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野外活動における自然意識

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(1)野外活動にお. け 野. 佐 The. 自然意識. る. Historic司.1 Process Need. 裕. for. Consciousness. the. of. Outdoor. Hitoshi. of the. Activities. SANO*. StJA(A4ARY This the. study. science. of. outdoor activities. What is explained. 1). The. correlation individual. science between. pbysieal its culttlralvalue.. 2-A) performed. 2-B) aetivities. 1) the. to consider. aims physical. edtlCation by. this. and. study. outline sports,. is. as. of and. outdoor. 2). the. activities reason. why. as. an. physical educationand the physical movement resources, B) the feed-back. sportsaims and. the. system. to consider A) the development all-round of. physical. movement,. term is a general for physical concept of outdoor activities in the recreational man between relation and nature. The for nature need inムutdoor activities is the historical product have to natⅥ.re. wbieb practical relation. The. は. perform. follows,. of. Ⅰ. of. object. people. じ. め. law of. of the. and. C). activities of human. に. 本論稿は第24回体育学会原理分科会での発表「野外活動における自然意識+を中心に, 其処での質問,意見を参考に,併せて屡々問題にされる野外活動における体育学の課題を 考察せんとするものである。もとより,野外活動と体育との接点,野外活動とその関連語 概念である野外運動や野外教育との身分関係,術語上の問題等々,未だ確定されざる事柄 の少なくないこの領域においてほ,本稿もまた問題提起という劇土とどまらざるを得ない. Ⅱ. 体育学の対象領域. 目的意識的な「身体の教育+は人類の歴史と共に古くから存在していたことほ体育の歴 史的研究の中で明らかであるが,しかし科学の一分科としての体育学の歴史ほ浅く,体育 学が現代の学問体系において如何なる位置を占めるかという点に関してほ当該領域におい. ても共通の了解に達しておらず,また他の個別諸科学の間においても体育学ほ独立科学 としての市民権を与えられていないかの様相にある1)。この原因にほ体育が身体教育*保健体育学教室(Dept.. of. Physical. Education).

(2) 野外活動における自然意識. 51. through physical activities physicaledlユCationか,身体活動を通しての教育-education かという点での問題や,体育,スポーツ,プレイ等の範晴上の身分関係が不統一であった りするという専門用語の術語的不統一性,暖昧性など,いわゆる学問上の一般的後進性を. 体育学が未だに脱却し得ていない点にも存するが,しかし同時にそれほ学問観,科学観の 問題としても把握されねばならない側面を有していると考えられるのである。 確かに体育学における概念規定の明確化,術語の統一をめぐっての努力は19C えば, Yahn,. F.. 以後例. L.による先駆的な研究をほじめとして現代でほ「体育術語統一国際研究. 会+-Internationale. Arbeitstagung. fiir Terminologie. der. Leib占siibungen (des sport) 等で,国際的規模で研究が進められているが2),しかし体育学の中核概念である「身体+ 概念は単に生物学,自然科学的次元の領域だけでほなく,歴史的社会的存在である人間の 「身体+という意味で社会科学的解明をも必要とする広範な学的対象領域を内包する概念で あり,またそれほ東西のイデオロギー上の問題とも関連して,たとえば「体育学+という 術語もドイツ語諸国ではEarper von. der. leibes. iibungen, (kモirper). kultur. wissenschaft,. Allgemein. sportwissenschaft,. Theorie. der. leibes. wissenschaft. (k8rper)故bungen. 等々とそれは身体文化学なのか,ス,ボーッ学なのか,また身体教育学なのかという学問の 性格上の論争と同時に,. 「身体+の表記上の問題としてもそれはk6rperか1eibesかという. ように複雑な問題をかかえているのであるS)0 Dr・岸野はこうした術語上の統一の問題の 考察と関連して体育の基礎概念を「体育+という翻訳語に相当する西欧語の名辞を三型式 1) erziehungの語塾-physicaleducation, 2) kultur BOCr7HT由He, culture, の語型-physical に分類し,. EyJlhT9pa 3) iibungenの語型-physical. training,. 6ducation cultur. entrainement. physique,申H3丘tleCⅨOe physique,如3由ecIくafI. physique,如3由ecEa57. TpeH耳p6BKaと,その語源や,それらの歴史的理論的説明を試み,更に身体活動-k6rper1iche Betatigung, Bewegtlng, physic?1 activity と身体運動-k8rperliche Physical. movementという下位概念を設定して体育術語上の基礎癖念め体系化を「身体活動+-「身 体運動+-「身体修練+-「身体教育+-「身体文化+というようにその構造化を試みている4)。 勿論こうした術語上の体系化も学的対象額域の明確化と相互媒介的な関係にあり独立科学 としての体育学の網の目を構成するのであるが,われわれは「体育+とは人間の基本的権 利の-ツとして理解される「身体形成権+と「身体文化享受権+を確保,あるいは保証せ んとする教育実践であると考えているさ)。従って体育学ほこうした課題に理論的,実践的 「身体運動と個性的人間の身体資質の に応えることをその任務とする。即ち体育学とほ, 全面的発達との相関関係,身体運動の合則性およびその文化的価値などを解明し,個人お よび社会の体育,スポーツ活動に理論的実践的指針を操供することを目的とする+学問の 体系であると理解される。従ってその研究関心領域の核心ほ「身体教育+と「運動教育+ にあるが,もとより人間の身体的現実¢羊自然的な生成, werdenではなく,身体をとりま く歴史的社会的条件や身体文化 k8rper kultur の結節点であり,身体的現実とほ歴史的 社会的諸関係のensembleであり,人間の諸行為の成果. werk. なのであると考えるわれ. われほ6),従って身体的現実ほ自然科学的解明だけでほ充分に明らかにされ得ず,歴史的.

(3) 52. 佐. 野. 裕. 社会的性格をもつ身体的現実ほ,たとえば階級社会においてほまた極めて就く階級的性格 を反映するが故に社会科学的アプローチもまた必須であると考えるのであるT)o. われわれ. ほ身体的個性の全面的発達を社会的諸関連の体制外で単に身体の生理,解剖学的諸研究で 期待できるものでないことを充分に理解する必要がある。 ところで一般に科学の定義ほその「科学性+をめ(・ってイデオpギッシ且であることを 免れ得ないが, 「科学は,その社会的な存在様式からみれば,人間の理論的活動の最高の 形態として,社会的諸関係と科学的諸設備を包括するところの,社会的分業の特殊な一領. 域であら,認識活動の産物としては,科学は,実践から生じ絶えず発展しているところの, 自然,社会および思考の諸法則に関する認識の体系であって,この体系ほ概念,言明,佼 説および理論の形式において確定されるのであり,それほまたその社会的機能からみれば, 社会の生産力と社会的過程の指導の基礎として,自然的および社会的環境を人間がますま す支配することを可能にする。+8)という考えは,既に明らかなように語源的にも科学がラ なのであり,人間の wissen-sellaft テン語のseientiaからきているように知識の体系, 対象的実践活動における実践的必要から生れてきたことからも首肯されるのであるo世界. に開かれた存在9)としての人間の実践的対象領域が豊かになればなる程,科学は個別諸科 学に分化し,その知識の体系が豊かになることほ当然なのである10)。体育学もそうして開 かれた-ツの学問領域なのであるが,問題はこうした科学の世界に学問的ヒエラルヒーを もちこむことである。即ち高尚な科学と低級な科学の区別であり,また「最も厳密な科学 の模範たる数学を基準+ll)に自然科学および一般に科学における1) 点に諸科学間に上下関係をもちこむ科学観,学問観のseetionalism,. -ダーたる物理学を頂 provineialismであ. る。個別諸科学の先進性,後進性の問題とその科学の「高尚+如何ほ別の次元の問題であ り,科学の高尚さの問題は個別諸科学の学的対象領域のちがいにあるのではなく,まさに 科学者の倫理,品性の問題なのである。科学が人間の対象的実践活動における実践的必要 から生れてきたものであり,歴史的に分化する傾向にあることは必然的に諸分科間に学問 ・的進歩のtime-1agをもたらすのであり,またいわゆる中間分科が次々に生れるのも既成 学問の専攻守備範囲で処理できない課題が生れるからであり,科学が能動的な人間の実践 的諸活動の-産物だからである。従って諸分科間に系統発生的にどちらがより根源的であ り,どちらが派生的かと家元意識をもちだし,科学に序列をつけること程珍腐なことほな い。そうした意味で,体育学ほ諸科学のeomple文一woolであり,体育学として独自の理論 は不必要であり, 「体育研究ほ,体育をよくする為,即ち現場の必要性に応じて行なわれ る研究であって,関連する他の科学の方法を用いて研究したり,あるいは他の科学におけ る知識を体育の必要に応じて再組織する+12)という理論を克服する必要があろうo. こうし. た考えに依れば,体育心理学ほ心理学の-ブランチであり,運動生理学は生理学の-ブラ ンチである等々いわゆる体育学諸分科ほそれぞれの個別諸科学の-ブランチとなり体育学. の狸自な学的対象領域ほ存在しないかのごとくである。若い学問が先行の関連する隣接諸 科学の既に確立された概念,範噂組織に依拠して,. ■その若い学問独自の研究関心むこ基いて. その対象領域を解明せんとするのほ,諸分科間の関連,概念の表記上の洛意性の排除,請.

(4) 野外活動における自然意識. 53. 科学の統一性等の問題からいってもむしろ好しいことであり,勿論それは体育学に独自の 概念,範噂組織を不必要とするものでほなく,体育学ほ先行する関連語科学の諸概念をも その体系の網の目の-ツに組み込んで,その知識の体系を豊富にし,研究対象領域を鋭く 認識する方法論的戦略を洗練化させるものである。われわれほ単に心理学や生理学のコピ ーや亜流としてでほなくその体育学的,方法論的オリジナリティをこそ追求すべきである が,それは体育学の学的対象領域ほなにかを明確に把持してこそ可能であり,諸々の方法, 手段ほ,体育学固有のアスペクトの下に有効に活用されるのである。まさに学的対象領域 のちがいは,当然にその研究関心領域を制約するのであり,それはまさしく体育学独自の 方法,手段なのである。かくして体育学におけるその方法論的位置づけの不明確な研究ほ 論外として,それぞれの研究データ,知識ほ蓄積され,体育学として統一されその知識の 体系を豊かにするのである。 体育学ほ人間固有の「身体を形成する権利+,. 「身体文化を享受する権利+を単に思想の. 問題,法理論上,行政上の問題としてだけではなく,生理学的側面から文化的側面に至る まで,多面的な角度から解明し,人間の身体的現実の向上を目指すものであり,従って, それほ現実の国/民の身体的状況,体育・スポーツ的要求を享受し得る条件とその分析から 出発し,個性的人間の身体的資質の全面的発達と身体運動との相関関係,身体運動の合則 性及びその文化的価値を解明し,体育・スポーツにおける国民的,人類的課題に理論的に も実践的にも応えることを独自の任務とする学問の領域であるといえるのである13)。 注 1 2 3 4 5. 体育原理研究会編。序説体育学体系・(体育の原理第4号)。不味堂。昭46。 岸野雄三。 体育史一体青史学-の試論] 大修館書店。昭48, ,現代保健体育学体系2 岸野雄三。 前掲書。 p. 12-150 岸野雄三。 前掲書。 p. 2-53。 All. Enjoynlent of. p.2-60. ・z・ound. pbysical. sports. develop皿ent. (A). (B). Physical. education. したものである。体育ほ(A)運動教育 と(B)身体教育のニッの磯能を統一的に把持していると考える。これは体育を人間の身体形 成権,身体文化享受権を保障する教育実践であると理解する立場に照応する。この天秤図のバ ランスが(A)に傾斜すると,これはいわゆる運動文化主義であり,体育ニスボーッ教育の色 彩が濃厚となり, (B)に傾斜すると,いわゆる体力主義といえるのであり,それぞれ体育のも つ側面の一面的強調となる。歴史的にも体育にはこのニッの故能のシーソーゲームが見られる が,もっとも「身体活動を通しての教育+との考えもあり,これほその解釈の多義性によって 体育のもつ独自性を酸味にしているが,いずれにしろこのニッの磯台巨に包括される。 (A), (忠) を統一的にとらえる体育とほ,身体運動と個性的人間の身体資質の全面的発達との相関関係, over--simplify この囲は本稿における体育の定義を. その法即性,文化的価値の理解の上にたった体育実践であり,体育ほそうした課題に応えなけ ればならないのである。 6)この点に関していえば,現在の政府のいわゆる,中教審路線に対抗して「国民の教育+を志向.

(5) 佐. 54. 野. 裕. (会長,梅板悟和 するという日本教職員組合中央執行委員会の諮問検閲「教育制度検討委員会+ 光大学長)の「日本の教育改革を求めて+における体育科削こ対する考え方も,国民の「身体 教育+をどうするか,また文化権の-ツである身体文化享受権を保障する「運動教育+をどう するかという点での問題意識が薄く,あたかも「身体は自然に形成される+とでも言うかのご 123。しかし彼は学校体育の意義を認 とくであり, (沢柳政太郎,実際的教育学,明治図書p. 識している)現在の国民の,特に児童生徒の身体的現実がどうなっているかについての認識が 不足し,また国民の体育・スポーツ要求に対して如何に応えるかという視点に欠け,その教育 内容の精選の観点は,われわれの問題意識からすれば非科学的であるといえよう。特に小学校 低学年の体育を選択にするなど随分と乱暴な教育観といえるのであるo 7) 1974. 3. 17.第1回東京体育学会全体シンポジウムぐ70年代における体育科学のあり方と研 究者の役割〉で問題となった実学と虚学の学問論である。そこでの実学論が例えば,江戸時代 から福沢諭吉等-と連なる実学論との系譜上の関連は討論不足のため,定かでほないがそうし た学問観,「科学観では理論と実践を統一的に把持できず,例えば自然科学的方法で対象に迫る 運動生理学にしても,だれのため,なにのために,なにを明らかにするのかという研究姿勢の 問題がネグレクトされ,その研究成果が如何に使われるかはそれほ実学の関心鏡域外であると するのでは,批判されてもしかたがないのである。 1971, p・ 71o 8 K.マルクス大学哲学研究集団著,岩崎允胤訳,科学論,法大出版局, 78-960 p・ 9 A.ボルトマン,人間ほどこまで動物か。岩波書店, 10 F.フィードラー著,岩崎允胤訳,自然科学と社会科学の統一,大月書店,科学労働の特殊化 と専門化ほ同時に,一層実りのある科学の統合の形態でもあることが論じられているo 21, 1973, p・ 98,科学 12号, ll)岩崎允胤,他,科学的認識について(その2),札幌唯研No・ 的記述における数学的方法の科学性,その効用と限界が論じられているが,感性的経験に素材 を求める経験科学の領域においても,質を捨象して量に還元する数学的方法ほ(勿論'質を量 p・ 155)必ずしも唯一 的に表現することもできるが一現代自然科学と唯物弁証法,大月書店, の方法でほなく,数学化一精密化-科学的の強調は一面的である。体育学の領域における数学 的処理の限界とその効用についての論義は未だ少ない。 95より転引用o 12)体育原理研究会編,序説体育学体系,不味堂。永井康宏論文p・ 13)体育学の軽視は古代ギリシャ以来のSomaはSemaの身体観以来,中世的身体観や,軍事, 暴力学生のゲバルト,運動部のシゴキ等々と身体に関する様々の表徴が重って生れた暴力一身 体一体育・スポーツー知性衰弱などの諸観点に由来するが未だわが国では学問の対象としての 体育・スポーツに関する認識が弱い.. 皿. 体育学の対象領域としての野外活動. 一般的に「野外活動とは,自然環境の中で,自然に親しみ,自然を理解し,自然を愛好 しながら行なわれる諸活動である。具体的にほキャンプ,登山,サイクリソグ,. -イキン. グ,ホステリング,スキー,水泳,ボート等々,山野,湖沼,河川,海岸等で営まれる活 動の総称である+1)といわれるが,われわれは野外活動とほ「自然と人間との諸関係のッであるレクリェ-ショソ的関係においてなされる活動そのものを楽しみとす■る諸活動の 総称である+と理解している。従ってそこでの活動の種類は歴史的に無限に人間に開かれ ており∧,必ずしもR・M・Rの大なる体育・スポーツ的諸活動に限定されず,野外活動 とは非スポ-ツ的諸活動をも包含する概念として理解されるのであり,野外活動ほ時には 教養・文化的活動として位置づけられたり,また体育・スポーツ,身体的活動に位置づけ られたり多様なのである2)。そこで体育学の対象額域としての野外活動という場合には, いくつかの論議が必要となるのであり,新しいカテゴリ-が必要とされるのである。r 野外活動の本質ほ自然との「全身的接触過程+に存在するといわれるが,野外活動の中.

(6) 野外活動における自然意識. 55. でも主要な領域を占めるスポ-ツ的諸活動ほその目的の第一義性をこの自然との「全身的 接触過程+に置いているのであり,ここにいわゆる野外活動としての例えば水泳と,競泳 との性格上の違いが生れるのであり, P.C.マッキントッシュのスポーツ分類に従えば, それはclonquest. sportsとcompetitive. sports8)との差異なのであり,そこで野外活動 におけるスポーツ諸活動の特徴ほ自然との対時にあるといわれるのである。大森はそうし たスポーツ諸活動を「野外運動+と規定L,それは「自然の抵抗,障害'tの関係における 課題の身体的形態的克服の過程+をもち,一般の競技スポーツが形式,環境条件を一定に して実施されるのに対して,野外運動ほ流動的な自然環境の中で行なわれるものであると. してそれ以外の活動-狭義の野外痕動と区別している4)。野外運動とほ野外活動の中でも, 自然との接触,その克服過程においてスポーツ技術の介在する身体諸活動の指示言語とし て構想せられたと解されるが,それほわが国唯一の研究講座である東京教育大学野外運動. 学研究室において使用される特殊専門用語の域をでず,体育学の学術用語として未だ一般 的とほ言えないのである.しかし自然がレク1)エーショソ活動の対象領域として意識され 野外活動という概念が形成された'ように,野外運動なる概念も近年の登山,スキー,水泳, -イキング等の自然と対時するスポーツ諸活動の興隆に伴い,その理論的実践的解明が体 育学において要請された結果,その学問的関心から造語されたものなのであるといえよう。 ところで野外教育なる術語もまた理論語としては未熟であり,わが国においてほ教育学 も含めて未だ如何なる諸分科の範噂親裁にも導入されていない様子である。僅かに体育学, レクリエーショソ学専攻の一部研究者その他においてその意義が認識されているのみであ るが,米国では大学に野外教育専攻課程が設けられており,大学院課程も存在している5)。 一般に野外教育ほ「野外生活で必要な技術の習得,野外活動の他に,そこで可能な自然学 習,社会学習,図画工作の学習などが当然考慮されてくる+のであり, 「野外での生活を 可能な限り教育の場として役立てるという観点からプログラムほ編成+8)されるというよ うに,それほ-ツの教育の方法として考えちれている。即ち-That learned. inside. learned. in the. the. out-of-doors. life situations,. and. classroom. should. should. learned. there.. direct experience,. through there. be. be. That. dealing. whieb. Can. best. be. which. can. best. be. with. native. learnedJ)であり,野外教育ほ1earning. materials by doing. という教育思想を理論的背景に自然のもつ教育的意味を自覚した教育実疏の-ツであるが, そのニュアンスほ論者によ・,て多様である.即ちある人は野外教育とレク.)ェ-ショ./杏 混同しており,一方他の人は野外教育ほ全く理科教育の範囲だと考え,また自然保護教育 の一環として理解しているなど一致していない。しかし今日では次第に統一的に理解され つつあるようであり8),野外教育とほ直接的学習の場として自然環境を最大限に生かす優 れた教育の「一方法+といえようo特に現代でほ教室学習では得られない優れた教育効果 を生みだす-ツの方法として研究されることが緊要であり,わが国の野外教育の-ツの典 型ともいえる林間学校ほその歴史的性格から転地療養的性格を色濃くもつものであるが, その教育学的解明ほ連れている領域といえるのである。 このように,野外活動は「自然と人間とのレク1)エーショ'ソ的関係においてなされる活.

(7) 佐. 56. 裕. 野. 動そのものを楽しみとする諸活動の総称+であり,野外運動とは体育学的見地から野外活 動の中でも特にその「自然との接触克服過程においてスポーツ技術の介在する身体運動+ を括る指示言語として理解されるが,野外教育ほ自然の教育的価値を自覚した教育の一方 法であり,野外活動はその教育目的に応じた多様なプログラムの-素材となるものであり, 就中野外運動は野外教育において重要なプログラム上の位置を占める体育・スポーツ的カ リキュラムの重要な内容を構成する-分野として位置づけられるのである。一般に体育学 ほ身体運動の合則性やその身心に及ばす影響,身体運動の文化的価値の解明などに学問的 関心をもつものと理解されるが,これほ当然に基本的人権としての身体形成権や身体文化 享受権を保障し,.国民の体育・スポーツ要求に応えていくものである。現在,国民の間に 自然に親しみo自然の中で身体運動を楽しみたいとする要求が高揚しているが9',この問 題に対する理論的解明は,野外教育を含めて体育学,就中野外運動学に課せられた任務で あるといえるのである。 ところで「野外運動が対自然という関係において他の諸身体運動と相異するならば,野 外運動と自然との接触の仕方やその意義に目が向けられなければならないo野外運動が自 然の中に展開される限り,人間にとって自然とはなにかという問が必要+10'であるといわ れるが,本稿はそうした問題意識に重なるものである。 一般に人間の語感覚ほ世界史的な労作11'であり,人間が歴史的社会的存在であることを 理解すれば,自然が自由時活動の-活動領域として意識されるには歴史的過程が必要であ ったのであり,山や海で野外活動を楽しむというそうした自然意識とはいわゆる,歴史的 風土的規定性をもつ制度化された自然意識l皇'なのであると理解することは自明ともいえる のであるが,しかし人間ほ本来素朴な自然を愛し,野外活動を楽しむことは人間の本能的 な自然慣性であるとする議論もあり18),このことは野外活動論での原理的論争点ともなる のである。 注 1972, p・ 204-205。江積憤四郎o野外教育,体育の科学 1)斎藤仲次,図説野外教育,新思潮社, p. 1-2,その他o 社o昭39, 2) 国土組合開発審議会大規模観光レクリエーション研究会「自然の中の余畷と再成のための空間 構成+その他。 3 4 5 6 7 8 9 10 ll 12 1S. p.c.. p・. 132-1450. 17ッキントッシュQ飯塚鉄雄その他訳.スポーツと社会,不味堂, 大森義彦.野外運動学に関する一研究.昭46東京教育大学体育学修士論文o by John・ J・ Kirk・ 体育の科学, 1969. 7, p. 393掲載論文「野外教育の動向+ 40 江橋慎四郎,前掲書p・ Prentice-Ⅱa11・ 1963, p・ 21より転引用o Outdoor education. smith他, 前掲書p. 19-270. この種の調査では,科学技術庁資源詞会勧告第19号,自然,休養地としての森林の保全開発 に関する勧告で総合的に論じられており参考になるo 大森義彦,前掲修士論文。 p・ 153。 E.マルクス,経済学哲学手稿,国民文庫駿,大月書店, 6, Vol・ 41。 1973. 中村雄二郎,雑誌「文学+ 1973, 33号遠藤甲大論文などにもみ 三田博雄,山の思想史,岩波新書oあるいは雑誌岩と雪,.

(8) 57. 野外活動における自然意識 られるが,野外活動論として体系的に論ぜられたものは未だ無いoそれはこの領域が未開拓の 分野ということに起因するが,しかし本能論的野外活動論ほ一般的にほ広く存在するようであ る。三田氏によれば登山行為とほ人間のデモニッシュな活動の-ツであるというo Ⅳ. 野外活動における自然意識. 「人間にとつて自然とほなにか+ということ 一般に人間の自然志向性を問題にする時, が問題となる。しかしこうした問題のたてかたは「美とはなにか+と問うことと同様に定 立することが困難であり,且つ不毛なことであると考えるo例えば・古来より自然概念に Naturaの語源的意味静的考察がそれ っいては様々の論考がなされてきた.彼のPhysis, である1'。しかしこうした自然に関する多義多様な諸観念は無意味な意味の大海の中に, いわゆる野外活動が対象とするところの自然の意味,その領域を見失なわせてしまうだろ う。自然を問うことは人間と自然との関係の種々相を問うことでなければならないo人間 は「自然なしには,感性的外界なしには,なに-ツ創造できない.. -・自然は素材であつ. て,人間の労働一対象的活動-は自然において現実化し,自然の中に活動し・自然か ら,そして自然を用いて生産するのである。+幻即ち自然ほ人間の「要求の対象であり,人 間の本質的諸力を活動させ確証するのに不可欠な本質的な諸対象なのであり,人間ほ死つ ないためには絶えず自然と関りあつていなければならないのである。+8'歴史的にみれば人 間はそうした自然との関りの中で「非人間的自然+を「人間的自然+に変革してきたので ある4,。換言すればそれほ人間の自然に対する認識がより多面的で豊かになってきた歴史 でもあるが,こうした関係の中で,人間は精神的にも物質的にも豊かになってきたといえ るのである。 「人間が動物よりも普遍的であればある程,人間がそれで生きていく非有機. 的な自然の範囲は,ますます多様となり緊密となる+8'のであり,その関係の性格はます ます人間的となるのである。人間は自然の一部であるという意味においても,それが直接 的生活手段である限りにおいても,人間にとって自然は二重の意味で本質的な対象であり, こうした自然と人間と.の関係は歴史的に変化し,ますます多様となっていくのであるo仮 りにこうした関係の種々相を概括してみると,経済的関係,スポーツ・レクt)エ-ショソ 的関係,宗教的関係,科学技術的関係,美的芸術的関係・教育的関係その他等々と,多様 であるo勿論これらの区別ほ便宜的なものであるが,その関係のspeCialaimによってそ の関係の主要な性格が理解されるのであるo従って自然の観念ほその関係の性格に対応し て様々であり,たとえば天文学の対象としての自然と野外活動における自然とは自ら異な ofFenとしての人間. って観念せられるのである.こうした関係の多様性こそまさにwelt 「対象的現存在こそ人間的な本質 の本質なのでありその開示なのであるといえるだろうo. 的話力の披かれた書物であり,感性的に眼前にある人間的な心理学+8'なのであるo野外 活動における自然意識を本能の領域に閉じこめるのではなく,そうした意識の療在化する 歴史的社会的現実の問題として,野外活動Movementとして理解したいとするのが本稿 の立場なのであるが,以下野外活動をこおける自然意識が如何なる歴史的先行基盤を有する かが概観されるであろう。.

(9) 58. 佐. 野. 裕. 注 1 2 3 4. 岡村精一'人間との関連における自然の種々相,雑誌「理想+ γol. 279, p. 29-軌 E・マルクス,経済学哲学手稿,国民文庫, p. 100-147。 前掲書p. ・223。 現代の環境破壊の問題とも関連して,いわゆる,反科学・技術,反文明の思想が拾頭している。 それはいわゆる科学主義,技術主義の破綻であり,非科学的思想といえよう。自然開発か自然 破壊かの問題で言えば次のようにいえるだろうo思うに自然保護と自然開発とほ同義異語であ. るo疑いもなく人間の歴史ほ自然との闘争の歴史である。その中で自然ほ非人間的自然から人 間的自然へと変革されてきたのである。人間と無関係な人間的歴史に先行する自然などは,で きたての2-3ツの珊瑚島以外にはどこにも存在しないことほ明白である。無限定,無目的な 自然保護などあり得ないのである。問題は自然開発の視点と方向の問題なのである。私的利潤 追求の自由の法則が貫徹する資本主義社会では,まさに人民の論理が自然開発において貫徹し ない限り,自然開発は自然破壊に転化し,資本のマヌーバ-に転化するのである.自然開発は 厳密な科学的基盤にたって考察されなければならない. 5) K.マルクス,前掲書p. 104-105。 156。 6)前掲書p.. 経漬的関係. 全ての生物にとってと同様,此処で人間の前史Ⅱomo属の発生起源を 考察するのでない限り,あらゆる「人間の歴史の第一歩の前撞は,いうまでもなく人間的 諸個体の現存である。従って最初の確認されるほずの事実ほ,これらの個体の自然一身 体組織-とそこから当然でてきているこれらの個体と爾余の自然との間柄+1)なのであ る。即ち,なにはさておき人間ほ自己を生産し再生産するためには衣食住が必要であろう。 従って「最初の歴史的行為はこれらの必要の充足の為の諸手段の産出,物質的生活そのも のの生産乏'+であり,このことほ今日においても同様にあらゆる歴史の-ツの根本条件で ある。疑いもなく最初の自然と人間との関係の性格ほ,生活の塩を得るための「経済的関 倭+であるということには議論の余地がない。そしてここに人間がますます人間的に,即 ち自然の諸側面を一層豊かに理解し,自然と人間との関係が歴史的に展開する重要な契機 が存在したのである。 最初のまさに未だ自然そのものであった人間は,白熱こ対して即自的な存在であったo しかし,それが生命の源,生活の糧を得る対象としての自然の一部が意識された時に,栄. だ薄明の中にでほあるが,ほじめて自然意識が発生したのであろう。野外活動における自 然への肯定的感情の基本的土台は,この経済的関係における自然意識に由来するのであり, 生活の糧を得る対象としての自然-の肯定的感情は,生物としての人間の基本的感情とい える。ともあれ「人間が外界の意識と自意識とを区別するようになるのほ,人間が外界に 対してますます能動的に対立し,実践上でも外界と自分とを区別する様になつた事の結果 であるだろう。受動的に外界に順応している間は,人間ほ一般的に現実の中に事実上埋没 しており+8'外的対象への意識,自然意識は未だ混沌としたものであったろう。経済的関 係,即ち人間と自然との問の物質代乱労働を通して自然意識ほ確立されてくるのである。 勿論,地球上の全生物ほ相互に経済的関係として生態学でいうところの自然循環の系をな しているのであるが,目的意識的に他在として,自然と経済的関係をとるところに人間の.

(10) 59. 野外活動における自然意識. 特殊性が,その労働の特殊性が存在するのである.目的意識的労働こそ,彼の他甲種の動 勿論, 物の本能的ないわゆる薪芽的な労働行為と根本的に異なるところのものである4)o こうした目的意識的経済的関係をとる Homo属の発生にはその前段階として長い生物進 化の歴史的過程があることほ当然であるが,それはまさしく太古的背景の中にあり定かで ほないのである。生活の源として意識ぎれた自然,しかし未だ動物的残浮を尻尾につけた 段階の人間にとってのそれは自然法則を認識した自然意識でほなかった。それは彼等にと ってほ,その人間的話力にとってほ圧倒的に支配的な不可思議な,神秘的な存在としての 自然であった一宗教の発生-。こうした関係の中での人間の絶え間ない生命活動,実 践の試行錯誤,そのことが自然をますます多様に認識する契機となったのであるo従って 最初に概括した関係の種々相も,その筋芽的形態においてほ経済的関係そのものでありそ の関係における諸活動の中で,それぞれの関係が独立,分化,発展してきたのである。野 外活動における自然意識,例せば自然-の肯定的感情,山への肯定的感情もこうした経済 的関係における自然意識,生活の源としての自然意識を基盤として歴史的に形成されてき たと考えるのであるo以下の諸関係はそうした自然意識の分化の過程でもあり,その萌芽 的形態においてはいずれも経済的関係の残津をその背景にもっているのである。 注 1 2 8 4. p.42-43。 K.マルクス,ドイツイデオロギー,国民文庫, 前掲書p. 94。 永井 潔,芸術論ノートo新日本出版社, p.68. p. 234. K.マルクス,資本論,大月書店第一分冊。. 宗教的関係. 人問的話力が未だ充分に発展せず環境に多分に制約されていた頃の人間. にとって自然ほまさに偉大で神秘的存在であったろうo自興が未だ人間的自然でない段階 ほ,従ってそうした段階における自然むこついての人間の意識も「それほ人間達にほとこと んまで疎遠で,全能で不可侵な力,そういう力として立向ちてくるところの自然について の意識であり,従って自然に対する-アの純粋に動物的な意識なのであつた.+1)勿論,慕. 教の本質,起敵手ほ一致した見解,学説があるわけでほないo例えば宗教の本質を霊的な 存在-の信仰と考えて.Animismにその起源を求めたり,超自然的神秘的な諸力に対する 畏怖に宗教の本質を見たり,あるいほ. Tdtemism. に宗教の起源をみる. E.. Durkeheim. (1858-1917)等々多様である。しかしその起源はともかく,宗教ほ超自然的,超人問的 な力に対する信仰を本質とするという点ではいずれの考え方も共通している様子であり, それほ一般的に首肯されているようである。宇野囲空, みると2),最初の (1834-1913). ,. Fr.. C. de.. Brosses. 「イデオロギーの発生(宗教)+に. (1709-1777)の呪物崇拝による説明は. T.. Ltlbbock. S6hlltze (1846-1909)等によって支持され,広義にほ物体崇拝起源. 説として相当に認められているという。また呪物の崇拝は聖霊の憩格を認めているのであ 「宗教ほ死霊や祖霊に対する り,従って精霊崇拝が宗教の原始的形感であるとする即ち, Speucer (1820-1903) 儀礼から発生する+とするJ.Lippert (1839-1919)やHerbert.

(11) 60. 佐. 野. 裕. (1823-1900)のいわゆる自然崇拝説,同じそれでも日,月, の見解や F・班axmuller A. 風雨の大自然現象より動植物等の生活資源に関するものの崇拝を根本とする (1826-1906)やJ.. F.. Maelenman. (1827-1881)の. Totenism. Revell. 起源説,そしてこうし. た自然や呪物の崇拝や,精霊や祖霊の観念もその起源は霊魂観念にあるところから,特 にこの観念を発生せしめる心理と原始的宗教におけるその普遍性を唱えたのがいわゆる E.B. Tyler (1832…1917)のAnimism説であるという。実際,宗教の発生は多種多様 であろう。しかしその原始的形態においてほ,呪物崇拝や自然崇拝であったとする考えほ, その起源に関してほともかく,一般的に首肯されよう。自然的事物が宗教的に意識される にほ,経済的関係における自然のその生活価値の聖化と同時に,自然のその神秘的な威力 にあると考えられるのである。勿論,宗教の起源ほ,自然との関係においてのみでなく, 人間と人間との関係,例えば,死霊,祖霊,階級分化に伴う呪師,祭司の発生,宗教的身 分観念の発生,またはその社会生活必需品への愛から生れる弓矢,農器具,住居,その他 「人間が支配し,統 に対する宗教的観念の発生と多様である。しかし,こうしてみると, 禦し得ない外的な力の支配下に人間が置かれている限り,宗教は発生し+8)存続するとい うことが理解できるのである。経済的関係とほまさに宗教的関係でもあったのである。宗 教とほ人間の存在の反映に他ならないであろう。即ち宗教の起源は人間そのものなのであ り, 「神が人間を造り給うたのでほなく,人間が神を造つたのであり+4)宗教を造ったので. ある。 「あらゆる宗教は人間の日常生活を支配する外的な諸力が,人間の頭脳の中に空想 的に反映したものに他ならないのであつて,この反映においてほ地上の話力が,天上の話 力の形態をとるのである。歴史の初期には,まず最初に自然の話力がこうして反映を受け るのであつて,それらはその後の発展の中で,様々な民族の間の極めて多様な,また極め て多彩な人格化をこうむるのである。+ら)自然宗教,山岳宗教の基盤にはこうした自然と人 間との関係があったのである。従って,実際の日常生活の諸関係が「人間にとつて,人間 相互及び対自然に於ても,透明で合理的な関係を表わす様になつた時にはじめて宗教ほ消 滅し得る+6)のであろうo. 野外活動における自然意識の前段には,こうした宗教的自然志 向が先行したのであり,例えば講中生山などにその-ツの典型をみることができるのであ り,また自然美に重なる崇高実の美意識にこうした宗教的実機の存在を窮うこともできる のである7).そして野外活動の自然意識に先行する宗教的自然意識は,歴史的過程の中で 次第にその宗教的魔術的ヴェールを除去されるのであるが,それは諸科学の発達の中で人 間と自然との関係が透明で合理的関係となる過程に照応するのであり8),ここに野外活動 における自然意識の顕在化の歴史的一条件があるのである。例えばそれは宗教登山よりス. ポーツ登山への登山様式の変遷の中にその宗教的自然意識の歴史的変遷をみることができ るのである。 注 1. K・マルクス,ドイツイデオロギー,国民文庫p.甲-60o. 2. 宇野園空,イデオロギーの発生,岩波講座,社会史思想史,参照。 F.エンゲルス.反デュー7)ソグ論,岩波文庫,下, p. 275。. 3.

(12) 61. 野外活動における自然意識 4) 5) 6). 7) 8). a.マルクス,前掲書, p.31. p. 274-275. F.エンゲルス,前掲書, p. 106. E.マルクス,資本論,大月書店第一分冊, 156。 p. 1.カント,判断力批判,岩波文庫,上, 1-2,山崎安治,日本登山史,白水社, 三田博雄,山の思想史,岩波新書p. p. 307-309。山岳講座, 4巻,白水社, 島亮書全集5巻,あかね書房,. p・ p・. 131-159。大. 10.その他にヨー. ロッパでは19C以後の自然諸科学の発達やロマン主義思想と登山との関係が密であったこと が論じられており,日本でも,学術登山や趣味の登山の登山における先駆的性格について論述 せられている。 (日本登山史). 科学・技術的関係. 人間は自然との経済的関係における試行錯誤を通じて,いはばプ. レ技術というようなものを習得し,即ち自然界の法則を意識し,利用し,ますます自然界 の諸々の側面,即ちそれらの多様な使用方法を発見するという歴史的行為が,この過程「人間が自分自身の 経済的関係の中で発展するのである。技術とほ経済的関係において, 行為によつて自然との素材上の交換-Stofrwecheselを媒介し,親潮し,コントロールす ろ過程+1)に存在するのであろうo 動物と人間を隔てる指標に多くの文化人類学者ほ道具 の製作・使用,協働,言語を挙げるが,就中この道具の製作,使用こそ他のニッの基盤と もなる人間にとって重大な転換点なのでもあるという。経済的関係における手に対する要 凍の増大-労働の必要,それはなんらかの原田で樹上の生活より地上-と降りた人類の祖 先を直立二足歩行という手の自由を確保させ続けた力なのであるという2)o. ともあれ永い. 生物進化の歴史的過程の中で,いわゆるⅡomo属が発生したのであるが,彼らほ自然と 「手. の経済的関係において徐々にその手の自由を,自由な手に変革していったのであるo. は労働のための器官であるばかりでなく,それはまた労働の産物なのでも、ある。+令)自由な 手こそ人間と自然との関係をより豊かにしたものであった。それは別言すれば,人間の自. 然認識をより豊かにするものであるが,今や経済的関係ほ物質的にも精神的にも,より人 間を豊かにする段階-と踏みこんだのであるo即ち自由な手こそ,環鄭こ制約された存在 から世界に開かれた存在としての人間に変えた契機なのである。 経済関係における人間と人間との関係,労働とは本来的に協働であり,社会的労働であ Die Menschliche Genossenschaftenにおける共通的な活動であ るが,即ち「労働とは, り,それは本来的にGemeinsamk由tの意を有し,その中から実に話し言葉と労働がでて. きたのである+4)という。協働とは必然的に意志の交換,伝達の必要性を要求するもので あるが,言語とはまさにこうした自然と人間との経済的関係における協働によって発生し 「生成過程にある人間はなにか語り合わな叶ればならないところをこきたの たのであるb)o であるo+8)まさしく自由なる手こそ人間の全ゆる道具の源泉なのであり,その自由な手に ょる道具の制作こそ湊から人間へのルビコソ河なのであった。道具,労働手段とほ「労働 者によって,彼と労働対象との間に入れられて,この対象-の彼の働きかけの導体として 彼の為に役立つ物,またほ種々のものの複合体であるが+7)人間は物質的生産過雀を通じ て,いろいろな物の磯械的,物理的,化学的な諸性質を利用して,それらのものを彼の目 的に応じて手段として用いるこ■とを学ぶのである。従ってそれほ認識過程でもあり,それ.

(13) 62. 佐. 野. 裕. は協働の中で必然的に発生した伝達手段,言語を通して一層豊かに発展するのである8). 言語ほ思惟であり,思惟ほ言語であるといわれるが,思考ほ言語によって一層複雑になる. 人間の認識は「媒介性〒言語を獲得することによつて,抽象的な認識の一般的な段階から. 一層多面的で豊富な具体的認識へと発展する導を切拓いたのである。+9'勿論,労働手段の 使用や創造ほある種の動物も萌芽としては行うとはいえ10),それは人間特有の労働過程を 特徴づけるものであり,それだからこそ人間は. a. tool. making. animalと定義されるの であるが,自然との経済的関係における生産労働の歴史的過程を通じて,科学技術が発展 してきたのである。科学はその語源的,事実的起源を認識過程においているのであるが,. 対象的世界の実践的把擾の中で論理的恵考力が発展し,科学が形成されてきたのであり, この科学的技術的関係の発展こそ自然の宗教的魔術的ヴェールを取除くものである。野外 活動における「素朴な自然への愛+と「素朴な愛の対象としての自然+との前段には,こ うした自然認識の歴史的発展過程が存在するのであり,動物と異なる人間の自然美感の生 成にも,それには言語を媒介とした人間の思考能力,認識能力の発達という歴史的契機が 必要なのであり,超歴史的自然意識,本能論的野外活動論は幻想にしかすぎないといえる だろう。 注. 1). K.マルクス,資本論,大月書店第1分冊. p. 287-244,三枝博音,技術の哲学p.222,技術 とはその初源的形態においては,人間のorgan projeetion であるという。まさしく指を曲げ れば鈎となり,掌をくぼめれば皿になるのである. 115-134。 2)伊藤嘉昭,人間の起源,紀伊国是書店p. 3) F.エンゲルス,猿が人間になるについての労働の役割,国民文庫, p. 9, E.マルクス前掲書 p.. 233-244.. 4) 5) 6). 254-255。 三枝博音,前掲書p. A.A.レオン≠ェフ,言語の発生とその展開,未来社。 ll-17。 F.エンゲルス,前掲書p. 235. K.マルクス,前掲書p. .7) 8) 永井 潔,芸術論ノート,新日本出版社, p. 275-300。 9) 前掲書p. 128, 293。 10) 人間の起源, p. 126-128。. 美的・芸術的関係. 原始芸術の最初の痕跡が印されたのほ,旧石器時代の後期約B.. C.. 4万年-2万年の間のことであるという1)。それは既に原始共同体が比較的成熟していた 時代であり,自然との経済的関係の永い歴史的過程の中で,自由な手と言語を媒介として 思考能九抽象能力を発達させた頭脳は,今や芸術を創造するまでに成長したのである。 一般に芸術の起源については種々の見解がある.例えば代表的には遊戯現象説乞)とか魔術 現象説B)などである。前者によると創作の刺激となるものほ,実用的な目的から自由な一 般に物質的な意味でも精神的な意味でも強制と名付けられるもの全てから自由な遊戯に対 する志向であるという。勿論,自由な精神といい,自由な遊戯といい,あまり明確な概念 ではないが,. F.. Sebiller. (1759-1805)ほ「人間自身が世界である時は,彼にとつてはま.

(14) 野外活動における自然意識. 63. だ-ツの世界は存在しない。しかし彼が世界と一体と成している事を止める時,その時, 彼にほ世界が現れる+とのべ,遊戯意乱美的意識の生成り契機,その歴史的性格を示醸 している。また魔術の理論に従えば,原始人の創作ほ全て原始宗教,. magieを直接表現し. たものであり,動物の絵は魔術の儀式と崇拝の対象としてつくられたものであるという。 勿論,芸術の発生にはこうした要素も存在するであろう。しかしそうした意識そのものが, これまで論考してきたように,自然と人間との経済的関係において生成発展してきたこと を忘れてはならないだろう。生産労働の中で言語が生れ,人間の認識が発展してきたので あり,美的意識そのものも,自然と人間との経済的関係における諸実践を通じて,生成発 展してきたといえるのであるo. 「人間の諸感覚ほこれまでの人類の世界史的労作+4)なので. ある。即ち芸術は「あり余るエネルギーが生みだした精神的豊かさとしてではなく,まし て魔術からでもなく,労働の諸条件そのものから必要とされる認識とその普遍化に対する 職烈な欲求から発生した+b)のであろう.経済的発展の未だ極めて低い段階における人間 にとって,最も必要であったのほ人間の労働の対象を知ることであったろう。即ち生活の 源泉-歓喜の対象,崇拝の対象であり,自然物,就中動物であり,その表現,それへの愛, その伝達。まさに芸術の起源の主要な契機はここに存在したと考えられるのである。 デオロギーの発生(芸術)長谷川如是閑,岩波参照。)一方,芸術という語,ラテン語の ars,仏語のl'art,英語のart,独語のkunst,いずれも仕事,熟練,を意味するという が,こうした言語学的事実は,人間の様々の実践的経験,即ち生産的有用労働と芸術の有 機的な連関を予想させるのである。芸術ほいわゆる,芸術として発生したのでほなく,経 済的関係における諸実践を通じて人間生活に有用なものが認識され,それへの肯定的感情 を土台に〔形〕への愛が生れ,それが芸術発生の契機なのであるという8)。美的感情の根 源は,経済的関係一生産労働に伴う人工的な生産物や道具,即ち人間の生命活動を保障し, それをより豊かにすることを保障するそうした労働生産物,その形に対する愛着に根ざし ており,まさに美的感情とはArs,. Art,. Kunstに根ざすのであるo美とはなんら先験的. な存在ではなく,対象的活動の中で,自分の中に美的感情を創出し,その結果特定のもの を〔美しいと感じる〕ようになるのであろうといわれるが,その意味で美の根源ほ労働で あり,美とほ美的感情であり,何か人間に無関係に客観的に実在するものでほなく,人間 が美しいと感じるそれが美なのであるという理論は首肯され得るのであるア).有用性と結 合した造形的実践ほ造形美感を生みだしたが,それは次第に有用性とほ無関係な形そのも のへの美意識を独立分化させるのであり,美意識は美意識として意識された時にますます 洗練されその生成の実機ほ亡却されてしまうのである。自然と人間との美的関係,自然美 感の発生は経済的関係における造型美感の形成の後に始めて発生したのであろう。造形活 動,創造的実践の中で有用性の意識とその形の意識が分化すればする程,形象的認識ほ洗 練されるのであり,自然美はますます眉然芙として意識されるという関係にあるoそして ついにほ,われわれは自然をただ美しいが故に美しいというように自然美感が完成するの であろう8)o- 超歴史的野外活動論ほ自然の美しさに感動する人間感情を生理的次元でのみ 理解せんとしているということを自覚していない8)。美的感情とはまさしく人類生活の歴. (イ.

(15) 佐. 64. 野. 裕. 史的諸過程の中で形成されてきた複雑な感情であり,野外活動における自然意識の中でも 重要な要素である自然美への憧慣,自然への愛そのものが,こうした造型美感や芸術美と 無関係ではないことをここでは指摘するにとどめたい。 注 1. p. 431-433。 美学の基礎,啓隆閣,第2分冊, F. Schiller,美的教養論,玉川大学. 3 p. 140-149。 美学の基礎,前掲書p. 433-436,芸術論ノ-ト, ist eine 153-155, Die Bildtlng der 5 Sinne 4 K.マルクス,経済学哲学手稿,国民文庫p. Arbeit der ganzen bisherigen Weltgeschicheと論じ社会的人間の諸々の感覚は,非社会 的人間のそれとほ異なった感覚なのであり,人間的本質の対象に展開された富を通じて,はじ めて主体的人間的な感性の富,音楽的な耳や形態の実に対する目や,要するに人間的享楽を能 くし得る諾々の感覚,即ち人間的な本質的諸力として確証される諸々の感覚が,はじめて発達 させられたり,はじめて産出されたりするのである,と論じている。 5) 美学の基礎,前掲書参照。 6) 芸術論ノート,前掲書参照。 118, 119, 121, 122, 123, 125等に詳 7) 前掲書,なおこの説をめぐっての論争は文化評論No. 守, --ゲル美学におけ No.45所収,稲葉 しいが,なお,東京唯物論研究会会報「唯物論+. 2. る自然美の問題においてもこの問題が論じられているので参照されたい。 8)自然美の成立のためには,芸術的ともいう人間の創造的な働きが前提されなければならない。 しかも他方,制作としての芸術は,芸術以外のもの,あるいほ芸術以前のものに対する美的態 度を前提とすることなしにほ成立することができない。外部的に自然美が見出されていくこと と内部的に芸術美が形成さわていくこととは相互媒介的な関係を内臓する共通の態度である。 (A.W. Siblegel,井島 勉,創文社, p. 59-60転引用)素朴な自然-の愛ほこうした自然美 感をその-ツの前提としているのである。 9)、自然景観のもつ,生理的心理的効果,例えば,テルペン類,フィトソチッド効果,あるいは広 い眺望と新陳代謝の関係など,生気象学的なプラスの自然の誘意性に自然美観の生理的根拠を 求めるが,これほ生物としての人間の生理的基本作用であり,美意識とは直接的関係はない。 勿論,自然美の背景に,こうした自然と人間との肯定的な生理学的関係も関与することほ当然 であり,それは色彩の生理学にも明らかなことである.しかし,それさえも「何故?+という 問の場合にほ自然存在としての人間の歴史的生成過程を問題にしなければならないのであろう。 Ⅴ. 結. び. 山や海に自然を求めてでかけるという野外活動における自然意識の先行基盤をこれまで 概観したが,野外活動とはこうした基盤を背景に自然と人間との関係がより合理的で透明 となり,人間が自然の魔術的宗教的呪縛より解放され,自然がなんらかの魔術的ベールも 纏わすに人間の自由時活動の一対象領域として眼前に出現する時に顕在化するのである。 r山岳ほ人間が地上に棲息する以前から存在していた。しかし眼前にあるこの美を人間が 意識するにほ歴史的過程が必要であつた。. --中略--ヨーワッパでは山岳の美が人間界 に開放されたのは19世紀のロマソティシズムに於てである。それまでほ山岳とほ悪魔の 棲家であり,足を踏み入れるベきところではないと思われていた。仏文学の中に山岳が肯 定的に出現するのほ,. jean. 3'acques. Rousseau. が自然-の復帰を説いて以降のことであ. I‡esse, Goethe Vardsworth,独のⅡermann る+1)というが,こうした傾向ほ英国のⅤ. 等によっても興隆されたのであり,ロマン主義文芸ほ人々に自然-の憧憤を植えつけ,そ.

(16) 65. 野外活動における自然意識. 19世紀のヨーロッパ れによる多くの山行はまた幾多の山岳文学を生みだしたのである。 といえば,自然科学の発達におし.1て著しく, charles Darwinの進化論に代表されるよう に,それまで中世の全体を履っていた宗教的外被ほ徐々にのぞかれ,ヒューマニズムが興 隆した時代であった。山岳ほ宗教的呪縛から解放され人々のものとなっていったのである。 Alpine. 1857年には,世界最初の登山団体The. Clubが設立されているo. いわゆる登山. 史上のアルプス黄金時代が出現し,幾多の登山家が輩出し,登山の気風が興隆するのであ る0 日本でも山は信仰の対象であり, 「痛快と興味のために未知の土地-永い旋+”,登山 をする人間が出現するまでには,. W.. WestonやB.H.. Chanberlよin,志賀重昂,小島烏. 水その他の啓蒙活動が必要であったのであり,それが一般化するには時が必要であった. Guided-ClimbingやFiihrerを解りの登山ほ大衆的といえず,いわゆる,大衆的登山野外活動の-ツが隆盛になるには,自由時間の大衆化,交通検閲の発達等,様々の加速化 要素が必要であり3),こうした諸要素と無関係な野外活動におけり自然意識など存在しな いのである.またレク.)エーショソニ自由時活動の一対象領域として意識された山も,如 何なる態度で登山するかという登山思想からみれば,それを羊また極めて歴史的な性格を有 huntingよりcontemplativeな態度へと言. し,大島亮書の言を借りれば,それはPeak い得るーという4)。即ちfirst. ascentism. の時代より. difncult. variation Norman. Rout,. guidless. Collie. j・ のいうとこ climbing主義といわれるMummeryismの時代を経て, ろのeontemplativeな登山精神の時代へと登山思想は歴史的に変遷してきているという。 勿論,スポーツアルピニズム全盛の今日,必ずしも上述のようではないが,一方-イキン グ等の登山も非常に盛んであり,両者あいまって現在の登山思想を形成していると考えら れるが,このように野外活動における自然意識という場合,極めて広範囲にわたって論議 されるので仲々に難しい問題もあるが,しかしそのどの相に目を向けてもそれは極めて歴 史的な性格をもっているといえるのである。そしてもっとも基本的な事柄ほ,人間ほ本能 的に野外活動をするのではなく,野外活動とほ人間と自然との歴史的諸関係の中で形成さ. れたレクリエーショソ的自然意識の表れであり与),従って他のスポ-ツ諸文化と向様に, -ツの文化として理解せんとする視点である8)。. (未完). 注 1) 2). p. 10, 山岳講座, 4巻,白水社, 6巻, p. 148。 斎藤一男,日本のアルピニズム,周文堂より転引用。 W.ウエストソの「日本アルプス+に慰 楽としての登山をする日本人を見出して嬉しかったとあるというが,_ レクリエーショソ登山な. どほ当時の日本では考えられな占ゝつたのである. 3)科学技術庁資源調査会勧告書第19号,自然休養地としての森林の保全,開発に関する勧告の 中で,レクリエーシリソ旋行の一存在形態として,その興隆の諸要因についてかなり詳細な分 析があるので参照されたい。 149-188。 4)大島亮書全集全5巻,あかね書房,山-の想片,朋文堂p. 5)自由時の態様は労働のあり方と関連して様々であり,、特に現代のそれほ遊び志向の自由時精神. ともいえる特殊な色合を帯びており,こうした時代粧の前に-ツの豊かな活動領堺を自然は提 供しているわけであるが,それは歴史的に開かれた-ツの自然と人間との関係のあり方なので ある。.

(17) 66. 佐. 野. 裕. 6)開発grabenほ人額のGrabにつながるというが(三田博音,山の思想史),このgrabenこ そ人間に自然の諸法則を認識させ,自然と人間との関係を豊かにしたものであったo. レクリエ. ーショソ的関係もそうして拓かれた-ツの関係であり,問題はそのgrabenの視点と方向に存 するのであり,野外活動もーツの自然のgrabenといえるのである。.

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