樹
と
釈
尊
||東洋的自然観の考察|| 高 橋 尭 昭。
最 近 ﹁ 帝 釈 窟 説 法 ﹂ 像 、 ハ 写 真 1 ﹀即ち帝釈天が洞窟中説法の釈尊を楽師をつれて慰問するという大きなガンダ l ラ彫刻を入手した。こうした彫刻は各地の博物館に十体程紹介されてはいるが、この彫刻は特殊なもので釈尊の肩か ( 23 ) ら火が出、法衣の裾から水が流れ出ている、所調﹁双神変﹂の像で非常に珍しい。後述の如く、釈尊を人間の立場を 超 え て ﹁ 超 越 者 ﹂ ﹁救済者﹂として考えた、仏陀観の転換を示す像といえる。 然 し て 、 私がこの小論で問題としたいのは、 仏陀のまわりの﹁山林﹂ を 表 わ す 部 分 に 、 樹︵大分こわれてはいる が﹀の中に人物・虎・象・鹿・猿そして鳥等が彫られていることである。所謂﹁自然にかこまれた釈尊﹂という点で ある。これは樹の下から樹の下に、そして自然の洞窟の中に止住され遊行された釈尊の﹁自然と一枚となった生涯﹂ を示すと共に、釈尊を樹や洞窟で表現される﹁自然の生命力﹂の凝固発現として考えるようになったことを示してい る。且つ叉私は﹁樹にかこまれた洞窟中の釈尊﹂像に東洋的な自然観を見る。そしてこれこそ現代の人類の破滅の危 機を救うものであると思うからである。 樹 と 釈 尊 ハ 高 橋 ﹀樹 と 釈 柑 吋 ︵ 高 橋 ﹀ 即 ち 、 長 い 間の間 違った自然観 、 西洋流に自然と 人間 を分ち 、 不滋 に も 自 然 に対する人間の 優位を 信 じ 、 勝手に 開 発の名をかりて自然 を破唆 して来 た人 間 。そ の 自 然否 f医者五比 定の態度は 、地球 の汚染から人類 Swat l±l:I二 ’
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体 の破滅をも 招 きかねな い状況 で あ る 。 これを救 うものこそ釈尊 の生涯 、 そ し て教えという東洋 的 マfi釈Xl{説法 知法であるといずるからである。。
釈 前 町 は 生 一 段 樹 と の か か わ り に 生 き 、 円 以 後 は 樹 の 下 で 入 滅 さ れ た 。 その浬興像に興 味あるシlンがあ る 。 ︵ 写 真 2 ︶の横臥する釈尊の頭 と起の 一助 に 立 つ 沙 山 総 双 樹 の 樹 の 中ク シ ! の 一 体 像 ﹂ か ら 人 物が半身を 出 し 、 或 は ︿ 日常したり泣き悲しんだりする彫刻を多く
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かける。これはマト 9 1 ラ出土の﹁樹とヤ ︵ び 点 3 ︶ 、 即 ち ボ か ら 日 比 れ ば ヤ ク シ ー だ が 、 −M u
山は樹であり注撃の花であるという彫刻の 如 く 、 樹を人物化したヤクシ l ︿ 夜 父 ﹀ の 概 念が成立していたことを示している 。 こ の ﹁ 樹とヤクシ l の一如﹂という考 え 方 は 、 や が て ﹁ 樹 と 菩 離 ﹂ 、 そ し て ﹁樹と釈噂﹂の一体化という考え方に 至る。従ってこうなって来ると 、 釈 前 叶 のまわりの樹々は 、 自 然 の樹ではな ( 25) く 、 樹神 ・ ヤクシーが釈尊を守ってい 担割臣図 るということにもなって来る 。 一 史 に 樹 神 の 概 念 の 成 立 は 、 同時にそ 2 の よ う 大 樹を成長せしめる 大 地の生命 力 、 即ち地神という概念をよび起す。 かくて樹神は叉地神としても考えられ て 来 る 。愛馬カ ン タ カ に 釆 っ て 出 家 出 滅される時 、 城 中 の人が蹄の音で目覚め 、出 家を妨げるのを恐れた地神は﹁馬 樹 と 釈 尊 ︵ 高 橋 ﹀ の い とを搾げもっ て 誠外に迎んだと い う話。或は菩提樹 下 でいよいよ悟られようと す る 時 、 マ l ラ ︵ 悪魔 ﹀ はこれを樹 と 釈 前 吋 ハ 向 婿 ﹀ 妨げようと 、 或はコケテッシュな 如 態で 、或は恐ろしい形 相の軍隊姿で威 嚇 す る 。 すると、釈尊は指を大地につけて ︵ 触 地 印﹀地神を呼ぶ と 、大 地底が起ってマ l ラは退 散する と い う話 。 ハ 写 真
4
﹀ こ の話の地神はイコール樹 神 で も ある。これを示す彫刻があ る 。 即ち釈尊が悟りに入らんと菩提樹に近づくと 、 樹 神 は 菩提樹下の金剛宝座の下からア マ ト ウ ー ラ 博 蔵 ヤタシー 3 ーカンサスの葉につつまれて半身を現わして釈尊を紹 じ て い る 図 。 ハ 写 真 5 ﹀ 或 は マ l ラ の 滋感の図 柄 に 、 同じよう に釈却の台庄の下の 、 ア l カンサスの葉の 中 か ら 地 神 が 上 半 身 止 を 出 し て い る か ら 、 ︵ 写 点 6 ︶ 当 時の人々は樹神 も 地 神 も 同 じ もの︿夜叉﹀として考えて い た こ と が わ か る 。こうした樹神︵ひいて地神︶ 号 dm 叩 + ふ 、 ︷ イ , v インドの風土 、 モ ン ス ーンインドから山 総するものと 弘は思う。然らばインドの風土 とは一体どんなものであるう 台、
。
。
インドは若い。こうした所で ( 17) は人々の生活は勢い、巨大な傘 のように校をひろげた大樹の下 が 生 活 の 刷 物 と な り 、 冠 婚 芥 祭 の た。インドの人にとって樹は切っても切れないものである。即ち 、 灼熱の太陽がすべてを焼きこがすこの国では、昼 人 生の通過儀礼の場でもあっ は熱暑をさけて樹の下で昼寝し 、 夜は﹁賞者の一灯﹂の話が示すように、ここで集会する。かくてアイスクリーム屋 が 、 日用雑貨を売る者が来る。月に何日ときめて聞かれる﹁市﹂で 、 この太い幹を中心に円く店が並んでいるのを見 樹 と 釈 尊 ︵ 尚 僑 ﹀ たことがある。勿論民家も大樹のかげに作られ、家畜も樹の下で育てられる。通りの自転車屋もタパコ屋も樹の下。樹 と 釈 尊 合 同 橋 ﹀ かくて大樹の以元には樹の桁を記る小さな刷が出来 、供 物や 化 そして紅粉がふ りかけ られる︵プジャ l ﹀ 。 一 史 に そ れ が 発 M 脱 し て ヒ ソ ズ l の刷となり 、 通りすがりの人が折って 行 く 。 町 向 で よ く け ん る 光 此 は 、 インドの人々は泊りすがりに大樹 に体をょせ 、 副をす り つけて折っている︿写真 7 ﹀。砿はは じめてイソドに行った 時 に は 、 木陰で ﹁ トイレしている﹂と カノレカッタ博厳 思った起だった。然しそうではなく 、 点 制 平 に 樹 の 仰に祈 っ て いるのだった。今さらながら﹁樹と民衆の生前 ﹂ の 凶係の深 さに鰐くと共に 、 こうした風土なれ ばこそ 、 樹とそしてその 樹を生む大地の力への信 仰 ︵ 夜 父 伯 仰 ﹀が起る符だとしみじ 5 み 思 っ た 。 従って 、 ここで也れ行ち 、 そして入滅された釈将の生涯も 例外ではなかった。その説かれた教説もインドの風土と結び つ い て いるのは 当然の訴である。後に編纂された大衆続典が 円 1 V 釈時を超人として数々の脊院の過度な表現をしているのと巡 っ て 、 釈時の Y同 行 が 残 さ れ て い る と い う原始続 山 内 や 大 般 浬 繋 経の文平が 、 如何に釈噂がイン ド の 自 然と 、 それに順応 し た
即 ち こ の こ と は 、 風習の中で生涯を過されたかを 示 し て い る 。 例え ば マ ヤ 夫 人 が 樹 の 下 で 釈 祢 を ・ 陀 ま れ 、 誕 生 後 の樹神への宮参り、或は出家し Kr sherri制 裁 た 釈 尊 の 山 林での苦行、菩提樹 下の悟り 、 以後樹下から樹下へ の遊行、そして μ 以 後 は 沙 縫 双 樹 での入滅等々。いわば釈噂の 6 ( 19) 生は樹とのかかわりの中であ り、且つ又これは釈尊だけの生 き方 ではなく 、 当 時 の 、 否現在 まで一貫した修行者の生き方で インドを旅する者のどこにでも見かけることである。或は樹の下に冥恕し 、 或は老体を杖に托し あ っ た 。 てハ〆シで歩いている修行者。釈尊もかくやと思われ 、 まさに二千五百年の時聞が止ったように感ずるのは私一人で はあるまい。こうした樹や自然とのかかわりを 、 まず釈切の言行が残されているといわれる原始経典の中から見て見 ょ う 。 樹 と 釈 尊 ︵ 市 街 ﹀
樹 と 釈 尊 ︿ 高 峰 仙 ︶
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ィ 、 ガヤ l 時き師はガヤ i ︵林︶のタンキ タ 一 心床におけるスティロ!マと れ い た会う 。乙下11 〆目、 夜 叉 '-./ の住居におら ロ 、 ラージャガハで釈尊の止宿さ れた所は 林 パ の ニ サ ヤ ツ ン パ の ソ 樹 ン 木 デ の ィ 闘? カ 、 る の シ 洞 |桁
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ク ボ タ’ lild グェ l グ ァ ナ 町の袈通りで 7 ( 30 ) ︿ 5 ︸ ︵竹林︶のカランダカlニヴァlパ 、 ジパlカのマンゴー 林 、 マハヴァナ︵大林︶の二階建誹堂 、 アジャパlラ ・ ︵ B ︶ 門 7 ︶ ハ 8 ︶ ︵ 日 ︶ . ニグローダ樹 、 ムチヤリンダ樹 、 ラージャタナ樹 、 ラッテ ィの林闘の スパティタ・闘にとどまって : : : カクダ樹に住 門 川川 d 門 口 ︶ んでいる神が 、 ここにつかまって下さいと校をまげた、ネ l ランジャ川のほとり持提樹の恨もと ハ 、 ヴ ェ l サリ l ︿ 刊 M ︶ ︹ 臼 ︶ ア ン パ パ l リ l のマンゴー園 、 チ ャ l パ l ラ 一 本 樹 ウデlナヰ樹、 ゴ l タマカ主樹 、 ︵ M ︶ サ l ラ ンググ平樹− 一 、 ナ l ラ ン ダ ハ l ヴァ lリカ商人のマンゴー林 ホ 、 . ハ l グ ァ i 村 鍛治工の子チュ Y ダのマンゴー園 へ 、 ク シ ナ l ラ 力士が生れた所のサ!ラ樹の一対のサ l ラ樹の闘に ト、その他の地及び位蹴不詳の所 ︵舎衛城﹀サl ヴ ァ ツ テ ィ l ・ ジ ェ lタ林にいた時 。コ!ザラ国のスンダリカ l 河の岸に滞在されて居られたバラモンは火の把りの御供物のおさがりを与えようとし た。速からぬ所でプツダが或る樹の根もとで頭まで衣をまとって坐っているのを見た ( 31 ) 。特定の夜、即ち半月の十四、十五日及び八日の夜に園林の霊域公
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など、怖ろしく身の毛もよだっところ に、床や座を設けて止まろう 。修行者は樹や墓地を愛し 。ある時、道をはなれた密林のところに至り、その中に入って一樹のもとに坐した 0 ル ン ピ ニ l ︿m v
美しい木立ち茂る︵財宝の神クベ l ラの﹀楽園チャトラタのような心織しい森の奥地ルンピニ!と名付ける固に 樹 と 釈 尊 ︵ 高 橋 ﹀樹 と 釈 尊 ハ 高 橋 ︾ かくの如く釈尊は樹とのかかわりの中で一生を過された。然して、その樹は単なる自然としての樹ではない。熱帯 という風土の中で、暑熱から逃れることを通じて、もっと精神的なものへの昇化であった。例えば、夏、我々が目が まわるような思いで、やっと大木の根方にたどりつく。そしてその樹陰の涼風にほっと教われたような気持になる体 験をよくもっ。こうした体験が、やがて樹の下にいること自体大いなるものにつつまれているという﹁安らぎ﹂に変 る。恰も親の足元で幼児が安心して遊んでいるように。これが聖樹信仰の源泉であったと思う。
。
釈尊と樹とのかかわりは更に続く。菩提樹下で悟った後も、その悟りの内容をたしかめるべく、アジャパ l ラ ニ グ ローダの根元に七日町ムチヤリンダ樹にも、更にラlジャlタナ樹にも、そして叉もとのアジャパlzflダ ( 32 ) 樹下で夫々七日間その内容をたしかめ、叉楽しんだとあるが、 この釈尊をあたたかく包み、釈尊に安らぎを与えたのは、最早や樹そのものではなく、 チャイトヤ・聖樹聖所であ った。ここにも前述の樹神即地神ということが示されていると思う。これを示す最適な経典がある。大般浬柴経のベ ーサリ!の所である。岩松浅夫氏は次のように訳している。 ハ原始仏典プツダの生涯﹁大いなる死﹂第三章 2 ﹀ ﹁アlナンダよ、このグェlサlリlの町はたのしい所である。このウデlナ霊地は楽しい所である。ゴlタマカ 霊地は楽しい所である。サツタンバ霊地は楽しい所である。パフプツタ霊地は楽しい所である。サ l ランダダ霊地 は楽しい所である。そしてチャ l パ l ラ 霊 地 は 楽 し い 所 で あ る ﹂ と 訳 さ れ 、 一 方 中 村 元 氏 は ハ ゴ l タマ仏陀の生涯 一 九 四 頁 ﹀ 同 じ 所 を﹁ ア l ナンダよ、ヴ zl サ l リ l は楽しい。ウデ l ナ ハ
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霊樹は楽しい。ゴータマカハのo g
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巴霊樹は 楽 し い 。 サツタンパカ︵ω
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﹀霊樹は楽しい。チャl パ l ラ 霊 樹 は 楽 し い ﹂ と訳されている。岩松氏や中村氏が霊地霊樹と訳されている原語は共にの丘町苫である。同一のものを樹やこれを生 み出した大地、霊樹霊地と訳されている所が、両者が同じ意味を兼ねそなえているもの、両者の同一を指し示してい スッタニバlタで﹁建物が建っていたわけではない。樹のまわり ︽m v
が聖なる神域ということである﹂と解説されているが、さぞかしジャ l カ タZ
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?お@の如く、まわりに柵が設 ると思われて興味深い。これについて中村元民は、 けられ、その中は掃き清められていたであろう。そこがチャイトヤとして人々から信仰されていた。従って釈尊が樹 る も の に 、 ﹁つつまれた﹂心の安らぎを感じたのであろう。これが前掲の経典の﹁OO
樹はたのしい﹂といった表現 ( 3J ) から樹に遊行されたのは、こうしたチャイトヤとしての樹から樹であった。そして、ここに坐す時、何ものか大いな と な っ て 行 っ た と 私 は 考 え る 。 この大いなるものに﹁つつまれる﹂という感じを示すジャ1タカがある。即ちムチヤpy
ダ樹に住む竜、これも樹 神の一つとして考えられるものだが、略述すると次の如くなる。 ﹁樹下に冥想する釈尊が風雨にさらされるのを防ぐため、 る﹂ハ写真8
﹀ 釈 尊 を 竜 の 胴 体 で ぐ る ぐ る 巻 き に し て 、 釈尊を保護す という有名な話である。これは﹁樹神につつまれる﹂ということを心理的に適格に表現したものと思う。これは叉洞 窟中で地神につつまれるという感じにもつながる。だからこそ、釈尊はラ l ジ ギ l ルで竹林精舎が寄贈されているに 樹 と 釈 尊 ハ 高 橋 w樹 と 釈 尊 ︿ 高 橋 ﹀ 吏 に 山 人 に 続 く 、 ス ッ タ ニ パ l タ に は ︵
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必る時、時き削︿プツ〆﹀はア l ラ グ ィ l 閏のア l ラ グ ァ カ と い う 仰 − 小 川 ︿ 夜 叉 ﹀ の 住 民 に 住 み 給 う た も拘らず 、 ﹁ 浴 賊 の 窟 、 F . 、:
l ー γ e J Victoriaand Alleer Musil』nrin London ラ 山 の中胞のサツタパソニの路 ︵ 七 楽 矧 ﹀ イ シ ギ リ 山 の カ l ラ ・ シ ラ l 、 シ l タ 林 ︵ 寒 林 ﹀ の サ ッ し、ノξ T・〈リ Ci~ ン こ ァ れ ィ 又 カ 自 の 然、 ii司 の 鼠{ i同~ 銘 を で と ,,主 ま な り く 歩 地神に﹁つつまれて﹂の境地であ っ た ろ う 。 口 . 臥 の ぷ の コ レ ク シ ョ ンの洞窟中の釈尊も 、 こうした大 地 即 ち地神につつまれ 、 それと 如 となった釈巧を表わして い る も 8 の と 思 う 。 釈噂の樹 神地神 とのかかわりはO
或る時 、時 き削︿ブツ〆﹀はガヤ l ︵村︶のタンキタ石床におけるス l チ ロ l マという神山︵夜叉﹀の住居にお ︵m
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られた。その時カラという神ヰとスチロ l マという神ヰとが師のいます近くを通り過ぎた。O
尊き師︵プツダ﹀はアlラヴィlにおけるアツガlラグァ霊樹のもとにおられた。その時ヴァンギ I サさんの師 ※ ︿ 但 ﹀ でニグローダ・カサツパという長老がアツガ l ラヴァ霊樹のもとで亡くなってから聞がなかった。O
わたしは特定の夜、すなわち、半月の十四・五日及び八の夜に園林の霊域合$
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森 の 霊 域 樹 下 の 霊 域 お 均 一 ・ の文章から見ても釈尊と樹の関係の深かったことがわかる。釈尊は﹁自己をよりどころとして、他にこれを求めては いけない﹂の言葉の如く、趨越者を求めなかったといわれているが、然し、樹神地神を意識的に﹁祈る﹂という立場 ではなかったが、常に心情的に、樹や胴穴の中で﹁安らぎ﹂の感を得て居られたことは十分推測出来る。 だからこそ、前述のカルカッタ博物館の﹁樹神が釈尊を悟りの座に招し入れる﹂とか、又﹁地神が地震を起してマ ーラを退散﹂せしめ、叉﹁入滅をかなしんで樹神が樹から半身を出して﹂泣くという彫刻が作られたのである。この ように釈尊は樹と大地の中で、即ち﹁自然につつまれて﹂生涯を送られた。 ( 35 )。
以上述べた原始経典より成立の遅い︵A
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一世紀﹀プツタチャリタには樹神夜叉の総大将たるクベラと釈尊との間 柄が美しい文章で数多く述べられている。即ちO
夜叉カピラの名にちなんで呼ばれるこの都︵カピラパッツ﹀は、それをとりまく郡・町・村を挙げて悦んだが、そ のさまは恰もナラクバlラハクベラの子﹀誕生の際に財宝の主︿クベlラ﹀の都︵アラカl﹀の天女が群らがって ※ ︵ 制 ︾ 喜んだ如くであった。 ※ ︵ 鈍 ﹀O
かの北方クルの住民たち、さらにまた︿財宝の神﹀クベ l ラの遊園すらも美しくすることが出来る:・ 樹 と 釈 尊 ︵ 高 橋 ﹀樹 と 釈 尊 ハ 高 橋 ﹀ 滋 ︵ 鎚 ﹀
O
財宝の神ハクベ l ラ︶の息子に天女の群れが待るごと・O
︿出家出域に際し﹀すると夜叉たちはお辞儀して、身体をかがめながら、その下勝を金の腕環で飾りあげた蓮花の ような手の先を︵悦びに﹀震わせながら、差し出して、その手で駿馬の進化のような︵四つの蹄を大地につかぬよ う ﹀ 持 ち 上 げ た 。O
この彼の言葉をきくと、財宝の主クベ l ラの春属たちは悦んだ。また心から悦んだ。神々の群れは彼にその決意を したことの成就を予言し、祝福した。O
天上のハ財宝の神﹀クベ l ラの地位と地上の王の栄華の両者を同時に亨受したらどうだ。 等々枚挙に遣ない。このプツダチャリタは成立も時代的におそく、成立地も北西インドだから、 シルクロードの通 商が当時は極めて陸回国であったのと対応し、樹神の富の面が強調され、財宝神となったパンチカ・クベ l ラ が 人 々 か ら渇仰された。現在数多く出土しているパンチカとハlリティl像、 フアロ!とアルドクショ l 像がこれを示してい る。こうした当時の状勢を反映してプツタチヤリタには金銀財宝の神としての夜叉の王が釈尊とかかわっていること の表現となっている。然しその源は樹神と釈尊とのかかわり、即ちモンスーンインドの風土の中での間柄であること は 勿 論 で あ ろ う 。。
然して樹神につつまれてという立場が、更に樹神即釈尊というところまで徹底して行く。 目頭の﹁洞窟内の釈尊﹂の肩から火が出、足もとから水の出る図柄はこうした﹁超越者﹂ ﹁ 救 済 者 ﹂ と し て の 釈 尊樹 と 釈 前 吋 ︵ 高 橋 ﹀ という立場に移行したもの で あ る 。 これもインドの風 土 から来る 人間 と 樹との親密かかかわり合いからの 必 然 的 な 帰 結 で あ る 。 即ちカルカッタ博物館のベl スナ ガル出土の如・怠樹が枝から財布や殺 サソチー第一応 物の藍が垂れているが 、 こうした型 樹をかこむ柵たる欄楯が 、 そのまま 釈尊の舎利を犯るストゥlパの頂部 ( 37 ) に 作 ら れ 、 又 、 型樹の像の上にかけ 9 られた傘蓋が仏応の最頂部 に 建てら れるようになる。 ︵ 写真 9 ﹀これは 型樹に対して行われたプジャl ︵ 供 長︶が 、 そのままス ト ゥlパに捧げ られるようになったものだし 、 燃灯 − 焼肴 ・ 散華 ・ 奏楽 ・ 右観の 儀 式 も 、 もともとは型樹にやどる樹神
樹 と 釈 作 ︵ ︷ H 川 婿 ﹀ 夜 父 、 吏にこの山一樹を育てる地神に搾げるものであった 。 これはジャlタカの数々の物語が示 し て い る 。 になって行ったことを示している 。 これらの儀式が仏椛に対して行われるようになったということは ﹁ 盟 樹イコール釈尊﹂という図式がますます顕著 即ち 、 ベ シ ャワル博物 館刊紙のアlカンサスの築 の中から釈尊が誕生する ような彫刻が 出 る に 至 舎利容器・個人蔵(日本〉 語~る tこ~ 0 セ こ l れ ナ は 村 南 の 伝 長 の 者 因 の 縁 娘 物 ( 38) スジャlタが樹神と附迫 えて釈尊を供必したとあ るが彼女が樹神と釈却を 区別出来なかったことを 10 意味し 、 当時 、 最早や両 者を同じよう に考 えてい た こ とを示している。 こうした考え方の典型
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の 生命 力の発現として超越者になる 。 的 もなのは 、 ア l カサンスの葉 の 株の上 に 舎 利 塔が立ち 、 恰も仏会 利は樹 の突のようにも見える。 ︵ 写 真 叩 ︶或は又ミラクル・オブ スラパステ イ と い われる 、 すf 、J ダl彫刻の白脳といわれるもの に 、 釈尊は水中︵水の 下 の 大 地 ︶ か ら 出 た太い柱で支えられた述筆 11 台の上に坐し 、 ︵ 写 真 U ︶その柱c
39) から分れた多くの茎の上の蓮華台 の上に諸仏世尊が坐すような彫刻 が 出て 来る。こうなると 、 釈噂自 体は人間では なく 、 大 地 ・ 大自然 法華経でいう﹁久遠の本仏﹂と い うこといなる。かく立場の飛躍をこの像は示 し て い る 。 アジャソタ石倉 第七窟に宇宙の心捧か ら無数の茎 、 その夫 4 の 茎 上 の蓮華台 上 に諸仏が坐っている。 こうした例はオlランガパlド石窟第九窟二階ベラソダ近くに、仏が恰 も木の尖の 如 く 描 が か れ 、 ハ 写 真 ロ ﹀こうした例は 北 貌の 樹 と 釈 尊 ハ 高 橋 ﹀樹 と 釈 噂 ハ 高 橋 ﹀ 石窟内彫刻や 、 チベットの聖樹マン ダラ等枚挙 に 迫まな い 。その 中 で 有 名な教埠英高窟第三三二 、 東 壁 の 阿 アジャソター第 七Zl'内前室側壁 弥陀砂土変︿七世紀﹀は前述のアジ ャンタの彫刻とそっくりで 、 こ れ が 後世のマンダラを思わせる多 仏 の 造 像 形 式 と な っ て 行 く 。 ﹂うした仏と聖樹との関連は 仏 教 の独断場のみではない。ヒンズ ー 教 でも同じである。岩 山 をすっぽ り 彫 12 り 進 み 、 大地の脳の如く彫り残され た エ ロ l ラ石店カイラ l サ t 寸 。 こ の 山 川 に 立 っ と 、 大地の生命力が地の ・ 版 ー が 彫 ら れ て い る 。 から説き 出 し た よ う に は 間 ぜ ら れ る 。 こ の 巨 大 な 刊 行 の か た ま り た る 神 搬 の 、 然も中心 w m u 以上階のまわりに無数のヤクシ それらの中に 、 ごつの手で樹の校をもち 、 川 広 は 片 方を地神が持げもち 、 似の足は迷禁の菅の上にのって い る ﹂ 像 ハ ぼ J其 日 ︶がある。これらはパlルフッ ト の侠写といってしまえばそれまでだが 、 岩をすっぽりくり抜 い た神殿頂 上
の壁に立っていることが 、 大地の生命力の表現そのものとして与えられる。 こう考えると 、 仏陀もヒンズーの神々も樹神や大地の仰と一如のものであり 、仏 教もヒンズー教も共々にインドの 胤土の小で生れ 、 仏も神も ﹁ 内 然の源﹂からよって来ていることを如突に示している。仏陀が人間釈尊から救済者超 越者になって行く大衆 仏教の仏陀観の紫地はこうした樹神 信 仰、杏インドの風土自身に あったといえよう。 そして叉他面から見ると 、 この自然の樹も 、 単なる樹ではなくて 、 大自然の生命力 、人間 や動物そして樹々をも育 樹 と 釈 尊 ︵ 高 橋 ﹀ 頂部仮|腔 カイラーサ寺院 エローラ石窟 ( 41) 13
樹 と 釈 尊 ハ 高 橋 ﹀ ぐくみ育てる﹁大いなるもの﹂の表現であるから、樹自体も仏陀と同じ素地をもっているものとなる。だから、いた ずらに樹を切って自然破壊することは、この偉大なるものを切ることになるのである。
。
然して樹下から樹下に遊行した釈尊の生き方は、やがて僧達が一定の所属僧院に定住することによって、大いなる 変 化 を も た ら し た 。 これは釈尊滅後百五十年、アショカ王時代に編纂されたといわれる長老備や長老尼傷を大般浬柴経と対比してみれ ばわかる。即ちO
そなたは風病に犯されながら、叢林や林の組末な、そしてすべてに事欠く地域に住むO
縁 の 光 を 放 ち 、 よ く 繁 茂 す る ア ツ サ ツ タ 樹 ︵ 菩 提 樹 ﹀ の 下 で : : : 。O
さあ私は独りでプツダが称讃されている森へ行こう。そこは孤独に住し、専念する修行者にとって安楽の場所であ 内 総 ︾ る 。 と一定の所属寺院への定住化が進んでも、心ある僧は依然として、樹や洞窟を求めて屋外に住もうとしたことがわか る。然し事態は益々変って行く。それを表現した経文は、O
利益を欲し、怠惰に流れ、精励することなく、林の樹蔭を嫌う輩は、村落のほとりに住むであろう。︵傍線筆者︶O
あらゆる煩悩のけがれを滅尽した長老たちは今や死んでしまった、そのような人は数少ない というような状況になりO
頭を剃り重衣をまとっていながら、修行に専念しないような人々は、名聞利養にうつつをぬかし、ただ名戸を欲し 州 制 。 ハ 傍 線 筆 者 ﹀ というような僧が多くなり、本来の森を捨て町に住む僧遥は内は世俗の欲にみちながら、外見だけは憎らしく振舞う よ う な 者 が 多 く な る 。 ハ 傍 線 筆 者 ︶ 即 ちO
軽薄で、心の定まらない修行者が、たといポロ布でつづった衣を着ていても、猿が獅子の毛皮をまとっているよう に 、 そ の 為 彼 は 美 し く は 見 え な い 。O
在家者たちが捧げる洗面粉油、洗い勝、水、座具そして食物をより多く得ょうと欲求すも︾ とあって、我々も耳がいたい程、俗化して行ったことがわかる。これが釈尊よりたった百五十年しか経ない時の表現 で あ る か ら 驚 く 。 ( 43 ) かくして自然をはなれた僧は、ますます世俗の欲にとらわれた生活に陥って行く。。
然して、自然をはなれた人聞は一体どこへ行くのであろうか。西洋的自然観の如く、自然と人闘を分け、自然に対 す る 人 間 の 優 位 を う そ ぶ き 、 ﹁人聞は自然を支配するもの、自然は人聞に奉仕するもの﹂等の不遵の考えに陥って行 く。従って、人聞の快適な生活さだけを求めての自然の開発、否自然の破壊が進んで行く。これは人間自体の破滅に も連らなる。現代の地球温暖化・酸性雨オゾン層の破壊がそのほんの一つの表現である。 自然と人間ももともと一枚のもの、否、人聞は自然の中に生かされている、ほんの小さな存在にすぎない。こうし 樹 と 釈 尊 ハ 高 橋 ﹀樹 と 釈 尊 ハ 高 橋 ﹀ た謙虚な反省がなければ人類に救いはない。今こそ釈尊の生涯、そして釈尊を生んだイ γ ドの自然観に立ちもどらね ば な ら な い 。 冒頭の写真﹁洞窟内説法の釈尊﹂像は釈尊が﹁自然に生かされ﹂叉﹁自然の生命の凝結﹂として超越者釈尊にまで 考えられていることは前述した。然し、これは釈尊だけではなく、我々も動物や樹と共に、自然の中に生かされ、そ の生命力を分与されたものである。これが﹁すべてのものは仏性をもっ﹂ということであり、動物だって樹だって成 仏する、即ち﹁草木成仏﹂という思想が出て来る由縁のものである。 この同じ立場のものが、他を傷つけ、切ったり殺したりしていいわけはない。その報いは必ず自らにふりかかって 来 る 。 私はこうした立場から釈尊の生涯、そしてそれを表わした仏教彫刻の意味を強調したい。 ( 44 ) 各地で﹁
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樹はたのしい﹂といわれた釈尊の﹁自然と一如﹂となる生き方、これこそ現代の人類否地球の危機を 教うものである。こうした釈尊の、否釈尊を生んだインドの大地、そこから来る東洋的自然観に、今こそ立ち帰らね ば な ら な い 。 ︹ 註 ︺ ︵1 ︶ 大 方 広 荘 厳 経 の 如 き 大 乗 の 仏 伝 ︵2 ︶ 中 村 元 訳 プ タ の こ と ば ハ 岩 波 文 庫 ﹀ 五 九 頁 ︿ 3 ﹀ プ ツ ダ 最 後 の 旅 ハ 中 村 元 民 ﹀ 3 1 位 ︵ 4 ︶ 岩 訟 浅 夫 訳 プ ツ ダ の 生 涯 ハ 原 始 仏 典 ﹀3
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川 崎ハ 6 ﹀ ハ 7 ︶ ︵8 ﹀ ︿ 9 ﹀ ︿ 叩 ﹀ ハ U ﹀ ハ ロ ﹀ ハ 時 ﹀ ︵M ︶ ︿ 店 ︶ ︿ 時 ﹀ ハ げ ﹀ ︵ 同 ﹀ ︿ 印 ﹀ ︿ 初 ﹀ ︵ 幻 ﹀ ︵ 沼 ﹀ ︵ お ︶ ︿ 則 自 ﹀ ハ お ﹀ ハ お ﹀ ︵ 幻 ﹀ ハ 却 ﹀ ︿ 却 ﹀ 岩松波夫訳原始仏典 同 右 同 右 同 右 同 右 同 右 中村元氏仏陀最後の旅 同 右 同 右 同 右 同 右 同 右 宮 − Z ・ 同 ︵ 原 始 仏 典 一 六 五 頁 所 掲 ﹀ 岩波文庫プツダの言葉
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・H ・原始仏典二ハ六l
一 六 七 頁ω
・2 ・原始仏典内九五八l
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﹀ 大乗仏典プッタチャリタ 116 原 始 経 典 律 蔵 畝 部 俊 英 訳 律 大 品 1lM の 2 1 1 中村元プツダ最後の旅︿岩波文庫︵註﹀一九三l
一 九 五 頁 ジ ャ I タ カ 肱 三O
五 ・ 四 七 九 ︿ 南 伝 大 蔵 経 参 照 ︶ ジ ャ l タ カ 律 大 品g
・ ︿ ・ M G ω ・ 五 分 律 大 m l 一o
= 一 中 前掲岩松民大いなる死第三章四二 中 村 元 民 岩 波 文 庫 四 三 頁 樹と釈尊︿高橋﹀ 畝部俊英訳 仏陀の生涯内 律 蔵 大 品 5 4 1 3 3 2I I I I I I
1 14 15 2 1 21 九三頁 内 4 E E e ’ i q d ’ E E 唱 A a 且 τ E E ’ 唱 i l l 斜の ml2 1lM の却 1 2 1 l M の 111 ( 45 )樹 と 釈 尊 ハ 高 話 ﹀ ハ却﹀中村元民岩渡文庫五九頁 ハ 凱 V 同右七二頁ハ釈尊だけでなく当時の遊行者はこうして樹の下で死んだ﹀ ハ沼︾原始仏典一九頁・冨−