ヴァレリー・ラルボーの作品における「私」の軌跡
著者
瓜生 濃世
雑誌名
年報・フランス研究
号
42
ページ
27-40
発行年
2008-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/10348
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ヴァレリー・ラルボーの作品における 「私」の軌跡
瓜生
濃世
は じめに 近代 フランス小説の特徴のひ とつ として、個人の内面に対す る執拗なまでの 関心が挙げ られ るのは言 うまで もない。主人公の内面を分析的に描いたコンス タンの『 ア ドル フ』 “ あ″乃θ,1816)以 降、い くつ もの心理分析小説の傑作が誕 生 しているのは周知の事実である。この系譜 に連なる小説は、主人公の心情 を まるで実験対象のよ うに観察 して読者 の前に差 し出 し、個人の内的生活が語 る に値す るものであるとい う新たな世界観 を提示 した。もはや 「私」は社会 を構 成す るひ とつの要素ではな く、「私」が社会の中で生きてい るのであ り、「私」 の周 りに社会が存在 している一一つま り「全体か ら個へ」と視′点が転換 し始め たのである。そ して20世
紀以降 この世界観 は さらなる拡大を遂げ、全知全能 の存在であった作者の俯腋的視野ではなく、個人の視点を通 した世界が描かれ るよ うになった。そ こで主人公たちは、自らが世界 を発見す るとい う役害Jを得 たのである。 本稿で取 り上げるヴァレリー・ラルボー もまた内面世界の探求を作品のテー マ とした作家であ り、主人公たちは様々な形で 自らの心情 を吐露 している。有 閑階級 に所属 していたラルボーの関心は、専 ら精神 的充足に向け られたのであ り、彼 の作品の主人公たちは様 々な葛藤 を抱 えることになるのだ。ひ とつの流 れに沿つた物語 を生きるのではな く、彼 ら自身の感情が物語 を創 り出す。そ し て彼 らの 目がいわば唯一のカメラレンズ となって、その レンズを通 した外的世 界の描写が行われてい く。そ こでは 「私」の 日常や思念が全て、とい う極 めて矮小化 された世界が作品の軸になつている。そ うした重責を担 う「私」とい う 人物は、どのよ うに形作 られているのであろ うか。本稿 では、ラルボーの特徴 が色濃い複数の作品において 「私」が どのよ うに現れ、また個の視点を通 した ときに世界が どのよ うに記述 されているのかを検討 し、ラルボーの作品におけ る 「私」 とい う人物の軌跡 をた どつてみたい。 I 個人の視点を全面的に導入 した小説の技法 として、広 く知 られているのが 「内的独 自」である。ラルボーは内的独白を実践 した作品『恋人よ、幸せな恋 人よ…』 “ ″
"九
月初r―И″"お。¨,1921)の 献辞において、この手法の産みの 親 としてジェイムズ 。ジョイスの名を挙げたのだが、後 日ジョイス自身からエ ドゥアール・デュジャルダンが先駆者であるとい う説明を受けた。この発言を きつかけに再刊 されたデュジャルダンの小説『月桂樹は切 られた』¢ω Zα “″パ Sθ″ “ηな ,1887)は 、今 日内的独 自の源泉 として広 く知 られている。改めて視 覚的観点からこの作品の冒頭場面に注目してみたい。とい うのも、この場面に は 「全体」から「個」への視点の移 り変わ りそのものが非常に象徴的に現われ ていると思われるからだ。Un sott de soleil couchant d'air lointain, de ciellx profonds; et des foules conises;des brllits,des ombres,des lnultitudes;des espaces infmllnent ёtendus; lln vague sor...
Car sous le chaos des apparences,parmiles dttes etles sites,dans l'inusion des choses qui s'engendrent et qui s'enfantent un parmi les autres,un corrme les
autres,distinct des autres,semblable aux autres,un le meme et un de plus,de
l'inini des possibles e対 stences,je surgis;et voici que le temps et le licu se pだcisent c'eSt l'auJourd'hut c'est l'iCi;1'hellre qui some;et autollr de moi9 1a vie; 1'hellre, le licu,un soir d'avnl,Pans,un soir clair de soleil couchant les
ヴ ァレリー0ラルボーの作 品 における「私」 の軌跡
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monotones brllits,les mais(ms blanches,les feuilla/ges d'ombre%[...](1)。
この場面を映像化すべ く、カメラアングルを想定 してみたい。まずは夕暮れの 空を広いアングルで映 し出す全体図で始まる。次にカメラロ線は降下 し、雑踏 (fOules)を映 し出 し、雑音 KbmitS)を拾い、一度引いて辺 りの光景 を広 く捉 え て見せ る。そ してカメラの焦点は急速に絞 られ、そ うした俯腋的視野は消え始 める。カオスの中か ら、群衆の中か らひ とり、「私」が現れ るoe surgiS)一一同 時に主人公の 目がカメラの役 目を担 うことになる。そ して時 と場所が定まる。 時間が動き出 し、パ リとい う具体的な地名 が挙げ られ、主人公の 目に映つたも のが順 に描写 されて行 く。分量で言 えばごくわずかであるこの場面に、全体か ら個への視点転換が見事に濃縮 して描かれている。ここで主人公 自身の姿が客 観的に描写 され ることはない。全体図を重視す る小説な らば当た り前に行われ ていたであろ う説明が、ここでは欠如 している。容姿や出 自等の情報を得 られ ないまま、読者 は唐突に主人公の世界へ と巻 き込まれ、彼の 目を通 し、彼の 日 常を共有 してい くことになるのだ。 加 えて言 うな らば、この場面での主人公の現れ方そのものも非常に印象的で ある。「他者 のなかにいるひ とり、他者のよ うでいて、他者 とは異な り、他者 と似ている私(lln parmiles autres,lln corttne les autres,disinct des autes,semblable aux autres)」 が、無数の存在の中か ら出現す る―― ともすれば矛盾にも思える この形容の うちにも、「私」への視点変換が非常に繊細な形で行われている。 再びカメラアングル を考えるな らば、この一節 において想像 され るカメラの詳 細な動 きは次のよ うなものである。 「他者のなかにいるひ とり」(雑踏の中にいるひ とリーー カメラは急速に焦 点を彼ひ とりに絞 る) ↓ 「他者のようでいて」(比較のため、カメラは引いて雑踏 を映 し出す)
↓ 「他者 とは異なり」(ここでもう一度主人公に焦点が合 う) ↓ 「他者 と似ている」Cヒ較のため、再びカメラは引いて雑踏を映す) ↓ 「私が出現する」(ここでカメラが主人公 と同化する) 全体 と個に順に焦点を合わせ、最終的に「私」ひとりが浮かび上がる。周囲と 交互に映 し出され、その他大勢 と比較そ して区別化 されることで「私」の輪郭 が明確になる一―つまり「私」とい う個の存在の認識、それはまず他者 との物 理的な差異から始まることをこの場面から読み取れるのではないだろうか。主 人公について具体的な描写はなくとも、まずはその他大勢 と区別すべ く境界線 が引かれ、主人公のシルエ ッ トがくつきりと浮かび上がるのだ。 ではラルボー作品において、「私」の姿はどのような形で他者 と区別 され見 出されるのであろうか。内的独 自を実践 し、デュジャルダンに捧げた『秘めや かな心の声…』(」脆″′肱sθε″′ωぉθj′.¨,1923)の 冒頭場面を見てみよう。
〈〈Et sije lararnenais a son mari?〉〉
Ca,C'est du monologue de thё ate,une de ces choses qu'il se surprenait a dire,ou meme seulement a penstt pollr des spectatellrs imaginaires.o.649)
「彼女を夫の ところへ連れ戻 した らどうだ?」 とい うつぶや きに続 く文の中の 《il〉〉は、主人公であ り語 り手である リュカ 自身を指 している°し「これはまるで 芝居の独 自だ」 とい う一節は、彼が事実上観客 (=読者
)の
存在 を意識 してい ることを暗示 している。岩崎力は、20世紀 フランス文学について「作家は観客 であることをや め、みずか らクト優のひ とりとなって舞台に上った ともいえるだ ろ う。 ドラマを作 るのではな く、みずか ら ドラマ を生きる人間になったのであ る0」 と述べているが、この場面においては作家の分身 とも言 える主人公の姿ヴァレリー・ラルボーの作品における「私」の軌跡 に、そ うした作家の姿勢が極 めて具体的に表れている。主人公 を見つめる作家 の視線は、外側か らではな く、内側に入 り込んでその内的世界に注がれる。そ してま さしく上述の比喩 どお り、この作品では主人公が舞台上にいると宣言 さ せ られているのが興味深い。言 うな らば舞台上の主人公ひ とりにスポ ッ トライ トが当て られ、その周 りに暗闇が広がっているイメージである。この独 自以降、 観客は彼 と共に物語 を体験 してい くことは間違いない。だが しか し、作品を紡 ぎだ してい くのは舞台上の役者(=主人公)な のであ り、決 して観客(=読者) なのではない。観客は、役者の語 りを通 じて世界を眺めそ して彼の経験を共有 してい くとは言 え、それは彼 と同化す ることと無論イ コールではない。役者の 思念の中に置かれ るとい うことが彼 自身になるとい うことになるはず もな く、 む しろ役者 と観客、主人公 と読者、つま り「私」 とその他大勢 とい う二者の存 在が想定 され ることによって、その間に明確な境界線が引かれているよ うに思 えてな らない。「観客 (=他者)」 の存在 を前提 とす ることによ り、「私」 とい う「個」の存在が明確化 されてい く。「私」は役者 なのであって観客のあなた たちではない、 とい うメッセージを打ち出す ことで、「個」の視点の存在がよ り具体的に浮かび上がって くる。 「私」と「私以外の誰か」 とい う二者の存在に注 目するならば、興味深い例 が 「ローズ・ルール ダン」(〈〈Rose Lourdin〉〉,1911)においても見 られ る。初期 に 執筆 された この短編は、主人公 ローズが不遇な寄宿学校時代の思い出を語 ると い う形式をとつている。全編 が彼女 自身の言葉で進むのだが、彼女は 「あなた 《vous》」 とい う人物 に対 して話 しているのだ。
Avec nos cheveux aplatis sllr nos tetes par un long peigne l】 Tondi,ct nos nattes
repliёes et enfellnёes dans une“sille noire,シθzs n'imaginez pas con■■e nos 宙sages paraissaient dm.● .398)
Oh!ce rendez¨ vous avec un sarrau noir de petite pensionnare!Et rnoi qui rn'ё tais
pronlis deレθ “
mains!o.402)
voilao Mais de l'essentielje ne"“ ai五en dit.o.407)0
この 〈〈vous〉〉については説明が一切見 られず、また くくvous〉〉自身 も言葉 を発す ることはないのだが、その存在感 は多大であると言 えよ う。物語の始ま りか ら して、ローズは 「あなたは想像できないで しょう」とこの人物に語 りかけてい るのであ り、また最終場面では 「あなたに肝心なことは何 も言わなかつた」と 告げ、陶酔 した様子で少女時代の幸福な瞬間を語 つてみせ るのだ。彼女の思い 出話が とらえどころのない一方的な言舌にな らずに済むのは、主観的そ して客観 的観点が共存 しているとい う理 由もあるだろ うが0、 この 〈〈vous〉〉とい う無言 の聞き手の存在が、登場回数は少ないものの、現在のローズを 「個」として一 貫性 ある視点の持 ち主 として成立 させ るのに一役 買つてい るのではないだろ うか。最終段落には 「ほ ら、左 の隅のあのテーブルで昼食 を とつたのです よ ぃ408)」 とい うせ りふがあ り、彼女 とこの人物が レス トランらしい場所にいる ことが示 され、ふた りの姿がはつき りとした輪郭 を持 つて物語の幕は閉 じる。 ロー ズは、終始 〈〈vollS〉〉に話 しかけていた。話 し手 とは異なる聞 き手の存在 一一二者がいることによつて、主人公の「私」は「聞き手」と区別 され る。「私」 と「あなた」は異なる人間である、とい う暗黙の了解 によつて、「私」の 「個」 としての存在が確立 されているよ うに思われてな らない。 Ⅱ 他者 と物理的に区別 され ることか ら始まった 「私」の存在一―舞 台上でひ と り「私」にスポ ッ トライ トが当て られ、「私」の言葉 中心に世界がまわ り始 め る。その 目に、世界は どのよ うに映 るのであろ うか。 日記形式であ り、主人公
の言葉で埋め尽くされた『
A.0。バルナブース全集』に
0.B銘隠
bθο
tt sωαぶヽ
ω ″ 麟 銭 caルa場姥 "″`。″れ S“ ′θお盗 α SθηJia夕″α′li4rlime 1913)の 第 二 部 「 日ヴァレリー・ラルボーの作品における「私」の軌跡 記」(Jollmd lntimり を見てみ よ う。主人公バルナブースは、億万長者 と紹介 さ れた記事に関 して 「これは 自分ではな く全 くの他人のよ うだ し84)」 と憤 るな ど、社会や他人か らの評価 に大きな違和感 を覚 えている。彼 の 日か らすれば、 自分の ことを何 も知 らない世間が、肩書や財産のみで 「私」とい う人間を判断 しているのだ。ただ し「実際、こんなによく感 じているイタ リアの空気 とい う もの を、 どんなに言葉 を積 み重ねて も うま く表現す るこ とがで きないのだ oH4)」 とい う一文のよ うに、傲岸不遜ななかに謙虚 な部分が見え隠れ してい る場合 もある。だが彼 は ヨー ロッパ滞在 を通 して 自己確立すべ く模索中の若者 であ り、とか く何 に対 して も非常に反抗的で、何事 も批半J的に捉 えがちである。 記述方法で言 えば、『 秘めやかな心の声…』 において 「私」中心の世界描写 を極端な形で見出す ことができる。それは、主人公が乗車 している汽車が通過 す る土地の名 を、まるで 日記のよ うに、ページの右側 に記す とい う形式である。 内的独 白の語 りの文章が途 中で切断 され、地名が突然挿入 されている場面が四 ヵ
F)見
られ る。一例 を見てみ よ う。On dira que nous sonlnes bien dimcile;Inais c'est que,si nous sonlnes repu de
scёnes de Fnёnage et de tempetes domestiques,nous solFmeS aussi repu
Persano. d'amoun Onzc hellres 1lolns d破 。On va
s'耐ter partout maintenant.La li3ne monte.● .692)
思念の記述が文字通 り中断 され、ペルサー ノとい う地名がメモのよ うに記 され ている。これは内的独 自の実験`性そ して柔軟′性を多いに活か した表記であると 同時に、主人公である 「私」の絶対`性が如実に表れている。つま り、作品を形 作 るのはあ くまでも彼の頭の中に浮かぶ ものであ り、それ を言語化す るのが内 的独 自の趣 旨である。レア リスム的な背景説明は必要 とされず、地理に関す る 情報は、主人公の 日の端に映つた程度で記述面に反映 させれば良いのだ。ここ
では、外的情報 を極端に選択す ることで 「私」に当て られたスポ ッ トライ トの 光がいつそ う強 くなっていると言 えないだろ うか。まず彼の意識の流れの記述 あ りきであ り、現実的な背景は舞台の書 き割 りのよ うに薄っぺ らく質量に欠 け、 次々 と差 し替 え られてい くものにす ぎないのである。 そ うした個の視点中心の断片的な描写は、風景のみな らず人物に関 して も散 見 され る。例 えば『 秘めやかな心の声…』では、主人公 リュカが恋心を抱 くイ レーヌ とい う女性の描写は非常に感覚的であ り、彼女の表情や動作、声 といつ た部分的な印象のみが積み重ね られ る。それは彼の内面において彼女の実像 を いまだ捉 えてない とい う状態 を反映 しているのであろ うが、読者の 目にもイ レ ーヌの輪郭はひ どく曖味なままである。また『 恋人 よ、幸せな恋人 よ…』にお けるヒロイ ンの身体描 写に注 目す るな らば、象徴主義の影響 を思わせ るよ うな 「アクセサ リーのみを描 くことで裸体を暗示す る」とい う例を挙げることもで きる(7)。 ただ しこのよ うな 「私」の絶対性 は、初期作品を鑑みた時、複雑なゆ らぎが 見出 され るのが興味深 い。 それ は例 えば『 フェル ミナ・マル ケス』陛 ″ 加α 筋 ηタク,1910)に 現れ る 「私」である。 この 「私」はごく限 られた回数で登場 し、作品の大部分において全知全能の作者 として語 り手を務 めているが、最終 節で思わぬエ ピソー ドを迎 える。少年時代 を過 ご した学校 を訪ねた 「私」は、 門番 によつて同級生たちのその後を知 らされ るのだ。しか も、当時 ヒロイ ンで あったフェル ミナ・マルケスのその後の人生は、結局わか らず じまいなのであ る。「私」にも読者 にも知 らされない世界がそ こには存在す る。し こ うして主人公 とそれ以外が生 きるふたつの世界の存在が暗示 され ること で、「私」 とその他大勢、つま り他者の存在が生命感 を帯びて浮かび上が り、 そのコン トラス トによつていつそ う「私」の生きる世界が強調 され るよ うに思 えてな らない。個人的な言説が極端 に少ない この 「私」の足取 りが、「私」の 知 りえない世界の存在によつて、確かな重み を持 つて浮 き彫 りになってい る。 Ⅲ
ヴァレリー0ラルボーの作品における「私」の軌跡 作品を支配す る 「私」が追い求めてい くものは、一体何であるのか。精神面 での充足であることは、一 目瞭然である。裕福な家庭に育ったラルボーが、そ もそ も物質的欲求に駆 られ ることがないのは当然であろ う。短編集『 幼なごこ ろ』の一篇 「包丁」において、主人公 ミルーが将来何 にな りたいのか と尋ね ら れた時、ブル ジ ョワ的価値観の持 ち主である両親への反抗心か ら「僕は召使 に な りたい!」 6426)と 答え、溜飲 を下げる場面がある。だがアンヌ・シュヴァ リエが指摘 している通 り、ラルボーは決 して反資本主義者ではな く、金銭や財 力の価値 を否定は しない。実は彼 の作品において、貧困が純粋 さな どの肯定的 イメージに結び付 け られているのはごく稀な例なのである(9ヽ 彼が批判す るの はあ くまで も職業や経済力 によつて個人のアイデ ンテ ィテ ィーが判断 され る ことなのであって、社会のシステムに反抗 しているわけではない とい うことに 留意 したい。そ ういった意味で も、ラルボー作品において政治的なメッセージ が欠如 しているのは当然 と言 えよ う。金銭的に不 自由 していない主人公たちの 関心は、専 ら 「私」の 日常そ して精神生活 にのみ向け られ るのである。 ところで、『 フェル ミナ・マルケス』の主人公 ジ ョアニ・ レニオは、スタン ダールの『 赤 と黒』のジュ リアン・ ソレルの 「後輩 (cadeO」 にあたるとい う 分析がある。0。 無論彼 らの間には時代や年齢、生まれた環境等において違いは 非常に多い。だがその違いには、人間の内面を見つめる作家の視線が、時を経 て大きく変化 したのが端的に表れている。スタンダールは既存の社会を敵視 し て上昇志向を抱 き、激 しい野心を燃やす ジュ リアンの心理 を描いた。一方のジ ョアニ と言 えば、少年 とい うこともあ り、舞台は学校 とい う極 めて狭い空間で ある。大人たちに嫌悪感 は抱いているが、社会 を憎む とい うよ りも、周囲の人 間に 自分を認 め させ るべ く奮闘す る心理が詳細に描かれている。国や政治体制 への反抗心ではなく、ごく日常の狭い空間での出来事を問題 とし、おそ らく他 人か らすれ ば ごく瑣末なことを懸命 に乗 り越 えなが ら自己確 立を 目指すので ある。 「私」の充足のみ考えてい られ る状況、そこにはラルボーが活動 した
20世
紀初頭か ら第二次大戦までの二十数年間は、西欧、とりわけフランスのパ リが 世界の文化や芸術 を リー ドしていた とい う時代背景 も関係 していたであろ う。 ラルボーが一種の逃避 とも思 える旅行を積み重ねたのも、充実 していた 自国の 状態があつてこそ とは言えないだろ うか。実際、ラルボー もパ リを 「大陸の首 都 ぃ778)」 と形容 したことがある。優れた語学力の持 ち主で、豊富な外国体 験 を通 じて文学的感性 を磨いたラルボーは、典型的なコスモポ リタンの作家で
あると称されるが、「ヨーロッパはひとつの国である
(1lLといった発言に見ら
れるように、彼独自の文明観があった
(12、そぅぃった意味では、ヨーロッパ中
を巡 つて も、彼 に とつて精神 的には さほ どたい した距離の移動ではなかったで あろ う。それ にラルボー流の海外生活は と言 うと、いわゆる観光旅行 とは無縁 なのであ り、現地に馴染んで普段 と同様 に過 ごす ことを重視 した。スペイ ン滞 在の折には、「スペイ ン風の建物の中のアパル トマ ンを借 り、スペイ ン人の女 中を雇い、スペイ ン料理 を食べた。(D」 当然 ラルボーはスペイ ン語 を話 し、現 地で さらに新 しい言葉を覚 え、語学力に磨 きをかける。こ うした彼のポ リシー か らすれば、外国体験 も、そ こにいる 「私」 と向き合 う時間の一種にす ぎない とは言 えないだろ うか。『 バルナブースの 日記』 において、 ヨー ロッパ滞在 中 のバルナブースが 自我探究に挫折 し、結局同国人の女性 との結婚 を決意 して故 郷の南米に帰 るくだ りには、海外体験に対す る作者の冷静な視線が機能 してい るよ うにも思 える(И)。 どの場所でも、私は 「私」か ら逃れ ることはできない。では どういった形で 「私」は満足することができるのだろ う力ヽ アンヌ 0シ ュヴァリエはラルボー 作品におけるエ ゴテ ィスム(1'6gotisme)を分析 し、興味深い指摘 を している。 こ うした「私」への関心は、自己愛 と同一ではない とし、エ ゴティス ト(1'6gotist) とエ ゴイス ト(1'6golst)の違いを次のよ うに述べている。L'arnollr de soi d6tache l'6goiiste de la colrmllnau“ hllmaine,1l le renfeme et le replie dans Шle solitude qui est indittrence a aumi;1'6gotiste ne vit pas dans l'indittrence mais dans la dittrencc(15).
ヴァレリー・ラルボーの作品における「私」の軌跡
エ ゴイス トは、その 自己愛か ら他人に無関心 とい う孤独の中にいる。一方、エ
ゴテ ィス トは他人に無関心なのではなく、他人 との 「違い (dittrence)」 の中で
生きているのだ。よって 「ラルボー作品においてエ ゴティスム とは、世界そ し て活動す ることへ と至 る手立て (L'ёgotisme,dans l'∝uvre de Valery Larbaud,est donc ouverme au mOnde et mollvemenび Ю。)」 なのである。他人 との 「違い」の中
で生きている、とい うくだ りは、図 らず もラルボーの内的独 自の源泉 となつた デ ュジャル ダンの『 月桂樹は切 られて』の冒頭場面 とつながるよ うで示唆に富 む。他人に似ていて他人 とは異なる 「私」一一その 「私」の内面をひたす らに 見つめることは、必ず しも自分ひ とりの内面生活 に閉 じこもることと同等では ない。他人 との、外的世界 とのつなが りを求めてやまない精神活動なのである。 おそ らく、ラルボー作品においては、他人 とのつなが りを求める形が洗練 さ れているとは言い難いであろ う。 とりわけ異`性との交遊関係 に注 目すれば、主 人公たちが青少年の場合、あ りがちとは言 えひ どく不器用である。例 えば『 フ ェル ミナ 。マルケス』のジ ョアニ 0レ ニオやカ ミーユ・ムーティエはその最た るものである し、バルナブースは と言えば、すでに述べたよ うに最後に同国人 女性 との結婚 を決意す るが、それ以前に一度娼婦 との結婚 を計画す るものの、 実はその女性 は後見人 によ り彼 を監視す る役 目を負 った人物であつた とい う 苦い経験を している。『 秘めやかな心の声…』の リュカは、「来年のための計画」 と称 して書いたメモの中で、「女性」については理想的な女性 との出会いを待 つ よ う自戒 しつつ、「知 るために (savoiry」 夫婦生活 を経験 してみ よ うと述べ、 その相手にふた りの女性 を候補 として挙げ、あれ これ と一方的に検討 している 始末である。7ゝ 『 恋人 よ、幸せ な恋人 よ…』の主人公の場合、思い出の中の女 性 たちが 「僕の孤独 に参力日して くれ、僕 と世間(gens)を結びつけた唯一のか 細いきずなであった ぃ646)」 と述べたのち、近い将来を想像す ると、恋人だ った女性は幸せだろ うが、「僕はおそ らくひ とりばっちだo646)」 とつぶや く。 ただ しこ うした女性 関係 に見 られ る主人公たちの外的世界 との不器用な関わ りは、「テゼの船」(〈〈Le vttsseau de Thёsёc〉〉,1932)に おいて一応 の決着 を見 る
ことができる。この作品の主人公は、妻子がいる47歳 の男性 シャルノい マ リー・ ボンシエ ョールであ り、彼が列挙す る 「自分が幸せである理由op.1081-1082)」 を見 る限 り、 リュカにとつて 「経験 して知 るべ きこと」の対象で しかなかった 夫婦の愛、さらに言 うな らば家族への愛 を知 ってお り、自らの支 えとしている。 彼の生活において、 リュカの 「計画」に見 られ るよ うな若者特有の価値観 はす つか り消え去ったのだ。 おわ りに
『A.0。バルナブース全集』の第二部である「詩」(Poёdes)に 収められた 「自
我を贈る(〈くLe Don de soi―meme〉〉)」 とい う一篇で、ラルボーは次のように「私」
に対する不安を描いていた。
Il y a quelque chose de moi, Au fond de moi,au centre de moi, Quelquc chOse d'inflnirnent aride
Corrme le sorrmet des plus hautes montagnes; […]
un etre fait de nёant[.…]
(〈Je suis lこ indittrent a tout.〉 〉
[…]
Je rencontre touJollrs,
Hors de moicomme en moi,
L'irremplissable Vide, L'inconquёrable Rien。 ●・61)
ヴァレリー・ラルボーの作品における「私」の軌跡
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埋 め よ うのない 「何 か」 を抱 え、すべ てに無 関心 で あ り、「無」 か らな る存在 の 「私」― ―我 々は少 しずつ その輪郭 をはつき りとさせ 、 自分 の視点で世界 を 見 て、そ して 自分 な りの方法 で関わ つてい く姿 を追 つた。ただ し今 回見 た「私」 の 肖像画 は非 常 に大 まかな タ ッチの もので あ る。ラル ボーが生 きた 当時の時代 背景や彼 の宗教観 、そ して同時代 の文学 との比較 な ど、考察すべ き要素はあま りに多い。 それ らについては、稿 を改 めて論 じるこ とに したい。 使用テクス ト本文中のラルボー作品の引用はValery Larbaut α翻鶴,〈くBibliothёque de la Plёiade〉〉,
GallimttH957所収の版に基づ く。各引用後の括弧内にページ数を記す。
注
(1)EdouardDttardin,二ω Zα
“rtett sο″′ωψお,Lc Chemin vet 1981,p.3.
(2)『秘めやかな心の声…』においては、く〈je〉〉の代わ りにくくtu〉〉やく〈il〉〉といった人称代名
詞が用い られる箇所がある。
(3)岩崎力、「/Jヽ説形式・ノJヽ説技法の変革一一 《内的独 白》をめぐって」、『 フランス文学
講座、小説 Ⅱ』、大修館書店、1978年 、pp.282-296.
o引
用中の強調は、全て引用者による。(5)この問題に関 しては、次の論文において検討 した。
《Dellx pomts de vlle sllrl'enfant ou l'enfance dans lesル ヵれ励
“de valery Larbaud》、『年 報フランス研究』第39号、関西学院大学フランス学会、2005年12月、pp.25-34. (6)p.692,p.693,p.695,p.696の 四ヵ所である。 (7)女性の描写については、拙稿 「ヴァレリー・ラルボーの女′性描写について一『 フェ ル ミナ・マルケス』、『美よ、私の美 しき不安』、『恋人よ、幸せな恋人よ』、『秘めや かな心の声』から一」、『 人文論究』第 53巻 第3号、関西学院大学人文学会、2003 年12月、pp.147‐160を参照。 (Dこの 「私」については以下の拙稿で詳 しく論 じている。 「ヴァレリー・ ラルボーの語 り手における 《nOlls〉〉の問題」、『年報フランス研究』 第35号、関西学院大学フランス学会、2001年12月、pp.83-94. 「ヴァレリー・ラルボー『フェル ミナ・マルケス』における対話二語 り手と視点の移 動一」、『 関西フランス語・フランス文学』第8号、 日本フランス語フランス文学会 関西支部、2002年3月、pp.57-67.
(9)Ame Chevalier9′征妙麻 “θあ浴 ′υ場″ ル んたッZα rbαν4血ёSe de d∝torat ё s LettЮs, 1'Universi“ de Paris X Ⅲ,1980,p.183 (10)拙稿 「『 子 ども』をめぐる光 と影―― ヴァレリー・ラルボーの場合――」、『 年報フ ランス研究』第41号、関西学院大学フランス学会、2007年 12月、pp.27-39。を参照。 (11)Valery Larbaucヵ夕 “α′ j″廟ηθ “′f,αの記
s"η
鵞た ル 陥′θッ ια rbαに わ “θλ Gallimat 1954,p.305。 (12)た だ し、後にラルボーが ヨーロッパ中心主義か ら脱皮する傾向も見 られた。 西村靖敬、『 1920年代パ リの文学 ―「中心」と「周縁」のダイナ ミズムー』、多賀出 版、2001年 。 西村靖敬、「ヴァレリー・ラルボーのコスモポ リチスムをめぐる諸問題」、『 比較文学 研究』第39号、東京大学、1981年、pp.148-155。 また、ラルボーは第一次大戦中の 日記においても戦争に言及することはないなど、 その世界観には独特の偏 りが見 られる。 岩崎力、「ヴァレリー・ ラルボー とコスモポ リチスム」、トヒ較文学研究』第10号、 1966年、pp。74-H4.(13)Valery Larbauこ よ9""α′加ι″′」,Gallim颯 1954,p.224.
(14)バルナブースのヨーロッパ滞在 と帰郷、そ してラルボー作品における旅や定住に関
しては、自我の統一の問題、あるいは宗教的模索など様々なテーマを見出すことが でききる。以下の樋 口裕一氏の分析が詳 しい。
「V Larbaudにおける 「小説」の問題■―A.0。Bamab∞dlのくくJollmalintime〉〉をめぐ
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