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最晩年を中心とする『栄花物語』の定子の人物造型をめぐって ─紫のゆかり、かぐや姫、『産経』─

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(1)Title. 最晩年を中心とする『栄花物語』の定子の人物造型をめぐって ─紫の ゆかり、かぐや姫、『産経』─. Author(s). 中島, 和歌子. Citation. 語学文学, 52: 27-50. Issue Date. 2013. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/6992. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 最晩年を中心とする『栄花物語』の定子の人物造型をめぐって ── 紫 のゆかり、かぐや姫、『産経』─ ─. 中 島 和 歌   子 . (2). れは、長保二年(一〇〇〇)五月五日、つまり最晩年の姿を描. (以下、 『栄花』 。他も同様に略す)の「栄花」 『 栄 花 物 語 』 が道長の繁栄であることは、巻十一「つぼみ花」に、 「東宮(敦. も定子崩御後の加筆は明らかなので、長保二年の定子崩御を知. 遡って語っているので、 予感的中とするのは容易だが、『枕草子』. 「あはれ」な面が主に取り上げられ 一方『栄花』の定子は、 ており、最晩年は死を予感して年末に崩御する。後から歴史を. いた二二三段「三条の宮におはしますころ」でも変わらない。. 成)の生れたまへりしを、殿の御前の御初孫にて、栄花の初花. ない。特に中関白道隆の後継者の伊周と、その妹で清少納言が. 草子』と共通する人物が登場するが、描き方はほとんど重なら. 史上の人物や事件を素材に描いた物語と言える。 道長を含め 『枕. 三十までの正篇は、道長の栄花と往生、それに至る経緯を、歴. 二年(九八八)の「五節」、「臨時の祭」の「試楽」と「還遊」、. ている。『枕草子』も、例えば、一条天皇即位の翌々年、永延. 『紫式部日記』の引用がよく知られているが、『栄 『源氏物語』 花』は、『源氏』経由を含め他にも種々の韻文・散文を踏まえ. る定子の最晩年の造型方法と、その意義を考えてみたい。. い。本稿では、先行作品の引用という点から、『栄花』におけ. -. 頁)や、長保二年の彰子立后後の后な. 頁) 、「五月五日」の「御. 頁)の描写に引いている。定子と帝が揃っ. 162. た宮廷讃美の表現を、定子不在の一条朝(入内前と実質的に退. -  - 27. はじめに. と聞えたるに、この御事(禎子誕生)をば、つぼみ花とぞ聞え. る者が書いたというだけでは、このような設定の説明はできな. (1). 頁)に明示されている。全四十巻中、巻. 仕えた定子の描き方の違いが目立つ。実際にそれぞれが道長、. らではの「狛犬」と「火焚屋」 (巻六・. さすべかめる」 (⑵. 彰子の最大のライバルであった為、当然のことではある。. 薬玉、 菖蒲の御輿」(. 314. 160 316. 「御仏名」 (巻三・. 『枕草子』の定子は、容姿や装束等の外見 知られるように、 の美が賞賛されることこそ道隆生前に限られるが、知性、思い 去の前後に関らず「をかし」 「めでたし」と評されている。そ. やり、ユーモア、進取の気性や后としての誇り、微笑みは、薨. 24.

(3) としての定子を極力描かない。このことを含め、 次節以降では、. て語るものであることを端的に示す。. 永祚二年が改元されて正暦になっ 三例目も同様である。なお、 たのは十一月七日であり、波線部は、『栄花』が後代から遡っ. 場後)のそれに利用したのである。換言すると、 『栄花』は后 晩年の描き方の特徴を明らかにする為にも、まず崩御に至るま. 今年をば正暦元年といふ。正月五日、 ③はかなう年暮れて、 内(十一歳)の御元服せさせ給。さしつづき世の中いそぎ. 頁、正暦元年). -. のはずだが、「ばかり」を付けて実際よりも二歳年長の「十六」. では「二十五」で崩御とするので(後掲)、ここは「十五」. 次の入内の記事で、初めて単独で言及される。史実では、正 月二十五日に十四歳で入内、二月十一日に女御となった。『栄花』. やがて 姫 君たち な ども御覧ずれば(. えもいはぬ東の対には内大臣殿(道隆)住ませたまへば、. たちたるに、摂政殿、二条院にて大饗せさせたまふ。 (中略). での定子に関する記述を、巻ごとに順に辿っておく。. 一、巻三「さまざまのよろこび」と 巻四「みはてぬゆめ」の定子 巻三が定子の初出の巻である。なお彰子は、同じ巻に誕生の 記事があり、 「めでたき女君」 、 「后がね」 、 「三日の夜は本家、 頁) 。. へ参らせたまふ有様、いみ ④二月には内大臣殿の 大 姫君 内 じうののしらせたまへり。殿の有様(一家の風儀) 、北方. としている。定子の美しさを表す言葉は、以後も見られない。. この御子どもといはれたまふ君達あまたになりたまへど、. と わ ろ き も の に 思 し て、 今 め か し う 気 近 き 御 有 様 な り。. など宮仕にならひたまへれば、いたう奧深なることをばい. なほこの 嫡妻腹の をいみじきものに思ひきこえたまへる うちに、母北の方の才などの、 人よりことなりければにや、. 姫 君 十 六 ば か り に お は し ま す。 や が て そ の 夜 の 内 に 女 御 にならせたまひぬ。 ( 頁). 君達三四人 、 男君三人出で来たまひにければ、いとどい みじきものに思しながら、 なほ御たはれはうせざりければ、. 167. この殿の男君達も 女君達 も、みな御年のほどよりはいと こよなうぞおはしける。 (巻三・ 頁、寛和二年) -. 頁、永延元年). 小姫君(原 姫君 、 ②大殿(兼家)の大納言殿(道隆)の、大 子)、いみじくかしづきたてて、内(一条天皇) 、東宮(居 貞親王)にと思しこころざしたり。 (. 頁)は、史実通りである。し. かし、道隆が外戚高階氏の催促により、兼家の重病中に立后を. やがて寺になさせたまひつ」 (. その後の兼家が病の為に「五月八日出家せさせたまふ。この 日摂政の宣旨、内大臣殿かぶらせたまふ。 (中略)二条院をば. 168. -  - 28. 五日の夜は摂政殿(兼家)より、七日の夜は后の宮(詮子)よ りと、さまざまいみじき御産養なり」 と記されている (. 157. をやがて北の方にておはしけるほどに、女 ①これ(高階貴子). 156. 二度目も定子単独ではない。また、主語は道隆である。. 143. 153. 172. 142.

(4) 定である。実際の立后は、七月二日の兼家薨去の約三ヶ月後、. 急ぎ、「世の人」からに非難されたというのは、物語独自の設. 東宮は「御衣の重なりたる裾つき、袖口などぞ、いみじうめで. 十月五日であった( 『小右記』等) 。 『栄花』は、道隆を外戚に. たく御覧ぜられ」たという。一方、正暦二年に「内裏にも 中 宮 さ ( 頁)東宮に入った「宣耀殿」娍子は、 へおはしませば」 「奧深う恥づしき」方( 頁)であった。他の子女についても、. 庶子の誕生の他、「いと若うおはすれど、内の御匣殿と聞えさす」. 三女の敦道親王との結婚、隆家の任「三位中将」と結婚、道隆. 引かれて適切な判断ができない人物として描くと共に、「中宮」 定子が、世間から望まれないものであったと語るのである。し. と、四女も初めて単独で言及されている。. れ、 「かくて関白殿、水きこしめすことやませたまはで、いと. 「冬つ方」の道隆の病悩、成忠や貴子の祈り、 翌正暦五年は、 疫病の収束、 伊周子女の様子、 伊周の不吉なまでの麗姿と学才、. かも、立后を「すさまじ」と感じて「中宮大夫」の務めを無視 大殿の御悩みのかくいみじきを、誰も同じ心に思ひ念じき. する道長の態度を、 「たけし」 (毅然としている)と賞賛する。 ⑤. 恐しうて年も暮れもてゆく」と締め括られている(. 隆円「僧都」 、隆家「中納言」 、道頼「大納言」の就任が挙げら. の 女 御 、 后 に 据 ゑ た て ま つ ら ん の 騷 ぎ を せ さ せ た ま ふ。 われ一の人にならせたまひぬれば、 よろづ今は御心なるを、. こえたまふ。摂政殿(帝の)御気色たまはりて、まづ こ . この人々(外戚)のそそのかしにより、六月一日后にたた. 以上のように正暦四・五年の中関白家の記事はあるが、長女 の中宮定子は全く登場しない。 『枕草子』には勿論この時期の. 頁) 。. -. -. が「帝おとなびさせたまひぬれば、 関白殿」になり、「中姫君(原 子)十四、 五ばかり」が東宮に入り、「女御」として「淑景舎(桐. 208. 宮 並 びなきさまにておはします。 ⑥年もかへりぬ。内には 中 東宮は淑景舎いかにと見奉る。(巻四・ 頁、長徳元年). 「並びなき」 は、 他に妃がいない状況では誉め言葉と言い難い。. 薨去が近い翌長徳元年(九九五) 道隆生前の「中宮」定子は、 になって初めて次のように紹介されるが、具体性を欠く。また. 涼殿の丑寅の隅の」は、正暦五年三月の出来事と考えられる。. 日記的章段がある。例えば宮仕え讃美の代表的章段二一段「清. 207. この後、伊周の道隆病中に限る内覧、道隆出家、薨去、外戚 の動転、伊周の失政、道隆葬送、伊周の不安と成忠の励まし、. -  - 29. 187 184. せたまひぬ。世の人、いとかかるをりを過ぐさせたまはぬ 頁). をぞ申める。 (中略)かかるほどに、大殿の御悩み、よろ づかひなくて、七月二日うせさせたまひぬ。 (. この後にも、関白道隆の政治や人物は問題が無いが外戚の待 遇に人々が不満を持っているとある( 頁、正暦二年) 。. 173. さて巻四「みはてぬゆめ」では、正暦四年の中関白家の出来 事として( 頁) 、 伊周が大納言となり(史実は『公卿補任』. 176. によると前年八月二十八日。以下、種々の違いがある) 、道隆. 201. 壺)」に住む。 「はなやかに今めかしう、 さまあしき御有様」で、. 208. 197.

(5) 化、薨去、葬送、道長内覧、右大臣と政権交代が語られる。. 道兼関白、伊周一家の落胆、世間の納得、揶揄、道兼の病悩悪. ねに恋しう思ひきこえさせたまへり。 (. のみ思さる。内には、人見るをりぞといふやうに、今めか. つる、故殿の一所おはせぬ故にこそはあめれと、あはれに. しう(賑やかになったが)、何ごとにつけても 中 宮 を つ 頁、長徳元年). 父を失った定子に対する帝の同情もあるが、東宮の思いやり の記述のほうが詳しい。 『栄花』の定子の心情は、 最初から「あ. -. はれ」であり、それが最期まで続く。. 頁)との発言は、定子懐妊の. きた定子を軽視するものと言える。なお詮子は、脩子誕生後、. 予告にもなっているが、この時点では、后として六年間過して. 頁) 。. に思しめしたり。東宮には、宣耀殿(済時女で芳子姪の娍. 先に赴いた後、七月義子、十一月元子の順だが、道隆薨去の年. その後、伊周・隆家が花山院に矢を射る事件、伊周が数年来 「大元法」を行っていたことの発覚、 詮子の「御悩み」があり、. 頁)。道兼女尊子の入内の後、定子の. 「長徳二年」になる(. 子)のさぶらひたまふ、宣耀殿にはた、一の宮(敦明)の. 義子)も内にと思したちけり。東宮には淑景舎、尚侍(綏. 周)こそはよろづに祈り騷ぎたまふめれ、あやしうむつか. おぼつかなげにぞ申し思ふべかめる。(中略)内大臣殿(伊. 宮 の ただにもおはしまさぬを、さりともと ⑨(詮子は)中 頼しう思しめすを、「何にかはおはしまさん」と、世の人. 懐妊が語られるが、本人の心情には触れられない。. 御母女御にて、またなき御思ひなれば、同じうは内にと思. しきことの世に出で来たる(伊周らの処罰が近い)のみこ. 頁、長徳二年). そ、いといとほしと思し嘆かるれ。( 右が巻末で、巻五は「. したつも、げにと見えたることなり。 (中略)女御の御お 日も過ぎもてゆく。 中 宮 は 、年ごろかかることやはあり. ぼえ、承香殿(元子)は勝りたまふやうにて、はかなう月. この絶間にこそはとおぼし立ちて、 この姫君(元 ⑧(顕光は). の内とすることで、 一層定子が蔑ろにされている印象が強まる。. 帝の愛情はあるが、彰子立后以前から定子の地位は危うかった。. 281. -. 頁). だ男御子をだに生みたてまつりたまはば」と言う(巻五・. 子)も淑景舎もいとあはれに同じさまなることを、心苦し. まん方をこそ思ひきこえめ」(. 定子は、道隆生前はこのようなことは無かったと衝撃を受け る。その直前に記された詮子の「誰なりともただ御子の出でた. 228. 長徳四年の定子と元子の妊娠中には、 「いづれの御方にも、た. 宮 、 世の中をあはれに思し嘆きて、里にのみおはす。 ⑦ 中 されど、さてのみやはとて、参らせたまふ。帝いとあはれ. 226. かくて祭果てぬれば」と始まる。. 233. 子)内に参らせたてまつりたまふ。 (中略)これ(公季女. 231. -  - 30. 228. う思ひやりきこえさせ給ふ。淑景舎のいと誇りかなりし御 気色(参照)もいとゆかしう思しめすべし。 (. 224. 、定子が宮中にいる間に、公卿の娘達が続けて入 同 年「 冬 」 内する。史実は、翌二年二月に定子が退出し五月に兄弟が配流. 223.

(6) いかがやすからむ。母北の方、宮 の御前 、 御をぢの人々、 例の涙にもあらぬ御涙(血涙)ぞ出で来て( 頁). 父霊に対する種々の訴えと祈願の中心も、定子のことであった。. 『栄 伊周が脱出して行った先は愛宕山だが、知られるように、 花』は須磨巻の下向前の光源氏の北山御陵参詣に準えている。. 二、巻五「浦々の別」長徳二年の定子 巻五は、兄弟の流罪と帰京が中心の巻ゆえ、定子の心情表現 も多い。まず巻頭近くに、悪夢を見るようなことになったら、. 前 の 、月ごろただにもおはしまさぬに、かかるいみじき ことにあはせたまひて、つゆ御湯をだにきこしめさず、涙. すぐにでも死んでしまいたいという悲観的な言葉がある。. に沈みておはしますを、いみじうゆゆしうかたじけなくは. ( 前 略 ) ま た ゆ ゆ し き 身 を ば さ る も の に て、宮 の 御 ⑬「. 御物忌しきりなり。宮 の御前 も ただにもおはしまさねば、 おほかた御心地さへ悩ましく苦しう思さるれば、臥しがち. かくえもいはぬ者どもの、おはしますめぐりに立ちこみて、. ⑩殿(伊周と定子の同居する二条第)には、御門をさして、. にて過ぐさせたまふ。かかる事どもおのづから漏り聞ゆれ. 御簾をも引きかなぐりなどして、あさましうかたじけなく. べり。 おはします陣の前は笠をだにこそぬぎて渡りはべれ、. 頁、長徳二年). ば、あなあさましや、さやうの夢をも見ば、わ れ い かに せむ、いかでただ今日明日身を失ふわざもがなと、思し嘆 けど、いかがはせさせたまはん。 (巻五・. 悲しくておはしますとも、もしたまたま平かにおはしまさ. (自分)だに行く末も知らずまかりなりぬれば、なほ(父. ば、御産のをりいかにせさせたまはんずらむ。かひなき身. ⑪殿の内に年ごろ曹司してさぶらひつる人々、とありともか. 上 の 御 霊 が )こ の 御 身 離 れ さ せ た ま は ず、 平 ら か に と ま もりたてまつらせたまひて(後略)」 ( 頁). -. を見るに、いみじう心細し。されど、まなと、制したまふ 頁). 「涙」 以下、総称は省き、定子の呼称の見える箇所を挙げる。 は、嬉し涙を含め、これ以後、途切れることはない。. 「あさましきことなり。 宮 を さるべう隱したてまつりて、 ⑭ 塗籠をあけて組入の上などをも見よ」とある宣旨しきりに. 「宣 さて、伊周捜索の為の検非違使も憚るほどの強行手段は、 旨」つまり帝の意向に基づくことが繰り返し述べられている。. 244. そふ。 「御塗籠あけさせたまはむ。宮 去 りおはしませ」と、 検非違使申せば、今はずちなしとて、さるべく几帳など立. べきにもあらず。 (. 243. -  - 31. 240. か り と も、君 な ら せ た ま は ん ま ま に こ そ は と 思 は で、 よ ろづを毀ち運び、ごほめきののしりて、持て出で運び騷ぐ. 長年仕えて来た者達が主家を見捨て退去するのを語る中に、 最初の「心細し」が見えるが、 未だ定子に限ったものではない。. 237. ⑫(伊周が木幡の父の墓に参ると言い)えもいはず大きに、 水精の玉ばかりの御涙つづきこぼるるは、見たてまつる人. 239.

(7) てて、あさはかなるさまにておはしまさせて、この検非違 使どものみにあらず、えもいはぬ人して、この塗籠をわり - 頁). しに 宮 の御前 を 引きはなちたてまつれ」と宣旨頻れど、 検非違使どもも人なれば、おはします屋にはえもいはぬも. のどもも上りたちて、塗籠をわりののしるだにいみじきを、. またいかでか 宮 の御前 の 御手を引きはなつことはあらむ と、いと恐ろしく思ひまはして、 「身のいたづらにまかり. ののしる音も、ゆゆしうあさましう心憂し。 ( 伊周が帰参した場面では、「帥」ではなく「内大臣殿」と呼び、 白皙の美貌を「かの光源氏もかくやありけむと見たてまつる」. ( 伊 周・ 隆 家 は ) ず ち な く て 出 で さ せ た ま ふ に( 中 略 ). 宮 の おはしますをいとかたじけなく思せど、宮 の御前 、 母北の方も続きたちたまへれば、近う御車寄せて乗らせた. ま ふ( 中 略 ) 御 車 ど も 引 き 出 づ る ま ま に、宮 は 御 鋏 し て 御手づから尼にならせたまひぬ。内には、「この人々まか. へば、忍びさせたまふ。昔の長恨歌の物語もかやうなるこ. あ は れ、宮 は た だ に も お は し ま さ ざ ら む に、 も の を か く 思はせたてまつることと、思し続けて、涙こぼれさせたま. り ぬ。 宮 は 尼 に な ら せ た ま ひ ぬ 」 と 奏 す れ ば、( 帝 は ). 前掲⑦以下に悲哀感が繰り返されるのみだった定子の初めての. とにやと、悲しう思しめさるることかぎりなし。 (. 右記』同年四月二十八日条に記された史実だが、『栄花』では、 意志的な姿ゆえ、際立っている。 『栄花』の定子は、兄の存在. -. 頁). 251. 頁)によって引き裂かれた点は、桐壺帝と更衣以. 上に近く、また引用が二重に夫婦の死別の予告になっている。. 宮の御前 、母北の方、つととらへて、さらにゆるしたて まつらせたまはず。かかるよしを奏せさすれば、 「几帳ご. と、誰々も思すに、たちのかんとも思さず、御声も惜しま. 「兵乱」 (. 右の帝の言葉に定子の「もの思ひ」が初めて見え、また自分 達を玄宗皇帝と楊貴妃に準えていることに注目しておきたい。. 248. せたまはず。 「いかにいかに、 時なりぬ」 とせめののしるに、. 宮の御前 、 母北の方、帥殿、一つに手をとり交して惑は ⑮ せたまふ。はかなくて夜も明けぬれば、今日こそはかぎり. わざ」に対応しているが、 この出家の後への影響は大きかった。. が最も大切なのである。また突然の出家は巻頭⑩の「身を失ふ. 翌日も定子と母は伊周の手を離さず、一層の強行手段が取ら れる。定子が伊周と「相携へて離れ給はず」というのは、 『小. しこまり」がなされていないかも伝わってくる。. 窺えると同時に、 父の霊への訴えにもあった、 定子がいかに「か. 宮 の おはしませば、われ一人はなほかしこまりたまへるもい と悲し」( 頁)という部分からは、賞賛すべき伊周の配慮が. なりて後は、いと便なかるべし。疾く疾く」とせめ申せば、. 246. とまで賞賛している。 「 (牛車に) 乗りながらも入らせたまはで、. 245. 以下、兄弟達との手紙のやり取りがあるが、帝からは無い。 (中 中納言、宮 に 御文書かせたまふ。 ⑯大江山といふ所にて、 略 )宮 に は、 あ は れ に 悲 し う よ ろ づ を 思 し ま ど は せ た ま. 238. -  - 32. 248.

(8) - 頁). るるにも悲しうなむ。播磨よりも但馬よりもうちつづき御. 「うれし」との定子の初めてのプラスの感情が記さ 次 に は、 れているが、兄弟の配流先が近くなったに過ぎない。なお伊周. は思しなほるべきやうも見えず、沈み入ておはすれば、い. 御有様を、御はらからの清照阿闍梨など明暮聞ゆれど、今. まゐらで、年ごろの御念誦も懈怠して、あはれに口惜しき. ひて、ものもおぼえさせたまはず。 (. に同車していた貴子が帰宅して娘の尼姿を見るというのも、物. 使しきり参る。北の方はそのままに御心地あしうて、物も. 語独自の悲劇性を高める設定である。 『小右記』によると、五. か に と 心 細 き を、宮 の 御 前 に も 御 方 々( 原 子 ら ) に も 思 頁) 256. 頁). こ の宮 の もし男宮生みたてまつりたまへらば、あはれに もあるべきかなと、行く末はるかなるべき御有様を思しつ. の御なかには こ の宮 ぞ すぐれさせたまへる。女院には、. き御心地なれば、ここにのみおはす。なほふりがたく、こ. 御文などはありける。帥宮(敦道)の上は、今はあさまし. ⑳淑景舎は、東宮よりつねに御消息絶えず。内にはいみじく 思せど、世の中に思しつつみて、ただ右近内侍して忍びて. 頻繁に送る東宮とは対照的な、 「思しつつみ」ようである。. 貴子の様子を聞いた伊周は会いにいこうとするが、その前に、 帝の思いが挟まれる。ここでは帝からの手紙に触れられるが、. るに、いと心細く思さるること尽きせず。(. 宮 の御事もやうやう近く ⑲九月十 日 のほど に なりぬ れ ば、 なりぬるに、頼もしう思す人(母貴子)の沈み入りたまへ. 頼るべき母の様子を見て、限りなく「心細し」と思う。. 一家の祈りも空しく貴子の病状は進み、伊周に会ってから死 にたいと繰り返すようになった。初産の臨月が近づいた定子は、. 257. -. -. 宮 に は尽きもせぬことを思し嘆くに、御腹も高くなりも ていきて、ただならぬこと(後見不在の初産)の思し知ら. し嘆く。(. 月一日、「宣旨」により検非違使や宮司が定子の「夜の大殿」 まで破壊し、 「無限の大恥」となる徹底した捜索を行い、 「其の 責めに耐へず」隆家が捕まり「配所に遣」わされ、定子は「出 家し給ふ」 。 伊周は前夜に 「逃隠」 して道順と愛宕山に向っていた。 御 有 様 も 思 し や り、 か の 母 ⑰( 詮 子 と 帝 は ) 中 納 言、宮 の 北の方をも思しやらせたまふに、 いみじくて、 女院も内も、. ⑱. 257. 遥かなる御有様をいとど心苦しう思しめして、 大殿 (道長) にも「なほ、ことよろしかるべく」など院に切に申させた まひて、帥殿は播磨に、中納言殿は但馬に留りたまふべき 宣旨下りぬ。このことを 宮 、 人づてに聞かせたまひて、 いみじくうれしなどもおろかに思しめさるるも、あはれに いみじき御事どもなりかし。 (中略) さて帰らせたまひて、 上(貴子)は、宮 の御有様の(尼姿に)変らせたまへるに、 またおとどしき御涙さくりもよよなり。 ( 頁) 254. 次には、⑪と同じく「心細し」の語があるが、母貴子の消沈 に対する娘達の思いであり、未だ定子に絞り込まれていない。. 253. -  - 33. 251 252.

(9) 頁). -. をりに、いかにあはれに悲しう心細く、誰かは「や」とも. 頁). の間の再会の喜びに過ぎない。さらに、 「今は心安く死にもし. れた。「喜び」の語が中関白家に関して初めて見られるが、束. 東宮よりいかなる御消息かありけん、淑景舎より聞えさせ. いかにもの思すらむと、ゆかしう思ひきこえさせたまふ。. 「あはれに、いかにいかに」とある御 東宮より淑景舎に、 消息絶えず。いみじう口惜しう、誇りかにおはせしものを、. と思ひまはせど、なほいと恐ろし。 (中略)いみじう忍び. 宮の御前 も いみ じ う 心苦 しき こと に 思し ( 母 の 悲 願 を ) めし、この御はらからの主たちも、いかなるべきことにか. 細かったはずである。 伊周が遠ざかることが追い討ちをかけた。. (兄弟)ぞ悲しき はるかなる(伊周の)御有様を思しや らせたまひて、中 宮 、 雲の波煙の浪をたちへだてあひ見む. たまふ 秋霧の絶え間絶え間を見渡せば旅にただよふ人 . -. 頁). 宮 の御前 も 、御方々も、殿(伊周)も見たてまつりかは させたまひて、また今さらの御対面の喜びの御涙も、いと. が基本で、巻六になり「中宮」が復活する。. なお右の「中宮」という呼称は、巻四の⑨以来で、この後は 敦康誕生のまで無い。巻五は「宮」(意味は中宮)と呼ぶの. ぬ。あはれに悲しう思しまどはせたまふ。(. おどろおどろしういみじ。 (中略)あさましう心憂く、夢 宮 の御前 の 御心地にも、播磨とかはこよなく近しと聞き つれば頼もしかりつるものを、とありともかかりとも、母 北の方はおはすべき有様にもあらざめり、とかくのことの. 宮 の御産のことも思し嘆かれ (母 の死を 聞 いた伊 周 は) けり。十二月の二十日のほどに、わざとも悩ませ給はで、. のやうなることにもあるかなと、尽きもせず思し嘆かる。. 267. (⑳)に反して女子が誕生した。 さて安産だったが詮子の期待 しかしまず詮子が聞き帝に伝える。常に詮子主導である。. て夜中におはしたれば、上(貴子)も 宮 も いと忍びてそ こ(西院)におはしましあひたり。 (中略)母北の方も、. ことのはるかなるかな と、ひとりして思されけり。(中略) 神無月の二十日余りのほどに、京には母北の方うせたまひ. はべるべきかな」 (. 頁)という貴子の言葉は、定子らには心. 辞世の手習歌三首も同様。 『枕草子』はすべて贈答歌) 。. れている。 『栄花』の定子の歌は独詠歌のみである(後掲の. さて貴子の危篤に、東宮から原子への見舞いが頻繁にあり、 さらに歌の贈答もあった。それと定子の孤独とが対照的に描か. 言はんとすらむと、尽きもせず思さる。(. -. 愛さのゆえとあり、直接的な定子尊重ではない。. 262. づけさせたまふも、上をかぎりなく思ひきこえさせたまふ 御ゆかりにこそはと、ことわり知られたまふ。 ( 259. 右には定子が優れているとあるが、姉妹達の中ではという相 対的な評価である。また、詮子の男子誕生への期待も、息子可. 258. 「秋」になり病状が一層悪化した貴子の切実な願いに応え、 伊周は播磨から密かに帰京する。しかし発覚して、本府に流さ. 260. 265. -  - 34. 261.

(10) などの御世のはなばなとありしに、かやうの御有様ならま. ふらむと思しきこえさせ給。 (中略) (定子は)故殿(道隆). しめしつ。 (帝は)いといとあはれに、いかにせさせたま. はねど、おのづから院(詮子)聞しめしければ、同じう聞. をとぞ、思しめされける。内にはけざやかに奏せさせたま. から、また押しかへし、いとうれし。わずらはしき世の中. さましかば、いかに頼もしくうれしからましと、思すもの. 女御子生れさせ給へり。 (定子は)同じくは男におはしま. あらむ」など、いみじう御心ざしあるやうに仰せらる。そ. うあはれなる方は誰かまさらむ。また人をあまた見ぬにや. めてさぶらふ」など奏すれば、「心ばへのおとなおとなし. へ。えもいはぬ裝束して賜はせたれど、元日にとてなむ納. づせさせたまへるこそ、いとかたじけなくかしこくさぶら. など、あはれに語らはせたまふ。「いみじうさまざまよろ. の御うつくしさなど奏すれば、「かれを見ばやな。(中略)」. ぞあらむかしと思しめしつづけさせたまふ。若宮(脩子). いみじうあはれに奏すれば、御涙もうかせ給ひて、げにさ. れにつけても、尼にならせたまへることを、口惜しう、参. しかば、いかばかりめでたからまし、それを思し出させた - 頁). りなどせさせたまはむにも、世の人の口わづらはしう思さ. るるほどに、人知れぬ御嘆きなりける。 (. -. 頁). 定子の心遣いや趣向の評価があるものの、帝に「私が他の女 性を多くは知らないからか」と言わせ(波線部)、 相対化する。. 方さぶらはずなん」など啓して、かへすがへすかしこまり. ろおどろしき御事どもをば。問はせたまはんにも奏すべき. 上の思しめしてせさせたまへるかひなく、いかでかくおど. ならむ。ただ右近をば睦まじうあなづらはしき方にてと、. い気持を口にして、詮子(彼女も尼だが自由に参内できる)が. 人でないことを思い遠慮・躊躇しながらも、常々脩子に会いた. の生昌宅)に住んだという。また帝が、道長の意向や定子が俗. 産のこともあり詮子の取り次ぎで「平中納言惟仲が知る所」 (弟. さて『栄花』の長徳三年(九九七)は、特に史実離れが著し い。火事で里第の「二条」を失った定子は(これは史実) 、出. -  - 35. まふにも、ゆゆしく思さる。 (. 続いて隆家が心配していた細やかな心配りを詮子が行ったと し、「神仏の御助けにや」 ( 頁)とまで評する一方、帝が派遣 配慮については、 恐縮ゆえとは言え、 余計なことのように語る。. て、やがて内裏へ参りければ、上忍びやかに召して、日ご. 気の毒がったことに対し、 「さすがに若宮の御前のかぎり参ら. 三、巻五「浦々の別」長徳三・四年の定子. ろの御有様こまかに問はせたまふに、よろづさしましつつ. 右近内侍、七日がほど過ぎて内裏に参れば、さま かくて、 ざまいみじうこまかなる事どもをせさせたまへれば、 「何. 272. 269. をうとしと、かくはわづらはしき事どもをせさせたまへる. 270. 268. した「右近内侍」 ( 『枕草子』でも繋ぎ役)の帰参の際の定子の. 269.

(11) も母の御代りにはいかでとこそ思ひきこえはべれど、その. 朝け暮れてこそ。(中略)いさや、(参内は)よろづつつま. 頁) 。. しくのみおぼえてこそ、いかにせましと思ひやすらはれ。. せたまふべきにはあらずかし」と評している( しかし実際には、長徳三年夏四月に伊周らの罪科が許され、 六月に定子が内裏の外の職御曹司に入り( 『小右記』 ) 、翌長徳. よろづよりもかの旅の人々をいかにいかにと思ひものする. こととなくもの騷しきうちに、この宮の御扱ひにはかなく. 四年(九九八)十二月に、脩子のみ職御曹司から参内して、翌. こそ、いみじうあはれに心細けれ。 『さりとも、いとかく. 4. 日登華殿で着袴が行われた( 『権記』 ) 。定子は、長保元年(九. 苦しきことにのたまはすなれ」とのたまはすれば(中略). 4. 九九)正月に参内して、敦康を懐妊し、十一月に出産する。. そそのかし、泣きみ笑ひみ夜一夜御物語ありて、暁には帰. てやむやうはいかでか』とのみこそは、内にもいみじう心. 『栄花』は、長徳三年「夏」に、召還と男子誕生が叶うとい う「夢」に基づく成忠の勧めにより、定子が脩子を連れて参内. 4. し( 道 長 の 助 力 も あ っ た ) 、帝とも再会。翌長徳四年「三月ば. 4. かり」に敦康誕生。それを受け、帝・詮子・道長の合議で「四. りたまひぬ。 宮 の御前 の 、内裏参りのこと、そそのかし 啓しつるにぞ思したたせたまへる。明順、道順、よろづに. 月」に召還が決まるとの独自の因果関係を作り出している。 『新 編日本古典文学全集』頭注が、明石巻の光源氏の召還を「下敷. れば、さはとてもろともに参らせたまふ。人の(世間の人. そそきたてまつる。(中略)いといとつつましう 宮 思 し め し た れ ど、 「などてか。なほもろともに」と(帝が)聞. は)、口やすかるまじう思へり。 (巻五・. えさせたまへば、かの二位のそそのかしきこえしこともあ. 中関白家に関る「人 さて、次の成忠の孫を見ての「笑み」が、 笑はれ」以外では初めての笑いである。つまり、 ⑰ 「うれし」 、. き」として指摘する通りだが、 「後見」の語は見えない。. 「 喜 び 」 、そして「笑み・笑ひ」のいずれもが、配流中の、. -. 頁、長徳三年). つまし」は、以後、定子に繰り返される言葉の一つである。. 細し」の他、 「つつまし」 「思ひやすらふ」も見えている。 「つ. 初めての会話文も見られる。その中に、兄弟が都にいない「心. よ ろづにつつましきことを思しめすに、院と御対面あ  宮 りて、尽きせぬ御物語を申させたまふほどに、上渡らせた. りも憚らない帝の振舞から桐壺巻の引用が始まる(⑮末参照) 。. は定子に「かたはらいた」さを添えるものでもあった。人の誹. 次の参内場面の脩子の笑顔は、唯一屈託がない。史実と異な り、ここで帝との再会、帝主導の夫婦関係の復活がある。それ. 都にいる者達のささやかな幸せであった。また次には、定子の.  宮 の御前 あ はれに御覧じて、さくりもよよと泣かせたま ふ。宮(脩子)のいみじううつくしうおはしますを、二位. まひて若宮見たてまつらせたまふ。えもいはずうつくしう. 276. 笑みまげうつくしみたてまつりたまふ。 (中略) 「 こ こ に . 274. -  - 36. 273.

(12) れ ど、 「なほしばし。宮見つくまで、今四五日は」と申さ. よろづに語らひきこえたまひて、暁に出でさせたまふべけ. れぬさまに乱れさせたまふほども、かたはらいたげなり。. かへる御心の出でくれば、宮 、 いといとけしからぬことな り」など、よろづに申させたまへど、それをも聞しめし入. きさまにて泣きみ笑ひみ聞えさせたまふに、古になほたち. ことわりなれど、御殿油遠くとりなして、 (心の)隔てな. 知れず思しめしける。さて 宮 に 御対面あるに、(定子が) 御几帳引寄せていとけ遠くもてなしきこえたまへるほども. せたまふべし。まして、男におはしまさましかばとぞ、人. 前は、今まで見ざりけるよと思しめすに、まづ御涙もうか. おはしまして、ただ笑ひに笑ひ物語せさせたまふ。上の御. なる契(前世からの因縁)を思し知せたまふ。かへすがへ. て思さるべし。上、かくと聞かせたまふにも、まづあはれ. せさせたまふこともなければ、いかなるにかと、胸つぶれ. 二月ばかりおはしますほどに、御心地あしう思されて、例. かりけるを、「なほしばししばし」 とのたまはせけるほどに、. にこよなげなり。このごろさぶらひたまふ女御たちの御お. りにおはしまして、後夜に帰らせたまひける。御心ざし昔. (帝は)なほいとほど遠しとて近き殿に渡したてまつりて、  上らせたまふことはなくて、われおはしまして、夜中ばか. 花』では三歳)のうちに母と死別する予告にもなっている。. 点が注目される。それは、 男子誕生の予告にも、さらに幼児( 『栄. は格別と続く。前掲⑮と併せて、定子が更衣に準えられている. すもかくてあるべかりける(懐妊する運命だった)御有様. を、かくいささかなる事ども(出家と兄弟の流罪)を、世. -. -. 頁). -  - 37. ぼえいかなるにかと見えさせたまふ。疾く出させたまふべ. せたまひて、職御曹司に暁渡らせたまひて、そこにしばし おはしますべくしつらはせたまふ。上も 宮 も よろづに思 しめしはばかること多くおはしませど、ひたみちにただあ. 人 も 聞 き に く く 申 し、わ が 御 心 地 に も よ ろ づ に夢 の 世 と のみ思したどらるべし。但馬(史実では出雲)にはかかる. はれに恋しう思ひきこえさせたまへるほどなれば、人のそ しらむも知らぬさまにもてなしこきこえさせたまふも、こ. 二位いとどしき御祈りやすからむやは。 宮 は かくて御心 地苦しう思さるれば、切に聞えさせたまひて、出でさせた. れど御心ざしの有様こよなげなり。 (. まひぬ。そのほど弘徽殿、承香殿など参りこみたまふ。さ. 事どもを聞きたまひて、ただ仏神をのみ祈りゐたまへり。. の方はずちなきことにこそあめれ。 宮 の御前 は 、世のか た は ら い た さ を さ へ、 も の 嘆 き に 添 へ て 思 し め す。 御 頁) 方 の 女房たち、 昔おぼえてあはれに思ひたり。(. 『新全集』頭注は、右の「ひたみち」以下の桐壺巻の引用を 指摘する。在所が遠いので近くに移す、帝が通う、他の女御は. 退出後、帝から毎日のように「御文」があり、右近内侍も「さ. 278. 279. 放置される、懐妊は前世からの因縁、退出を引き止める、寵愛. 279. 277.

(13) りげなき伝へ人」を務め、成忠は「夢の験」を思い祈り続け、. ゆしきまで思されながら、女院に御消息あれば、上に奏せ. 生れたまひぬ。男御子におはしませば、 (定子は)いとゆ. 祈りまうす。いみじき御願の験にや、いと平らかに男御子. と、聞にくきまで世にののしり申す。御湯殿に右近内侍、. 誰も 思しめさる。 「世の中にはかくこそありけれ。望めど 望まれず、 逃るれど逃れずといふは、 げに人の御幸にこそ」. させたまひて、御剣もて参る。いとうれしきことに 誰 も. 伊周も男子誕生を期待するが、 定子自身は、 初産の時と同じく、 宮 の 御腹も高くならせたまへれば、あはれに心細く思さ れけり。はるかなる御有様どもをわりなきことに申させた. 身体の変化と兄弟が遠所にいることを「心細し」と思う。 . 頁). まひしかば、内にもいと心苦しきことに思しめして、つね に院にも語らひ申させたまふ。 (. -. 頁、長徳四年). 仕うまつりたまふ。いかにいかにと思しわたるほどに御気. もいそがせたまふ。僧都の君(隆円)もよろづに頼もしく. ろづを推しはかりきこえさせたまへば、それにてぞ何ごと. より例のさまざまの御具などもてはこび、女院などよりよ. とに御封などすがすがしうわきまへまうす人なし。内蔵寮. (中略)中 宮 に は三月ばかりにぞ御子 長徳四年になりぬ。 生れたまふべきほどなれば、御慎みをよろづに思せど、こ. 徳三年の召還の翌々年の誕生なので、そのような負荷は無い。. という負荷が掛かった状態での心理である。なお史実では、長. なった。皇子誕生に「うれし」とあるが、やはり兄弟の配流中. 身近では出家した弟だけが頼りで、当日は家主の生昌も頼りに. 一方、伊周の滑稽なまでの狂喜や期待の様は、「あさましう うれしくて、物にぞ当らせたまふ。「わが仏の御徳にわれらも. 但し定子については、 単独では「うれし」の語が用いられない。. にあひぬることと、世にいみじうめでたく思ふべし」とある。. う聞きたまひて、あはれにうれしきことを思すべし」、 「 宮 の 女房、よくこそほかざまへおもむかずなりにけれ、若君の御世. 奉らせ給へ」と言い(史実は誕生前に薨去)、「但馬にはいと疾. これに続けて、成忠が「かしらだにかたくおはしまさば、一 天下の君にこそはおはしますめれ。よくよく心ことにかしづき. の手配を行成に命じた(『権記』長保元年十一月七日条) 。. たとの語りが右に続く。実際には、 喜んだ帝が直ちに「七日夜」. ほ思しはばかりて」いたところ、その意を汲んで道長が奉仕し. 『栄花』では兄弟の配流中 生昌宅での出産は史実通りだが、 という設定になっている為に、 帝が「七日夜」を行うことを「な. 例の参る。 (. 色あり。ささとののしり騷ぐほどに、あはれに頼もしき方. 翌年になって、脩子の時と異なり安産祈願の「御慎み」に触 れられるが、 はかばかしく出来ず、 帝と詮子が配慮したという。. なし。ただこの但馬守(生昌)ぞ、よろづ頼もしう仕うま. 召されぬべかめり」と、いみじううれしく思しめされて、この. 282. つる。二位もかくと聞きたてまつりて、居ながら額をつき. -  - 38. 283. 281.

(14) 御事の後よりは、ただ行く末のあらましごとのみ思しつづけら. (中略)淑景舎、宮の上など集まらせたまへり。四の御方. 夢のうつつになりたる心地せさせたまふことかぎりなし。. 頁). 、妻子と 伊周も、「十二月」には帰京し(史実は前年十二月) 再会した後、 参宮する。兄弟による貴子の墓参まで挙げておく。. あつかひきこえさせたまふ。 (. は、(定子が)今宮の御後見にとりわき聞えさせたまへれば、. 頁) 。. れて、御心の中にはいと頼しく思さるべし」と詳しい( 定子にとって「うれし」と言えるのは、次に語られる兄弟の 召還であった。そのことから、逆に今までの「心細し」 「頼り なし」の程が窺える。また直前に、疱瘡の流行により多数の死 者が出て、 朝廷も世間も嘆く時期であったことが記されている。. も、なほいと世は定めがたし、平らかに誰も御命をたもた. 宮をまづ抱きたてまつらまほしげに思せど、「いまいまし. にも関らず、私の事でひたすら喜ぶというのは、后、国母とし. 実際に召還のあった前年には疫病の流行が無かった。. せたまふのみこそ、世にめでたきことなりけれとのみぞ、. の御前 、 一重の御衣の袖もしぼるばかりにておはしま  宮 す。(伊周は) 「何事ものどかになむ」など申させたまふ。. 今年(長徳四年)、 例の裳瘡(天然痘)にはあらず、 それに いと赤き瘡の細かなる出で来て、老いたる若き、上下分か. 見えさせたまふ。故上(貴子)の御事をかへすがへす聞え. 宮たちさまざまにいみじううつくしうおはしますを、一の. ずこれを病みののしりて、やがていたづらになるたぐひも. ての定子の失格も示す意図があるのだろう。なお、長徳四年に. あるべし。これを公、 私今ののもの嘆きにして、 静心なし。. させたまひつつ、誰 ( きょうだい全員)もいみじう泣かせ (3) たまふ。よろづ一つ涙といふやうに見えさせたまふも、あ. 麻疹が流行したとする点は史実に合致するが ( 『新全集』 頭注) 、. さ れ ど、 こ の 召 返 し の 宣 旨 下 り ぬ れ ば、宮 の 御 前 世 に う れしきことに思さるべし。夜を昼になして、公の御使をも. 墓を拝みに、帥殿、中納言殿もろともに桜本に詣らせたま. はれに見えさせたまふ。そのころ吉日して、故北の方の御. うのみ、もののおぼえはべりて」と、聞えさせたまふほど. 知らず、まづ 宮 の 御使ども参る。これにつけても、若宮 (敦康)の御徳と、世の人めでののしる。 ( 頁). にも、涙におぼほれたまふ。をりしも雪いみじう降る。露. ふ。あはれに悲しう思されて、おはせましかばと思さるる. 次の場面では、定子と再会した隆家が嬉し涙に暮れる。なお 隆家は、直前の妻との再会場面から「中納言」に呼称が戻る。. りける よろづあはれに聞えおきて、泣く泣く帰らせたま. ば か り 匂 ひ と ど め て 散 り に け る 桜 が も と を 見 る ぞ 悲 し き . 帥殿、桜もと降るあは雪を花と見て折るにも袖ぞぬれまさ. うつくしうおはします。見たてまつりたまふにつけても、. -  - 39. 288. 285. 参 り た ま へ れ ば、 御 喜 び の 涙 ど も せ き と  中 納 言 殿、宮 に めがたし。あはれに悲しきに、姫宮、若宮、さまざまにぞ. 286.

(15) ふ。いかで今はそこに御堂建てさせんとぞ、 思し掟てける。 (. - 頁、巻末、長徳四年十二月). 承香殿、暗部屋など参りこませたまへり。されどさるべき. 御 子 た ち も 出 で お は し ま さ で、中 宮 の み こ そ は、 か く て 御子たちあまたおはしますめれ。(巻六・ 頁、 長保元年). さて、定子崩御の年である翌長保二年は、彰子立后の噂で始 まる。 『栄花』では、「飽かずさうざうしき」ことに彰子が「二. まし」と思い言い出せなかったところ、道長と詮子の勧めや、. 月」の「一日頃」に「藤壺」を退出した為、 「つれづれ」を感. 道長の援助(「唐の御車」の提供、脩子を連れて参内した時と. 頁) 、 「女御のはかなく奉りたる御衣の色、薫な. 長保元年十一月一日のことなり」 (. 299. 頁)のように、本内裏に女御として入ったと続く。実際に. 子沢山を印象付け、後掲の子育てに勤しむ姿に繋げている。. 美質を表す語は、やはり見当たらない。子供は二人だけだが、. 五 段「 内 の 局 細 殿 い み じ う を か し 」 等 ) 、直接的に定子自身の. のは『枕草子』の宮廷生活礼賛の記事に基づくのであろうが(七. 「照り輝」く「藤壺」の室礼や女房の装束を詳しく語る前に、 かつての定子後宮の様子に触れている。 「細殿」を取り上げた. 女御になったのは十一月七日。敦康誕生もその日であった。. は、裳着は同年二月九日、入内日は右の通りだが、里内裏で、. (. どぞ、世にめでたき例にしつべき御事なり。御宿直しきりなり」. はします」 (. 300. . 中 宮 参 らせたまふべきよしたびたびあれど、つつましう のみ思しめすに、まめやかに院(詮子)も申させたまへば、. に 思 し め す べ し。 女 院 に も( 中 略 )中 宮 を ば、 心 苦 し う いとほしきものにぞ思ひきこえさせたまひける。 (中略). 宮 は 朝暮、「われ参らずとも、宮(敦康)かくておはしま せば、さりとも今は(兄以下、一家も安全) 」と心のどか. こ と を、 や す か ら ぬ 御 嘆 き に 思 し め し た り。( 中 略 )中 . は、今宮(敦康三歳)をいままで見たてまつらせたまはぬ. 中 宮 は 、宮(脩子と敦康)の御事を思しあつかひなどし て、参らせたまふべきことただ今見えさせたまはず。内に. 退出、定子が翌日に参内した。敦康の百日に備えてである。. り」に参内させる。実際には、彰子が二月十日に一条院内裏を. 同じく「御迎へ」の人の手配)があって、定子を「二月つごも. じた帝が、「このひま」に敦康に会いたいと思うものの、 「つつ. 頁) 、 「この御方藤壺にお. さて巻六は、前巻末から一年弱の空白があり、彰子の裳着・ 入内準備で始まる ( 頁) 。そして、「かくて参らせたまふこと、. 四、巻六「かかやく藤壺」の定子. 「あは雪」の語はあるものの、 「消ゆ」 師走の大雪の日だが、 は用いられていないことに注意しておきたい。. 295 302. 故関白殿の御有様は、いとものはなやかに今めかしう愛敬. 思したたせたまふ。 (. -. 頁、長保二年). 309. -  - 40. 302. 293. づ き て 気 近 う ぞ あ り し か ば、中 宮 の 御 方 は、 殿 上 人 も、 細殿つねにゆかしうあらまほしげにぞ思ひたりし。 弘徽殿、. 307. 303.

(16) 思ひたまへず。ただ(敦康の)おさなき御有様のうしろめ. 頁). たてまつらせたまふ」とある点が、特に注目される。敦康は容. 厄年に当たることと、宿曜勘文の内容にあり、妊娠が加わるこ. これに、次のが続く。実際の彰子立后は二月二十五日、定 子 の 退 出 は 三 月 二 十 七 日 で あ っ た。 「心細し」と思う理由が、. たさに」など、いみじう申させたまひけり。(. 貌・資質ともに帝を受け継いでおり、特に後者の「笛」は円融. とで一層その思いが募ったことが明らかにされている。. 上の御 なお宮達との対面場面では、敦康について、詮子が「 児生ひにぞ、いとよく似たてまつらせたまふ」と見た点や、道. →一条→敦康の系譜を示すが、知られるように、この前後に記. 三月に、藤壺后に立たせたまふべき宣旨下りぬ。中宮と聞. 長が「上の御笛を取らせたまへば、いとゆゆしううつくしう見. された定子や帝の「のどか」な気持と同様、 空しい結果となる。. 上、「いなや。いかなればなどかくはのたまはするぞ」な. べりつるなり」と、まめやかにあはれに申させたまふを、. つり、また今宮の御有様うしろめたくて、かく思ひたちは. たびは参るにつつましうおぼえはべれど、今一度見たてま. 宮 例 の御有様(いつもの様子)におはしまさず、もの心 細げにあはれなることどもをのみぞ申させたまふ。 「この. からないということ)を夜昼語らひきこえさせたまへど、. 心 の ど か に、宮 に 泣 き み 笑 ひ み、 た だ 御 ( 帝 は ) よ ろ づ 命を知らせたまはぬよし(帝自身の寿命がどうなるかはわ. 後掲の退出の引き延ばしと共に、桐壺更衣と共通する。. 一度」なのである。三歳の皇子の行く末を案じ、 帝に託す様は、. さも心憂かるべきかなと、あはれにもののみ心細く思しつ. すこの月の御事のさもあらずならせたまひぬるを、 いでや、. ひて、御袖も一ならずあまた濡れさせたまふ。かへすがへ. に出させたまふも、あはれに悲しきこと多く聞えさせたま. どぞ(帝に)うち語らひきえさせたまひける。三月三十日. いとこそさあらむ(懐妊)につけても心細かるべけれ」な. にもあり、宿曜などにも心細くのみ言ひてはべれば、なほ. おぼつかなげにのたまはするにも、(定子は) 「それ(懐妊). いかにいかにと心細う思さるべし。上もいかなればにかと. りしに、一日ごろ里にて御月の事ありけるに、三月二十日. ( 中 略 )皇 后 宮 今 日 明 日 出 で さ せ た ま ひ な む と す る を、 切に「なほなほ」と聞えさせたまふ。二月に参らせたまへ. えさす。 こ のさぶらはせたまふ を ば皇后宮と聞えさす。. ど聞えさせたまへど、 「なほものの心細くのみおぼえはべ. また、この対面の場面に、定子の帝に対する言葉が初めて記 されているのだが、 それが「心細し」であり、 死を予期した「今. る」など、常なるまじき御ことどもをのみあれば、 「うた. づけらるるを、ゆゆしう、かく思はじと思しかへせど、い. つ ご も り. をうれしと思ふべきにもはべらず。今年は人の慎むべき年. 余りまでさることなければ、 いといとあやしくて、いとど、. てゆゆしう」と(帝が)仰せらる。 「 身 を ばともかくも. -  - 41. 311.

(17) とうたてのみ思さる。その後、つゆ物をきこしめさで、た. せたまふべきやうに(末参照) 、うち泣きてぞのたまは. ば、御おととの四の御方をぞ、今宮の御後見よく仕まつら. - 頁). 頁). 皇后宮 は い とど もの をの み思 し 嘆 月日過 ぎ ゆくま ま に、 くべし。( 頁、巻末). 宮たちのうつくしうおはしますさまかぎりなし。(. きて、内にはいとど 皇 后宮 の 御有様をゆかしく思ひきこ えさせたまひつつ、おぼつかなからぬ御消息つねにあり。. きつつぞ過ぐさせたまひける。月日もはかなく過ぎもてい. せける。御匣殿も、 「ゆゆしきことを」と聞えて、うち泣. だ夜昼涙に浮きてのみおはしませば、帥殿も中納言殿もい みじき大事に思し嘆きたり。 ( これに続けて、安産祈願が「名僧」には断られ、思うように できず、身内の僧しか頼れないことが述べられている。 ただ御祈りの事をのみいそがせたまへど、いさや、世の中 にすこし人に知られ、人がましき名僧などは、このわたり (中関白家)に親しきさまなることはわづらはしきことに 思ひて、召し遣はせたまへど、よろづに障りをのみ申しつ つ、たはやすくも参らねど、さりとてむげに人に知られぬ ほどなるは、 果報にやあらむ、 験なども見えぬわざなれば、. 巻七の冒頭は、巻五「浦々の別」と同じく、次のように「か くて」によって前の巻に連続している。史実では、定子は八月. 五、巻七「とりべ野」の定子. に 再 度 参 内 し た。 着 帯 の 儀 の 為 で あ ろ う。 『栄花』では、定子 -. ふ。荻の上風萩の下露(行成父義孝歌の引用)もいとど御. かく て八月 ば かり に な れば、皇 后宮 に は いと も の 心細 く  思されて、明暮は御涙にひちて、あはれにて過ぐさせたま. 「もの思ひ」 、息子への思いが繰り返さ この後、定子の「涙」 れ、次の「とりべ野」巻へと繋がる。 「五月五日」は、『枕草子』. 耳にとまりて過ぐさせたまふにも、いとど昔のみおぼされ. 皇 后宮 に は、あさましきまでもののみおぼえたまひけれ. 頁、長保二年). てながめさせたまふ。 (巻七・. . が長期間重態に陥り、命が危ぶまれた時期であった。. のめでたさの表現に借用している。史実では、道長と詮子こそ. 二二三段「三条の宮におはしますころ」に描かれているが、「は. 314. の「涙」は途切れることは無く、「ながめ」も初めて見られる。. 嘆きたり。 (中略)僧都の君、清照阿闍梨などばかりぞ、 まひつつも、かつは 我 まづ知るもの(引 い つまでとのみ、 歌で落涙を表す)に思さるるもいみじうぞ。 ( 頁). 夜居につねにさぶらひたまふ。この宮達の御扱ひせさせた. 御祈り思すさまにもさせたまはぬを、口惜しきさまに思し. 317. 313. じめに」で述べたように、 『栄花』はそれを中宮彰子の御在所. 313. 仏」を聞きたいとの願いにより、死がさらに必然化する。. 詮子からの手紙や帝からの公的な援助の後、安産祈願もまま ならないことが再度語られる(初回は)。そのことや本人の「念. 321. -  - 42. 318. 312.

(18) . の代表で、過ぎ去った「昔」のこととしては取り上げるである。. 同じく「御子たちあまた」 (前掲)のはずの帝と定子の、東. 清少納言を評した「誇りか」は、東宮による道隆生前の原子評. 御慎しみをも、思すさまにもあらず、御修法(五壇ができ. 仕 う ま つ ら ん と 思 ふ ほ ど に、こ の 宮 の 御 読 経 な ど を ば、 あやしの代りばかりの、ものはかばかしからず何ともなく. に見られたが(⑦)、「をかし」は中関白関係では初である(「藤. 宮夫妻とは対照的な隔たりも、印象付けられるのである。. 寝をのみ寝るにつけても、さもありぬべかりしをりにかや. ず)二壇ばかり、さべき御読経などぞあれど、僧なども、. うの御有様もあらましかば、いかにかひがひしからまし、. 壺」の描写には多用) 。. まづさべき所(道長など当時の権勢家)のをばかかず勤め. なぞや、今はただ念仏を隙なく聞かばやと思しながら、ま. の「五 その後の定子不在の宮中の様子を語る部分は、『枕草子』 節」や「臨時の祭」を踏まえている。共に宮廷らしい年中行事. たこの僧達のもてなし有様いそがしげさなども、罪をのみ. 言ひ語るにつけても、清少納言など出であひて、少々の若. つ、女房たちとも物語しつつ、五節の所どころの有様など. 五節、臨時の祭などうちつづき、今めかし 内裏わたりには ければ、それにつけても、昔忘れぬさべき君達など参りつ. 頁). き人などにも勝りてをかしう誇りかなるけはひを、なほ捨 頁). てがたくおぼえて、二三人づつつれてぞつねに(定子御在 所に)参る。(. 次の女房が裁縫に勤しむ姿も、『枕草子』九一段「ねたきもの」 などのそれを踏まえているのだろう。この辺りは、二六段「に. -  - 43. こそは作るべかめれなど思されて、たださるべき宮司など の掟にまかせられて過ぐさせたまふ。 (. これに、定子には兄弟の存在だけが慰めであることと、定子 が宮達の将来を思いやることが続く。 中納言殿などの参り給ばかりによろづ思し慰むれど、 帥殿、 ただ御涙のみこそこぼれさせたまへば、うたてゆゆしう思. くきもの」等の祈祷の途中で寝てしまう僧(前掲)、一五四. されても、姫宮、一の宮などの御有様をいかにいかにとの み思ほし見たてまつらせたまふ。常の御夜居は、僧都の君. けさせたまひて、あはれなることのみ多かり。またさべき. は この月(十一月が臨月)に当らせ給。御心地も悩ま  宮 しう思されて、清昭法橋つねに参りて御願立て、戒など受. 段を中心に『枕草子』と類似の表現が、集中的に見られる。. さぶらひたまへり。まして、 この君達 (伊周・隆家・隆円) 頁). 段「心もとなきもの」の後産の遅れ(後掲)など、類聚的章. のみ、思ほし知ること多かるべし。 (. このこと自体、 次代にも期待できない中関白家の衰退を示すが、. 続けて、東宮と娍子が「あまたの宮達おはしまして、御仲ら ひいと水漏るまじげ」で、 原子の参入は難しいとある( 頁) 。 323. おはせざらましかば、いかにいとど言はん方なからましと. 323. 322. 322.

(19) 白き御調度など、帥殿にいそがせたまふにも、 「今内裏よ. 以下、崩御後まで引いておく。「命長きは憂きこと」につい て『新全集』頭注は、『栄花物語詳解』の指摘による『荘子』. との接触を避けたい為だったので、 臨月か否かは無関係である。. きぬ. 定子が手習をする一方、伊周は「法師に劣らぬ御有様」で安産. 『栄花』では、十一月が臨月で出産が遅れたとする。実際に は脩子出産が、臨月は十月だったのに十二月十六日と遅れた。. まどふをかしこきことにするほどに、いと久しうなりぬれ. らするにきこしめし入るるやうにもあらねば、皆人あわて. 騷ぎ、よろづに御誦経とり出でさせたまふに、御湯など参. なく思ひて、今は後の御事(後産)になりぬ。額をつき、. ますを口惜しけれど、さはれ平かにおはしますを勝ること. 祈願をし、隆家も伺候し続ける。彼らが共に宮達の可愛らしさ. ば、なほいといとおぼつかなし。 「御殿油近う持て来」 とて、. 御使しきり 内にも聞しめしてければ、いかにいかにとある なり。かかるほどに御子(媄子)生れ給へり。女におはし. 外篇「寿則多辱」と、 桐壺巻の更衣母の類似表現を挙げている。. り持てまゐりなん」などあれど、ここにも設けであるべき ならねば、いそがせたまふ。女房にも衣(絹か)どもたま は せ て い そ が せ た ま ふ を、御 前 一 人 の 御 心 に は 思 ほ し ま ぎるることなくて、はかなく御手習などにせさせたまひつ 頁). に慰められ、自分達の命はともかく定子には当然無事であって. つも、あはれなる事どもをのみ書きつけさせたまふ。(. ほしいと思うにつけて宮達を大切に扱う様子を、語り手は「げ. ひ、なほ御誦経しきりにて、内にも外にもいとど額をつき. せたまひにけり。あないみじと惑ふほどに、僧たちさまよ. 帥殿御顔を見たてまつりたまふに、むげになき御気色なり。. 御心地悩しう思され かかるほどに十二月になりぬ。 宮 の て、今日や今日やと待ち思さるるに、今年はいみじう慎ま. ののしれど、何のかひもなくてやませたまひぬれば、帥殿. にと見たてまつりつれど、いとかくまでは思ひきこえさせ. ごろものをいと心細しと思ほしめしたりつる御気色もいか. あさましくてかい探りたてまつりたまへば、やがて冷えさ. せたまふべき御年にさへあれば、いかにいかにと悩ましげ. は抱きたてまつらせたまひて、声も惜しまず泣きたまふ。. 頁) 。. にこの殿ばら(伊周・隆家)見たてまつらせたまふに、い. さるべきなれど、さのみ言ひてやはとて、若宮をば抱きは. に理かな」と評している(. とど苦しげにおはします。さるべき祓、御誦経など隙なし。. なちきこえさせて、 (定子は)かき臥せたてまつりつ。 「日. け. 頁). やむごとなき験ある僧など召し集めてののしりあひたり。 年十二月十五日の夜になりぬ。 (. ざりつる。命長きは憂きことにこそありけれ」とて、「い. -  - 44. 324. ()に無能な代理しか寄越さないと 右の波線部分は、前 書かれていたことと矛盾する。以前来なかった理由が中関白家. 325. 御物の怪(気)などいとかしがましういふほどに、長保二. 324.

(20) かで御供に参りなん」とのみ、中納言殿も帥殿も泣きたま. よ など、あはれなる事ども多く書かせたまへり。 (. た、煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれと眺め. 頁). ふ。姫宮、若宮など、みな異方に渡し奉るにつけても、ゆ. えたり。内にも聞しめして、あはれ、いかに物を思しつら. ゆしう心憂し。この殿ばらの御をり(配流)に 宮 の 内の 人の涙は尽き果てにしかど、残り多かるものなりけりと見. い、 「鳥辺野の南の方に、二丁ばかりさりて、霊屋といふもの. 右のうち、特に例の「心細し」、自らの喩えとしての「草葉 の露」に注目しておきたい。この後、伊周は土葬との意向に従. -. 頁). よろづいと所せき御裝しさにおはしませば、事どもおのづ. からなべてにあらず思し掟てさせ給へり。(. -. 宮 は御手習をせさせたまひて、御帳の紐に結びつけさせ  たまへりけるを( 『古今集』哀傷歌・八五七参照) 、今ぞ帥. くのが、前述の「手習」 (末)と対応する定子の遺詠である。. 「靫負命婦」派遣場面を踏まえたものと考えられる。それに続. をりしも雪、片時におはし所も見えずなりぬれば、帥殿、. ばら、明順、道順などいふ人々も、いみじう泣きまどふ。. り。今宵しも雪いみじう降りて、おはしますべき屋(霊屋). 帥殿よりはじめ、さるべき殿ばらみな仕うまつらせたまへ. 宮 は 今年ぞ二十五にならせたまうける。その夜になりぬ れば、 黄金づくりの御糸毛の御車にておはしまさせたまふ。. 殿、御方々など取りて見たまひて、 「このたびは限りのた. 誰もみな消えのこるべき身ならねど ゆ き(逝き・雪)隠. の君、故里にゆき(行き・雪)も帰らで 君 と もに同じ野 辺にてやがて消えなん などのたまふも、いみじう悲し。. もみな降り埋みたり。 (中略)今はまかでたまふとて、殿. び(度・旅)ぞ。その後すべきやう」など書かせたまへり。. . 葬送の直前に、前掲を受け、初めて年齢が明記される。. . たことを示す。但し、 これも配流の時と同様に、伊周が行った。. それに続く次の一文が、唯一、定子が后に相応しい扱いを受け. を造りて、築土などつきて、ここにおはしまさせん」とする。. 頁). は「中宮の御方にも渡らせ給はず」ということが語られる(. 続けて泣き給」ふ「いみじうあはれ」な御在所の様子、帝自ら. の元に派遣され、応対に出た遺族の「帥殿」が「よろづに言ひ. この後、詮子が以前から新生児を引き取る意向であったこと (史料で確認できない) 、 「中将命婦」 (系譜未詳)が「若宮」. れに悲しう思しめさる。 (. む、げにあるべくもあらず思ほしたりし御有様をと、あは. 329. いみじうあはれなる御手習どもの、内裏わたりの御覧じき こしめすやうなどやと思しけるにやとぞ見ゆる。よもすが ら契しことを忘れずば恋ひん涙の色ぞゆかしき また、知 る 人 も な き 別 れ 路 に 今 は と て 心 細 く も 急 ぎ た つ か な ま. -  - 45. 327. 頁)。これ以前の桐壺巻引用からも、これらは更衣邸弔問の. 327. 329. 325. れぬる君 ぞ 悲しき 中納言、白雪の降りつむ野辺は跡絶 えていづくをはか(目当て・墓)と 君 を たづねむ 僧都. 328.

(21) めされて、世の常の御有様(火葬)ならば、 (荼毘の煙で). らず思ほし明かさせたまひて、御袖の氷もところせく思し. 内には、今宵ぞかしと思しめしやりて、よもすがら御殿籠. 今宵のこと絵にかかせて人にも見せまほしうあはれなり。. 内裏には宮々のあまた(三人)おはしますを、帝なん、一 の宮をば中宮(彰子)の御子に聞えつけさせたまうて、こ. 事実は未詳) 、伊周・隆家が悲嘆する場面で触れられている。. 帝の子を身ごもったまま亡くなり(史実では長保四年、懐妊の. 面、敦康の後見人として()親しい関係となった御匣殿が. 霞まん野辺もながめさせたまふべきを、いかにせんとのみ. たまはぬときなし。故関白殿の四の御方は、御匣殿とこそ. てまつらせたまひつつ、昔をあはれに思ひ出できこえさせ. の御方がちにもてなしきこえさせたまひ、女一の宮、二の. (深雪)とも知らずやあるらん などぞ思しめし明かしけ る。暁に皆人々帰りたまひて、宮にはさぶらふ人々待ち迎. 宮などのいとうつくしうおはしますを、おろかならず見た. へたる気色、いとことわりに見えたり。おはしまし所、雪 -. -  - 46. 思 し め さ れ て 野 辺 ま で は 心 ば か り は 通 へ ど も わ が 行 幸. のかきたれ降るに、うちかへりみつつこなたざまにおはせ 頁). -. 頁、寛弘元年). にはかに御心地重りて、五六日ありてうせたまひぬ。御年 十七八ばかりにやおはしましつらん、御かたち心ざまいみ. おのづから漏り聞えぬ。 (巻八・. どいかがありけん、睦まじげにおはしますなどいふこと、. らほの見たてまつりなどせさせたまひけるほどに、そのほ. させたまふとて、上なども繁う渡らせたまふに、おのづか. は聞ゆるを、この一宮の御事を 故 宮 よ ろづに聞えつけさ せたまひしかば、ただこの宮の御母代によろづ後見きこえ. し御心地ども、いと悲しく思されたり。 (. なおこれ以後、定子について触れられるのは、まず、詮子が 服喪期間が過ぎて引き取った媄子を宮中に連れていき、帝が可 愛い姿を見つつ涙ぐむ場面である。 媄子)日にそへてうつくしうおはしまして、這ひゐ 若宮( ざらせたまひて、御念誦のさまたげにおはしますに、いと わりなきわざかなと、 もてあつかひきこえさせたまふ。 (中. じ う う つ く し う を か し げ にお は し ま し て、故 宮 の 御 有 様 にも劣らず、 かいひそめをかしうおはしましつるを ( 頁). 以上見てきたように、定子が具体的に描かれるのは長徳元年. 六、『栄花物語』の定子――后失格と桐壺更衣. 右が、間接的だが定子の美質に触れた唯一の例である。. 369. 略)。院の、 「 (定子は)今さらにかかる人をあづけさせた まひて、心とまること」と申させたまへば、 「さてあしう やはべる。つれづれに思しめすに、かく紛れはべれば」と 頁、長保三年). 366. 332. 申させたまふままに、御涙の浮かばせたまふを、院もいと あはれに見たてまつらせたまふ。 (. 365. 330. また次の巻八「はつはな」で、帝が遺児達を見て思い出す場. 338.

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