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国語教育における「主題」と教科内容の複合可能性の一考察 ー読みの「結果」としての「主題」把握指導からの転換を視野に入れてー

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国語教育における「主題」と教科内容の複合可能性の一考察

―読みの「結果」としての「主題」把握指導からの転換を視野に入れて― 斎藤 凜太朗 1 はじめに 「主題」とは何を指すのか。それは各論者の視座(文学研究者、国語教育研究者、 授業者、学習者など)や対象とするテクストの性質(説明的文章、文学的文章など) によって、千差万別である。 たとえば、学習者という視座に立つ者が、『走れメロス』というテクストにおける 「主題」を問われたとする。その際、学習者は教室空間における読みから逃れない 範囲で目の前のテクストを抽象化し、「友情」「信頼」「愛」などの「主題」を感得し ようとする。『走れメロス』の読みの到達点として「主題」を感得し、作品の内容を 一つないし複数の「主題」に統合するという営みであるが、教室空間における「読 むこと」の成果として獲得された「主題」は、ともすれば学習者の思考する力を何 ら高めないことになりかねない。なぜなら、『走れメロス』から「友情」を感得した として、それは「友情は大切である」という「社会一般に流布している規範的・通 俗的な観念」を読み取ることで、「自己の内部にすでに刷りこまれている通念=制度 的思考を追認したに過ぎな」(注1)いだけであり、この場合「主題」を感得するこ とが学習者の規範的―この場合「友情は大切である」という社会通念―な認識の補 強にしか繋がらないからである。その意味で「この学習者にとって『走れメロス』 を読む必要はほとんど皆無であった」、つまりこの類いの教室空間における「読むこ と」の一つの到達点としての「主題」を問う発問自体が、学習者にとって何ら教育 的効果を及ぼしていないことの可能性をここに指摘することができる。 このように、「主題」把握指導の問題点の一つとして挙げられるのが、「主題」把 握を教室空間における読みの「結果」と見なしてしまうということである(注2)。 学習者の「主題」把握を学習者の最終的な目標であると教師が設定し、その過程に おいて、教育内容は全て最終目標である「主題」のもとに構成され、言語活動は「主 題」への認識深化のために行われる。これが果たして国語科の教科内容として適切 なのだろうか。この類いの「主題」把握指導に関する研究者のまなざしは冷やかな ものであり、たとえば(高木 2015)は、教科内容を規定する指導要領の文言から 「主題」という用語が使われなくなったことに関して、「主題指導の弊害が広く認知 され、学習指導要領からもその記述が消滅していったと考えられる」(注3)と考察

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している。 しかし、教科内容を規定する指導要領に「主題」という文言が完全に消滅したこ とから、国語科における「主題」把握指導が意義をもたないと判断するのは早計だ ろう。確かに「主題」把握指導は多くの批判にさらされているが、それ以上に多く の理論と実践の蓄積があり、その成果を総括し、現代における国語の教科内容との 複合を図ることは、新しい国語科の内容論(注4)を前進させる上での指針となる だろう。そこで、本稿の目的を国語教育における「主題」把握と国語科における教 科内容の複合可能性を考察することに設定する。 2 「主題」把握指導の成果と指導に向けた方策 本章の目的としては、「主題」の性質を明らかにしたのち、「主題」把握指導に関 する国語教育研究者の考察を踏まえて、先述した「主題」把握を到達点とした指導 からの脱却を図り、新たな「主題」把握指導に向けた提言を行なうことである。 『国語教育指導用語辞典』(注5)は「主題」を以下のように記している。 日本の国語教育における文学的文章の「主題」の定義は、国語教育史と文学 理論の変遷とを考慮したとき、「作家論」的立場、「作品論」的立場、「テクスト 論(読者論)」的立場の三つに分けられるだろう。それぞれの立場により主題の 定義も異なる。(p.66) ここではおそらく小説を念頭に置いた文学的文章における「主題」の定義は三つ の立場によって分けられるという説明がなされている。すなわち、書き手が表そう とした考えを追求する作家論的立場、作家がどう考えているかは無関係に作品に埋 め込まれている答えを追求する作品論的立場、そして、読者が書かれたものから意 味を追求するテクスト論(読者論)的立場である。(注6) 各文学研究者の立場を教室空間に反映させた結果、作品内部に「主題」を求める か、読者の内部に「主題」を求めるかに関しては、同書にある通り「主題」把握指 導は「『作品論』よりも『テクスト論』が支持され、1970 年代の学習者重視の追い 風の中で『読者論』の立場が隆盛してきた」という変遷を辿った。「文学作品を作り 上げるのは作者ではなく、読者である」(注7)という言説に代表されるように、文 学研究におけるテクスト論に至るまでの作者と作品とテクストと読者の関係が問 い直され続けてきた歴史と、国語教育における「主題」の捉え方の変遷の歴史がリ ンクしていることがここに確認される。つまり、文学研究のテクスト論の隆盛と教 室空間における「学習者重視の追い風」を利用した「主題」把握指導が噛み合って、 テクスト論(読者論)的立場の「主題」把握指導が主流となった、という一つの可 能性をここに示すことができる。

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「主題」という言葉ではやや抽象性が高い議論になるため、具体性を帯びさせる と竹村信治の「生命と生き方への根源的な問い」が「主題」と近しい概念であると 言える。竹村(注8)は、古典学習の教材化に関して、田中孝彦(注9)の言説を 引用して以下のように述べている。 こう考えてくると、知的刺激に満ちた、生徒にとって魅力ある古典学習の場 とは、彼らの「生命と生き方への根源的な問い」をうけとめ、それをともに考 え深めていく教室ということになります。したがって、教材も、そうした生徒 の知的関心とむすぶ教材、すなわち、それ自体「生命と生き方への根源的な問 い」との向き合いのなかから生成したテキストが選択される必要がありますし、 学習指導も、そのテキストに見いだされる「生命と生き方の問題」の問い方、 向き合い方を主題化し、これをなかだちとして生徒自身の「生命と生き方への 根源的な問い」を鍛え深めさせていく指導がもとめられることになりましょう。 (p.575) ある特定のテキストに見出される「生命と生き方への根源的な問い」及びその問 い方、向き合い方への接近により、学習者を古典に親しませることが可能であると いう論である。最も「生命と生き方への根源的な問い」と「主題」が単純に置き換 え可能な概念なのかという点に関しては、一考の余地がある。というのも、「主題」 が「生命と生き方の問題」に全く関わりない事柄である場合もままあるからである。 国語教育において長年俎上に載せられてきた「主題」は、このような「生命と生き 方の問題」とは直接結びつかない場合が多かっただろう。むしろ、竹村の言う「生 命と生き方の問題」は「主題」を考える際に喚起される概念と考える方が自然であ る。しかし、本稿で指摘する「主題」把握指導における「主題」は、「主題」を問題 にすることを読みの「出発点」と見なす指導であるため、重なる部分が多いと判断 し、援用した。そして、この竹村の言説には「主題」把握指導と教科内容を複合す るうえで欠かすことのできない二つの視点がある。 第一に、「主題」には問いの要素が含まれているという点である。竹村はここで 「生命と生き方への根源的な問い」を学習者が受け止め、それを考え深めていくこ とに魅力ある古典学習の場の成立条件を示している。「主題」が「読むこと」の結果 として指導されることの弊害を先に述べたが、問いを含む「主題」は「読むこと」 の結果としてではなく、むしろ学習者の読みの推進力となり得る。学習活動全体を 通して、「生命と生き方の問題」に共感や反感を覚えながらも、刺激や揺さぶりを受 けるような体験を通して、学習者は文章の内容を自分事化して読み進めることがで きるのではないだろうか。ここに「主題」把握指導を「読むこと」の一つの成果と して行おうとすることへの反駁を試みることができる。問いが埋め込まれた「主題」

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は感得するに留まることなく、むしろ感得してからその「主題」との向き合いが始 まるのであり、学習者はその過程を経て、内容への興味・関心を深め、より眼前す るテクストの内容に迫ることができるのである。 第二に、教材のもつ力についての言及である。「主題」を把握するうえで、素材と なる文章に一定の強度が求められることを(竹村 2003)は示唆している。強度、 すなわち「生命と生き方の問題」を含んだ文章であるか否かという問題だが、「古典 教育を豊かに活性化するためには、古典の教材化が大きな役割を果たす」ことの必 要性に関して、古典教育研究者の渡辺春美(注10)は、多くの実践を報告してい る増淵恒吉(注11)の言説を引用して、強度を有する教材を具体的な作品の水準 にまで掘り下げている。 増淵恒吉は、古典教材に関して、「教師の個人的な好悪や趣味によって中学校 や高校の古典教材が選ばれてはならない」とし、教材としての「適切で価値あ る教材」の条件、古典の典型性と学習者への喚情性に置いている。具体的には 「やはり、万葉集、古今集、源氏物語、今昔物語、新古今集、平家物語、徒然 草、芭蕉、近松、西鶴等の作品ということになる。これに、記紀の歌謡、竹取 物語、伊勢物語、土佐日記、蜻蛉日記、枕草子、更級日記、大鏡、方丈記、謡 曲、狂言、親鸞・道元・日蓮などの語録、能楽論、蕪村、雨月物語などが続く」 と挙げている。(中略=稿者)ただ、どの部分を教材化するかは検討の余地があ り、場合によっては差し替えることも認めている。(p.191) ここで増淵が挙げているような「教師の個人的な好悪や趣味によって」選んでい ない「適切な価値ある教材」は、竹村の言うような「生徒の知的関心とむすぶ教材、 すなわち、それ自体「生命と生き方への根源的な問い」との向き合いのなかから生 成したテキスト」とは重なりえないようにも思える。増淵は「どの部分を教材化す るかは検討の余地があり、場合によっては差し替えることも認めている」とは言う ものの、結局のところ「適切で価値ある教材」を学習者に与えているに過ぎないと いう反論も成り立つだろう。しかし、増淵が唱えている「適切で価値ある教材」と いうのは、あくまで増淵が実践を行なった時代において、教材としての力をもって いたのであり、それが普遍的な教材のもつ力であるというわけではない。そして、 「増淵恒吉が挙げた古典は、1955(昭和 30)年版学習指導要領において挙げられ た古典に多く重なっている」(注12)ことから、教材のもつ力を措定する精度は高 いものであったことがうかがえる。このことから、教材のもつ力は再帰性を有して いることを確認することができる。 このように、時代や社会の変化を加味した教材を教師が発掘し、それを教室空間 において学習者が読み進める過程で、学習者が古典に主体的に関わろうとする営み

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は、渡辺春美が現代的な文脈を踏まえて理論化した「関係概念としての古典教育」 と重なる部分が多いものと考えられる。 一方、古典を典型としてとらえる古典観に対し、「関係概念」としてとらえる 古典観がある。古典作品を読み手が読み、意味づけ、何らかの価値を発見した 時に、すなわち、読み手が創造的に古典との間に価値ある関係性を持った時、 初めて古典は読み手の中に生きることになる。ここに「関係概念」としての古 典教育を見出すことができる。(p.3-4) 「関係概念としての古典教育」と「魅力ある古典学習の場」のどちらにおいても、 学習者が古典と主体的・創造的に関わろうとすることに重きを置いている点に重な りがある。教師が「生命と生き方への根源的な問い」を含む教材を選定し、学習者 が自らの知的関心と「生命と生き方への根源的な問い」を含む教材を結び付け、向 き合うことを通してその教材を意味づけ、知的刺激を受けて何らかの価値を発見し ようとすることは、決して「読むこと」の到達点としての「主題」把握指導ではな いことをここに示すことができる。また、「生命と生き方への根源的な問い」という 「主題」把握を出発点として古典と創造的に関わろうとすることは、「関係概念とし ての古典教育」の実践の一つであると言える。 そして、「生命と生き方への根源的な問い」という自らが抱えている問題と重なる 概念を「主題」として把握した上で、学習者が教材としての力を有する文章に関わ ろうとする営みは、先に引用した『国語教育指導用語辞典』の文学的文章における 「主題」を捉える三つの立場の中でもテクスト論(読者論)的立場であると言える。 文学的文章における「主題」把握指導と、「魅力ある古典学習の場」成立のための「生 命と生き方への根源的な問い」、すなわち「主題」把握指導のどちらにも共通するの は、そこに読者(=学習者)が存在するという点である。言い換えれば、先に引用 した(伊藤 1996)における「作品を作り上げるのは作者ではなく、読者である」 という言説に象徴されるような読者論の立場から「主題」を捉えているという点で ある。ここにも国語教育と文学研究の重なりを見出すことができる。つまり、読者 (=学習者)の知的要求に応じて読み取られることのない「主題」は、少なくとも 教室空間においては「主題」としての効力を持ちえないのである。このことは「主 題」把握指導への否定的なまなざしからも確認されるため、次章以降で詳しく検討 する。 ここまで述べてきたように、「主題」把握指導意義論から「主題」把握指導を改め て捉えようとした際に、以下の問題が発見された。

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(稿者による作成) 「主題」把握指導は、以上(1)から(4)の手続きを踏んだ上で、教育内容との 複合を図られなければならない。 たとえば、先に挙げた『走れメロス』において「主題」把握指導を試みるのであ れば、(1)「主題」把握は学習者によってなされるのであるから、学習者がテクスト との関わり合いの中で「主題」を把握する。この際、教師が「主題」を一つにまと め上げようとすることは適切ではない。 また、(2)「読むこと」指導の到達点として「主題」を感得させることを目的とし てはならない。(山元 2010)が言うように、「各々の学習者の読みの焦点を明確に していく」ことに意義を見出し、「それを交流させることによって、友人の読みの焦 点の在り処を知り、その共通点と差異を検討すること」を通して、他者が何を主題 化したのかを知り、自己の思考を相対化することができる。そして、自己の認識し た「主題」を出発点として、目の前のテクストの読みの焦点を明らかにして興味・ 関心をもって文章と向きあうことができる。 さらに、(3)『走れメロス』の「主題」を捉える上で、学習者を教室空間外の環境 に目を向けさせる必要がある。繰り返すが、『走れメロス』を読んだ結果として「友 情」を感得することは、「友情は大切である」という社会的通念の追認にしかすぎず、 学習者の思考する力を育むことに何ら寄与していない可能性が指摘される。テクス トの「主題」は時代や社会、文化や生活環境の変化によってその都度問い直され続 けなければならないのであるから、社会的通念を「主題」として感得させるのでは なく、現代的文脈を考慮して「主題」把握指導に取り組む心構えを教師はもつ必要 がある。外在コンテクストをも巻き込む力が「主題」にはある。 そして、(4)『走れメロス』という教材に「主題」は宿っているのかという問題は、 教育研究史や文学研究史のみ概観しても栓のないことだろう。(広瀬 2001)は「読 むことの教材研究」として「Ⅰ.学習価値を捉える作品(文章)研究」、「Ⅱ.学習 指導への教材研究」、「Ⅲ.授業分析からの教材研究」の 3 つの段階を提唱している。 (注13)また、教室を構成する要素として教師、学習者、教材という3 点を挙げ ることができるわけであるが、もし『走れメロス』を読んでも「主題」把握に至ら ないと教師が判断したなら、少なくともその教室では「主題」把握指導など行うべ きではない。 (1)「主題」を誰が捉えるかという問題(テクスト論(読者論)的立場の主題) (2)「主題」をどこに置くのかという問題(「読むこと」の出発点としての主題) (3)「主題」を何と捉えるのかという問題(再帰性を有する主題) (4)「主題」をどこから把握するのかという問題(強度を備えた教材に宿る主題)

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以上、仮説の域を出ないが、「主題」把握指導と教育内容の複合可能性に向けた考 察を試みた。「主題」把握指導は少なくともここで挙げた 4 つの手続きを踏んだう えで実践に移されるべきであることを改めて明言したい。 3 「主題」把握指導への否定的まなざし ここまで「主題」把握指導は国語教育史においては数多くの実践と検証が積み重 ねられてきており、それに伴って各研究者の関心も高く、「主題」把握指導の意義の 考察が試みられてきたことを確認した。そして、(1)「主題」把握指導の一つの共通 点として読者(=学習者)の知的要求に応じていない「主題」は「主題」として成 り立たないこと、(2)読みの到達点としての「主題」把握を乗りこえた出発点として の「主題」把握指導が求められていること、(3)時代とともに「主題」という概念自 体が問い直され続ける再帰性を有していること、(4)教材としての強度が「主題」把 握において大きな意味を持つこと、などを「主題」把握指導が抱える問題点として 指摘した。本章では、「主題」把握指導に否定的まなざしを向けた研究者らの指摘か ら、「主題」把握指導の課題を浮かび上がらせる。 池田匡史(注14)は「主題」把握指導における否定的まなざしの影響によって、 国語科における主題単元学習(注15)に言及した論が 2000 年代以降減少傾向に あることを指摘している。池田は本論文において鶴田清司(注16)や浜本純逸(注 17)の「主題」把握指導に対する批判的言説を引用し、言及数減少の理由を探っ ている。 「主題」、「話題」さらに「活動」そのものは、学問の体系に従って易から難 へ、基礎から応用へと系統化することが極めて困難である。例えば、「戦争と平 和」「自然を守る」といった主題単元は学年別にどう系統化できるか、またそも そも国語科固有の「教科内容」として適切かという問題について根本的な検討 が必要となる。(鶴田 1992 p.39) 文学作品なら「主題」を、説明的文章なら「要旨」を、一つにまとめあげさ せていく「読解指導」は、読みを広げたり深めたりしていく情的・知的興奮と 緊張がない。個性が生かされないので、主体的に授業に参加する気にならず、 受け身になって、結果的に国語が面白くないということになるのである。(浜本 1991 p.39) 鶴田の問題提起はまさに本稿の目的と重なる部分が多い。鶴田はここで主題単元 を国語教育の現場で学年別にどのように系統化できるのかという問題提起と併せ て、「主題」把握指導がそもそも国語科の教科内容として適切なのかという疑問を投

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げかけている。国語科の教科の性質と「主題」把握は複合されうるのか、その場合、 学習者の資質・能力を育む上でどのように生かされるのか、という「主題」把握指 導の根本的な問い直しを迫るものである。ここに見られる「主題」把握指導への批 判的まなざしは、複合可能性を考察する上では欠かすことのできない視点である。 また、浜本の問題提起も示唆に富む。「主題」把握指導において、説明的文章にし ろ、文学的文章にしろ、文章の内容を「要旨」や「主題」として一つにまとめあげ ることを読解指導とする実践に対して、批判的まなざしを向けている。また、その ような「読むこと」指導においては学習者の個性が生かされないので結果的に国語 が面白くないという結果を生み出しかねないという危惧がある。 鶴田・浜本の問題提起をまとめると、以下のようになる。 (稿者による作成) これらの言説を踏まえて、(池田 2016)は「平成 20 年版学習指導要領において は「主題」指導への言及が完全に消えている」ことから、「学習指導において文学的 文章の「主題」を明確にすることを目指していくという方法は、平成年代を生きる 人々にとってやや否定的な意味合いを持ったものとして存在している可能性」を指 摘している。 4 「読み」の「結果」としての「主題」把握指導を乗りこえるために 本章では3章で指摘された鶴田・浜本の「主題」把握指導に向けた批判を乗りこ えるために、2章で指摘した「主題」把握指導のための手続きを踏み、指導の実現 に向けた研究の総括とする。 まず、鶴田の「主題」把握指導が国語科の教科内容として適切なのか、という疑 問は、「主題」把握指導の内容主義的性格が濃いものと見なす考えによるものだろ う。内容主義、つまり教材(=文学的文章、説明的文章)の「主題」を感得するこ とを目的として、文学的文章であるならば物語世界に参入させ、説明的文章である ならば課題意識を抱えて文章と向き合わせるような指導に対して、疑義を呈してい るが、本稿でここまで述べてきたような「主題」把握指導はそのような手続きをと らない。ここで鶴田が批判の対象としている「主題」把握指導は、教材(に宿る主 題)と教科内容を同一視した「主題」把握指導であり、本稿で述べてきたような 4 つの手続きを踏んだ「主題」把握指導は、教材(に宿る主題)を出発点として教科 内容との複合を図るものであり、教材(に宿る主題)によって教科内容は異なる。 一.「主題」把握指導には学びの系統性がないのではないか 二.「主題」把握指導は国語科の教育内容として適切なのか 三.「主題」把握は学習者にとって緊張感や面白みがなく、主体的に授業に参加せずに国語 が面白くないと感じるのではないか

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言い換えれば、教科内容を教える道具として教材があり、「主題」があるのである。 そして「主題」は教室を構成する諸要素によってその都度問い直されなければなら ないことは改めて言うまでもない。 では、浜本の疑問はどう乗りこえるか。浜本の批判は、文学的文章にしろ、説明 的文章にしろ、文章と内容は一対一対応するものではないため、読解指導として「要 旨」「主題」を一つにまとめあげることは、学習者を主体的に授業に参加する気にさ せず、受け身にさせてしまうというものであった。これも、「主題」把握指導が陥り がちな「読むこと」の到達点としての「主題」把握指導への批判の一つだと言える。 「主題」は収束させるものではなく、むしろ拡散させる営みにおいて用いられるも のなのである。また「主題」把握をさせる対象となる教材についてだが、時代や社 会の変化を視野に入れて教師が教材を発掘し、それを教室空間において学習者が読 み進める過程で、学習者が古典に主体的に関わろうとする営みにおいて「関係概念 としての古典教育」が見出されることを第一章で確認した。さらに「魅力ある古典 学習の場」のための「生命と生き方への根源的な問い」、つまり「主題」を備えた学 習者の知的関心と結びつけられた教材を用いることは、どちらも文章に主体的・想 像的に関わろうとする点において、共通性を見出すことができるのであった。つま り、学習者は「主題」把握をする過程において主体的に「読み」に参入できるので あり、意味づけ、価値を発見した際に学習者自身の「主題」を鍛え深めていくこと ができるのである。したがって、「主題」把握を目的とせずに、出発点と見なす指導 においては、書かれていることを、当事者意識をもって読み進めることができると いう一つの意義をここに示すことができる。 5 本研究のまとめと今後の展望 本研究では、(山元 2010)の「主題」把握指導への言説を足がかりとして、「主 題」把握指導と国語科の教科内容の複合可能性に関する考察を行なった。その際、 国語教育において近年「読むこと」領域における「主題」はどのように捉えられて いるのかを、可能な限り最新の研究から明らかにしようとした。そのため、「主題」 の史的変遷を通時的に捉えることができなかったのは今後の研究の課題の一つで ある。 また、本稿で述べた「主題」把握指導と「関係概念としての古典教育」の関連を 明らかにした。(渡辺 2018)は、関係概念に基づく古典教育の観点から古典教育 実践の検討をしているが、そこでは加藤宏文の主題単元学習を考察の対象としてい る。ここにおいて、国語科における主題単元学習と本稿で述べた「主題」把握指導 が重なり得るのかという点に関しても、考察の余地は残されている。(浜本 2001) によると、主題単元学習の「主題」は単元構成の軸となっており、「テーマや観念、 関心を学習者の意識にしっかりと植えつけ育てること」(注18)を学びの目的と置

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いているが、これは「主題」把握を読みの到達点と見なす指導であり、かねてより 批判にさらされてきた「主題」把握指導の典型であると言える。本稿で指摘した「主 題」把握を「出発点」と見なす指導と、主題単元学習における「主題」との関連に ついて明らかにしなければならないだろう。 「主題」把握指導における系統性という問題も残されている。発達段階に応じた 読みとの関わりを視野に入れて、教科内容との複合を図らなければならないだろう。 その際、「主題」把握指導実践を考察の対象とし、実践研究から成果と展望を考察す る必要がある。 【注】 1.千田洋幸『テクストと教育』2009 年 渓水社 (p.198) 2.山元隆春「三 文学教育の研究」森田信義・山元隆春・山元悦子・千々岩弘著 『新訂国語教育学の基礎』2010 年 渓水社 もちろん、文学作品に「主題」をまったく認めないでよいかと言えば必ずし もそうではない。「主題」を措定しながら作品を読むということは、各々の学習 者の読みの焦点を明確にしていく上で重要な営みであり、それを交流させるこ とによって、友人の読みの焦点の在り処を知り、その共通点と差異を検討する ことができる。「主題」を問題にすることを「結果」とみなさず、「出発点」と みなしていきながら、それを追究する「過程」において、「主題」指導はいまだ に文学指導における重要な局面なのである。(p.98) 3.たとえば、五味淵典嗣は「「新しい国語科」は何が問題なのか?―新学習指導要領 のイデオロギー―」(紅野謙介編『どうする?どうなる?これからの「国語」教育 大学入学共通テストと新学習指導要領をめぐる 12 の提言』2019 年 幻戯書房) において、新しい高等学校学習指導要領の問題点として、学校教育を通じて育成 されるべき学力という概念が資質・能力という語に取って代わられた点を批判し ている。 「国語科」の教員なら誰もが知る通り、ことばの力/ことばにかかわる力は 決して順を追って段階的に身に付くようなものではない。ことばはそのひとの 経験や個性、環境や思想信条、時々の心と身体の状態にも深く結びついている ものだから、どれか特定の「書くこと」「話すこと」といった抽象化された能力 だけを鍛えられるものではない。にもかかわらず、新しい「国語科」は、言語 運用にかかる「資質・能力」をポジティブリスト的に数え上げ、それらを「話 すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」の各領域に配分したうえで、いく つもの要素へと分解して段階化していく。その結果できあがるのは、人間とこ とばとの複雑かつ多様な関係性を捨象した、机の上だけで組み立てられた「資 質・能力ベースの授業」という名の壮大なフィクションである。(p.35)

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4.高木まさき・寺井正憲・中村敦雄・山元隆春編著『国語科重要用語事典』2015 年 明治図書(p149) 5.田近洵一・井上尚美編『国語教育指導用語辞典(第四版)』2009 年 教育出版株式会社 (p.66) 6. 土田知則・青柳悦子・伊藤直哉『ワードマップ 現代文学理論―テクスト・読み・ 世界』1996 年 新曜社 (p.124) 「テクスト論」的立場、という用語の使い方は慎重にならなければならない。 たとえば、文学研究者の石原千秋は『読者はどこにいるのか―書物の中の私た ち』(2009 年 河出書房新社)において「テクスト論は「方法」ではない。テ クスト論は「立場」なのである。(略=稿者)それは、さまざまな方法を使って もかまわないが、作者に言及することだけはしないという立場だ。」(p.30)とテ クスト論を作家論、読者論と同列に「方法」的に捉えることを否定し、あくま で「立場」であるとしている。文学研究においてはテクスト論が「立場」であ るというのはもはや共通認識であると言えるが、言い表している範囲は類似す るものと判断し、そのまま用いた。 7.6 に同じ。それぞれの定義は以下の記述に従った。 今や、死語になりつつあるが、かつての文学研究を代表する方法論に、「作家 論」、「作品論」というものがあった。これら二つの方法論が堂々と機能する背 景には、ある前提が隠されている。それは、作品を書いたのは作者であるとい う前提である。作者が書き上げた作品には、作者の意図と文学作品の意味が隠 されており、それを解き明かすのが文学研究の役割である。一見、このごく当 たり前の見方を、読者論は根本から揺るがし、転覆させるのである。(p.124) 8.田中孝彦「今日の中学生の知的欲求」1992 年 9.竹村信治『言述論―for 説話集論』2003 年 笠間書院 (p.575) 10. 渡辺春美『「関係概念」に基づく古典教育の研究―古典教育活性化のための基礎 論として―』2018 年 渓水社 (p.191-192) 11.「古典教育管見」増淵恒吉『増淵恒吉国語教育論集 上巻』1981 年 有精堂(p.141) 12.10 に同じ。(p.192) 13.広瀬節夫「教材研究」日本国語教育学会編『国語教育辞典』2001 年 朝倉書院 (p.88-89) 14.池田匡史「2000 年代以降における「主題単元」論の動向―言及数減少の理由の 推究―」2016 年 15.主題単元学習の「主題」をどのように定めるかは研究者の間にも揺れが見られる。 「人間、社会、自然、言語、文化、自己、愛、青春など」の人間世界を取り巻く 普遍的な抽象的なテーマ(=主題)の追究を単元目標とし、複数の教材を読み進 めさせる指導方法」としているのは池田匡史である。また、広島大学附属中・高

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等学校において、1979 年度から 1983 年度まで 5 年間にわたって長期的に「主題 単元学習」の実践が行われた。その長期的実践においては、単元を連ねる「主題」 として「歴史」と「人間の営為」という大きなテーマから出発点とし、そこから 「自我、旅、愛、戦争、社会、文化、芸術、言語、自然、歴史」の 10 を主題に集 約したことが報告されている。(「『国語Ⅰ』の実践的研究(基調提案)―八つの主 題単元を中心にして―」1982 年 広島大学附属中・高等学校) 16.鶴田清司「これからの単元学習に望むこと-「ことばの学び手が育つ」ために-」 1992 年 17.浜本純逸「単元学習の第二期-単元学習を見直す(四)」1991 年 18.浜本純逸『文学教育の歩みと理論』2001 年 東洋館出版社 「主題単元」とは、例えば「人間の愛(その他の生き方)」や、「平和の尊さ」 とか「社会生活のあり方にかかわる心得」、「自然界の不思議さ」「動物(植物) の生態に関わる考察」、その他、人間が生きる上で価値あるテーマ、または社会 的に大切な意義を持つ観念、あるいは自然に対する関心などを単元の軸または わく組(ママ=稿者)として単元を構成し、その構成の軸、わく組の原理とな っているテーマや観念、関心を学習者の意識にしっかりと植えつけ育てること をもって、単元学習の目的とする、という意味に用いられることが多いようで ある。 (さいとう・りんたろう 東京学芸大学教職大学院・院生)

参照

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