著者
藤阪 新吾
雑誌名
関西学院大学社会学部紀要
号
109
ページ
149-159
発行年
2010-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/3830
〈研究ノート〉
テーブルとしての社会
*―― 共(common)の認識へ向けた社会美学の試み ――
藤
阪
新
吾
**はじめに
わたしたちの生活にはいたるところにテーブル がある。インテリアショップだけでなく、家のな かに、飲食店やビルのなかに、道端に、公園に、 街の方々にどこにでもテーブルはある。物が置か れ、さまざまに使用されるモノとしてのテーブル はまた、コトが起こりコトが始まるテーブルでも ある。テーブルでわたしたちは飲み食いし、語り 合い、一息つき、考える。そうしたテーブルが地 域や商店街に、スーパーや食堂に、会議室や集会 所に、式場や街のなかにある。 気軽な会話や重苦しい相談事、雑談や交渉、人 と人が向き合い発話や沈黙を交わし、テーブルに おいて人と人は接し合い、結びつき離れていく。 テーブルをめぐるこうした社会的状況は、たんな るモノの感触をこえてそこで繰り広げられるコト の空気感、雰囲気や風合い、気分を含み込んでお り、そうした社会の手ざわりとして具体的に認識 される。誰にとっても身近な経験としてイメージ することのできるテーブルは、わたしたちが共に 在る空間を、そのイメージを通じて共に考えてい くための開けた視野を与えてくれるものだと考え られる。 本稿は、テーブルというパースペクティブから 社会をテーブルとして認識することについて、そ してテーブルとは何かということについて考察し ていく。これは、テーブルの美をめぐる探究、す なわちテーブルによって「社会を美学する」こと の可能性を模索する試みである。1.テーブルにつくこと
(1)テーブルという言葉 テーブル table という言葉は、ラテン語で板を 意味するタブラ tabula の派生語である。英語で いう tabular であり、辞書的には「平板状の・平 たい・卓状の・表の・表にした」といったことを 意味する。だが語源的にはそれだけでなく、バッ クギャモン(西洋すごろく)に発展したゲーム、 固定された不動の壁画にたいする可動的な板絵を 指すフランス語のタブロー tableau、タブラチュ ア tablature という五線譜が確立する以前の音符 を使用しない記譜法による譜面などを含意してい る。また日本語に引きつけていえばテーブルは、 卓というすぐれていること、円卓という集まるだ けでなく上下や席次に関係なく囲むこと、あるい は客膳という他者をもてなすこと、祝膳や饗膳と いう喜びと愉しみの場、として捉えることができ る。このようにテーブルは、たんなる物体を指し 示すだけの言葉ではなく、遊び、美感や音感、知 と情報を包んで人と人が織りなす関係や状況の多 様性を含意している。 たとえばモノとしてのテーブルに類似したデス クと比べてみよう。たしかにどちらも脚に平たい 天板がのっていて、そこに物を置いたりその上で なんらかの作業を行うことができる。けれども テーブルの含意と語感からすればそこに置かれる ものは、食器や果物、テーブルクロスに花や装飾 品、あるいはトランプやプレゼントといったもの だろう。これにたいしていうならデスクには、筆 記具やパソコン、さまざまな書類や本立て、何か * キーワード:社会美学、テーブルとしての社会、美的・感性的認識における共(common) ** 美術家、美術教員 March 2010 ―149―の問題集や参考書といったものが置かれるか、あ るいは個人的な嗜好品によって埋め尽くされるの ではないだろうか。食卓でもあるテーブルが、集 うことや囲むことを前提し、そうしたことへの誘 いを潜在的にもつ複数者の交わりの可能態だとす れば、これにたいして机としてのデスクは、一人 一人に個別に割り与えられ、個人の好みに合わせ た使用や単独で遂行するような労働をイメージさ せる。こういってよければテーブルは公共的な、 そしてデスクは私的なニュアンスをそれぞれ帯び ているように思われる。 わたしたちはテーブルに物を置き、飲み食い し、肘をつき、読書や空想にふけり、居眠りをす るだけでなく、テーブルで共に食事をし、写真を 見せ合い、ゲームをやり合い、互いに話し合う。 テーブルに特徴的なのはそこでは何らかのや ! り ! と ! り!がなされるということ、つまり人と人が交わる ということである。デスクに似合うのが「生真面 目」だとすれば、テーブルには不真面目ではな く、「遊び」の要素がつねにあふれているといえ る。しかも遊びのテーブルには、自己完結的な娯 楽の快適さではなく、食事を共にすること、ゲー ムを共にすること、共に語り合うことのうちに、 そうした共に在ることが喜びの快感として響いて いるのではないだろうか。 こうしてテーブルを、遊びとしてある人と人の 美的・感性的な交点だとみなすなら、装飾や食器 といったインテリアのブランド、食事の量や見映 え、話のネタや真偽、なされるゲームの種類や勝 敗という結果、こうした内容は重要ではない。 テーブルにおいて大切なのは、交わりを共にする ことの遊びそのもの、そうしたやりとりとしての 形式(様式)それ自体の喜びに共感する美的感性 であって、このことをよりよくするかぎりでのみ 内容は意味をもつのだといえる。 (2)テーブルにつく テーブルは身近にあるだけではない。わたした ちはさまざまなテーブルに関わる。座るというよ りも、テーブルにつ ! く ! のである。カフェのテーブ ルに、居酒屋のテーブルに、待合室のテーブル に、教室のテーブルに、不動産屋や旅行社のテー ブルに、講演会場や結婚式場のテーブルにわたし たちはつく。会議の、講義の、ゼミの、集 会 の テーブルに、あるいは討論の、和解の、糾弾の、 密会の、陰謀の、そうしたテーブルにつく。つま りテーブルは、会話をはじめ、人と人のやりとり がなされる交流=交感の場なのである。 テーブルを場だとみなすなら、その場に行く行 かない、その場に出るか出ないかということにつ いても考えられるだろう。居酒屋に行ったのか行 かなかったのか、講演会に行ったのかどうか、会 議に出たのか出なかったのか、ゼミに出たのかど うか、というように。この場合、次にやってくる 問いは、では何をしたか、何が話されたか、それ は何故か、といったことであり、ここに浮上する のはそれぞれの場の内容と同時に場そのものが、 ひとつの対象として客観化される次元であるだろ う。 けれども場というものを、つ!く!という動詞を呼 び寄せるテーブルだとみなすなら、もっと幅広い 感触が生じてくる。テーブルとしての場につ ! く ! と は、それに「及ぶ、達する」「感覚や力が働きだ す」というそこへ向けた動態性、そこにそれぞれ が「座を占める」「位置づく」ことによるまなざ しの多様性や「身を置く」「定まる」ことによる 覚悟性、それに「心を寄せる」「触れる」といっ た関わり方のエロチックな質感などを喚起させ る。客観的な観察や判定とは別に、テーブルにい ! か!に!つ!く!か、という身ぶりや構え、振る舞い、態 度といったものへの気づきが求められる。つま り、場を人と人の交わりの質を具体的に現わす テーブルとみなすことによって、美的・感性的な 次元が浮上するのである。テーブルについて、何 を話したかではなく、テーブルにつ!く!ということ は、ただそこに物理的に座るということを意味す るのではなく、対面の他者との、さらには対面の 他者を越えた想像の他者への交わりの可能性をも 含む、いわばそうした状況への美的・感性的な関 わり方のことを指し示している。 このように考えるなら、わたしたちは物理的な 食卓や机としてのテーブルだけでなく、また具体 的な誰かが眼前にいなくとも、つねにテーブルに ついたりつかなかったりしているのだといえる。 ここでは物体としてのテーブルがあるかないかは 問題ではない。わたしたちは、家や学校や会社と ―150― 社 会 学 部 紀 要 第 109 号
いう場所に行き、結婚式や葬式という儀式に出席 し、ゼミやデモの集会に出たり行かなかったりす るのとは別の次元において、自宅や地元という テーブルにつくのであり、会議や会合というテー ブルにつくのであり、組織や団体、地域や都市、 さらには国や見知らぬ土地というテーブルにつく のである。テーブルにつくということ、それはこ うした状況への関わり方という美的・感性的次元 を指すと同時に、このテーブルそれ自体を美的・ 感性的に認識することを要請するのである。 (3)テーブルの含蓄 ここでテーブルの含蓄を整理しておこう。 第一に、物体としてのテーブルである。これ は、見ることも触ることも、その上に物を置くこ ともそこで食事や会話のできる実在のテーブルで ある。 第二に、交わりとしてのテーブルであり、わた したちがつくテーブルである。ここでつかれる テーブルは、物体のテーブルに限定されるもので はなく、いわばそうした場ないし状況としての テーブルそれ自体を指す。言いかえればわたした ちは、人と人の交わる状況そのものへとつくので ある。けれども物体としてのテーブルだけでなく 交わりとしてのテーブルも、どこかに何かとして 予め存在するわけではない。つまり交わりとして のテーブルは、わたしたちがそれへつくことに よって、さらにいえば、交わりとしてのテーブル へ交わることによってはじめて体現されるのであ る。またこの次元のテーブルは、つ ! く ! という多彩 な身振りの交織網であるがゆえに確固たる客体と はなりえない。交わる感触の全体的な状況として あるこのテーブルは、したがって美的・感性的に 認識される。 第三は、イメージとしてのテーブルである。こ れは、第一と第二のテーブルを包括するテーブル だといえる。第二の交わりとしてのテーブルは、 第一の物体としてのテーブルのイメージを下地と することで成り立つ。また第二のテーブルは、他 の状況や観念と結びつけてイメージすることもで きる。このことから第三の次元は、物体のテーブ ルから概念的なものへイメージを移行していくベ クトルと、ある概念的なもの(イメージ)が結び 合う地点としてのテーブル、もしくはそこにおい てイメージされるテーブルである。この第三の次 元において、概念の背景に具体的な手ざわりが生 じ、また、わたしたちの日常におけるさまざまな 現実の状況がテーブルとして具体的にイメージさ れるのである。
2.公共的空間=世界としてのテーブル
(1)テーブルというメタファー フリーダム 自 由が出現したのは(……)かれらが「挑戦 者」となり、自らイニシアティヴをとり、その ことによってそれと知ることもあるいは気づく こともなしに、自由が姿を現わすことのできる 公共的空間をかれらの間に創造し始めたからで ある。「われわれが一緒に食事をとる度に、自 由は食席に招かれている。椅子は空いたままだ が席はもうけてある」1) これは、フランスの詩人・作家、ルネ・シャー ルの『眠りの神の書』2)の言葉を引いた H.アーレ ントによる一文である。アーレントはこの文章に おいて公共的空間を、自由とそれへの率先力・独 創力(排除への抵抗)という二つの価値に結びつ けて説明している3)。これまでも、これからもそ うであろう空席のある食卓、それは、私 ! が ! ではな く、わ!れ!わ!れ!が!そこにつくことによって自由が到 来する、そうした私的な単数者ではないすべての 複数者に開かれた公共的空間としてのテーブルで ある。同じ状況に関わるという共通性・共属性 1)H.アーレント 1994b:3(=1968:4);齋藤 2000:"。なおアーレントによる引用は以下である。“At every meal that we eat together, freedom is invited to sit down. The chair remains vacant, but the place is set.”(H.Arendt 1968:4)。また、吉本素子による『ルネ・シャール全詩集』の「イプノスの綴り」での訳は以下であ る。「共同でする食事の時にいつでも、私たちは、自由に腰かけるように言う。席はずっと開いているが、テー ブルセットは置かれたままだ」(R.シャール 2002(=1983[1943―1944]):151)。 2)R.シャール 2002(=1983[1943―1944]) 3)齋藤 2000:3―4;大澤 2002:4―5 March 2010 ―151―
と、だがそれぞれはだれも同じ座を占めることが できないことで得られるパースペクティヴによる 代替不可能性・独自性、これを共に生じさせる テーブルにこそアーレントは、自由が出現する可 能性をみている。 わたしたちの間の公共的空間としてのテーブ ル、このテーブルは、公共的空間を説明するため のたんなるメタファーなのだろうか。アーレント の『人間の条件』の次の一節をみてみよう。 「公共的(public)」という言葉は、世界そのも のを指し示している。それは、私たちすべてに とって共通のものであり、私たちが私的に占め る場所とは異なったものである。(……)世界 は、人為的なもの、人間の手によって作られた ものを表すとともに、人間の手になる世界に共 に生きる者たちの間に生起する事柄をも表して いる。世界に共に生きるということは、ちょう どテーブルがその周りに席を占める人びとの間 にあるように、物事からなる世界がそれを共有 する人びとの間にあるということを本質的に意 味している。世界はあらゆる〈間〉(in―between) がそうであるように、人びとを結びつけると同 時に切り離す〈間〉である4)。 アーレントのいう世界そのものとしての公共的 空間は、そこに共に関わるわたしたちの間にあ り、わたしたちがつくテーブルのようにある。わ たしたちの〈間〉に!あ!る!この世界としてのテーブ ルはまた、わたしたちがつくことによってはじめ て立ち現われる〈間〉と!し!て!あ!る!テーブルでもあ る。〈間〉にあるテーブルがそこへつくことへと 誘う牽引力となることで、〈間〉としてのテーブ ルは生起する。もしテーブルが消失したとすれ ば、それによって「互いに向き合って坐っている 二人の人は、もはや、なにか触知できるものに よって分離されていないだけでなく、互いに無関 係となる5)」というように、世界としての〈間〉 にあるテーブルがなければ、わたしたちは自由へ 向けた世界という〈間〉としてのテーブルを活き ることことはおろか、そもそも人と人は関係をも つことすらできない。 〈間〉という公共的世界としてのテーブルは、 二つの次元を包含している。一つは、人工物によ る「ものからなる世界」であり、これは、共通の そ れ へ と つ か せ る 牽 引 力 と な る わ た し た ち の 〈間〉(in―between)に!あ!る!テーブルである。もう 一つは、第一のテーブルをわたしたちの共通基盤 として出現する「人間関係の網の目6)としての世 界」であり、いわば人と人が交わる状況そのもの である〈間〉(between)と!し!て!の!テーブルであ る。こうした意味においてテーブルは、単数の私! の ! 世界やそうした多 ! 数 ! 者 ! の世界ではなく、多 ! 趣 ! 複 ! 数!者!と し て の わ!た!し!た!ち!の、〈間〉に!あ!り!か つ 〈間〉と!し!て!あ!る!公共的な世界なのである。 (2)世界の三重層 『人間の条件』においてアーレントは、世界 (world)と い う 用 語 を 三 つ の 意 味 で 用 い て い る7)。第一は、自然および社会の総体という一般 的な意味である。第二に、人間の手によってつく られた物の世界であり、仕事(work)が介在す ることで成り立つわたしたちの〈間〉にある世界 である。第三は、人為・人工物による第二の世界 を牽引力として形成される、「交わりの網の目= 〈間〉」としてある世界である8)。アーレントの議 論において最も重要なのは、人が人間性を獲得 し、その人間性をわたしたち自らが活きるための 「交わりの網の目=〈間〉」としての世界、つまり 活動(action)の自由の土壌となる公共的空間と しての世界である。 しかし、「世界の樹立という点で、活動のなか には制作、すなわち仕事の要素が混在してくるこ とは否定し得ない9)」と寺島俊穂が指摘するよう 4)H.アーレント 1994a:78―79(1958=52―53);齋藤 2000:38―39 5)H.アーレント 1994a:78―79 6)H.アーレント 1994a:296―297 7)寺島 2006:6―7;71;218―220;齋藤 2000:45―46;M.カノヴァン 2004:139―145 8)H.アーレント 1994a:296―297 9)寺島 2006:219―220 ―152― 社 会 学 部 紀 要 第 109 号
に、公 共 的 空 間 と い う「交 わ り の 網 の 目= 〈間〉」としての世界は、それ自体が単独で純粋に 樹立されるわけではない。共通の関心事となる 〈間〉にある人工・物の世界、たとえば歴史を通 じて築き上げられてきた技法によって製作される 造形物やテキスト、そうした過去から連なる人間 の文化というさまざまな創造物を介して人びと は、結びついたり離れたりし、そうした状況とし ての交わりの網の目を紡いでいくことができる。 その意味で人工物の世界は、公共的空間としての 「交わりの網の目=〈間〉」の世界の条件でもある ともいえる。 世界という用語は『人間の条件』において、三 区分された人間の活動力である労働(labor)・仕 事(work)・活 動(action)と と も に、公 共 的 空 間とは何かを考えるうえでの主要な概念である。 しかし本稿では、アーレントにおけるこれらの活 動力が何を意味し、また三つの世界それぞれとど のように関係しているかということについては踏 み込んで論じることはできないし、またそれは目 的でもない。ここではさしあたり世界の三つの意 味を踏まえて、それが本稿でいうテーブルとどの ように結び合わさるのかをみておきたい。 (3)世界とテーブル 第一の自然や社会の総体としての世界は、わた したちの住まう丸い物体の地球全体を指すもので ある。この地球としての世界をテーブルだとみな すならそれは、わたしたちが足をつけそこに根ざ す土壌となる、大地としてのテーブルだといえ る。テーブルの語源的な意味としての板というこ とからもこれは、わたしたちがそこに存立するた めの基盤として捉えることができる。 第二の人工物としての世界はアーレントがメタ ファーとして用いたように、そこに集い、囲み、 食事や会話がなされるわたしたちの間にある物体 のテーブルとして捉えることができる。またそれ だけでなくこのテーブルは、さらなる動的な間と しての交わりの網の目を形成するというように、 そうした複数の人びとがつくことを牽引するテー ブルでもある。言いかえればこのテーブルは、モ ノとしてのテーブルであると同時に、コトを生じ させるよう促す働きをもつ非モノとしてのテーブ ルでもある。 ただしアーレントのいう人工物の世界を参照し つつ、それをテーブルとして捉え返して敷衍する ことの要点は以下である。アーレントはこの人工 物の世界の特質を永続性もしくは耐久性だとし、 その象徴的なものが芸術作品だと説明する10)。こ れにたいしてわたしたちの日常生活におけるさま ざまな交わりを、モノやコトへと向けたテーブル として捉えるなら、それはだれにとっても身近な 状況に引きつけて捉えられると思われる。アーレ ントがモデルとする古典的ないし伝統的な芸術に 象徴される非日常的な大いなる光輝としての美か らではなく、ささやかな美的・感性体験を小さく も大事なテーブルとして、いわばそうした小文字 の社会美を、わたしたちの重要な世界=社会とし てのテーブルだと考えることができるだろう11)。 第三の「交わりの網の目=〈間〉」としての世 界は、公共的空間そのもののことである。それ は、動物としての人間の生命を維持するための行 い、余暇を娯楽で埋め合わせる消費、生計を立て るための経済的活動としての労働、こうしたアー レントのいう私的領域と厳格に区別され、これと は対照をなす。公共的空間は、こうした必然と同 一 性 に 囚 わ れ た 私 的 な こ と を 排 し た、言 論 (speech)と行為(action)による現 わ れ と 自 由 へ向けた空間である。言いかえれば、私的な労働 ―消費に支配された生存の空間ではなく、開けた 討論を通じてそれぞれが唯一者として現れでるこ と、行為を共になすことによって新たな何かを始 めること、そうした自由が出現する存在の空間で ある。 この第三の世界を、テーブルとして捉え直すこ とができると思われるのは次の点である。一つ 10)H.アーレント 1994a:263―273;1994b:280―285 11)美の探求はもはや芸術の主題ではないかのように、現代の芸術作品はけっして美しいわけではないものも多い。 「芸術の日常化」という「芸術の非日常性」という観念を前提とした芸術のある様相は今、「アートの日常化」と 「日常のデザイン化」との交点において、キレイなアート・デザインを呈しているきらいがある。 March 2010 ―153―
は、この世界は第二の世界とは違って、「触知す ることができない12)」という点である。二つめ は、真実の一般性や道徳基準で判断される行動 (behavior)とは違い、世界における行為(action) のユニークさ・唯一性を判断できるのは、「ただ 卓越という〔判断〕基準だけ13)」、つまり美的判 断であるという点である14)。 人と人の織りなす状況そのものを「交わりの網 の目=〈間〉」としてのテーブルだと捉えるなら ば、そのテーブルはもはや対面的な場や直接に感 取される状況に限定されることのない範囲に及ぶ 認識の射程を得るだろう。それは、それ自体を触 知しえない状況という時空間の区切りのない広が りをもって、直線的で連続的ではないきらめく瞬 きのように、いわば断片的瞬間としてあるような テーブルである。 また美的・感性的次元において判断されるユ ニークさ・唯一性は、なにも世界における世界の 殊絶な偉大さや卓越さだけでなく、日常的なテー ブルにおけるテーブルのささやかなきらめきとし ても存在しうるはずであり、これは第三のテーブ ルのいわば特質価だといえるだろう。この質は、 道徳的な善悪もしくは観念(通念)的な適不適と いった公的15)なものを尺度としないだけでなく、 好き嫌いといった生理(感覚)的で私的な尺度に よっても判断されうるものではない。なぜなら テーブルが複数(多元)者の間として生起するか ぎりにおいてその質は、一般的な社会通念として 同定しえないものであり、したがってだれもが同 一に認め認められるいわば公認される「みんな」 の次元にはなじむものではなく、また他者と切り 離された私個的な「私」の次元においてはそれが いかに多数であれ、そこには間が生じる余地など そもそもないからである。 この意味で美的・感性的にこそ認識されるテー ブルは、いわば「わたしたち」という次元を照ら し出すものであり私的で公的でもないそれは、あ えていえば共的な次元にあるといえるだろう。た んに感覚されるのでもなくただ観念的に客体化さ れるのでもないこのテーブルにおいて、美的・感 性的な次元が招喚されることになる。言いかえれ ば、「交わりの網の目=〈間〉」という人と人の社 会状況そのものは、実体(内容)としてのテーブ ルが退いた質感(形式)としてだけあるテーブル であり、したがってこのテーブルは美的・感性的 に認識されるほかないのである。 (4)イメージとしてのテーブル こうしてテーブルというメタファーによって説 明されるこの世界=公共的空間は、いうまでもな く分析概念でありひとつの理念でもある。たしか にメタファーにはちがいない公共的空間としての テーブル、だがテーブルは、わたしたちにリアリ ティをもたらす世界=公共的空間のイメージでも ある。概念とこのイメージは、現実のテーブルを イメージさせるだけでなく、現実のテーブルにお いて、公共的空間の概念としてのテーブルをイ メージさせる。つまり、公共的空間のイメージと してのテーブルは、概念から現実へ、そして現実 のテーブルにおいてイメージされる公共的空間 は、現実から概念へ、そうしてその交わりの遊戯 運動へとのびていく触手のようにテーブルのイ メージは、公共的空間の具体的なイメージを与え るものとなる。 直接的な体験ではなくとも、歴史的な時間が社 会それ自体に体験された記憶が痕跡として、瞬― 間における欠片としてのテーブルが、W.ベンヤ ミンがいうような屑=星としてあるのではない か16)。テーブルはまた、そうしたイメージの力を 介した認識において、星それぞれを輝かせる星座 12)H.アーレント 1994a:296―297 13)H.アーレント 1994a:330(=1958:205) 14)齋藤純一は、公共的空間において「現われを評価するのに相応しい尺度は、善―悪や正―不正という」規準ではあ りえず、唯一者や新たな始まりといった「共約不可能なもの、一般化不可能なものは、美的な尺度によって評価 するほかない」としている(齋藤 2000:43―44)。 15)ここでいう「公的」という言葉は、アーレントにおける「公共的」とは異なる意味で用いている。この用語につ いては詳細に検討されるべきであるが、本稿の段階ではそこに踏み込むことはできないのでここでは以下を参照 として今後の課題としたい(宮原 2010)。 16)W.ベンヤミン 1999;2003;今村 2000;藤阪 2009b:101―102 ―154― 社 会 学 部 紀 要 第 109 号
というテーブル=座として、さらにこのテーブル をお膳立てする闇夜空のテーブルとして浮かび上 がるように思われる17)。このテーブルはまた、 テーブルという現実的な大地のうえに、テーブル へつくわたしたちの身ぶりやその交わりの様態に よって、そしてこれらにおける、これらの現実的 なイメージによって姿を現わすものであるだろ う。 イメージ、それはいまここに不在の、まだ―な い(未―来の)テーブルと他者を現前させる力で あり、かつて―ありえた(過去の)テーブルと他 者を(再)現前させる、いま―ここのアクチュア リティを生起させる創造の力である。それは、こ の交感点をわたしたちの共感へと編み上げていく 社会的な力でもある。イメージの交感による空間 はまた、美的・感性的な社会空間でもある。概念 は、共通コードに忠実な言語のやりとりによって だけではなく、イメージとしての概念と概念とし てのイメージを交じり合わせることで、相通じ合 うエレメントと相容れないエレメントの共在する 実感の大地を開いていく。テーブルは、自由や公 共性を考える上での概念を説明するための言葉で あるだけでなく、それが含蓄するイメージの深さ と広がりを通じてわたしたちの現実を触発し、日 常的に共有かつ分有されうるものである。言いか えればイメージにおけるテーブルとテーブルから のイメージが、理論的な概念と実践的な言葉が結 び 合 う こ と で 現 実 的 な 力 を も つ か ら こ そ、R. シャールやアーレントはこの言葉を用いたのだと 考えられる。
3.テーブルをひらくこと
(1)受け入れのテーブル 社会状況を捉えるうえで重要なのは、他者と共 に在る空間をテーブルだとみなすこと、この認識 方法の探究である。な ! ぞ ! ら ! え ! る ! という「見立て」 が芸術の原初的な一技法であることからいえば、 社会をテーブルにみたてることは、ひとつの美的 ・感性的認識の方法だといえる。したがって認識 実践としてのテーブルの考察は、すなわち社会を 美学することの探究である18)。その場合、実際に 食事をするか、または物体としてのテーブルを囲 むか、ということは問題ではない。また何かを 「目的」とし、その「手段」として必要に応じて 組まれる場をテーブルとみなすことはできない。 見知らぬ他者たちの交流、わたしたちとして共に あろうとするイメージのうちに立ち上がる空間、 そうしたわたしたちの共的な美・感性としてイ メージされるそれじたいをいわば目的とした空 間、そうした美的空間をテーブルだとみなすべき だろう。他者が目的のための手段だとみなされる 関係は、やりとりする間のある人と人との関係で はなく、たんなる使用者と道具の関係であり、そ こにテーブルが現われる余地はない。「他者を手 段としてのみならず、同時に目的(自由な存在) として扱19)」うという目的なき合目的的なもとし てテーブルが認識されることで、共に在るテーブ ルはわたしたちにとって美しい喜びとして響くの である。 個々それぞれとしての自分の感覚に気持ちよく なくとも、自分の観念にそぐわなくとも、そうし た快適さを尺度とした反応ではなく、感受し、許 容する歓待の美的判断の交じり合いの次元におい て、共通の地平としてのテーブルは姿を現わす。 そうした美的・感性的なテーブルは流動的ではか なく、たしかに偶事的で不安定なものかもしれな い。これにたいして時代のニーズというマスメ ディアが代表演出するサービスと各ブランチが提 供するサービスに満たされた社会空間は、みんな が徹底した消費者であるかぎりにおいて安定し、 かつ同時にそこでは必然的な快適さがみんなには 約束される。けれどもみんなを安心させる安定と は、平準化された感覚と観念の状態であり、それ らが癒着することによる均質性が、快適さの正体 にほかならない20)。 17)W.ベンヤミン 1999;2003;今村 2000;藤阪 2009b:101―102 18)宮原 2009a;2009b 19)柄谷行人は、I.カントの「実践理性批判」における「定言命法第二式」について、カントにとって「道徳の核心 は、善悪ではなく、自由にある」とし、それは「他人を手段としてのみ扱うような政治・経済的な状態を廃棄せ よ、という「至上命令」をふくむのである」と述べている(柄谷 2004:34)。 20)藤阪 2009b:100―106 March 2010 ―155―それはもはやこ!の!わ!た!し!が感覚するのでもこ!の! わ ! た ! し ! た ! ち ! が観念するものでもない。近くでも遠 くでもなく、いわば距離=間がないゆえにそこに はテーブルは生じえない。安定・安心への願望こ そが今日、ますます安心できないというパラドク スを生みだし、この循環性こそが不安をてこにし たハイパーメディアの功能だとすれば、大切なの は安定・安心への私的・公的な同質性による人為 淘汰ではなく、むしろ偶事的な交わりを引き受け る寛容な感性によって、テーブルをかけがえのな いわたしたちの社会としてひらいていくことだと 思われる。 美的・感性的なテーブルは、計画的にデザイン できる堅固なものではない。感覚的でもなく観念 的でもない多様性という揺らぎの遊びそのものが 快としてある美的・感性的認識が、しかし逆に観 念にも感覚にも訪ねていくことのできる次元にあ り、むしろここから新たに観念と感覚を考えるこ とができるのではないか。この多趣性の認識こそ が、観念と感覚がそれとして相互作用を活性させ る根源的な次元にあるのではないのかという意味 において重要なのは、特異な個人と共通の世界の 交互性を存在させる美的・感性的空間を、社会と いう共的な次元のテーブルとして認識していくこ との探究であるだろう。 (2)共(common)というテーブルへ 最後にこれからの課題だと考えられることを仮 定的に記しておきたい。 わたしたちは通常、女として、親として、兄弟 として、友だちや恋人として、職場の同僚や上司 として、店長として、アルバイトあるいは正社員 として、地域や組織の一員もしくは代表として、 そうした何者かとしてテーブルにつく。これは 個々人の思いや心性とは関係ない。現実にはだれ もがこうした社会的な属性をもつ何者かとして、 その場その時に相応しく振る舞う何者かとして、 いわば私―一般としてテーブルにつかざるをえな いのが通常である。 ここでいう何者か、それは、どの人どうしでも 代替が可能であるア ー レ ン ト の い う 何(what) としての人の次元である。これに対置されるのが 誰(who)としての人―間 で あ る。何(what)で はないどのような人かという誰(who)は、複数 性を条件とする公共的空間での他者性の交わりに おいて、はじめて現われるユニークな・唯一な人 ―間である。自由とはこの人―間をめぐる活動のこ とであり、道徳的な善悪や科学的な真偽といった 客観的な一般性に還元しえない次元の尺度となる のが美にほかならない。アーレントのいう公共的 空間が美的・感性的に描かれているといわれるゆ えんであり、また本稿でいうテーブルが美的・感 性的認識の探究であるのはこのことに関わってい るからである。 ところで社会的な次元、それはアーレントが 「私的なものでもなく公的なものでもない社会的 領域の出現21)」だと指摘するように、たしかにそ こは私的でも公的でもないのかもしれない。そう であるとしても、私的なテーブルも公的な通念に 準拠しており、また、公的なテーブルでの個々人 にあっても私的な生理感覚や損得感情がどこかに 影をひそめているであろう。私的でも公的でもな い社会的次元とは、いいかえれば私的でも公的で もあるといえる。だがこれはまた、私と公の境界 が融解したことの顕れであり、逆説的にもアーレ ントのいう自由の条件をなす公共的空間が出現す る契機が奪われていることを示している。 けれども、食べるというきわめて動物的で私的 だとみなされる行為でさえ、人間においてはたん に腹を満たすのとは別の快感があり、食卓を共に するという次元にこそ私的な快適さとは異なる社 会的な美的快感の契機が潜在的に遍在する。むし ろ大地(自然・必然)を切り離すことのできない こうした社会的な次元は、テーブルという認識に よって、そこから新たにはじまるラディカルな地 平として捉え返すことも可能ではないだろうか。 おそらくテーブルは、共に活動する協働性・共働 性と内的な差異による特異性を一双なものとして 生みだす地盤だと考えられる点において、A.ネ グリが提起する「公的なものと私的なものとの 21)アーレントによればこの社会的な領域の出現は、近代とともに出現したもので、その特徴は国民国家という政治 形態にみられる(H.アーレント 1994a:49)。 ―156― 社 会 学 部 紀 要 第 109 号
いっさいの起源的分離の拒否、そしていったん分 離してからのあらゆる再構築の拒否から生まれ た22)」「私的なものと公的なものとを媒介する能 力 を も つ 第 三 の 道 を 体 現 す る も の で は な」い 〈共〉(common)23)と通じている。 大地としてのテーブル、交わりへのテーブル、 交わりとしてのテーブル、そうした次元の重層性 によって構成される社会というテーブルをいかに 感じ、考え、そしてイメージすることができる か、そうしたことへのわたしたちの鋭敏な感性と 認識が重要である。わたしたちはキャラを気にか けることやマナーを気づかうことよりも、テーブ ルに気づき、見いだし、それを共につくりださな ければならない。テーブルにおいてこそ、ある私 的なものや公的なものは、これまでの認識におけ るそれとは違う様相を現わすものと考えられるか らである。 それは、B.スティグレールがいう共有(共通 ・共属)の次元における「われわれ」という脱個 人と、分有(特異)の次元における「わたし」と いう個―人が、言いかえれば、「われわれ」という 存在と「わたし」という生存とが共に存在する空 間である。またこれはネグリのいう「特異性の総 体、無限の特異的活動を結び合わせる協同的な織 物(組織)の総体24)」としてのマルチチュードと 響き合うだろう。そして、「われわれ」と「わた し」は、互いに組み込み組み込まれた「同じプロ セスの両面25)」であるとスティグレールがいうこ のプロセス、双者が互いに条件づけ合いながらも 交流する運動態の止むことなきプロセス26)は、共 としてのテーブルにおいて開始されるのだと思わ れる。
おわりに
テーブルは、わたしたちの生活においてきわめ て身近な経験としてある。テーブルという言葉、 物としてのテーブル、テーブルを囲んでの食事や 会話、テーブルでの議論やゲームといったやりと り、和んだ、あるいは緊張感あるテーブルにつく こと、それはわたしたちにとって具体的な手ざわ りとしてある。それだけでなくテーブルは、対面 的な感触をこえて繰り広げられる社会的な交わり の雰囲気を含み込んでいる。こうした誰にとって も日常的なテーブルとそのイメージを手がかりに することによって、人と人の織りなす状況として の社会を共に感じ、共に考えることを、より現実 味ある豊かなものとして開いていくことができる のではないだろうか。 それは、社会を観念的にみることや感覚するこ ととはまた別の側面、つまり、眼や耳や頭のどれ かだけや、生理的な反応だけでは捉えることので きない社会状況の美・感性を認識することであ り、この認識の地点に、共という社会の新たな次 元を考えていく示唆が含まれている。テーブルと いうパースペクティブから社会を感じ考えるこ と、テーブルとして社会を認識すること、この テーブルからの社会認識の探究とその記述によっ て社会の具体的な質感はわたしたちにとってより 味わい深いものとして立ち現れてくるだろう。 参考文献 ・阿部斉 1966『民主主義と公共の概念アメリカ民主主 義の史的展開』勁草書房 ・阿部斉 1991『概説現代政治の理論』東京大学出版会 ・H.アレント 1994a[1973]『人間の 条 件』志 水 速 雄 訳、筑 摩 書 房(=1958 The Human Condition, University of Chicago Press)・H.アーレント 1994b『過去と未来の間 政治思想へ の8試論』引田隆也・齋藤純一訳、みすず書房(= 1968 Between Past and Future : Eight Excercises in
Political Thougt, Viking Press, Enlarged Edition.) ・W.ベンヤミン 1999(1928[1823―1925])『ドイツ悲 劇の根源』(上)浅井健二郎訳、筑摩書房 ・W.ベンヤミン 2003(1982[1927―1940])『パサージュ 論』(第3巻)今村仁司・三島憲一他訳、岩波書店 ・R.シャール 2002(1983[1943―1944])『ルネ・シャー ル全詩集』吉本素子訳、青土社 22)A.ネグリ 2008:99 23)A.ネグリ 2008:102 24)A.ネグリ 2008:99 25)B.スティグレール 2007:105;2006:119 26)B.スティグレール 2006:160―161;2006:168―169 March 2010 ―157―
・藤阪新吾 2009a「鮨屋を味わう ともにある食事の 社会美学」『関西学院大学社会学部紀要』第107号 ・藤阪新吾 2009b「商店街の社会美学 美しい状況と しての共的な空間について」『関西学院大学社会学部 紀要』第108号 ・今村仁司 2000「ベンヤミン「歴史哲学 テ ー ゼ」精 読」岩波書店 ・M.カノヴァン 2004(=1992)『アレント政治思想の 再解釈』寺島俊穂・伊藤洋典訳、未來社 ・I.カ ン ト 2003(=1798)『人 間 学』(カ ン ト 全 集15) 渋谷治美・高橋克也訳、岩波書店 ・柄谷行人 2004『定本 柄谷行人集 ネーションと美 学』(第4巻)岩波書店 ・川崎修 2005[1998]『アレント 公共性の復権』講談社 ・宮原浩二郎 2008「社会美学のコンセプション(1) 理論的考察の展開」『関西学院大学社会学部紀要』第 106号 ・宮原浩二郎 2009a「社会美学のコンセプション(2) エレン・スカリー『美と正義について』をめぐって」 『関西学院大学社会学部紀要』第107号 ・宮原浩二郎 2009b「社会美学のコンセプション(3) 石川三四郎の社会交響楽=複式網状組織」『関西学院 大学社会学部紀要』第108号 ・宮原浩二郎 2010「社会美学のコンセプション(4) 美的快感の社会性について」『関西学院大学社会学部 紀要』第109号(本誌) ・J―L.ナンシー 2005(1996)『複数にして単数の存在』 加藤恵介訳、松籟社 ・J―L.ナンシー 2006(2003)『イメージの奥底で』西 山達也・大道寺玲央訳、以文社 ・A.ネグリ・M.ハート 2005(2004)『マルチチュード 〈帝国〉時代の戦争と民主主義』(上・下)幾島幸子 訳、水嶋一憲・市田良彦監修、日本放送出版協会 ・A.ネグリ 2008(2006)『さらば“近代民主主義”政 治概念のポスト近代革命』杉村昌昭訳、作品社 ・大澤真幸 2002「〈公共性〉の条件(上)自由と開放を いかにして両立させるのか」『思想』No.942岩波書店 ・B.サヴァラン 1967(1826)『美味礼讃』(上)関根秀 雄・戸部松実訳、岩波書店 ・齋藤純一 2000『公共性』岩波書店 ・齋藤純一 2008『政治と複数性 民主的な公共性にむ けて』岩波書店 ・B.スティグレール 2006(2004)『象徴の貧困1.ハ イパーインダストリアル時代』ガブリエル・メラン ベルジェ、メランベルジェ眞紀訳、新評論 ・B.スティグレール 2007(2003)『愛するということ 「自分」を、そして「われわれを」』ガブリエル・ メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳、新評論 ・B.スティグレール 2009(1994)『技術と時間1 エ ピメテウスの過失』石田英敬監修・西兼志訳、法政 大学出版局 ・寺島俊穂 2006年『ハンナ・アレントの政治理論 人 間的な政治を求めて』ミネルヴァ書房 ―158― 社 会 学 部 紀 要 第 109 号
On Table and Society:
Notes on the Social Aesthetics of Table
ABSTRACT
In this research note, I focus on the ‘table’ as a socio-aesthetic concept or image. A guiding hypothesis here is that it is possible to study and explore our common social world through our touch and feel of the ‘table.’
As we say, in Japanese, “teeburu ni tsuku (sit together around the table),” the table is much more than a useful physical object. It represents a common public space around which people sit together and discuss matters of common concern. In and around the table, individuals from multifarious backgrounds interact and transact with each other. Therefore, the touch and feel of the table is much more than a physical sensation of an object. It envelops the feel and atmosphere of social intercourses going on in and round the table. Moreover, the table is something of which everyone can make an image in his/ her own way. The table can be conceived as an excellent tool for us to share our images of public social spaces where we interact and co-exist with others.
An important forerunner of social thinkers who paid much attention to the table as a socio-aesthetic concept or image is Hannah Arendt. I examine Arendt’s ideas on the table in relation to her theory of the public world. In doing so, I try to explore the possibility of ‘doing social aesthetics’ through the concept and imagery of the table in our everyday life. Key Words : table, public world, social aesthetics, Hannah Arendt