〔資 料〕 玉川大学教育学 術情報図書館蔵
『本譽空無上人衜影贊』翻刻と解題
関
口
靜
雄
〔解 題〕 玉 川 大 学 教 育 学 術 情 報 図 書 館 蔵『本 譽 空 無 上 人 衜 影 贊』 (版 本 一 冊) を 翻 刻紹介する。薄識にして他に所蔵あるを知らない。本誉空無は江戸下谷池 之端浄土宗影向山心行寺三世で、浄土木食を自称して江府六所にいわゆる はじめの六地蔵を建立した人として知られる。しかし六地蔵建立のいきさ つやその生涯は埋もれたままである。本書は新出の本誉空無の行状記であ って六地蔵研究や近世木食研究に資するところ少なくあるまい。紹介する 所以である。翻刻を御許可下さった玉川大学教育学術情報図書館に甚深の 謝意を表する。 本書は右図書館の標目書名に『本誉空無上人道影賛』とあり、 出版事項 に 元 禄 三 年 (一 六 九 〇) 刊 と す る が、表 裏 表 紙 を 欠 い て い て 版 行 時 の 原 題 が知れず、版元の記載も刊記もなく、また複数の年記を有するから刊年を 元禄三年とにわかに断じきれない。現況 は袋綴仮綴装十三丁から成り、こ れを 表裏表紙を付けず仮綴紙縒装のまま、すなわち本誉空無の肖像を描い た現況一丁目表「 H 池 I 濟老師衟影」を表表紙として頒布されたとも考え 得るが、終丁が半切なので、当初版行時には表裏表紙が存したと判断でき る。するとその表表紙には打付けなり題簽なりで書名が存していたはずで、 それはおそらく「心行寺第三世源 H 社本譽空無上人行狀」であったと推測 されるが、逸失ゆえに断定は控える。今は本書書名は右図書館の付した標 目書名『本誉空無上人道影賛』を尊重することにする。なお、現況全十三 丁の構成は下記のようである。 ①「 H 池 I 濟老師衟影」 (署名 ・ 落款なし) 及び 「本譽空無上人 衜影贊」元祿壬申季秋穀日一髪衜人無生敬題 版芯 柱題「空無 上人衜影贊」 、丁付一~二丁。 ② 「 I 濟 本 譽 上 人 行 錄 序 」 元 祿 辛 未 夏 日 宗 忽 天 倫 題 ・ 南 岳 悅 山 宗 書 ( 無 年 記 ) 版芯柱題「空無上人行狀序」 、丁付一~五丁。 ③「心行寺第三世 源 H 社本譽空無上人行狀」元祿三庚午年 臘月朔日 門弟子某等編版芯柱題「空無上人行狀」 、 丁付一~六丁。 右に見るように、本書 現況袋綴装十三丁一冊は元禄壬申五年 (一六九二) 秋 の 版 行 で あ る と 知 れ る。し か し お そ ら く そ れ 以 前 に 元 禄 庚 午 三 年 (一 六 九 〇) 十 二 月 一 日 に 門 弟 子 某 等 が 編 じ た「心 行 寺 第 三 世 源 H 社 本 譽 空 無 上 人行狀」が版行されていたものと考えられ、それがさらにその翌元禄辛未 四 年 (一 六 九 一) 夏 付 の 臨 済 僧 宗 忽 天 倫 及 び 黄 檗 僧 南 岳 悦 山 道 宗 の 序 文 を 付して版行されたと推量される。すなわち重言すれば、まず門弟子某等編 「心 行 寺 第 三 世 源 H 社 本 譽 空 無 上 人 行 狀」 (六 丁) が 版 行 さ れ、 そ れ に 宗 忽 天 倫 と 南 岳 悦 山 宗 の 序 文 (五 丁) を 付 し た も の が 版 行 さ れ、 さ ら に そ れ に「 H 池 I 濟 老 師 衟 影」と 一 髪 道 人 無 生 撰「本 譽 空 無 上 人 衜 影 贊」 (二 丁) を 付 した全十三丁一冊に表裏表紙を装幀して版行されたと考えることができる。 推量に推量を加えれば、おそらく門弟子某等編「心行寺第三世源 H 社本 譽空無上人行狀」は心行寺蔵版だったはずで、本誉空無の行業が周知され 世評が高まるにつれて宗忽天倫 ・ 悦山道宗 ・ 一髪道人無生ら他宗高僧の賛 や序文、また無名氏筆画の道影を得たものであったと思われる。因みに 宗 学苑 第九五八号 五四 ~ 七七 (二〇二〇 ・ 八)忽 天 倫 (一 六 二 六 ― 一 六 九 七) は 丹 後 の 人 で、臨 済 宗 京 都 大 徳 寺 二 一 八 世 を 経歴して元禄二年江戸品川万松山東海寺在山一世位に就いた人であり、悦 山 道 宗 (一 六 二 九 ― 一 七 〇 七) は 福 建 省 の 人 で、明 暦 三 年 (一 六 五 七) に 渡 来 し、延 宝 四 年 (一 六 七 六) 大 坂 生 野 の 聖 徳 太 子 創 建 と い う 南 岳 山 舎 利 尊 勝 寺 を 黄 檗 宗 寺 院 と し て 中 興 開 山 し 、 の ち 宝 永 二 年 ( 一 七 〇 五 ) 黄 檗 山 萬 福 寺七世住持となった人で、ともに禅の高僧であるが、一髪道人無生につい ては知るところがない。なお「空無上人衜影贊」の年記中の「壬申季秋穀 日一髪衜人無生」は「壬申季秋穀旦、髪衜人無生」とも解せるが、ここで は「壬 申 季 秋 穀 日、一 髪 衜 人 無 生」と 解 し た。ま た 二 顆 の 篆 印 の 一 つ は 「密 林 居 士」と 読 め る か ら、 一 髪 道 人 は 空 無 と 同 じ 浄 土 門 の 人 物 で は な さ そうである。それについて宮城県立図書館デジタルアーカイブ叡智の杜目 録 に 伊 達 文 庫 本 と し て 密 林 居 士 著 釋 方 正 編『毘 那 密 林 居 士 大 觀 藁』 (版 本 一 冊。正 徳 四 年〈一 七 一 四〉跋。未 見) が 載 り、同 図 書 館 に よ る 書 誌 注 記 に 「日 本 文 学 ・ 漢 詩 文 ・ 禅 宗」と あ る が、こ の 密 林 居 士 と 一 髪 道 人 が 同 一 人 物とすれば洞門の人であったかと推量される。しかしいまだ空無と曹洞宗 僧との交流の確実な痕跡を見出し得ないでいる。 ※ 本誉空無の名や事跡を『縁山志』 『浄土伝灯総系譜』 『蓮門精舎旧詞』を はじめ蓮門の主だった文献資料等々にいまだ見出せないでいる。本書『本 譽空無上人衜影贊』の巻頭を飾る賛や序文が他門の人士によるものであり、 空 無 に は 六 地 蔵 建 立 と い う 大 業 の ほ か に、 『発 願 文 和 談 抄』
(
元禄七年〈一 六九四〉刊)
・ 『巡 六 地 蔵 慈 悲 利 益 記』(
宝永四年〈一七〇 七〉幻化散人序)
・『大 黒 天 霊 験 記』(
享保三年〈一 七一八〉刊)
・『 十 夜 念 仏 発 願 由 来 根 元 記』(
享保五年〈一 七二〇〉刊)
等 の 著 作 も あ り、こ と に 享 保 五 年 (一 七二〇) 正月柳屋德右衞門 ・ 松屋金四郎合梓板『十夜念仏発願由来根元記』 の 序 に「 享 きやう 保 ほう 五 庚 子 正 月 中 ちう 旬 しゆん 空 くう 無 む 九 十 一 歳 さい 謹 つゝしんて 書 しよす 」と あ っ て 卒 寿 を 超 え ても著作に励んでいたことが知られる。そうした空無について同門の衆僧 人士に言及がないのは不思議というほかはなく、まして近代の斯学研究者 にも空無の行業や著作についての論考を狭隘にして知らない。空無とその 業績は蓮門宗史に深く埋もれ、その存在さえなかったがごとくである。 お そ ら く 空 無 の 行 状 を 伝 え る 唯 一 の 伝 記 は『江 戸 名 所 図 会』 (全 二 〇 冊) 編 纂 で 名 高 い 斎 藤 月 岑 の 『 東 都 歳 事 記 1 』(
天 保 九 年〈一 八 三 八〉 、 須原屋茂兵衛 ・ 同伊八版)
巻 四「附 録」に 載る次の一文であろう。町名主いわば市井の文人考証家による紹介である。 ○ 最初建立江戸六地藏參 銅 仏 立 像 壹 丈 な り 慈 濟 庵 空 無 上 人 勸 化 の 助 力 を 以 建 立 あ り元祿四年に開眼供養有し由江戸砂子に云り 一 番 駒込瑞泰寺 二番 千駄木 ハヤ シ 專念寺 三番 日暮里 ス ハ 浄光寺 四番 下谷七軒丁 心行寺 五番 上野大仏堂の內 江戸砂子には大仏堂側 慈濟庵に在と G せり 六番 淺草寺中正智院 六所の内當寺のミ此地藏尊見へす今ハ 御丈三尺はかりの地藏尊を安置せり 心 行 寺 三 世 源 蓮 社 本 誉 空 無 上 人 ハ 石 見 州 の 人 寛 永 庚 午 十 二 月 生 る 十 三 の 年 幡 随 意 院 に 入 り 其 外 下 総 大 岩 寺 武 州 増 上 寺 等 に 隷 す 浄 土 に 葵 傾 し て 專 念 の 法 を 修 し 又 銅 像 泥 塑 の 佛 S を 造 り て 諸 人 に 施 す 事 大 方 な ら す 貞 享 の 頃 疾 を 以 て 院 を 辞 し 荷 葉 庵 に 退 く 又 萬 日 念 佛 會 を 修 し 四 世 還 譽 空 哲 2 に 至 て 元 祿 庚 午 四 ⺼ に 滿 散 す 是 よ り 先 己 巳 𣆶 春 近 隣 某 信 士 夢 に 地 藏 S を 感 ず る 事 あ り、後 に 一 僧 士 に 告 て 云、某 処 に 木 雕 の 地 藏 尊 長 壱 丈 な る あ り、汝 供 養 せ ん と 欲 せ ハ 与 ふ へ し と 士 歡 て こ れ を 迎 ふ 時 に 上 人 云 ね が は く ハ 我 に 与 へ よ 我 こ れ に 依 て 大 像 六 軀 を 鑄 造 し て 武 城 の 六 H に 安 す へ し と 士 㐂 て 又 こ れ を 上 人 に 与 ふ こ ゝ に 於 て 四 衆 竸 て 浄 戝 を 捨 日 な ら す し て 像 成 り 件 の 六 H に 安 す 後 居 H を 改 て 扁 し て 慈 濟庵といふ 按に上野大仏 堂の側なり 以上上人行狀 G の要を採る とあって「江戸砂子」を参照し、さらに「上人行狀 G 」の要を採ったと記 している。 「江戸砂子」は『江戸砂子温故名跡 志 3 』(
享保十七年〈一七三 二〉 、万屋清兵衛版)
巻三に、 慈 g 庵 空 無 上 人 勧 化 の 助 力 を 以 金 銅 立 像 八 尺 の 地 藏 六 軀 を 造 立 し 江 戶 六 ヶ 所 に安置す元禄四年開眼供養を執行すこれをはしめの六地藏といふ H 謂六所ハ 一番 駒込 浄土 瑞泰寺 二ヽ 千駄木 浄土 專念寺 三ヽ 日暮里 諏訪 浄光寺 四ヽ 池端 心行寺 五ヽ 東叡山 大仏側 慈濟庵 六ヽ 淺艸寺内 正智院 と あ る の を い う の で あ り、 「上 人 行 狀 G 」は そ の 内 容 か ら し て 玉 川 大 学 教育 学 術 情 報 図 書 館 蔵『本 譽 空 無 上 人 衜 影 贊』に 合 綴 さ れ た 門 弟 子 某 等 編 「心 行 寺 第 三 世 源 H 社 本 譽 空 無 上 人 行 狀」で あ る こ と は 疑 い を 入 れ な い。 なお正元坊建立の六地蔵のことは同じく『江戸砂子温故名跡志』巻三に、 〇醫王山真性寺 御室末 すかも 本尊薬師如来 聖武帝勅願 行基の作 地藏坊正元法師建立唐銅六地藏の三番也 H 謂六軀ハ 一番 品川 真言 品川寺 二ヽ 四谷 浄土 大宗寺 三ヽ 巣鴨 同 真性寺 四ヽ 山谷 禅 東禅寺 五ヽ 深川 浄土 霊巌寺 六ヽ 深川 真言 永代寺 とあり、また「されは宝永年中沙門正元坊か建立せし金銅丈六の六軀ハ世 に後の六地藏といふと也」とある。 ※ 一 髪 道 人 無 生 は「本 譽 空 無 上 人 衜 影 贊」に「除 キ レ陰 ヲ 絶 シ レ穀 ヲ 」「萬 日 會 滿 テ 」「範 シ 二六 地 藏 ヲ 一 」、 「慈 濟 本 譽 上 人 行 錄 序」に 宗 忽 天 倫 は「長 秊 木 食」 「根 門刄除」 「鑪 二就地藏 ノ 銅像長 ケ 壹 m ナ 一 ルヲ 安 シ 二 テ 諸 レヲ 東都 ノ 六招提 ニ 一 」、悦山道宗 は「彌 陀 ノ 寶 號 宣 言 ヘ 二萬 晝 ニ 一 」「地 藏 ノ 銅 軀 範 ス 二 六 尊 ヲ 一」等 々 と 空 無 が 男 茎 を 切除した羅切の木食行者であり、万日念仏会を成就し、東都の六精舎に地 蔵 菩 薩 銅 鋳 像 を 安 置 し た 行 業 を 高 く 讃 し て い る。さ ら に 一 髪 道 人 無 生 は 「曾 テ 著 ハ 二 シ 藥 辨 ヲ 一大 ニ 醫 ス 二邪 乘 ヲ 一」と 空 無 に「藥 辨」の 著 作 が あ り、医 業 に 精 通した医僧でもあったことを伝えている。 本誉空無の行状のおおよそは『東都歳事記』に載る略伝によって知られ るが、同書が依拠した門 弟子某等編「心行寺第三世源 H 社本譽空無上人行 狀」を撿すると、空無の実像が一層髣髴する。 すなわち、本誉空無上人は諱を遵察、字を空無といい、社号は源蓮社、 みずからは放憨子と称した。石州石見の人で、父は山口、母は某氏。寛永 七 年 (一 六 三 〇) 十 二 月 三 日 の 生 ま れ で、凡 な ら ず 九 歳 に し て 幡 誉 上 人 に 投じて剃染し、方誉上人に従って業を受け、十三歳にして幡随意院すなわ ち武州下谷池之端の神田山新知恩寺に入って浄教を学び、十七歳にして下 総生実龍澤山大巌寺に登り、二十二歳にして武州三縁山増上寺に隷した。 正 保 年 中 (一 六 四 四 ― 一 六 四 八) に は 識 見 の 浅 薄 を 自 省 し て 目 黒 山 瀧 泉 寺 不 動に詣して断食千拝、下山して宇賀神を祷して毎夜万返誦呪すること三年、 さらに月毎に相州江之島に詣して弁天の霊応を受けたが、しかし小石川無 量山伝通院開山了誉聖冏上人の頂相を夢見て浄宗に縁あるを確信し、三密 観行による度生の難儀を知悟し、二十四歳にして陰を自豶して婬欲を断ち、 穀を断ち鹽を断った。 一日芸州厳島華降山光明院に詣し、開山信誉以八上人余風の行業純一な る化に夥多の緇素が深く欽仰して従う光景を見聞して帰るや、幡随意院岳 誉 感 随 上 人 に 従 っ て 浄 土 血 脈 と 圓 頓 菩 薩 戒 を 受 け た。明 暦 年 中 (一 六 五 五 ― 一 六 五 八) に は 心 行 寺 二 世 純 誉 長 然 上 人 に 迎 え ら れ て 三 世 を 継 ぎ、心 行 寺開山円誉利的上人創始の万日念仏会を高足空哲等同志五人と再興し、穀 を断ち衣を披て常在仏前、長坐不臥、日々五百拝を課すること十年、寛文 年 中 (一 六 六 一 ― 一 六 七 三) の 一 日、黙 坐 中 に 諸 菩 薩 ・ 護 法 善 神 の 来 現 を 感 得した。仏天の加被を知ってみずから三尊を刻み、仏工に命じて一百尊を 造らしめ、これを寺内聖衆堂に安置し、また泥塑像 ・ 銅鋳像を造り、画像 を印施し、聖号を手書して衆庶に施した。説法の法筵ごとに受訣するもの 凡そ十万。時人は蓮池の木食上人と讃称した。 浄教門の名徳に倣って禅要を探究していた一日、折しも来訪した黄檗の 一居士と方外の交誼を結んで日夜道話するに、居士の詰問に茫然とし、禅 要の必須なるを感じて打坐に精励した。するとまた一夜心行寺に遊んだ居 士から示された詠歌によって仏心宗に不伝の妙あることを確信した。 貞 享 元 年 (一 六 八 四) 五 十 四 歳 の と き 疾 を 得 て 院 主 を 辞 し、高 足 還 誉 空 哲に心行寺四世を譲って荷葉菴に退隠し、ここを終焉の地と定めて或いは 念仏し或いは坐禅して瀟洒の日々を送った。一日上人の身悴精涸を知って 二 人 の 僧 が 訪 れ、 『蘇 波 呼 童 子 經』 『瞿 醯 經』等 に 載 る「有 二斷 レ 食 不 レ 食 レ 鹽 不 レ 食 レ 油 ヲ 」等 の 一 文 は 垢 膩 を 除 い て 身 の 清 浄 を 保 つ た め の 法 で あ っ て 仏 道を妨ぐためではない等々の教訓をしたが、上人は笑って不 持齋は天台定 心院の成意比丘に倣ったのだと応え、鹽を受けこれを嘗めたが壮年以来の 辟穀は改めなかった。 こうした日常を送る上人を欽仰して四来蝉聯し、小仏を求め聖号を需め
た。上人は一尊を与えるごとに称名念仏を教え、百声を千声に、一万声を 十万声に至るようにと善巧方便をめぐらし、さらに一日『天如惟則禪師語 錄』 (第六「銅佛贊頌序」 ) に載る銭塘照庵の炬菩薩が四十八人会を結んで銅 像を鋳した話を読み、これに倣って弥陀像一千体を鋳て道俗深信者に施し た。すると一夜の夢に姿色典雅な女人が現れて上人の施行を讃じ、老後の 利益、往生の助因となるからさらに造仏すべきを勧め、ために擁護して家 珍を喜捨すると告げて不忍蓮池に帰った。夢覚めて上人はかの女人は弁天 か龍女であろうと察し、これを教訓として弟子たちに夢語りして、貪求財 利の庸輩が魔魅妖怪によって魔往生に引導される危難恐怖を説いた。 元 禄 三 年 (一 六 九 ○) 四 月 十 五 日、万 日 念 仏 会 を 満 散 成 就 し た。し か し 心行寺を継いだ四世空哲は早世してすでになく、後事は同志らの助力に依 ったのだった。念仏会満散成就の噂を聞いて江戸の貴賎、諸国の緇素が蟻 集して歓喜称讃し、或いは十声念仏を乞請し、或いは上人手書の名号を求 める者数万に及んだ。時に上人歳六十一。浄土の訣を授与した道俗一百余 人、僧尼を度すこと若干人、問法結縁者はその数を知らない。 ちょうどそのころ近隣に地蔵菩薩の霊応を夢に三度も受けたという信士 があった。信士は昨元禄二年晩春二十四日に地蔵菩薩を夢に見たが、今三 年また愛岩山に勝軍地蔵菩薩を拝す夢を見、さらに同三年中、付与しよう という人から得た端厳妙相の瞻仰すべき地蔵像を一室に安置する夢を見た。 こうした一日信士のもとへたまたま一人の僧が来て、某所に長一丈の木彫 地蔵像がある。荘厳供養するなら与えようという。信士は歓喜してこれを 譲り受け自邸に安置したのだという。この話を耳にした空無上人は信士に 逢 っ て、 「幸 ク ハ 我 ニ 與 へ ヨ。我 此 ノ 大 像 ニ 依 ツ テ 銅 像 六 軀 ヲ 鑄 造 シ テ 武 城 ノ六所ニ安ンジテ、以テ羣生ヲ福利スベキヲ欲スルナリ」と力説すると、 信士は大喜してこれを上人に譲った。ここにおいて四衆は競って浄財を喜 捨したので日ならずして鋳像は完成した。まことに奇事というべきで、同 様の奇瑞は鎮西の聖光上人、信貴山の円能上人など地蔵の霊応を得た所伝 は史籍に載って枚挙にいとまがない。ここに上人は老母尼に孝養を尽くし、 居を慈濟菴と改めて扁額した。上人は弥陀と地蔵の願によって尽未来際に 迷倫を救度せんの素懷を抱いているが、御歳はすでに甲子六十を過ぎた。 ここに上人の行実を略記して慈誨の万一に酬うものである。時 に元禄三年 庚午年臘月朔日、と伝 えている。 門 弟 子 某 等 編「心 行 寺 第 三 世 源 H 社 本 譽 空 無 上 人 行 狀」 (以 下『空 無 行 狀』 ) を 一 読 し て、こ れ が 万 日 念 仏 会 が 元 禄 三 年 四 月 十 五 日 に 満 散 成 就 し たこと、また銅鋳六地蔵が完成し、これを江府六精舎に分置し終えたこと を記念し、併せて空無の還暦を慶賀するために急ぎ編纂上梓されたもので あると知れる。おそらく万日念仏会のために、或いは六地蔵建立のために 喜捨施財の芳志を捧げくれた夥多の道俗に頒布されただろう。門弟子某等 編 と あ る 某 は 宗 忽 天 倫 の 序 に「其 ノ 徒 運 譽 及 ヒ 檀 信」と い う 運 誉 と 思 わ れ るが、某は本来であれば「還誉空哲」と記されていたはずである。空哲は 中絶していた開山圓誉利的上人創始の万日念仏会を師匠本誉空無とともに その中興を仏天に堅く誓った一人であり、疾を得て退隠した空無を継いで 心 行 寺 四 世 の 席 に 着 く や「哲 モ 亦 戒 律 嚴 整 ニ シ テ 兼 テ 勖 ム 二 修 造 ヲ 一金 仙 ノ 殿 香 積 之 堂 頗 ル 勝 レ 二 リ 於 舊 觀 ニ 一」と い う 持 戒 持 律 の 上 に 寺 院 経 営 に も 励 む 活 躍 ぶ り で、空無ならず檀信徒も心恃みにしていたことであろうし、万日念仏会が 満散成就した折は、その結願法要の大導師は当然空哲が執るはずであった。 しかし空哲は早世したのである。それで再び空無が病を押し、或いは病癒 えて運誉ら弟子たちの助力を得て万日念仏会の継承を導引したのである。 空無を歴史上存在しない架空の人物と推量するむきもあって驚くが、享保 五 年 正 月 中 旬 に は『十 夜 念 仏 発 願 由 来 根 元 記』 (三 巻 三 冊) の 著 作 が あ り、 長齢九十一歳を迎えても健筆を振るっていたことが知られる。しかしその 歿年世寿は明らかではない。 ※ 菊岡沾凉が『江戸砂子温故名跡志』に「はじめの六地蔵 ・ 後の六地蔵」 と称した本誉空 無と地蔵坊正元の六地蔵建立は近世仏教史上に遺る大業で ある。空無は東叡山麓池之端を本拠に、正元は隅田川を越えて新開の深川 を 拠 点 に 活 動 し た の で あ る が、正 元 は 六 地 蔵 建 立 を 宝 永 三 年 (一 七 〇 六) 五 月 に 発 願 し、享 保 五 年 (一 七 二 〇) 七 月 に 第 六 番 目 地 蔵 を 永 代 寺 に 奉 納 して業を終えた。およそ十三年余を費やし、二年あるいは三年をかけて勧 募しては一 軀 、勧募してはまた一 軀 と順次建立したのであるが、しかし空
無 は そ う で は な か っ た。斎 藤 月 岑 編『武 江 年 表 4 』
(
嘉永三年〈一 八五〇〉刊)
元 禄 四 年 (月 日 不 記) 条 に「慈 濟 庵 空 無 上 人 勧 化 し て 造 る H の 金 銅 立 像 の 六 地 藏 尊 開 眼 あ り て 江 o 六 H に 分 つ 、 寺 院 号 幷 緣 起 等 東 都 歳 事 記 に あ り 」 と 伝 え る よ う に 、 空 無 は 地 蔵 像 六 軀 を一挙に鋳造し、これを開眼供養して江府六所の六精舎に分置したのであ る。驚くべきは銅鋳像の鋳型とした木像地蔵像を一信士から入手してから、 発願 ・ 勧募 ・ 造像 ・ 開眼供養にいたる一連の事業をわずか一年ほどの短期 間 に 遂 行 し た こ と で あ っ て、そ れ は ま さ に『空 無 行 狀』に 伝 え る よ う に 「誠 ニ 一奇事 也 也」というほかはない。 しかし空無六地蔵の開眼を元禄四年とする所伝にはいささか注記を加え て お く 必 要 が あ る。月 岑 が『武 江 年 表』 『東 都 歳 事 記』に 空 無 六 地 蔵 開 眼 を元禄四年とするのは沾凉の『江戸砂子温故名跡志』に「慈 g 庵空無上人 勧化の助力を以金銅立像八尺の地藏六軀を造立し江戶六ヶ所に安置す元禄 四年開眼供養を執行す」とあるのに拠ったからだが、沾凉が何に拠ったも の か 明 ら か で は な い。越 前 敦 賀 の 読 誉 必 夢 撰『仏 説 延 命 地 蔵 経 直 談 鈔 5 』(
元禄十年〈一六 九七〉二月版)
巻 十 二 附 録 八 「武 州 江 戸 六 地 蔵 菩 薩」は「右 六 地 蔵 尊 ハ 立 像 八 尺 慈 濟 庵 空 無 上 人 勸 化 ノ 助 力 ヲ 以 テ 是 ヲ 鑄 玉 ヒ テ 元 禄 三 年 ニ 出 來 シ 同 四 年 ニ 開 眼 シ 件 ノ 精 舎 ニ 寄 附 せ ラ レ シ ト 具 ニ ハ 意 趣 ア リ 茲 に 畧 ス」と 明 瞭 に 記 し、 「具 ニ ハ 意 趣 ア リ」と 依 拠 資 料 の 存 在 を 示 唆 す る が、そ れ が 何 か 明 らかにしてはいない。月岑も沾凉も必夢も記事著述にあたってはその出所 を小まめに記しているが、しかし空無六地蔵についてはそれがない。慥か に開眼供養は行われたはずであるが、それは元禄四年であったのか。 仏教行事の普遍的な常識からいえば開眼供養は開眼とそれにふさわしい 供養が行われることであって、これがすべて満了してはじめて開眼供養は 成就したと云い得る。たとえば仏像製作において、仏師が製作し終えただ けでは、それは木片にすぎないのであって、開眼と供養が執行され終わっ てはじめて、衆生は成身の仏像すなわち霊力を発揮し功徳を付与しくれる 尊像の完成と確信するのである。開眼供養について問われた法然上人は、 「開 眼 ト。供 羪 ト ハ。別 ノ 事 ニ テ 候 ベ キ ヲ。同 シ 事 ニ。シ ア ヒ テ 候 ナ リ。 開眼ト申ハ。本躰ハ。佛師カ。眼ヲ入レ。開參セ候ヲ申候也。是ヲバ事ノ。 開 眼 ト 申 候 也。次 ニ 僧 ノ 佛 眼 ノ。真 言 ヲ 以 テ。眼 ヲ 開 キ 。大 日 ノ 真 言 ヲ 以 テ。 佛 ノ 一 切 ノ 功 德 ヲ 成 就 シ 候 ヲ バ。理 ノ 開 眼 ト 申 候 也。次 ニ 供 羪 ト 云 ハ。佛 ニ 香 花。佛 供。御 ア カ シ ナ ン ド ヲ モ。參 セ。サ ラ ヌ。寶 ヲ モ 參 セ 候 ヲ。供 羪 ト ハ 申 候 也」 (『一 百 四 十 五 箇 条 問 答 6 』) と 事 ・ 理 の 開 眼 と 供 養 の 辞 義 を 教 訓 しているが、わが国においては開眼と供養は一体のものと考えられてきた の で あ っ て、た と え ば 本 邦 最 初 の 開 眼 会 と さ れ る 天 平 勝 宝 四 年 (七 五 二) 四 月 九 日 に 行 わ れ た 東 大 寺 廬 舎 那 仏 の そ れ も 開 眼 供 養 会 で あ っ た。 『続 日 本 紀 7 』同 日 条 に「廬 舍 那 大 佛 ノ 像 成 テ 、始 テ 開 眼 ス 」と あ り、 『東 大 寺 要 録 8 』 巻二「供養章第三」には「一開眼供養会」として「九日、太上天皇、太后、 天 皇、座 東 大 堂 布 板 殿、以 開 眼、其 儀 式 並 同 元 日」と あ っ て、 「開 眼 師 天 竺僧菩提僊那が縷繩の着いた筆を執って点晴した。開眼が終わると読師延 福法師が華厳経を読み上げ、講師隆尊律師がそれを解説した。次いで九千 余の衆僧が入場着座し、次いで大安寺 ・ 薬師寺 ・ 元興寺 ・ 興福寺から種々 の奇物が奉献された。次いで楽人が入場し、伎楽があり左大臣橘諸兄が鼓 を打ち、楽舞があり雅楽寮によって大歌女 ・ 久米舞 ・ 唐古楽 ・ 跳子名 ・ 高 麗楽等々が演じられて開眼会は終了した」と伝えている。その次第をみて も大仏開眼会が供養会と一体のものであったことが知れる。重言すれば、 廬舎那仏は開眼されてはじめて、単なる銅製の物体から宗教的存在になっ たのであ る 9 。 右 の よ う に 考 え る と、 『 空 無 行 狀』に 開 眼 供 養 の 記 載 は な い が、そ れ が 銅鋳像完成後すぐに行われていたことは月岑 ・ 沾凉 ・ 必夢の記載を俟つま で も な く、 『空 無 行 狀』巻 尾 の 一 文「 b シ 欲 也 下依 テ 二彌 陀 地 藏 之 願 ニ 一盡 未 來 際 救 中 度 ン ト 迷 倫 ヲ 上 也」に よ っ て 知 れ る。す な わ ち 空 無 建 立 の 六 地 蔵 は、そ の 本 願を成ずるために迷倫に沈む衆生を未来永劫永遠に功徳を施しくれる成身 の弥陀地蔵の尊像であると認識されていたのであって、そうであればこの 一文を巻尾に載せる『空無行狀』の擱筆日である元禄三年臘月朔日以前に 開眼供養は執行されていなければならない。もって空無建立六地藏の開眼 供養は元禄三年 (一六九〇) であったと解する所以である。 なお空無が一信士に激しいばかりに六地蔵建立の意義を意思堅固に伝え た の に は 伏 線 が あ っ た。空 無 は 六 地 蔵 建 立 後 十 七 年 を 経 た 宝 永 四 年 (一 七 〇 七) 一 月、自 撰 し た『巡 六 地 蔵 慈 悲 利 益 記 10 』を 松 会 三 四 郎 か ら 版 行 し た。巻頭を黄檗の禅僧妙幢淨慧の序が飾る三十章から成るもので、六地蔵建立 の意義や縁起 ・ 六所六地蔵の霊験利益 ・ 巡六地蔵の先例等々を詳述してい る 。 淨 慧 の 序 に よ れ ば 、「 か つ て 空 無 上 人 が 六 地 蔵 を 建 立 し た 時 、 禅 林 の 龍 象 た ち が 挙 っ て こ れ に 随 喜 し 、 記 や 賛 を 贈 っ て そ の 功 業 を 顕 揚 し た が 、 上 人 は そ の 記 ・ 賛 を一書 に 纂 し て 『 巡 六 地 藏 菩 薩 G 贊 』 と 書 名 し て 上 梓 し た の だ っ た 。 し か し そ の 文 たるや あ ま り に 高 尚 難 解 で あ っ て 童 蒙 の よ く す る と こ ろ で は な か っ た 。 そ こ で 上 人 は こ の ご ろ こ れ を 和 語 に 綴 っ て 六 地 蔵 の 大 事 の 功 徳 を 敷 演 し よ う と し た の で あ る 」 と い う 。 こ の 浄 慧 の 序 に よ っ て 空 無 が 『 巡 六 地 蔵 慈 悲 利 益 記 』 を 自 撰 し 版 行 し た 経 緯 は 明 ら か で あ る が 、 そ れ を 急 い だ の は 、 お そ ら く 地 蔵 坊 正 元 の 動 向 に 触 発 さ れ た か ら だ と 思 わ れ る 。 正 元 は 宝 永 三 年 (一 七 〇 六) 五 月、江 戸 城 下 に 六 地 蔵 造 立 の 発 願 を 宣 し、 『當 國 六 地 藏 造 立 之 意 趣 11 』を 版 行 し た。そ の 意 趣 は「 抑 そも〳〵 帝 ミや 都 こ 六 地 ぢ 藏 ぞう の 濫 らん 觴 しやう ハ 人 にん 王 わう 五 十 四 代 だい 仁 にん 明 めう 天 てん 皇 わう の 御 ぎよ 宇 う 參 さん 議 ぎ 小 お 野 のゝ 篁 たかむら 平 べう 等 どう 利 り 益 やく の 旨 むね を 思 し 惟 ゆい し 給 ひ て 六 道 だう の 能 のふ 化 け な れ バ と て 自 ミづから 六 地 ぢ 藏 ぞう を 造 ぞう 立 りう し て 天 てん 下 か 安 あん 全 ゼん 宝 ほう 祚 そ 延 ゑん 長 ちやう 洛 らく 陽 やう 繁 はん 栄 ゑい を 祝 しゆく 願 ぐハん し 曽 かつ 諸 しよ 人 にん 徃 わう 來 らい の 街 ちまた に 安 あん 置 ち し 奉 たてまつり て 一 切 さい 衆 しゆ 生 じやう に 周 あまねく 緣 ゑん を 結 むすば し め 給 ん と ぞ 帝 ミや 都 こ 今 いま の 六 地 ぢ 藏 ぞう 是 これ 也 我 われ 既 すでに 時 じ 節 セつ を ゑ て 今 こ 年 とし ゟ 六 躰 たい の 尊 そん 像 ぞう 造 ぞう 立 りう を 催 もよほし 此 この 書 しよ 見 けん 聞 もん の 人 ひと 〻 〴〵 吾 わが 志 こゝろざし を 哀 あハれミ 給 たまい て 一 紙 し 半 はん 錢 セん の 撰 ゑらミ な く 助 ぢよ 〻 〴〵 を 加 くわへ さ セ 給 たま へ 我 われ 生 しやう 〻 〴〵 世 セ 〻 ゝ に 於 おい て 永 ながく 其 その 恩 をん を 報 ほうず べ し」と い う も の で、そ れ は か つ て 空 無 が 抱いた本懐と同じだったのである。 『巡六地蔵慈悲利益記』 「第四、江 o 六 地藏鑄形木像湯嶋霊雲寺安置之事」の一節に「しかるにかの地 g を . 空無 契約をなすことは . 其頃越後の . 五智の如来 . 雷火に燒させ 。 たまふよし を . 傳聞より . 越後の . 五智建立の . 一 W 發といへども。彼寺は天台宗に て . 他 門 よ り 再 興 の 志 か な ひ が た き 故 に . 思 と ゞ ま り て 。 京 都 の 六 地 g の . 事を思つゞけて . 江 o には未六地 g なきゆへに . 造立を思立はんへり し . 」と 記 し、巡 六 地 蔵 建 立 が 本 懐 で あ り 悲 願 で あ っ た こ と を 明 か し て い る。ここに一信士に地蔵木像の譲渡を強く迫り、また『 巡六地蔵慈悲利益 記』を著述した理由が得心できる。五智国分寺は聖武天皇建立と伝える古 刹。天 和 三 年 (一 六 八 三) 五 月 二 十 五 日 に 参 詣 し た 大 淀 三 千 風 は「さ て 名 高き越後の護國山國分寺の大伽藍は。聖武帝御建立日 域第一の五智尊。座 像 五 尺 有 餘。放 光 H 臺 に 膝 を な ら べ て 座 し 給 ふ。 」 (『日 本 行 脚 文 集 12 』巻 一) と 記 す。こ れ に 曳 か れ て 松 尾 芭 蕉 も 元 禄 二 年 (一 六 八 九) 五 月 五 日 同 郷 の 先達三千風を仙台に訪ね、七月十一日加賀街道を通って五智国分寺と居多 神 社 を 参 拝 し た (『曽 良 日 記』 ) 。そ の 十 月 二 日、 日 域 第 一 の 五 智 如 来 は 雷 火 に 遭 っ て 全 焼 し て し ま っ た (寺 伝) 。空 無 も 越 後 の 五 智 如 来 が 日 本 第 一 と いう評判を耳にしていたのだろう、だからこそこれの焼失を伝聞してその 再建に名乗り出たのである。しかし他宗ゆえを以て許されず、仕方なく願 を変じて京都の六地蔵に倣って江戸に六地蔵を建立することにしたのであ る。その思いは募るばかりだった。その年、空無は甲子週した還暦六十を 迎え、迷倫救度の本懐は深まるばかりであったに相違ない。 ※ 元 禄 三 年 (一 六 九 〇) 中 に 六 地 蔵 を 建 立 供 養 し た 空 無 は、銅 鋳 像 の 鋳 型 とした木像に彩色を施し、これを湯島霊雲寺に寄進した。そのことを『巡 六 地 蔵 慈 悲 利 益 記』 「第 四、江 戸 六 地 g 鑄 形 木 像 湯 嶋 霊 雲 寺 安 置 之 事」は 「 幸 さいはい に 此 この 木 もく 像 ざう を 鑄 い 形 かた として。 銅 どう 像 ざう の六 尊 そん 出 しゆつ 生 しやう したまふゆへ。 元 もと の 尊 そん 形 ぎやう を ば 空 くう 無 む 彩 さい 色 しき し 奉 たてまつり 。 霊 れい 雲 うん 寺 じ に 寄 き 進 しん せしに。 覚 かく 彦 げん 律 りつ 師 し 又 また 是 これ を 再 さい 興 こう ありて。 今 いま は 阿 あ 字 じ 變 へんじ て。 訶 が 字 じ の 地 じ 藏 ざう 尊 そん と。 結 けつ 搆 こう 七 宝 ほう 㽵 しやう 嚴 こん の。 尊 そん 像 ざう 有 あり か た く 拜 おかミ 奉 たてまつ る な り」と 伝 え て い る が、霊 雲 寺 は 元 禄 四 年 (一 六 九 一) 八 月 二 十 二 日 の 創 建なので、おそらく開山後のことと推量される。喜んだに相違ない。寄進 を受けて覚彦浄厳は同六年、堂を建ててこれを祀っている。蓮体撰『浄厳 大 和 尚 行 状 記』元 禄 六 年 (一 六 九 三) 条 に「今 年 三 間 四 面 ノ 堂 ヲ 建 ツ。本 尊 ハ 木 食 空 無 カ 寄 附 セ ル ナ リ。霊 験 掲 焉 ナ リ 13 。」と あ っ て 慥 か め 得 る が、現 今地蔵堂内には彩色一丈の地蔵菩薩像は見当たらない。なおその地蔵菩薩 像は『空無行狀』の記載から木造勝 軍地蔵菩薩立像であったと考えられる。 空無が木像勝軍地蔵を彩色荘厳して霊雲寺に寄進したのは、もちろん霊 雲寺開山の祝意もあったろうが、この木像を一信士に齎したのが霊雲寺覚 彦 の 弟 子 僧 だ っ た か ら で あ る。 『空 無 行 狀』の 所 伝 を 補 っ て、空 無 は「第 四、江 o 六地 g 鑄形木像湯嶋霊雲寺安置之事」に「さて 此 この 木 もく 像 ざう の 因 いん 緣 ゑん は。 真 しん 言 ごん の 所 しよ 化 け に 。 元 げん 智 ち といふ 僧 さう あり 。 或 ある 信 しん 心 じん の人の 家 いへ に 。 ゆきし 所 ところ に 。 其 その あ る じ。 或 ある 夜 よ 霊 れい 夢 む を 見 ミ た ま ふ に 。 未 いまだ 二 三 日 も す ぎ ず し て 。 板 いた 橋 ばし の 町 近 きん 所 の 寺 に . 地 ぢ g ざう の 尊 そん 像 ざう あ る よ し を あ る じ に . 元 智 物 もの 語 がたり い た し け れ ば . 右 ミぎ の 霊 れい
夢 む 符 ふ 合 ごう セ る こ と を B かん 得 とく し て . 此 この 尊 そん 形 ぎやう を 求 もとめ て 。 安 あん 置 ち し た ま ふ な り . 元 げん 智 ち 今 いま は 覚 かく 彦 げん 比 び 丘 く の 弟 で 子 し に な り て . 名 な を か へ て 禅 ぜん c ゆう 房 ぼう と い ふ な り . 」と 記 し て い る。この禅融房こそ木像をもたらした『空無行狀』にいう「一僧」であっ て、元 禄 十 年 覚 彦 撰『屈 請 諸 德 䟽 14 』 (写 一 篇、教 興 寺 蔵) の 霊 雲 派 諸 德 の 中 に「 上 板 橋 文 殊 院 禪 融 房」と 見 え る、上 板 橋 文 殊 院 止 住 の 僧 で あ っ た。 この禅融房が「板橋の町近所の寺」にあった地蔵尊像を一信士のもとに齎 したのであるが、その寺名と一信士の名は明らかではない。しかし推量の 手立てがわずかに存する。空無建立六地蔵のうち、唯一原形のままという 第二番千駄木林一心山専念寺の宝珠地蔵である。尊体表面には造立願文と 夥しい結縁者名が陰刻されているが、喉元から胸部中央にかけて、老弊の 眼路の及ぶところ、 助縁 同國同郡板橋根葉村法谷山蓮 k 寺前住権大僧都 國家安全 頼見法印宥 n 元智房宥像 無覚元了居士 分置干武 g 州六所 本願化主同國豊嶋郡江戶下谷池之端影向山 心行寺第三世 休隱慈済菴淨圡木⻝ 比丘源 H 社本誉空無作 南無阿彌陀佛 第二尊 寶珠地 L 餓 a 道教主 伏願 見聞引摂六道衆生自他托生 九品 H 界 有無二縁十方 助 縁 七衆諸檀越 i と刻されていて、これが下谷池之端影向山心 行寺第三世を経歴し同寺慈済 菴に休隱した浄土木食本誉空無の作であることを伝えている。ここに『空 無 行 狀』に「今 改 テ 二 所 居 ヲ 一扁 シ テ 爲 二 I 濟 菴 ト 一」と あ る の は 転 居 し た の で は な く、休隠後に止住した荷葉庵の庵名を慈済庵と改め扁額したこと、それが 六地蔵建立発願に当たってのことであり、心行寺山内にあったことが知れ る。空無はこの慈済庵を六地蔵建立の拠点勧進所としたのである。 尊像右胸の「助縁」は「七衆諸檀越等」すなわち尊像に刻まれた夥多の 結縁者のことであるが、左胸の「助縁」は本願化主空無の前にことさらに 刻まれていて、これが尊像建立に功績のあった助縁者であったことを示し ている。推量するにその名から元智房宥像は真言の所化から覚彦律師の弟 子と転じた禅融房と思われ、板橋根葉村法谷山蓮華寺前住権大僧都頼見法 印宥寿は地蔵木像を所蔵していた「板橋の町近所の寺」の前住職であり、 無 覚 元 了 居 士 は「信 心 の 人」 「一 信 士」の 法 名 だ っ た と 解 さ れ る。禅 融 房 止住の文殊院は板橋区仲宿所在真言宗豊山派幡場山大聖寺で本尊は文殊菩 薩。江戸初期に板橋宿の名主で本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰 を集めていた延命地蔵の境内を拡げて建立されたと伝える。しかし過去帳 等に元智また禅融房の名は見当たらない。法谷山蓮 華寺は板橋区蓮根所在 真言宗智山派医王山東光院蓮華寺で本尊は薬師如来。荒川河畔から移転し たというが地蔵尊像の陰刻銘文から、元禄二年以前に当地に所在し、法谷 山を号していたと知れる。墓碑群中の一基に「十四世權大僧都宥 n 享保十 二年二月廿八日」と読み取れる墓塔がある。重言すればこの権大僧都頼見 法印宥寿の止住する蓮 華寺所蔵地蔵木像が文 殊院元智禅融房の仲介で信士 無 覚元了居士に譲渡されたと推量されるのであって、加えるに蓮華寺と文 殊院は至近に所在することから、一信士無覚元了は蓮華寺あるいは文殊院 の有力檀越であったとみられる。 なお禅融房がいつ覚彦浄厳の弟子になったか明らかではないが、文殊院 の本寺武王山最明寺安養 院 15 は同じ上板橋村に在って板橋宿周辺真言寺院の 中 核 寺 院 だ っ た。鎌 倉 幕 府 執 権 北 条 時 頼 が 正 嘉 元 年 ( 一 二 五 七) に 中 興 し た と 伝 え る 巨 刹 で、 延 宝 年 間 (一 六 七 三 ― 一 六 八 一) 災 禍 に 遭 っ た が、 そ れ を 再 興 し た の が 覚 彦 浄 厳 の 高 弟 祐 淳 大 比 丘 だ っ た。元 禄 元 年 (一 六 八 八) の ことで、翌二年鋳造の浄厳筆百字真言を刻んだ梵鐘が遺る。浄厳は元禄四 年 (一 六 九 一) に 霊 雲 寺 を 開 創 す る 以 前 は 河 内 教 興 寺 を 根 本 道 場 と し て い た が、貞 享 元 年 (一 六 八 四) 十 一 月 江 戸 に 巡 錫 し、同 四 年 九 月 に 帰 阪 し て 摂 津 ・ 河 内 ・ 大 和 を 巡 錫 し、再 び 元 禄 二 年 (一 六 八 九) 正 月 に 江 戸 に 出 て 武州周辺を巡錫し、同四年霊雲寺を開創してここを根本道場とし、以来す べ て 江 戸 を 中 心 に 摂 化 を 行 じ た の で あ る が、上 田 霊 城 師 16 は 貞 享 二 年 (一 六 八 五) 以 降 を 関 東 時 代 と 称 し、こ の 時 期 に 浄 厳 は 新 安 流 の 軌 則 を 確 立 し 聖 教を整備したといわれる。おそらく浄厳は空無寄進の彩色地 蔵木像に喜び、 新安流の地蔵菩薩供養儀軌に則って鄭重に荘厳供養したものと思われる。 浄厳が枌郷河内鬼住に建立した薬樹山延命寺は弘法大師空海が地蔵の石仏
を刻んで本尊としたのが始まりとされるのであり、俗甥の高弟蓮体は二十 九歳のとき玉井山地蔵寺を建立するなど、ともにその行実の根源に地蔵信 仰を抱懐していたのである。空無がそれを識っていたとすれば、地蔵木像 の寄進は新寺開創を慶賀するにまことに時機を得たことであった。 ※ 門弟子某等編『空無行狀』には空無の地蔵についての教相を記してはい な い。わ ず か に 前 引 巻 尾 の 一 文 に「 b シ 欲 也 下依 テ 二 彌 陀 地 藏 之 願 ニ 一盡 未 來 際 救 中 度 ン ト 迷 倫 ヲ 上 也」と あ っ て、空 無 が 弥 陀 ・ 地 蔵 一 体 説 を 受 容 し て お り、そ れ を 門 弟 た ち に 講 説 し て い た こ と が 窺 わ れ る が、 『 巡 六 地 蔵 慈 悲 利 益 記』に は 自 ら の 地 蔵 観 を 示 す と と も に、と く に 六 地 蔵 の 一 々 に つ い て、そ の 姿 形 ・ 利生 ・ 功徳 ・ 霊験を古歌を引いて詳述している。今それを摘記整理す ると以下のようである。 巡六地蔵一 番「駒込浄土宗桂芳山瑞泰寺の檀陀地蔵は地獄道の能化で柄 香炉 ・ 御経を持つ。この地蔵は琰魔庁にあって罪人に白状させる役目であ る。琰魔王は白状に応じて八寒八熱一百三十六地獄に堕とすが、罪人は檀 陀地蔵を恃む。地蔵は人頭幢で罪人の舌を巻き口を閉ざしてそれ以上の白 状を止めさせるのだ。地蔵本願経にも悪業の報いの咎に軽重があり、地獄 の名も様々に書かれている。この地蔵は男女の愛敬を守り、子なき女人に 子を与え、平産を守り難産を救い、六道輪廻の業を除き、一切の諸願を叶 えて無上菩提に至らしめる利生を施すという。その利生は地蔵本願経 ・ 地 蔵延命経 ・ 地蔵十輪経を、利益は地蔵霊験記 ・ 地蔵利益集を見るがよい。 」 と記し、さらに「浅草橋辺の大名の家臣中根氏の息女は生来の腰抜けで立 つことができず、薬石効なく、浅草観音 ・ 神田明神 ・ 亀戸天神に冥助を請 うたが本復しなかった。元禄五年十五歳の春、近隣に瑞泰寺地蔵に祈願し て腰抜けが平癒した人のあるを聞き、一七日を限って日参したところ七日 目 に は す っ か り 本 復 し、息 女 は 歩 い て 参 詣 し た。 」と 霊 験 譚 を 記 し、地 獄 の歌として二首を引く。 つくりこし罪を友にてしる人もなく〳〵こゆるしての山道 二條院宣㫖 (新続古今) ひとつ身をあまたにかせの吹きりてほむらになすぞかなしかりけり 西行法師 (夫木集) 巡六地蔵二番「馰込千駄木林浄土宗一心山専 念寺の宝珠地蔵は餓鬼道の 能化で如意を持つ。慳貪の罪によって餓鬼道に堕ちた者たちは五百年たっ ても飲食の名を聞くことはない。だから己の煩悩を摧き散らし我が子を食 って飢をふさぐのだ。そうした者の同類が娑婆にもいて、我が子を売って 身命を繋いでいる。この地蔵の持つ如意宝珠は食物の乏しい者に富貴を与 え、患う者が立願すれば本復せしめ、商売の人には品々の望みを叶え給う のだ。地蔵延命経や地蔵本願経にいうように、惣じて六地蔵は『衆生の二 世の所求を悉く成就せずんば正覚をとらじ』と誓っておられる。 」と記し、 餓鬼道の歌として二首を引く。 すずしやとかわせのなミに立よればもゆるおもひのミづからぞうき 前大僧正道玄 ( 新続古今) 身をせむるうへのこゝろにたへかねて子をおもふ道ぞわすれはてぬる 後京極摂政 (月清集) 巡 六地蔵三番「谷中新堀村諏訪社別当真言宗宝林山浄光寺の宝印地蔵は 畜生道の能化で輪宝と花鬘を持つ。畜生道に堕ちた者の苦を拔いて楽を与 え、飲食を与えて実相甘露の法味を含ませ給うのだ。また人間界において は、子 育 て に 悩 む 人 は 信 心 す る が よ く、こ の 地 蔵 を 信 心 す る 人 は 盗 賊 の 難 ・ 山河の難 ・ 諸の横難 ・ 毒虫の難 ・ 蛇などすべての畜生からの難を逃れ る。地蔵延命経にも山神木神 ・ 江海水神 ・ 蛇神路神は地蔵を信心する衆生 を 守 護 す る と い う。だ か ら 狐 狸 に も 化 さ れ る こ と は な い。 」と 記 し、さ ら に「本駒込御籠町の八木氏何某が眼病を煩い、この地蔵に日参して力の限 りに念仏を唱えた。初めは子に手を引かれて参詣していたが、段々回復し て二、三十日後には杖を曳いて一人でお参りするようになり、百日の内に は両眼が元のように本復した。その御礼として地蔵に捧げた仮名と実名が 地蔵堂に残る。 」と霊験譚を記し、畜生道の歌として二首を引く。
かぐらうた草とりかふはよけれどもなをその馰になることはうし 西行法師 (山家集) 水にすミ雲井にかけるこゝろにもうき世のあみはいかゞかなしき 後京極摂政 (月清集) 巡六地蔵四番「下谷池之端萓町浄土宗影向山心行寺の持地地蔵は修羅道 の能化で幡と御経を持つ。修羅は地、帝釈は天にあって毎月十六日辰の刻 に合戦するが毎回修羅が負け退却する。その途中で修羅が楯を落とすと、 楯は天雷のごとき音を響かせながら大海の底に沈む。帝釈は軍鼓を聞いて 肝を消し魂を失って無量の苦患を受ける。時に持地地蔵は大地をもって修 羅の合戦の城郭を警固なさると阿修羅宮は安穏となり、闘諍の苦患を脱す ることができるのだ。惣じて人間の嗔恚の炎を消滅し、横死横難 ・ はやり 病 を 除 き、男 女 一 切 の 病 を 消 滅 し、ま た 菩 提 心 を 増 進 し 給 う。 」と 記 し、 さらに「宝永二年夏、京橋辺の住人田村氏は五十過ぎの男で両足痛に苦し み、数年の療治も医薬効なかった。ある日ふっとこの尊像に立願したとこ ろ、四、五日過ぎて足の具合も心良く思われて、毎日地蔵の御名を唱えて いるうちに、三十日ほどの内に元のように本復した。立願成就として十二 燈を奉納したという。また宝永三年初秋、年のころ二十ばかりのお女中は 乳房が腫れ痛むので、あれこれ養生したが治らなかった。そこでこの地蔵 に宿願をかけ、一心に地蔵の御名を唱えて祈誓したところ、ある夜一人の 僧が錫杖を鳴らして家の内に入り来る夢を見た。夢が覚めると同時にその 夜 の う ち か ら 乳 房 の 痛 み が よ く な っ た。 」と 霊 験 譚 を 記 し、修 羅 の 歌 と し 二首を引く。 須弥の上はめでたき山と聞しかどしゆらの軍ぞなをさはがしき 慈鎭和尚 (拾玉集) 浪たてし心の道のすへはまたくるしき海のそこにすむかな 後京極摂政 (月清集) 巡 六地蔵五番「東叡山大仏堂の除蓋地蔵は人道の能化で錫杖と宝珠を持 つ。生苦の者には平産の楽を与え、老苦には不老の薬を与え、病苦には無 病の楽を与え、死苦には定業を転じて延命を与え、臨終正念にして浄土に 生れる愉しみを与え給うという。まことに人道の教主なのだ。人間の八苦 を助け、日照りの時には雨を降して国土草木を生長をさせて五穀成就をは かり、あるいは貧乳の女人には乳を出して子どもの長盛を守り、兄弟姉妹 の縁薄く仲悪しきを収め、生霊死霊咒詛の心の病を退治するには信心する がよい。地蔵延命経には霊神咒詛神の祟り、因果の業深い病者は信心すべ しとある。男女の愛敬を守り、子なき女人には子を与え平産を守り給う。 」 と記し、人道の歌として二首を引く。 伊㔟のうミあまのうきなはうけがたき此身をまたはしづめずもかな (玉葉集) ありがたき人になりけるかひありてさとりもとむるこゝろあらなん 西行法師 (山家集) 巡六地蔵六番「金龍山浅草寺観音の寺中正智院の日光地蔵は天道の能化 で念珠を持つ。天人には大小の五衰があるが、この五衰が現れると必ず死 んでしまうが、この日光地蔵を信ずれば五衰の雲が晴れ、地蔵の慈悲によ って長寿天に生ずることができる。日光地蔵は六地蔵の一だが、六地蔵は 六観音であり、その本地は西方極楽の阿弥陀如来である。諸仏菩薩は大慈 大悲を垂れるがゆえに貴く、阿弥陀如来は下化衆生のために観音に化現し て六道に迷う衆生を済度し給うのだ。鈍根の人が信心すれば利根智慧の心 眼を開き、業深く貧しき僧俗には富貴を与え、貴人高官には望む官位を与 え、奉公人には出世荘厳の福徳を得させるのだ。父母が邪見であれば、子 が立願すれば二親の邪心は慈悲の正路を得るはずだ。子どもが枉惑で親に 不孝するときは、親が立願すれば父子ともに善心を生じ、男女の仲悪しき には和合を守り給う。六地蔵を信心する人の家には大歳神 ・ 山神木神 ・ 江 海水神 ・ 饉餓神 ・ 一切諸々の仏神の守護があるのだ。 」と記す。 (引歌なし) ※ 右に見るように、空無が六地蔵一々について記した文章は六地蔵巡りの 手引書 ・ 案内書でもあって、空無はそれの製作は六精舎各々がすべきこと と期待していたのだが、そうではなかった。 『巡六地蔵慈悲利益記』 「第十、
六地 g 靈驗之事」に「さて六ヶ寺の寺方に . 誰とりとめて . 地 g の靈驗を B じて . しるす人もなきゆへに . よの六躰にも . 其數あるといへども . 慥 に其意趣を知難 . 聞およびにまかセ . 粗かき G をく所に . 未の年類火に燒 失セり . 地 g 不信心の故とせり」とあって、六ヶ寺の寺方に誰もするもの が な い の で、仕 方 な く 独 り で 地 道 に 書 き 留 め お い た の だ。し か し「未 の 年」す な わ ち 元 禄 十 六 年 (一 七 〇 三) 十 一 月 二 十 九 日 小 石 川 水 戸 藩 上 屋 敷 から出火した水戸様火 事 17 の類火に遭って焼失してしまった。だが空無はそ れを 「地 g 不信心の故」 と自省して、 再び筆を積み重ねたのであって、 その 不屈不撓の成果が『巡六地蔵慈悲利益記』であることは知っておいてよい。 第一番瑞泰寺の檀陀地蔵は太平洋戦争の戦禍を受けて残骸さえも失われ た。しかし「寺社書上 駒込肆止 」 18 に載る文政九年十一月付『由緒書 瑞泰寺 』に、 一地藏堂 但シ弐間四方 檀陁地藏尊 丈八尺 銅像 源蓮社本誉空無作と彫付銘有之其外法号 數多記有之候檀陀と唱る哉相 X り不申候 御府内六地藏尊第壱番順拜所 元禄六 酉 年七丗廣誉傳栄代建之 とあって、地蔵像の納置後すぐに二間四方の地蔵堂が建立されたこと、銅 像には空無作の由と多数の法号すなわち結縁施財者名が刻まれていたこと が知れる。 第二番専念寺の宝珠地蔵は元禄三年鋳造時の原型のままと見える。当像 については文京区による調査報告 (副 島弘道氏編「東京都文京区専念寺銅造地 蔵 菩 薩 立 像 調 査 報 告」 ) が あ り、光 背 ・ 基 壇 が 後 補 で あ る と の 指 摘 や、助 縁 の結縁者名をすべて翻刻するなど労作であるが、陰刻の解読や空無の六地 蔵発願建立を元禄四年 (一六九一) とするなど誤りが散見す る 19 。 な お 後 補 の 石 基 壇 に は、中 央 に「上 野 同 生 連 中 」、右 側 面 に「地 蔵 尊 大 修理 発起者 妙連大和尚 ・ 安立院光輪沙弥 ・ 専念寺廿二代学勇和尚」 、左 側 面 に「世 話 人 森 本 九 右 衛 門 ・ 河 原 崎 □ □ ・ 辻 伝 助 ・ 椙 江 孫 右 衛 門」 、 背 面 に「明 治 三 十 三 年 三 月 十 八 日 成 学 勇 代」 、左 右 側 面 に 上 野 同 生 連 中 四 十 余 人 の 名 が 刻 ま れ て い る。大 修 理 を 主 導 し た 妙 運 20 (一 八 七 六 ― 一 九 一 一) は上野寛永寺浄名律院三十八世で名を幸諬、字を妙運無庵と云い、また地 蔵 老 比 丘 を 名 乗 っ て 当 寺 を 地 蔵 山 と 称 し、阿 育 王 塔 に 倣 っ て 明 治 十 二 年 (一 八 七 九) 三 月 二 十 四 日 石 地 蔵 尊 八 万 四 千 体 造 立 の 大 誓 願 を 発 願 し、篤 信 者を教導して同生連を組織するなど廃仏毀釈の打撃に沈む寺院の再興を支 援し、石地蔵造立に精励する傍ら空無 ・ 正元の六地蔵巡礼を再興するなど 地蔵信仰を鼓吹した傑僧だった。六地蔵巡礼の手引として妙運の高足谷中 安 立 院 光 輪 が 印 施 し た『地 藏 本 願 經 囑 累 品 〇六地藏巡和讃 幷因緣 附記 』 21 に 載 る 空 無 六 地 蔵 に関する記述を抄出する (振仮名等省略) 。 ○六地藏巡再興和讚緣 G 昔 し 元 祿 の 頃 江 戸 に 慈 濟 庵 空 無 上 人 と い ふ 淨 業 の 僧 あ り て 慈 心 深 く 衆 生 濟 度 の 大 願 に 由 り て 六 躰 の 地 藏 尊 を 造 り て 六 ヶ 所 へ 安 置 し て 每 月 廿 四 日 に は 多 く の 信 者 を 導 き 巡 る 大 結 緣 の 法 を 開 き 玉 へ は 夫 よ り 世 に 盛 ん に 行 わ れ し も い つ し か 絕 へ て 今 は 知 る 人 も 無 か り し を こ た び 同 生 連 中 の 辻。森 本。椙 江。氏 の 三 翁 多 く の 信 者 に 議 り 此 の 六 地 藏 巡 り を 再 興 し て 即 ち 晴 雨 共 に 每 月 十 八 日 朝 八 時 ま で に 湯 島 靈 雲 寺 の 堂 へ 集 り 夫 よ り 此 六 躰 の 尊 像 を 巡 拜 し て 同 志 同 行 諸 共 に 地 藏 菩 薩 の 大 願 海 に 入 る 結 緣 の 再 び 興 り し あ ら ま し を 需 に 應 じ つ ゞ り て 和讃とす 時に明治廿九年十一月十八日にしるす ○ 六地藏巡再興和讚 地藏老比丘妙運作 歸命頂禮地藏尊 恆沙の誓願おこせるは 皆是我等法性の 無爲の都を迷ひでゝ 六趣の貧里を明暮に 廻も憂しや果しなく 罪の重荷に身をくだき 無明の暗に c も子も しらず生死に苦しむを 憐れみ玉ふ地藏尊 佛の付嘱を憶念し 每日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦と 六の衢に身を分て 導く慈悲の御姿 空無上人勸化して 銅と木をもて造立し 瑞泰寺や專念寺 淨光寺に心行寺 過ぎ行く上野の慈濟庵 辿るもよしや淺草の 正智院の寺〴〵に
奉納て廿四日をば 期して上人月〴〵に 善男善女を導きて 地藏巡りを始しも いつしか絕て年久し 杇ぬ大士の梓弓 緣しの弦はきれもせで 引るゝ慈悲に今日よりは 六の御寺をまた巡る 路の枝折は後の世を 賴む身をこそ嬉しけれ 巡り來て逢ふぞうれしき六の寺 のちの世たのむ南無地藏そん 南無六衜能化地藏大菩薩 空無上人發願造立 ○六地藏尊靈塲 ○毎月十八日巡 拜ノ衜順ニ記ス 番外 湯島新芲町 靈雲寺 四 番 池ノ端七軒町 心行寺 一番 駒込蓬萊町 瑞泰寺 二番 同千駄木町 專念寺 三番 日暮里 淨光寺 番外 谷中五重塔ノ奥 安立院 〇 右寺内ニ休息シ中⻝後ハ佛歬ニ向 テ一同此本願經幷ニ和讃ヲ拜讀ス 八万四千躰 上野山内 淨名院 〇 右寺堂ノ佛歬ニ於テ一同三歸十念ヲ 拜受シ念佛 T 行シ此御經和讃ヲ上グ 五番 上野慈眼堂内 地藏堂 六番 金龍山仲見世 正智院 番外 淺草 駒形堂 右によって、空無は毎月二十四日にはみ ずから多くの信者を引導して六 地蔵巡りを行じていたことや、妙運が再興した明治二十九年には銅鋳六地 蔵の何躰かはすでに木像に代わっていたこと、また六地蔵巡りの再興には 同生連が深く係わっていたこと等々が知られる。ただ再興後の道順が空無 のそれと同じであったとは思われず、番外に駒形堂のある理由も明らかで はない。 第三番浄光寺の宝印地蔵は寺伝ではこれを空無造立のものと伝えるが、 これを疑問視する意見も存する。それは当尊像の正面下部に五名の法号と その歿年月日が陰刻並記されているからである。すなわち、 寳安院心譽祐堂居士 文 化五辰年十一月廿三日 覚心院慧譽明光大姉 文化三寅年五月九日 説誠院心譽實言居士 文化三寅年六月十九日 實相院證譽誠信大師 文化五辰年十月八日 澤性院雄山玄英居士 文化六巳年三月十九日 とあ り 22 、さらに顔立ちや衣文などに見られる作風と銘文の体裁が二番専念 寺宝珠地蔵像と異なることから、空無初建の由緒を継いで再興されたもの と推量されている。しかし作風が専念寺宝珠地蔵像と異なるというのであ れば、当像には文化年代の陰刻があるばかりで、空無六地蔵の由緒を継い だ根拠も再造されたという証左もないのだから、現況だけからすれば当像 は 右 五 名 の 縁 者 が 文 化 六 年 (一 八 〇 九) 頃 に 新 造 し た も の と 理 解 す る の が 適当と思われる。もちろん寺伝は当像を空無六地蔵の一と伝える。昭和三 十 五 年 (一 九 六 〇) に 六 地 蔵 を 熱 心 に 調 査 せ ら れ た 別 所 光 一 氏「空 無 上 人 造 立 の 江 戸 最 初 の 六 地 蔵 に つ い て」
(
「武 蔵 野」四 十 一 巻 一 号、昭和三十六年十月)
は 八 十 七 歳 と い う 住 職 か ら 凡 そ 次 の よ う な 話 を 聞 い て い る。 「当 像 は 昭 和 四、五 年 頃 に 地 蔵 堂 か ら 現 在 位 置 に 移 し た の だ が、そ の 際 台 座 下 の 地 中 か ら 観 音 ・ 勢 至 ・ 彌 勒 ・ 地蔵を型どったおびただしい数の素焼像が出土した。中には空無の二 文字を刻したものがあったが檀家が持ち去り、わずか四体を秘蔵するばか りだ。 」という。 新堀村の道灌山から諏訪台と続く山手台地は虫聴きの名所として知られ、 安藤広重の浮世絵や『江戸名所図会』に描かれた。その一角に諏訪神社と 別当浄光寺は隣接して今もある。空無は諏訪神社になぜか深い思い入れが あ っ た よ う で、 『 巡 六 地 蔵 慈 悲 利 益 記』 「第 廾 九、五 智 堂 造 立 之 事」に、 「諏 訪 明 神 の 前 に 百 二 十 坪 余 の 山 屋 敷 を 建 て て 浄 光 寺 に 寄 進 し、寺 社 新 地 奉行にお伺いをたてて五智堂とした。堂には五智如来を安置し、土仏の地 蔵を千体納めた。五智如来の広大無辺の種々の仏智と地蔵の授記方便によ って衆生が苦を離れることを祈願してのことである。地蔵堂にも土仏の阿弥陀千躰 ・ 観音千躰 ・ 勢至千躰 ・ 釈迦千躰を納めた。男女の地蔵巡りに結 縁させんがためである。社地の存続する限りは五 智堂が末代まで退転なき ようにと浄光寺と契約している。五智堂の前には願主空無が建てた石塔も あ る。 」と 追 記 し て い る。願 主 す な わ ち 空 無 の 右 の 一 文 に よ っ て 浄 光 寺 宝 印地藏は地蔵堂内に安置されていたこと、境内には五智如来堂もあったこ と、堂内には夥多の土仏が納められていたこと、その由来を刻したであろ う空無建立の石塔があったことが知られる。寺伝では地蔵像移座のとき台 座 下 の 土 中 か ら 土 仏 が 出 土 し た と い う が、 『巡 六 地 蔵 慈 悲 利 益 記』原 文 に は「圡 佛 の 地 g 千 躰 を た つ る」 「圡 佛 の 阿 弥 陁 千 躰 観 音 千 体 㔟 至 千 躰 釈 迦 千 躰 の 造 立」と あ っ て、土 仏 は「た つ る」 「造 立」さ れ た の で あ っ て 土 中 に埋納されたのではない。空無は過去に万日念仏会を再興した時、説法の 法筵に参会して戒訣を受ける者たちに名号札 ・ 御影札 ・ 泥塑像 ・ 銅鋳像を 与えている。仏堂の建造に当たって鎮壇のために地中に銅銭 ・ 極小銅仏等 を埋納する例は少なくないが、こと空無に限ってはその土仏は結縁の証と して檀信徒に授与したと考えられる。おそらく空無造立の宝印地蔵も五智 如 来 も そ の 堂 も、宝 永 四 年 (一 七 〇 七) か ら 文 化 六 年 (一 八 〇 九) の 間 に 何 らかの事情で失われたのであろう。残存した大量の土仏は埋納され、その 上に文化六年頃に鋳像された地蔵像が安置されたものと推量される。現伝 の地蔵像が空無六地蔵の一とすれば、一番瑞泰寺檀陀地蔵 ・ 二番専念寺宝 珠地蔵のように空無と結縁衆の名が印刻されていただろうし、空無六地蔵 の由緒を引く再造であったとすれば、なおさらその旨の記載があってしか るべきであり、なにより当像の陰刻が上記五名の法名と歿年月日すなわち 命日であって像建立の施主名ではない。当像は五名の追善供養のために縁 者何某によって鋳造されたと解するのが自然のように思われる。なお空無 が五智如来を諏訪神社に建立したのは、焼失した越後国分寺の五智如来の 再 建 を 申 し 出 た が 許 さ れ ず 悔 恨 が 残 っ て い た こ と と、寛 永 十 三 年 (一 六 三 六) 三 月 す な わ ち 空 無 が 幼 年 の 頃、木 食 但 唱 が 芝 高 輪 帰 命 山 如 来 寺 を 建 立 して一丈五 軀 の五智如来像を安置したことが脳裏にあったからだと思われ る。つまり空無は但唱の営為に倣いたかったのである。 第四番心 行寺の持 地地蔵は夙くに空無建立銅鋳地蔵像は類火に遭って失 わ れ、木 造 立 像 と し て 再 建 さ れ て い た。そ れ に つ い て「寺 社 書 上 下谷五止 」 収 載 文 政 九 戍 年 九 月 付『境 内 部 調 書 帳 面 下谷池之端七軒町心行寺 』に、敷 地 坪 数 ・ 開山 ・ 開基などを記し、 一境内地 蔵尊 壹躰 但 し 木佛 ニ 而立像丈八尺江戸六地蔵四番目 ニ 御 座候 右地 蔵堂間口九尺奥行弐間 ニ 御座候 右 之 外 安 置 仕 候 神 佛 無 御 座 候 猶 又 兩 度 類 燒 仕 侯 故 古 來 記 録 之 義 者 焼 失 仕 候 とあり、またほぼ同内容だが、 「御府内寺社備 考 23 」の「心行寺」項に、 ○地蔵堂 間口九尺奥行弐間 本尊地蔵尊 木立像丈八尺 右者江戸六地蔵四番目 ニ 御座候。 ○境内図 (略) 以上丙戍書上 ○ 頓 蓮 社 円 誉 上 人 利 的、姓 小 島 氏、勢 州 津 人。江 府 下 谷 池 端 心 行 寺 開 山、寛 永七年二月五日寂 浄土総 系 譜 ○江戸志に開山木食空無上人とあれと、此僧ハ二世なりと云 捜 索 とあって心行寺の現況が垣間見える。住僧が開山和尚について近藤義休編 『江 戸 志』 (寛 政 年 間 成 立) の 誤 説 を 即 座 に 否 定 で き ず、六 地 蔵 建 立 の 大 業 が当寺三世空無によるものであることさえ知らず、一番瑞泰寺 ・ 二番専念 寺 ・ 三番浄光寺 ・ 五番上野大仏へは杖を曳く老人の足でも小半時もかから ぬ至近にありながら参詣した様子もないことに驚く。しかしそれは三世空 無 ・ 四世空哲と続く法脈がすでに絶え他系に変わっていたことを示唆して いるのであって、類火に遭って『本譽空無上人衜影贊』を失い、焼失した 銅鋳地蔵尊が木像をもって再造されたことさえ伝わらず、空無創始の六地 蔵巡礼も虚しく絶えて久しい景色が髣髴する。空無は『巡六地蔵慈悲利益 記』 「第 三 十、佛 像 造 立 同 寄 進 寺 乃 事」に「六 地 藏 第 四 番 此 寺 は 空 無 居 住 の所にて廾五のぼさつ十三佛出山の釈迦牟尼如来聖德太子の尊像二尺五寸
に観音皆々御長一尺八寸宛に造立せしとなりしかりといへども未の十一月 の 累 火 に の こ ら ず 燒 失 せ り」と 記 し て い る。 「未 の 十 一 月 の 累 火」す な わ ち 元 禄 十 六 年 (一 七 〇 三) 十 一 月 二 十 九 日 の 水 戸 様 火 事 に よ っ て 持 地 地 蔵 はじめ自身が建立した如来諸菩薩の尊像が悉く焼失したというのである。 明記はないが伝世の本尊もなにも心行寺はすべて焼失したのであろう。こ のとき空無は七十五歳だった。長寿を保った空無であるが、残る生涯を心 行寺再興に尽力したことは容易に想像できる。おそらく木立像丈八尺の地 蔵 尊 は 空 無 の 再 建 で あ っ て、そ れ も 宝 永 四 年 (一 七 〇 九) 以 前 の 仕 業 で あ ったと思われる。 心 行 寺 は 大 正 十 四 年 (一 九 二 五) 府 中 市 紅 葉 丘 に 移 転 し た。持 地 地 蔵 も ともに移座して境内覆屋に今も祀られている。当像を府中市郷土館編『府 中 市 の 仏 像』