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1910年代台湾の米種改良事業と末永仁

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(1)       1910年代台湾の米種改良事業と末永仁                                    堤 和幸 はじめに  従来、植民地時代の台湾米に関する研究は、川野重任『台湾米穀経済論』 (有斐閣,1941. 年)に代表されるように、1920年代半ば以降のいわゆる蓬莱米栽培に関するものが悲心で あった。その裏返しとして、蓬莱米が出現するまでの時期は、在来種米栽培及びその改良 の時代として位置付けられ、どちらかというと研究の蓄積が乏しい時代であった。しかし、. 蓬莱米と対比することで、この時代の暗調改良事業を単なる改良失敗の時期と片づけるの ではなく、実態を明らかにして再検討していくことは、蓬莱米の出現、及びそれに伴う小 作制度、米穀取引、水利事業などの変化に関するζれまでの研究成果の再検討を行う上で の前段の作業としても意味のあるものであろう。.  “蓬莱米以前”を扱った台湾の米事情に関する研究は長く手薄であったが、大豆生田稔 氏・やまだあつし氏の一連の研究や、中嶋航一氏の経済学的視点からの分析作業など、最 近の研究は着実な成果を上げるとともに、新しい問題提起も行っている(1)。.  小稿では、蓬莱米の父と呼ばれた磯永吉に対し、蓬莱米の母という評価もなされている 末永仁(めぐむ)の足跡を辿ることを通して、強権的に在来種の改良が行われた時期とされ. る1910年代、断種改良事業が具体的にどのように実施され、それを担った農事試験機関や 農会がどのように対応したかなどについて、末永自らが書き残した記録や洋種改良に関す る当時の記録類・論文などをもとに、現時点で明らかに出来る範囲での検討を試みたいと 思うものである。. 1,米種改良方針決定の経緯  1910年代、即ち、明治末から大正にかけての総督府による中心的殖産政策の一つは三種 改良事業であった。日本国内では工業化の進展に伴って1890年代から食糧不足が表面化し てきた。その年の豊凶により需給状況は異なるが、国内での米不足が一層深刻化する契機 となったのが日露戦争である(2)。しかも戦争終結後も不況に見舞われ、日本本土の食糧不. 足は恒常化することになった。そこで白羽の矢が立ったのが台湾米である。もともと総督. 府は台湾米を輸出用に考えていた。明治34年(1901)ll月5日の総督児玉源太郎の訓示は よく知られている。即ち、.   現今本島に産する所米を以て第一となす。然れ共其の広闊なる水田は気候風土の天恵   を有するに拘らず水利未だ沿からざるが為収穫する処は其の地積の広きに似ず尚甚だ   少量にして品質又賎劣なり是れ米作を以て農家の天賦なりと為せるに似ず天恵を利す   るに拙なるものあるに帰するに非ずや。若し水利を通じ耕作を慎まば其の穫る所をし   て現今所産の三倍ならしめんこと敢へて難しとせず。是に於て細民共に三餐に飽き尚   剰す所を以て之を海外に輸出するに於ては蓋し貿易品の大宗たるを失はざるべし。. 一12一.

(2) この訓示がなされた1901年というのは台湾米の中心的仕向地は依然として対岸の中国大 陸で、日本内地向けが大陸向けを上回るのは1903年のことである(3)。従って、児玉の発 言当時は未だ台湾米は日本の食糧需給体制の一環に組み込まれるには至っていなかった。  ところが、日露戦争とその後の米不足は台湾米の行き先を変えてしまうことになった。 台湾側からすれば、内地市場で一定の競争力をもち、需要に応える米づくりが求められる ことになったのである。具体的には品質の向上、統一と内地で受け入れられる品種への改 良が急務となった。総督府は台湾米の商品価値を高めるための具体策の一つとして、本格 的に米種改良事業に乗り出すことになった(4)。その経緯については、総督府殖産局による 大正15年(1926)版『台湾の米』一四「産米施設の経過及現況」が簡潔に説明している。.   故に先づ此赤米を除去することが台湾米品質向上の第一歩なりとなし、明治三十九年   総督府補助の下に、初めて南部の下学?庁下にて事業を試み、更に翌年は鳳山野に於て.   も之を行ひ、何れも良好な成績を得たのである。次て明治四十三年に至り、総督府   に於ては単に赤米を除去するのみに止めず、更に四箇年を一期旧して品種限定及其の   限定品種に混労せる異品種の除去、即ち実際的の純度を昂進する為の現行四種改良:事:.   業の計画を定め、各庁農会に補助金を下付して之れを施行せしめ以て統一的改良に着   手したのである。. 特種改良事業は明治39年(1906)の旧臣?庁(後の高雄丁丁東)で始めたのを嗜矢とするこ とがわかる。しかも、実際に事業に取り組んだのは各庁の農会であった(5)。総督府は農会 に対し、台湾米の品種の限定、品質の向上を図らせたのである。.  ただ、この台湾在来種の改良という方針はすんなりと決定されたわけではなかった。磯 永吉は1964年に著した『蓬莱米談話』付録「蓬莱米裏話」の中で次のように述べている。.   明治44年台湾総督府農事試験場(後に督府中央研究所農業部・督府農業試験所)に   農作物育種係が新設されることになり、自分は主任として明治45年3,月31日同場に   赴任した。当時、台湾米を改良するのに日本種を以てするというのと、在来品種によ   るという二つの意見が対立し、前者は督府農事試験場主事・技師・藤根吉春氏が第一   期作の試験成績を以てこれを主張し、後者は督府農務課米麦改良主任技師・長崎常氏   よって主張されたが遂に府内関係官の大評定となり、論争の結果、後者採択と府論が   統一され、所謂下種改良事業は薙に発足し、後年在来米の黄金時代を現出した。. ここでは論争の結果、在来品種改良という方針で総督府内の意見が統一されたとある。た だ、肝心の双方の主張内容や論争の経過についてはよくわからない。内地市町をにらんで、. 台湾の米作りの舵を在来種改良と内地種導入のどちらに切るのかは、極めて重大な問題で あったはずである。その点について、末永が残した記録は磯の主張を補足、修正する内容 となっている。昭和13年(1938)発行の『台湾米作諌』四、「蓬莱米の由来」には、.   覧れは確か明治四十年頃の事でありますが、台湾米を改良するのに内地種を基礎とす   ると云ふことと在来米に基礎を置くと云ふことに就て試験機関を代表する農事試験場. 一13一.

(3)   技師の藤根吉春氏と行政技術を代表する米麦改良主任技師の長崎常氏との間に意見の   相違があったことであります。而して藤根氏は前者を長崎氏は後者を主張されていた   そうでありますが、総督府の方針は長官祝辰巳氏なども大体内地米の普及と肥料の増   施によって改良することを支持されていたそうであります。 とある。ここで注目すべきは、米種改良の論争が巻き起こったのは、磯の言う明治45年頃 ではなく、明治40年(1907)ごろのことだと述べていることである。この点については、『台. 湾の米』にもあるように、すでに明治43年には米種改良事業計画が実施に移されているこ とから考えて、末永の記録の方が正確である。磯の渡台は、在来種改良の方針が決定され、. 具体的に事業がスタートした後のことである。二点目としては、この論争は単なる農業技 術者間の品種改良方針をめぐる主張の違いではなく、民政長官であった祝辰巳をも含めた、. 文字通り総督府の農業政策の基本方針をめぐる意見対立であったということである。しか も、どうやらトップの祝をはじめ、一旦は流れが内地種導入に傾きかけたものを、長崎た ちが、いわば土壇場でひつくり返したということであったらしい(6)。.  では、在来種改良を強く主張した長崎常の論拠はどのようなものであったのだろうか。 「台湾米改良の理論(7)」という論説の中での長崎の説明は簡潔である。.   施肥改良に二途あり。一は世界の米産地より優良の種類を蒐集して試作し、最も本島.   の風土に適し産額品質共に良好なる種類を選出するものと、他は子種によりて優良種   を作出すること是なり。而して前者は事容易なるが如きも、一二年の比較によりて決   即し得べからざるものにして、少くも数十年の歳月を要す。故に本法は必要なりと錐   ども本島刻下の改良に応ずること能はざるのみならず尚本島永遠の良種となすには一   層永き年代を経ざれば固定せざるものなり。故に是の種の出ずるを待つ間、本島在来   種中より優良種を選びて年々淘汰を加ひ漸次優秀のものとなすを得策と信ず。 つまり、内地種など外から持ってきた品種を改良して台湾に根付かせるには、この先何十 年かかるかわからないから、当面は在来種の改良を着実に進めていく方が現実的であり、 現時点ではベストであるという主張である。すでに述べたように、内地市揚での台湾米の 競争力を高めるというのは緊急な課題であった。即ち、長崎の主張する低リスクの現実路 線が、最終的に支持を集めたということであった。蓬莱米の父と言われた磯も、台湾在来 種とその改良事業について、.   到底内地米の品質優良なるに比較することは出来ない。蓋、本島の稲作を改良し、こ   れが増収を計り、品質を改善することは目前の急務である(8)。 と述べた上で、.   自分の考へでは本島に於て差当たり最も適当と認むる改良法は、先づ之の異種分離法   を措て外になかろうと思ふ(9)。. と自説を展開している。つまりは、品質では内地種とは勝負にならないが、当面の課題を クリアするには在来種の改良でいくしかないということであった。今すぐ内地種米を導入. 一14一.

(4) して成果をあげるのは難しいという判断が長崎・磯の二人に共通していたことはおもしろ い。内地種の試作結果が思わしくなかったことが背景にあったものと思われる。.  このように、米種改良事業をめぐってはかなりの議論を尽くした末、すぐに内地種の導 入を図るのは困難であるとの判断から在来種改良の方針が決定、実施に移されることにな った。その明治43年(1910)、末永仁は嘉義庁農会の農場に赴任したのである。. 2.在来米改良事業と末永仁 (1)末永仁の渡台とその背景  ここで末永の略歴を紹介しておくことにしよう。末永仁は明治19年(1886)3,月15日に 福岡市に隣接する現在の福岡県大野城市大城(おおぎ)、旧筑紫郡大野村釜蓋で誕生した。. 父親の郁次は大野村第四代目の村長を務めている。地元の小学校から大分県の三重農学校 (現、大分県立三重農業高校)を卒業して福岡県の農務課に就職、農事試験場に勤務してい. た(10)。そして、技手として嘉義に渡ったのが明治43年、末永24歳のときである。技手 は高等官である技師とは異なる。いわゆる現場の農業技術者としての渡台であった。.  では、彼が郷里での農事試験場勤めをやめて台湾に赴くにはどのような事情があったの であろうか。まず考えられるのは、この明治43年こそ在来種の改良事業元年にあたる年で あったということである。中島誠治は門中における下種改良事業の開始当時を次のように 振り返っている。.   台中庁農きが菰に掲げたる題目の事業に着手したのは恰も明治四十三年の六月一日で   あった。此際之れが任に当たる技術員の大部分は内地甲種農学校の卒業生中より招致   し、以て各々一小部分の責に任ぜしめ尚警察官吏及保正(米作地)を農会嘱託とした   上で、第一著に本事業施行上の基礎たる基本調査をなして然る後窄二期作の採種より   着手した次第である(11)。. 台中にとどまらず、改良事業の実務を担う各庁農会は、計画の実施にあたって必要な農業 技術者を、急遽、日本内地ですでに実務に携わっている農業学校出の人材に求めたのであ った。末永自身も、 「殊に此の事業のために係員の数が全島で約三百人も増加したでしょ う。(12)」と書き記している。蓬莱米の母とも呼ばれた末永仁が、全島あげての在来米改 良事業の開始を契機に渡労していたというのはおもしろい事実である。. (2)改良事業の概略と研究上の課題.  1910年半の米種改良事業のあらましについては、すでに65年前に川野重任氏によって 整理、紹介がなされている。産米の改良や米町の限定について、最近の研究成果を含め、 共通する主な点としては、先に示した『台湾の米』の中にもあるように、まず色づきの米. =いわゆる赤米の除去が目的の一つであったということ。次に、900種とも一千種ともい われた在来品種の淘汰、限定に重点が置かれたこと。“内地市場で受け入れられるもの”. 一15一.

(5) という方針の下で、必然的に形状も内地種に近い粒形のものが選ばれたということ(13)。. 加えて、事業の実施にあたっては強制力を持たせるために警察権力まで導入されたこと、 等々である(14>。.  まず、こうした事業がその目的を達成したのかどうかについてであるが、これを評価す ることはなかなか難しい。少なくとも成功や失敗という基準で評価がなされるべきもので はなかろう。在来種改良を主張した中心人物とされる長崎常においても、在来種の改良・ 淘汰は日本内地種を含む外来種の改良にめどが立つまでの次善の策と考えていたことはす でに紹介したとおりである。いわば事業そのものに限界性があることは当初から予想され た上での実施であった。従って、内地市場で一定の評価を受けた蓬莱米を基準にして在来 種改良の不十分さを指摘することは意味を持たないであろう。しかし、末永は「一千種以. 上の品種も剛胆地響種を採用しました結果、不良品種が淘汰されて品質が向上しました (15)」と、その成果を認めている。また、台北庁における結果も「改良前二比較スル時ハ. 在来品種二百余種ナリシモノニ十三種ノ優良品種二淘汰セラレ赤米ノ混入歩合ハ勿論品質 ノ昂上収穫ノ増加亦争フヘカラサル事実ヲ示セリ(16)」というものであった。改良の結果、. 赤米の除去や品種の限定はかなりの程度進んだと見てよいであろう。.  次に、品種限定の過程で、経常的に内地種に近い円形の米が選ばれたということである が、この点について末永は興味深い記述をしている。即ち、.   在来種の品質は長形米に比較的良いものがあります。干れだのに昔は北部地方に産す   る短早撃螺と云ふ円形の余り品質の良くない米が内地に歓迎を受けてゐましたが之は   恐らく内地米の混合用に使ふのに粒形が円いことが都合がよかったからでありましょ   う。併し段々事情が判るに連れ甲形米の代表である烏尖米が幅をきかすようになりま   した。就中今の台中州豊原(昔の萌藍?)付近に出来た米はコロトン米と云って内地   人の食料としては欠くべからざるものとなってゐました。・・…  どこで採れたも   のでもコロトン米と云ふように優良米の代名詞となりました(17)。. 1910年代の内地向け在来米改良は、最初の頃こそ形状にこだわったものの、次第に品質に 重点を置くものに変わっていったことが窺える。さらに台湾銀行調査課が大正9年置1920) 7月に刊行した『台湾ノ米』第四章「米作ノ改良」は、.   本島米二対スル改良ノ最モ急ヲ要スルモノヲ推断スレハ、食味ノ改良ヲ以テ第一二推   ス可ク、形状ノ如キハサシテ重要ナル問題ト認ムルヲ得サルナリ。蓋シ内地二於テ長   囲米ノー般二嫌厭セラルルハ食味ノ劣等ナル外国米力総テ長粉米タルノ点ヨリ馴致セ   ラレタルノ結果ナルヘシト錐食味ニシテ優良ナラノ\形状二対スル嫌厭ノ観念ノ如キ   ハ自然二薄弱トナルニ相違ナカルヘシ。. と断言している。これは、改良事業が円形種に固執して進められてきた事実と、それが行 き詰まりを見せていたことの両方を示唆していると考えるべきであろう。つまり、少なく ともこの事業が、内地輝線導入に至るまで一貫して形状的に内地種に近似した円形種のみ. 一16一.

(6) を改良・限定の対象としていたと断定するのは早計ではないかと思われる。改良事業が進 行する中でどのような変化が見られたのか、今後の具体的な検討が望まれる(18)。.  さらには、在来種改良事業の実施に当たって警察権力が導入されたという点についても、. 直ちに強権的な有無を言わさぬやり方だったと見なして良いのかどうか。警察機関を動員 したというのは、確かに総督府の政策を一斉に末端にまで徹底させようとする具体的手毅 であり、上からの強制という面は否定できないが、植民地時期の台湾では派出所というの は治安機関であると同時に地方行政の末端機関としての側面を有しており、警察という言 葉だけが強調されるのは些か疑問である。むしろ、こうした政策の受け入れを迫られた台 湾側農民が内容と方法に対してどのような思いを抱いたのかこそ、検証されるべきであろ う。課題とすべき点が多い。.  (3)嘉義時代の末永仁と内地米改良.  話を末永仁の活動に戻そう。明治43年(1910)嘉義農会の農場に職を得た末永であった が、そこでも甲種改良事業がスタートして、会の中心的事業になっていた。改良事業や各 農家への種籾の配給、栽培指導などは各農会が担っていた。そこには総督府から補助金が 交付されており、各庁の農会は農場を所有してその地方に適する農作物の試作や改良を行 っていた(19)。従って農事試験場や農会などの試験機関に対する総督府や地方官庁の発言. 力は絶大で、米種改良事業が始まると同時に、全島の農会が一斉に在来米の改良に向け走 り出したのであった。そのときの状況を末永は次のように記している。.   斯様ないきさつの下に在来種の改良が継続されてるますために内地種は寧ろ疎んぜら.   れまして地方の試験機関で試作することにも「若し内地種の成績が良好であっても現   行米種改良事業の終了するまでは決して奨励してはならぬ」と言ふ条件の下に栽培試   験を行った位で内地種米の一般栽培に対しては自重を勧める以外に方法のっけやうが   なかったのであります(20)。. つまり、内地種については試験機関・研究機関での試作は認められていたものの、例え試 験成績が良くとも外部への奨励は許されないという但し書きが付いていたのである。.  末永が渡下した年に門下庁農会が設立され、この時期、全島で11農会が存在していた ので、在来米改良事業のスタートに合わせて三百人程度を新たに採用したとすると、規模. の違いはあるものの各農会は平均30名近くの新しい農業技術者を抱えることになったと 考えられる。こうした状況の中で、農会は技術者の技能レベルの向上を図った上で、確実 に在来種改良の事業成績をあげていくことが求められていた。そのために、末永が赴任し た寸義の農会では「技術員製作品展覧会」なる一種の技能コンクールが実施されることに なった。嘉義庁農会『会報』第三号付録(大正2年10月) 「第一回技術区営作品展覧会記 事」によると、この会は大正元年(1912)12月22日に寸義農場で開かれている。記事は開 催の目的を次のように伝えている。. 一17一.

(7)   抑々農会事業ノ成績ハ之ヲ担任スル技術員ノ技量二:負フ勢多シ・・…  今回開催セ.   シ技術員製作品展覧会モ亦此目的ヲ達センが為メノ手段二外ナラズ 就中米種改良事   業二従事スル技術員ヲシテ技能ノ検薮、向上ヲ為サシメント欲スルニアリ蓋シ其技術   員ハ該事業着手ト共二新二採用セルモノ多ク、而モ内地新来者多数ヲ占メ殊二採用ト   四二直二各支庁区二駐在ヲ命ジ爾来其担当区域内二勤務セシメツツアルが故二平甲唄   潮ノ刺戟ヲ受クルコト比較的少ナク為二無意識ノ裡二時勢二遠ザカルノ恨ナシトセズ.   然ルニ・・… 而シテ其本務トスル米種改良事業タルや径路極メテ単純ナルが如シ   ト錐モ、凡其作業ヲ遺憾勿カラシメントスル手段、方法二至リテハ所謂机上ノ理論ヲ   以テ律スベキモノ日割ラズ、・・…  之レ各地駐在技術員二於テ既得ノ経験及研究   ノ結果ヲー堂二鬼集シ彼此駁査攻究ノ資二供シ其本務ノ完壁ヲ期シー面各員ノ技能ヲ   向上セシメ又形而上ノ訓練ヲ要スル所以ニシテ本会開催ノ目的モ亦主トシテ肝腫外ナ   ラズ。. まさに米種改良事業のために新規採用した農業技術者のレベルを如何に向上させるかが事. 業成功のカギを握っていると見られていたのであった。第一回の出品総数720点、その. うちの600点ほどが標本などであるが、論文や調査書の類も42点出品されており、更 にその中の25点が米種改良事業成績に関するものであったという。総督府の技師であっ た小川運平をはじめ8名が審査にあたった。その結果、一等賞に輝いたのが末永仁の「庁 下米作改良二対スル卑見」 (『会報』第3号付録)という論文であった。その内容を見て みよう。彼は第三章「米作改良の方法」の中で、改良には根本的手段と応急的手段があり、. その二つを並行して行わなければならないと指摘している。赤米の除去や品種の統一など は根本的改良に属し、重要な問題だとしながらも、   唯其目的を達し得るや否やの疑問を称ふるもの往々にして之あり。吾人又其一人なり。. と述べて、その達成を疑問視している。では、どのような点に留意すればよいか。末永は 何よりも農民への啓発が重要としながら、第二次米種改良事業については、.   其の優良品種普及に就ては吾人は寧ろ突飛なるが如きも、内地種普及を以て最上の方   法と思惟す。内地種が台湾種に比して卓越せるは奮に品質佳良なるのみならず、墜下   に栽培すれば実に左記の得点あり。.   (イ)収量多きこと   (ロ)籾の門門し難きこと   総督府農事試験場に於ては年々内地種を栽培して良成績を収めり、然れ共果して庁下   に適当せるや否や疑を存ぜざる能はざりしも、本年度嘉義農場に於て試作の結果は明   に適当せることを確かめ得たり。. と断言している。嘉義農場での試作結果を見ても内地米が適していることは確認できたと 言い切っている。その一方で、.   零下に初めて栽培せられたるものなれば未だよく気候に適合し居らざるべく、前町年. 一18一.

(8)   継続栽培せば一層の好成績を示すに至るべし。 とも述べている。つまり、内地種についてはこれまで嘉義での栽培実績がなかったことを 認めつつ、かなり思い切った結論を導き出しているということである。ただ、大量の肥料 が必要なこと、及び従来の作業習慣に馴染まない面があることなど、内地種の欠点につい ても明らかにしており、 「漫然の普及は不結果の基なり」と慎重な姿勢も見せている。そ の上で、 「内地種栽培は絶対に有望なり」 「曹に一回の試験にて確かめ得る第一期作丈に. ても適当なるを認め得ば普及せざるは甚だ愚也」と内地種栽培の有効性を力説している。. 末永は、第四章では、小作関係の改善にも言及しており、農政全般を視野に入れた充実し た内容であったといえる。審査員の評価も、.   字句二拘泥シ了解二丁マシムルモノアリト錐モ三下ノ実状二三ミ実際的見地ヨリ将来   ノ改良方法ヲ説キタルハ其要ヲ得タリト云フベシ。. というものであった(21)。これだけ高い評価を受けた論文を、末永は赴任して2年ほどの. 間にまとめたことになる。26,7歳のころの作で、自説を力強く主張する歯切れのよさか らは、若さと実直さが伝わってくる。在来米改良事業が始まったばかりの段階で、しかも 内地種改良には厳しい枠がはめられていたというにもかかわらず、若い新人技術者の末永 がその導入を力説していること、農会としてこうした内容の公表を認め、さらには総督府 の技師を含めた審査員が一等賞としてこの論文を表彰している事など大変興味深い。.  すでに紹介したように、この末永の論文が嘉義農会で一等賞をとったのと同じ大正元年 12月に磯永吉も稲の品種改良についての論文を発表している(22)。内地種の優秀さは認め. ながらも、“拙速は避けるべし”“在来種改良は当面やむを得ぬ選択である”という磯に 対し、いわばノンキャリアの末永は、内地種が優れていることは明白であるから、これを やらないのはバカげていると主張する。この同じ年齢の二人が、台中では二人三脚で内地. 種の改良に取り組むことになるのである。因みに、大正3年(1914)2月8日には、第二回 の技術員製作品展覧会が開かれており、 「下下農場経営ノ実際」と題する論文と、 「嘉義. 庁農業政策二対スル卑見」という、いずれも末永仁の論文二本が一等賞に選ばれている。 しかも、末永は前者の中で再び「内地種ハ下下二三シ将来普及スベキモノト認ム(23)」と. 記しており、内地種導入の姿勢が一貫していたことがわかる。いずれにしても、末永は渡. 台後3年余り経ったころには、嘉義農会でも中心的な存在として高い評価を受けていたこ とが窺える。そして、この第2回の審査員を務めたのが総督府農事試験場に赴任していた 磯永吉であり、内地種導入を強く主張して長崎常らと対立したといわれる藤根吉春であっ た。この折、三種改良について末永と磯や藤根との意見交流があったことは十分考えられ るが、細かいことはわからない。.  それから丁度一年後の大正4年(1915)2月、磯永吉は台中の農事試験場に技師として転 任し、同じ年の末、末永も同試験場に移っている(24)。磯が末永の仕事ぶりを見込んで引. っぱった可能性は大きい。そして、その僅か三年後の大正7年(1918)には、末永は三十二. 19一.

(9) 歳の若さで同試験場の主任技師に昇進している。この台中において磯一末永のコンビで内 地種の改良が続けられ、後にその努力が実を結ぶことになったのは周知の通りである。妻 クニは台中時代の末永の仕事ぶりについて、新聞2紙に各々次のように語っている。.   朝は五時ごろから起き出して試験場へ出かけるので、四キロもの道を毎日、朝と昼の   二食:分のお弁当を持って通いました。夜は夜で七時か八時に帰って来ると朝刊を読み   ながら、忙しそうにご飯を食べてこんどは磯先生のお宅へ報告に行く(25)。.   とにかく米のために生まれてきたようなものです。一日も休まずロクロク落ち着いて   話したこともありません。田に入りびたりだからクツもほとんどはかないのです(26)   いずれも、技術者としての末永の仕事ぶりに加え彼の人柄までしのばれる内容である。.  ただ、ここで付言しておきたいのは、当然のことながら内地種改良にかかわっていたの は末永や磯だけではない、というよりむしろ組織的に、しかも全島的に取り組まれていた のではないかと考えられることである。台中州立農事試験場編『台中之蓬莱米』 (昭和2 年2月)一、蓬莱種栽培ノ沿:革ト原因 には、.   総督府農事試験場テハ明治四十五年各庁農会二依嘱シテ(蓬莱米の)試作ヲ行ハシメ タカ、成績順調テナクー般二普及スルニ至ラナカッタ。 とある。末永自身も「台中州下に於ける内地糟米栽培に就て(27)」という論文の中で、.   甲種(中村種)が同門(総督府農事試験場)によりて発表せられし際、即ち大正二、   三年頃他州と同様に当州下でも、篤農家を選んで試作を行なったことがあるか、遂に   認めらるるに到らなかった。. と述べている。在来種改良を目的とした第一次下種改良事業が開始されて間もなくから、 総督府農事試験場が音頭を取って各地農会に内地種の試験栽培を行わせていたり、その二、. 三年後に同試験揚から、後に蓬莱米の先駆けとして有名となる中村種の存在が公表される と、各地の農会ではすぐに試作が行われている事実、そうしたことに長崎常や磯永吉・末 永仁の学習改良事業に対する基本姿勢を考え合わせると、一つの仮説が成り立つ。それは、. まず明治40年の米種改良方針決定に至る意見対立を、大評定・大論争ということばで表現 したことで、やや事実と異なるイメージがっくられてしまったのではないかということで ある。結果的に在来種改良派が勝利を収めたかのような印象を受けるが、これは勝負がつ いたというより、双方の意見のすり合わせが行われ、当面の公の方針が合意されたという のが事実に近いのではないだろうか。従って、農民に対しては内地種の奨励を行わない旨 を確認する一方、試験機関においてはその導入に向けての研究を継続して進めることにな ったと考えることができよう。つまり、1910年代、総督府農事試験場をはじめ、各地の農 事試験機関では内地借米の試作・改良が継続され、成果は公表されるとともに、相互に情 報交換が行われて、1920年代の蓬莱米全盛時代を迎えるのである(28)。. 一20一.

(10) おわりに.  総督府の方針として在来種改良の方向性が確認され、各庁の農会が動き出す中にあって、 内地種の改良については、厳しい条件がっけられていた。そうした状況下においても、末 永仁に代表されるように、内地種改良の試みは早い段階から開始されており、しかも、中 には高い評価を得て公にされる研究成果も少なくなかった。末永個人について見た場合、 当面の在来種改良事業を受け入れながらも、一貫して内地種の有利性に注目して粘り強く 改良試験に取り組み、着実に成果をあげたことが1920年代後半における蓬莱米の普及につ ながったことは間違いない。.  在来種改良を簡単に失敗と片付けることはできない。その成果が徐々にあらわれてきた ことと、内地で勃発した米騒動によって、大正7年(1918)には内地相場の83パーセントま で値を上げた台湾米であったが、その後の作柄の持ち直しにより、内地における米需要が 落ち着いたことで、内地米との値開きが大きくなり、同11年(1922)には半値程度にまで下 落することになった(29)。しかも、台湾在来種は買い手である内地側業者から手厳しい批. 判を受ける。大正10年1L月8日付の、東京米穀貿易商組合長岩三三七二から台湾の移出 米商同業組合に宛てられた産米改良に対する照会には、次のようにある。.   此秋二当り当組合員ノ取扱二係ル御地産米ハ其後総督府ト共二三組合力種子乾燥調製   其他万般ノ改良二努メラレ指導ノ宜シキヲ得タル結果内地米二比シ其価格値鞘ノ如キ   漸次接近シ来タリ随テ需要数量モ逐次増加シツツアリテ組合員一同前途大二嘱望シツ   ツアル折柄近来ハ之二反シ内地米トノ値鞘拡大トナリ需要数量二二リテモ漸次減少ス.   ルノ状態二至レリ殊二台中州米二在リテハ以上ノ現象一層著シキヲ認ム甚タ遺憾ノ至   リニ不堪二二ハ畢寛生産者ノ産米改良二対スル念ノ薄ラキタルニ基因スルコトハ弊組   合員ノ等シク観察スル二二御座候是等ノ点二関シテハ貴組合二於テ始終御留意有之候   事トハ二二へ共以上ノ事実ヨリ鑑ミラレ今後一層産米改良ノ実ヲ挙ケラレン事ヲ三組   合決議ヲ以テ得貴意二二(30)。. もはや在来種の改良では内地市場における安定的な需要と価格を維持することは不可能な 状況に追い込まれたとき、表舞台に登場することになったのが内地二三であった。在来種 改良にしろ内地種米の改良にしろ、如何に台湾米を日本国内の米穀需給体制の中に組み込 んで安定供給を図るか、見方を変えれば、如何に内地市場に食い込み、商品価値を高めて いくかが台湾米にとって大きな課題であったが、結果的にある程度それが実現するのは蓬 莱米の出現まで待たなければならなかったということである。.  これまで1910年代は在来米改良の時代で、内地種については、在来種改良の陰でごく限 られた場所でのみ改良試験が実施されていたという見方がされてきたのではないか。しか し、小稿で検討したように、台北付近の高地でのみ試験栽培されていたと考えられていた 内地種米は、地域的にももっと広く、しかもオープンに改良試験が行われていたのであっ た。総督府としては在来種改良の方針を決定したが、それを支持する研究者・技術者もそ. 一21一.

(11) の方針に限界があることは当初から予想していた。従って、農民への奨励・普及は在来種 のみと決めたものの、その一方で、試験機関において同時進行的に内地種米改良の試験を 行うこと、及びその成果を公表することは、それが農民の作付け拡大などにつながらない 限りにおいては、かなり広く認められていたのではないかと考えられるのである。即ち、 いずれは内地種の導入を図らねば台湾米の将来はないという、在来米改良派・内地米導入 派、共通の認識を土台にしていながら、内地種の改良は在来種改良の陰におかれていたこ とで、逆に短期間での成果目標を課されたりすることなく、じっくりと、かっ現揚の裁量 が尊重される形で研究を進めることが出来たのではないかと思われる。台詞農事試験場の 場長を務めた林四郎も、この時期は蓬莱米出現の基礎が確立された時代であったと後に振 り返っている(31)。そして、その時代の一翼を担っていたのが末永仁であった。.  ただ、個々の技術者・研究者の目はともかく、政策として、組織としての目線は台湾島 内に向けられていたわけではなく、常に内地市場を見据えていたことを忘れてはならない であろう。. 註. (D大豆生田稔「食糧政策の展開と台湾米 一在来種改良政策の展開と対内地移出の推移 一」.(『東洋大学文学部紀要史学科篇』XVI、1991年〉、同『近代日本の食糧政策』 (ミ. ネルヴァ書房、1993年)、やまだあつし「1910年代台湾の地方農政 一米種改良事業 を中心として一」 (『名古屋市立大学人文社会学部研究紀要』13号、2002年11月)、同 「日本植民地時代台湾の米穀生産と流通 一インディカ早撃来米を中心として一」 (名古. 屋市立大学大学院人間文化研究科『人間文化研究』創刊号、2003年1月)、中嶋航一「米 の日本帝国内分業と外米依存の構造」 (『社会経済史学』64巻6号、1999年2月)参照。 (2)日本の米輸入量の変化と外米の関係については、拙稿「香港における南洋米輸入先の変. 化とその背景 一19世紀末∼20世紀初頭の西貢米・逞羅米の動向一」(『東洋寺外』3号、. 1997年3月)第H章参照。 (3)朝元照雄・訓声忠「植民地時代台湾の農業統計」第皿章表18参照。. (4)川野重任『台湾米穀経済財』第一章台湾米穀問題の意義には「専ら内地市場を目標に して大規模の商品生産を遂行する為の可能的条件を創出することに産米改良の中心眼目が 置かれた」とある。. (5)やまだあつしは、実際に地方庁の農政を担ったのは農会などの組織であり、農会が最も. 力を入れていたのが米種改良事業であったと指摘している。 (前掲2002年論文、第3章) (6)品種改良事業については、大豆生田前掲論文第二節に詳しい。 (7)『台湾農事報』76号(大正2年4,月)所収 (8)「稲の品種改良に就て」 (『台湾農事報』73号、大正元年12月) (9)註(7)に同じ。pp.5. 一22一.

(12) (10)『大野城市のいしぶみ』(2004年3,月)という市が発行した小冊子の末永仁の項には. 宮崎農林専門学校卒とある。現在の宮崎大学農学部の前身であるが、この校名で存在して. いたのは昭和19年から27年までの8年間であり、明治期に末永が在籍していたとは考え られない。尚、宮崎農専の前身は宮崎高等農林学校であるが、この学校が設置されたのは. 大正13年9月で、末永三十八歳のときである。従って、宮崎農専卒という末永の経歴は確 認できない。. (11)「台州庁農会の平野改良に就て」 (『台湾農事報』64号、明治45年3月) (12)末永仁『台湾米作諄』三、在来種の米種改良. (13)やまだあっし、前掲2003年論文H.四種改良事業2.在来米改良の特徴 参照。 (14)台湾総督府殖産局『台湾米ノ将来』第二報(大正三年十月)十一、台湾米品質調製及. 乾燥ノ将来には、「故二野悪質ナル品種ヲ淘汰シ品種ノ員数ヲ減少シ尚ホ之ヲ純潔ニセン カ為メ現行米種改良事業バー警察官吏派出所管轄区域ヲ以テー改良区域トシ該区域内二野 テ収量品質共二優良ナル三四品種二商議限定シ之ヲ純潔ニシ四箇年ヲ以テ改良区域内全般 二華殖配布ヲ完了スルノ計画二胡リ督府ハ順次各庁農会二補助金ヲ下付シテ営力実施二当 ラシメツツアリ」とある。 (15)註(ll)に同じ. (16)台北州農会『旧台北庁下二於ケル米種改良事業』(大正ll年3,月)第一編緒言 (17)註(11)に同じ. (18)大豆生田前掲論文、註(56)によると、台湾中部産米における優良長粒形種の台頭は一. 時的なもので、内地市場においては、 「優良」在来種といえども内地種との隔たりぽなお. 大きく、混合用の域を出なかったという。この点については、なお検討の必要があろう。 (19)山口貞「台湾の農会」 (『台湾農事報』100号、大正4年3月)四、農会の主なる事 業参照。. (20)末永仁『台湾米作諌』四、蓬莱米の由来。尚、磯永吉も『蓬莱米談話』の中で同様の. 話をしているが、内容及び表現があまりに末永の記述に似ており、末永の著作を参考にし たのではないかと思われる。. (21)この論文は大正2年4月の『台湾農事報』77号に転載されている。 (22)註(8)に同じ. (23>同義庁農会『会報』第4号付録「第二回技術芳野作品展覧会記事」所収。 (24)許國雄監修『台湾と日本・交流秘話』(展転社、1996年4,月)の末永仁の項には、「こ. の年(改元して大正元年)、末永は磯に才能を認められ、彼に誘われて日本米栽培に最適 と考える門中に二人で赴任した。」とあるが、この記述は正しくない。確かに、大正元年. 末には嘉義の農会で一等賞をとっているため、それが渡台間もない磯の目にとまった可能 性は十分ある。しかし、末永が門中に移ったのは大正4年末である。. (25)『フクニチ』昭和34年10月21日. 一23一.

(13) (26)『西日本新聞』昭和34年8月13日 (27)『台湾農事報』207号、大正13年2,月 (28)一例として、増田朋来は「台湾二於ケル内地種水稲」 (『台湾総督府農事試験場特別. 報告』第12号、大正4年3月)の“結論”の中で、「内地種水稲は生産的能力甚強大なる ものなれば、適当なる時期に於て耕種法い注意せば台湾に於ても台湾種に劣らざる成績を 挙げ得ることは従来の成績に徴して明なり。」と述べて、内地種の有望なることを主張し ている。尚、この論文は、『台湾農事報』103号(大正4年6,月)に転載されている。 (29)末永仁『台湾米作諌』四、蓬莱米の由来 (30)註(12)に同じ. (31)『台湾農業関係文献目録』 (南方農業協会、昭和44年3,月)解説「稲作」の項参照。. (小稿ゐ執筆に際し、福岡を中心に活動する台湾研究会会員の皆さん、特に事務局長の永 嶋直之氏と柴崎一郎氏には貴重な資料をご提供いただいた。記して感謝の意を表したい。). 一24一.

(14)

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