1997 年頃まで、各が何となく川辺川に関わってい る時期を経て、1998 年 1 月に住民と中央行政の初め ての直接対決になる、ヒアリングが実現しました。こ れは当時超党派の議連として活動していた「公共事業 チェック機構を実現する議員の会」が主催となって、 当時の建設省、農水省、大蔵省、環境庁の担当者と 川辺川ダム計画に疑問を唱える市民との対話形式の 会議でした。
これを機に、東京での様々な活動も大事になっていく 局面で、そのサポートを東京の有志で行っていく、とい うことで具体的な東京の会の活動がスタートしました。
とにかく全国区にしよう
当時、川辺川ダム問題といえば、熊本の一番の繁 華街でビラ配りをしても、「それはどこ?」などと聞き 返されるぐらい、マイナーなデキゴトでした。日本で のダム問題で一番有名なのが、「長良川河口堰」の件 でしたし、球磨川は知っていてもその支流の川辺川そ のものが、全く無名でした。
そこで、まず、東京の会の目標を、この問題の全国 区化に据えました。つまり、川辺川問題を全国的に知 らしめようという、試みです。幸い、東京の会のメン
バーには、ライター、フォトグラファー、ジャーナリス ト、デザイナーなどのいわゆるコミュニケーション産 業に従事しているスタッフが多く、まあ平たくいえばフ ツーのサラリーマンじゃない人の方が圧倒的に多いと いう状況でした。
イベントとマスコミと記者レク
それまで、こういった運動に全く経験のなかったメ ンバーが最初にやったのが、イベント。何もかも初め ての経験、といいながらも川辺川ダム問題を首都圏に 知らしめるために大学の先生に頼んだり、地元熊本 の方を招いたりで、とりあえずは何回かのイベントを 開催するうちに、徐々に気づいてきたことがありました。 それは、川辺川ダム問題を知らしめるためにはまず、 マスコミに知ってもらう、記者に知ってもらう、という ことが最優先ということでした。そのために、まず概 略資料をばらまき、世の中に伝えてくれそうな関係者な どには個人的にアクセスし、説明とともにもっと詳しい 資料などを渡す、という作戦。朝日、読売、毎日など の全国紙はもとより、NHK、あるいはニュースステーショ ンなど民放の報道番組への直接取り組みなどもやりま した。TBS 系の「ニュース 23」では生出演も果たすなど、 徐々にそのレクチャーの幅を広げていきました。
霞ヶ関、永田町への働きかけ
会が、東京にあるということを最大限に生かすため、 それまでみんな踏み込んだことすらない議員会館にも 頻繁に通うようになりました。公共事業に疑問を持つ 議連の議員を中心に、民主党、社民党、共産党、そ して公明党にまでレクチャーを行い、とにかく繋がる パイプを張り巡らす工面を施しました。その後、その 議員を介して霞ヶ関の担当省庁へ申し入れに行く、と いうくりかえしで、選挙区とは全く関係のない議員の 方々にずいぶんとお世話になり、手探りの状態の東京 の会メンバーをずいぶんと指導していただきました。
おとり鮎作戦
利水の勝利判決以後は、ダム問題がほぼ地元にボー
地元の運動をサポートする、
そんな考え方からスタートした東京の会。
東京の会の立ち上げのころから現在まで
ルが投げられた状態になっているので、最近では東京 の会はもっぱら上京チームの支援に当てられています。 どちらかというと宴会係という面が濃いかもしれません
(笑)。そんな中で数年前から東京の会で取り組んでい るのが、「おとり鮎」作戦。一種のオポチュニティ戦略で、 地元直送の鮎を焼いて、球磨焼酎と一緒に味わって、 川辺川、球磨川を舌から知ってもらうという作戦です。 可能な限りアウトドアで開催し、東京では滅多にお目 にかかれない鮎の大きさと味に、参加された方はほと んど、より一層の興味を持って、今後の川辺川ダム問 題の推移に目を向けてもらっています。
この作戦は、最初想像した以上の効果を上げてお り、元もと親交のあった在京の NGO はもちろん、多 方面での相互コミュニケーションをもたらしてくれてい ます。従来の年配の方々以外でも、若年層、学生など も巻き込んで、新しい展開が生まれつつあります。
報告 / 東京の会事務局 / 渡辺誠 1998 年に議員会館で開かれたヒアリング
1998 年に最初に東京で開かれた代々木でのイベント
2005 年 11 月、財務省にムダなダム予算をつけるなと申し入れる。
東京のあまりきれいではない、隅田川のほとりで開催した「おとり鮎作戦」。 おいしい鮎と球磨焼酎で、コミュニケーションの幅が広がります。 毎回とんぼ返りの強行軍でやってくる上京団
をなんとか説得して浅草見物に。