Japanese Journal of Communication Studies Vol.49 No.1, 2020 25-41 ©2020 日本コミュニケーション学会
「聞き損ない」の経験から考える記憶実践の可能性
山本 真知子 (同志社大学)
Rehearsing Experiences and the Potential of Mnemonic Practice YAMAMOTO Machiko
(Doshisha University)
Abstract. This research aims to rethink the meanings of the act of narrating
discrimina-tion in an anti-military movement. While narrating discriminadiscrimina-tion has been scrutinised as a teleological performance, it has not been examined as the process of verbalising an experience that is difficult to put into words. Considering this academic situation, it would be necessary to recognise the significance of addressing the issue that people narrate discrimination is likely to be influenced directly by their understanding of the norm of political correctness in the move-ment. Then it will be possible to explore the discussion on mnemonic practices that can open the possibility of reconnecting to others through noticing mishear. Through examining how I had misheard the narrative of a participant of the anti-military movement in Okinawa, whose parents are ex-leprosy patients, this paper tries to shed light on the language order related to narrating discrimination and uncover how noticing that I had misheard the voices of others can transform existing relationships and/or memories.
1 . はじめに 宮城晴美は,著書・『母の遺したもの』(2000)のなかで,沖縄戦で座間味島に米軍が上 陸した当時村役場の女子青年団員だった母・宮城初枝が,敗戦後に梅澤裕(元少佐,第一 戦隊長)による集団自決の命令があったと証言したのちに,自らそれを撤回したことを記 している.沖縄では,日本に「復帰」してから,日本軍のあり方を批判的に論じる風潮が 高まるとともに,そうしたあり方が次第に「正しさ」を帯びていくなかで,強固な言語秩 序が形成されてきた.そうした状況において,初枝の語りなおしは,既存の言論空間に決 定的な亀裂を入れたのであり,同書はそれを抵抗の痕跡として記録したのだろう.詳しく は後述するが,本稿では,この一見到底揺るぎえないものとして確立された言語秩序が変 わっていく契機としてあらわれた発話・記録行為をめぐる問いを,社会運動のなかで「差 別を語る」という状況性から考えてみようと試みる.そこで,まずは『母の遺したもの』 とこれをめぐる議論から浮かび上がってくる言語秩序と,この親子による証言と記録の領 域を概観することからはじめたい. doi: 10.20698/comm.49.1_25
1957年4月,「援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)」の適用に際して厚生省が座間 味村で実施した調査に初枝は呼び出された.彼女が梅澤元少佐のもとへ小銃弾をもらい に行った5人のうちの「唯一の生き残り」であったからである.彼女はその打診を一度は 断ったものの,結局断り切れず調査に応じた.彼女が発言したときの場面が,つぎのよう に描かれている. 役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は,自ら語ることはせず, 投げかけられる質問の一つひとつに,「はい,いいえ」で答えた.そして,「住民は隊 長命令で自決したと言っているが,そうか」という内容の問いに,母は「はい」と答 えた. (宮城,2000: 250) 梅澤元少佐の命令によって住民が自決したことについて問われた彼女は,ただ「はい」と だけ答えたのである.1962年,月刊誌『家の光』の懸賞募集に,初枝は自身の戦争体験 を応募し掲載されたが,梅澤による自決命令に関する記述は「村役場から厚生省への陳情 に使われた文書を引用」したという.その作品は,1967年に『沖縄敗戦秘録——悲劇の座 間味島』というタイトルで単行本化された.座間味の「集団自決」が世に知れだしてから は,マスコミ関係者や研究者らが村役場に押し寄せるようになり,初枝はその対応を任 され「語り部」としての役を担うようになっていった.彼女は,そうしたときに「隊長命 令」については「できるだけ触れないように島の戦争を語り続けた」という(ibid.: 258). そして,座間味島で集団自決した人たちの33回忌が執り行われた1977年3月26日夜,初 枝は,梅沢元少佐が「命令」したわけではないことをようやく晴美に明かしたのである. かねてから梅沢元少佐に会って謝罪したいと思っていた初枝は,1980年12月に面会を果 たす.そこで彼女は「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが,梅澤隊長にそのまま 返されました.命令したのは梅澤さんではありません」と告白したのだった(ibid.: 262). 1990年,初枝は「『今晩は一応お帰りください.お帰りください』と,私たちの申し出を 断ったのです」という一文を含む8か所の訂正を加えた手記の草稿を晴美に託し,その半 年後に亡くなった(ibid.: 8–9, 39). まず把握しておきたい点は,戦火を生き抜いた島の人々が公的な補償を得るためには, 彼女の証言が必要不可欠なものとして島の人たちからみなされていたということである. そして,彼女は自らの証言が要求されたときに,梅澤元少佐による命令があったことに対 して「はい」とはいったが,それ以上のことをいわなかったのであり,その後も「命令」 については口を閉ざしつづけてきたということである.その彼女が,自らの発言を訂正 し,語りなおしはじめたのはなぜだったのだろうか. 本稿では,こうした言葉にならないことを言語化していくということが,運動の文脈に おいて十分問われずにきたことを問題として照らしだしていく.既述のように今回取り上 げるのは,運動のなかで「差別を語る」ということにかかわっている.自らにとっての差
別体験をスピーチとして,あるいはおしゃべりのなかで話すというのは,運動のなかでは そう珍しいことではない.ここでなら,もしくはここにいる人たちになら話すことができ るという安心が担保された場所や関係性は生きていく上で欠かせないものだろうし,それ を否定するつもりもない.そうではなく,運動の場において差別を語るということが,運 動の目的的行為になっていないかということを,まずは問いとして据え,考えてみたいの だ.本稿は,その問いへのアプローチの一つとして,沖縄の反基地運動の現場で様々なか たちであらわれる「差別を語る」ということの意味と,それを取り巻く関係性を考察して いく.だがその検証をはじめるまえに,先の事例に戻って初枝の発話行為の意味に注目し てみることにしよう. 阿部小涼は,初枝が自らの発言を訂正するまさにその瞬間のうちに,「国家とコミュニ ティに対して発せられた行為遂行的証言」を読み取ろうとした(2008: 56).1972年に迎え た「復帰」以降に展開された「反省的・批評的な戦争のポリティクス」のなかで,初枝の 新たな証言が「邪魔なもの,不協和音」として登場したことを踏まえたうえで,阿部は 初枝の語りを「対抗的」な沖縄を立ち上げようとする試みとして,その「証言の領域」の 困難さを「女の証言の領域」として,つかみとろうとしたのだ(ibid.: 57).さらに,既存 の証言の枠組みにおいて,捨象されてきた声——女の証言の領域にかさなるものであろ う——を聞き届けようとするときに,その女たちの言葉が「狂気」の領域に押し込められ てきたことにも接続して把握する.それによって,「狂気」とみなされるなかに置かれなが らも,そこで「語っている」ということに注目したのだ(ibid.: 60).やや唐突に思われるか もしれないが,阿部はそこでアンティゴネーについて語るバトラーの言葉を引用し,初枝 の語りなおしの行為遂行性に光を当て,そこに重要な意味を見出そうと試みている. 彼女は,まさに私的領域に押し込められねばならないときに,語っている,しかも公 的に語っているからだ. (バトラー,2000=2002: 20) 阿部はこれを引用することを通して,初枝が語りだしたということ,そしてそれを託され た晴美がそれを書き残そうとしているということを,正しさを追究するのとは違うかたち で聞き届けることの必要性を示唆している.それは,女の証言に限定される議論ではな く,発話行為が特殊化される状況において語られる内容の正しさに重きを置くがゆえに, 語られることに対して即座に価値判断を下すのとは違った〈ただ聞く〉という態度が損な われてきたことを糾弾する視座でもあるだろう. だが,晴美自身もまた,母の証言をめぐってその事実の確かさや正しさを実証させよう とする力のなかに身を置き,そこに巻き込まれていたことは否定できない.『母が遺した もの』は,2005年8月に梅澤らが大江健三郎と岩波書店を虚偽の記述——彼の自決命令に よって座間味で死者を出したという内容——による名誉棄損で訴えた際に,彼の主張の根 拠を示す資料として引用され,2007年3月には文部科学省がこの訴訟を理由として高校の
教科書から「集団自決」に日本軍が関与したことを示す記述を削除させるということにも つながっていった.そうした経緯から,晴美は2008年に『《新刊》母が遺したもの——沖 縄・座間味島「集団自決」の新しい事実』を発刊し,新たに語り出された住民の証言がい かに母・初枝の証言の確かさを担保するものであるのかということや,「援護法」適用問 題が浮上する前から「集団自決」の生還者たちが軍による「命令」の存在を証言していた ことを付記している. 古久保さくらは,「人の話を聞くということの難しさ」として,真実だと思っているも のしか証言として語られないこと,つまり証言の「限界」を指摘したうえで,「『事実』と 『事実』の隙間という領域」を考える必要性を説いた(2003: 133).このなかで「聞く」と いう行為が,事実をいかに聞き取るのか,あるいはそれをどう正しく聞き取るのかという ことを前提とされていない点は重要であろう.これを念頭に置いたうえで,本稿では証言 を反芻的に聞く過程において,〈聞き損なっていたかもしれない〉と気づくことに秘めら れた可能性を考えてみたい. 具体的には,「聞き損ない」として訪れる気づきに光を当て,ある証言をめぐる親子の 〈語る–聞く〉関係と,自らの「聞く」体験も含めて語る語り手(子)とそれを聞く私(筆 者)の関係を考えていく.その語り手とは,反基地運動のなかで,元ハンセン病1)患者2) の家族3)のことを語りだしたOさんのことである.私は,2015年6月,沖縄本島北部・東 村高江に位置する米軍北部訓練場のゲート前で行われる座り込みによる抗議行動でOさ んに出会い,それ以降,継続的に足を運び運動にかかわるなかで,基地ゲート前で見か けては挨拶をしたり,短い会話をしたりしてきた.2018年7月にインタビューを行ったの も,北部訓練場のゲート前のテントであった.また,2018年11月に京都市内で開催され たトークイベントで,彼の講演を聞いたこともある.したがって,運動の現場のなかで, 言葉を交わしあうという日常的なコミュニケーション——あるいは,関係——の延長線上 に本研究はあるということになるだろう. Oさんにはじめてインタビューしたとき,私は彼のナラティヴを額面通りに聞いてい た.そのあとに,彼の語り方に対して,「大きな物語」に個人の経験を吸収しているだけ だと切り捨てようとしたこともある.だが,彼の言葉を聞き取る立場にあった私自身も, 彼によって語られる差別の問題のなかに巻き込まれていたことに気づいたとき,これから どうしていくべきかという問いが自らに向けられはじめたのである.そのとき,私はその 聞き損ないへの気づきによって,痛みの在り処を知り,彼の記憶に接続される回路を得た のかもしれない.ここで浮上するのは,他者の記憶を自分から切り離して説明するのとは 異なるかたちで語りなおしていくためには,どんな言葉を探し求めていけばいいのかとい う問いである.新たな関係をつくり出していく営みが,まずは問いとして立ち上がり,姿 をあらわすとき,「私」が変わっていくプロセスとしての運動は,はじまるのかもしれな い.そして,聞き損ないへの気づきを出発点にして,運動の現場で差別を語るということ の意味——既存の運動のなかで,言葉はどのようにその場を構成する政治的な秩序に対抗 しうるか——を問いなおしていくことは,他者の関係を壊しながら,新たに想像/創造し
ていくための言葉を獲得する糸口になるのではないだろうか. 本稿では,運動の現場,あるいはそこで変わっていく関係をどう描きなおしていくかと いう問いへの試みの一つとして,運動のなかで差別を語るということにかかわる言語秩序 に照射し,聞き損ないに気づくという経験がどのように既存の関係や記憶を揺るがしうる のかということを明らかにしていくつもりである. 2 . 元ハンセン病患者の家族としてのナラティヴ 2016年7月,高江の座り込みの現場に集う人々を前に,Oさんは「自分の両親はハンセ ン病の元患者です」とはじめてマイクをもってスピーチした4).普段は,土木技術者とし て工事の話をしていたが,「基地に反対する人たちは差別について理解してくれる人たち なので,その日は普段と違った話をし」たという5).座り込みに参加し,抗議の声を挙げ はじめてから,約1年後のことであった. だが,Oさんにとって「基地問題」と「ハンセン病」の差別は,「自分が生まれてから 50年」の間,自らとの関係を見つけ出すことの困難な事柄であり,そのいずれに対しても 「無関心だった」と振り返る.沖縄で高校を卒業後,東京の専門学校を出て建設会社に就 職し,東京や沖縄で「土建屋」6)として約20年間働いてきた.仕事柄,基地内で働いてい たこともある.米軍キャンプ・ハンセンで建設工事の現場監督をしていた1995年,同基 地に駐留していた米兵3人が12歳の小学生を拉致・強姦した「少女暴行事件」が起こった ときは,「県民が怒っているのすら,まったく知らなかった」という7).2015年5月以降, 東村高江や名護市辺野古の米軍基地ゲート前に座り込むようになった.だがそれ以前か ら,オスプレイ配備に反対する県民大会(2012年)や辺野古新基地建設に反対する県民大 会(2015年)に参加していただけではない.父の手記の清書を手伝うことを通して,父の 戦争体験を知っていたのである.現在は座り込みへの参加だけでなく,「土建屋」として の経験を活かして,基地建設工事の問題も指摘している. ハンセン病に関しては,元ハンセン病患者の両親から聞いたことがなかったため,Oさ んにとって自分の記憶は,長い間ハンセン病と無関係に展開してきた.まずは彼の発言 や資料から,生い立ちから現在までを説明すると,つぎのようになる.奄美大島にある療 養所和光園の施設で,幼稚園まで親と別々に生活し,白い服を着た「シスターのような 人」に育てられた8).小学1年から那覇市へ引っ越し,療養所の外で親とともに生活しは じめたが,「幸せな家庭環境」ではなかった.タクシーの運転手として働く父から,仕事 から帰って来るたびに,「母ちゃんも自分も暴力ばっかり受けていた」9).中学まで母に連 れられて診療所で年に一回注射を打たれつづけたが,何の注射か聞いても「何も教えても らえなかった」し,二十歳のころに戸籍謄本を見て出生地が奄美大島だったことを知った が,母は「そうだよ」というだけでその理由はわからなかった.2013年以降は,父が書い た「手記」のデータ化の手伝いをしてきた.2015年6月に国立療養所沖縄愛楽園に新設さ れた交流会館という資料館で学芸員に父の証言が残されている証言集を見せられ,父が 差別を受けていたことを知る.だが,親子の「溝は埋まらない」まま,2016年6月に父は
亡くなった.父の遺骨は親族の墓ではなく,いまも愛楽園の納骨堂に眠っている.告別式 で遺族代表の挨拶をするときに,父の手記を手に「この手記には父が沖縄戦で苦しんだこ とや,戦後ハンセン病が発症したことが書かれています」と語った.その後,東村高江の 座り込みの現場で,両親が「ハンセン病で差別を受けていた」ことを大勢の人を前に話し た.そしておわりに,沖縄戦や基地建設を通して沖縄を犠牲にしてきたことと,ハンセン 病患者に対する隔離政策やハンセン病を根絶するための断種・堕胎が強要されてきたこと は,「弱者にしわ寄せがくる国策」であり,「差別の構図は同じ」だというメッセージを残 す10). Oさんのナラティヴの特徴は,「国策による差別」としてハンセン病と基地問題を語る というところである.「ハンセン病と沖縄の基地が,国策でつながっていることを伝えた い」.Oさんに自らの経験を語らせる原動力は,ここにあるという.こうした思いは,ハ ンセン病の差別と沖縄の基地問題の構造が「同じ」に見えた体験を強調することによっ て表現されることもある11).それは,「差別」が明確に語られる瞬間でもあるといえるだ ろう.しかし,ハンセン病と沖縄の基地問題を並列して「国策でつながっている」と語る とき,元ハンセン病患者の父母が受けた差別は,構造の問題に回収されてしまうのでは ないかという疑問が生じる12).ここで想起するのは,高橋哲哉(2012)が福島と沖縄を論 じるときにつかった「犠牲のシステム」という言葉とそれにまつわる発話の〈位置〉の問 題だ.高橋は,福島と沖縄の状況を俯瞰して,それぞれ「原子力発電と日米安保体制」の 「犠牲」になっていると制度の問題として語り,そこで生きざるをえない者たちの存在を 不可視化している.同じように,Oさんのナラティヴも,個人の記憶を「国策」という政 治の問題として物語化し,一人ひとりの生の痕跡を「大きな物語」に回収しているように 見えるかもしれない. しかしながら,そのように結論づけてしまえば,差別を語るということをめぐるナラ ティヴについての議論から,Oさんがなぜ「ハンセン病と沖縄の基地が,国策でつながっ ている」という言葉を使ったのか,そして何をその言葉で伝えようとしていたのかという 問いが抜け落ちてしまう.私がOさんの話を聞いていたときも,まずは聞いたのだ.そう して彼がそれを語ったときの意図とのあいだにズレを伴いながらも「聞いた」ということ は,事後的に聞き損なっていたかもしれないと気づくことによって,他者との関係を問い なおし編みなおしていこうとすること——すなわち,聞くということのつぎの展開——へ とつながっていったのである.「大きな物語」が,あるわかりやすい構図を前提として進 んでいることを批判するだけで終わってはならないのは,そのためである.重要なのは, Oさんが語るナラティヴの内容の真偽を判断することではない.むしろ,二項対立的な言 説や,それが内包する乱暴さのうえに成立している「政治」の前提を受け入れることから はじまりうる,そうではない政治をかたちづくっていく過程なのではないだろうか. Oさんは,家族と自分の生が,日米両政府の政策や制度が生み出した差別によって規定 されていたことに気づいていくなかで,自分が「やるべきこと」を見出していったとい う13).先述のように,県民大会や座り込みに参加したり,メディアの取材を受けたり,講
演活動を実施したりすることが,その「やるべきこと」にあたるだろう.では,なぜ彼は それらを「やるべきこと」として選択したのだろうか.さしあたりいえるのは,基地の 島・沖縄で生活し,元ハンセン病患者の父が手記に綴った半生を読み,書き起こしていく なかで,彼は「基地問題」と呼ばれる出来事のなかに包摂された一人として父や自分を見 つめなおしていたのではないかということだ.それは,沖縄における「戦後」や「占領」 と呼ばれる時空間のなかで,自分が何を経験してきたのかが輪郭をあらわしはじめるプロ セスに他ならない.したがって,つぎのようにいうこともできるだろう.Oさんは,家族 の話を「国策による差別」に結びつけて語ることによって,制度的なもののなかで自らの 身に起こってきたことを発見したモメントをつかみ取ろうとしていたのだ,と14). もう一つ考慮すべきは,「国策による差別」という語り口が,「差別」に向き合ってきた 人たちとのつながりを獲得していくプロセスを迅速化させうるということであろう.すな わち,「差別」を声高に語るときに,「わかりやすい」言葉をナラティヴのなかに散りばめ れば,聴衆や読者に複雑でわかりにくいことを考えさせる手間を省く代わりに,ナラティ ヴを短時間に広範に伝達させやすくなるというわけだ15).だがその一方で,差別を語ると きに,個人の経験を政治の言葉で語るということは,運動のなかで形成されてきた言語秩 序を再生産していく16).ここで問題なのは,Oさんが自分の経験から政治を語るというこ とではない.むしろ,批判者もその言語秩序のなかにいるということを捉えうるかという ことであり,その秩序をいかに変えていくかということでもある.その言葉がなぜ選び取 られたかということが,見落とされていくという状況,すなわちある特定の言葉以外をあ らかじめ排除していく言語秩序を問う必要があるのだ.いいかえれば,Oさんが自分の経 験を「国策」によって規定されてきたこととして語るという状況は,運動に内在している 規範に則って語り,既存の他者との関係性や言語秩序を固定化していく以外に言語化する 回路が運動の現場に不在であるということを示していたのである.これはOさんが語る場 に限らず,差別を語る言葉が,差別を是正するという目的のために奪用され,差別を受け てきた者たちによって担われるべきだということが前提とされている場で起こってきただ ろう.そこでは,言葉にならない/できない/したくない体験に,どう向き合うかという ことや,差別を語るときに,何を語れば差別を表現したことになるのかが不問に付されて いくのである. Oさんが語る政治的な言葉のうちにとどまってみると,「国策」という言葉を用いて差 別を語ることによって,自分ひとりでは到底抱えられないような経験を他者と分かちもた れうるものとして語りなおそうとしているように聞こえる.彼は,反基地運動への参加や ハンセン病資料館への訪問を通して,自らの経験の意味に気づきはじめたといっている. 誤解を恐れずにいえば,「無関心だった」出来事が自らのすぐ傍らで起こっていたことに 気づき,自分自身の経験として再発見するということは,彼だけの問題なのではないとい うことだ.私の場合,「国策」という言葉では伝わらなかった彼の言葉が,いまは自分の 痛みにもかかわる言葉として聞こえる.ここに,聞き損ないへの気づきによってわかるよ うになる痛みを言語化することによって,その言葉を介して生み出されうるつながりを見
出すことができるのではないだろうか.そこでは,他者とのあいだに引かれた境界線がズ レながら引きなおされていくなかで,自分とは無関係だったはずの出来事が自らのうちに 新たな痛みを生起しながら,ともに記憶する関係の広がりを生み出していくのである. 3 . 「聞き損ない」の経験の可能性 差別を語るという行為が,「差別をなくす」ための方法に還元されていく状況は,聞き 損ないへの気づきによって,新たな展開を見せていく.Oさんは,証言集に出会ったこと で父が差別を受けていたことを知り,差別を語るようになったが,その差別は運動の目 的に一致する「政治」の言葉として語られ,従来の言語秩序のなかに埋没していくことに なった.注目すべきは,元ハンセン病患者の父が差別を受けてきたことを知るという出来 事が,Oさんにとって他者の記憶——自らが聞き損なってきた声——に接続されていく可 能性を内包していたのではないかということである.ここでは,「証言集」と「手記」に 残された言葉を通して,聞き損なってきた記憶に遭遇することでありうる/ありえたかも しれない関係の可能性について考えたい. Oさんは証言集との出会いを通して,他者としての父に出会いなおし,既存の関係を揺 るがしながら新たな関係を想像/創造する〈場〉を生み出す試みをはじめている.2015年 6月,沖縄愛楽園に資料館が開館したことで両親が語ってこなかったハンセン病のことを 学ぶために訪問した彼は,ある衝撃的な出会いをする.彼は何度も資料館に足を運び,学 芸員の 央さんと知り合うようになった.ある日,自らの名前も告げずに両親が元ハンセ ン病患者であることを話し,父の生い立ちを伝えたところ,「もしかしてあなたはO(本 名)さんですか」と聞かれ驚く彼に, は『沖縄ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』の なかに収められた,ある証言が書かれたページを差し出した17).「** **」と匿名表 記になっていたその証言は,Oさんの父のものであった.そこには,彼の父(1931年生ま れ)が「米軍基地で働いているときに,検診でハンセン病と分かり仕事を辞めさせられ」 て,1950年に愛楽園に入所したこと(『沖縄県ハンセン病証言集』,2007: 550).その後, 奄美大島へと渡り,奄美和光園で結婚し,子どもを授かったこと.退所後,那覇市内の後 保護指導所で職業訓練を受けてタクシーの運転手になったことなどが記されていた.ハン セン病の後遺症で指が曲がっていたことから,乗客や同僚から度々嫌がらせを受けたり, 「辞めざるを得ない状況に追い込まれ」てタクシー会社を転々としたりしていたという記 述もあった(ibid.: 553–554).幼いころ,父の暴力を受けていたOさんは,そのことがトラ ウマとなり父のことをずっと恨んできたが,証言集で社会から差別されていた事実を初め て知り,酒に逃げるしかなかった父の姿を思い出して,「ぼろぼろ泣いた」という.さら にそこにあった,「今は子供に残せるものは何かを考えている」という一文は,彼のうち に留まり,父との間にあった辛く痛みを伴う出来事を反芻する契機を与えた(『沖縄ハン セン病緒言集 沖縄愛楽園編』,2007: 550).彼はその言葉を読んで,つぎのようなことを 感じとり,考えていた.
さんざん暴力を子どもにぶつけたことに対して,証言集とか手記とか,いろんなもの で何か残そうと考えた.たぶん,亡くなった後でも気づけばいいと思っていた.愛楽 園の資料館ができた年に,証言に出会った.それから1年して(父は)亡くなった. (……)1年間で親孝行できたかって,できた溝って簡単に埋まらない.親子の会話 もできなかった.親子を断絶させるくらいだから.子どものころのDV18)って,PTSD みたいなもんだと思う.19) 彼は,証言集を通してハンセン病だった父の体験を知ったあとも,「親孝行」はできない ままだったし,父との「溝」も埋まらなかったと語っている.直接的に「語らない」とい う父の身振りとその彼に対して直接的に「聞かない」というOさんの身振りが交差し合う とき,互いに痛みの在り処を「知らない」わけではなかったということが浮かび上がって くる.つまり,その瞬間から,二人はこれまでもつづいてきただろう痛みゆえに,引き裂 かれたままの関係を保ちながらも,すでに新たな関係を生きはじめていたのかもしれな い.少なくとも,Oさんの思考や行動様式は変わりはじめた.元ハンセン病患者として社 会で働くなかで,父がどれだけ苦しんでいたかとか,ハンセン病と沖縄の基地が「国策で つながっている」ことを伝えたいと思うようになる.2017年7月から全国各地で「国策で 少数者に負担や差別が押し付けられている」状況として重なり合う二つの差別の問題—— 「ハンセン病」と「沖縄の基地問題」——について講演するようになったことは,その 一端をあらわしているといえるだろう(『琉球新報』,2017年4月8日)20). つぎに,父の「手記」を介して編みなおされうる関係に光を当てていきたい.先述のよ うに,Oさんの父は,直接彼にハンセン病の話をしたことはない.だが,手記の清書作業 の手伝いを頼んでいた.その手記のなかには,父が生まれた故郷の話から沖縄戦を生き延 びて,戦後,19歳のときにハンセン病を発症し,「山原の小島」に送り込まれ,「愛の園」 (=沖縄愛楽園)に入所し,その後,宮古南静園を経て,奄美和光園に入所したことまで 綴られていた.Oさんは,手記の清書作業を通して,父の戦争体験を知り,基地問題に関 心をもつようになったと話している.彼がいうように,手記には戦場での体験が記録され ているし,その戦火を逃げ延びた彼が,手記の最後に,「辺野古の飛行場は二百年はもつ Oさんの父が書いた手記の原稿(撮影:筆者/2018年11月9日)
と言われている(……)二百年は遠過ぎる」や,「沖縄に戦後と言える日があったか」な どの言葉を残していることは印象的である.その一方で,父はハンセン病にかかわる体 験も書き込んでいた.たとえば,清書された原稿に鉛筆で書き加えられた文字のなかに, 「家族のために,すべてを捨てて,家を出た」と強い筆跡でくっきりと刻まれた一文があ る.療養所に入ってから十年が経ったころ,ハンセン病が治った父は,嘉手納の実家を訪 れたこともあったが,「私抜きで平穏な暮らしをしてきた弟妹にとって私は余所者で,家 族とは認めてくれなかった」という.Oさんによると,その後,父が嘉手納に戻ることは なかったそうだ.手記には,実家のある嘉手納に関する話が何度も出てくる.手記を書 くという行為は,彼にとって,帰りたくても帰れない場所を想起する〈場〉を想像/創造 するということだったのかもしれない.Oさんによると,父は手記を通して,「親戚とか, 従妹,弟とかに戦争ってこういうもんだよって見せたい」と話していたという21, 22). ここで注目したいのは,父が名指さなかった存在である.これは,手記の最初の読者 が,Oさんであったことをどう考えるかということにもかかわっている.既述のように, Oさんにとって,手記は基地問題に関心をもつようになった一つのきっかけであり,手記 の清書作業を通して,父の戦争体験を知ったと話している.だが,父がなぜ手記を書い たのか,なぜOさんに清書を頼んだのか,そして父は手記を通して,何が伝えたかったの かということは,問われないままになってきたのだろう.Oさんにとって転機となったの は,作家で元ハンセン病患者の伊波敏男さんからいわれた,「お父さんは,あなたに気づ いてもらいたかったんだよ」という言葉だった.それによって,彼は父の記憶に出会いな おし,聞き損なってきた言葉があったことに気づいたのだろう.だが,それを出発点とし て,Oさんは,自らの記憶を り,父との何気ない日常のやり取りのなかに自分に向けら れていた言葉を聞き取ることはできたのだろうか. 「聞き損ない」に気づくという経験は,自らの言葉や記憶,関係が足元から崩れ落ちて いくような瞬間を伴うに違いない.しかしながら,「証言集」との出会いは,父が差別を 受けていたことを知ったことで幼少期の自身の記憶のなかに刻みこまれた意味が変わって しまうという衝撃的な出来事として語られる一方で,「手記」に関する発話からは,そう した衝撃や驚きは見られない.むしろ,いま,彼がこのように基地建設に対する抗議の声 を挙げ,ハンセン病について語るようになっていることをうまく説明するために,手記に かかわる話をしているようにも見える.鶴見俊輔は,「伝記について」という文章のなか で,つぎのように述べている. 過去の出来事をその人の(……)都合にあわせて見てゆく.それでは,過去の出来事 が,おこったその時に持っていた意味の流動性はうしなわれてしまう. (鶴見,2012: 302) 手記がもちえた「意味の流動性」は,手記の清書作業が基地問題に関心をもつきっかけと して意味づけられることによって,損なわれていったのである.この文脈における流動性
には,手記というメディアを介して,他者との関係が変わっていく,つまりOさんが「断 絶があった」と表現する父との関係を新たに想像/創造しなおしていく可能性も含み込ま れているだろう. だが,このように彼のナラティヴを解説しただけでは,Oさんに何が起きてきた/いる のかわかったことにはならない.解説とは異なるものが,要求されているのだろう.それ は,聞いた話をわかったこととして処理してしまうのではなく,それをどう聞くかという ことを反芻していくなかで,はじめて議論できるようになるのかもしれない.一度は「聞 いた」あるいは「わかった」と思っていた言葉を,実は聞き損なっていたのではないかと いう気づきとして感じとることが重要になるのはそのときだ.ここでもう一度,手記との 出会いと証言集との出会いがどう違うのかを考えてみよう.その際に,衝撃を伴う体験 として語られる証言集との出会いよりずっと前から差別に苦しんでいた父を知っていた かもしれないという視点を大事にしたい.というのも,その視点から,ありえたかもしれ ない記憶や関係が見えてくるかもしれないからだ.証言集のなかで,父はタクシードライ バーだった当時,差別を受けてきたことを語っていた.その話のなかにOさんは登場しな いが,彼はその証言を読みながら,同時にそのなかに書き込まれていない家庭内での出来 事,すなわちOさんが父から被った暴力を読み込んでいたのではないだろうか.彼が作成 した講演用の資料には,以下のように記されている. 私の子供の頃の記憶と,証言集で語っていた父がハンセン病のことで会社の同僚から 嫌がらせを受けていた時期が重なり,酒に逃げるしかなかった当時の父の心情を40 年以上経って初めて知った時の衝撃はあまりに大きく,涙が止まらなかった.23) 証言のなかには出てこないOさんの存在.しかし,職場で差別を受ける父の日常のなか に,Oさんは確かにいた.そのことを自らの身体に受けてきた父からの暴力によって生じ る〈痛み〉によって感じとってしまったのだろう.そのとき,それまで当たり前のように 「憎む」べき相手として思っていた父にかかわる記憶は,揺らぎ出したのかもしれない. Oさんは,ハンセン病について話をするとき,父が職場や社会でどんな差別を受け,苦 しんでいたかを語る場面で,いつも涙が れ出してしまうという.2018年11月に行われ たトークイベントに,聴衆の一人として居合わせた私は,父が体験してきた差別とOさん が父から被ってきた身体的暴力とが重なり合うようにして語る場面で,声を詰まらせなが ら言葉を継ぎつづける彼の姿を目の当たりにした.私には,彼の身体が過去に引き戻さ れ,幼少期に経験した自らの痛みに再び襲われていただけでなく,父の苦悩をもう一つの 痛みとして感じとっていたようにも見えたし,自分を苦しめつづけた存在であった父を遠 ざけてきた彼自身をきつく責めているようにも思えた24).つまり,人々の前に姿をあらわ したOさんは,父について話しながら,その父によって振るわれた暴力を想起していたの であり,それはともに記憶をつくりだそうとする場を生み出していたのである. ここにおいて把握されようとしている「身体」とは,エリザベス・W.ソンが,マーク・
フランコによる身体(body)の定義づけ——生きている「経験の坩堝と表現の道具」—— から着想を得て,生きた身体(lived body)を単なる身体性(physicality)に関するもので はなく,「経験し,表現し,記憶する」ものとして捉えたものと重なるだろう(2018: 19). 父のことを語りながら,Oさんがその涙と嗚咽がこみ上げてくるコントロール不可能な状 況のなかで,それでも言葉を紡ぎ出そうとしていたのは,複雑に交錯した二人の記憶—— 孤独に差別に耐えながら苦悩を抱えつづけていたという父の記憶と,幼少期から父によっ て身体的苦痛を植えつけられてきた彼自身の記憶——に亀裂が生じるとともに,それまで 自明だった家庭内暴力の「被害者」としての自らの立ち位置が揺らぎはじめたからだろう か. 冨山一郎は,ある冊子を通して知った自らの母の体験について,彼女の言葉を引用しな がら考えることの困難さを,つぎのように語っている. 彼女の言葉を引用しようとするとき,引用する私は攪乱され分裂していく.すでに 知っていること,そして知らないことは,引用に際して行儀よく棲み分けられておら ず,両者は引用されると同時に互いに衝突し,重なり,また打消しあいながら,感情 とともに変容する. (冨山,2009: 290) 冨山の体験を参照すると,Oさんにとって語りえなさとして経験されているだろうこと が,うっすらと見えてくるかもしれない.浮かび上がってくる彼の姿からは,もはや誰の ものかわからなくなってしまった記憶の重なり合いのなかで,他者たちとともに生き延び ようとしていることがわかる.たとえば,Oさんは父の言葉を引用しながら差別を語ると き,自らに傷を負わせた彼を「恨みつづけてきた」記憶を呼び起こし,その父によって生 きられた記憶と衝突させながら,Oさん自身はバラバラになっていたのかもしれないし, そのとき,その分裂状態の身体を聴衆の前にさらし出しながら,記憶を編みなおしていく ための言葉を探していたのかもしれない.そして,証言集を介して出会いなおされた父 は,彼がはじめて知る父でもあり,すでに知っていたはずの父でもあったかもしれないこ とにも,気づいていたのかもしれない. そして,父のメッセージが残されたもう一つのメディアである手記.その手記について 語るときに伴う語りえなさ——説明不可能性——が照らし出すものこそが,日常のなかに 埋没してきた声の在り処への気づきという聞き損ないの経験からはじまる他者との関係の 再編プロセスだったのではないだろうか.亡くなる数年前に父から直接手渡されていたと いう手記の原稿に記された父の半生を一文字一文字追ってパソコンで入力していたが,彼 にとって父は依然として心身ともに寄り添うことの困難な存在であったのだろう.つま り,記憶や関係を考えるときに常に困難さを伴う存在が,彼にとっての父だったのだ.だ が,彼にとって自分が生きてきた記憶や関係が崩壊してしまうとき,その記憶や関係に織 り込まれはじめるのは,一体誰なのか.彼が知っていたはずの父は,もはや未知の存在と
してあらわれはじめるに違いない.そうしてはじまりうるのが,いまもなお自らのうちに 折り重なった複層的な記憶に内在する父を介して,断絶として生きられてきた記憶や関係 を言葉によって撚りなおしていくという試みなのではないだろうか. そのとき,聞き損ないに気づくことを起点としたプロセスは,Oさんにとって親子の関 係だけでなく,運動や社会において他者との関係を見つめなおす回路を生み出し,関係や 記憶の崩壊を可能性として語る言葉を探していくという新たな展開を見せていくだろう. しかし,聞き損ないの経験が内省性を失うとき,差別を語る無造作な言葉が横行しはじめ るのだ.カテゴリーとしての「ハンセン病」と「基地問題」が,差別を語る場に陳列され るとき,それらの出来事は日常から切り離され,異化されることが前提になっている点に は,注意が必要だといえる.というのも,運動という公的な場において,差別を語る言葉 を了解可能なものとして聞き取ることは,差別を語ることを起点として関係が広がってい く可能性を摘みとること——聞き損なっていたかもしれないと気づく回路を奪うこと—— でもあるからである. 4 . おわりに 今回は,Oさんのナラティヴを通して差別を語ることの意味を問いなおし,「聞き損な い」への気づきが,既存の言語秩序を壊しながら新たな関係や記憶を想像/創造する可能 性を探ってきた.浮かび上がってきたのは,個人の経験が制度や政策の問題として語り出 されるとき,その言葉は聞き損ないへの気づきによってもたらされた既存の関係や記憶が 崩れ落ちていく瞬間を他者とともに生きなおし,新たな関係や記憶を共同的に想像/創造 しようとする試みとして選び取られていたという可能性である.聞き損ないという事後的 に言葉の在り処に気づく経験は,〈いま・ここ〉において,「私」がどうそのこぼれ落ちて きた記憶を言葉につなげていくのかという問いを突きつけているといえるだろう. Oさんへのインタビューのなかで,彼は「国策が生んだ差別に気づいたからには,つぎ 自分がやるべきことは,」といったところで,その先を語らなかった.代わりに,彼は私 の目を奥までのぞき込むような鋭い視線を送った.それは,なぜだったのだろうか.この やり取りのあと,彼の言葉を反芻していくなかで発見したのは,「気づいたからには,つ ぎ自分がやるべきことは」と彼がいったときの「自分」というのが「私(筆者)」でもあ りえたということだった.だが,彼の経験を聞かせてもらっていたとき,私はその言葉を ノートに書き留めていたにもかかわらず,自分に引き寄せて他者のものではない0 0 0 0言葉とし て聞いていなかった.彼の家族の話が政治の言葉として登場したそのとき,私は彼の言葉 を言葉として聞いていたのではなく,「差別を語る」という身振りとしてみなしていたか らかもしれない.すなわち,差別を受ける人/人たちとして名指しを受ける人/人たちの ナラティヴの一つとして既存の言語秩序のなかに置きなおしていただけで,彼が伝えよう としていた「国策による差別」のなかで生きる者たちの痛みを聞き取っていたわけではな かったのである.そこでは,差別を語っているのに語っているとはみなされない,あるい は無視されていくという状況が反復されていたのだ.
「差別を語る」ということがどういうことなのかが問われないまま,「差別をなくす」こ とをスローガン的に語り,被差別者たちの言葉を傾聴することが目的的行為に据えられて いく.そのとき,「被差別者/差別者」,あるいは「マイノリティ/マジョリティ」の間に 引かれた境界線を引きなおすカテゴリー化の暴力が発動し,固定化した既存の関係や言語 秩序が追認されていくことを確認できるだろう.私は,自分が差別を語るという場にす でに巻き込まれていたこと,そしてそこで語られた言葉を聞き損なっていたことに気づい た.すなわち,差別を語る言葉を聞くということは,新たな関係をつくっていくプロセス のなかに「私」自身が織り込まれていくということに他ならなかったのである. こうした聞き損ないへの気づきの経験を通して,運動を研究するアカデミアのあり方を どのように問いなおしていくか.また,従来の言語秩序に抗い,新たな言葉を探していく には具体的にどうしたらいいのかなど,困難な問いは山積しているといえるだろう.しか し,一貫して重要なのは,聞き損ないを一つの突破口としてつながっていく関係性であ る.それは,言葉の真偽を判断したり,既存の境界線に基づいて再カテゴリー化したりす る集団性とは異なるつながりだといえるだろう.あるいは,聞き損ないへの気づきによっ て編みなおされていく他者との関係や記憶は,一人ひとりにとっての〈政治〉でもあるの ではないだろうか.繰り返しになるが,問題は,運動の現場で差別を語るとき,そこで 語られる言葉を受動的に聞くということではない.そうではなく,「聞いたこと」や「わ かったこと」を自分の身体感覚と無関係に語り出そうとすることにあったのである. 今回明らかになったのは,聞いたことを反芻していく過程を通して,他者と自分が出会 いなおし関係を結びなおしていく契機が,「聞き損なっていたかもしれない」という気づ きとして訪れうるということであった.聞くということは,話す—聞く関係において受動 的な立場に見えるだろう.だが,その関係に身を置くことを通して自らのうちに生じた身 体感覚——それは,痛みと呼ばれるものかもしれない——に気づくとき,他者の言葉が違 う意味をもつものとして聞こえてきたり,そこから再び会いに行き対話をはじめることで それまでと違う関係が生まれていったりすることもあるかもしれない.それは,聞く行為 が能動性を帯びはじめるということでもあるだろう.あるいは,もしかしたらそれは聞い てしまった言葉に突如襲われたり,それを繰り返し想起したりしていくなかで,身体が新 たな言葉を紡いでいく運動の〈場〉としてあらわれる瞬間でもあるのかもしれない. ——「聞き損ない」の最大の可能性は,「聞き損なっていたかもしれない」という気づ きによって他者との関係が更新されていくということにある.そして,そうした感覚を感 じとりながら,関係をつくっていこうとするところに,知あるいは研究の領域をひらいて いくこともできるのではないだろうか. 註 1) 「ハンセン病」とは,皮膚に斑紋や結節が生じ,末梢神経へのらい菌の感染により,末梢神経麻痺 が起こる病気である.治療しない場合,皮膚・神経・四肢・眼などに障害が起こったり,病変の結 果と外傷の積み重ねによって変形したりする.1941年ころからアメリカでハンセン病患者に対して
適用され,効果が確認されていた特攻薬プロミンは,1947年より日本においても使用され,治る病 になった.にもかかわらず,1996年まで「らい予防法」によって隔離政策は合法化されつづけてき たことが,ハンセン病に対する差別の助長につながってきた. 2) ハンセン病にかかったことがある人たちを指す呼称は「病者」「回復者」「在園者」など存在する が,本稿ではOさんがインタビューのなかでつかっていた「元ハンセン病患者」を採用する.たと えば,ハンセン病既往歴のある人たちのライフヒストリーを記録・研究してきた,蘭由岐子(2004) や有薗真代(2017)は,「ハンセン病者」という呼称を使用しているが,そこには,完治した後も, ハンセン病体験がそれぞれの人生に大きな影響を及ぼしつづけていることを強調するためという意 図がある.だが,本稿では,その家族がどのようにハンセン病の差別に向き合っていくかを検証す ることを目的としているため,両者の場合とは状況が異なっている.よって,家族が自ら用いてい る「元ハンセン病患者」という呼称をつかうことには一定の妥当性が認められるだろう. 3) 元ハンセン病患者の家族は,様々な被害に直面してきた.地域や学校からの排除や迫害だけでな く,人生における様々な局面(特に結婚,進学,就職)において,元ハンセン病患者の家族である ことを隠して生きざるを得ないという人たちは多い(ハンセン病家族訴訟弁護団,2018). その一方 で,Oさんは子どものころからそうした「差別を受けた記憶はない」という. 4) Oさんの母は,ハンセン病に関することは「死ぬまで話さない」つもりでいるという.そのため, 彼女のハンセン病にかかわる体験の多くは明らかになっておらず,Oさんのナラティヴは,父に関 することが中心を占めている. 5) Oさんの講演用資料「ハンセン病と向き合う——多くを語らない父が残したもの 50年経って知っ た差別の事実」より引用. 6) 1級土木施工管理技士の資格をもつOさんは,「土建屋」を名乗る.1級土木施工管理技士は,国家 資格の一つであり,取得すると,「特定建設業の『営業所ごとに置く専任の技術者』及び現場に配置 する『監理技術者』として認められ」る(『CIC』,n.d.). 7) のちに基地ゲート前に座り込むようになった彼は,いつも建設作業着姿であらわれるのだが,そ れは「土建屋」として声を挙げるという意志の表明であり,かつて基地建設に携わってきた自分と ともにそこに座り込むという実践として「運動」を確保しようとしているということなのかもしれ ない. 8) 親子は別々の施設で生活していたため,たまに面会に来る人たちが父母だと教えられていたとい う.Oさんは,小学校に入学するまで和光園の乳児院「名瀬天使園」で生活し,その後養護施設「白 百合の寮」(なぜ小俣町)でシスターたちに育てられていたと考えられる(森山他,2009). 9) Oさんへのインタビュー(2018年7月1日実施)より. 10) Oさんの講演用資料「ハンセン病と向き合う——多くを語らない父が残したもの 50年経って知っ た差別の事実」と2018年11月9日に京都市内のカフェ「キッチンハリーナ」で開催されたトークイ ベントを参考にしている. 11) インタビューのなかでは,ハンセン病への差別と基地問題が構造的に似ているという発言はな かった.しかし,Oさんが作成した講演会でつかっている資料には,「政府の隔離政策が生んだ差別, 弱者にしわ寄せが来るのは基地を押しつけられている沖縄と同じだ」という記述がある.また,「基 地と重なる差別——親のハンセン病知り,辺野古へ」と題された沖縄の地方紙『琉球新報』の記事 (2017年4月8日)や「差別と偏見に気づいたから——沖縄 基地建設の現場で」(森住卓,2018)と いうタイトルの雑誌記事では,その二つの問題が重なり合って見えたという話だけでなく,ハンセ ン病の差別に気づいた体験が反基地運動への参加の動機として書かれている. 12) Oさんは,雑誌『週刊金曜日』のインタビュー記事のなかで,「われわれ沖縄の人間」という呼称 を用いて政権批判をしている(西村,2018: 44–45). また,「ハンセン病と向き合う——多くを語ら ない父が残したもの 50年経って知った差別の事実」という講演時に使用する資料(本人作成)の なかには,米軍基地建設とハンセン病の隔離政策は,「弱者を排除してきた 国策 」であり,「差別 の構図は同じだ」という言葉がある.さらに,「基地の問題だけでなくハンセン病の問題について (……)語りべとして父が残してくれたことを,無関心で見て見ぬふりをする日本人に訴える活動を してい」ると記されている.彼がマス・メディアや講演会の聴衆に対して,どのように自らを表象 しようとしているのかを明示しているということもできるだろう. 13) Oさんへのインタビュー(2018年7月1日実施)より.
14) Oさんへのインタビュー(2018年7月1日実施)より. 15) ウォルター・リップマンによると,「ステレオタイプ」は,多忙な現代の生活を成り立たせるため に,思考することにまとわりつく煩わしさを回避し,可能な限り経済的に単純化するという機能を 果たしているという(1922=1987: 122). 彼の分析は,マス・メディアによって流布されている,饒舌 且つ「わかりやすい」言葉が,権力に寄り添っていくなかで生み出されている状況にも重なる.「わ かりやすい」言説があふれている一方で,「わかりにくい」ものを忌避する傾向が強まっている現況 に対して,「思考停止状態」を招きかねないという池田理知子(2015: 115)の警告は,示唆的である. 16) 個人の経験を政治の言葉で語るということに親和性があるのは,「個人的なことは政治的なこと」 をめぐる議論だろう.「個人的なことは政治的なこと」というのは,1960-70年代にアメリカにおける 第二波フェミニズムによって生まれたスローガンである.私的領域に属すると考えられてきた人間 関係は,公的な領域から完全に切り離されているのではなく,むしろ社会構造のなかに組み込まれ, 規定されている,ということを明らかにしようとする言葉にあたる.「個人的なこと」と「政治的な こと」の間に線を引こうとすること自体が恣意的であり,「個人的なもの」に対して取るに足らない こととしてみなす認識が問題化された(千田,2010). 17) は,50名以上いる聞き取り調査の担当の中で,Oさんの父の聞き取りをした一人であった. 18) 内閣府男女共同参画局(n.d.)によると,ドメスティック・バイオレンス(domestic violence: DV) は,明確に定義されていないが,「配偶者や恋人など親密な関係にある,又はあった者から振るわれ る暴力」を意味するものとして使われている.Oさんは,日常的に父から母に対する暴力行為がみ られる家庭環境に育ち,自らもまたその被害に遭ってきた.森田ゆり(2001; 2010: 23)は,DVのあ る家庭環境で育った子どもたちを「忘れ去られた被害者」として問題化し,その後さまざまな後遺 症に苦しみつづけると指摘している. 19) Oさんへのインタビュー(2018年7月1日実施)より. 20) 2017年7月以降,県外でも講演するようになるまでの経緯はつぎの通りである.2016年7月に高江 の基地ゲート前で集会があったときに,大勢の前でハンセン病の話をしたときに,沖縄タイムスの 取材を受け,ハンセン病の差別について「政府の隔離政策が生んだ差別.弱者にしわ寄せが来るの は,基地を押し付けられている沖縄と同じだ」と訴えた.その後,2016年9月には神奈川新聞,2017 年3月には東京新聞でも基地問題とハンセン病問題について掲載してもらった.その後者の記事が きっかけで,東京の「沖縄戦首都圏の会」という団体からハンセン病と基地の問題を話してほしい と要望があり,東京で講演したという.その後,Oさんは全国各地に足を運び,ハンセン病と基地の 問題をテーマに講演するようになっていった. 21) Oさんへのインタビュー(2018年7月1日実施)より. 22) 会いたくても会えない人たちのことを思いながら,自らの存在を懸けて書き,書くことで存在し ようとしていたのだろうか.そうすることで,〈いま・ここ〉ではないどこかで,誰かに「聞き損な い」が訪れたとき,膠着した関係が揺らぎはじめるだろう可能性を思い描いていたのかもしれない. 23) Oさんの講演用資料「ハンセン病と向き合う——多くを語らない父が残したもの 50年経って知っ た差別の事実」より引用. 24) 私が参加したのは,2018年11月9日に京都市内のカフェ「キッチンハリーナ」で開催されたトーク イベントだった.イベント名は,満月まつりプレ企画「奥間政則さんを囲んで沖縄のはなしをしよ う」.予定では,辺野古新基地建設の問題について土木技術者の観点から解説し,一緒に丹後市宇川 のおにぎりを食べながら参加者と交流するという3時間のプログラムだったが,2時間を延長してハ ンセン病の差別についても話をしはじめた. 引 用 文 献 阿部小涼(2008).「『集団自決』をめぐる証言の領域と行為遂行」新城郁夫(編)『沖縄・問いを立てる 3 攪乱する島——ジェンダー的視点』社会評論社:25–73. 有薗真代(2017).『ハンセン病療養所で生きる——隔離壁を砦に』世界思想社. 蘭由岐子(2004).『「病の経験」を聞き取る』皓星社. 池田理知子(2015).『日常から考えるコミュニケーション学——メディアを通して学ぶ』ナカニシヤ出 版.
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