰 が 支 配 し て 居 た こ と が 察 せ ら れ る。 後 に 葉 山 政 府 顧 問 よ り 受 け た ろ 報 告 に 依 れ ば、 縣 内 に 於 て 現 に 多 少 寺 院 ら し い 活 動 を し て 居 る も の は 僅 に 呉 雄 寺 霧 山 寺 等 に 過 ぎ な い。 此 の 疑 山 寺 の 住 職 松 山 年 君 は 年 は 未 だ 若 い が 三 河 縣 を 代 表 し 得 ろ 人 物 で、 日 満 支 佛 教 聯 合 會 が 結 成 せ ら れ る が 如 き 場 合 に は 聯 終 せ よ と の 事 で あ つ た。 同 師 は 奉 天 南 關 慈 恩 寺 に も 關 係 が あ り、 目 下 講 経 の 爲 に 該 寺 に 出 張 中 だ と い 勘 事 で あ つ た 。 誌 に よ ゐ に 難 山 は 城 北 十 五 支 里 に あ る 名 山 で、 そ の 麓 三 面 に は 塞 泉 が あ り 灌 瀧 に 便 じ て 居 る と。 玉 田 豊 潤 へ の 分 岐 鮎 た る 邦 均 鎭 に 入 る 前 後 か ら で あ つ た が、 北 方 の 連 山 中 に、 嘗 て 窩 薦 で 見 畳 え の あ る 盤 山 が 魏 然 と し て 鐸 え 立 ち 如 何 に も 周 園 を 墜 硯 し て 居 る か に 見 え 初 め、 蘇 州 に 入 る ま で 萬 態 千 姿 を な し て 現 は れ て 來 た。 如 何 に も よ い 眺 め で あ る. 爾 叉 此 邊 か ら で あ つ た か、 嘗 て 新 聞 で 承 知 し て 居 る 風 土 病 甲 状 腺 腫 に 罹 つ て 居 る 男 女 を 見 る。 十 人 に 一 人 は 居 る 位 に 思 は れ る 程 多 籔 で あ り、 大 に 驚 い た 次 第 で あ る。 街 之 は 婚 期 に 達 し な い 者 に も 見 出 さ れ た。 玩 の 風 土 病 は 此 邊 か ら、 予 の 旅 程 で は、 蓮 化 以 北 ま で 見 綾 け た。 尚 三 つ 注 意 す べ は 素 人 目 に み る 此 の 邊 の 見 童 の 騰 格 の 善 い 事 で あ る。 飽 か ず 山 河 耕 地 を 眺 め な が ら 五 時 孕 に 美 し い 寂 の あ る 葡 縣 に 到 着 同 順 居 で 宿 を 取 る。 直 に 縣 政 府 に 日 本 人 顧 聞 を 訪 ね た が、 北 京 に 出 張 し て 爾 三 日 纏 た ね ば 露 ら ぬ で あ ら う と 言 は れ、 消 然 と し て 騰 館 疲 れ て 疲 に 就 い た。 滋 に は 電 燈 も な く 宿 に は 便 所 の 設 備 も な く 水 も 井 戸 水 で あ る、 多 少 麦 那 宿 ら し く な つ た が、 構 へ は 堂 々 た る も の で あ り、 田 舎 で は な く や は り 地 方 の 都 城 で あ る。 3 葡 縣 散 策 葡 縣 は 東 西 百 里 南 北 百 六 十 里 面 積 三 萬 三 千 二 百 李 方 支 里 あ り、 北 部 は 山 脈 重 聾 し そ の 最 北 な る も の は 東 西 に 走 り て 山 海 關 古 北 口 に 行 く 長 城 山 系 で あ る。 中 央 は 李 地、 北 京 ・翼 東・ 熱 河 二 週 日 記 六 九
北 京 ・翼 東 ・熱 河 二 週 日 記 七 〇 南 部 に は 箭 桿 河 葡 蓮 河 葡 州 河 等 南 東 流 し 二 大 漁 地 を 構 成 し 屡 々 水 害 に 襲 は れ る と の 事 で あ る。 現 在 の 縣 城 は 新 城 だ と 言 は れ る、 奮 城 と い ふ の は 他 の 腱 に 在 つ た か 否 か 明 で な い。 と に 角 此 の 地 方 は 燕 の 恵 王 の 時 の 漁 陽 郡 の 本 嫁 で あ り 爾 來 漁 陽 の 名 聞 え、 唐 の 開 元 十 八 年 に は 漁 陽 玉 田 三 湛 三 縣 を 合 せ て 葡 州 と し た。 以 來 蔚 の 名 が 多 く 用 ひ ら れ る や う に な り 今 日 に 至 つ て 居 る。 (2) ﹂既 に 唐 の 陳 子 昂 の ﹁ 登 漸 城 西 北 縷 迭 崔 著 作 融 入 都 詩 序 ﹂ と い 幽 の が あ る か ら、 唐 時 代 に ど ん な 形 の も の か 城 塞 が あ つ た に 違 ひ な い 史 家 は 唐 代 の 蔚 城 の 所 在 に 就 て 問 題 を 持 つ て 居 る や う で あ る が、 契 丹 が 本 城 を 占 領 し て 猫 樂 寺 を 古 の ま N に 残 し て 居 ゐ 所 か ら、 大 膿 藪 だ と 認 定 し て 善 い で あ ら う と 思 ふ。 と に 角 縁 石 を 以 て 築 城 し た の は 明 の 洪 武 四 年 ( 一 三 七 二 年 ) だ と 言 は れ る。 そ の 時 の は 周 園 九 里 十 三 歩、 高 さ 三 丈 五 R で あ つ れ。 東 西 に 長 い 八 角 形 で、 門 は 東 西 南 の 三 方 に あ り、 之 を 威 遠、 撲 極、 李 津 と 名 け る。 北 に は 近 く 山 を 負 ひ 門 の 必 要 を 感 じ な か つ た か 作 ら れ な い、 た シ 城 上 に 北 極 楼 敵 穫 の 二 座 を 構 へ た。 此 の 恰 好 は 今 も 攣 ら な い が、 そ の 城 は 七 十 年 に し て 殿 れ、 清 朝 に 入 つ て や N 恢 復 し た が 康 煕 十 八 年 に 又 大 破 し 康 煕 三 十 三 年 に 大 修 繕 し た の が 現 存 の も の で あ る。 段 れ れ 原 因 は 排 水 の 不 備 で あ る。 城 外 に は 廣 い 深 い 溝 を 続 ら し て 居 た が、 今 は 北 方 の は 消 滅 し れ。 東 西 を 通 す る 大 道 に 南 北 に 通 す る 小 路 が ク ロ ス し、 誠 に 秩 序 整 然 線 樹 に 蔽 は れ た 閑 寂 そ の も の N 古 城 で あ る。 城 内 に 古 蹟 が 二 笛 庭 あ る、 そ の 第 一 は 猫 樂 寺 で あ る。 六 月 十 三 日。 ボ ー イ を 件 ひ て 西 門 に 近 い 濁 樂 寺 を 尋 ね る。 東 西 に 通 す る 大 街 か ら 入 る の か、 西 よ り か 北 よ り か 東 よ り 加 と、 つ ま り そ の 周 園 を 一 週 し て 見 た が 入 口 す ら 嚢 見 せ ら れ な い。 止 む を 得 す、 西 壁 に 昇 つ て 之 を 眺 め た 次 第 で あ る。 堂 々 葡 州 唯 一 の 高 層 建 築 で あ る。 爲 眞 を 撮 つ た が 逆 光 線 で 未 熟 結 果 を 顯 は さ な い。 壁 上 に 昇 れ ば、 本 城 の 優 美、 四 周 の 風 光 愈 々 以 て 賞 美 す べ き を 痛 感 す る。 階 代 の 建 立 と あ る が、 之 は そ の 創 建 で あ る か も 知 れ な い、 そ れ す ら 不 確 實 で あ る。 正 し く 遼 の 統 和 二 年 ( 九 八 四 ) の 再
建 に か N る も の で、 大 悲 閣 及 び 其 の 後 (見 え す ) の 山 門 は、 支 那 最 古 の 木 造 建 築 で あ る と い は れ る。 清 の 高 宗 が 東 陵 に 参 拝 の 往 復 に 如 何 に 此 の 寺 を 愛 好 し 弛 か は、 其 の 残 さ れ た る 無 藪 の 詩 に 依 つ て 明 で あ る が、 重 修 を 命 じ 落 成 を 告 げ た る 後 藪 に 休 憩 し て 歌 へ る 詩 に 次 の 如 き も の が あ る。 葺 修 尚 識 統 和 年 龍 象 重 教 換 法 莚 詑 有 慶 興 榮 白 業 徒 聞 翰 墨 説 青 蓮 往 來 幾 爲 飛 吟 興 布 施 非 關 種 輻 田 少 憩 便 教 清 課 去 我 非 樂 猫 祇 憂 先 大 悲 閣 に は 唐 の 李 太 白 の 書 と 樗 す る ﹁ 観 音 之 閣 ﹂ が あ る と い. 幽 こ と だ し、 観 音 の 木 彫 脇 士 等 も あ つ た こ と だ ら う し、 現 存 如 何 に や と 思 は れ る が、 無 紹 介 と 無 案 内 の 爲 (3) に 近 づ き 得 な い。 李 太 白 に は 幽 州 胡 馬 客 歌 と 出 自 葡 北 門 行 の 文 が 残 つ て 居 る か ら、 藤 狸 樂 寺 と 無 關 係 な 事 も あ る ま い が、 現 存 す る や 否 や は 遠 望 の み で は 保 詮 出 來 な い。 掲 樂 な ど と 誰 が 言 つ た か、 高 宗 に 興 味 あ る 五 言 詩 が あ る、 曰 く、 古 刹 蔚 城 中 誰 與 題 凋 樂 繹 子 惟 兼 愛 於 意 無 佐 著 護 彼 三 貌 心 欲 解 四 輪 縛 丈 六 亦 非 身 魏 然 立 高 閣 摩 尼 一 串 珠 曼 陀 萬 花 落 菩 提 寂 無 聞 人 天 振 梵 鐸 恰 情 聯 詠 之 吾 樂 在 威 若 大 悲 閣 を 除 い た 猫 樂 寺 境 内 の 一 切 は 纂 げ て 所 謂 簡 易 師 範 學 校 と な つ て 居 る。 日 本 の 佛 教 寺 院 は 自 ら 進 出 し て 教 育 の 道 場 と し た の で あ る が、 近 世 の 支 那 で は 香 煙 絶 ち 檜 尼 無 住 に し て 學 校 と 成 つ て 居 る の で あ る。 そ れ で も 軍 管 と な れ る に は 勝 つ て 居 る で あ ら う か。 西 壁 の 土 を 漫 歩 し て 西 南 隅 に 至 れ ば、 本 城 の 名 所 一 大 (4) 白 塔 が 讐 立 す る。 戸 部 郎 中 毛 維 窮 が ﹁ 屹 然 晶 然 と し て 峯 に 似 た り 雲 に 似 た り 標 に 似 た り 螺 に 似 た り、 末 鏡 基 難 皮 旋 腹 實 な り、 朝 に は、 燕 盤 の 霞 を 惹 き、 夕 に は 瞭 蟻 の 日 を 迭 る、 蓋 し 蔚 の 鎭 九 り、 亦 葡 の 観 た り ﹂ と 言 つ て 居 る 如 く、 全 く 素 晴 し い も の で あ る。 彼 が 勧 募 の 言 解 に 其 形 類 毛 錐 繍 然 一 筆 峰 也、 葡 文 蓮 薫 麸 殆 三 十 蝕 膜、 幸 云 々 な ど 言 つ て 居 る 通 り、 筆 の 形 を し て 居 る。 五 重 の 塔 の 一 攣 北 京 ・ 婁 東 ・熱 河 二 週 日 記 七