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日本に於ける政党政治の系譜 (その1) -政党の発生から政党内閣制の確立まで-

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日本に於げる政党政治の系譜(その1)

--一政党の発生から政党内閣制の確立まで-The Current of the political party in Japan.

\ 山  本  友  博 Tomohiro Yamamoto 序    言 我が国の政党の議会政党としての出発は帝国議会の開設が決定された明治14年に始まる。 その年に自由党が翌15年に立患改進党,立憲帝政党が結成されたのであった。 第1議会以降の変遷を概観すると,初期議会に臨む藩閥絶対主義政府は超然主義をとっていた が,政党はこれに抗して次第に発言権を強め,日清戦争前には藩閥勢力も政党を無視しては政権を 維持できないまでに至る。そこで日清戦争後には,絶卦主義勢力と政党との妥協提携の時代が始ま る。明治31年には僅か4カ月の生命しかもつことができなかったのであるが,政党内閣である憲 政覚の大隈内閣が現われている。その後,立憲政友会が明治33年に発足し,立憲同志会が大正2年 12月に結党式を挙げたが,政党が内閣を組織するには,尚は相当の歳月を必要としたのである。絶 対主義勢力と政党との妥協抗争の後に,原敬の政友会内閣が漸く成立したのである。所謂,政党内 閣制時代といわれるのは大正13年の加藤内閣から昭和7年の犬養内閣まで, 7内閣8カ年であ る。それ以降は斎藤内閣に始まる官僚内閣時代に移り,昭和15年の大政翼賛会成立とともに,政 党はFascismに解消してしまうのである。 終戦後,日本政治の民主化と共に,政党政治が復活強化されることとなったのであるが,吾々は 政党政治の系譜と経過を一瞥することにより,将来の政党政治の健全な育成のために貢献すること 大なるものがあると考えるのである。 嘗て英国のJames Bryceは「どんな国でも自由な大きな国で政党の存在しない国はない」と 述べたが,日本の民主政治確立の前提要件は健全なる政党政治の育成にあると確信するものであ る。 1 本    論 1.政 党 の 発 生 我国に於ける政党の発生は,明治14年の自由党の成立,翌15年3月の立憲改進党,立憲帝政党 の成立に発足すると考えられるが,更に遡って明治7年1月に於ける愛国公党の成立まで考察する のが適当と考えるのである。愛国公党は明治政府内に征韓論が起った時,大久保利通,木戸孝允等 の文治派に浄抗した武断派の主戦論が破れたので,之れに属していた西郷,副島,江藤,後藤等が 憤慨して下野した。その内,板垣,副島,江藤,後藤等は同志であった岡本健三郎,小善信夫,首

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44 日 本に於け る政党政治の系譜(その1) 沢迂郡,片岡健膏,林有造等と謀って,民選議院設立連動を目的とする幸福安全社という Clubを 設置してこれを発展させたものである。板垣等の考えは,国民運動を起こし,それを背景として政 権を獲得しよう,それには先づ民選議院を設立しけれなはならない,そのための連動を起こしたの であるがそのために組織されたのが愛国公党である。板垣等が着手したのは民選議院設立建白書の 提出であるがこれは明治7年1月18日のことである。これは我国,自由民権連動の先駆と見るこ とができる。       . その主旨は有司の専断を排し,通義権理を保有しようというのであるが,そのためには民選議院 の設立が必要であるというのである。而し愛国公党は永続しなかった。理由としてほ江藤新平の佐 賀の乱があったので政府の征韓論者に対する弾圧が加わり,且つ世間には民選議院設立連動を誤解 する者の多かったことが考えられる。従ってこの連動は永続せず明治8年2月には愛国社に合流す ることとなった。愛国社は土佐の立志社,阿波の自助社等が中心となり,それに愛国公党が合流し て出来たもので広く全国の自由民権翰者に呼びかけて成立したものである。明治8年2月22日に その同志数十名は大阪に会合し板垣を主領として-大政社を作ることとなっていた。而し大阪会議 一明治8年2月11日,大阪北浜の加賀伊棟に於て大久保,木戸,板垣,伊藤,井上等相会す-の結 果, 3月には木戸孝允,板垣退助が入閣して参議となったため,首領を失い,資力も舵かず,愛国 社は一時解散の止むなきに至った。 扱,胡治7, 8年頃には各地に政社が出来たことは注目に惰いする。封建時代を脱した人々には 政治に対する積極的な関心を生じたと考えることが出来るであろう。之れ等の政社の動向は何等か の形で結集される場合は一大政党連動となる筈のものであった。 民選議院設立要望の民権論は年と共に強くなり,明治8年に元老院,大審院が設けられ,漸次立 替政体へ進むとの詔書が発布されたこともかかる時勢の反映と見られるのである。 【自由党の成立】 本格的に全国的規模をもった政党が結威されたのは明治14、年の自由党の設 立である。この自由党こそ我国最初の政党であると見る人もあるが,然らば,その結成までの経緯 を簡単に省察すれば,発きに板垣が入閣したため,愛国社は一時頓坐したが, ′板垣は嫉て,明治8 年11月に他の閣僚と譲合わず桂冠して帰郷した。当時各地に於て民選議院設立要望の声は益々高 くなり,河野広中,杉田定一,頭山清等同志の者は,板垣を高知に訪問して愛国社再興の急務なる ことを説いた。その結果,明治11年4月には再興趣意書を発表,同年11月1日大阪大会にて再興 議決と着々連動は進められた。この愛国社再興に刺戟されて全国各地に民選議院設立を要望する団 体が結威されたのである。 明治12年3月27日,愛国社は大阪に第2回大会を開催,同年11月7日第3回大会を大阪に開 \ いたが,国会開設上願を起草することを議決すると共に,東京に愛国社支社を設けることも決定し たのである。明治13年3月15日,第4回大会を大阪にて開催,この時, 27社, 2府22県の代表 114名が参集した。議長は片岡健膏であったが会議の結果,愛国社を国会開設願望有志会と改称す ることになり,国会開設願望書起草委員には松沢求策,永田一二,願望書奉呈委員には,片岡健

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育,河野広中が選任された。斯くして,国会期成同盟規約ができ,その会名も国会期成同盟会と称 することとなった。他方,片岡健晋,河野広中の奉呈したる請願書即ち, 「国会を開設する允可を 上願する書」は太政官に奉呈しようとしたが拒絶され更に元老院に提出したが,これまた,単なる 建白書として受理されたので,所期の目的を達することができなかった。両代表は請願書奉呈を断 念し,その経緯を報告書にして全国の同志に訴えたのである。全国同志の憤激はその極に達し,中 には太政官や元老院に押しかける者もあり,物情騒然たるものがあった。従って政府は明治13年 4月8日,突如として集会条例を制定し,即日施行,取締の強化を断行した。そこで請願の経過報 告のため国会期成同盟会は同年11月10日大会を東京に開催することになったが,大会に於て会名 を大日本国会期成同志会と改め,本部を東京に置くことになった。 大会終了後,協議会を開いて自由党創立のことを相談し, 12月15日に自由党盟約書を作成する ことに成功したのせある。 I 明治14年の政変,嘗て大久保利通が明治11年5月14日遭難後,政府に於ては伊藤,大隈の2 人が実力に於いても手腕に於ても他の参議を圧していた。勿論,当時の政治機構として参議の上に 3人(三条,有栖川,岩倉)の大臣がいて最高の権力を振っていたのである。他方,明治13年に I は国会開設連動が激しさを加えてきたが,政府に於いては,これを抑えることの餌難を察知したの で怒法制定の議を進めると共に各参議の意見を徹した。処が大隈重信参議の意見が急進的であると の理由で,同年10月11日大隈下野に決定したのである。これが明治14年の政変であるが翌12日 明治23年を期して,国会を開設する旨の勅諭が発せられた。 教に於て国会開設の国是が決定されたので大日本国会期成同志会は10月17日に大懇親会を催 し,政党結成の協議会を行い,各役員も決定したので,前年末の提唱に基き,総理には板垣退助, 副稔理には中島信行を決定して明治14年10月30日正式に自由党が結威されることになった。そ の結成稔則と盟約を見れば今日からは幼稚なもので,政党の政策らしいものは見当らないが, 「自 由の拡充,権利保全,幸福増進,社会改良」を図らんとする根本意図が示されている。蛍に自由党 は発足した訳である。      ′ 【立憲改進党】 自由党の発足にて全国の立替連動は統一されたかに見えたが,同じく有司の専 制に反対し,民権の伸張を望む者の中に,自由党の急進性に満足せず,寧ろ,漸進的,知性的に立 替政治を確立せんとする考の人々があった。自由党の仏国主義に対して,英国主義の人々というの が夫れであり.,当時の言論界に活躍した,噂鳴社,東洋議政会,鴎渡会に属する人々であった。こ の他に大隈重信,河野敏鎌,前島密等が加わっていたが,明治15年3月14日に政党の組織が成 り.,立患改進党と命名された。稔理には大隈,副稔理には河野敏鎌が推されたのである。 【立憲帝政党】 自由,改進の二大政党ができ-民権伸張の声は高く,政府反対の政治連動が勢 力を得てきたので,政府に於ても放置しておく訳にはゆかない。自己擁護の方法として,福地源一 那,丸山作楽,水野寅次郎等を中心とした保守主義による政党を作成した。これは明治15年3月 18日のことである。元来,政府は政党を嫌っていたが,自己擁護の方法として立替帝政党を作った

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46 日 本に於け る 政党政治の 系譜(その1) が,この政党は政府の擁護もあり活発な連動をなしていたが,勿論,自由改進の二大政党に対抗し うる程ではなかったのである。 扱,自由党,改進党,立憲帝政党の三大政党ができたが,他方,政府の弾圧も厳重なりしため, 立憲帝政党が先づ,明治16年9月24日解散し,自由党が明治17年10月29日解党したので,改 進党もその影響を受けない筈はなかった。大隈,河野が兜づ脱党し,その他の幹部もそれに従う者 が少くなかった。乍而,解党に反骨した沼田守一,藤田茂菅,尾崎行雄,島田三郎その他の者は改 進党の残塁を守りつつ却ってその結束を堅めつつ,明治23年7月の第1回の稔選挙に臨むことと■ なったのである。 2.政党の発達 明治22年2月,大日本帝国憲法発布,翌23年7月1日,第1回の衆議院議員選拳が行われた。 稔選挙を前にして旧政党間に多少の連動は行われたが,第1回線選挙の結果は次の如くであった。 大同倶楽部 55名 立意改進党46 愛国公党 35 保守派 22 九州同志会 21官吏18 自治覚17 自由党17 無所属2 中立 67 枚,この中で在野党として大同倶楽部,立憲改進党,愛国公党,九州同志会,自由党の5派が結 束するなら議会の絶対.多数を占めうる形勢であった。之れを見て九州同志会がInitiativeを採り 5派の合同を提唱したが,改進党が感情的に合わない自由党及び自由党系の大同倶楽部と行を一に することを承諾しなかった。そこで改進党を除いた在野4派の合同を図ることになり,明治23年 9月15日に立憲自由党を結成することになった。始めは総理を置かない方針であったが給田正久, 河野広中,星亨等の進言に基いて明治24年3月20日の党大会に於て板垣退助を稔理に推すことと なり,単に自由党と呼ぶこととなった。 扱,明治21年4月30日成立した黒田内閣は殖産工業ではなく,条約改正を自己の課題として掲 げたのである。大隈外相の登場(井上の推薦による)により,唄冶㌶年の政動ま安政以来の不平 等条約の改正を望む声が高まったのである。条約改正に関連する問題として内地雑居のことが考え られたが,反対論者は国粋主義者のみではなかった。全国的に高まった反対論の中で22年10月18 日玄洋社貞士族,来島恒書が手相弾を大隈重信に投じた事件が起ったのである。明治22年12月総 理大臣になった山県は藩閥的色彩を濃くしたものと見られている。山県稔理大臣の地方長官-の訓 示の中に於て「×××行政権は至尊の大権なり,その執行に当るものは,宜ろしく各種政党の外に 立ち,引援附比の習を去り,専ら公正の方向をとり,以て職務の重きに対すべきなり」と述べてい るが,超然主義を示すものと考えられる。 明治23年9月に自由党が再建されたが,その主役は河野広中であり,旧愛国公党(林有逸,片 岡健膏)大同倶楽部(大江等,河野広中)再興自由党(大井憲太郎,中江篤介)九州同志会(稔田 正久)等が芝の弥生館で結成式を挙げたが,この派の者が130名であった。改進党は一度解散して 議員集会所に拠った者が41名であった。改進党の減少した理由は大隈やミ条約改正案を支持したこ とにあった。兎に角,自由主義を標傍する民党は300名の定点中171名にして,之れに対する政

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府の与党は熊本国権覚,玄洋社など士族反動の流れを汲む国民自由党15名,自治覚17名,大成会 79名であった。処で第1回の帝国議会が23年12月に召集されたが,故に予算案をめぐって政府と 民党は正面衝突をなしたのである。山県内閣の次は袷方内閣であるが,枚方が大命を受けた5日目 に湖南事件があったため組閣が遅れ6月になって漸く陣容を整えることとなった。 24年12月に始 まる第2議会に於ける民党連合は民力癌養,経費節減に努力したのであったが,第三議会(25年5 月)を前にして, 2月15日総選挙が行われた。品川内相は猛烈なる選挙干渉を加えた。勿論,民党 への選挙干渉であるが,この選挙に於て, 29名の死者と388名の負傷者を出し,血の雨を降らした と伝えられるが,大井憲太郎,片岡健膏,橡田正久等の大物は落選したが,議会内に於て民党は, 尚,優位を示しえたのであった。この内閣に於て選挙干渉上奏案が,僅か3票の差を以て否決され るや,民党は屈せず5月15日に内閣不信任案を提出した。今度は中立議員の賛成をえたので 112 票対154票で民党が勝った。之れに対し政府は7日間の停会で責任を回避しようとし, 7 日後には l 知らぬ顔で議事を進行させていったのである。 次の伊藤内閣は第4議会(25. ll. 25)に臨むことになったが,地方長官会議に於て超然主義的 な訓示を与えている。議会内の勢力干係を見るに野党側,自由党91,改進党38,同盟倶楽部20, 東洋自由党4,合計153名に潜し,与党側は議員倶楽部70,中央交渉部11,無所属21,合計102 名の他に中立4であった。 この議会に於ても予算案の審議がヤマであった。河野が政府弾劾上程案を説明しようとすると, 25日間停会の詔勅が下った。之れは政府の懐柔作戦である。而し2月7日に上奏案は103対181票 で可決された。この時,民党中の同盟派が休会の提案を行い,改進党が賛成したのでまた,休会と なった。処で2月10日遂に政府と議会との和衷協同を命ずる詔勅が下された。斯くて国防予算は成 立したのであるが,山県はこの際,議会解散を伊藤にすすめたが,伊藤は妥協方針をとったと伝え られている。 次の第5議会(26. ll. 23開院式)に対して伊藤首相は内閣の一部改造をして臨んだのである。 明治27年3月1日,第3回臨時給選挙の後,第6議会は5月12日に召集された。総選挙の結果, 政界の分野は次の如くである。 民覚連合軍改進党 48 国民政社 26 立憲革新党 37 中国進歩党 5 旧大日本協会派 9 財政革新会 5 計130名 政府与党,自由党118 無所属 50 (日清戦争)伊藤内閣にて宣戦(27.8.1-28.4. 14)講和条約調印後, 4月23日,独仏露3カ国 は遼東半島の還付を提議してきた.この時,伊藤,陸奥の闇に意見の対立があったが,伊藤が陸奥 の強硬論を斥けたので還付が決定したのである。 戦後経営の時期を迎えたが, 29年1月の第9議会に「外交失敗に干する政府弾劾上奏案」を改進 党から上程された。而し採択の結果, 67票の差を以て葬られることになり,自由党と伊藤内閣との 提携が進められることになるがそれは河野広中の尽力によるものである。戦後の問題として軍事予 算の拡大されることになるが,伊藤内閣の軟弱外交が対外硬派からは攻撃の的となった。而し臥薪

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48 日 本に於け る 政党政治の系譜(その1) 嘗胆という言葉が国民の間に広がると共に,伊藤内閣は軍備拡張を強行して行ったのである。 扱,上述の如く立憲政治開始以来,藩閥政府と衆議院多数を占めていた民党とは議会に於て,各 々憲法上の権能を行使して激突した。黒田首相は政府は超然として政党の外に立つべLと宜べ,伊 藤首相も政府は党派によって左右さるべきではないと述べている。故に藩閥政府と民党の責任内閣 主義とは始めから正面衝突をなした。粗方内閣,伊藤内閣に於て民党は多数を占めながら,憲法上 の権能を行使しつつ対抗したが結局,民党は勝利を収めることはできなかったのである。而し日清 戦争の開始と共に,政治的休戦の時期に入り,戦意昂場は正に愛国の至情として沸き上ったのであ る。かくて藩閥政治家も政党の議会に於ける重大な役割を認めざるをえない情勢となったのであ る。 【憲政党の結成】 政界の分野には幾度かの変遷はあったが,主流は自由,改進の二大勢力であ った。両者の間には交流もあり,分離もあった。改進党は後に進歩党として発展したが,それが明 I 治31年6月22日に,自由党と共に各々解党して新たに憲政覚を結成することとなった。これは両 党の永年の対立を解消して, -大勢力を結成し,そのカを以て藩閥政府を打倒しようというのであ った。これは自由党のInitiativeによるものであるが,時の伊藤内閣には異常な衝撃を与えたの である。 両党の合同によって憲政覚ができた翌々日, 6月24日の御前会議の席上に於て,伊藤首相は時 代の推移,民心の志向は到底,従来の超然主義を許すべくもない,密よく政党主義に改めるにしか ずと力説したとのことである。如何に藩閥の巨頭,伊藤も政党のカの前に苦悩したか見えるようで ある。かかる伊藤の提案に対して山県有朋は強く反対し,政党の上に内閣をおくが如きは,我国憲 法の精神に惇り,吾が国体に反するものである。若し止むをえなければ, -時憲法を中止すべLと 極論したと伝えられる,激論も遂に決を見るに至らなかったが,伊藤は明治31年6月25日に辞表 を奉呈した。元老会議は後継内閣に大隈,板垣の2人を奏薦した。 6月27日に組閣の大命は大隈, 板垣の2人に降り同月30日親任式が行われた。これが始めての吾国に於ける政党内閣である。 而し患政党は倒閣という一つの共通点に於て一時合同したに過ぎない。その他の政治問題に関し ては両者の意見は伝統的な対立を卒んでいたのである。例えば当時の行政審理問題のきほ事毎に対 立を生じ内紛は絶えなかった。この時,米国全権公使として使いしていた星亨は憲政覚内閣のでき たことを知り内心良からず,急ぎ帰国して時局を監視していた。時たまたま尾崎文相が8月22日帝 国教育会主催の小学校数貞講習会に於ける演説会に於ての彼れの講演中の青葉が一拝金主義を排斥 し道徳教育の必要を強調した後,日本に於いて共和政治を行う売遣いはないが,日本に仮に共和政 治ありという夢を見たと仮定せられよ,恐らく三井,三菱は大統領候補者となるであろうと述べた (琴堂回顧録上巻) -政治家に取上げられ,不敬の言辞として文相攻撃が始った。憲政覚の中の自 由派も之れに和したので大隈重信は10月24日尾崎文相の辞表を奉呈することになったのである。 処で文相後任に関して板垣内相は自由派から選出したいと主張したのに対し,大隈は犬養毅を後任 文相に推薦したいと考え意見が河立したが,遂に犬養文相が実現したのである。従って自由派の憤

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ト ト ー ー             -ー   ー   ー l . _ 一 t J* tr 慨はその極に達し自由派のもののみを召集して協議会を大会に切替え,星亨指揮のもとに蕃政党を 解党し,新たに同名の憲政覚を設立することを決定し,綱領,党則も前のものを採周することとな し,進歩派の者をして策動の余地を与えなかったのである   月29日結成)従って進歩派は止む をえず憲政本党を結威し,明治31年11月3日結党式を挙げた。従って患政党は創立以来, 4カ月 余にして唐政党と意政本覚に分れた訳である。 :.議会に於て243名を擁した内閣も瓦解することにな り,後継内閣は同年11月7日の元老会議に於て山県有朋を首班とすることに決定したのである が,丁度その時,伊藤博文は清国旅行中であった。 【山県内閣と政党との提携】隈板内閣に於ても新しい蕃政党の結党された明治31年10月皇9 日に,内閣不統一の理由で辞表を奉呈したので11月8日第2次山県内閣が成立した。山県は伊藤 と同じく政党反漸論者であり,超然内閣の主張者であった。而し今や政党の協力を得なければ政権 を維持することの困難を悟り,唐政党と提携すべく百方努力した。遂に板垣との間に, (1) 現内 閣は超然主義を採るものに非ずとの声明をすること, (2) 怒政党の綱領を採周することの2条件 を以て提携することになった。 扱,議会開設以来10年,その間,政党を無視し或は嫌っていた伊藤も政党のカを漸く藤め,政党 を敵視することをやめて,寧ろ政党の改良の必要なることを悟ってきた。明治31年6月桂冠以莱, 地方遊説をして新党組織の計画を進めていたが機漸く熟した。即ち,蕃政党が覚を挙げて伊藤の傘 下に投じ,それに伊藤系の官僚出身者が加って出来たのが立昔政友会である。明治33年9月15日帝 国ホテルに於て発会式を挙げた。政友会は成立以後,歴代内閣に於て与党的立場をとるのが常であ った。初代稔裁伊藤は政友会総裁として1回内閣を組織した。第2代総裁の西園寺は稔鼓として前 後2回首相となった。その他の内閣に於ても政友会は与党的立場をとることがしばしばであった。 【政党内閣制の成立】 立膏同志会の創立。桂太郎は前後3回内閣の首班となったが何時も政友 会の操縦に悩まされた。与党的立場をとるにしても,反対■されるにしても政友会は厄介な存在であ った。この軍閥の巨頭も遂に政党を結威しようと志すに至った。それは大正2年のことである。桂 は最初, 31年1月第3次伊藤内閣の陸軍大臣に就任して超然主義内閣に列し,明治34年6月第1 次桂内閣,明治41年7月第2次桂内閣成立,大正元年12月第3次桂内閣成立,大正2年2月11日 同内閣稔辞職であった。大正元年12月21日第3次桂内閣は成立したが,この内閣は宮中府中の別を 乱すものとして政友会始め,世静の反対・に遭遇した。理由として考えられるのは,桂が内大臣兼侍 従長の重大な地位から,内閣首班の地位に転出したことである。政友会を中心とした意政擁護,閥 族打倒の連動を起こして反桂内閣の気勢は高まった。そこに於て自らの政党をもつことの有利を感 じていた桂は,後藤新平,杉山茂丸,秋山定輔等と計り,一大政党を結威して,この反桂連動に対・ 抗しようとした。自ら創立委貞長となり,国民党,中央倶楽部その他の同志に呼びかけて大正2年 2月7日立青同志会を結成し,同時に宣言,綱領を発表した。而し内閣打倒の連動は意外に強硬に して,犬養毅,尾崎行雄を発頭とする意政擁護連合会の桂内閣打倒の演説会は連日の如く開かれ た。桂内閣は総辞職を断行し立恵同志会の結党式も延期することとなった。桂は大正2年10月10

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50 日 本に於け る 政党政治の 系譜(その1) 日病死したので,その後,加藤高明は大浦兼武,大石正巳,仙看貫,河野広中等と共に桂の意思を ついで,大正2年12月23日宣言書を発表して,立憲同志会の結党式を挙げた。而して加藤高明が 稔鼓に推されたのである。この立憲同志会は改進党の流れを汲むものと見て宜ろしい。改進党は進 歩党-,そして一時は自由党と合同して患政党となったが,間もなく分裂して改進党系は憲政本党 となった。この憲政本党の後身が国民党にして,国民党と桂系の官僚出身者が一緒になって出来た l のが立憲同志会である。 第3次桂内閣のあとは,山本内閣,大隈内閣,寺内内閣-と続くのであるが,大正5年6月,大 隈内閣の稔辞職が決定的となった時,彼もまた,一大政党を結威して給辞職後の政局を有利に展開 しようと考え,当時,与党的立場にあった立憲同志会を中軸とし,中正会及び公友倶楽部を合同し てその目的を達しようと計った。その間に,同志会(浜口雄幸,安達謙蔵,富田幸次郎)中正会 (大竹貰-,田川大昔郎)公友倶楽部(頼母木柱昔,高木正年)の人々は会合して三派合同の議を 進めていたが大隈内閣辞職の日,大正5年10月8日宣言,綱領を発表し, 10月10日結党式を挙げ て憲政会と称することとなり,加藤高明が総裁に推されたのである。この患政会が立患民政党とな るのは昭和2年6月のことである。 斯くて大正年間には,政界も次第に峯理されて政友会憲政会という二大政党ができたが,その政 治勢力には大きな障害があった。それは元老,枢密院,及び元老の息のかかった貴族院も政党を抑 制する偉大なカを持っていた。例えば衆議院に於て絶対多数を占めてち,これ等の政治勢力が政党 の前にあるので政党は自主的活動を十分に発揮するには十分なカを有しなかったが,二大政党は政 党内閣制と云われる体制を形成するには相当の歳月を要するのであるが徐々にその方向に向いつつ あった。 【政友会内閣】 大正3年原敬は政友会総裁に就任した。而して政友会単独の内閣を実現したい と念願していた。大隈内閣辞職後,大隈は憲政会稔裁加藤を推薦したにも拘わらず,元老は寺内正 毅を奏薦した。寺内内閣は第1次世界大戦中の多難な時局を挙国一致のSloganを以て乗り切ろう としていたが,結局,大正7年8月に起った米騒動の責を負うて辞職した。米騒動は大正7年8月 米1升53銭に騰貴したことにより勃発した。 8月3日に富山県の女房連の-挟に始まり, 8月10日 には京都市米商沼田商店の襲撃,同日大阪市にも暴動が起り,共に軍隊が出動して鎮静に当った。 8月12日には神戸市に於ける鈴木商店,神戸新聞の襲撃,呉市の暴動があり, 8月16日には宇部 炭坑の騒動があり全国の重要な都市を捲き込んだ米騒動は33市104町村に及び軍隊の出動60カ所 であったと伝えられている。 寺内内閣の後には,政友会給裁原敬に大命が下った。大正7年9月26日大命降下, 9月29日に 原内閣が成立した。この内閣は陸,港,外務の3閣僚以外は皆政友会の党員を以て組織した純然た る政党内閣である。従来,路然内閣の下に苦労してきた政党は,この内閣の成立を喜び,反対覚の 憲政会も立憲政治の前途のためこの内閣の成立を祝福した。更に原首相は大正10年11月5日京都 に於ける政友会近畿大会出席のため, 4日午後7時20分東京駅に行き乗車しようとする際に-育

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年(中岡)のため不起の重傷を負うて死亡したのである。翌5日内閣は稔辞職したのであるが,当 時の重要問題であるワシントン会議-の影響も考慮され,首相暗殺のため政変をもたらすことは立 憲政治の発達のため許しえないとの西園寺公の意見もあって,前内閣の大蔵大臣高橋是清が奏薦さ れた。大正10年11月13日高橋内閣が閣員全部留任をもって成立した。 超然,特権内閣。政党内閣制の慣例が成立したかに見えたが,必ずしもかかる慣例は成立しなか った。高橋内閣は内閣不統一の理由にて辞職した。その後継内閣として元老によって推薦されたの は海相加藤友三郎(ll. 6. 10-12. 8. 24)であった。彼は当時, Washington会議-の全権委員 でもありたが,病気Q)ため稔辞職をなした.この時,袷方,西園寺の両元老は再度超然内閣を作っ て公正なる選挙を行い,それによって政権の帰趨を定めるようにしたいと考えており,政党以外か ら首班を定めるようにしたいとの考えの下に,山本権兵衛が首相に選ばれたのである。山本は政友 会稔裁高橋是清,意政会総裁加藤高明,革新倶楽部犬養毅を入閣させて挙国一致内閣を形威したい ・と考えて交渉したが高橋,加藤共に拒絶し,犬養のみが入閣することになった。 9月1日関東大震 災が起こり,緊急事態に処するため, 9月2日閣貞名簿を奉呈し組閣を完了したが,この内閣は12 月の虎の門事件の責を負うて辞職したため短命であった。次ぎの清浦内閣は大正13年1旦7日に成 立したが,主として貴族院各派から閣僚の人選を行うたため,世人は特権内閣と称し尿升の叫びが あったが,これが特権階級打破患政擁護の一大連動となったのである。 当時,政友会の内部は2派に分れ,対立抗争が続いていたが,清浦内閣打倒に反舟する一派は脱 党して別に,政友本党を作っていた。本流である政友会は蕃政会,革新倶楽部と共に3派提携して 諾意連動に乗り出すことになった。清浦内閣は衆議院を解散したが給選挙の結果,護恵三派は大勝 することとなった。即ち憲政会154政友会104革新倶楽部29計284名という大勝利であった。他 方,内閣を支持した政友本覚は114名であったので,清浦内閣は給辞職した。 3.政党内閣制の確立(7内閣8カ年大正13. 6. ll-昭和7. 5. 15)西園寺は後継内閣に選挙 の結果,第1覚となった蕃政会総裁加藤高明を奏薦した。時に大正13年6月にして加藤内閣が成 立した。この時から我国に於て政党内閣制が確立したと称せられる。当時,元老としてほ西園寺一 人が残っており,彼が心の中で期待していた政党内閣制が確立したのも偶然とは云えない。政党内 閣制に於ては絵局,議会の第一党から内閣首班を出すことになるのが当然である。従って政党は政 権を把撞するためには選挙に勝たなければならない。そのためには議席の過半数を制せんがために は手段を選ばない有様で国民の指弾を受けるが如きことも少くなかったのである。乍而,藩閥政府 と戦ってきた政党が政治の指導力を獲得したのであるから,政党のカも非常に強くなり,官僚の中 に於ても高級官僚になれば政友会か憲政会か何れかの色彩を身につけるようになったのはこの頃か らである。政党内閣は次の如くである。 第1次加藤3派内閣。第2次加藤憲政会内閣。若槻礼二郎憲政会内閣。田中義一政友会内閣。浜 口雄幸民政党内閣(憲政会は昭和2年6月1日政友本覚と合同して新たに立憲民政党となり,浜口 が稔敦に推された)第2次若槻民政党内閣。犬養政友会内閣。 (昭和7. 5. 15まで)

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52 日 本に於け る 政党政治の 系譜(そのI) 政党政治というても,政党を基礎として閣僚が選出されることを意味するのである。而し陸海軍 大臣は夫々軍自身の推薦に基くもので首相が詮衡するものではないので,完全なる政党内閣である とは云えないのである。この政党内閣制は立意政の確立を意味するものであるが民主政の前進は政 党内閣制のみならず,選挙権の拡張をも要請するのは当然である。大正14年3月30日選挙法の大 改正となり,所謂,普通選挙制(正確には男性普通選挙制)が実施されることになったのである。 普通選挙溝の制定と無産政党の台誼 Militarism対Democracyの戦いなりと称せられた第 1次大戦の中頃から欧米の民主々義思想が流入し思想界に於いては普通選挙制の要求となって表わ れた。藩政会は比較的早くからその採用を政綱の中に取入れて野党として世論の支持を得ようとし ていたが,謹告派の憲政擁護連動(清浦内閣当時)が昂まるに至ったので政友会も広く世論の支持 をうるため是非必要というので,永年の普選反対の態度を捨て普選運動を麦持することになりた。 かくて大正14年加藤内閣に於て普選法が成立したが,この法律によって稔選挙が行われたのは昭和 3年2月田中政友会内閣に於てであった。勿論,有権者級数1,300万人となり,政友 民政の2大 政党優勢の下に行われたが,只,労農覚1名,労働農民党2名,社会民衆党4名,地方無産党1名 の当選者を出し,所謂,無産政党のために気勢が希ったのである。之等の無産政党は労働階級の組 織化のなかったことや,一般大衆殊に,農民の理解不足等の理由で,その伸び方は決して良好では なかった。この無産政党は社会民主主義的傾向をもつもので卑るが,他に革新政党として,大正11 年日本共産党が成立したが,而し治安維持法その他の取締規定のため活動は概ね地下連動的のもの であった。然るに昭和7年5月の犬養首相暗殺事件を峠として,大正ヂ卓クラシーは霧消し,その 級,日本の敢治は, Fascism -と進むこととなった。 註1926年即ち昭和元年の無産政党の状況は次の如し。 労働農民党一大山郁夫,細迫兼光 日本労農党一麻生,浅沼,河野,河上,加藤etc 社会民衆覚一安部,鈴木,片山,賀川,西尾一労資協調主義 H本農民党一平野 g^^^^^KS  毘発  き 立青政治体制を垂備して近代国家-と発展を始めた明治政府は藩閥政府と称せられていた。明治 20年代には政府は超然主義を採り,政党に対し嫌悪の態度を示していた。而して明治31年に漸く 政党の拾頭を見たが, (随板内閣)なかなか政党政治は確立されなかった。政党の系譜として自由 質,改進党の2大潮流は,大正年代には政友会対憲政会の対立-と発展した。而して政党政治は大 正13年の加藤内閣から昭和7年の犬養内閣まで継続した。大正末期に漸く無産政党の発芽を見る ことになった。吾々は過去の政党政治の系譜を顧ると共に現在の政治状況を分析して観察し,より 良き民主政治発展-の一里塚と考うべきである。 註 政党の系譜を示せば次の如し。

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1882         1882    1874 串 界 覚  束洋社会党 愛国公党(板垣退助) 1892 J

東洋自由党

(大井憲太郎) 1874

立志社

1881

自 由党

1890     1882  大隈重信)

立憲自由党  立憲改進党

1891      1896

自甲覚 進苧覚(大隈)

1898 (大隈,板垣) 1898      I 1898

19。。竿覚(板垣)憲竿慧讐

1924

立憲政友会

1925 L (床次)

(高橋)政友本覚

1882 立憲帝政党(福地源一郎)

立憲国民党(犬養,河野)

党 倶 民 新 I 国 -草 立憲政友会(田中義一) 1940 ∫

政友会久原派

J

政友会中島派

解党 (翼賛議員同盟) (翼賛政治会) (犬養) 1 1913 立憲同志会(桂太郎)

楽部(歪惹)

1916

憲面口会

立憲民政党

1931 ( 1934町田 1940解党 7 (加藤高柳 (浜口雄幸) 1936 東方会(中野正剛) 19401解党 1940解党

(12)

1898 1900 1901 1901 1903 1907 1911 No.2

日本共産党

日 本に於け る 政党政治の譜系(その1)

社会主義研究会(安部,幸徳,片山)

民主々義協会(片山潜,西川光二郎) 社会民生覚(安部磯雄,片山潜,幸徳秋水) 〔即日禁止〕 日本平民覚(幸徳) 〔即日禁止〕 平 民 社(幸徳,堺利彦) l 〔結社禁止〕 社 会 党(片山潜) 〔即日禁止〕 社会主義同盟(山川均) 〔結社禁止〕 1926 労働農民党(杉山元治郎) 山川均,徳田球-堺利彦 〔検挙〕 〔検挙〕 〔検挙〕 1926      192

労働農民党

1928 ∫ (大山郁夫)

無産大衆覚

(鈴木茂三郎) 1926│    1926

日本労農覚社会民衆覚 日本農民党

(丙三三更(安部菅山 1928太郎)

日本大衆覚

帽毒粂三郎)

193: : 社会木衆覚 l l1 1940廟党 (安部磯雄) (平野力三)

参照

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