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律令制時代の計画経済

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Academic year: 2021

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(1)Title. 律令制時代の計画経済. Author(s). 石沢, 澈. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 20(2): 1-13. Issue Date. 1970-01. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4358. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 20 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和45年1月. 律令制時代の計画経済 石. 津. 撒. 北海道教育大学旭川分校史学研究室. Toru .8日[ZA、 VA .. The P1 anned Econonly on the Ancient‐Constitutional System’ i t s Age (R suryo-System) ‐. 日 l. 序. 口 大化改新の一般的性格 皿 大化改新の経済学的性格 N 計画経済の実施の状況 1 計画経済の一連としての市場の経営 2 計画経済の一連としての外国貿易 3 学術・文芸・高級工芸品製作等の官営 主義による育成と経営-工人文化- 4 交通・運輸について. エ. 次 5 農業の計画経済 V 大化改新の計画経済の, 真の歴史的意義 は何処にあったか, 1 大化改新の真の歴史的意義 2 ・ 修正主義者 長屋王らの没落 W 経済的行詰りの打開策 皿 班田制は総体奴隷制か 皿 結び. 序. 私がここで問題とするのは, 大化改新に始まる律令制時代の経済学である, これまでの日本経 済史の研究は, 専らに, 詳細なる歴史的記述を主としているが, 経済史の研究が経済学の一分野 であるとの自覚を失っているために, 経済史研究が経済学の中で, 無用視される傾向にあること ) ま た W, Stark がいうように2 ) は 遺 憾 で あ る と 思 う し1 , , , 各時代には, それぞれの時代の経済 法 則 が 作用 し て い ると い う こ と を 認 識 し て い な い の は 間 違 っ て い る と 思 う,. アダム・スミス以来の古典経済学は, 自由な市場経済の発達した時代の, 近代社会の経済法則 を明らかにせんとしたものであるが, 同様に, 中世社会には中世社会の経済法則があり, 古代社 会には, 古代社会の経済法則がある, その際に, 中世は農奴制であり, 古代は奴隷制であるとい うことの論証は, 丁度, 近代社会の労働運動史の研究のようなもので, それぞれの時代の, 経済 活動の一側面を語るものであっ ても, その時代の主要な経済法則を語るものではないと考え られ る.. この論文は, それぞれの時代の主要な経済法則を究明す るのが目的であるから, 何か当時の事 件で, 人の知らない事件の詳細な記述をせんと志しているものではなく, それらの経済事実の中 か ら, 経済法則を抽象し, 組織だてるのを目的とするものである. 口. 大化改新の一般的性格. 大化改新という大事業は, 日本の歴史上, 大事業であり, 大変革の一つであっ て, 前時代との.

(3) . 石. 津. 激. 間 に, 非連 続 性 の 点 を も っ て い る こ と は い う ま で も な い が, 一 般 に み と め ら れ て い る ほ ど に は,. 非連続的ではなくて, 連続性をもっていることについて, 二・ ニ のべてみたい. 1 , 部制度の行詰り 大化改新は, 第一には, 唐の制度にならっ て行なわれた大改革ではある が, これまでにみられ なかったような, 歴史を断絶するような, すべ てに新しい文化的・社会 的改革というほどのもの ではなかっ た, すでに早くより, 麦那・朝鮮の文化を輸入していたのであり, ことに聖徳太子の . その文化の移植の必要が痛感されていた 太子の仏教 頃からは, 遣階便の派遣などに よっ ても, , 文化主義からも, ことにその必要 が感ぜられた, 太子の自主外交政策からも, 中国の高級文化に 等しいものを, 自国生産する必要にせまられていた, これまでの文化移植の方法は, 新しい文化や技術が輸入される と, その技術 の伝承と維 持のた めに, 新しい職掌的な, 半工半農的な部が, 次から次へと設置された. 部制度は, 朝鮮の各国で 設置されていた制度であるが, わが国の部制度は, 百済の制度に最もよく似 ていたようである, この制度が設け始められたのは, 崇神・垂仁朝の頃からであると思われるが, 詳論は省略する, 津田左右吉氏の忌部氏の研究や, 石母田正氏の土師氏の研究によっ ても明らかなように, 乱暴な 表い方であるが, 半工半農的なものであっ て, 非能率的なものであり, かつ, 全く統一のないも のであっ た, たとえば, 崇神・垂仁朝に, すでにいろいろの技術 がつたえ られ, その職掌的な部 が設けられたが, たとえば, 野見宿禰は, 土部 (ハニ シ) の職 に任ぜられ, いにしきの命の支配 下には, 倭女部 (シ ドリベ) などの十箇の職掌的 な部が設置されたとある が, 雄略朝には, 新た な帰化人の来朝によっ て, 新技術と文化が伝えられ, それを新漢人 (イ マキノ アヤヒ ト) と称し て, 陶部・ 鞍部・画部.訳語 (オサ) 錦部などを設置したとある, すでに土部があるのに, 新た に陶部が 設けられ, 先に倭女部 があるのに, 新たに錦部が設けられている, このような方法で, つぎからつぎに設置されたので, 全く統一のないものであっ た. 学問や広く文字を読み書く方面の部制には, 応神天皇の御代に, 大和には漢 人阿知使主の子孫 と称するものが史部として在居し, 河内には韓人王仁の子孫と称するものが文部として在居して いた. その後, 継体朝には, 大和政府は, 南鮮の日本府の基地 (任那のうちの四県) と交換で, 百済の五経博士を迎えて, 学問と文化の刷新をはかっ た, 欽明朝には, 政府は百済王に, 医博士 ・易 博士・暦博士を, 交 代で献るように請い, ト書・暦本・種々の薬物を送る ように求めたので 百済よりは, 五経博士, 僧侶九人・易博士・ 暦博士・医博士・採薬師・楽人を貢した. このよう になっ てくると, これまでのような職掌的な部民制の設置という方法では, 女日何にうまく活用 し ても, 応接しきれなくなっ てきた, 実際に, 部制の設置とい う方法では, 時代の経過と共に, 役 にたたないものとなっ てきた証拠に, 敏達朝に, 高麗 の使者が来朝した際に, 高麗の表疏を, 諾 々 の 史 (フ ビ ト) を 集 め て 読 み と か し め ん と し た る も, 三 日 を 要 し て も, 誰 一 人 と し て, 読 み と. くことができなかっ たが, 船史の祖王辰爾一人がよみえたので, 天皇は王辰 繭を称して, 大和・ 河内の史た ちを戒告して,、「汝等 が習へる業 何の故にかも就らざる, 汝等 衆しといえども, 辰 爾に及かず」 (日本書紀・敏達紀・原漢文) と諭された. すでに文部・史部らが役にたたなくな っ ていたことを物語るものである, 輪番制や農業の片手間に, 技術をみ がき, 技術を維持してゆ くような部民制では, 進歩した大陸 の文化を摂取してゆく のには間にあわなくなっていた, こと に敏達朝には, 百済王は仏教の経論や専門的な学僧や, 児禁師, 造仏工, 造寺工のような, 一段 と進んだ仏教文化の指導者を貢上した. さ らに, 崇峻朝には, 百済は, 僧侶と仏 舎利を貢り, 寺 工, 鐘盤博士, 瓦博士, 画工を, 即ち, 仏教文化に関係する工人・博士たちを貢したので, これ - 2 -.

(4) . 律令 制時 代の計 画経 済 らの工人たちを, 如何なる形で維持し, 保護してゆくかは, 重大な問題であっ た. ことに, 聖徳 太子が, 仏教回教主義の方針を明らかにされて からは, 一層, 重要な課題となってきた, 部制の 下に, 部民によって技術の維持, 文化の保存のできるような時代ではなくなってきていた. 新し い文化と文物の指導者・技術者を, 新しい官制の下に, 組織化し, 重用するということが当面の 問題となってきた, それ故に, 大化改新で, 法式備わる大唐の律令官制に倣わんとする気運がた かまり, やがて新しい中央集権的な官司制を整え, 新しい工人 (技術者) を, その中に位置 づけ たのである. それ故に, 文化の生産者の側よりみれば, 大化改新前は, 「部民の文化」 といえば 大化改新後は, 「工人の文化」 ともいう べ きものである, かくの如く, 技術人, 芸能人, 学者ら す べてのものを, 中央官庁の配下におき, 地方には, 古来より勢力をもっ た国造らを, 郡司級の 官人として採用 した, また, 財政的にも, 基礎のたしかな制度とせんために, 班田制度が実施さ れた, 2 , 改新諸制度の過去との歴史的連続性 第二には, 部民制による私地私民主 義を, 公地公民主義に改めたのは, 大変革ではあるが, 甚 だ困難な大事業をなしとげたようにも思われるが, 伴造らは大和朝廷の中で, その地位をえ, 土 地人民を管していたのであっ たから, 中央官制に改革されても, その中で, 従来の収入と見合う だけの, 地位相当の職給を与えられるものであるから, 反対する理由も少なく, この改革で, 中 央貴族の権力が社会的に強化されるのであるから, 反対する理由はなか った, 国造たちは, その 昔, 村君主が大和朝廷に服属したものの子孫であるから, 反対するほ どの力もなかっ た, また, 伴造・国造の下にあっ た農民層は, 零細であり,(班給されていたのだという人もある) , て たからとい 少しも反抗する理 国有主義にな たのであるから 農民はほとんどなか 富有 っ , っ っ , 由はなかっ た. ソ連が革命によって, 土地国有とし, 国営農場や集団農場に改革しえたのは, オ ) e が, 「経済史入門」 にて語るように3 ッ ク ス フ ォ ー ド大 学 経 済 学 教 授, G・H・Col , 革命前の 農民が, 貴族大地主の下 の, 農奴階級的存在であっ たから, 貴族に代っ て, 国が支配者・所有者 となっ たからといって, 私有権の剥奪の如きものではなか ったから, あまり抵抗なしに行なわれ たのだと説明しているのと同じところがある, それ故に, ブぐ化改新で, 公地公民主義の計画経済 ) を実施しえたのは, 改新前の歴史状態との連続性をも注目する必要 がある4 , 3 .. 国 情 へ の適 合. 第三には, すでにのべ られているように, 唐の制度に摸しつつ も, わが国情に合わせて採用さ れたということで ある. 支那の制度が, 屋上屋をかさねる, 形式化した歴史的諸制度であるのを わが国に採用 するにあたって, 簡略に, 要点的に, 二官八省という要点にしぼって採用している が, このことは, 日本文化の特性の一つでもある。 日本は外国の文化を輸入するときに, その粋 を要領よく採用する, しかし, つねに外国の文化のすぐれたものの採用で, 文化の断続性の歴史 と な る,. 4 , 普遍妥当な国家の形成 第四に, 大化改新の政治史的意 義は, トイ ソ ビーが唐帝国について, のべているように, 国造 領を支配している国造を統治下におくという古い種族国家を脱皮して, 普遍的・公法的な世界国 家を成立せしめたということである. 律令制度という一応, 合法的な法と制度の下に行なわれる ~ヒ条憲法の精神で 1 国家となったことであっ て, 普遍妥当な国家形成という意識は, 聖徳太子の‐ もあった, また, この理念は, 後世にいたるまで, 永く影響し, 建武中興や, 明治維新の際に, 理想となっ てあらわれてくる. - 3 -.

(5) . 石. m. 津. 撒. 大化改新の経済学的性格. 第一に, ソ連の経済が, 土地や自然資源・生産工業・交通運輸・ 銀行などの, す べての産業を 国有にし, 人的資源を計画的 に働かせる計画経済であるとするならば, 大化改新は, 同じく, 土 地人民の公有主義であり, 土地も, 自然資源も, 工業生産も, 交通運輸も, 学問, 文芸も, 国営 で行なうのであり, その上に, 支配階級はみな官僚となり, 給与制度にしたのであるから, ソ連 ・ の場合と同 じように, 計画経済であ るということが できる. 第二に, ソ連の中央集権主義的共産主義に似て, 中央集権的計画経済であっ た. 第三に, ソ連では, その理念は, 共産主義で表わしているが, それに比して, 大化改新の理念 は, 儒教的仁政思想による民衆の教化・社会秩序の確立・民生の安定をはかるにあっ た, しかし ソ連の革命でも, 大化の改新でも, その歴史の発展の真の動因は, 何であっ たかは後に問うこと に し よ う.. r 計画経済の実施の状況 n ) 1 , 計画経済の一連としての市場の経営5 計画経済であ ったから, 市場も, 都には東西の市が官設され, 官庁の監督の下にあった 関市 . 令によって, こまかく規定されていたが, 開市の時刻は正午から日没までというよう に, 市場の 開閉から, その秩序や場内の静説にいたるまで, す べて官の任務であ ったが, 物品の価格までも 市ノ 司としての価長があって決定した, 令義解巻九・関市令第廿七 凡市恒以二午時ー集, 日入前, 撃ご鼓三度-散. 凡市, 毎し嘩 立し標題二行名- (絹蜂 布粋之類 也) 市司, 准二貨物時価-為二三等- (物に上中下の三品あり, その価値は, 物別に, 上中下三等 あり, 九等の活価となる, 中活価に准ぜよ, とある.) 十日為二一薄-在し市案記.季別各申二本司-凡除ニ官市買-者, 皆就し市交易. 不し得下坐召二物主 「 罪下 達 時価上 価-不し得二懸違- , 不し論二官私-交付二其・ . 職員令には, その職務が規定されてい る. 財貨交易, 器物の真偽, 度量の軽 重の非違をと りし ま る に あ る.. 令義解・職員令 束市司, 西市司, 准し此, 正一人, 掌下財貨交易, 器物真偽, 度量軽重, 禁二察非違一事上 . 1ソ\ 直丁一人 佑一人, 令史一人, 価長五人, 物部廿人, 使謂ト , . 価格決定の法は, 俗にいうナカ ヅミの法 (中佑) といって, 価長は, 物品を上FF下の三等級に 分け, さ らに各等級の商品の相場を, 上中下に定めて, その中値段によ って価格とする法であっ た, 価長は, 売買の佑価, 器物の真偽, 度量の軽重な どを検察し, 市塵の非逮を禁めた. 各省に ) は, 価長がいて, 臨時の買上げ品の価格もきめた6 , 政府が物品の時価をきめるのであるから, 市場外での, 時価の値段での売買を禁 じた. 藤原宮時代には, 都城では, 東西の市が開かれ, 地 方では国司庁の所在地などに市 が たてられたが, 地方の主要な交易は, 民間のものではなく, 宮 ) 交 易 で あ っ た7 .. 当時の市場は, 今日の市場とは異 って, 物資の交換や, 売買によ っ て, その過不及を調節し, 需給を円滑にすることの外に, 人為的に価格を平準にする機関でもあっ た. 米やその他の物品が - 4 -.

(6) . 律令制時 代の計 画経 済 高値のときは, 政府は, その物品を市場に売出して, 物品の引下げをはかっ た. 続日本紀天平神護元年四月 の条には, 米の価格が騰貴したので, 政府米を東西の市で販売 して 下げた例がある, 天平神護元年夏四月 丁丑, 左右京穀各一千石. 羅二於東西市- . 以二米価鰯費-也, 限界数用説の成立するのは, 自由市場においてであって, 官司が価格を定め, 官主体の交易で は成立しない, 計画経済の下では, 果して市場は必要 であるかという問題が提起される が, それ に つ い て, ス タ ー リ ン は, ソ ヴイ エ ト世 界 と て も, 自 然 法 則 に は 従 わ ね ば な ら ぬ と 考 え て い た,. 市場なしでは, 消費者の意欲のあるところ, また適正価格の標準を困難とするからだとい ったと ) エ ミ ー ル ・ ジ ャ ム は, 「経 済 思 想 史」 (下, 547頁) に の べ て い る8 ,. 2 . 計画経済の一連としての外国貿易 外国貿易についても, 計画経済で官営貿易主義であるから, 民間のために行なわれ るものでは なくて, 朝廷及び政府の計画的需要をみたし, 残余があれば, 私人として交易す るをみとめた, 中国では禁物は朝貢国に対して, 朝廷から賜わるものであっ て, 徒らに国外に出ずるを禁じてい た. 我国でも, こ の例にならって, 関市令の貿易についての私貿易の禁止令に 「凡そ禁物は も , ちて境を出ることをえざれ, 若し蕃客入朝 せむは, 別勅に賜へらば, もちて境を出ることをゆる さん」(原漢文)と. 倭の五主時代以来, 即ち, 日本が支郡に朝貢したとき以来 の伝統であっ て, 倭王の朝貢品に対して, 唐朝 廷では, それに見合う以上のものを, 返礼として, 高級工芸品 を賜 わった, これらの高級工芸品は, 支那では, かなり後世まで, 禁物と称して, 宮廷の工 房でのみ 製作され, 民間での製作はみとめられなかっ たし, 販売も許可なしでは禁じられていた, 後進国 で, それを支郡の朝廷からえられるものは, 朝貢国の王のみであっ た, 貿易といっ ても, 贈答の 形式で行なわれていた. 日本の禁物の貿易も, 同じ様式で行なわれていたと思われる 大宝令に . よれば, 当時の貿易は全く官司の行なうところで, 私人は容易に外客に近 づくことをゆ るされな かっ た. また, その地位を利用して, 私貿易を営むことも禁ぜられていた, 当時, 外国貿易品の価格の決定には苦労したと思われることが, 時代は翻るが, 日本書紀の斉 明紀五年の条にある. 高麗使節が, 熊の皮一枚を, 日本の綿六十斤と交換 せんといっ たのを, 市 ノ司は相手にせず, そ の使節を高麗画師麻呂が私宅に招いて, 官の熊の皮七十枚 を借りてきて, 客人にみせて, 日本では罷の皮は珍しくないほど沢山にあることを示して, その交換価 格の高す ぎることを示した例がある, 当時の貿易は, 全く, 今日の共産圏諸国との貿易関 係と似たものが あ る,. 3 . 学術・文芸・高級工芸品製作等の官営主義による育成と経営--工人文化-- 大化改新前には, 職掌的な部制によって, 新しい技術の導入と維持, 高級工芸 品の製作や, 学 芸の保存につとめてきたのであるが, このような非能率的な方法を改めて, 律令制政府は, 社会 主義国と同じく, 学術・文芸・高級工芸品製作等を, 国営主義で営んだ, 高級な織物製品や調度 類, また, 平城京にみる貴族や寺院の建築などの, 高度の土木建築技術は, 中央官庁の工房や , 造寺司の工房で働く工芸技術者, つまり, 工人階級によって製作されたものである, ) たとえば, 大蔵省は, 諸国の調物の出納を掌り, 伎工及び度量・佑価を知る9 . その所管の官 庁には, 典鋳司, 掃部司, 漆部司, 縫部司, 織部司などがあっ て, それぞれ専門の工 人を擁して いた, たとえば, 織部司には, 技術者の挑女師 (アヤ ドリシ) ・挑女生があり, その指導のもと で, 数百戸にのぼる品部が交替で上番し, または, 在地にあって, 錦・綾を生産している. 工房 o ・用具・原料は, す べて国有であり, 在地の織機も, 官からあたえられたらしいi ) , 地方の国 街 - 5 -.

(7) . 石. 樫. 撒. でも, それに準じて行なわれた, 宮内省には, 木工寮があり, 工部廿人がいたが, これらの工人 階級を組織化し, 制度化して, 白鳳・天平の文化 が生まれたのである. 4.. 交 通 ・ 運 輸 に つ い てu). 交通・運輸制度は, 全国的に整備せんとして計画されてはいたが, それも官吏の使用 のためで あっ て, 一般人の旅行は, 餓死を 覚悟でなければできなかっ た, 駅馬の乗用 諸道には, 三十里毎に (一里は六町) , 駅を原則として置いたのであり, 駅家には, 具や, 蓑・笠などを備えさせた, 駅長・駅子が任命された, この駅には, 駅馬が常備されたが, その外に, 伝馬も, 官使 の便に備えておいた. 要路の渡には, 水駅がおかれて, 船を常備し, 船 頭が任ぜられた, その外に, 関所を整備した. しかし, この駅伝馬の制は, 先にもいっ たように 官吏の使用のため であっ た. 5 . 農業の計画経済 計画経済としての, 農業政策は, 班田収授の法, 口分田制度が実施された, 土地制度に対する 官僚的な統一的直轄支配である. 班田収授の土地制度では, 薩摩・大隅地方は, おくれてはいた ) 2 が, ほとん ど諸国に, 籍帳があって, 実施されたものとみられる, 政府は勧農政策として1 , 大 宝令には, 国司の重要な任務の一つに, 勧課農桑のことをあ げ, 郡司にして, 農業を勧めて功績 顕著なるものは, これを朝廷は褒挙表彰した. 国郡司は, 農民に, 麦禾を植えさせ, 養蚕を奨励 し, 漆を植えさせ, 池溝を修理 し, 堤防を修築したりするのも, そ の任であっ た. 中央政府自身 も, 大規模な瀧澱や治水工事や技術 の指導によっ て, 農業生産力の向上をはか っ たりもした. ま た, 各戸に, 鍬・鎌などを頒布したこともある. 続日本紀・養老七年二月 の条に, 「朕京城ヲ巡り, 遥カニ郊野ヲ望メ ハ, 芳春ノ仲月, 草木滋 々栄ェ, 東候姶テ啓ケテ, 丁収瞳敏ノ 勉ニ就キ, 時雨漸クウルホヒテ, 塾姦浴濯ノ悦有り, 何ソ ゾ寛仁ヲ流テ以 、テ懲元 ヲ安ソジ, 淳化ヲ布テ, 万物ヲ済ハザラソヤ, 冨ク戸 頭ノ百姓二種子各二 鰯, 布一常, 整一口ヲ給ヒ, 農蚕ノ 家ラ シテ永ク業ヲ失ヒ, 官学ノ徒ラ シテ専ラ私ヲ忘ルル無ラ 令メ ョ」(原漢文) , 或は, 人民にして, 緋転に勉励し, 財を蓄積したものは, 力田者として表彰もした. 中共やソ 3 ) 連で, 労働英雄を表彰するように1 , 行なわれた. 計画経済の下で, 生産をあげるのには, 私欲 の刺戟にはたよれない ので, 特にこのような奨励が必要 であっ た, こ の よ う に み て く る と, ソ 連 の レー ニ ンや ス タ ー リ ン が, 労 農 政 府 と 称 し て, 農 業 政 策 を す て. ていたのではな かっ たように, 律令政府は農業振興に意を用いないではなかっ た. しかし, 農民 の負担は, 租・庸・調の外に, 難儀があっ て, 農民の生活は貧窮化し, 相ついで起こっ た飢鐘な どもあって, 家をすてて 土地をはなれ, 逃亡するものが続出してく る, このような七世紀以来の 状況に対する積極的な 打開策として, 慶雲の修正が行なわれて, 農民の負担軽減が計 られたが, それでも農民の負担は重かった. 続日本紀・慶雲三年二月の令制の修正, 佳スルニ, 京及ヒ畿内ノ 人身調ヲ輸サハ, (諸国二於テ 「叉, 七条ノ 事ヲ制ス, (中略) 令二7 ハ 半 ヲ 減 ス) 宜 ク 入 身 ノ 布 ラ ヤメ, 戸 別ノ 調 ヲ 輸 ス ベ シ. 乃 チタト邦ノ 民 二 異 ニ シテ, 以 テ 内 国ノ ロ ラ 優 ニ ス. 調 ヲ 輪 スノ 式 ハ, 一 戸 ノ 丁 二 依 テ, 四 等 ノ 戸 ヲ 制 シ, 調 ヲ 輸 ス 多 少 ハ, 余ノ 条 例 ヲ. 議作セョ (其四) . 反ム. 当二歳役ノ 庸ヲ軽メ, 人民ノ乏ヲ息〆 ソ ト欲 ス. 並 二 宜 正丁ノ ・歳ノ 役二庸布二丈六尺ラー ク 半 ヲ 減 ス ベ シ, ソノ 太 宰ノ 所 部 ハ, 皆 庸 ヲ 収 ム ルコ トラ 免 ス. 若 シ公 作ノ 役, 傭 カ ニ 足 ラ ズ ソ ー 6 ー.

(8) . 律令制時代の計画経済 ハ, 商量 シテ安穏ノ条例ヲ作テ永ク法式 ト為セョ (其五)(原漢文) , 律令政府は, 農業振興や奨励はしたが, 農業改善や開拓のため, また, 農民生活の向上のため に投資はしなかっ た. ソ連の重化学工業振興五ヵ年計画のように, 律令政府の投資の重点は, 制 度の整備と文化の興隆とに つと めたのである, 1 4 ) 6 . 銭貨の鋳造と流通の奨励 律令政府は, 全国統一貨幣として, 鋳銭のことを行ない, これが流通を奨励したが, なかなか 流通しなかっ た. それは, 唐制度の模倣にす ぎなかったからで, 自然に発生したものでな かっ た からだというものが多い. しかし, 根本的には, 全国的計画経済の達成のためには, 中央官庁を はじめ, 地方国橋の庁の, 交易を円滑にするのに, 貨幣の流通の必要性を感じていたものであろ う三 だが, 民間の便をはかる交通・運輸は発達せず, 社会的分業の進んでいない社 会, 即ち, 自 給経済の社会では, 官庁の交易 以外には, 不用であったので, 貨幣は流通しなかっ た. 鋳銭の確実な記録では, 天武天皇十二年の詔に, 自今以後, 銅銭を用い, 銀銭を用いる勿れと あり, 持統天皇八年と文武天皇三年に鋳銭司がおかれたとある,現物は存しないので不 明である, 和銅元年になり, 催鋳銭司がおかれて, 五月 には銀銭を, 七月 には銅銭を鋳せしめている, これ が和銅開珠 である. 和銅二年八月には銀銭を廃して, 銅銭のみとした, その後, 天徳二年まで, 十二種の銅銭が鋳造された, かくの如く貨幣の鋳造という大事業をやっ たが, 流通の状況がよくなかった. 流通のよくなか っ た理由の一つには, 和銅四年に, 「穀六升を以て, 銭一文に当て, 百姓をして交関して其利を 得せしむ」 とあるが, 銭が高すぎて, 自然の交換の媒介として生 じた価格ではなかっ た, つまり 銅そのものの商品的価値とあまりにかけはなれて高すぎた。 今日のような信用経済 の時代になれ ば, 紙幣でも通用するが, 当時は, そのような時代ではなかっ た, 換言すれば, 政府は鋳銭の利 を多くとりすぎていた, また, 新銭改鋳のたびに, 旧銭十女に, 新銭一文をあてて, 交換せしめ たということも, 即ち, 新銭と旧銭とは実質価値では, 甚しき差等なく, むしろ, 後には新銭は 旧銭に劣る位であったのに, かくの如く十倍で交換せしめたとい うことは, 内田銀蔵博士 のいう 然れど 5 ) ように1 , 「銭貨改鋳を以て, 財政上, 多額の収益を得る方便と 為さんと計りたる なり. 甚だ不備で も, この事たる常に失敗に帰したり」 という如くで, 近代の貨幣制からみるときは, あっ て, 多くの混乱を惹起せしめた, 政府は貨幣を鋳造したからには, 之を流通せしめようと努力した. 和銅四年に, 蓄銭者 叙位の ことが定められ, 官吏の禄を銭で与えたり, 和銅六年には, 田地売買を銭をもってなさしめたり 行旅人には銭をもたせ, 路に米を売らしめたりしたが, 流通は甚だ困難であった, 当代は, 一般 的には, 自足経済の支配的な時代であっ たから, 貨幣 の使用は, 律令国家の計画経済の一貫とし て, 故意に, 強制的に発案されたものであっ たので, 律令国家の頗廃に応じて, 貨幣制も消 滅し ていっ た, 後に, 鎌倉時代には, 宋銭が輸入され, 次第に流通しだしたが, 朝廷も, 幕府も, こ れを 「銭の病」 として止めんとしたが成功しなくなった, V. 大化改新の計画経済の, 真の歴史的意義は何処にあったか,. 1 . 大化改新の真の歴史的意義 大化改新への胎 動期において, わが朝廷は, 仏教文化を中心にした大陸女化を朝 鮮から輸入す るについて, 南鮮のわが重要な発展の基地, 任那の四県を百済に割譲して, その代償として, こ れらの文化の輸入につとめ た. 則ち, 日本書紀によれば, 継体天皇の六年, 政府は任那のうち, - 7 -.

(9) . 石. 津. 徹. 四県を百済に割譲 した. 多- 卿国の守, 穂積臣押山の進言では, 本国日本から遠くはなれていて, 維持困難な るが故に, 百済に割譲して, 百済との同盟 を保持することが必要 であるというのだ . その翌年に, 百済は便を遣わし, 穂積臣押山に副えて 五経博士段揚頭を貢す ると同時に 己汝 , , の地を請う てきた, 政府は己枚及 び帯沙の地を百済に与えた 翌十年には 百済は賜地の謝礼と . , して, 五経博士高安 茂を送り, 先の段揚爾と交替させた, 五経博士は 中国官僚文化の基礎教学 , と考えられてい る学問の権威者である. 任那の地の割譲は, 五経博士の貢献を代償にして行なわ れたものであるが, その後の日本の半島における外交関係からみると, 大きな犠牲であっ たにも かかわらず, 五経博士を迎えた当時の大和政府の権力者たちの 大陸文化に対する強いあこがれ , を, 看取す ること が できる, 欽明天皇十 四年六月 には, 朝廷は 百済主に 良馬二匹 同船二隻 , , , , 弓五十張, 箭五十具を送って, その代償に, 医博士, 易博士, 暦博士等を交代に献上し r併せて ト書・暦本・種々の薬物を送るように求めて いる, それに答えて, 十五年二月 には, 百済より , 五経博士主柳貴, 僧曇慧ら九人の僧と, 外に易博士, 暦博士 医博士 採薬師 薬人を貢してき , , , た. 敏達天皇五 年十一月 には, 百済王は, 経諭若干巻, 律師, 禅師 比丘尼 児禁師 造仏工 , , , , 造寺工六人を献上したので, 難波の大別王の寺においたという 当時の わが政府は どれほ ど . , , 強く, わが国の文化の向上の必要 性を痛感していたかということがわかる1 6 ) . 大化改新の計画経済の実施上の, イデオロギーとしては 社 会主義的政策であった この点で , , は, 滝川政次郎氏は, 「律令時代の農民生活」 の中で, 和辻哲郎氏は 「日本倫理思想史上巻」 , で, ともに, そこに社会政策的理念, 社会主義の理念のあることをみとめている , し か し な が ら, よ り 深 い 文 明 史 の 観 点 か ら み る と き は も っ と 別 の 見 方 を す る こ と が で き る , .. 丁度, ソ連が革命にあたっ て, 社会主義国家の実現という 「社会平等の実現」 なる大義名分をか かげて共産革命をとげているが, 実際には, 世界史的課題として は ドイ ツの軍事力にたたかれ , てからは, 軍事力強化を含めた重化 学工業の振興という国家日的にあっ たのであり, その国家目 的を, 全国民的協力と支持 によって達成せんとすることにこそ, 真の歴史的意義があったことは 世界史を知る識者のひとしくみと めるところであろう 同じように, 唐帝国や朝鮮半島諸国の,当 . 時の現状を知 るものには, 大化改新の国家的大目的は 全国民的支持と協力の下に 仏教文化を , , 中 心 と し た 文 化 国 家 の 創 造 に あ っ た こ と は, 明 白 で あ る 井 上 光 貞 氏 も1 ) こ の 点 に つい て は 7 , , ,. 大化改新の歴史的意義は, 「私は大陸の整頓した制度を学びと って, 我が国に同様の整頓した法 律制度を設 けた処に, その最も重要 な効果があっ たと考えるのである」 との べ また 「大化改 , , 新の最も大きな歴史 的意義は, 社会組織の改革などというとこ ろにあっ たのではなくて, 文化運 動 で あ っ た と 見 る べ く, そ の 限 り に お い て 相 当 の 意 義 が あ っ た と 認 め ら れ る」 と の べ て い る , .. 以上のよう な国家目的を遂行す るためには, 全国民的協力と支持を要す る ことに財政的支持 , としては, 生産階級たる農民階級の支持を要す る. そのためには, 農地改革を必要とすると考え て, 班田収授の法を実 施した. 平安時代初期の秀才官僚三善清行が, 意見封事十二箇条の中での べ た有名な言葉 「公家の口分田を班 つ所以は 調庸を収め 正税を挙 (ヵ) さんがためなり」 と , , 班田制度を解釈しているのは, かなりの妥当性がある, これを石母田正氏は1 8 ) , 引用 して, これ は 「班田制の 本質を率直にのべてい るのであっ て, 口分田は律令制の奴隷的な収取を保証すべき 保有地にすぎない」 と解してい る, 班田制度が奴隷制的なものであるとすれば, ソ連の農地改革. (国有農場と集団農場) は, 社会主義経済学者. 9 G・H・Co l ) e が い う よ う に1 , お く れ た ロ シヤ の農. 奴制が, かかる農地改 革に容易に移行せしめたのであるというから, 奴隷制とまではいわないと しても, 農奴制の上に たっ ているといえるであろう, 井上光貞氏は2 0 ) , 班田制の 「本来の目 的は - 8 ー.

(10) . 律令 制 時 代の 計 画経 済 すべての農民に税を課し, 国家財政の基礎を確保するにあっ たというべきである」 と. このような財政計画をもって, 班田制をしいて, すべての農民に, 公平な税の負担を負わせ, 仏教文化を中心とする文化国家の創造にあたっ たのであるが, それでも, 財政は不足して, たと えを , 最も重要な事業の一つとされた東大寺の造営と維持などにも, 東大寺自らに財政の獲得に 1 ) あたらしめるために, 東大寺自身に庄園の開拓をさせたりした, 竹内理三氏はいう2 , 「奈良朝 時代に於ける東大寺は, その官六寺としての機能を, 最もよく発揮したものである, 例えば, 近 江国平流荘墾田地図の端書にのべられてい る如きは, よくその傾向を示している, 地方官吏にし て, 東大寺田経営につとめた例は, 越前国足羽郡の大領生江臣東人が, 東大寺専当田使とな り, 越中国員外介隅波臣志留志が, 東大寺検校使専当国司となっ た例がある」 また官庁の整理縮少も 必要であっ た, 同じく竹内理三氏はいう 「かくて, 財政節約のために, 官省の整理 が行なわれる こととなっ た。 造法華寺司の廃止と共に, 造宮省, 勅旨省も廃止せられた, 今まで経済界に活気 を与えていた土木関係諸省の廃止である. 政府の緊縮政策は, 奈良朝末期に起こっ た全国的不作 促した, 下級官吏 -- 特に京官 -- 困窮は著しく増大し と共に, 貨幣流通, 交換市場の萎縮を. た, 加ふるに, 政府の誤れる貨幣政策--‐新銭-当旧銭十一一は, 貨幣価 直を下落せしめた, 政 府に於いても, 土木事業の停止と共に, 最早や下落した貨幣を, これ以上, 下落せしめる必要は なくなっ た, 勅旨省・造宮省等と共に, 『銭貨既に賎し』 との理由を以て, 鋳銭司も廃止せられ たのである」 貞観以後は, 造東大寺司は, 造寺所に格下げされた, ロ シヤ が ドイ ツ に 敗 れ て, 共 産 革 命 を 遂 行 し, レー ニ ンや ス タ ー リ ン が 考 え 実 行 し た こ と は,. ロシヤが先進欧米諸国のように, 重化学工業の 遅れを, 如何にして, とりもどすか, また軍備の 近代化を如何にして達成するか, それに追いつき, 追いこさんとする至上命題が, イ デオロギー を超えた歴史的大目的であった, そのように, 大化改新の頃の日本が, 社会主義的計画経済を実 施した真の歴史的意義は, 唐や三韓の諸国 の, 仏教文化中心の, 文化に追いつ き, 追い越さんと するのが, 歴史的目的であっ たといえる. 2 , 修正主義者 長屋王らの没落 律令政府の有力な指導者・鎌足の子, 不比等が死んでからは, 天武天皇の孫, 長屋王が指導権 を握られ, 彼は大体は不比等の方針を襲うたのであるが, 仏教を軽蔑し, むしろ, 道教をもっ て 指導精神としていたようである. 薬師寺の僧景戒の著わすところの日本霊異記によると, 王が日 ごろ仏教を軽蔑し, 晴れの場所で, 僧を殴るようなことまでしたから, 罰があたっ て自殺せねば ならなくなっ たと説明している, 聖武天皇の天平元年に, 左京の元興寺で大法会があった, 「太政大臣正二位長屋の親王に勅し て, 衆僧に供する司に任ず. 時に一の沙弥あり。 みだれがはしく供養をもる処につきて鉢を捧 げ ・冊もて沙弥の頭をうつ. 頭破れて血を流す, ………二日をへて, うら て飯を受く, 親王見て, 牙 やむ人ありて, 天皇にしこぢてもうさく 『長屋, 社梗を傾けむことを謀り, 国位を奪はむとす』 とまをす。 ここに天心 (天皇) いかり, 軍兵を遣して陣す. 親王み 、づか らおもわく, 『罪無くし づ てとらわる, これさ だめて死なむ, 他に刑殺せられむよりは, み から死なむにしかず』と思ふ」 と, よって, 長屋王は服毒自殺した, 仏教界では, 長屋王は悪名をのこされている, 長屋王は, 続日本紀によると, 左道に走ったとの罪名で, 自殺せしめられたようである. 続日本紀天平元年二月の条に, 「二月 辛末, 左宗ノ 人, 従七位下 漆部ノ造, 君足, 元位中臣 ノ宮薦ノ連 東人等密ヲ告テ, 左大臣正二位長屋王 私カニ左道ヲ学ビテ, 国家ヲ鮫ケ ソト欲ス ト称ス. 其ノ夜, 便ヲ遣シテ, 三関ヲ固守セシム. 因テ式部卿従三位藤原朝臣宇合……等, 六術 - 9 -.

(11) . 石. 樫. 撒. ノ兵ヲ将ヰテ, 長屋王ノ宅ヲ園マシム」(原漢文) , 長屋王が左大臣として, 権力をふるった数年間には, いくつかの仏教統制の政策が行なわれて いるのであっ て, 増尼の間には, 悪王の名をはせていた, 長屋王 が謹告をうけて自殺せねを なら なくなっ たのは, 彼 が左道に走 っ たためであるという悪名であっ た. 当時, 儒教の経書に対して 緯書として, 天人感応説が流行していた, その学派は, 緯説家といい, 天が奇瑞を現わして, 将 来を予言するという事を説く ものである, 奈良時代に行なわれた緯書で, 続日本紀にみえるもの は, 孝経勾命決, 孝経授神契, 熊氏瑞応図, 王氏符瑞図などがある. 経国集第二十巻には, 養老 年中, 葛井広成が, 儒教と老荘学との優劣に ついて の策問に応 じた対策が二種のせられているが 当時, 問題となっ ていたことが知られる. このとき広成は, 「玄以二独善-為し宗, 無二愛敬之心「 棄し父背し君儒以二兼済-為し本, 別二尊卑之序- , 致し身尽し命」 と論じて, 老荘をすてて儒をとるべ きことを説いいるのであって, これ が当時の世論であっ た, 山上憶良が, 神亀五年に, その頃の 流行の道教思想に反対して, 三綱五常を力説して, それに惑わされろを戒めた和歌が万葉集にの っ て い る. 「惑 情 (マ ドヘ ル コ コ ロ) を 反 さ し む る 歌 一 首 井 に 序」 に の べ ら れ て い る, ま た, 天. 平元年四年には, 諸官人以下, 天下の百姓に, 異端を学び妖術をなし, 叉厭魅呪阻をして, 人を 害した時, 首は斬, 従は流に処す べき旨を勅せられている. 長屋王の場合は, 皇太子が夫死した時に, 長屋王が呪い殺したのだという死罪によるのである が, 彼が左道つまり道教に傾いていたことが想像される, 当時, 唐では, 老子を教祖とする道教 は, 唐皇帝の祖先の教として崇めていた時代であるから, 充分考えられることである, 長屋王は 仏教には反対ではないが, 消極的であっ たようで, 藤原氏は仏教主義の立場をとり, 聖武天皇も 熱心な仏教主義者であっ たので, 長屋王は票罪をきせられて自尽せしめられた. 仏教文化の興隆 ということは, 推古朝以来の, 国家の大方針であり, 大事業であっ て, 律令政府は, この事業を 国家的に遂行せんとして, 造東大寺司のような巨大な官庁を つく って, 各省から技術者を徴して これにあたらせた. 長屋王が自殺に追いこまれたのは, 民間出の光明夫人を, 皇后に冊立するこ とに反対したためだとの解釈もあるが, 長屋王は左道に走 ったといわれるように, 仏教文化創設 中心主義に反対する反党 グルー プであっ たと考えられる, 橘奈良麻呂の事件でも, 奈良麻呂は, 人民が東大寺造営のことで, ひどく苦しんでいるのを, 敢て実施せんとする 軽目仲麻呂は無道で あると批判した批判勢力であっ たことがわか る, 続日本紀・天平宝字元年七月 の条に, 「勅使叉, 奈良麻呂二問テ云フ, 逆謀何二緑ヲ起りシ. 欺シテ云フ, 内相政ラマ テウ甚タ無道多 シ, 故 二 先 ッ 兵 ヲ 発 シテ, 請 ウ テ 其ノ 人 ヲ 得, 後 ニ 状 ヲ 陳 ペ ソ トス, 叉 問 フ, 政 無 道 ト称 ス ル コ ト何 等 ノ 事 ラ カ 謂 ウ, 歎 シテ 云 フ, 東 大 寺 ヲ 造 り, 人 民ノ 苦 辛 シ テ, 氏 々ノ 人 等 モ, 亦 是 し憂. =ヲ奈羅ニ置キ己カ大憂ヲ為ス」(原漢文)この事件の如きも, ソ連の反党 グルーフ ト為ス, 叉, 義 の粛清″ニ似たものがある. 制度, 文物の完備, 学問・技術の向上を目的としていた律令制では, 生産官司の技術系だけで ) 2 2 も, 伴部 (番上) , 品部, 雑戸とあっ て, 村尾次郎氏の 「律令制の基調」 の研究では , 品部と考 82 4戸だっ たというから, 技術部門だけでも大きなもの えられるもの, 39類, 2 7戸, 雑戸11類, 83 で, 財政的支出も大きかっ たことがわかる, このようなこと が, 地方の国街の工房でも, 小規模 だが, 行なわれていたのである. 大化改新の班田制度の施行や, 政府の勧農政策の個々の事実を列挙してくると, 如何にも, 農 本主義の改革のようにみえるが, 実際には, 制度・文物の完備と, 学問・文化・工芸の生 .産向上 - 10 -.

(12) . 律令制 時 代の計 画経 済 にあった, ソ連や中共が, 重農主義的なことをうたいつつも, 実際は重化学工業 の振興策と原水 爆の開発による軍装備の近代化を主としたものであることは, それらに投資した資本と, 農 業生 産の振興や消費物資の生産に投資した資 この割合からみて明らかである. 庶民の日常生活を極度 に抑えて, 重化学工業の振興に傾斜投資したものであることは明らかである. 同じように, 律令 政府は, 班田農地の不足から, 養老六年 (7 9 ) 22年)百万町歩開墾計画をし2 , 多くの専門的土木技 術者をもっ ていたが, 財政的余裕がないと称して, それをやめて, 次の年, 723年, 養老七年に , 政府自ら投資して開墾することをやめて, 民間に投資開墾せしめんとして,三世一身法を定 めた。 それでも, 充分の開墾が行なわれないので, 天平十五年 (7 4 3年) には, ついに, 律令政策の根本 方針をくつがえすような私墾田の永世私有法へと後退した, 白鳳・天平時代の間に, 諸国の寺院建築の修理などで, 官稲300万束を 費したといわれるので あるから, 府政が100万町歩の開墾とまではいか なくても, やる気があれば, その幾分でも可能 であったであろう, 事実, 東大寺などは, 自らかなりの開墾をやっている, 東大寺桑原庄の開墾 の例をみても, それほ ど巨大な投資とは思われない. 当時の律令政府の根本日的は, 農業生産の 向上や, 庶民の生活の向上にはなかっ たことは明らかである, V I 経済的行詰りの打開策 ソ連共産党は, ロシヤ革命後, 戦時共産主義として, 19 18年から, 1921年まで, 徹底した戦時 4 ) 的共産主義計画経済をや った2 . しかしながら, 農民の協力が えられず, 農業生産は減退し, 飢 餓 状 態 に 陥 っ た. そ こ で, レー ニ ン は, 1921年 に, 戦 時 共 産 制 を 廃 し て, N E P 政 策 を と っ た. N E P 政 策 は, ス タ ー リ ン が, 1 8年に廃止するまでつ づいた. 農民による収穫物の自由処分 92. (余剰農産物を売ること) をみとめた. 商工業の発展のための外資 の導入, 技術家の優遇などの 資本主義的政策をとり入れた, この妥協政策は, 産業を復興させた, 農民は喜びいさんで働き, 多く の富 め る 農 民 ク ラ ー ク ス が 生 ま れ た,. レー ニ ン は1924年 に 死 に, ス タ ー リ ン が 政 権 を 執 り,. 1 928年NEP政策を廃し, 本来の共産主義政策にもどし, 富農の私有財産の所有を否定し, 重化 学工業の振興を中心とした産業五ヵ年計画を始めた. この政策に反対の100万人のクラークスた ち を, 1930年 2月 に は, 財 産 を と り あ げ, 彼 ら の 土 地 か ら 追 い 払 っ た, こ の よ う な 結 果, ウ ク ラ. イナ, 北コーカサス, 下 ヴァルガ地方では, 飢錘となり, 約600万人が餓死 したが, 政府は援け ようとしなかった, このような大きな犠牲を払っ てソ連は第一次五ヵ年計画, 第二次, 第三次, 第四次, 第五次計画が, 重化学工業振興を中心に実 施され, 農業に ついては, 国営農場, 集団農 場中心の計画経済が実施されて, その結果, 今日, 重化学工業と軍備の近代化では, アメ リカに 5 ) 追い つき, 追い越さんとする現状にまで達した2 , 近代化に非常におくれた中国でも, 共産主義 的計画経済によっ て, 原爆装備の, 軍備の近代化に達しつつある. これに比して, わが律令政府は, 先にのべた長屋王にによる養老6年4月の, 陸奥の肥沃の地 1 00万町歩の開墾計画, 即ち, 10日の役をもって, 強制的に, 国郡司をして, 公営田を開かしめ んとする計画であるが, 財政がゆるさないということで廃止し, 翌年の養老7年に, 三世一身の 法によって, 私的な開墾をすすめんとしたが, それでも充分が開墾がすすまないので, 天平1 5年 には, 私墾田の永世私有をみとめるという, 班田制の根本を破るような法を定めて, 私墾田の開 発をすすめたので, 庄園の開発は盛んとなっ た, 律令政府は, ソ連や中共の労働英雄の表彰のように, 「力田の輩」 を表彰して, 勤労と生産の ) 6 向上をすすめたのであるが, その結果は, 富農層が増してきた2 3 , 8世紀後半の, 宝亀4年(77 一 11 -.

(13) . 樫. 石. 撒. 年) 3月には, 太政官奏で, 政府は, 富農層に, 米価騰貴のため困っている貧民にのみ, 賑徳と 6日の太政官符 には, して, 低価で米を 売るように求めたりしている, 延暦9年4月1 「頃者, 畿内国司不し遵二格旨- , 既柴二産業之易ワ , 因し薮股富之人 多蓄二魚酒- , 曾無二禁制- 喫 彼田夫-百姓之弊, 就, 貧窮之輩僅弁二蕊食- , 還憂=播殖 之難。成, 是以貧富共 競, 喝二己家資ー 二 莫し甚二於新一」 7 ) すでに貧富の差はな はだしくなり, 富豪層の輩出している様子が知られる2 , これらの富豪は, 多くの私墾田の庄園を所有するもの が多く, 経営も楽であっ た. このような富 農対策として, 律 令 政 府 は, 困 っ た 現 実 で あ る と は 思 い つ つ も, ソ 連 の ス タ ー リ ン の よ う に, ク ラ ー ク ス 征 伐 を や. らなかっ た, それで, 私墾田庄園の流 行から, や がて荘園経済の発展へとすすみ, 律令体制の 基 8 ) 本 は 崩 れ て い っ た2 ,. ソ連の 共産主 義による計画経済の実 施以来, 数十年をしかへていない. われわれの取扱 った大 5年位まで) の間を含む時代で 化改新後の, 律令時代の 経済は, 約100年間 (大化改新から天平1 ある, それ故に, ソ連の経済が今後, どのような歩みをするかは, 予見することができない. W. ) 9 班田制は総体奴隷制か2. マルクス主義的歴史家たちは, 律令体制下の班田農民を, 総体奴隷制と 称するのを好むが, 計 画経済の下で, 農民は律令政府による仏教文化中心の, 文化創造の財政的維持を強制されて, 日 常生活の向上がなかっ たこと からみれば, 総体奴隷制というのも無理からぬことと 思う. そのよ うな定義づ けをみとめるとすれば, ソ連や中共 が重化学工業の振興と軍備の近代化の ために, 消 費 生活を犠牲にし, 私有生活を犠牲にしての, 計画経済の下にあるソ連民衆や中 共の民衆は, 同 じく 現代版奴隷制であるとみとめ ざるをえない, なければならず, 正当な理 0 ) ソ ビエ ッ ト憲法によれば3 , 集団農場の農民は, どこまでも農民で 由 の あ る と き の み, 他 の 農 場 に か わ る こ と は 許 さ れ て も, 農 民 を や め る こ と は 許 さ れ な か っ た.. 彼らは, また, 農業以外の副業で収 入をえるこ とが禁ぜられいた, たとえば, ある集団農場で苛 性ソーダをつくっ たのを禁ぜられ, ある集団農場では, 小間物類をつく ったのを禁ぜられたりす るソ 連農民は, 全く奴隷制下にあるといわざるをえない, ski の The Soviet Reginle に, W・W,Kul. 「ソ ビエ ッ ト 農 民 の 現 代 農 奴 制」 と し て, 次 の よ. う な こ と が 記 さ れ て い る。 「ソ ビエ ッ ト連 邦 に 訪 れ る 人 は, 次 の よ う な 質 問 を す る, ソ ビ エ ッ ト の 農 民 は, ど う して 故 郷 を す て, プ ロ レ タ リ ア ー ト の 階 級 に 参 加 す る こ と に よ っ て~ 自 己 の 運 命 を 改 善 し よ う と し な い の で あ る か, と, ソ ビ エ ッ ト国 家 は, そ の 間 に 答 え て, 農 民 は 自 分 の 集 団 農 場 を は な れ, ま た, 故 郷 を は な れ る こ と を 禁 じて い る と い っ た, ソ ビエ ッ ト の 農 民 は, 法 制 的 に は, 昔 の 農 奴 の 地 位 に. あっ た, 原則として, 農民は裁判上の告訴される のを覚悟してか, または, 下にのべるような場 合以外には, 自分の集団農場の村を去るこ とは許されな か った. 下にの べるような 場合とは, 結 婚のためにか, または, ソ ビエッ ト国家の入植再計画によるためかの理由で, 他の集団農場に移 動する場合には, 監理委員会の許可がえられる. 或いは, 国の一年契約の国家 計画の産業労 働力 として働く場合 か, または, 若い農民は産業学 校で, 教育をうける場合には, 自分の農場をはな れることをみとめられた.」(筆者訳) 皿. 結. び - 12 -.

(14) . 律 令制時 代の計 画経 済 フぐ化改新による律令政府の計画経済の実施なしでは, 白鳳・天平の文化, むしろ, 日本国の文 化国家としての歴史が始まらなかったかも知れないと思うと, 大化改新と律令制度 の価値を, 無 下に否定することはできないという気持をもつ, ただ, ソ連がアメ リカと対抗できる軍事力をも つに至るために, 数百万以上の同胞や, 数千をこえる革命の同志を反党グルー プとして犠牲にし ているのと比較してみれ ば, 律令政府が私墾田の開拓と永世私有をみとめるという妥協政策を展 開し, そのために, 班田制度を崩壊にみちびき, 荘園制の隆盛をきたす原因をつく っ た現実的政 策にも, より好感がもたれよう, 註. ,. i l: Amer tory 1) David Hughesand Mc Dougal can Economi c Hi s , 2) w,Stark: The History of Economi篤, ion t l l:lnt t t s ory 1750-1950 3) G, D. H. Co roduc o Economi c Hi .. 4) 虎尾俊哉:班田収授法の研究, p .259 . 5 ) 西村真次て 日本古代経済 (交換篇),. 6 )小中村清矩:日本官職制度沿革史,. 4 7) 亀田隆之:産業史1, p .13 . 4 7(邦訳) 8) エミール・ジャム:経済思想史下, p ,5 . 9) 令集解巻4, 職員令. 10) 平野邦雄: 産業史1, p .249 . 11) 大島延次郎:日本交通史概論, 12) 亀田隆之:日本経済史大系1, p ,283 . 13) 門脇禎二: 律令国家の基礎構造, p 61 ,3 , 14) 中村吉治:日本経済史概説, p ,151 . 15) 内田銀蔵:日本経済史概説, 2巻2号, 16) 石沢撒:古墳文化時代の主要な歴史的視点, 本学紀要1 20 17) 井上光貞:先史と古代, p ,2 , 18) 石母田正: 古代末期政治史序説上, l l:前掲書. 19) G,D.H.Co 20) 井上光貞:大化改新, p .49 . 21) 竹内理三: 日本上代寺院経済史の研究. 22) 村尾次郎: 律令財政史の研究, p ,53 . 平野邦雄: 産業史1, p ,275 , 9 23) 村尾次郎:同上著, p .49 . ia (p,718). l l l:B1 i ementary Economi enge ofSov 24) McCounel et Rus s cs の中の, The Economi c Cha i ory of Rus 2 4 0 t s s ap 25) W, Kirchner: Hi , , 7 7日) の太政官符, 26) 類票三代格巻1 , 弘仁12年 (5月2 戸田芳実:平安初期の国衛と富豪層. 6日太政官符, 27) 頚票三代格巻19 , 延暦9年4月1 貞二: 律令国家の基礎構造, p 61 門脇ネ ,3 , 28) 虎尾俊哉:前掲書. 29) 石沢撒: 古代日本の奴隷制説 について批判し , 私見を述ぷ. 本学紀要9巻2号, 30) w, W. Kulski: The soviet Regime ,P ,348 ,. - 13 -.

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