世界を跨ぐ平和演説家 乾精末の青年時代 : 誕生か
ら一九一二年の一時帰国まで
著者
レイセル M・N
雑誌名
関西学院史紀要
号
27
ページ
7-41
発行年
2021-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00029471
世界を跨ぐ平和演説家
乾精末の青年時代
―誕生から一九一二年の一時帰国まで―
M・N・レイセル
Masako Nohara Racel
Ⅰ はじめに Ⅱ 第一期 生い立ちと関西学院普通学部時代 Ⅲ 第二期 ミシガン大学と国際平和演説家 (1)学生生活 (2) 学生時代の乾の演説 (3)コスモポリタン・クラブ (4)世界を跨ぐ平和演説家 Ⅳ 終わりにかえて
Ⅰ はじめに 私が乾 精 きよすえ 末 という人物について調査し始めたのは、一九一一年ロンドンで開かれた万国人種会 議に参加した日本人についての調査を依頼された事による。会議前に出版された論文集とその会 議 後 に 出 版 さ れ た 報 告 書 に は、 日 本 代 表 と し て 出 席 し た Teruaki Kobayashi 、 国 会 議 員 で あ っ た Mr. Watanabe と Mr. Horie 、また通訳を手伝った Mr. Inui の名が見える。このように少ない情 報では、あまり成果は期待できないと思っていたが、幸い当時の日本の新聞に万国人種会議に参 加した日本人八人の名前が載っていた。一人一人調べたが、日本代表として行った小林照朗と報 告書の共著者、 建部遯悟の他はあまり収穫がなかった。ただ、 乾に関しては日本、 アメリカ、 英国、 オーストラリアの新聞など、思いがけない所からいろいろな情報がでてきた。調査をしてみると、 乾精末という人物はなかなか面白い人生を送った人だと知った。本論文は、乾精末の生い立ちか ら青年時代の活躍、つまり乾が世界的平和主義者として活躍するようになった過程を辿る。 Ⅱ 第一期 生い立ちと関西学院普通学部時代 乾精末は一八八三年頃に生まれた。ほとんど名の知られていない人物なので、彼の生い立ちや 幼年少年時代の情報は限られているが、 一番有益な情報を提供してくれるのは、 彼の一人娘であっ た、ロンダ( 精 きよ 子 こ )の残した「東西の出会い」であろう。これは彼女が七十歳頃に、夫であるバ デ ィ・ イ ワ タ Buddy Iwata ( 1918-1991 ) が 自 費 出 版 し た 著 書『 あ る 二 世 の 肖 像 』 の 中 に 収 め ら
れているもので、誤述も多いが乾精末のとくに幼少年時代に関する貴重な記録である。 彼女によると乾精末は徳島の撫養 (現 ・ 鳴門市撫養町) の貧しい農家に生まれた。名前から末っ 子だと推測される。 乾 精 末 は 十 歳 く ら い の 時、 つ ま り 一 八 九 三 年 ご ろ 神 戸 に 移 り、 一 八 九 七 年 に は 雲 中 小 学 校 高 等 科 を 卒 業 し て い る。 後 に 彼 が 雄 弁 家 と し て 活 躍 し た ミ シ ガ ン 大 学 の 当 時 の 出 版 物 に は “At the age of ten, he was sent to the city of Kobe, Japan, where he entered the grammar school. ”(十 歳の時、 彼は神戸に送られ、 そこの小学校に入学した)とある。 この受け身文
“he was sent
” は 彼の家族は撫養に留まり、彼だけが神戸に行ったことを暗示している。ロンダによると、この転 学 は ア メ リ カ 人 宣 教 師 デ イ ヴ ィ ッ ド・ ウ ェ ン ラ イ ト( David Wainwright ) と そ の 夫 人 の 提 案 に よるものだという。 精 末 は 驚 い た …「 こ ん な 事 が 自 分 に 可 能 な の だ ろ う か。 両 親 は 何 と 言 う だ ろ う。 自 分 の 成 績で大丈夫なのか」 。 ウ エ ン ラ イ ト 先 生 は 笑 っ て「 君 の 両 親 に は 既 に 話 を し て あ る。 ご 両 親 は 経 済 的 負 担 が か か ら な い の で、 申 し 訳 な い と 言 っ て い る。 君 は 私 た ち の 家 に 住 み 込 み で ち ょ っ と し た 手 伝 い をする。関東[関西学院の間違い]はメソヂストの学校で、奨学金をくれるといっている」 。 精末は…「入試試験に合格するように頑張って勉強します」と言った。 こ の「 デ イ ヴ ィ ッ ド・ ウ ェ ン ラ イ ト 」 は、 サ ミ ュ エ ル・ ヘ イ マ ン・ ウ ェ ン ラ イ ト Samuel
Hayman Wainright ( 1863-1950 ) の 誤 記 か、 も し く は 全 く 別 の 人 物 の 可 能 性 も あ る。 サ ミ ュ エ ル・ウェンライトはイリノイ州生まれの医師であり、メソヂスト派の宣教師で、関西学院普通学 部長を一八九一年から一九〇六年まで務めた者である。関西学院は一八八九年に創立なので、か なり初期の頃である。ロンダによると、ウェンライトは一八九七年、つまり精末が十四歳くらい まで撫養で宣教活動をしていたといっているが、サミュエル・ウェンライトの情報とは一致しな い。 サ ミ ュ エ ル・ ウ ェ ン ラ イ ト は 一 八 八 八 年 に 来 日 し、 一 八 九 〇 年 に 神 戸 に 来 る 前 は、 大 分 で 活動していた。 ただ確かなのは、精末がロンダに「ウェンライト先生」について話していたこと、 精 末 と サ ミ ュ エ ル・ ウ ェ ン ラ イ ト が 同 時 期 に 関 西 学 院 に い た こ と、 ま た こ の 二 人 に 接 触 が あ っ たことだ。神戸栄光教会は、関西学院「普通部の卒業生で在学当時は野球部の選手」をしていた 「 乾 精 季 (ママ) 」 を ウ ェ ン ラ イ ト の「 弟 子 の 一 人 」 と 言 っ て い る。 こ れ は「 乾 精 末 」 の 誤 記 と 見 て 間 違 い な い だ ろ う。 ロ ン ダ に よ る と、 ウ ェ ン ラ イ ト 夫 妻 は「 Kiyosue 」 と い う 名 前 が ど う も 上 手 く 言 えないので「スエ」と呼んでいたという。精末がウェンライトの宣教師館又は他のアメリカ人宣 教師館で住み込みしていたというのはおそらく本当だと思われる。というのは、ロンダは精末が 初 め て 見 た ア メ リ カ 人 の 宣 教 師 館 の 印 象 や 、 掃 除 の 手 伝 い を し た 際 の エ ピ ソ ー ド を 記 録 し て い る か ら だ。 ただ、 当時の関学生の多くは寮生活していたので、 真相はわからない。いずれにして も、乾とウェンライトはともに関西学院の野球史に関わっている。関西学院に野球を紹介したの は、ウェンライトの可能性が高いと言われているが、新設の学校で、生徒数も用具も十分にない 時期に野球部を創設し、主将を務めたのは、乾精末だという。乾は一九〇一年に、同志社等と試 合 の た め に 神 戸 = 京 都 間 を 徒 歩 ( 汽 車 が な か っ た わ け で は な い ) で チ ー ム を 連 れ て 遠 征 な ど し
て い る 。 このような自主性やリーダーシップの素質を見込んだのであろうか、ウェンライトは乾の関西 学院の卒業が近くなった頃、ミシガン大学に留学を勧めたようだ。ロンダは書く、 「スエ、 君はもうすぐ卒業する。 私が卒業したミシガン大学では、 奨学金が取れる。 ここでやっ て い る の と 同 じ よ う に 雑 用 を や る か わ り に、 宿 泊 と 食 事 を も ら え ば よ い。 君 は ア メ リ カ に 行 き た い か い 」。 父[ 精 末 ] は 感 激 感 動 し て 答 え た。 「 ウ ェ ン ラ イ ト 夫 妻 … 私 の 夢 は ア メ リ カに行くことです」 。 実 際 に は ミ シ ガ ン 大 学 は ウ ェ ン ラ イ ト 博 士 の 母 校[ 母 校 は Missouri Medical College ] で は な かったが、おそらく彼は何らかの繋がりを持っていたのであろう。また、関西学院卒業生が多く 留学したメソヂスト派の私立で高額のヴァンダービルト大学よりも公立のミシガン大学の方が貧 しかった乾には適していると思ったのかもしれない。こうして一九〇二年、ウェンライトの一時 帰国に同行して、 乾精末は太平洋を渡った。 アメリカ西海岸に着いた後、 ウェンライトと乾は別々 の道を辿ったようである。ロンダによると、精末は西海岸に着いた後もしばらくは日本人牧師で ある「小沢」氏の世話になったため、ミシガン行きの汽車に一人で乗るまでは、本当に外国に来 たという実感がなかったという。
Ⅲ 第二期 ミシガン大学と国際平和演説家 (1)学生生活 ミシガン大学では、ウェンライトの話した通り、雑用の代わりに宿泊と食事を無料で世話して もらうということになっていた。 ロンダはこの時の面白いエピソードを伝えている。 ある日、 ジャ ガイモの皮むきを頼まれた精末は、日本男児たるもの、女性の仕事はできないと、直ぐその場を 立ち去ろうとした。 これは、当時アメリカ西海岸で、アメリカ人の家に住み込み、家事雑用をや りながら学校に通う「ジャパニーズ・スクール・ボーイ」と呼ばれた日本人書生の体験に似てい る。彼らは、ハワイに行った日本人労働者よりは自らを上級と思っていたようだが、ヨーロッパ に 送 ら れ た エ リ ー ト の 官 費 留 学 生 と は 違 い、 本 当 の 意 味 で の 私 費 留 学 生、 つ ま り 本 当 に 自 費 で 生活を賄なっていた留学生で、台所仕事も含め何でも雑用を引き受けたようである。 乾の場合は、 日本人学生の少ないミシガンに行き、 また男女の役割に関しては、 日本の感覚で行ったので、 「女 性の仕事」をするのに抵抗があったのだろう。 乾 は 一 九 〇 二 年 か ら 一 九 〇 六 年 の 間 に ミ シ ガ ン 大 学 に 通 い、 学 生 生 活 を 楽 し ん だ よ う だ。 こ こでも彼は野球部に入り、そしていつの頃か、彼は日本についての講演をするようになった。日 露戦争開戦から二ヶ月後の一九〇四年四月頃から、彼の名が新聞に現れ始める。 日露戦争の時期、 アメリカ人の日本への関心が高まったの関係もあるだろうが、米国、特に西海岸では反日感情が 高まった時期でもある。当時は、新渡戸稲造の Bushido (一九〇〇年)や岡倉天心の The Ideals of the East ( 一 九 〇 三 年 )、 The Book of Tea ( 一 九 〇 六 年 )、 櫻 井 忠 温 の Human Bullets ( 一 九 〇 六 年 )
等の英語で書かれた日本に関する本が出版され、注目を集めた時期である。一九〇四年一二月一 日付のミシガン州グランド・ラピッズの新聞『イブニング・プレス』によると、乾は「極東にお ける戦争と日本の過去、現在、そして未来」について、グランド・ラピッズだけでなく、他の都 市でも何回もの講演している。 つまり、彼はすでに一九〇四年にはミシガン付近で外国人学生な がら日本についての演説家として知られるようになった。一九〇五年にはミシガン大学内の演説 コンテストに参加し、三月一八日付の『カラマズー・ガゼット』誌によれば、乾はミシガン「大 学在籍中の日本人六人の内で一番頭がいい」と書いている。 ミシガン大学によると、 彼 は ア メ リ カ に 来 る 二 年 前、 日 本 の 神 戸 で 英 語 の 勉 強 を 始 め た が、 ア メ リ カ に 一 年 滞 在 し た 後 で さ え、 英 語 の 発 音 と 作 文 に は 大 変 困 っ た。 し か し 彼 は 非 常 に 急 速 な 進 歩 を し た の で、 三 年 の 時 に は、 毎 年 恒 例 の 演 説 の コ ン テ ス ト で ク ラ ス を 代 表 す る 権 利 を 獲 得 し た。 … 乾 は 小 柄 だ が、 強 く よ く 抑 揚 の き い た た 声 で 話 し、 好 感 が 持 て る マ ナ ー と 強 い 個 性 の 持 ち 主 だ。 彼 の 演 説 は、 完 璧 な 直 接 性 と 真 摯 さ が 特 徴 だ。 彼 は、 自 分 が 興 味 を 持 っ て い る き わ め て 重 要な題を選び、第一声から聴衆が共感するような感動的なメッセージを届ける。 こうして、乾精末は、国際平和の演説家のキャリアを始めたのである。 (2)学生時代の乾の演説 一九〇五年、乾は「アジアの病人とその医者たち」と題した演説をミシガン大学のコンテスト
で発表した。この演説で、彼は一九世紀と二〇世紀の変わり目における中国の事情についての説 明している。この頃の中国といえば、日清戦争、列強による勢力圏分割、義和団事件などが次々 と 押 し 寄 せ た 清 朝 末 期 混 乱 の 時 代 で あ る。 「 ヨ ー ロ ッ パ の 病 人 」 す な わ ち ト ル コ に 倣 っ て、 弱 体 化した中国を彼は「アジアの病人」と呼び、中国が「言語的・政治的統一」に欠け、税法、交通、 連絡施設などが不備であることがその原因だと指摘している。さらに乾は、中国の「歴史、伝統、 迷信」とくに先祖崇拝の伝統が進歩への「最大の障害」だと論じている。この指摘は明治時代の 日 本 の 観 点 か ら 見 れ ば ご く 普 通 で あ ろ う。 日 本 は 明 治 維 新 以 降、 「 文 明 国 」 に な っ た が、 中 国 は まだ古い悪習に捕らわれいるとの時代認識である。このように弱体化した中国を列強国、すなわ ちフランス、ドイツ、ロシアは自国の利益を得る絶好の機会だと見ている。乾はこれらの列強国 を「ヨーロッパの貪欲な医師」と呼び、満州と遼東半島に進出しようとして「熊のような口」を 開けるロシアにもっとも批判的である。日本との同盟国(一九〇二年)であったイギリスに関し ては、中立国で警察的な役割を果たす国として描いている。 こ の よ う な 状 態 の 中 国 を 救 済 す る の は、 キ リ ス ト 教 信 者 で あ る 乾 に よ る と「 全 能 の 神 の 手 」、 またアメリカ人の手であると云う。しかし「アメリカ人は中国人と同じ肌、言語、習慣を持って いない」ので、日本が重要な役割を果たすことになる。というのは「今日の日本文明は文明世界 の最高のものを組み合わせた」文明であり、日本文明は西洋文明の「輸入、採択、同化」の三段 階を経ているからだと。日本文明を世界最高の文明と見做すのは、当時の日本人としては珍しく ないが、乾が日本文明をキリスト教文明として、アメリカ人に紹介しているのは興味深い。意図 的であるかどうかは不明だが、クリスチャンである乾は明治時代の国家神道や仏教に関しては何
も述べていない。乾は「アジアの病人」の救世主として選ばれたのは、アメリカと日本だと言う。 全能の神は[中国]救済策を与え給え、 その救済策を執行する者を選んだ。神の独り子[イ エ ス・ キ リ ス ト ] が 私 た ち に 与 え た 救 済 策 を 中 国 に 与 え よ。 ア メ リ カ は 中 国 に 宗 教 を 与 え、 日本は道徳を与えよ。アメリカは宣教師、 日本は教師を派遣せよ。アメリカは民主主義、 日 本は愛国心を中国に示せ。アメリカは学校制度のモデル、 日本は軍事組織のモデルを中国に 教えよ。アメリカはその素晴らしい機械、 日本はその巧みなわざを見せよ。アメリカは鉄道、 日本は海運体制について中国に教えよ。アメリカは生き方、 日本人は死に方を中国に 教えよ。 星 と 縞[ 星 条 旗 ] と 日 の 昇 る 国[ 日 の 丸 ] の 国 旗 の 光 を 日 の 沈 む 国 に か ざ し て、 暗 黒 な る 東洋の空に光を放て。 若 く ナ イ ー ブ な 乾 は、 日 本 と ア メ リ カ は、 他 の 列 強 国 と 違 い、 利 己 的 な 帝 国 主 義 の 国 で は な く、 中 国 を 善 意 を も っ て 導 く 国 だ と 信 じ て い た よ う だ。 彼 は、 「 キ リ ス ト 教 文 明 の た め の 経 路 」 としてアメリカのフィリピンの支配さえ正当化している。彼の見解は、上からの目線で中国を見 た、 パ タ ー ナ リ ズ ム( paternalism ) の 感 が あ る が、 こ れ は、 当 時 の ア メ リ カ 人 や 日 本 人 の 間 で は、とくに珍しくなかった。日清両国が一九世紀に西洋文明と接触した際、日本は西洋文明を受 け入れ様々な改革を行ったが、中国は伝統に未だに縋り付いているとの印象である。ただ欧米人 から見た日本人に関して言えば、日露戦争前後、 「イエロー・ぺリル(黄禍論) 」といって、日本 人やアジア人一般を危険な要因と見る世論も増えていく。乾が日本について説明したのは、この
ような背景があったということを念頭に入れておく必要がある。ただ、彼のいたミシガンではカ リフォルニアと比べてあまり東洋人種差別の風潮はなかったのではないかと思われる。アメリカ と日本の両国をこのように肯定的に捉えた乾の演説は非常に好意的に受け取られ、ミシガン大学 は「思想と作文に関しては一位、演説自体は三位」全体的には二位を与えている。 このように講 演で成功を収めた乾は、当時アメリカ各地で講義や催し物を提供する組織であった「シャタクワ Chautauqua 」 に加入し、 「アジアの病人とその医者たち」 と 「日本の進歩」 と題された演説によっ て得た賞金を、生活費の足しにしていたようである。 日本の陸海戦の戦術(21) 翌( 一 九 〇 六 ) 年 乾 は「 新 日 本 の 使 命 」 と 題 し た 演 説 を 行 い、 ミ シ ガ ン 大 学 内 の コ ン テ ス ト で 優 勝。 そ の 後、 ミ シ ガ ン 大 学 の 代 表 者 と し て、 地 方 七 大 学 演 説 コ ン テ ス ト に 進 み、 こ こ で も ま た 優 勝 し、 賞 金 百 ド ル を 獲 得 し て い る。 日 露 戦 争 の 終 結 直 後 に 発 表 さ れ た こ の 演 説 は、 「 ア ジ ア の 病 人 と そ の 医 者 た ち 」 の 延 長 で あ り、 東 ア ジ ア、 と く に 中 国 に お け る 日 本 の 役 割 に つ い て 論 じ て い る。 中 国 は 天 然 資 源 と 労 働 力 に 富 ん で い る が、 貪 欲 な ヨ ー ロ ッ パ 列 強、 と く に「 熊 」 な る ロ シ ア が「 シ ベ リ ア か ら 満 州 に か け て 侵 略 的 で 執 拗 に 圧 力
を か け て い る 」 と 彼 は 説 明 す る。 乾 に よ れ ば、 日 露 戦 争 は「 基 本 的 原 理 の 違 う 二 国 の 衝 突 」、 つ まり「門戸閉鎖」対「門戸開放」 、「進歩」対「保守主義」 、「自由主義」対「絶対主義」 、「憲法主 義」対「官僚主義」などの衝突だったという。 日本は「自由」を尊重する国、 「政治的自由、 独立、 商業的自由、門戸開放」を掲げている国だと彼は言う。 要するに、日本はマッキンリー及びセオ ドア・ルーズベルト大統領期の国務大臣ジョン・ヘイが一八九九年に打ち出したアメリカの対中 国方針である「門戸開放」と同じ観点を持っていると主張しているのである。この方針は、中国 で の 勢 力 圏( sphere of influence ) の 確 保 に 遅 れ た ア メ リ カ が、 経 済 的 及 び キ リ ス ト 布 教 活 動 を 維持するために提案したものであり、帝国主義の延長だと今日では一般に見なされているが、乾 の演説からは、そのような印象を全然受けないであろう。 乾によると、日本の「使命」は中国の発展を助けることだという。日清・日露戦争期の日本人 の間では、日本が東洋唯一の「一等国」という意識が強く、乾もその例外ではない。当時の日本 人はまた、日本を「東洋」と「西洋」の概念的空間に位置付ける傾向がよく見られるが、乾も例 外ではなく、 日本を 「東洋」 と 「西洋」 の 「架け橋」 と捉えている。ただ、 彼の場合は、 日本の 「東 洋」的な要素に関しては、ほとんど何も言及していない。乾によると、日本は西洋文明の優秀な 生徒であり、日本の役割は中国が西洋文明を受け入れるのを助けるのだと言っている。 現 在、 日 本 は 古 い 社 会 に 働 き か け る 新 し い 勢 力 で あ る。 日 本 こ そ が、 中 国 に 新 生 命 と 安 心 感 と 西 洋 文 明 へ の 欲 求 を 与 え て い る。 神 よ、 中 国 が 目 覚 め つ つ あ る の に 感 謝 し ま す。 東 洋 の 巨 大な患者は目を覚まし、二〇世紀の文明化を切望している。
このように、乾は実質的に日本を西洋文明と捉えてはいるものの、儒教、仏教、神道など、日 本 文 化 や 東 洋 文 化 全 般 に つ い て は 何 も 言 及 し て い な い。 つ ま り 両 文 明 の「 相 互 交 流 」 で は な く、 西洋の文明が東洋に伝達され、東洋はそれを受容するという、一方向的な見解である。彼は言う。 利 己 的 で は な く、 一 つ と し て 領 土 を 取 る の で は な く、 現 代 文 明 と そ の 理 想 を 伝 え る た め に、 中 国 に 行 こ う。 そ う す れ ば、 日 本 が 東 洋 の 英 国 を な っ た よ う に、 偉 大 な 天 然 資 源 と 勤 勉 な 人 び と を 有 す る 中 国 は、 東 洋 の 合 衆 国 に な れ る。 そ し て、 世 界 万 国 は 一 つ の 理 想 と 一 つ の 文明になる。 若い乾にとって、西洋とは近代性、進歩、そして文明そのものを意味していた。明らかに、彼 は日本の西洋文明を受容・同化する能力を評価し、また全世界が一つの神の下で一つの文明に向 かって進歩していると見ていた。 この演説の中で、 乾は 「人種」 や 「黄禍論」 についてもわずかに言及している。興味深いことに、 乾は日本人を「黄色人の救済のために戦う」 、「小さな褐色人
the little brown man
」と呼んでいる。 これは、 乾を含む日本人の間でまだ 「黄色人種」 だという認識がなかったからであろう。そもそも、 「白人」 「黒人」 「黄色人」といった人種の区別は、欧米人からの見解であって、実際的に「黄色」 から程遠い色の日本人が黄色人種としての自覚がなくても不思議はない。乾は中国人を「黄色人 種」だと捉え、そして、 「黄禍」に関しては、 「黄色人種からではなく、黄色人種への禍」だと説 く。それだからこそ、日本はアメリカと共に中国を「黄禍」から救うのが「新日本の使命」だと
いう訳である。黄禍論が高まりつつある日露戦争後、視聴者が理解する「黄禍」という言葉の意 味を変えようと試みているのである。 (3)コスモポリタン・クラブ 乾が全世界の国民を「朋輩 comradeship 」と見なす考えは、彼のコスモポリタン[世界市民] ・ クラブへの関与にも反映されている。ここでコスモポリタン・クラブというのは、アメリカの大 学 に 在 籍 し て い た 外 国 人 留 学 生 や 外 国 経 験 の あ る ア メ リ カ 人 学 生 を 中 心 と し た ク ラ ブ で、 二 〇 世紀初頭に結成された。実際、ウィスコンシン大学で一九〇三年、コーネル大学では一九〇四年、 乾の留学先であるミシガン大学は一九〇六年に創立されている。ミシガン大学のメンバーであっ たアルメニア人のアーメン・S・カークジャンによると、これは乾が始めたもので、彼はコーネ ル大学に同様のクラブがあることを知ると、その会則に倣った書類を作成し、初代の部長を務め た。 このクラブは、少なくとも二ヶ国語を話す者、二年以上海外に住んでいた者、または外国生 ま れ の 者 を 受 け 入 れ、 「 各 国 の 人 び と の 理 解 を 深 め る 」 こ と を 目 的 と し た。 一 九 〇 六 年『 ミ シ ガ ン大学年鑑』には、フィリピン、ドイツ、カナダ、アメリカ、ロシア、アルメニア、日本、プエ ル ト リ コ、 イ ン ド、 ペ ル ー、 フ ラ ン ス、 ポ ー ラ ン ド、 メ キ シ コ、 チ リ、 ノ ル ウ ェ ー、 中 国 人 や 在中国のアメリカ人を含む中国の代表三四名のメンバーの名前が記載されている。 このクラブは、 家を借り何人かのメンバーがそこに住み、国際的理解や人種的平等の概念を広めるための講義を 開 い た。 後 に 見 る よ う に、 「 一 つ の 屋 根 の 下 で 」 多 く の 異 人 種 が 平 和 的 に 共 存 す る い う の は、 乾 の平和に関する理想の根本を成すものであった。
乾は卒業後も何年間かミシガン大学のコスモポリタン・クラブに参加し続け、野球愛好家だっ た彼は、 クラブ ・ メンバーの野球チームを作っている。 更に、 コスモポリタン ・ クラブ協会、 つまり、 他大学のクラブとの連帯機関においての宣伝担当者として、コスモポリタン・クラブを他学校で の 設 立 を 勧 め る た め に 訪 れ、 ミ ネ ソ タ 大 学、 パ ー ク 大 学、 シ ン シ ナ テ ィ 大 学 で の ク ラ ブ 設 立 に 貢 献したようである。また一九〇九年五月二日から五日にかけてシカゴで開催された第二回アメリ カ 平 和 会 議 に 於 い て、 コ ス モ ポ リ タ ン・ ク ラ ブ 協 会 の 代 表 と し て 出 席 し て い る。 こ の 会 議 に は、 日 露 戦 争 後 に 大 日 本 平 和 協 会 を 創 立 し て い た ク エ ー カ ー 宣 教 師 ギ ル バ ー ト・ ボ ー ル ス( Bowles, Gilbert, 1869-1960 )も参加しており、ここでこの二人が交流した可能性も高い。 一 九 〇 九 年、 乾 は コ ス モ ポ リ タ ン・ ク ラ ブ 協 会 が 出 版 し た『 コ ス モ ポ リ タ ン 年 鑑 』 Cosmopolita n Annual に「 我 々 は 虹 を 追 い か け て い る の か 」 と 題 す る 記 事 を 発 表 し、 コ ス モ ポ リ タン・クラブの理想を悲観主義者の虹と比較している。 …( 悲 観 主 義 者 の ) 虹 は 曲 が っ て い る が、 私 た ち の も の は「 正 方 形 」 で あ る。 彼 ら の 虹 は 七 色 の 縞 か ら 成 る が、 我 々 の も の は「 カ ラ ー ラ イ ン 」 が 見 え な い。 彼 ら の 虹 は 赤 と 黄 色 が 分 離 さ れ て い る が、 我 々 の も の は、 赤、 黄、 白、 茶、 皆 近 く に あ り、 隣 に あ る。 一 つ の 色 が 他 の 色 の 上 に も 下 に も な い。 全 色 が 混 合、 結 合、 凝 固 し、 調 和 の と れ た 反 射 を 成 し、 批 判 者 か ら は 虹 と 呼 ば れ る が、 「 人 間 性 は 全 国 家[ の 違 い ] を 超 え る 」 と い う 格 言 を 象 徴 す る、 世 紀 の 光である。
こ れ は、 世 界 人 種 が 平 和 的 に 共 存 す る と い う 乾 の 理 想 を よ く 表 し て い る。 つ ま り 肌 の 色、 赤 (アメリカ先住民) 、黄色人種、白人、褐色人などが、同等の者として交流し、団結するという理 想である。彼の「虹」は、掴むことのできないものを追いかけていると批判されるが、彼にとっ て は、 実 に 希 望 の 光 な の で あ る。 こ の 理 想 を 持 っ て、 乾 は ア メ リ カ 平 和 協 会( The American Peace Society )、五大湖国際仲裁協会(
Great Lakes International Arbitration Society
) に参加す ることになった。 (4)世界を跨ぐ平和演説家 乾精末は、ミシガン大学で学士号を取得後、一九〇六年から一九〇七年にかけて同大学院法律 科に進んだが、何らかの理由で同研究科では修士も博士学位を取得していない。ただ言えること は、一九〇七年から一九一〇年頃にかけて、演説会の広告の数から判断すると、彼はシャタクワ での演説者としての活動に集中していたと思われる。この頃に制作された広告には、乾の定番の 四講演の題、⑴新日本の使命、⑵アジアとその医者の病人、⑶日本の進歩、⑷日本に関する図解 講義(
An Illustrated lectures on Japan
)を挙げている。 一九〇九年後半、乾はミシシッピ河を五メートル半程の長さのカヌーで旅している。彼は五月 三〇日にミシシッピーの源流であるミネソタ州にあるイタスカ湖から始め、六月にはアイオワ州 のクリントに着き、そこで講演を何度か行い、九月六日まで滞在している。 ここで注目すべきこ とは、一九〇九年七月から一九一四年まで、乾精末の名はアメリカ平和協会の「国際仲裁平和演 説局」の一員として記録されているので、彼はそのための講演の旅に出て行った可能性も高い。
乾は講演をしながらミシシッピ河を下り、九月末までには ミズーリ州セントルイス、 一二月二四日にはミシシッピー 河口に位置するルイジアナ州ニューオーリンズに到達して いる。一二月二九日付のニューオーリンズの新聞には、乾 のカヌーに乗った写真が載っている。彼はイタスカ湖の市 長 の 手 紙 を ニ ュ ー オ ー リ ン ズ の 市 長 に 届 け、 ま た ニ ュ ー オーリンズのYMCAで「東洋対西洋」と題した講演をし て い る。 彼 は 一 時 帰 国 を 予 定 し て い て、 日 本 で ア メ リ カ についての図解講義を行う計画で、そのための資料を集め るのがもう一つの目的だったと言っている。つまりこの頃、 彼は日米間の理解を深めるための平和活動家として活動を する野望を持っていたようだ。二ヶ国語堪能であった彼は、 英語で日本について説明するだけでなく、日本でアメリカ について説明し、両国の架け橋となることを自覚したよう である。彼は、カヌーを記念品として日本に送りたいと述 A Japanese Canoeist(36) べているが、実際にどうなったかは不明である。 その後、乾はシカゴに向かい、一九一〇年一月 一一日には、シカゴの日本人を訪問している。 乾は一九一〇年の大半をシャタクワの演説家として活動した。また、この頃、五大湖国際仲裁 協 会 が 結 成 さ れ、 同 会 の ジ ョ ー ジ・ ビ ー ド ル の 勧 誘 に よ り 入 会、 さ ら に 同 会 の 副 会 長 の 一 人 と
な っ た。 そ し て、 一 九 一 〇 年 後 半 か ら 一 九 一 一 年 初 頭 に か け て は、 ボ ス ト ン お よ び ニ ュ ー ヨ ー ク地域において、五大湖国際仲裁協会の活動家として「東洋対西洋」と題された演説を行ってい る。この演説の全文は残ってないが、内容の一部は一九一一年二月二一日付の『ボストン・ヘラ ルド』紙に記録されている。これによると、この演説は当時日米両国で聞かれた「戦争の噂」を 打 ち 消 す の が 目 的 で あ っ た と 見 ら れ る。 前 述 し た よ う に、 黄 禍 論 は 日 露 戦 争 中 か ら 広 ま っ た が、 と く に カ リ フ ォ ル ニ ア 州 の 一 九 〇 八 年 の 選 挙 で は「 日 本 人 問 題 」 が 重 要 な 課 題 と し て 論 議 さ れ、 一九一〇年頃には、日米開戦の噂は日米両国で聞かれた。 乾は非公式の平和大使として、日米間 の 誤 解 を 解 く 事 が 平 和 的 解 決 に 繫 が る と 思 っ た の で あ ろ う。 彼 は こ の 演 説 の 中 で 日 本 は 商 業 的 進出にしか興味ないと説明している。 「日本は太平洋を軍艦でいっぱいにする意図はないのです。 貿易船でいっぱいにしたいのです」と。乾はまた日米間の戦争は両国にとって有害であると主張 する。 「平和は武力からは絶対に来ないのです。平和は正義を愛することから来るのです」 。彼は 当時のアメリカ人が共感できるような 「 civilization 文明」 や 「 love 愛」 といった言葉を使いながら、 非 暴 力 的 な 緊 張 の 緩 和 を 訴 え る。 「 文 明 の 目 的 は、 血 で は な く 平 和 を も た ら す こ と で あ り、 誤 解 ではなく率直な理解、恐怖ではなく、キリストの愛をもたらすことです」 。 一九一一年、五大湖国際仲裁協会は、乾を世界の旅に出した。日本人ながら英語が流暢であっ た乾は、人種差別感情の高まる一九一〇年代に相応しい平和活動家となった。彼はまずニューイ ン グ ラ ン ド と 言 わ れ て い る ア メ リ カ 北 東 の 州 か ら は じ め、 他 方、 同 協 会 の ジ ョ ー ジ・ W・ ビ ー ドルは乾に先立ちイギリスに行き、乾の演説の旅の準備をしたようである。乾はニューイングラ ン ド で 二 ヶ 月 ほ ど 日 本 に 対 す る 誤 解 を 解 く 講 演 を し、 そ の 後 ボ ル テ ィ モ ア で 行 わ れ た 第 三 回 ア メ
リカ平和協議会に参加した。 乾は講演や国際会議への参加を通して、仲裁を中心とした当時の平 和運動に参加する事になった。一九世紀から二〇世紀にかけては、軍事力は未曾有の莫大な破壊 力を持つようになり、 戦争による人類自滅の可能性が高まるなか、 「文明的」な解決である「仲裁」 が謳われるようになった時期である。 一 九 一 一 年 五 月 六 日 に 乾 は ア メ リ カ を 去 り、 イ ギ リ ス に 向 か っ た。 彼 は ま ず イ ギ リ ス の ワ イ ト 島 で 講 演 を 行 い、 六 月 に は エ デ ィ ン バ ラ で 開 か れ た 第 七 回 全 イ ギ リ ス 平 和 会 議( the Seventh National Peace Conference of Great Britain and Ireland 、六月一三日~一五日頃)に出席し、ま たスコットランドの諸市で講演を行った。ダンディーでは 『戦争の道徳的な害
The Moral Damage
of W ar 』 (1906) の 著 者 で あ る ウ ォ ル タ ー・ ウ ォ ル シ ュ( Walter Walsh, 1857-1931 ) 博 士 に も 会 っ ている。その後、乾とビードルはロンドンに向かい、六月二二日にはジョージ五世の戴冠式のパ レードを見ている。乾は戴冠式自体にはあまり興味をもっていなかったようだが、彼はこの歴史 的 に 稀 な 行 事 に 偶 然 出 会 わ せ た の を 機 会 に、 「 平 和 」 の 課 題 と 結 び つ け、 戴 冠 式 が 軍 事 的 な 誇 示 に過ぎないと指摘し非難している。 七月二六日から二九日にかけて、乾はロンドン大学で開かれた第一回万国人種会議に参加した。 この会議は人種問題を論議するために世界中から代表が送られ、アメリカ黒人初のハーバード大 学博士号取得者デュボイス ( W. E. B. Du Bois )、 シスター ・ ニヴェーディター ( Sister Nivedita 〈本 名、
Margaret Elizabeth Noble
〉) 、 また、 コスモポリタン ・ クラブのルイス ・ ロッチェナー( Louis P. Lochner ) な ど も 参 加 し て い る。 乾 は こ の 会 議 を「 僕 の 世 界 旅 行 の 中 で 一 番 重 要 」 な も の だ と 書いている。とくに彼は「世界人種の平等」についての科学的・学術的な論説に興味・共感を示
している。ところで乾はこの「平和についての世界旅行」についての小冊子 A Peace Tour Ar ound the W orld を、 ア メ リ カ 帰 国 後 一 九 一 四 年( 第 一 次 大 戦 前 ) に 五 大 湖 国 際 仲 裁 協 会 か ら 出 版 し て いるが、これは乾の世界旅行の過程だけでなく、彼の平和運動に関する役割や思想を示す貴重な 文献である。この小冊子の想定する対象読者がアメリカ人、特に五大湖国際仲裁協会、または他 地域の平和運動に関わる者だということは明確であるが、彼が世界情勢における日本の立場を説 明するだけではなく、世界中の平和運動に関する情報やアイディアを伝達するなど、真に国際的 な活動家として活躍していたことが分かる。 乾はこの万国人種会議に感銘を受け、後にカリフォルニアで活躍する際に、ここで学んだこと を度々引き合いに出すことになる。とくに全人類の同起源説、つまり諸人類の違いは環境の違い によるもので、どの人種も根本的な違いはなく、どの人種も限りない発展発達の可能性があると いうことである。 ところで、この会議には日本代表として東京女子師範学校(現・お茶の水女子 大学)の小林照朗、また国会議員の渡辺千冬と堀江覚治などの日本人(乾も含めて)八名が参加 しており、乾は通訳をしているが、この小冊子のなかでは何も言及していない。 乾 は し ば ら く イ ギ リ ス で 講 演 し た 後、 パ リ へ 行 き、 そ の 後 イ タ リ ア へ 向 か い、 国 際 平 和 会 議 ( International Peace Congress ) と 列 国 議 会 同 盟( Inter-Parliamentary Union ) に 参 加 す る 予 定 であったが、地中海でペストが流行し、トリポリでイタリア=トルコ戦争が始まり、両会議とも 中止となったために欧州を去ることになった。 このように乾とビードルの世界旅行は明確な予定 ・ 予算にしたがって実行された訳でなく、当時の平和運動の多様な動向にしたがって実施されたよ うに思われる。彼らは一旦イギリスへ戻り、グリムスビー港から四五トンの小さな蒸気船である
「真珠丸」に水夫として乗り込むことにした。一九一一年一二月二四日出発の長崎行きであった。 乾はこの小さな蒸気船に乗って日本へ向かった経験を「大洋横断」と題して、 『大阪朝日新聞』 に掲載している。この 「真珠丸」 は、 日本人所有のようであるが、 イギリス人の船長、 日本人水夫 「勇 君」 、フランス人とポーランド人の火夫、国籍不明の操舵手、機関士、料理人、黒猫の「ケテー」 に乾とビードルが水夫として加わったものだった。水夫の部屋として与えられたものは「幅二尺、 縦 四 尺 あ ま り の 板 の 仕 切 に ア ン ペ ラ[ 多 年 草 の ampela ( マ レ ー 語 ) で 編 ん だ 筵 ] を 敷 い た 空 所 があるこれが二人の安息所」という。小柄な乾にとっても大変狭いものだったという。 「真珠丸」 は小さいだけでなく、かなり古かったらしく、難破の可能性も高いので、経験のない乾とビード ルにとっては不安に満ちた旅であった。実際にグリムスビー港を出てまもなく、真冬の北海で暴 風に遭い、 「船扉を閉めろ」という命令に従い甲板に出るが、 経験のない彼らは溺死しそうになる。 「真珠丸」 は北海から南に向かい、 やがてフランス領であったアルジェリアに到着。 乾はアルジェ リ ア に つ い て は、 イ ス ラ ム 教 の 寺 院 と 貧 し い 人 の 多 い「 湿 り 気 の な い 美 し い 町 」 だ が、 「 別 に 面 白いとも思わなかった」と述べている。しかしながら、現地人の音楽隊について聞いた話は大変 面白いと思ったらしく、音楽隊由来の海賊の恋愛話を紹介している。アルジェリアではイタリア =トルコ戦争の影響で三日ほど遅れたが、食料や石炭を補給し、何週間後やっとマルタ島に到着 した。その間、ポーランド人の火夫の自殺未遂などの問題も起こった。乾はまた、イギリス人船 長が傲慢、乱暴であり、水夫や火夫への思いやりに欠け、契約以上の労働を強いり、食物も報酬 も 十 分 に 与 え な か っ た の で、 「 一 日 に 鶏 卵 三 箇 」 の 支 給 を 確 保 す る な ど の 交 渉 も し て い る。 の ち に乾が社会的にエリートと見なされるようになっても、労働者に対して同情的であったのは、こ
の 経 験 か ら も 来 て い る か ら だ ろ う。 ま た、 「 真 珠 丸 」 の 経 験 に 関 し て は、 諸 国 か ら の 船 員 が 国 籍 に関わらず一つの船の中で協力するという彼の平和思想の理想の象徴ともなった。このマルタを 出た後は、スエズ運河を渡り、イエメンにあるアデン(当時イギリス保護領)を経てスリランカ のコロンボ(イギリス領)へ向かったが、暗礁に乗り上げたり、インド洋では竜巻などの危険に 遭遇したが、香港を経て、一九一二年三月一六日に長崎に到着した。 乾はその後六ヶ月程日本に滞在し、東京、大阪、神戸等で何回か講演をしている。特筆すべき は、五月一八日東京神田のYMCAホールに於いて大日本平和協会主催の万国平和会議の記念日 に演説を行っていることである。 つまり、日本人でありながら、アメリカの平和協会のために活 躍していた乾は、大日本平和協会の関係者と関わることになる。これは、二〇世紀前半の平和運 動が実に国際的であったことを示している。 と こ ろ で、 日 本 に お け る 平 和 運 動 の 発 展 に 関 し て 言 え ば、 そ の 起 源 は 一 八 八 九 年 に イ ギ リ ス 人でキリスト教クエイカー派の平和論者であった、ウイリアム・ジョーンズ( Wiliam Jones )の 来 日 に あ る。 彼 は プ ロ イ セ ン = フ ラ ン ス 戦 争 の 悲 惨 残 酷 に 満 ち た 経 験 を 語 り、 日 本 で も 平 和 協 会を始めるよう促した。その結果、北村透谷と加藤万治が日本平和会を結成したことに求められ る。キリスト教信者であった彼らは、クエイカー派のイギリス人、ジョージ・ブレイスウェイト ( George Braithwaite )、 彼 の 義 兄 弟 の ア メ リ カ 人 医 師 ウ ィ リ ス ・ ノ ー ト ン ・ ホ イ ッ ト ニ ー ( Willis Norton Whitney )、 ア メ リ カ 人 ジ ョ セ フ ・ コ サ ン ド ( Joseph Cosand ) 等 に 協 力 す る こ と に な る。 日本平和会は、一八九二年三月から一八九三年五月にかけて、 『平和』を一二回発行しているが、 一八九四年に北村が自殺し、日清戦争勃発のため、自然消滅した。
一 九 〇 一 年 に は、 日 米 間 の 平 和 の た め に 活 躍 す る こ と に な る ア メ リ カ 人 ク エ イ カ ー 派 の ギ ル バ ー ト・ ボ ー ル ズ( Gilbert Bowles ) が 来 日 し た。 ボ ー ル ズ は 日 露 戦 争 期 に は、 キ リ ス ト 教 六 派 か ら な る 外 国 人 宣 教 師 を 中 心 と し た「 キ リ ス ト 友 の 会 Council of the Friends of Peace and Arbitration in Tokyo 」 を 東 京 で 結 成 し て い る が 、 日 本 人 を 中 心 と し た 平 和 協 会 の 必 要 性 を 感 じ 、 加 藤 万 治 や 江 原 素 六 を 勧 誘 し 「 大 日 本 平 和 協 会 」 を 日 露 戦 争 後 の 一 九 〇 六 年 に 結 成 さ せ て い る。 当時、 大日本平和協会は、 日本人が五十名、 外国人三十名という構成であった。 また、 ボー ル ズ は、 京 都 で 一 九 〇 八 年 頃 結 成 さ れ た「 東 洋 平 和 協 会 Oriental Peace Society 」 に も 関 わ っ て いたようである。 ところで、これと並行して、日露戦争期には、社会主義者の幸徳秋水や無教会派のキリスト教 信者であった内村鑑三等が反戦を論じているが、彼らは大日本平和協会には関わっていない。大 日本平和協会は、一九一〇年頃までに、大隈重信、渋沢栄一、阪谷芳郎等の著名人を迎え、権威 ある組織となっており、 一九一二年には、 その会員は五百六二人程であった。 また一九一一年には、 在 日 ア メ リ カ 人 有 志 か ら 成 る「 在 日 ア メ リ カ 平 和 協 会( APSJ )」 、 大 日 本 平 和 協 会 の 大 阪 支 部 も 結成されている。 つまり乾が一時帰国した一九一二年頃は、日米関係に関する平和運動の成長期 であったことが分かる。その背景には先述のアメリカ西海岸に於ける移住民問題と日米間の戦争 の噂があり、人種問題の解決は国際平和実現のために欠かせないものと見なされていたのである。 実に、大日本平和協会の会則の第一章第一条は「本会の目的は人種間及び国家間の関係をして親 密ならしめ且国際紛議が成る可く平和的手段を以て解決せらるる様に尽力して以て世界の平和を 保全し人類の幸福を増進するにあり」とある。ところで、一つ注意すべき点は「成る可く」平和
的な解決を目指しているが、絶対的に武力を否定しているわけではない。政治家の多くが参加し ていた大日本平和協会は、実際的には「武装的平和」を語り、 「平和的な」国際紛争解決は、 「文 明国」の象徴として見なされていた。いずれにしても、これは、コスモポリタン主義者の考えで あり、人種的誤解を解くことが自らの役目だと見ていた乾に強く共感するものがあったであろう。 乾は大日本平和協会で大隈重信、渋沢栄一、阪谷芳郎、ギルバート・ボールズ等と面会し、世界 平和の旅に関する小冊子の中で、アメリカ人に日本に於ける平和運動が活発であることを伝えて いる。実にアメリカを中心にして活躍した日本人の乾精末や、日本で活躍したアメリカ人のギル バート・ボールズの存在は、当時の平和運動が実に国際的であった事を物語っている。彼らは大 日本平和協会、アメリカ平和協会、在日アメリカ平和協会等世界の平和機関を結びつけていたの である。 ところで、一九一二年といえば日本の韓国併合の直後とでも言える時期であるが、乾もボール ズも特に問題視していない。乾に関して言えば、日本の立場を弁護し、英語で日本と韓国の関係 を説明している。 韓 国 は 日 本 に 併 合 さ れ る 以 前 に、 実 際 上 独 立 国 で あ っ た こ と は な い。 中 国 の 影 響 が な い 時 は ロ シ ア の 影 響 下 に あ っ た。 事 実 上、 韓 国 は[ 今 回 の ] 併 合 以 前、 二 度 日 本 の 領 地 と な っ た こ と も あ る。 そ の 結 果、 韓 国 の 人 び と は 政 府 を 信 用 せ ず、 い つ も 土 地 の 没 収 や 人 命 四 肢 の損失の恐れている。 韓 国 の 人 び と の 幸 福 感 を 計 量 す る こ と は で き な い が、 生 活 の 快 適 さ や 安 心 感、 学 術 的・ 道
徳 的 向 上 か ら み れ ば、 韓 国 の 人 び と は 早 々、 親 族 で あ る 日 本 人 の 支 持 の 下、 文 明 国 の 一 民 たる特権を享受するようになろう。 要するに、乾は日本の韓国併合を肯定的に取っているが、これは当時の日本人の感覚としては 普通であろう。数年後、大日本平和協会の会長であった大隈重信は総理大臣になり(第二次大隈 内 閣 )、 日 本 は 第 一 次 世 界 大 戦 に 参 戦、 一 九 一 五 年 に は 中 国 に 対 し て「 二 十 一 条 の 要 求 」 を 突 き 付けることになるが、それに関しては当時アメリカにいた乾はまた何も言っていない。 乾は一九一二年九月一五日頃、 明治天皇の葬式(九月一三 日 )の後、 日本を去りハワイに向かっ たようである。イギリス滞在中には、オーストラリアやニュージーランドを訪問することも考え ていたが、これは実現しなかった。ハワイで、乾は「誤解される平和思想」と題された講演を四 回ほど行なっており、ハワイで出版された『フレンズ』誌には、この講演の内容とみられる、乾 記述の「東洋と西洋は和解不可能なのか」をいう記事が記載されている。 これによると、乾は東 洋と西洋は基本的に相互補足補助する関係にあり、その交流は両文明に恩恵を与えるものとして いる。 初 め か ら 終 わ り ま で 何 事 も す べ て を 一 国 だ け で 完 結 で き る 国 は な い。 ど の 国 も 列 に 入 り [ 他 国 を ] 助 け、 [ 他 国 に ] 助 け ら れ て、 世 界 の 向 上 の ス パ イ ラ ル を 成 す の で あ る。 ま た、 世 界 の 向 上 は 振 り 子 の 動 き の よ う だ と 言 っ て も い い で あ ろ う か。 西 洋 は 振 り 子 を 東 洋 に 向 け て 押 し、 東 洋 は 西 洋 に 向 け て 押 し、 両 側 か ら 反 対 の 方 向 に 押 し 合 っ て い る が、 世 界 文 明 向 上
の振り子に貢献しているのである。 本 質 的 に、 乾 は 世 界 文 化 の 違 い よ り、 多 く の 類 似 を 見 た。 「 東 洋 と 西 洋 の 旅 で、 私 は い く つ か の 違 い を 見 つ け ま し た が、 結 果 的 に 最 大 の 違 い も 類 似 点 で し た 」。 東 洋 人 移 民 者 の と く に 多 い ハ ワイは、当に東洋と西洋の調和した社会だと見なされた。 東洋諸国のほとんどが西洋文明をある程度取り込み東洋文明と調和させているが、 おそらく ハ ワ イ は 諸 国 民 や 民 族 が 狭 い 土 地 に 平 和 的 に 調 和 的 に 共 存 し て い る 最 良 の 事 例 で あ ろ う。 ハ ワイは世界平和会議や万国人種会議[の理想]を実際に実現できることを示している。 一九一〇年のデータによると、 ハワイは当時、 日本人四一 ・ 五%、 中国人一一 ・ 三%、 韓国人二 ・ 四%、白人(ポルトガル系はその内の約半)二三%、ハワイ先住民二〇 ・ 一%、その他一 ・ 七%で あるように、東洋人が半数以上を占めていた。 つまり、日本人労働者の需要が高かったハワイの 状況は乾が次に向かう、カリフォルニアの状況とはかなり違うものであった。 Ⅳ 終わりにかえて この後、 乾は一九一三年から一九二三年まで、 カリフォルニアに在住し、 一九一五年にはミニー ( 千 代 子 ) と 結 婚 し、 在 米 日 本 人 会 の 代 表、 ま た エ ム ス・ ホ ー ル ズ・ ツ ー リ ス ト と い う 旅 行 会 社
の副社長、南カルフォルニア大学とオクシデンタル大学での講師等をしながら過ごしている。 その後ヨーロッパ経由で帰国し、一九二四年から一九三〇年頃は東京在住し、早稲田大学、東京 商 大( 現・ 一 橋 大 学 ) で 講 師 を 勤 め て い る。 一 九 三 一 年 に は、 著 書 The Unsolved Pr oblem of the Pacific で、 東 京 帝 国 大 学 か ら 法 学 博 士 が 授 与 さ れ た。 一 九 三 〇 年 頃 か ら 一 九 四 〇 年 頃 は 上 海 で 外 務 省 に 努 め て い る が、 一 九 三 七 年 の 大 半 は オ ー ス ト ラ リ ア で 過 ご し て い る。 一 九 四 〇 年 の サ ンフランシスコ・ゴールデンゲートでの万国博覧会のホストを務めるが、一九四一年一二月の日 米開戦後に帰国し、一九六七年に死去している。 徳島の貧しい農家出身の乾が、このような世界中を巡る国際人として活躍し得たのは、関西学 院での教育、特にウェンライト博士との出会いによる所が多いであろう。彼はここで英語やキリ スト教、また野球を学び、国際平和運動者の基盤となる教育を受け、ミシガン大学留学の道を拓 いた。留学時代に始めた演説を通しての平和活動は、日本の国際関係の関する見解を説明するも のであったが、国家神道ではなくキリスト教に基づいたもので、西洋人特にアメリカ人が共感で きるものであった。五大湖国際仲裁協会が彼を代表として世界旅行に送ったのは、彼の平和演説 家としての腕を物語るものである。更に、冒険好きであった彼は色々な面白い話を提供できた人 物だと思われる。 乾精末の青年時代の活動は、二十世紀前期の平和運動を研究する上で、貴重な一面を提供する。 列強各国の軍備の破壊力が増す中、国際調停仲裁運動が起こり、また、大学生の国際交流が盛ん になる中、コスモポリタン主義が起こったが、乾はこの両方に参加した。英語が堪能であった彼 は、色々な国の人と交り、国際的誤解が戦争の原因だとみなし、日本の立場を外国人に伝える事
を中心とした平和活動を行った。二十世紀前期の平和運動に関しては、まだまだ研究する余地が あるが、 乾精末はその中でもユニークな存在だと思われる。日本からアメリカ、 アメリカからヨー ロッパ、地中海インド洋を渡り、日本に一時帰国し、またアメリカへ向かった若き日の乾精末は、 まさに世界を跨ぐ平和演説家であった。 【注】 ( 1 ) Londa Inui Iwata, “East Meets West, ” in Buddy T. Iwata,
Portrait of One Nisei: His Family and F
rie nd s ( Modesto, CA: Ink Spot, 1986), p. 180. ロンダは乾精末の一人娘。一九一六年に生まれ、二〇〇三 年に死去している。日本名は精子。この
“East Meets West
” は、 彼女の両親、 乾精末と妻のミニー ( Minnie 日 本 名 は 千 代 子 ) の 話 で あ る。 た だ 記 憶 に も と づ い て 書 い て お り、 ま た 自 費 出 版 の た め、 校正がされていないためか、 かなり間違いがある。例えば、 彼女は関東と関西を何度も誤用している。 乾 精 末 の 生 年 月 日 に 関 し て は、 情 報 が 一 致 し な い。 関 西 学 院 の 米 田 満 宛 の 乾 の( 和 田 衣 子 代 筆 ) の 書 簡 に よ る と、 一 八 八 三 年 三 月 一 日 生 ま れ。 ミ シ ガ ン 大 学 に あ る 情 報 に よ る と、 一 八 八 四 年 三 月二三日生まれである。 Thomas C. Trueblood, ed.,
Honor Orations in the
Contests of the University of Michigan Oratorical Association, 3rd ed. ( Ann Arbor, MI: University Oratorical Association, 1906), pp. 178-179. ま た、 一 部 の 情 報 で は、 彼 を 神 戸 出 身 と し て い る が、 徳 島 の 撫 養 の 生 ま れ が 正 し い と 思 う。 と い う の は、 ミ シ ガ ン 大 学 に あ る 情 報 に よ れ ば、 彼 は ロ ン ダ を 連 れ て 撫 養 を 訪 問 し、 さ ら に 戦 後、 徳 島 代表として国会議員として立候補しているからである。 (2) Trueblood, ed., Honor Orations, p. 178. 英語では、基本的に受け身文を避ける。彼が一人ではなく、 一家で神戸に引っ越ししたのであれば、
“His family moved to Kobe.
”
(3) Iwata, “East Meets West, ” p. 181. 原文は Kiyosue was astounded by this. … : “How can I do this? What will my parents say? Will my grades be good enough? ” Dr. Wainwright laughed. … “We have spoken to your parents. They have no objection since they will not incur any expense. You will earn your room and board at our home by helping with the chores. Kanto [sic . Kwansei] is a Methodist school and they have told me they will give you a scholarship. … [Kiyosue] said, “I will
have to study hard and pass the entrance examination.
… ” (4) 『ウェンライト博士伝』教文館、一九四〇年、二四二~二四三頁。 (5) 『神戸栄光教会七十年史』 藤原商会、一九五八年、八〇頁。 (6) Iwata,
“East Meets West.
” (7)井上琢智、 高橋正、 比留井弘司「乾精末」 『関西学院史紀要』 一一号、 二〇〇五年、 二八九~二九九頁。 『 関 西 学 院 史 開 校 四 十 年 記 念 』 一 九 二 九 年、 四 一 頁。 『 関 西 学 院 野 球 部 百 年 史 』 一 九 九 九 年、 八 頁。 米 田 実『 関 西 学 院 ス ポ ー ツ 史 話 ~ 神 戸・ 原 田 の 森 篇 ~』 二 〇 〇 三 年、 三 七 ~ 三 八 頁。 米 田 実「 第 九 回 関 西 学 院 歴 史 サ ロ ン 関 西 学 院 ス ポ ー ツ 史 話 ~ 神 戸・ 原 田 の 森 篇 ~ を 書 き 終 え て 」『 関 西 学 院 史 紀要』第一〇号、二〇〇四年、一〇四~一〇八頁。 ( 8 ) Iwata, “East Meets West, ” p. 182. “Sue, you will be graduating soon and I can get you a scholarship at the University of Michigan where I was [sic. ] graduated. You can work your way, like you do here, for your room and board. Would you like to go to America? ” My father was
both thrilled and touched. He relied
“Dr. and Mrs. Wainwright. … My dream is to go to America. … ” ( 9) 『 ウ ェ ン ラ イ ト 博 士 伝 』 に よ れ ば、 乾 は ウ ェ ン ラ イ ト の 帰 米 に 同 行 し た と あ る( 二 四 四 頁 )。 ロ ン ダ は シ ア ト ル に 着 い た と 書 い て い る が、 ウ ェ ン ラ イ ト の い う サ ン フ ラ ン シ ス コ の 方 が 正 し い と 思 う。 今 の と こ ろ、 乾 と ウ ェ ン ラ イ ト の 名 は、 一 九 〇 二 年 の ア メ リ カ 着 の 船 の 乗 客 名 簿 に 見 つ け る こ と は
できていない。 ( 10) Iwata, p. 182. ( 11) Iwata, p. 183. ( 12) Henry Yoshitaka Katamura,
Four Japanese Immigrants Manga:
A Japanese Experience in San Francisco,
1904-1924 . Translated by Frederik. L. Schodt ( Berkeley, CA: Stone Bridge Press, 1999). これは ヘンリー・木山義喬の『漫画四人書生』の英訳。日本語の復刻版は新風書房、二〇一二年出版。 ( 13) “Review Table, ” Bismar ck ( North Dakota ) Daily T ribune ( 11 Apr., 1904); “Inui ’s Lectur e, ” The Owosso ( Michigan ) T imes ( 23 Sep., 1904). ( 14)
“Talk about Japan,
”
Evening Pr
ess
, Grand Rapids, Michigan
(
16 Dec., 1904).
(
15)
“Brightest Jap at the University,
” The Kalamazoo Gazette ( 18 Mar., 1905). ( 16) Trueblood, ed., Honor Orations, pp. 178-179. “He began his study of English at Kobe, Japan, tw o y ea rs before he came to America. But even after a year ’s residence here he found great difficulty with his p ro nu nc iat ion o f t he E ng lis h an d w ith th e co ns tru cti on o f h is se nt en ce s. B ut s o ra pid w as his progress that in his Junior year in a competition he won the right to represent his class in the annual Oratorical Contest. … Mr. Inui is small of stature but he has a strong, well-modulated voice, a pleasing manner and strong personality. His speaking is characterized by perfect directness and intense earnestness. He selects subjects of vital importance, in which he himself is personally interested and brings a stirring message to his audience which wins their sympathy
from his first words.
” ( 17) Inui Kiyo Sue, “Sick Man of Asia and His Doctors, ” in Trueblood, ed., Honor Orations , p. 177. “… Almighty God gave us a remedy, and that He chose us to administer it. Then let us give China the remedy that His only Son gave us. Then let America give her religion and let Japan give her
morals; let America send her missionaries and Japan teachers; let America show her democracy and Japan patriotism; let America furnish her a model school system and Japan a model military organization; let America offer her great machine and Japan skillful hands; let America introduce her railway system and Japan her marine system; let Americans teach the Chinese how to live well and the Japanese teach them how to die well; let the country of the setting sun show them the light of the stars and stripes and the empire of the rising sun the light of the sunshine flag
that together they may illuminate the dark eastern sky.
” ( 18) Trueblood, ed., Honor Orations , p. 173. こ れ は、 乾 の 講 演 の 筆 記 録 “Sick Man of Asia and His Doctors ” の直前に収録されている。 ( 19)「 日 本 の 進 歩 」 “Japanese Progress ” の 筆 記 録 は 現 存 し な い。 た だ、 一 九 〇 五 年 の シ ャ タ ク ワ の プ ロ グ ラ ム に は 彼 の “Sick Man of Asia and His Doctors ” と “Japanese Progress ” が 載 っ て い る。 The Chautauquan, vol. 41 ( 1905), p. 446. ( 20) こ の 地 方 七 大 学 演 説 コ ン テ ス ト の 参 加 校 は、 ミ シ ガ ン 大 学、 ウ ィ ス コ ン シ ン 大 学、 ミ ネ ソ タ 大 学、 シ カ ゴ 大 学、 オ ー ベ リ ン 大 学、 ノ ー ス ウ エ ス タ ン 大 学、 ア イ オ ア 州 大 学 で あ る。 “History of the Northern Oratorical League, ” in W
inning Speeches in the contest of the Northern Oratorical League,
edited by Thomas C. Trueblood ( New York, Cincinnati, and Chicago: American Book Company, 1909, 1916), p. ix. ( 21)「 ロ シ ア 熊 が『 た だ 蜂 の 巣 を ち ょ っ と つ つ い た だ け 』 と と ぼ け て い る が、 こ の 蜂 の 巣 は『 日 本 海 軍 の ク マ ン バ チ 』 と 呼 ば れ た 虎 の 子 の 魚 雷 艇 だ。 日 本 の 陸 海 戦 は あ た か も 蜂 が 攻 撃 す る よ う に す ば し こ く 大 規 模 に な さ れ た 」( Duluth News-T ribune, 1904, 金 容 権 著・ 石 和 静 訳『 風 刺 画 に み る 日 露 戦 争 』 彩流社、二〇一〇、 一七二―七三頁) 。 ( 22) Inui, “The Mission of New Japan, ” in W inning Speeches p. 207. 原文は、 “The Russo-Japanese War
was a conflict of the principles of two nations; the closed-door versus the open door; conservatism
versus progress; absolutism versus freedom; bureaucracy versus
constitutionalism.
”
(
23)
Inui,
“The Mission of New Japan,
” in W inning Speeches, pp. 203-208. ( 24) Inui, “The Mission of New Japan, ” in W inning Speeches , p. 206. 原文は、 “Japan to-day has come as a new working power into the old world. She it is that has given old China new life and security and the desire for Western civilization. Thank God, China is awakening. The great patient of the
East has opened his eyes, longing for the civilization of the t
wentieth century. ” ( 25) Inui, “The Mission of New Japan, ” in W inning Speeches , pp. 206-207. 原文は、 “Let us go there with an unselfish motive, not to take any territory from China, but to give her modern civilization and ideals. Then and then only China with her great natural resources and her industrious people will become the United States of the East, as Japan has become the England of the Pacific. And
all the nations of the earth will have one ideal and one civili
zation.
”
(
26)
A. S. Kirkjian,
“History of the Michigan Cosmopolitan Club,
” The Cosmopolitan Annual, vol. 2 ( 1908): p. 18. ( 27) University of Michigan, Michiganensian Yearbook ( Ann Arbor, MI, 1906), p. 273. https://quod.lib. umich.edu/m/moa/AAG4364.1906.001/277?rgn=full+text;view=image ( 28) The Michigan Alumnus, vol. 13, p. 118 ( Nov., 1906 ) : p. 49. ( 29) Abraham P. Pilides,
“Report of the Michigan Chapter,
” The Cosmopolitan Annual ( 1909): pp. 45-47. ( 30) Pr
oceedings of the Second National Peace Congr
ess, Chicago, May 2 to 5
, 1909, p. 478.
(
31)
Inui,
“Are We Chasing a Rainbow,
” The Cosmopolitan Annual ( 1909): pp. 94-96. ( 32) “The Japanese Orator: Inui Kiyo Sue. ” と 題 さ れ た 、 広 告 用 の パ ン フ レ ッ ト は 、 Io wa Digital Library のサイトで見られる。 https://islandora.lib.uiowa.edu/islandora/object/ui%3Atc_46536_ 46532
( 33) “A Japanese Canoeist, ” For est and Str eam:
A Journal of Outdoor Life, T
ravel, Natur e Study , Shooting, Fishing, Yachting ( 1 Jan., 1910), p. 26. ( 34) ア メ リ カ 平 和 協 会 の 出 版 物 Advocate of Peace の 一 九 〇 九 年 七 月 か ら 一 九 一 四 年 の 三 月 付 け に 乾 の 名 は「 国 際 仲 裁 平 和 演 説 局 」 の 一 員 と し て 載 っ て い る。 ま た 一 九 一 二 年 発 行 の Julius Moritzen の 本、 The Peace Movement of America に は 乾 の 一 九 一 一 年 ~ 一 九 一 二 年 の 世 界 平 和 旅 行 の 前 に、 ア メ リ カ 平 和 協 会 の 為 に ア メ リ か を 旅 し た と 書 い て あ る。 Julius Moritzen ’s book, The Peace Movement of America (
New York and London: G. P. Putanm
’s Sons, 1912), pp. 372-373. ( 35) Lyceumite and T alent ( Nov., 1909), p. 39. ( 36)
“Young Japanese Makes Long Canoe Trip,
” Salt Lake T elegram 12 Jan., 1910. ( 37) “Plucky Japanese Completes Journey to Mississippi Mouth,
” The Daily Picayune, New Orleans
( 29 Dec., 1909), p. 12; “Canoe Trip Down the Mississippi, ” For est and Str eam:
A Journal of Outdoor Life, T
ravel, Natur e Study , Shooting, Fishing, Y achting ( 15 Jan., 1910), p. 106; “Down the Mississippi in a Canoe, ” For est and St ream: A Journal of Out door Li fe , T rav el, Nat ur e St udy , Shoot ing, F ishi ng, Y achti ng ( 8 Jan., 1910), p. 66. ( 38)『 日 米 新 聞 』( サ ン フ ラ ン シ ス コ ) 一 九 一 二 年 一 〇 月 一 一 日、 十 二 日。 『 日 布 時 事 』( ホ ノ ル ル ) 一九一二年一〇月十八日。 ( 39) Masuda Hajimu, “Rumors of War: Immigration Disputes and the Social Construction of American-Japanese Relations, 1905-1913, ” Diplomatic History , vol. 33, no. 1 ( Jan., 2009), p. 23. ( 40) “Says Japan is For Peace: Kiyo S. Inui Addresses Young Men ’s Congregational Club, ” The Boston Herald ( 21 Feb., 1911). “The goal of civilization should be marked not with blood, but with peace;
not with misunderstanding , but with frank understanding; not w
ith fear, but with Christian love.
” ( 41) Inui Kiyo Sue and George W. Beadle, A Peace T our Ar ound the W orld ( D et rio t: G reat Lakes