「お竹大日」伝承の生成── 開帳縁起と出羽三山
信仰、名所記を通じて
著者
神林 尚子
雑誌名
鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編
号
55
ページ
15-45
発行年
2018-03
URL
http://doi.org/10.24791/00000169
Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja「お竹大日如来」伝承の生成 一五
「お竹大日」伝承の生成
──
開帳縁起と出羽三山信仰、名所記を通じて
神
林
尚
子
一 はじめに 「 お 竹 大 日( お 竹 大 日 如 来 )」 一 の 伝 承 は、 江 戸・ 大 伝 馬 町 の 商 家 に 仕 え た 下 女 お 竹 が、 実 は 大 日 如 来 の 化 身 で あ っ たとするものである。実説は明確ではないが、十七世紀後半の延宝頃から巷説集や名所記に記事が登場するようにな り、元文・安永・文化・嘉永期の四度にわたる開帳を経て、一種の流行神として巷間に知られた。伝承の流布に伴っ て、お竹は様々な作品に取り上げられていくことになる。 本 稿 は、 こ の「 お 竹 大 日 」 伝 承 の 生 成 を 考 証 す る も の で あ る。 「 お 竹 大 日 」 に つ い て は、 既 に 向 井 信 夫 氏 に よ る 論 考 な ど が 備 わ る が 二 、 こ れ ら の 先 行 研 究 を 踏 ま え た 上 で、 よ り 詳 細 な 検 証 を 試 み た い。 ま た、 こ の 題 材 は 民 俗 学 や 宗 教学、歴史学等の諸分野とも関わるものであり、これらの領域の研究成果をも視野に入れた分析が必要である。本稿 で は ま ず、 初 期 の 巷 説 の 記 録 と 開 帳 時 に 板 行 さ れ た 略 縁 起 を 手 が か り に、 そ の 伝 承 の 起 源 を 探 る。 更 に、 江 戸 の 名 所 記・地誌の検討から、江戸の寺社の宣伝にこの伝承が利用されたことを指摘し、出羽三山と江戸の双方を発信源とす る「お竹大日」伝承の生成過程を示すものとする。一六 二 「お竹大日」説話の形成 (一)早期の「お竹大日」関連資料 「 お 竹 大 日 」 の 記 事 と し て、 現 在 確 認 さ れ る 限 り 最 も 早 い 例 は、 写 本 の 巷 説 集『 玉 滴 隠 見 』( 天 正 期 ~ 延 宝 八 年 〔一六八〇〕の記事を収載)である。刊本としては、 名所記での言及が早く、 『新撰江戸砂子』 (享保十七年〔一七三二〕 刊 ) お よ び『 江 府 名 勝 志 』( 延 享 三 年〔 一 七 四 六 〕 刊 ) 中 に 短 い 記 事 が み え る。 刊 本 と し て 詳 細 な 記 事 を 載 せ る の は 『新著聞集』 (寛延二年〔一七四九〕刊)が早い例である。これら早期の「お竹大日」関連資料は、江戸出開帳の際に 板行された略縁起と共に、この伝承の基礎を形成している。 まず、最初期の例である写本『玉滴隠見』の「お竹大日」記事を見ておこう。 竹ト云下女叶仏力不思儀事 江戸大伝馬町ノ名主佐久間善八ト云ケル者ノ召仕ナル竹ト云ケル下女 去年三月廿一日ニ死シタリ 此竹事 主 ノ善八ハ問屋ニテ有ケレバ 大勢ノ者ノ食餌ニカヽツテイケレドモ 聊モ穀三宝ヲ麁相ニセズシテ 非人ヲ憐ミ 其 雑 火 ノ 余 リ ヲ 以 テ 牛 馬 ヲ 飼 ナ ド シ テ 一 生 送 リ シ ガ 死 シ テ 其 侭 羽 州 湯 殿 山 梺 ニ 金 色 ノ 光 ヲ 一 ( マ マ ) 度 ノ 内 ニ 顕 シ テ 竹ハ中尊 娑婆ニテノ主也シ佐久間婦夫ハ両脇立ト成テ今ニ有ト 云々 此事彼御山ノ佐藤宮内ト云神人語之 三 右の記事には、江戸大伝馬町の名主・佐久間善八に仕えた下女のお竹が穀物を麁末にせず、非人に施しをするとと もに残飯で牛馬を養うなどしていたが、死後湯殿山に金色の仏身として顕れたことが記されている。同書はまた、お 竹の主人にあたる佐久間夫妻が、湯殿山の御堂内に脇侍として従っていたことを伝えるとともに、これらが湯殿山の
「お竹大日如来」伝承の生成 一七 「神人」によって語られた旨を付言している。 次いで、やはり早期の代表的な記事である『新著聞集』巻第十三「往生篇」の記事を引こう。 ○ 佐久間の竹黄金宮に生ず 江 戸 大 伝 馬 町、 佐 久 間 勘 解 由 召 つ か ひ の 下 女 竹 は、 天 性 仁 慈 の 志 ふ か く て、 朝 夕 の 飯、 我 分 は 乞 丐 人 に ほ ど こ し、 そ の 身 は、 あ が り 膳 の く ひ 残 し、 又 は 流 し の 隅 に 網 を あ て 置、 そ の た ま り し 物 を 食 し、 つ ね に 口 に ま か せ て、 称 名 し て け り 。 あ る 時、 頓 死 せ し に、 身 も 温 な り し か ば、 若 や は と、 人 々、 守 り 居 た る に、 遂 に 蘇 生 し た り。いかに冥途の事はと問ば、されば、いづくともなく広野を往しに、黄金の宮殿あり。仏まし/\て、これは 汝が来る台なりと、しめしたまへりとなり。扨そのゝち、念仏いよ/\精進にして、大往生をとげし。 近所のも の、湯殿山に詣て、竹に逢たり。竹が曰、我は安養世界に住侍りし。おの/\もかならず念仏したまへ。又他を めぐむ心あらせよと云て、うせしとかや 。竹、つねに網をあてし流しは、今増上寺念仏堂心光院の門の天井にか け有りけり。 四 ここではお竹は自らの食事を乞食に施し、自分は膳部の食べ残しや流しの網にかかった残飯を常食としていたとす る。牛馬飼育の条の有無などの違いはあるが、この二書に共通する、穀物を尊んで残飯を無駄にせず、乞食に施しを し た と い う 点 が、 「 お 竹 大 日 」 伝 の 骨 子 で あ っ た も の と 考 え ら れ る。 節 倹 の 美 徳、 と り わ け 穀 物 を 貴 ぶ 徳 と、 施 し を 行う慈悲心が、 お竹が仏の化身として尊崇される要因の最たるものであったろう 五 。この部分は、 以後の「お竹大日」 ものに共通してあらわれており、この題材の核となっている。
一八 一 方 で、 そ の 奇 瑞 の 描 写 に は、 諸 書 に 若 干 の 相 違 が あ る。 『 玉 滴 隠 見 』 に み え な い 要 素 と し て、 『 新 著 聞 集 』 で は 生 前の仮死および蘇生譚を挙げている。頓死の間に幻視した「黄金の宮殿」と仏との対話は、死後仏身として顕現する 奇蹟の根拠ないしは伏線として読むことができよう。また『新著聞集』には、佐久間氏の「近所のもの」が、湯殿山 で「 安 養 世 界 」 の 住 人 と な っ た お 竹 に 会 う 条 が あ る が、 お 竹 が 念 仏 の 功 徳 と 慈 悲 心 の 涵 養 を 説 い て い る 点、 「 お 竹 大 日」説話の持つ教訓性、唱導性がより明確になっている。なお、右の二書はともに、お竹と湯殿山との結びつきに言 及するものの、お竹を「大日如来の化身」と明記してはいないことにも注意しておきたい。 『 玉 滴 隠 見 』 と『 新 著 聞 集 』 の 掲 げ る お 竹 伝 は、 共 通 の 骨 子 を 備 え て は い る も の の、 総 じ て『 新 著 聞 集 』 の 方 が お 竹にまつわる奇瑞と唱導的要素をより強調している。こうした変容の背景には、伝聞の過程での訛伝や脚色のみなら ず、出羽三山信仰との関わりを想定すべきではないか。生前のお竹が仕えた「佐久間」氏の名も、お竹伝承の中に定 型としてあらわれており、その事績についても一考の要がある。また『新著聞集』記事の最後に言及される、芝心光 院の寺宝との関わりも重要であろう。以下、上述の諸点について順次考証を進める。 (二) 「お竹大日」信仰の形成と開帳略縁起 ――「羽黒山玄良坊」による所伝の流布 「お竹大日」伝承の江戸における流布は、直接的には江戸の寺社での出開帳の効果が大きかったものと推定される。 開帳に際しては、その都度略縁起を記した刷物が作られた。逆に言えば、この刷物から開帳の年時が知られるととも に、 そ の 内 容 に よ っ て「 お 竹 大 日 」 信 仰 の 形 成 を 跡 づ け て い く こ と が で き る。 そ れ は ま た、 「 お 竹 大 日 」 と 出 羽 三 山 信仰との関わりを辿る過程でもあった。 羽 黒 山 の 宿 坊 集 落 手 と う げ 向 に あ る 荒 沢 寺 正 善 院 に は、 「 お 竹 大 日 」 の 木 像 や 略 縁 起 な ど の 遺 品 が 所 蔵 さ れ て い る。 こ の
「お竹大日如来」伝承の生成 一九 正 善 院 の 住 持 を つ と め た 戸 川 安 章 氏 は、 自 身「 お 竹 大 日 」 縁 起 を 絵 解 き し た 経 験 に 言 及 し な が ら、 「 羽 黒 山 の 語 り も の —— お 竹 大 日 絵 解 き を 中 心 に 」 と 題 す る 論 考 を 発 表 さ れ て い る。 六 。 正 善 院 に 伝 存 す る 略 縁 起 の 刊 記 に 基 づ い て、 戸川氏は江戸出開帳の年時および開催地を次のように整理される。 第一回 元文五年(一七四〇) 〔開催地不明〕 第二回 安永六年(一七七七) 芝・愛宕山円福寺 第三回 文化十二年(一八一五) 浅草・奥山念仏堂 第四回 嘉永二年(一八四九) 本所・回向院 元 文 五 年 に つ い て は、 開 催 地 等 詳 細 の 記 録 を 欠 き、 縁 起 の 刊 記 か ら 年 時 を 推 定 す る に 留 ま る が、 こ れ を 算 入 す れ ば、江戸における「お竹大日」の開帳は四度を数えることになる。なお、お竹を「大日如来の化身」と明確に位置づ けるのは、確認される限り元文五年の略縁起が最初の例である。 このほか、江戸近郊の木更津でも「お竹大日」の開帳が行われた記録が存する。宮島鏡・関口鎮雄「お竹大日の御 影 」 七 に よ れ ば、 嘉 永 二 年 八 月、 木 更 津・ 選 せ ん じ ゃ く じ 擇 寺 で も「 お 竹 大 日 」 の 開 帳 が 行 わ れ て い る。 こ の 開 帳 で は「 羽 黒 山 の 長伝坊」が先達を務めているが、おそらく江戸から羽黒山への帰路、木更津でも開帳を行ったものと目されよう。 戸川氏の論考では、正善院の所蔵資料のうち、元文五年・安永六年版の略縁起と、嘉永二年版の「於竹大日如来霊 宝之語」について全文翻刻を掲載、影印も各一丁分ずつ掲げている。他の伝本としては、国際日本文化研究センター に 元 文 五 年 版 が 所 蔵 さ れ、 同 館 の ホ ー ム ペ ー ジ 上 で 全 文 画 像 と 翻 刻 が 公 開 さ れ て い る 八 。 同 ホ ー ム ペ ー ジ で は、 こ の
二〇 ほ か 嘉 永 元 年 の 出 開 帳 役 所 届 の 画 像・ 翻 刻 を 掲 載 す る ほ か、 「 お 竹 大 日 」 に 関 す る 近 世 の 文 献 や 近 現 代 の 研 究 論 文・ 著作の一覧も掲げている。また、彰考館にも安永六年版の略縁起が所蔵される(国文学研究資料館マイクロフィルム に て 閲 覧 ) 九 。 以 下 は 未 見 な が ら、 「 日 本 古 典 籍 総 合 目 録 」 デ ー タ ベ ー ス に よ れ ば、 東 北 大 学、 岩 瀬 文 庫、 早 稲 田 大 学千 文庫に元文五年版(千 文庫本は二種あり、要調査) 、東京国立博物館に安永六年版が所蔵されている。 ところで、開帳と縁起の板行を担ったのは誰であったろうか。まず、元文五年版の刊記を左に掲げる 一〇 。 維時元文五年庚申四月仏生日 出羽国羽黒山麓黄金堂 於竹大日如来別当玄良坊仲真謹記 江 戸 で の「 お 竹 大 日 」 の 開 帳 が、 羽 黒 山 の 出 開 帳 と い う 形 を と っ て い た こ と、 そ の 中 心 と な っ た の が お 竹 大 日 の 「別当」 を名乗った 「玄良坊」 であったことをまず確認しておこう。安永六年版にも 「出羽国羽黒山麓/別当 玄良坊」 の刊記がみえ、やはり「玄良坊」がその運営に当たったことが知られる。戸川氏によれば「玄良坊」は妻帯修験であ り、明治の修験宗廃止まで黄金堂の堂守を務めたという 一一 。 さて、ではその内容はいかなるものであったか。元文五年版によって本文を見てみよう。 竊 ひそかにおもんみるに 以 、 吾 わが 朝 てう は 神 しんこく 国 といへども、 和 わくわうどうぢん 光同塵 の 利 り 益 やく 、 不 ふ か し ぎ 可思議 なるが 故 ゆゑ に、天地開闢の 太 いにしへ 古 より、 本 ほ ん ぢ 地 の 垂 すゐしやく 迹 、 海 か い だ い 内 に 普 あまね く、 … 爰 こゝ に 我 わが 黄 わ う ご ん だ う 金 堂 に 安 あ ん ち 置 し た て ま つ る 於 お 竹 たけ 大 だ い に ち に よ ら い 日 如 来 の 来 ら い ゆ 由 を 尋 たづ ね 奉 る に、 往 い に し 年 、 元 げ ん わ 和 寛 くわんえい 永 の こ ろ ほ
「お竹大日如来」伝承の生成 二一 ひ、 武 む さ し の 蔵 国 くに 比 ひ き の こ ほ り 企 郡 に 戒 かい 行 ぎやう 堅 け ん ご 固 な る 聖 ひじり あ り け り、 正 しやうじん 身 の 大 だ い に ち に よ ら い 日 如 来 を 拝 はい せ む 事 こと を 深 ふか く 願 ねか ひ、 千 里 の 行 ぎやうてい 程 を も 遠 とほ し と せず、 我 わが 御 み や ま 山 に 歩 あゆ みを 運 はこ ぶ事 年 とし 久 ひさ しく 成 なり にけり 。… 夜 や ち う 中 に 誰 たれ ともなくて 告 つげ たまはく、 汝 なんぢ 、わが 尊 そん 容 やう を 拝 はい せんと 思 おも は ゞ、 是 これ よ り 江 戸 に 行 ゆき て、 佐 さ く ま 久 間 某 それがし が 召 めし つ か ひ 竹 た け ぢ よ 女 と い ふ 者 を 拝 はい す べ し、 と な り 。 此 この 瑞 ず い む 夢 、 既 すで に 三 さ ん ど 度 に 及 およ び け れ ば、 行 ぎやうしや 者 は 感 か ん る ゐ 涙 肝 きも に 銘 めい じ て、 宿 しゆくばう 坊 な り け る 我 わ が せ ん じ ん 先 人 、 玄 げ ん り や ば う 良 坊 宣 せ ん あ ん 安 に し か / \ と 談 も の が た 話 れ ば、 玄 良 坊 も 霊 れ い む 夢 を 感 かん じ て、 打 うちつれ 連 だちて大江戸に 登 のぼ りぬ 。 佐 さ く ま 久間 某 それがし は大伝馬町に 住 ぢう して 名 な 高 たか き 豪 がう 家 か なるまゝに 尋 たづね 行 ゆき て、 あるじに 語 かた るに、 是 これ より先に 主 あ る じ 人 夫 ふ う ふ 婦 も 夢 む さ う 想 の 告 つげ を 蒙 かふむ れる 事 こと 有 あり て、 問 とひ もや 来 く ると 待 まち たりければ、 互 たがひ に 奇 き い 異 なる 仏 ぶつ 勅 ちよく をよろこび、 そ の 夜 よ 、 密 ひそか に竹女が 部 へ や 屋 を 窺 うかゞ ひ、 両 りやう 人に拝まするに、 不 ふ し ぎ 思議 なる哉、 平 へいぜい 常 よりも 殊 こと に 端 たんじやう 正 美 び れ い 麗 に見えて、 其 その 全 ぜんしん 身 よ り 光 くわうみやう 明 を 放 はな ち、 一 い つ し つ 室 の う ち 赫 か く や く 奕 た り。 行 ぎやうじや 者 は、 此 こ の た び 度 望 のぞみ た り ぬ と、 あ ま た ゝ び 礼 ら い は い け い 拝 稽 首 しゆ し、 宣 せ ん あ ん 安 と 倶 とも に 終 よもすがらじゆ 夜 誦 経 きやう し、 翌 あく ればあるじに 暇 いとま を 告 つげ て、 両 りやうそうたがひ 僧互 に 名 な ご り 残 をしげに、 泣 なく/\ 々 本 ほんごく 国 へ 帰 かへ り行 ぬ。 斯 かく て竹女は、 次 つぎ の日より 一 ひ と ま 間 にの み 籠 こも りをりて、 昼 ち う や 夜 、 称 しやうみやう 名 を 唱 とな へて、四、五日ばかりは、さてありけるが、 寛 くわんえい 永 十五年三月二十一日の 暁 あかつき 、 俄 にはか に 屋 をくじやう 上 に 紫 し う ん 雲 たなびき、 室 しつない 内 に 異 いきやう 香 薫 くん じて、 大 たいわうじやう 往生 を 遂 とげ をはりぬ。… 引用が長くなったが、ここには幾つか注意すべき点が見出される。第一に注目されるのは、羽黒山の修験者が重要 な 役 割 を 果 た し て い る 点 で あ ろ う。 ま ず 武 蔵 国 比 企 郡 の「 戒 行 堅 固 」 な 行 者 が 登 場 し、 「 正 身 の 大 日 如 来 」 を 拝 し た いという宿願のもとに羽黒山に通った結果、江戸の佐久間某の下女である「竹女」を尋ねよとの霊夢を得る。これを 「玄良坊宣安」に伝え、共に江戸に上って「佐久間某」を尋ね、 「全身より光明を放」つ竹女を拝したという。 すなわち、 お竹の「大日如来」としての仮現にあたり、 修験者がいわば狂言回しの役割を務めているのである。 「玄 良坊」に加え、比企郡の修験者が登場する点は、羽黒修験の広域的ネットワークを反映したものと想像される。なお
二二 「 玄 良 坊 宣 安 」 に 対 し て「 我 先 人 」 の 称 が 冠 せ ら れ て い る の は、 こ の 縁 起 が「 玄 良 坊 仲 真 」 に よ っ て 板 行 さ れ、 か つ 絵解きされていたことを改めて意識させるものである。これらの記述からは、お竹の縁起が羽黒山およびそこに関わ る修行者たちによって語られ、流布していった経緯が具体的に窺えよう。 ま た、 お 竹 の 主 人 で あ る「 佐 久 間 某 」 に つ い て も、 事 前 に 霊 夢 を 蒙 っ て い た と す る な ど、 「 お 竹 大 日 」 伝 承 の 生 成 に関わって登場している点が注意される。佐久間氏の事績および伝承への関与については、節を改めて検討しよう。 大日如来としての仮現後のお竹に着目すれば、修験者が去った後は称名に日を暮らし、四五日後に大往生を遂げた という。紫雲や異香など、道具建てにも遺漏はない。これらの描写は、神仏の化身としての奇瑞を語る「縁起」の常 道に則ったものとみなしうる。 元 文 五 年 版 で は こ の 後、 竹 女 が 普 段 か ら 五 穀 を 重 ん じ て「 乞 食、 牛 馬 に 施 し 」、 廚 の 水 盤 に 袋 を 括 り つ け て 残 飯 を も無駄にしない工夫をしたことを言う。これは「お竹大日」の核であり、当縁起においては、お竹が仏神と同一視さ れる根拠を示す役割を果たしている。 では、安永六年版の縁起についてはどうか。大筋としてはほぼ一致するが、細部の描写や叙述の順序など、細部に 相違が認められる 一二 。 抑 そも/\ 当山 の 霊 れいぞう 像 お竹大日如来の 権 はじまり 輿 を 源 たづぬ るに、 文禄年中の頃、 武 ぶ 江 こう 大伝馬町 何 なに 某 がし 〈割注・今云馬込〉 召 めし 仕 つか ふところ の 婢 ひ 女 じょ に、 た け と い へ る あ り 。 …( 中 略、 乞 食 に 施 し を す る お 竹 の 慈 悲 と 穀 を 尊 ぶ 節 倹 を 言 う ) … 其 頃、 同 国 比 ひ き ご ほ り 企 郡 に 湯 ゆ ど の 殿 嶺 て ん じ や う 上 戒 かい 行 ぎやう 堅 け ん ご 固 の 聖 ひじり あ り。 正 身 の 大 日 如 来 を 拝 せ ん こ と を 願 ひ、 此 山 に 歩 あゆ み を は こ ぶ 事 年 あ り 。 ある夜の夢に、汝、 生 せうじん 身 の如来を拝せんとならば、武江佐久間氏何某の下女をはいせよとみて 夢 ゆめ 覚 さめ ぬ。 斯 かく のごと
「お竹大日如来」伝承の生成 二三 きの 霊 れ い む 夢 三度におよびければ、 疑 うたがふ 事なく 武 ぶじやう 城 都 と か 下 にたづね来り、夢の 告 つげ なるよしを語り、佐久間主人に物して、 ひそかに竹女が 面 めんやう 容 を 拝 はい すれば 、 光 かうめう 明 輝 き 然 ぜん として十方を 照 てら し、 尊 そんめう 皃 は 紫 し ま 磨 の 全 ぜんしん 身 なりければ、 主 しゅかく 客 共に 驚 きやうたん 嘆 不思 議の 感 かんるい 涙 に 咽 むせ び、 礼 らいはい 拝 恭 けう 敬 けい して、 大 だ い ひ な ん し 悲難思 の 応 わう 用、末世の 奇 き 瑞 ずい 心 肝 かん に 徹 てつ し、ふかく 渇 かつごう 仰 のおもひをなせり。 不思 議 な る か な、 如 来 は 随 ず い し よ 処 応 を う ど 度 の 悲 ひ ぐ わ ん 願 に 酬 こたへ て、 難 な ん け 化 利 り や く 益 の 機 き か ん 関 を 上 人 お よ ひ 勘 か げ ゆ 解 由 に 見 あ ら は さ れ て や、 咫 し せ き 尺 の 間、 竹 女 が 容 かたち 、 消 しやう 然 ぜん と し て 去 る 処 を 知 ら ず 。 人 々 驚 きやうがく 愕 し、 恋 れ ん ぼ 慕 捜 さ う さ く 索 す れ ど も、 跡 を 認 しとむ へ き な し。 常 に 起 き ぐ は 臥 せ し 小 ね や 房 をひらき見れば、 只 い か う 異香 馥 ふくいく 郁 と 薫 くん じ、 光 かうめう 明 正に 眼 がん 裏 り に有ごときのみ… 元文五年版との違いに注意しながら、安永六年版の特徴を見ていこう。まず、お竹伝の骨子である施与と流しの網 の 逸 話 は 最 初 に 置 か れ て い る。 叙 述 の 細 部 は 省 略 し た が、 施 し の 対 照 と し て は「 困 餓 窮 飢 の も の 」 と す る の み で、 「牛馬」は挙げていない。また、年時を「文禄年中の頃」としているのも元文版との相違である。 武 州 比 企 郡 の「 聖 」 を 狂 言 回 し と す る 点 は 共 通 す る が、 「 玄 良 坊 宣 安 」 は 登 場 せ ず、 ま た 佐 久 間 夫 婦 の 霊 夢 の 挿 話 もみえない(割注の「今云馬込」については第四節に後述) 。お竹の大日如来としての「尊皃」の描写も、 「紫磨の全 身 」 な ど の 仏 語 が 多 用 さ れ て い る が、 こ れ は 元 文 版 に 比 し て「 縁 起 」 と し て の 性 格 を よ り 強 調 し た 作 意 と 見 る べ き か。更に大きな相違として、正体を見顕されたお竹が、その場で忽然と姿を消す点も注目される。元文版では数日称 名を事とした後に「大往生」を遂げたとするのに対し、安永版のお竹は肉体の死を経ずにそのまま行方を絶つのであ る。居室には「只異香馥郁と薫じ」ていたとする描写など、定型的言辞ながらも一種リアルな手応えを伝えるように も思われる。 なお、お竹の「実説」の時期を考える材料として、羽黒山の「於竹大日堂」正面の額には、表に「於竹大日如来」 、
二四 裏 面 に は 寛 文 六 年( 一 六 六 六 ) 建 立 の 旨 が 墨 書 さ れ て い る 由、 戸 川 氏 の 論 考 に 記 述 が 備 わ る 一 三 。 こ の 年 記 は、 元 文 五年版の略縁起で、お竹の実説を元和寛永期(根拠不明)とした上で、木像が羽州に移されたのを寛文年間とするこ とと一致する。奉納額の年記の信頼性には検討の要があろうが、おそらくは寛文年間に、江戸と出羽の地とが連動す る 形 で、 初 期 の「 お 竹 大 日 」 信 仰 が 行 わ れ た 可 能 性 が 考 え ら れ よ う か。 『 玉 滴 隠 見 』 の お 竹 の 記 事 の 前 後 に は、 寛 文 年 間 の 記 事 が 挙 げ ら れ て お り、 こ の 点 で も 矛 盾 し な い。 安 永 六 年 版 の 縁 起 で 文 禄 年 間 と 記 す の は さ す が に 不 審、 「 元 禄」の誤刻か、あるいは伝承に由緒をつけようとしたものであろうか 一四 。 年時の穿鑿は一旦措くとして、改めて二種の縁起をまとめてみよう。安永版は元文版に比して、総じて人智を超え た奇瑞を強調しており、大日如来としてのお竹の「本地」をより前景化していると言いうる。一方で、羽黒山に関わ る「 聖 」 が お 竹 の 正 体 を 見 顕 す と い う 展 開 は そ の ま ま 引 き 継 が れ て お り 一 五 、 羽 黒 山 の 玄 良 坊 を 中 心 と す る 修 験 者 に よってお竹の伝承が形成されていったことが確認される。 (三)出羽三山信仰と「お竹大日」―― 湯殿山・羽黒山信仰をめぐって こ こ で、 羽 黒 山 お よ び 出 羽 三 山 信 仰 と「 お 竹 大 日 」 と の 関 わ り に つ い て、 も う 少 し 具 体 的 に 考 え て み た い。 図 録 『 江 戸 の 旅 と 流 行 仏 ―― お 竹 大 日 と 出 羽 三 山 』 一 六 は、 修 験 道 関 連 資 料 を 含 め て「 お 竹 大 日 」 に 関 わ る 資 料 を 収 載 し、 出羽三山信仰および修験者との関わりからこの伝承を跡づけたものである。同書の記述に拠りながら、出羽三山信仰 と「お竹大日」の関係を見ていこう。 そ も そ も「 出 羽 三 山 」 と い う 括 り 方 が ま ず 問 題 と な る。 出 羽 三 山 で は、 本 来 湯 殿 山 が 大 日 如 来、 羽 黒 山 は 観 音 菩 薩、月山は阿弥陀如来を祀っており、大日如来の化身であるお竹は、厳密に言えば湯殿山の信仰と結びつくのが筋で
「お竹大日如来」伝承の生成 二五 ある。現に『玉滴隠見』および『新著聞集』では、死後のお竹の示現の場は湯殿山とされていた。しかし前節でみた 通り、江戸出開帳の勧進元は一貫して「羽黒山玄良坊」である。安永六年版の縁起には、お竹の「ありし面皃」を刻 ん だ 彫 刻 を「 羽 州 湯・ 月・ 羽 黒 三 山 霊 場 の 麓 に 奉 納 し 」 一 七 た と の 記 述 も あ り、 少 な く と も 玄 良 坊 主 導 の 開 帳 縁 起 で は、羽黒山を中心に、出羽三山全体の信仰と結びつける形で「お竹大日」伝承が形成されていったものと思しい。 こ の 点 に つ い て は、 羽 黒 山 正 善 院 の 住 持 で あ っ た 戸 川 安 章 氏 の 証 言 が 参 考 と な ろ う。 先 述 の 通 り、 「 お 竹 大 日 」 の 木像や四種の略縁起などの遺品を蔵する正善院は、出羽における「お竹大日」信仰の中心地であるが、戸川氏はこの 正 善 院 で 育 ち、 昭 和 一 八 年 ま で 住 持 を 務 め た 一 八 。 同 氏 が 玄 良 坊 に つ い て 語 っ た 談 話 の 内 容 が『 江 戸 の 旅 と 流 行 仏 』 中に紹介されている 一九 。 …玄良坊は羽黒山手向にあった宿坊の一つだが、戸川氏のご教示によると正善院の檀家という関係から「於竹大 日堂」が同寺の境内に建立され玄良坊がその別当となったものらしい。山内でも格が高く、往時は「玄良坊の二 町歩邸」といわれるほどの勢いであり、その本尊仏は大日如来を中心とする三山本地仏であったと氏より教えら れた。有力な坊には、本地三尊が祀られる例が多いのだが、正観音と阿弥陀を両脇侍とした大日如来がそれらの 中心であり、近世の羽黒と湯殿との確執をこえて信仰された。… すなわち玄良坊では、狭義の羽黒山の信仰(観音信仰)を超えて、大日如来を中心とする三山の本地仏を祀ってお り、その意味で玄良坊が「お竹大日」の「別当」を務めることには矛盾がないというのである。玄良坊は正善院の檀 家であったことから「別当」の任についたとされるが、そもそもお竹大日と羽黒山(正善院) ・ 湯殿山との関わりは、
二六 いずれがより原初的であったのだろうか。 こ の 点 に 関 し て、 山 本 則 之 氏 の 所 説 を 見 て お き た い 二 〇 。 山 本 氏 は『 新 著 聞 集 』 の 伝 え る お 竹 の 頓 死・ 蘇 生・ 夢 語 り の 挿 話 に 着 目 し た 上 で、 古 浄 瑠 璃『 金 躰 両 夫 大 日 御 伝 記 』 と の 関 わ り を 想 定 さ れ る 二 一 。 同 書 は 書 名 の 通 り、 湯 殿 山に鎮座する金剛界・胎蔵界両部の大日権現の本地を説くものであるが、この六段目に、湯殿山の開基である弘法大 師 空 海 が、 弟 子 の「 く う ざ ん 」 を 連 れ て 山 中 の 十 界 を 巡 る 場 面 が あ り、 こ こ に「 こ が ね の 御 だ う 」 に 化 生 し た「 下 女」が登場するのである。同書では「さかみの国せんじゅ村と云所」の「あさましき下女」が、菩薩を尊んだ功徳に よって「此みどうにうつ」って菩薩となったことが語られるが、ここから山本氏は、次のように推論される。 …この条は、おそらく、湯殿山の黄金の堂に「あさましき下女」が菩薩として顕現するという説話が拾い上げら れ、 彼 女 の 住 む 所 の 具 体 的 な 地 名 を 伴 っ て、 『 金 躰 両 夫 大 日 御 伝 記 』 の な か に 本 文 化 さ れ た も の で あ ろ う。 ひ い ては、かねてから湯殿山山中には卑賤な女性が菩薩等の仏に転生再誕する場所があると信じられており、その信 仰がこの古浄瑠璃の本文に表れたのである。 …( 引 用 者 注・ 『 新 著 聞 集 』 の 挿 話 に い う ) 竹 女 が 見 た 夢 は、 上 述 の、 湯 殿 山 の 賤 女 転 生 信 仰 が 引 用 さ れ た も の である。そして後段については、さきに述べたごとく、その背景として、江戸の小事件が湯殿山近辺へ運ばれ民 間 宗 教 者 に 伝 わ っ た と い う 事 態 を 読 む こ と が で き る。 つ ま る と こ ろ、 お 竹 往 生 譚 の 生 成 は、 《 賤 女 転 生 信 仰 が 湯 殿山から江戸へ》かつ《賤女の急死・蘇生・夢語り・臨終事件が江戸から湯殿山麓へ》という、江戸~出羽間に おける情報の相互流通構図の上に成り立つことになる。… 二二
「お竹大日如来」伝承の生成 二七 「 せ ん じ ゅ 村 」 の 下 女 の 伝 承 と、 湯 殿 山 黄 金 堂 と の 関 連 に つ い て は 更 に 検 証 の 必 要 が あ る が、 こ の 見 解 は 注 視 す べ きものであろう。 「お竹大日」説話にとって、下女の倹約 ・ 慈悲の逸話が最大の核であることはおそらく動かないが、 更に下女の急死・蘇生の話柄と、それを介した湯殿山の黄金堂信仰との結びつきがそこに重ね合わされた可能性が想 定されるのである。 『玉滴隠見』に竹女の急死と蘇生の挿話が見られない以上、 「お竹大日」伝承の中では比較的後か ら 付 加 さ れ た も の と も 考 え ら れ る が、 こ れ ら も 含 め て、 「 お 竹 大 日 」 伝 承 の 形 成 に は、 複 層 的 か つ 流 動 的 な 過 程 を 想 定 す べ き で あ ろ う。 『 玉 滴 隠 見 』 の 記 事 が、 湯 殿 山 の「 佐 藤 宮 内 ト 云 神 人 」 が 語 っ た も の と さ れ て い る こ と に も、 改 めて注意がひかれる。 もう一つ、湯殿山との関わりでは、即身仏との関連も考えるべきであろうか。湯殿山には古来即身仏の伝統がある が、 お 竹 説 話 の 核 に あ る「 自 身 の 食 物 を 貧 者 に 施 し、 自 ら は 流 し の 網 に か か っ た 残 飯 を 口 に し て い た 」 と い う 挿 話 は、 即 身 仏 の イ メ ー ジ と も 重 な る と こ ろ が あ る よ う に も 思 わ れ る 二 三 。 よ り 詳 し い 考 証 が 必 要 で は あ る が、 可 能 性 の 一つとして指摘しておきたい。 また、先掲の山本論考では、江戸と出羽間での情報回路に言及されている点も注目される。江戸と出羽間の情報伝 達は、おそらく一方的ではなく双方向的であった。そして、その伝達網を担っていたのは、出羽三山の修験者のネッ ト ワ ー ク で あ っ た も の と 想 像 さ れ る。 湯 殿 山 と 羽 黒 山( 正 善 院 )、 い ず れ と の 関 係 が よ り 原 初 的 で あ る か は ひ と ま ず 措くとして、元文・安永版の縁起に「武蔵国比企郡」の修験者が登場していることからは、出羽三山の修験者の情報 経 路 が、 出 羽 の み な ら ず 各 地 に 配 備 さ れ て い た こ と が 窺 え る。 「 お 竹 大 日 」 信 仰 は、 そ の ネ ッ ト ワ ー ク に 乗 っ て 流 布 したという一面もあるのではないか。 こ こ で 改 め て 気 に か か る の が、 お 竹 の 主 人「 佐 久 間 某 」 の 位 置 づ け で あ る。 既 に 見 て き た よ う に、 「 お 竹 大 日 」 関
二八 連資料においては、佐久間氏(馬込氏)への言及が定型的に見出される。資料によってその扱われ方に多少の相違は あ る が、 お 竹 の 正 体 の 見 顕 し の み な ら ず、 お 竹 の 死 後 そ の 尊 像 を 寄 進 し、 お 竹 と と も に 尊 崇 さ れ た と い う 条 な ど は、 単にお竹の雇い主であったとするだけでは説明がつかないのではないか。想像を逞しくすれば、佐久間氏自身が出羽 三 山 修 験 者 の ネ ッ ト ワ ー ク の 中 で 何 ら か の 役 割 を 果 た し て い た の で は な い か と も 思 わ れ る。 こ の 推 論 を 検 証 す べ く、 次節では佐久間氏(馬込氏)の事績を辿ってみたい。 (四) 「佐久間勘解由」代々 ―― 大伝馬町名主・佐久間氏と馬込氏 「 於 竹 大 日 」 関 連 資 料 で は、 下 女 と し て の お 竹 が 仕 え た 主 人 の 名 と し て「 佐 久 間 勘 解 由 」 あ る い は「 佐 久 間 善 八 」 「 馬 込 氏 」 な ど、 若 干 の 揺 れ が み ら れ る。 こ う し た 相 違 は な ぜ 生 ず る の か。 そ も そ も 佐 久 間 氏( 馬 込 氏 ) と は ど の よ うな家であり、お竹の伝承とどう関わっているのだろうか。大伝馬町に関する随筆や史料に基づいて、この点を考え てみたい。 ま ず、 近 世 期 を 通 じ て 形 成 さ れ た 佐 久 間 家 に 関 す る 伝 承 を 知 る べ く、 明 治 期 に 成 立 し た 写 本『 そ ら を ぼ え 』( 明 治 十 五 年 十 一 月 序 ) 二 四 を 見 て み よ う。 同 書 は 大 伝 馬 町 の 地 理・ 風 俗・ 名 物 等 を 綴 る も の だ が、 「 佐 久 間 勘 解 由 」 に つ い ては次のように記されている。 …旧名主役、大伝馬の町の辺、いまだ在郷の田舎〈割注:慶長、元和の頃なるべし〉なりし頃より、江戸草分け の頃までの名主を、 佐 サ ク マ 久間 勘 カ ゲ ユ 解由 といふ人勤めしなり…其後、佐久間氏親族に伊藤平左衛門といふ人有りて、名 主役を相続し、馬込平左衛門といふ、佐久間氏は三州の古郷へ退隠す、佐久間氏の住所は、町内壱丁目の西の首
「お竹大日如来」伝承の生成 二九 より、北の横町東側不残、鉄炮町の境までを宅地とせり、… 佐久間勘解由が水仕の下女、おたけが常に水を汲し井戸は、町内壱丁目北がわ西の角より東へ弐軒目、伊勢清の 奥の大土蔵〈割注:俗に、小津の大蔵とも、ばか蔵ともいふ〉に有り、今は庫中ゆへ、水くむこともなく、石に てふたをして廃井の如しといふ、… 二五 右 の 如 く、 「 佐 久 間 勘 解 由 」 は 江 戸 草 創 以 来 の 草 分 名 主 で あ っ た が、 後 に 親 族 の 伊 藤 平 左 衛 門 が 名 主 を 相 続、 馬 込 氏を名乗ったとする。佐久間家の断絶の時期については明記がない。なお『そらをぼえ』によれば、佐久間氏は太物 店を営んでいたという 二六 。 佐久間家・馬込家のうち、特に後者の馬込家代々については、江戸筆頭の草分名主として、夙に幸田成友氏による 考 証 が 備 わ る 二 七 。 馬 込 家 に 関 す る 文 書 は、 右 の 幸 田 論 考 中 で も 過 去 帳 な ど 二 十 余 点 が 紹 介 さ れ る が、 平 成 九 年、 馬 込家の子孫から江戸東京博物館に多数の史料が寄贈され、これらの史料に基づいて、高山慶子氏が研究成果を発表さ れ て い る 二 八 。 右 掲 の 先 行 研 究 に 基 づ い て、 佐 久 間・ 馬 込 両 家 の 代 々 と、 佐 久 間 家 か ら 馬 込 家 へ の 職 分 の 譲 渡 を 跡 づ け ていこう。 馬 込 家 の 過 去 帳( 宝 暦 一 三 年〔 一 七 六 三 〕、 六 代 当 主 興 承 作 成 ) に よ れ ば、 同 家 は 大 伝 馬 町 二 丁 目、 佐 久 間 家 は 同 一丁目の草分名主であった。馬込家三代目の喜與が、五代目佐久間善八の娘を後妻として迎えたことから、両家は姻 戚を結ぶ 二九 。同史料によれば、佐久間家の退転は元禄十二年(一六九九)のことであった。 佐久間善八家、元禄十二卯年迄大伝馬町壱丁目北側西角京間拾弐間一尺家屋敷所持、名主役も相勤来候所、不身
三〇 上ニ而役儀致退転 、家屋敷西村弥右衛門江金三十両ニ売渡シ、花川戸町南表七間間口之家屋敷江同年蟄居ス 三〇 また、馬込家の「姻戚佐久間家之書物」では、佐久間家の退転について次のように述べる。 六代目善八郎、病身ニ而御役難勤、 御伝馬役、名主役、糸割符共ニ照厳〔引用者注・馬込家五代目当主雅珍〕へ 譲 、 言上御帳面ニ記置候 三一 馬 込 家 五 代 目 雅 珍 は、 三 代 喜 與 に 嫁 し た 佐 久 間 善 八 娘 の 孫 に あ た る。 六 代 目 佐 久 間 善 八 の 退 転 に 際 し て、 「 御 伝 馬 役、名主役、糸割符」の権利が馬込家に譲渡されることとなった。以後馬込家は、近世期を通じて伝馬役を兼務、伝 馬役を務める際には苗字を名乗ることが許されると共に、その役所として、居宅に冠木門を構えるという特権を得た 三 二 。 ま た、 佐 久 間 家 が 糸 割 符 仲 間 の 一 員 で あ っ た こ と か ら、 か つ て の 佐 久 間 家 が 江 戸 有 数 の 豪 家 で あ っ た ろ う こ と も、高山氏稿に指摘されている 三三 。 六 代 目 佐 久 間 善 八 は、 退 転 の 後 享 保 十 八 年( 一 七 三 三 ) に 没 し て い る が、 死 後 馬 込 家 の 五 代 目 雅 珍 の 従 弟 が 別 家 し、 「 馬 込 勘 解 由 雅 珍 御 預 」 の 形 で 佐 久 間 家 を 立 て た 三 四 。 佐 久 間 の 家 名 は、 馬 込 家 の 庇 護 の も と に 一 応 の 存 続 を み た のである。なお、 『御府内備考』巻之六十二には、 「佐久間善八儀は 宝 (ママ) 永 年中子細不知、家断絶仕、其後馬込勘解由一 手持ニ相成候」 三五 とある。 このほか、馬込氏の来歴に関する資料としては、文化十二年(一八二五)一一月に提出された「大伝馬町馬込勘解 由 由 緒 書 」 が あ る 三 六 。 こ れ に よ れ ば、 「 馬 込 」 の 称 は 駿 河 国 馬 込 村 の 郷 士 で あ っ た こ と に 由 来 し、 家 康 の 幼 少 時 か ら
「お竹大日如来」伝承の生成 三一 仕えていた縁で、家康の江戸入府に従って江戸に移住したという 三七 。 ところで、 佐久間家の当主の名は、 これまで馬込家文書によって見てきたように、 代々「善八(善八郎) 」であり、 「 勘 解 由 」 は 馬 込 家 の 当 主 の 名 で あ っ た 三 八 。 先 述 の 通 り、 「 お 竹 大 日 」 関 連 資 料 で は、 「 佐 久 間 善 八 」 名 義 を 挙 げ る の は、 初 期 の 成 立 に 係 る『 玉 滴 隠 見 』 の み で あ り、 他 の 資 料 で は 一 貫 し て「 勘 解 由 」 の 名 が み え て い る。 『 玉 滴 隠 見 』 が佐久間家断絶以前の名跡を伝えることは、同書の記述が元禄期以前に遡ることの裏づけとなろうか。むしろ佐久間 氏 退 転 以 降 も、 「 佐 久 間 」 の 姓 と、 そ の 職 分 を 継 承 し た 馬 込 氏 の「 勘 解 由 」 の 名 乗 り が 共 存 す る 形 で 伝 来 さ れ た こ と の方に、より大きな意味を認めるべきであろう。 「 お 竹 大 日 」 伝 承 に お い て、 お そ ら く 特 に そ の 初 期 に は、 佐 久 間 氏 が 大 き な 役 割 を 果 た し て い た。 し か し 元 禄 十 二 年 以 降、 佐 久 間 家 の 職 分 は 実 質 的 に 馬 込 家 に 引 き 継 が れ る。 「 佐 久 間 勘 解 由 」 と い う 折 衷 的 な 名 乗 り は、 お そ ら く こ うした動静の中で生じたものと想定される。 ここで、改めて「お竹大日」関連資料における佐久間氏・馬込氏の役割を考えてみよう。お竹の見顕しと往生に続 く、元文版略縁起の記述を左に挙げる。 … 偖 さて また 佐 さ く ま 久間 夫 ふ う ふ 婦 の人は 度 たび/\ 々 の 奇 き 瑞 ずゐ を 見 み しより、 信 しんしん 心 日 ひ ご ろ 頃 に 十 じふばい 倍 して、 慈 じ 悲 ひ 善 ぜんごん 根 怠 おこた る 事 こと なく、 現 げんたう 当 二 に せ 世 の 報 はうしゃ 謝 のために、 若 そこばく 干 の 資 し ざ い 材 を 喜 き し や 捨 して、 等 とうしん 身 の 尊 そんざう 像 を 彫 てうこく 刻 し、 持 ぢ 仏 ぶつだう 堂 に 安 あ ん ち 置 して、 朝 てう 暮 ぼ 崇 すうきやう 敬 したりけるが 、 其 そののち 後 、 寛 くわん 文 ぶん 年中にいたりて、かゝる 尊 そん 容 よう を 俗 ぞ く か 家 におかむは、さはいへど 勿 もつたい 体 なしとて、 霊 れいしよ 所 といひ、 由 ゆいしよ 緒 といひ、 値 ち ぐ う 遇 深 ふか き 仏 ぶつ 場 じやう なれば 遙 はる/” \ 々 当 たうごく 国 に 守 し ゆ ご 護 し 下 くだ りて、 当 たうざん 山 に 安 あ ん ち 置 し 訖 をはん ぬ。されば 人 じんこう 口 に 膾 くわいしや 炙 して、 或 あるひ は於竹大日如来とも、或 は佐久間大日とも 挙 こぞり て 称 しやう し奉るぞかし 。…
三二 お竹が大往生を遂げた後、佐久間夫婦は「等身の尊像」を彫刻し、邸内の持仏堂に安置して崇敬していたが、寛文 年 中 に「 値 遇 深 き 仏 場 」 で あ る 出 羽 国 の「 当 山 」 に 移 し た と い う の で あ る。 「 於 竹 大 日 如 来 と も、 或 は 佐 久 間 大 日 と も」称せられたという記述も看過し難いところであろう。なお、先述の通り元文版では、お竹の正体の見顕しに先立 って、佐久間夫婦も霊夢を蒙っている(安永版にはこの挿話は見られない) 。 あえて右の所伝をそのまま受け取るとすれば、お竹の顕彰は、佐久間氏の邸内で私的に行われていたものが、羽黒 山の修験者の知るところとなり、その信仰圏に吸収される形で羽黒山に移され祀られるに至ったとも考えられる。あ る い は 逆 に、 羽 黒 修 験 の 側 か ら、 「 頓 死 し て 蘇 生 し た 下 女 」 の 雇 い 主 と し て の 役 割 を 持 ち か け ら れ た 可 能 性 も あ ろ う か。いずれにしても、お竹の顕彰と前後して、佐久間氏が羽黒修験とある種の提携関係を結んでいたことを想像しう る の で あ る。 「 佐 久 間 大 日 」 の 称 ま で も が 行 わ れ た と い う 所 伝 は、 羽 黒 修 験 と 提 携 す る に あ た り、 佐 久 間 氏 側 に 有 利 な条件を残したものと見るのは穿ちすぎであろうか。 はやく『玉滴隠見』の記事でも、湯殿山の黄金堂に顕現したお竹とともに「娑婆ニテノ主也シ佐久間婦夫ハ両脇立 ト 成 テ 今 ニ 有 」 と 記 さ れ て い た。 お そ ら く 佐 久 間 氏 と お 竹 と の 関 わ り は、 「 お 竹 大 日 」 説 話 の 初 発 か ら 存 在 し て い た も の と 思 わ れ る。 し か も そ れ は、 湯 殿 山 な い し 羽 黒 山 の 黄 金 堂 の 祭 祀 と 関 わ る と こ ろ に あ っ た。 な お、 特 に 安 永 版 縁 起 以 降、 湯 殿 山・ 羽 黒 山 の 区 別 は 積 極 的 に 無 化 さ れ、 「 出 羽 三 山 」 信 仰 に 収 斂 さ れ て い く が、 こ れ は 羽 黒 修 験 の 思 惑 の反映とみられようか。 羽 黒 修 験 と の 関 わ り に つ い て は、 佐 久 間 氏 が 道 中 伝 馬 役 を 兼 務 し て い た こ と が 大 き く 関 与 し て い た も の と 思 し い。 書状や荷物の輸送を任務とする職分上、諸国間で広域的ネットワークを展開する羽黒修験との接点が多かったものと
「お竹大日如来」伝承の生成 三三 推定される。人馬の手配や輸送を通じて、一種の提携関係が生ずるのも自然な流れであったろう。佐久間氏が羽黒修 験の檀那のような立場にあったのか、あるいは単に便宜を図っただけであるかは今後更に調査の要があるが、いずれ にしても、佐久間氏の伝馬役の職分は、先述の通り名主役と共に馬込氏に譲渡、以後近世を通じて引き継がれていく こととなった。 下って文化十二年(一八一五) 、浅草奥山念仏堂での「お竹大日」開帳では、 「大伝馬町」から「金物細工にて 閑 (諫) 鼓 鳥 」 が 奉 納 さ れ た 由、 『 藤 岡 屋 日 記 』 が 伝 え て い る 三 九 。 開 帳 の 模 様 を 描 い た 一 枚 摺 に、 「 馬 込 氏 」 の 姿 を 伝 え る も の も あ り、 お そ ら く は 馬 込 氏 が、 名 主 の 名 跡 と あ わ せ て、 「 お 竹 大 日 」 の 祭 祀 を も 継 承 し た も の と 推 定 さ れ る。 な お、 天 保 九 年( 一 八 三 八 )、 上 州 か ら 出 羽 三 山 に 参 詣 し た 朽 津 伊 兵 衛 に よ る 道 中 記 が 残 っ て い る が、 こ の 中 に は「 湯 殿 山 月 山 羽 黒 山 道 中 記 」 で は「 お た け 大 日 堂 あ り、 江 戸 さ く ま や 下 女、 此 修 復 は 今 以 さ く ま や 致 す 」 と 記 さ れ て い る 四 〇 。 ここでいう「さくまや」は馬込氏を指すものと考えられるが、だとすれば馬込氏は、羽黒山のお竹大日堂の維持管理 の職掌をも引き継いでいることが知られる。 ただし、初期の略縁起や『玉滴隠見』において強調された「佐久間」氏の関与は、後代の資料では少しずつ後景に 退いていく。たとえば『新著聞集』では、単に雇い主としてその名を挙げられるに過ぎず、霊夢や脇侍としての示現 などの要素を欠いている。幕末の「お竹大日」関連資料では、佐久間姓は挙げずに「馬込勘解由」の名義を記すもの も あ る。 こ れ ら の 背 景 に は、 佐 久 間 氏 の 退 転 と い う 事 情 が あ る の は 勿 論 と し て、 そ れ 以 上 に、 「 お 竹 大 日 」 伝 承 に お いて、宗教性の比重が後退していったことを読み取るべきではないか。開帳の例に見るように、出羽三山信仰との関 わりが絶たれたわけではないにせよ、後述する江戸の地誌における言及や、それを介した川柳や随筆類、更には草双 紙 な ど 俗 文 芸 へ の 登 場 に よ っ て、 「 お 竹 大 日 」 伝 承 の 草 創 時 に 色 濃 く 備 え て い た 宗 教 性 は 相 対 的 に 後 退 し、 よ り 通 俗
三四 的な題材として扱われるようになったものと思われる。 通俗化と幕末にかけての展開はまた別稿に譲ることとして、いまは再び「お竹大日」伝承の起源に戻ろう。この伝 承の担い手としては、出羽三山と佐久間氏(馬込氏)に加えて、もう一つ、お竹の菩提寺もまた大きな役割を果たし ていた。次節でその名所化の動向をみていこう。 三 寺社の名所化と「お竹大日」―― 江戸の地誌・名所記にみるお竹 こ こ ま で、 江 戸 出 開 帳 に 際 し て 板 行 さ れ た 縁 起 を 中 心 に、 「 お 竹 大 日 」 信 仰 の 展 開 を 辿 る と と も に、 羽 黒 山 の 修 験 者がその流布に関与していた可能性を検討してきた。ただし、江戸の地におけるお竹伝の浸透には、もう一つ、江戸 という土地と結びついた発信源も存在していたのである。以下、本節では江戸の地誌・名所記と「お竹大日」説話の 流布について検討してみたい。 先述の通り、お竹の記事として最も早いものは、先引の写本『玉滴隠見』であるが、写本である以上、流布の範囲 は あ る 程 度 限 定 的 で あ っ た と 考 え ら れ、 「 お 竹 大 日 」 説 話 の 流 布 に ど の 程 度 の 影 響 を 持 ち 得 た か と い う 点 で は 慎 重 な 判 断 が 必 要 と な ろ う。 「 お 竹 大 日 」 説 話 の 浸 透 に、 よ り 直 接 的 に 関 与 し た の は、 お そ ら く は 刊 本、 そ れ も 早 期 に お い ては次に述べる名所記の類であったと考えられる。 「 お 竹 大 日 」 に つ い て ま と ま っ た 記 事 を 載 せ る 刊 本 と し て は、 寛 延 二 年 の『 新 著 聞 集 』 が 最 も 早 い 例 で あ る が、 刊 本における初出は、享保期の名所記に遡る。ただし、早期の名所記では、お竹に関する記述はごく断片的なものに留 まっていた。確認される限り、刊本での初出は享保十一年刊(一七三二)の『新撰江戸砂子』であるが、同書では増 上寺心光院の項に「佐久間の下女が流シあり」と述べるのみである 四一 。
「お竹大日如来」伝承の生成 三五 やや下って延享三年(一七四六) 、『江府名勝志』では、 「心光院に佐久間下女流し門の上にあり。涅槃門の脇なり。 俗説云佐久間何がしが下女たけ。朝夕己にあたふる所の食物、道心非人にあたへ、己が食物にハ流しにて洗汁をため 置、 是 を 食 す と 云 つ と ふ 」 四 二 と、 記 述 が 拡 充 さ れ て く る。 更 に 明 和 九 年( 一 七 七 二 ) 刊 の『 再 校 江 戸 砂 子 』 で は、 芝 心 光 院 の 項 に「 水 盤 に 光 明 奇 怪 の こ と あ り て 件 の 流 し を 当 院 へ お さ む。 委 し く は 縁 起 に あ り 」 四 三 と、 お 竹 ゆ か り の水盤が「光明」の奇瑞と結びつけて語られる。 ここでいう「心光院」とは、芝増上寺の塔頭であり、増上寺別院を称したが、宝暦十一年(一七六一)に増上寺境 内から芝新堀端 (飯倉町) へ移転した。三縁山増上寺の縁起を伝える 『三縁山志』 (文政二年 〔一八一九〕 刊) から、 心光院の「流し」の記事をみておこう 四四 。 △ お竹がながし 板当院にあり むかし壱人の僧、羽州湯殿山へ参籠せしに 、夢に金塔を拝む。其中に座光斗にて本尊なし。傍成僧に其ゆへを問 ふ。僧言て云、此塔は大日如来の塔なり、本尊は今人間に交り給ふ。汝しらずや、武州江戸伝馬町佐久間氏が婢 にて名は竹といふ、と夢みて覚ぬ。 此僧下山して江戸に至り、彼女を尋るに、果して凡庸ならず 。朝夕米洗ふ水 板に細布を張て遺粒を拾い、己か食とし、常餐は乞食に施し、自身常に念仏す。佐久間氏も此僧に右の物語を聞 て後は、この女を主人のごとくに大切に扱ひける。此女いづくともなく遁れさりぬ。 其水板より光を放つ故、遠 近きゝ伝へ来り、切取りしかは、佐久間氏須藤氏両家より当院に納む。桂昌君上覧遊され、御感斜ならす、袋と 箱とを御寄附遊され、今に二百余年永く什宝となれり 。〔割注・ 新著聞集 往生篇 にある事是と異同あり〕
三六 湯殿山への参籠と霊夢などは、開帳略縁起からの影響を思わせるが、見顕しに関わる人物を羽黒山の「聖」でなく 「 壱 人 の 僧 」 と す る 点 に 注 意 し て お き た い。 ま た、 記 事 の 末 尾 に は『 新 著 聞 集 』 の 記 事 に 触 れ て「 是 と 異 同 あ り 」 と するなど、先行する資料への目配りもみえる。文政二年の刊行と、やや時代が下ることもあり、縁起や先行資料等に よって形成されてきた「お竹大日」伝承をある程度取り入れていることが窺える。 独自の記述として注目されるのは、お竹が姿を消した後の条である。お竹ゆかりの水板が光明を放つという奇瑞に より、評判を聞いた人々が参集、流し板を「切取」る騒ぎになったため、心光院に寄進したという。ここで佐久間氏 に 加 え て「 須 藤 氏 」 の 名 が 見 え る が、 後 者 は 他 の「 お 竹 大 日 」 資 料 に は 見 え ず、 要 考 証。 い ず れ に し て も、 こ こ で 『 再 校 江 戸 砂 子 』 に い う 水 盤 の「 光 明 奇 怪 の 事 」 が 現 れ て い る こ と に 注 目 し た い。 こ の 逸 話 は こ れ ま で 見 て き た 略 縁 起にはみえず、寺宝の「流し板」を前面に出した、心光院ならではの記述と言えよう。羽黒山を中心とした信仰に加 えて、心光院を中心とした別系統の「お竹大日」伝承が行われ、しかも十八世紀後半以降、両者はある程度融合しな がら成長していくのである 四五 。 お竹ゆかりの「流し」の件は、 『新著聞集』にも見えており、 「お竹大日」説話の中でこの霊宝が重要な位置を占め ていたことが知られる。遺品が現存し、江戸市中で実際にそれを見ることができるというのは、お竹の逸事の現実味 を 増 し た こ と で あ ろ う。 ま た、 桂 昌 院 が お 竹 の 顕 彰 に 関 わ っ て 登 場 す る 点 に も 注 意 し て お き た い 四 六 。 桂 昌 院 が 寄 進 し た と い う 葵 紋 の 箱 も 心 光 院 に 現 存、 お 竹 伝 承 の「 確 か さ 」 を 裏 づ け る 遺 品 と な っ て い る 四 七 。 な お『 そ ら を ぼ え 』 で は、 心 光 院 蔵 の「 お 竹 像 」 に も 言 及 す る。 木 彫 無 彩 色 の 座 像 で、 高 さ は 七 寸 程 で「 後 光 有 り 」、 春 秋 彼 岸 に 開 帳 を 行っていたという 四八 。 先に見たように、江戸の名所記における「お竹大日」伝承は、初出にあたる享保十一年以降、僅か四〇年ほどの間
「お竹大日如来」伝承の生成 三七 に次第に拡充され、その奇瑞が強調されていく。この間の事情について、向井信夫氏は次のように推論される。 …ここで宝暦年間に心光院が増上寺の別院として新堀端に移ったことと思い合せると、独立寺院として客寄せ用 の霊宝が必要になり、今迄天井にあった流しを下して袋や筥をこしらえ、縁起をつくったものであろう。しかし その縁起も、当初はこの冒頭にあげたような詳細なものではなかったと思われる。お竹が大日如来の化身として 著名になるのはその後安永六年(一七七七)七月に愛宕山円福寺(真言宗)で湯殿山黄金堂の大日如来をお竹大 日如来として開帳したときからではなかろうか。…この開帳も愛宕下と飯倉の距離の近さから見て心光院と申し 合せの興行ではないかと考えられる節がある。… 四八 宝暦十一年に増上寺内から移転、新たに客寄せの目玉を必要としていた心光院が売り出したのが、お竹ゆかりの台 所流し板という寺宝であった、との指摘は正鵠を射たものであろう。もっとも、客寄せの窮余の一策というのみなら ず、開帳ブームと相俟って、こうした「霊宝」への関心が生まれつつあったことも追い風となったものと思われる。 心 光 院 の 移 転 か ら 十 六 年 後 に あ た る 安 永 六 年、 羽 黒 山 の 玄 良 坊 率 い る「 お 竹 大 日 」 の 江 戸 出 開 帳 が 行 わ れ て い る。 い ま 羽 黒 山 と 心 光 院 と の 結 託 の 実 態 を 究 明 す る の は 難 し い が、 と も あ れ 結 果 的 に、 こ の 安 永 六 年 の 開 帳 が、 「 お 竹 大 日」の知名度を決定的なものにした。安永期以降、川柳を皮切りに、俗文芸に「お竹大日」が登場し始めるのがその 指標といえよう。これら具体的な作品の検討については稿を改めたい。
三八 四 おわりに 「 お 竹 大 日 」 説 話 の 起 源 は 明 確 で は な い が、 お そ ら く は 寛 文 期 前 後、 遅 く と も 延 宝 期 ま で に は 風 聞 が 行 わ れ て い た ものと推定される。穀物を尊び、乞食に施しをした下女の逸話は、湯殿山・羽黒山信仰と結びついて次第に成長して いった。所伝には資料によって相違があるが、死後に湯殿山の黄金堂に現れたとする『玉滴隠見』の記事が古い形か と 思 わ れ る。 『 新 著 聞 集 』 で は、 頓 死 と 蘇 生 の 逸 話 を 加 え、 死 後 の「 安 養 世 界 」 へ の 往 生 を 予 見 す る と い う 形 で、 よ り奇瑞が強調されている。 この説話の流布に大きく関与した存在として、まず羽黒山の修験者が挙げられる。羽黒山の修験者は、四度にわた る江戸出開帳を行い、略縁起を板行して「お竹大日」の浸透につとめた。お竹を「大日如来の化身」と明確に規定し たのも、おそらくは正善院および玄良坊を中心とする羽黒修験によるものであったと推定される。お竹の木像の寄進 をはじめ、その祭祀にあたっては、お竹の雇い主であった佐久間氏の積極的な関与が想定できる。大伝馬町の草分名 主であった佐久間氏は元禄期に退転するが、親族にあたる馬込氏が名主職を相続、これとあわせて、お竹の木像の修 理など、 「お竹大日」信仰に関わる職分も引き継いだことが知られる。 羽黒山を中心とする「お竹大日」の称揚と軌を一にして、江戸の地では、佐久間氏の菩提寺であった心光院が、こ の 説 話 の 伝 承 に 深 く 関 わ っ て い た。 江 戸 の 名 所 記 で は、 心 光 院 の 項 に 一 貫 し て「 お 竹 大 日 」 へ の 言 及 が 見 え る が、 十八世紀後半からその記述が拡充され、お竹の奇瑞に紙幅が割かれていくようになる。ここにはおそらく、寺宝を宣 伝し客寄せを試みた心光院の思惑が働いていたものと想像されるが、それは江戸出開帳を重ねていた羽黒山側の利益 と も 一 致 す る も の で あ っ た。 以 後『 江 戸 名 所 図 会 』( 天 保 五 ~ 七 年 刊 ) に 至 る 諸 種 の 名 所 記 に お い て、 お 竹 の 記 事 は 心 光 院 と と も に 登 場 し、 江 戸 の 名 所 の 一 つ と し て 位 置 づ け ら れ て い く。 事 実 の 穿 鑿 は さ て お き、 開 帳 と 地 誌 を 介 し
「お竹大日如来」伝承の生成 三九 て、 「お竹大日」伝承は出羽と江戸の地に根を下ろしていったのである。 一 この題材の称としては、 「お竹大日如来」 「お竹大日」などがあるが、本稿では以下「お竹大日」に統一する。 二「 古 書 雑 録 二 お 竹 大 日 」( 『 江 戸 文 芸 叢 話 』 ぺ り か ん 社、 一 九 九 五 年 )。 こ の ほ か、 主 な 先 行 研 究 と し て は、 藤 田 徳 太 郎「 お 竹 大 日 如 来 」( 『 日 本 小 説 史 論 』 至 文 堂、 一 九 三 九 年 )、 宮 田 登「 お 竹 大 日 如 来 ―― 江 戸 の 都 市 伝 説 」( 『 江 戸 文 学 』 第 四 号、 一 九 九 〇 年 一 一 月 )、 小 松 和 彦「 お 竹 ―― 羽 黒 山 お 竹 大 日 堂 」( 『 神 に な っ た 人 び と 』 淡 交 社、 二 〇 〇 一 年 ) 等 が あ る。 ま た、 展 示 図 録 と し て は、 牛 島 史 彦 編『 江 戸 の 旅 と 流 行 仏 ―― お 竹 大 日 と 出 羽 三 山 』( 板 橋 区 郷 土 資 料 館、 一 九 九 二 年 )、 『 浮 世 絵 師 た ち の 神 仏 』( 渋 谷 区 松 濤 美 術 館、 一 九 九 九 年 ) 等 に も 関 連 資 料 が 収 載 さ れ る。このほか、絵解き研究など、個別の観点からの先行研究については、本稿中の該当箇所で適宜挙げる。 三『 内 閣 文 庫 所 蔵 史 籍 叢 刊 』 第 四 四 巻( 汲 古 書 院、 一 九 八 五 年 ) 三 七 五 頁。 な お、 引 用 に 際 し て 用 字 を 一 部 改 め る と ともに適宜一字空白を設け、濁点を施した。以下、引用中の傍線・強調等は引用者による。 四『日本随筆大成』第二期第五巻(吉川弘文館、一九七四年)三八九~三九〇頁。 五 なお「お竹大日」には、民俗学的観点から、昔話や民譚の類型と関連づける研究も行われている。柳田国男は「お 竹大日」について、東北地方を中心に分布する昔話との類似に注目し、この昔話の一変型と位置づける( 「お竹大日」 『 定 本 柳 田 国 男 集 』 第 二 六 巻、 筑 摩 書 房、 一 九 七 〇 年 )。 ま た、 飯 粒 を 大 切 に し た 下 女 の 即 身 成 仏 譚 と い う 点 に 着 目 し、下女を寺社の開基とする説話との関わりをみる説もある(山本則之「縁起型「大歳の火」再考――お竹大日如来 譚を手掛かりに」 (『國學院雑誌』九六号、一九九五年一〇月) 。 六『 絵 解 き 研 究 』 第 九 号、 一 九 九 一 年 六 月。 同 氏 は こ の ほ か、 「 お 竹 大 日 の 絵 解 き 」( 戸 川 安 章『 出 羽 修 験 の 修 行 と 生
四〇 活』佼成出版社、一九九三年)など、一連の論考を発表されている。 七『芸文稿』第二号、二〇〇九年四月。 八「お竹関連資料」ページの URL を左記に掲げる。 http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/otake/data/data0 5/index.html 九 所 蔵 者 整 理 番 号 は「 戌 10-08089 」( 国 文 研 マ イ ク ロ 資 料、 紙 焼 き 番 号 O1516 )。 所 蔵 者 整 理 書 名 と し て は、 「 法 隆 寺 霊 宝 目 録 外 十 二 記 録 合 本 」 の 内。 共 紙 表 紙、 外 題 打 付、 「〈 応 現 〉 於 竹 大 日 如 来 略 縁 起 」。 墨 付 三 丁。 奥 付 刊 記「 維 時 安永六丁酉年七月/出羽国羽黒山麓 別当 玄良坊」 。 一 〇元 文 五 年 版 略 縁 起 の 引 用 は、 前 掲 の 戸 川 氏 論 考・ 影 印 お よ び 日 文 研 ホ ー ム ペ ー ジ 掲 載 画 像・ 影 印 に 拠 る。 以 下 順 に、 安 永 六 年 版 は 戸 川 氏 論 考 お よ び 彰 考 館 所 蔵 資 料( 国 文 研 マ イ ク ロ )、 嘉 永 二 年 版「 於 竹 大 日 霊 宝 之 語 」 に つ い て は戸川氏論考を参照した。文化十二年版については、戸川氏論考に掲載がなく、また別本の所在も確認できていない ため、現時点では未見。なお、これらの略縁起に加えて、正善院には嘉永二年成立の三巻本の絵巻「於竹大日如来縁 起絵巻」 (黒川春村・喜田武一・喜田武清ら筆)も所蔵されており、先掲戸川氏論考に一部の影印が掲げられるほか、 先掲の日文研ホームページにて全文の画像が公開されている。 一 一前掲論文、七頁。 一 二引用は彰考館所蔵本(国文研マイクロ)に拠り、適宜句読点および清濁を補った。戸川氏稿所載の翻刻も適宜参照 した。 一 三戸川氏前掲論文(八頁) 、注一前掲書『江戸の旅と流行仏』 (三六頁)による。なお、戸川氏論考では寄進者を「馬 込勘解由」とするが、 『江戸の旅と流行仏』所載の写真から「佐久間勘解由」と訂。
「お竹大日如来」伝承の生成 四一 一 四安 永 版 で は、 お 竹 の 実 説 に つ い て、 「 星 霜 い ま だ 遠 か ら ず 」 と い う 文 言 も あ り、 こ の 点 で も 齟 齬 を 来 し て い る。 な お、向井氏はお竹の実説を元禄期と推定されるが、後述する佐久間氏の退転が元禄期であることを考えると、実説を 元禄期とみるのは躊躇される。 一 五なお後年、松浦静山および山崎美成は、それぞれに「お竹大日」伝を考証する中で、この見顕しの条は書写山の性 空 上 人 と 神 崎 の 遊 女 の 逸 話 を 附 会 し た も の か と 指 摘 し て い る( 松 浦 静 山『 甲 子 夜 話 』 正 編 巻 五 十 九〔 文 政 七 年 成 〕、 山崎美成「於竹大日如来縁起の弁」 〔『兎園小説』所収、文政八年成〕 )。 一 六板橋区立郷土資料館、一九九二年。同図録では、牛島史彦氏 ・ 山本則之氏の論考のほか、 「お竹大日」と出羽三山 ・ 山伏信仰に関する図版を多数掲載、今日まで続く「お竹大日」信仰にも言及する。 一 七彰考館蔵本、二丁裏。戸川氏論考中の翻刻では一〇頁に掲載。 一 八前掲「羽黒山の語りもの」六頁。なお、戸川氏によれば「正善院」のよみは「しょうぜんにん」 。 一 九注一六牛島論考、注七(五六頁) 。 二 〇山本則之「お竹大日如来譚私考」 、前掲『江戸の旅と流行仏』所載。 二 一『古浄瑠璃正本集』第九巻(角川書店、 一九八一年所収)所収。同書の解題によれば、 正本は元禄中期刊か(底本、 東 京 都 立 中 央 図 書 館 蔵 )。 引 用 は 三 六 八 頁 に よ る。 本 作 に つ い て は、 筑 土 鈴 寛「 山 の 宗 教 と 山 の 文 芸 ―― 湯 殿 山 本 地 と熊野本地」 (『中世芸文の研究』有声堂出版、一九八二年)にも言及が備わる。 二 二前掲牛島論文、四二頁。 二 三湯 殿 山 の 信 仰、 特 に 即 身 仏 に つ い て は、 堀 一 郎「 湯 殿 山 系 の 即 身 仏 と そ の 背 景 」( 戸 川 安 章 編『 出 羽 三 山 と 東 北 修 験の研究』名著出版、一九七五年) 、戸川安章「湯殿山信仰と湯殿山系行人のミイラ」 (『出羽三山修験道の研究』 (佼
四二 成出版社、一九七三年)を参照した。 二 四管 園 著。 引 用 は『 新 燕 石 十 種 』 新 版( 中 央 公 論 社、 一 九 八 〇 年 ) に よ る( 底 本 は 国 立 国 会 図 書 館 蔵 著 者 自 筆 本 )。 著 者・ 管 園 の 事 績 は 不 明 だ が、 自 序 に「 十 軒 店 或 は 大 伝 馬 町 へ 通 勤 云 々」 と あ る こ と か ら、 『 新 燕 石 十 種 』 解 題 で は 商家の通い番頭かと推定する。 二 五注二四前掲書、二七頁。 二 六「 大 伝 馬 町 此 地 に う つ り し 時、 木 綿 太 物 店 凡 五 十 軒 余 有 り し と ぞ、 此 佐 久 間 が 宅 地 も、 一 円 に 長 家 を 建 て ゝ、 太 物 店凡十軒計りにて割り住みせしとぞ、是を佐久間長家といひし也」 (前掲書、二七頁) 。 二 七「馬込勘解由」 (『経済学研究』四号、東京商科大学、一九三五年一一月) 。のち『幸田成友著作集』第二巻(中央公 論社、一九七二年)所収。本稿での引用は後者による。 二 八以下、発表順に通し番号を付して一連の論考を挙げる。高山慶子①「江戸町名主の金融――大伝馬町名主馬込勘解 由を事例として」 (『史学』七七 – 二号、二〇〇八年一二月) 、②『大伝馬町名主の馬込勘解由』 (東京都江戸東京博物 館 調 査 報 告 書 第 二 一 集、 江 戸 東 京 博 物 館 発 行、 二 〇 〇 九 年 )、 ③「 江 戸 町 名 主 の 社 会 的 位 置 ―― 大 伝 馬 町 名 主 馬 込 家 を事例として」 (志村洋・吉田伸之編『近世の地域と中間権力』山川出版社、二〇一一年) 、④「江戸町名主馬込勘解 由の明治維新」 (『日本歴史』八〇二号、 二〇一五年三月) 。 なお、馬込家の文書は「大伝馬町名主馬込家文書」として東京都江戸東京博物館に所蔵され、同館図書室にてマイ クロフィルムが公開されるとともに、右掲の調査報告書に史料リストおよび一部史料の翻刻が掲載されている(ただ し二〇一七年一〇月より、同館は長期休館中。以下、本稿での馬込家文書の引用は高山氏論考による) 。 二 九幸田稿四六八頁、高山稿③一六二・一六五頁。
「お竹大日如来」伝承の生成 四三 三 〇高 山 稿 ③ 一 六 五 頁。 な お、 馬 込 氏 の 出 自 は 遠 州 と い う が、 江 戸 に 来 た 時 期 は 不 明。 幸 田 稿 に よ れ ば「 過 去 帳 に は、 天 正 十 八 年 に 家 康 に 従 っ て 江 戸 に 来 た と い ひ な が ら、 直 ぐ そ の 後 に 元 和 元 年 大 阪 か ら 凱 陣 の 家 康 を 遠 州 浜 松 に 迎 へ、 馬込姓を賜はり、属従して江戸に入り、御伝馬役を勤めたといひ、如何にも記事が混雑している」 (四六七頁) 。同じ く 幸 田 稿 に 引 か れ る「 代 々 判 鑑 」 に よ れ ば、 初 代・ 二 代 の 印 鑑・ 遺 物 等 は 焼 失 の 由、 「 従 御 入 国 伝 馬 役 名 主 役 共 々 無 懈怠相勤、喜與迄三代」 (幸田稿所引、四六七頁)とあり、正確に事績を辿り得るのは三代目喜與以降のようである。 三 一高山稿③一六五頁。江戸博整理史料名としては「 (佐久間家歴代当主覚書) 」(〇九〇〇五四九) 。 三 二「御伝馬役所は馬込氏の宅にて、表に冠木門有り、表玄関有り、此所にて御伝馬の御用を取扱ふ」 (前掲『そらをぼ え 』 二 九 頁 )。 居 宅 に 玄 関 を 設 け る こ と は 江 戸 の 名 主 の 特 権 で あ っ た が、 伝 馬 役 の 馬 込 家 は、 こ れ に 加 え て 冠 木 門 を 構えていたことになる( 『江戸東京学事典』 〔三省堂、一九八七年〕 「名主」項) 。 三 三高山稿③一六五頁。 三 四馬込家過去帳の記述による。高山稿③一六六頁。 三 五引用は雄山閣刊行の翻刻(第三版、一六七頁)による。なお、向井氏「お竹大日」稿でも佐久間家の断絶について 言及、正確な年時は不明ながら元禄期(一六八八 – 一七〇四)かと推定されていた。佐久間家・馬込家の菩提寺であ っ た 善 徳 寺 の 過 去 帳 に は、 佐 久 間 家 の 最 後 の 当 主 と し て 元 禄 十 一 年( 一 六 九 八 ) 没 の 佐 久 間 善 八 を 載 せ る と い う が、 善徳寺住持によれば、過去帳の元和元年~享和三年の記事は後人の補筆と推定されるため、この記事には些か信を置 き が た い( 斎 藤 岩 蔵「 於 竹 大 日 の 信 仰 」〔 『 む す び 』 一 九 六 五 年 一 月 〕。 た だ し 原 本 未 見、 先 掲『 江 戸 の 旅 と 流 行 仏 』 四九頁による) 。 三 六『撰要集』一ノ上起立ノ部( 『東京市史稿』産業篇第四十八、東京都、二〇〇七年) 。高山稿①・②にも翻刻掲載。