• 検索結果がありません。

呂赫若の音楽活動 : 台中師範・東宝声楽隊との関係を中心として

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "呂赫若の音楽活動 : 台中師範・東宝声楽隊との関係を中心として"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)日. 若. 航. の. 音. 楽. 活. 動. 一台中師範・ 東宝声楽隊との 関係を中心として 一 垂水. 干恵. ロキーワードコ. 台中師範学校、 東京音楽学校、 呂衆生書簡、 東宝声楽隊、. 台湾文化 協 追金. はじめに. 戦前の台湾を 代表する文学者であ る日柄 若 (1914 ∼ 1951) が、 声楽家として も 精力的な活動を. 究は文学研究の. 続けたことは、 周知の事実であ る。 しかし、 従来の呂 赫若 研. 側面に偏り、. 彼の音楽活動については 顧みられることが 少なか. ったように 居、 う 。. ところが 1996 年 12月に台北で開催された「日航右文学研計会」において、. の音楽活動に 焦点を当てた 二つの注目すべき 報告がなされた。 であ る 蘇友鵬 による回想「 談 芸術家 学教授藤井省姉に. よ. 呂の旧友. り、 もう一つは東京大. る論文発表「日航 若興 東宝国民 劇 」であ る。 特に藤井論文. は 武蔵 野音楽学校卒とされてきた. 宝塚劇場. 呂 楠君 的 面貌」であ. 一 つは. 呂. 目の年譜上の 誤りを正したこと、 さらに東京. ( 以下東宝と表記 ). 演劇部としかわからなかった 目の東宝での 活動を 、. 東宝声楽隊におけるものであ. ろう、 と特定した点において、 日航 若 研究の進歩. に大きく寄与したものと 言えよう 巾 。. 本稿は 、 呂の台中師範時代の 恩師 磯江 清の経歴、 および 呂と 同時期に東宝声 楽隊に所属した 呂衆生の書簡等の 新資料を加え、 さらに呂の音楽活動の 詳細を 解明しょうとするものであ. 1. る。. 、 台中師範学校における 音楽教育. 1939 年 4 月の日本留学以双に 、 呂が台湾において 音楽活動に従事した、 とい う記録は現在のところ 確認されていない。 1935 年. 1. 月の「牛車」の 発表以来、. 呂の活動は専ら 文学に限られていた。 しかし、 1941年 5 月発行の 一. 114. 一. F 台湾文学コ.

(2) 憩 ふ き、に 」には「昨春、 台北で 夜 おそく町を数. に 掲載された呂のエッセイ「. 音楽をやるか、. 人で歩いて ゐた 時に」 龍瑛 宗から「邑君あ なたはこれから. をやるか。 」と尋ねられたという 意志を持っていたことは、. 記述があ るので、 呂が音楽活動に 従事したい. かなり知られていたのかもしれない. (2)。. 呂は同エッセイで、 F 文学をやるか、 音楽をやるか」と 狭い考へ方だと 思ふ。 文学の勉強はすべての 勉強だ、文学だけ. その動機について いふ問題は心の. 文学. 「. 出来て 、 他の文化部門が 全然無知であ るとすればその 文学は文学として 成立し. ないと思ふ。 」と述べている。. つまりは音楽活動も 広い意味での 文学修行とと. らえ、 音楽と文学の 両立を図ろう、 ということであ ろう。. しかし、. 音楽があ る種の技術を 伴うものであ. 発して、 すぐに音楽と. るからには、. 文学の両立が 図れるものでもあ. 全くのゼロから 出. るまい。 ましてや、. 留学時代には 東宝声楽隊としてプロ 活動にも従事しているのであ. 日本. るから、 やは. りどこかで基礎的な 訓練を受けていた、 と考えるのが 自然であ る。 そして、 の 経歴から見て、. 呂. その可能性があ るのは台中師範学校時代をおいて 他にはない。. そもそも日本統治時代の 台湾における 西洋音楽の受容には、 主として二つの 経路が存在したと. 言える。 一つは教会音楽であ り、. 楽教育であ る。 初等教育において 音楽 等 教育担当の教師養成を. ( 昌歌 ) Ⅱ. もう一つは学校における 音. は必修科目であ り、 従って 、 初. 目的とした師範学校においても、. であ った。 師範学校における 音楽教育は時間こそ 各学年 であ. ったが、. 「普通の音楽科の. 範囲を超え、. 留学させた」というもので、 その結果、 」となり、. ∼ 2 時間という程度. ったという。 具体的には「. 学校側は良質の 教師を迎え、 学生の課覚芸術活動を 奨励. 揺 蕃地 ( 発祥地 ). 1. 学生の資質に 応じては師範学校が. 専門音楽教育への 橋渡し的役割を 果たす」こともあ. 持って日本へ. 音楽教育は必修科目. し、. 優秀者には公費を. 師範学校は音楽活動の「. 師範学校を拠点として 西洋音楽は発展していった. とされている (3)0. 事情は台中師範においても 肩. まで台中師範に. 同様であ ったろう。 日掛 928 年. 4. 月から 1934 年 3. 在籍している。 その間、 台中師範の音楽教育を 一. 115. 一. 担当したのは.

(3) 磯江清 という教師であ った。 台中師範には 磯 江を指揮者とする 管弦楽のバンド. があ り、 部員は磯 江 による課外指導を 受けていたという。 また、 ピアノや声楽 の レッスンを受けていた 者もおり、 演奏会も開かれたという。 呂は管弦楽団に. は所属していなかったようだが、 一ジ 写真が. F. ピアノは習っていたようでピアノ. 連弾の ステ. 日航 若 小説全集コ に 収録されている (4) 。. 2 、 磯江 清の経歴. 呂が 後年、 この 磯江を モデルとした 人物を小説に 登場させていることについ てはすでに刈 穂において論じているので 詳細は割愛するが、 その後 磯 江の経歴 に 関し判明した 点があ るので述べておく (5)0. 台中師範学校同窓会名簿によれば 1941 年までのことであ 1891 年 3. 月 2 日、. る. 磯注 が台中師範に 在職したのは 1928 年から. (6) 。 遺族、 および教え子の 話を総合すると、 磯圧 は. 宮崎県日南に 生れ、 東京音楽学校を 卒業後、 朝鮮等を経て 、. 乗合。 音楽指導の他、 作曲も手掛け、 山田耕作の弟子を 称していたと 言う。 ところが、 東京音楽学校の 後身であ る東京芸術大学に 磯 江の在籍を問い 合わ せたところ、 東京音楽学校および 東京芸術大学音楽学部の 同窓会組織であ 声 合の会員名簿に 磯江 清の名前は記載されておらず、. る. 同. 従って在籍していなかっ. たと思われる、 との返答を得た。 そこでさらに 東京芸術大学音楽学部音楽研究 センタ一の協力を 得て 、. 同. センタ一所有の 丁東京音楽学校一覧』を 閲覧させて. いただいたところ、 1910 年 6 月から 19m2 年 6 月まで甲種師範 科 に在籍していた. ことが確認できた。 しかし、 その後は在籍者名簿にも 卒業生名簿にも 彼の名前 の 記載はなく、 おそらく甲種師範 科 3 年ないしは 4 年の時に、 東京音楽学校を 中退したものと 考えられる。 同声全会員名簿に 記載のないのは、 そのためであ ろ う。. 卒業はともかく、 東京音楽学校で 学んだことは 確認できたわけだが、 では、 山田耕作の教えを 受けた、 という点についてはどうであ ろうか。 年譜によれば 山田は 1909 年 4 月、 東京音楽学校研究科 2 年進級と同時に、 東京音楽学校分数 場 補助. ( 唱歌担当 ). を勤めている (7)。 しかし、 翌年の 2 月 24 日に東京を立ち、 一. 116. 一.

(4) 1913 年までドイツに 留学しているので、 19m0 年 4 月東京音楽学校甲種師範神人 学 の 磯 江を教えた可能性は. 低い。 ただ、. 個人教授等の 可能性も否定できないの. で、 磯江 一山田の関係についてはさらなる 調査が必要であ ろう。. 一方、 た。. この調査の過程で 磯江と 長坂 好 子に関する大変興味深い 関係が判明し. 長坂托子は呂が 日本留学時代師事したとされている. 東京音楽学校卒業後、. 二度のイタリア. 声楽家であ る。 長坂は. 留学を経て、 1929年からは東京音楽学校. 教授を勤めている。 またその傍ら、 三浦環、. 幸田延子等と 新興音楽会を. 結成し、. 演奏会を開くなど、 当時の声楽界の 権 威であ ったと言ってよいだろう。. 藤井は前掲論文において、. 東京音楽学校には. 呂の在籍記録はなく、. また呂が. 所属した不入 川 圭佑声楽研究所の 教授陣にも長坂の 名はないことから、 おそら く呂は長坂に 個人的レッスンを 受けたものであ ろう、 と推論している。 後述す る. 巨泉生も筆者宛て 書簡で呂は「長坂 好 子について半年ばかり 声楽を勉強して. 居たと云って 居 ました」と証言しているので、 藤井 説 はまず間違いあ るまい。 しかし、 ここで問題となるのは、 呂は如何にして 長坂ほどの権 威にアクセス したか、 という点であ る。 長坂は 1936 年に台湾を訪れ 独唱会を開いているので、 おそらく呂はこの 時に面識を得たのだろう、. と藤井は推論しているが、 1936 年. 0 段階で呂がそれほど 明確な目的意識を 持っていたかどうかは 疑問であ る。. ま. た、 たとえその時に 面識を得たとしても、 そこには紹介者がいたと 考えたほう が. 自然ではないだろうか。 だとすれば、 どの時点で呂が 長坂と面識を 得たかはさておき、 その紹介者は. 磯江 をおいて他には 考えられない。 というのも、 磯江と 長坂は甲種師範 科 、 予 科の別にそあ れ共に 1910 年の入学であ り、 当時の東京音楽学校の 規模からして 二人が知り合いであ った可能性が 非常に大きいからであ. る. (8) 。. おそらく呂は 声楽修行を志した 段階で 磯 江の助言を仰ぎ、 磯江 が紹介の労を 取って呂を長坂に. 師事させたのではないだろうか。. 長坂の存在は 日本留学時代. の目の音楽活動を 知る上で大きな 手掛かりとなるだけに、 さらなる裏 付けが必 要であ るが、 現段階では以上のような 推論を提示しておく。. 一. 117. 一.

(5) 3 、 東宝声楽隊在籍の 真偽. 従来、. 「東京宝塚劇場演劇部入社」としか 知られていなかった 目の東宝での. 活動が、 藤井論文によって の 通りであ. 東宝声楽隊にまで 絞り込まれた 功績については 前述. る。 ただ藤井も言及しているように、. 料 が保存されておらず、 呂が確かに東宝声楽隊に. 東宝には当時の 人事関係の資. 在籍した、. という確証は 得ら. れるに至っていない。 一部残存している 東宝声楽隊の 参加した公演チラシ 等を 調べても、 隊員名を記載してあ るものは発見できなかった。 溝貝 表 等の掲載さ れている公演プロバラムでも. 発見されない 限り、 東宝側から. 呂 在籍の証拠を. 挙. げることは不可能であ ろう @9)0. そこで次の方法として、. 呂. とほぼ同時期に 東京に滞在した 台湾人留学生を 探. し、 呂に関する記憶を 尋ねる、 という万法を 試みたⅡ 0) 。 その結果、 アメリカ 在住の音楽家巨泉生民. ( 以下敬称略 ). から有力な情報を 得た。 少し長くなるが、. 貴重な資料であ るので 1997 年 10月 26 日付巨泉 生 書簡の東宝声楽隊に 関する部分 を 引用しておく。. …私が日航 若と 出会ったのは 昭和 W4年私が東洋音楽学校を 卒業して (3 日劇の舞踊隊の 歌手テストにパス. し、. マルコポ ー ロの映画が日本劇場で 封切. され、 ショーとして 伊藤 祐 次の作曲伊藤 祐 次の奥様の振り 付けで「マルコ 一口東洋の一夜」のミュージカルに. 私は中国の将軍として 出演し、. 都 新聞ではなくもう 一部の演劇新聞. 月). ( 名前忘れた ). ポ. ( 当時の. に一寸短いが 批評がまし. い 記事があ った (1i) 。 その後目 赫 若君が僕を訪ね、 始めて彼に会った。 当時. 彼は奥様と子供姉・ 四人つれて中野に 住んで 居 ました。 東京に来てから 約一 年足らず、 長坂托子について 半年ばかり声楽を 勉強して居たと 云って 居 まし た。 それから時々私を 訪ねて私の伴奏で 歌って 居 ました、 テナ一で音色は 奇 麗 だが惜しい事には 一寸音程が悪い 月 ?. ( 修業が足りない ). 翌年. ( 昭和. 15年 ) 6. に日劇で声楽隊を 設ける 為 隊員を募集すべく 広告が出たので 彼は私を訪. ね、 応募する事を 私に話しました。 彼は私より 一. 118. 一. 2 つ 年上、. マスクは 仲 々美男.

(6) 手話上手で私も 彼の応募を手伝った、 音程の事で一寸心配。 当時彼は東京で の生活で経済的一寸トラブルがあ. ると聞かされ 日劇声楽隊の 報酬は月 90 円。. 当時のサラリーとしては 悪くない様です。 私は去年の 4 月に出演して 英俊浅 ( 常盤 座 ). に移りこの度は 再度日劇に戻る 積り応募しました. ( 私の事は当時「東宝」と. 云ふ 東宝で出版した 演劇界の雑誌に 一寸書かれて. 草の笑ひの王国. 居る様にノンテストで 帰隊 しました。 彼は私の推薦で 一寸おくれて 入りました。 声楽隊は全部 43 名. ( 男女 ) 当. ?. 時 内田栄一が声楽隊の 免倒を見て合唱の 練習を担当して 居 ます。. 巨泉 生は 「日劇声楽隊」という 名称を使っているが、 これは彼が東宝声楽隊 が正式に発足する 以前、 日劇ダンシング・チームの 時代から所属していたため であ ろう。 日劇ダンシング・チームは 1940 年 9 月に東宝舞踊 隊 と改称、 その姉 妹団体としての 東宝声楽隊が 組織されたのは 翌年の この 日 粟生書簡の証言によって、. 1. 月であ る t.l2 」。. 日航 君 が東宝声楽隊に 所属していたことは. 確定的となった。 4 、 東宝声楽隊の 活動. さて、 年譜では 呂赫若は 1940 年 ¥2月から 1942 年 5 月まで東宝に 在籍していた ことになっている。 だから、 その間の目の 音楽活動を調べるには 東宝声楽隊の 足取りを追っていけば 良いはずであ る。 ところが、 東宝社史『東宝十年史上に は東宝舞踊 隊は ついては詳細な 公演 表 が掲載されているものの、 姉妹団体であ る 声楽隊についての. 独立した記述はない (W 。 つまり、 東宝舞踊 隊 公演のどの. 公演に声楽隊も 参加したかは 確定できないのであ る。 ただ、 雑誌. T 東宝』には. ,「東宝舞踊 隊 日誌」をはじめ、 ときおり東宝声楽隊に 関する記事が 掲載されて いるので、 それらを総合して 判断するならば、 呂の在籍当時の 東宝声楽隊は 主 に 以下の 6 種類の活動を 行っていたと 言ってよいだろう (@4)0. 1. 1941年 3 月の「雪国」などに 代表される東宝舞踊 隊 との共演 一. 119. 一.

(7) 2 、 1941 年 3 月の「エノケン 龍宮 へ行く」. はビ に代表される 東京宝塚劇場に. おける東宝国民劇への 出演 3 、 1941 年 2 月の「 歌ふ李香蘭 」などに代表される 歌謡ショウへの 出演 4 、 1941 年胡の第 11回. 目. 名曲オーケストラや 1941 年 6 月の歌. への出演などに 代表される声楽隊本来のコーラス. 活動. 5 、 東宝声楽隊独自の 研究会活動 6 、 1941 年 4 月の「アリランと 佐渡民謡」などに 代表される東京中央放送局. からの海外放送. 以下、 簡単に解説しておこ. つ。. そもそも声楽隊が 舞踊隊の姉妹団体として 組織されるに 至ったのは、 郷土 舞 踊や民族舞踊を 積極的に取り 入れていた東宝舞踊 隊が 、 それらの背景となる 民 謡を歌う合唱団を 必要としたためであ. (l5)。 その意味で 1 の東宝舞踊 隊 との. る. 共演は声楽隊の 出発点であ ったと言えよう。 東宝舞踊 隊 および 2 の東宝国民 劇 、 3 の 李 香 苗 公演の持つ意味については 別 稿 において論じたので 本稿では触れないが、 1940 年に始まる新体制の 文化政策 への東宝サイドの 積極的な取組を 示す好例として、 これらの公演の 持っ意味は 大きい d6) 。 さらに、 呂が端役ながら 新体制下の最前線の 文化活動に参加して. いたことは、. 戦後の台湾文化 協進 会における文化活動との 関連を考える 上で見. 逃すことのできないものであ る。 特に自称 君 のみならず台湾文化 協進 合音楽部 門主任委員を 務めた呂衆生もまた 東宝声楽隊に 属していただけに、 彼らの「東. 宝経験」が如何に 台湾へ引き継がれていったか、. 改めて論じる 必要があ るだ る. さて、 上記の 1 、 2 、 3 の公演が比較的演劇的要素が 強いのに対し、. 6 はプロの声楽家集団としての. 4 、 5 、. 性格を全面に 打ち出した音楽活動であ ると言え. よう。 特に 194V 年 6 月の歌劇「夜明け」への 出演は注目に 値する。 歌劇「夜明け」は 山田耕作が紀元二千六百年奉祝歌劇として あ. る。 初演は 1940 年 11月 28 日から 12月 一. 1. 作曲したもので. 日の四日間、 東京宝塚劇場で 行われた。. 120. 一.

(8) この時は東宝声楽隊はまだ. 結成されておらず、. フォニック合唱団が 合唱を担当した。 6. ヴォーカルフォア 合唱団とュ一. 月 26 日から. 28 日の再演に際しては、 ュ. 一 フォニック・コーラスと 東宝声楽隊がそれに 代わった (l7ゎ. 参加し、 山田耕作の面識を 得、 名乗りを挙げた、 という図は呂 赫若研. 呂赫君 が東宝声楽隊の 一員として「夜明け」に. ことによっては 磯江 清を挟んで孫弟子の 究 者をひどく興奮させるものであ. るが、 実は残俳なことに、. に出演していない (l8)。 前述の呂長生書簡によれ ば 、. 日本人は「夜明け」. 「夜明け」への 出演に関. しては声楽隊内部で 選考があ り、 日航 君 はそれに漏れたとのことであ. しかし、 たとえ「夜明け」への 出演がかなれなかったとしても、 もあ. り、. る。. 磯 江の関係. 呂にとって山田は 無視できない 存在であ ったはずであ る。 山田が提唱. していた「国民音楽」という 問題を 、 呂は如何に理解していたのだろうか。. 前. 述の台湾文化 協 退会の音楽活動は、 1940 年代の日本の 音楽活動をモデルとして い. る節があ るだけに、 興味深い点であ る。 この点に関しては 今後さらに巨泉 生. と. 連絡を取り合うことで、. より詳しい事情が 明らかになってくることであ ろう。. 「東宝経験」と 併せ 、 稿を改めて論じたい。. おわりに. 以上、. 異称若の音楽活動を. きた。 依然不明な点は 多く、. 台中師範、 東宝声楽隊との 今後いっそ. う. 関係を中心に 考察して. の資料の発掘、 および関係者からの. 聞き取り調査が 必要とされることは 言うまでもない。 しかし、 呂は東宝を通して 1940 年代の日本の 演劇・音楽活動と 深く関係して いただけに、 彼の軌跡を迫. ぅ. ことが当時の 文化活動の実態解明に 繋がる可能性. もあ る。 そこが日航 若 という作家の 持っおもしろさでもあ. るわけだが、 特に戦. 後の台湾文化 協 退会における 文化活動との 関連は、 日本・台湾のポスト・コロ 二 アリズムを考察する 上での重要な 切り口となるであ ろう。 今後は呂の帰国後の 活動を中心に、 上記の問題を 考察していく 予定であ る。. 一. 121. 一.

(9) 註. 1. 年譜に関しては F. 7 台湾作家全集. 日航 若 小説全集 J. 日航若菜』. (聯合文学、. ( 前衛出版社、. 1995年 ) 、 施議琳他. 十県文学発展更田野調査報告書』. 1991年 ) 、. 「日柄 若 小伝」. ( 台中県立文化中心、. ぽ合. 1993 年 ) を参考と. した。 以下、 特に断りのない 限り、 年譜に関する 記述は上記の 文献を参考 としたものであ る。. Z.. F 台湾文学』創刊号、. 3. 陳 惇氏 4,. F. 丁. 1941年 5 月、 109頁. 台中幕音楽発展 史 山台中県立文化中心、 1989 年、 46 頁. 台湾作家全集. を 掲載している。. 日航若葉』. 『日航 若 小説全集』. lL 註 l) ともにこの写真. なお台中師範出身者の 証言については 拙稿「 呂赫 右下台. 湾の女佳山をめぐる. 諸問題」. F 横浜国立大学留学生センタ. 一紀要. 団. 4 号、. 1997 年 3 月、 を参照のこと。 5. 垂水千恵「 6.. 呂 林君『台湾の. 女性. 山. をめぐる諸問題」. 『台中師範学校同窓会名簿山台中師範学校同窓会、 に関する問い 合わせにはご 遺族. ( 池井幹子. (註. 4). 1984 年。 なお 磯江清氏. 様 、 磯 江浩様 ) 、 台中師範学校. 関係者の方々の 協力を い ただいた。. 7.. 『山田耕作年譜』日本近代音楽館、 1996 年. 8. 長坂の在籍についても. ァ. 東京音楽学校一覧. コ. 1910年度版、 を参照した。. お 、 調査の過程で 音楽研究センタ 一の橋本久美子氏から、. 9. な. ご 助言をいただ. いた。. え公演プロバラムが 残存していたとしても、 東宝声楽隊の 個々の隊員. た. と. 名. が掲載されている 可能性は低い。 というのも、 東宝声楽隊およびその 母. 体であ る日劇ダンシングチームを 作った 秦 畳音には、 「集団そのものが ス タ. 一であ る」という考えがあ ったからであ る。. 秦は. F 劇場二十年. Jl. ( 朝日新聞社、. 1955 年 ) の中で日劇ダンシングチーム. は ニューヨークの「ラジオ・シティ・ミュージックホール」のステージ・. ショウを手本として 作ったものだと 回想すると同時に、 そのステージ・ シ ョウ について次のように 述べている。 一- 122. 一一.

(10) このミュージックホールのステージ・ショウこそ、 が生んだ、. 全く新しい芸術であ る。. このロケットには、. いない。 個人のスタブは 現れないが、 の 精神は、. 第一次大戦後に 米国 一人のスタブも. 二十余年後まで、 一貫して守られているから、. ホールのプロバラムには、 っていない。. ロケット組もバレ. ( n 劇場二十年. コ. る。. 集団そのものがスタブであ. こ. ミュージック. 一組も、 一人の名双すら. 載. 、 58頁 ). おそらく秦はこうした「ラジオ・シティ・ミュージックホール」のステー 、、ジ 、ンョウ の精神に習い、 東宝声楽隊の 個々の隊員名をプロバラム 等に意 図 的に掲載しなかった. 10.. 可能性が高いのではないだろうか。. 呂泉 生民以外にも 周遊 覧 女史 ( 武蔵 野音楽学校卒 ). 、. 陳暖 玉女史. ( 東洋 昔. 楽 学校卒 ) に、 書簡、 インタビュ一等でご 協力いただいた。 1 l. これは 1939 年 3 コポー. 月. 21 日に封切られたゲーリー・クーパー 主演の映画「マル. ロの冒険」に 付随して行われた 日劇ステージ・ショウ「東洋の. 一夜」. のことを指すものと. 思われる。. 1939年 3. 都 新聞』朝刊 5 面の「演芸 欄 」には「東洋の 一夜」の. 月 22 日の『. 配役 表 が掲載されている。 と 誤記 ). り、. それに拠れば、. 作 ・演出は伊藤祐司. るが、. ( 呂は祐 次. 、 振り付けはテイコ・イトウであ る。 なお将軍は菅井となって. 呂の名はその. に関する短い 劇評 と. 呂の言う演劇新聞については 未見であ. 他の役にもない。 しかし、 28日の同 欄 には「東洋の 「お」の一字署名 ) があ. (. り、 そこには「歌手で. お」. 一夜. 新人目. 青ふ人が出てみたが、 彼の声の質はい、。 」という記載があ る。 菅井 と. ダブル・キャストだったのだろうか。 12. 大森八二「 歌ふ 東宝声楽隊」 れば、 男声歌手の があ り、. 1. ( 『東宝』. 86号、 1941年 3 月、 112頁 ). 次審査は 1940 年 12月 30 日、 翌年の. 1 月 7. に拠. 日に二次審査. 18名が合格。 その後 22 日に二次募集の 再審査を行い、 7 名が合格。. それに秋の臨時募集の 入社者 2 名. (. 佐藤雄二郎、. 津田雄姉. ). を加え、 合計. 27 名。 それに女声歌手 10名を加え、 37 名でスタートしたようであ る。 13.. f 東宝. 10年央. コ. 株式会社東京宝塚劇場、 1943年、 13 一 21頁. 14. 1940 年 10月 28 日 分 (. F 東宝』. 84 号、 1941年 1 月、 73 頁 ) から 1941年 9 一. 123. 一. 月. 17.

(11) 自分. ( n 東宝』. 93 号、 1941 年 10 月、 131 頁 ) までの「東宝舞踊 隊 日誌」お. よび「 歌ふ 東宝声楽隊」. (. (註. 12) 、. 「東宝舞踊隊の 歴史. (一 ). (二 ). 」. 93 号、 1941 年 10 月、 132 頁Ⅰ『東宝』 95 号、 1941 年 12 月、 109. ぽ東宝』. 頁 ) 等を参照した。 15. 註 14 に同じ。. 16. 垂水干 恵. 「. 17.. F 音楽新潮. 18.. 「. 呂と. 呂と. 呼ばれた. 男」. Ⅱ中国 2Ud. Jl 1940 年 12月、 95 頁 /1941 年. 呼ばれた. 明しておらず、. 男」. (註. 第 2 号、 1997 年 12 月 7 月、. ( 刊行予定 ). 100 頁. 16) 執筆の段階では 日航若の選考落ちの 事実が判. 「夜明け」の 舞台に立った、 という記載があ るが、 ここで. 訂正しておく。. 一-. 124. 一.

(12)

参照

関連したドキュメント

この数字は 2021 年末と比較すると約 40%の減少となっています。しかしひと月当たりの攻撃 件数を見てみると、 2022 年 1 月は 149 件であったのが 2022 年 3

それでは資料 2 ご覧いただきまして、1 の要旨でございます。前回皆様にお集まりいただ きました、昨年 11

ニホンジカはいつ活動しているのでしょう? 2014 〜 2015

夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額

あの汚いボロボロの建物で、雨漏りし て、風呂は薪で沸かして、雑魚寝で。雑

尼崎市にて、初舞台を踏まれました。1992年、大阪の国立文楽劇場にて真打ち昇進となり、ろ

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

私たちは、2014 年 9 月の総会で選出された役員として、この 1 年間精一杯務めてまいり