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平 成 2 4 年 7 月 2 6 日 ( 木 )
城 陽 市 役 所 集 合
出 発
( 小 学 生 6年 生 2 6 名 ・ 中 学 生 6 名 合 計 3 2 名 )昼 食
平 和 記 念 資 料 館 見 学
資 料 館 地 下 展 示 場 見 学
被 爆 者 講 話 ( 岡 田 恵 美 子 氏 )
旅 館 到 着
入 浴
夕 食 等
ミ ー テ ィ ン グ
( 各 自 持 ち 寄 っ た 折 鶴 を 束 ね て メ ッ セ ー ジ を 書 き ま し た )
平 成 2 4 年 7 月 2 7 日 ( 金 )
旅 館 出 発
広 島 平 和 記 念 公 園 到 着
原 爆 死 没 者 慰 霊 碑
広 島 二 中 原 爆 慰 霊 碑
原 爆 の 子 の 像
( み ん な で 持 ち 寄 っ た 折 鶴 を 捧 げ ま し た )
原 爆 ド ー ム
爆 心 地
国 立 広 島 原 爆 死 没 者 追 悼 平 和 祈 念 館
広 島 風 お 好 み 焼 き 体 験 ( 昼 食 )
広 島 市 出 発
城 陽 市 役 所 帰 着
目 次
広島派遣団に参加して青谷小学校 6年 東 茉 里 1
広島で学んだこと青谷小学校 6年 堀 井 文 哉 2
広島派遣団に参加して青谷小学校 6年 横 山 寛 明 3
広島に行って青谷小学校 6年 小 林 時 真 4
笑顔があふれる世界へ久世小学校 6年 藤 永 紗由香 5
原爆久世小学校 6年 千 代 実 紅 6
広島派遣団に参加して久世小学校 6年 藤 田 佳 奈 7 広島派遣団で久世小学校 6年 松 野 莉 子 8
広島での戦争、平和久世小学校 6年 喜友名 萌 那 9
広島に行って久世小学校 6年 山 本 知 樹
10
戦争はこわい久世小学校 6年 西 野 優 人
11
広島派遣団に参加して久世小学校 6年 浦 川 周 馬
12
広島派遣団に参加して寺田小学校 6年 小 寺 旭 博
14
広島派遣団に参加して寺田小学校 6年 山 口 歩 人
15
広島に行って寺田西小学校 6年 山 崎 有 澄
16
広島派遣団になって寺田西小学校 6年 橋 本 健 吾
17
戦争の恐ろしさ寺田西小学校 6年 小 原 諒 士
18
広島にて寺田南小学校 6年 奥 田 愛 子
19
広島県に行って学んだ事富野小学校 6年 田 中 萌 栞
20
広島で学んだ事富野小学校 6年 小 林 真 菜
21
平和を願って奈良育英小学校 6年 後 宮 尽 我
22
広島について深谷小学校 6年 寺 井 鈴 音
23
世界中が平和になりますように深谷小学校 6年 河 合 陽 菜
24
広島派遣団に参加して深谷小学校 6年 一 瀬 真友子
25
命の大切さ、平和の尊さ、私達の幸せさ深谷小学校 6年 西 野 七 海
26
広島派遣団に参加して学んだ事古川小学校 6年 岡 田 高 明
27
平和の尊さを教えてくれた広島北城陽中学校 1年 朝 子 陸 矢
28
広島に行って北城陽中学校 1年 加 藤 成 希
29
広島へ行って西城陽中学校 1年 河 田 そ ら
30
広島派遣団に参加して西城陽中学校 1年 武 田 多 惠
31
広島派遣団に参加して南城陽中学校 1年 長 澤 知 穂
32
戦争の恐ろしさを知って南城陽中学校 1年 平 岡 紬
33
広 島 平 和 派 遣 団 に 参 加 し て
青谷小学校 6年
東 茉 里
私の姉も6年生の時に広島派遣団に参加しました。その資料を見たり、姉の話を聞いているうちに私も行きたいと思うようになりました。人数が多かったら抽選だと聞いていたので、無理かもしれないと半分あきらめていましたが、封筒が届き行けるとわかった時はとてもうれしかったです。そして当日、同じ学校から4名参加できましたが、3名が男の子で、女の子は私1人だったので誰とも話せなかったらどうしようと不安でいっぱいでした。でも行動班の女の子が「一緒にまわろう」と明るい声で話しかけてくれて私の不安も一気にふき飛びました。広島の事は本で読んだだけで、あまり知らなくって観光気分で資料館に行き、想像以上の光景に言葉を失いました。真っ黒なお弁当、焼け焦げてぼろぼろになった学生服、こわれている眼鏡などが展示されていました。眼鏡はさわっただけでポロンととれそうなほどでした。「水をくれ」と道をさまよい歩いている人、ふらふらになって歩いている人の写真や人形。まるで声が聞こえてきそうで頭が痛くなってしまいました。資料館で、被爆された人の話を聞きました。1枚の紙で戦争に行かなければならず死んでいくことにもなったそうです。そして8月6日雲ひとつない青空、7時に空襲警報が解 除されました。飛行機が飛んできても日本の飛行機だと思って手をふっていたそうです。「ピカ」その瞬間吹き飛ばされて周りには何も服を着てないで男か女かわからないほどやけどされた人がいっぱいいたそうです。「水を下さい」といいながら歩いている人、横たわっている人、空は赤く夕焼けのようでその日以来夕焼けが大嫌いになったとおっしゃいました。子供達は疎開といって親から離れてお寺に預けられました。家族が面会にきてくれるのが唯一の楽しみでした。でも少しの人しか親元に帰れなかったそうです。戦争が終わった後、働こうと思っても、戦争で勉強していないので漢字もわからず計算もできない、何も知識がなく原爆で放射能がふったことも知らなかったそうです。知識がないということが一番辛かったそうです。お話の中でこれだけは絶対守ってくださいと言われた事があります。1.人を傷つけない2.毎日を大切にするという事です。私達は学校も行ける、家族と食事もできる、じゃぐちをひねれば水もでる、笑ったり、泣いたりできる、そんな当たり前の事を当たり前と思わずだいじにしないといけないと思いました。その頃の方はそんな当たり前の事すらできなかったのですから。そしてこの広島で学んだ事、感じた事を、家族や周りの人に伝えて、2度とこんな悲しい事がおきないようにしていかないといけないと強く思いました。2日間でたくさんのお友達もできました。本当に行ってよかったです。
広 島 で 学 ん だ こ と
青谷小学校 6年
堀 井 文 哉
今日は、8月6日。広島平和記念日。朝からテレビでは平和記念公園がうつっています。ぼくは先日広島に行って
そ、なみついた服、ひどい絵んも今の本日のがといて見をる の展下地資館料は次に場示行はしきの血、たにしそ。こま つきました。 写、焼けてしまった町の人信真景、きに目が焼光なれらいじ っ生学たボなにロボや服ロいしゅんで消えてしまっった 箱で。す 、。一番印象に残ったのは輪黒こげになった三や、弁当す車 原資爆のこともっと知るにはを料見館でとこるにいさ実で れとばならないた思いまし。 て伝ほしい、話えていかなけにっ知達人のんさくたをのこ 話できないおでした。 でた人るやいしん。苦でどけちのどにのも像想はくぼ今も話 らずに街知のずに広島てっもきやたっと病気帰、の、そとこ後 温したが度上もにこ以度たっとまをの、れかたら放が線射ば とこたっむかれね台音、で風、よ0004なきりが風い強ふ で話おの爆験体たはのし被。飛前るいでん者が行飛は日機の こつにとさたれて下投がいき学んでました特に心に残った。 67年世前の今爆、日界で初めて原 同とちたくぼじ 」のの日は「原爆の子の像前に千羽鶴をささげました。次 かもてのもっ知ほしいです。 いそ争戦てしし。たどまいがけれだと悲さんでおそろしい思 んてほしれ広なきれいな街ずなったに島人をおにとのさくた をうどて見の島広達今が人思うかしなこ。たんま考とーぁえ かてとがけ和平だれどよも。くわかりますあのころののなも
てっわおが でなんこも。ついのたしま世ま中いが争戦すで。しほてい続 も生平和な世の中にとまれたからだ思いこれ。まいでん遊す のたぁなか折いてっえを鶴と考まはで気日毎元達くぼ。たし 子で亡くなったさだ才さんはどんな思いで12
。すでと はおの争戦きとるろでてしそこしえさこくてい伝に中界世を らい世界は滅びてしま被ます。唯一の爆国とれたさと落が器 し争戦核、今。もこたしまおがり何兵核広倍百の倍十何の島 は、一生戦争はやって年いけないとぼくは思い67
広 島 派 遣 団 に 参 加 し て
青谷小学校
横 山 寛 明
年6広島派遣団への参加が決まって、ぼくは、広島に行くのを、とても楽しみにしていました。なぜかというと、テレビなどで見ていた原爆ドームなどを見に行ったり、広島風のおこのみ焼きを、焼けたりするからです。原爆のことは、たった一つの爆弾なのに、広島市の家々がいっしゅんのうちにしてつぶされて大量の放射線を出していたことや、東京の空襲などで、使われる爆弾の何万個以上のい力があることなどは、広島に行く前に知っていました。しかし、実際に広島に行って平和資料館や、原爆ドームを見て、たった二日間だったけれどもすごくたくさんのことが分かりました。ぼくは、去年、長崎に行った時、資料館で、原爆の模型を見ました。あまり大きくない爆弾一つで、一つの大きな市がはかいされたのが信じられませんでした。でも、今年広島の平和資料館に行って、いろいろな物を見て本当にはかいされたのが分かりました。平和資料館に入って目に入ったのが、「生死をさまよう」という展示でした。広島に原爆が落とされた直後のはだがやけただれていて、きているものがボロボロになって、顔を見てもだれなのか、分からないぐらいの顔の人が、広島の町をさまよっているもけいでした。背景には、燃えている家々がかかれていて、とてもひさんでした。 そのほかに、やけこげた三輪車や、中身も黒くなってでこぼこしている形だけの弁当箱がありました。爆心地の写真は、原爆が投下された後、門だけがのこっているだけで、ほかは、そこになにがあったか分からないようで、山のふもとから、ずっと、遠くを見わたせるくらい、建物がつぶれている写真でした。そこは、はだしなどでは、とても歩いていけるところではありませんでした。これが現実にあったのだと思うと、こわくなってきました。ぼくは、この広島派遣団として広島に行き、資料館などを見て、原爆のおそろしさや、戦争というのは、とてもざんこくだということが分かりました。そして、被爆者の方の話を聞いて、平和の大切さ、命の尊さもよく分かりました。そして、二度と戦争というおそろしいことは、やってはいけないと思いました。ぼくは、被爆者の方の話をもっといろいろな人に聞いてもらうと、平和な世界になると思います。ぼくは、今回分かったことをいろんな人に伝えていきたいです。
広 島 に 行 っ て
青谷小学校 6年
小 林 時 真
ぼくが、派遣団に応募した理由は、
月8
約でスバらか陽城 たたかっ。からです知りくどわくかのたっなうしが島 ののあ日日、広6
り。したま祈と い下てっ眠にから安「」さ に碑を花ささげ 園二日目、広島平和記念公原に死霊慰者行没爆。たしまき だというがのわた。かしまり もあ、ませんでした。でもりそがのもいわこ弾爆子原どほれ 見がのるくをけ焼夕はやいんな人がいるて、考えたことぼな 。っ見るのがいやにったとおなしまゃま今たしでれらおてっ 弾さと落の原爆子た、はんれ焼日来をけの、夕以事火大の夜 まさ田岡。たしをき者その後、被爆験体の岡田さんの話聞 くが伝わってでるのした。も なが物示展な的撃衝々色りあそ、のさしどろお弾爆子原もれ ち三のんゃ他伸、もに車輪なやから、どわ、たけとで温高 ちなどと言う気持てがわっきました。伝 ・「水がほしいい痛よー・助けてー」 たふがたれ下っ模親の型でした。子 行たまき資へ館料そ和平。しこっで、はのた皮残象印番一に 市昭を」言宣平都和、「は市城陽和時まを食昼。たしき、着へ島、広間べ食5 。すでたっか良もて 島遣へ島広で今派広、回き行団、出貴と、来てが験体な重 自分作でも意外と簡単に来ることが出ました。 作まりたし。 きを広焼キそして、昼は「お玉のおャうベで店島いと」ツ たまし。 で改めが、戦争のおそろしさてかわ、悲しい気持ちになりり のとの像そ子禎、後のろこまで千ささげした。ここ羽を鶴
。すまい を戦争反対、核兵器反対声の大て思ときしほいっいてしく 、戦争関する話を聞きに学うと思いました。ぼ みじおに中の休夏、でちない、ゃなん、かどらんゃちあばお はんでいる京都の事せよくわかりまん。の住く、もでぼ 。すでたっか のの、さ切大さ和平、にら戦を争こわさ知る事ができて良 、遣派団回今をととをおてわかりました。し そやを器兵核れ争戦「はそなうく」こういだと動運ういと 。たしまり知 らてかし年いる事を61
笑 顔 が あ ふ れ る 世 界 へ
久世小学校 6年
藤 永 紗 由 香
私が広島につき景色をみると、昔こんな不幸な事が本当にあったのかなと思うくらいとても景色はきれいでした。初めに行ったのは資料館です。ついて目にしたものはボロボロになった学生服や、皮ふがたれさがった人体もけいでした。それを見て、「自分ってすごいめぐまれているのかなあ」と感じました。学校で戦争について学ぶ授業で「はだしのゲン」「対馬丸の戦い」を見たことがあります。それを見た時は、「良い時代に生まれて良かった。」と思っていました。でも広島派遣団として、色んな事を学習すると「ふつうに学校に行き、ふつうにごはんを食べている。こんな当り前な事が、昔はあまりできなかったんだ」と思いました。2日目、おりづるをささげる時、そこには数えきれないほどたくさんのおりづるが、ささげられていて、私も自分で持ってきたおりづると、他の人の分の思いまでささげてきました。私は、「一生戦争がおこりません様に。ずっと平和な世界でありますように。」と願いました。そして被爆者の話を聞きました。すると、戦争に対しての気もちがだんだん強まってきました。被爆者の人は「姉がいってきます。と言ったきり帰ってこない。」とおっしゃっていました。私にも姉がいます。姉がいってきますと言ったきり 帰って来ないなんて今では考えられません。今は好ききらいをする子も多くなってきています。昔は好ききらいなんてできなかったでしょう。もっと一日一日を大切に生きなければいけないと思いました。過去にこんな悲しい悲さんな戦争というものがあって
。い動をてしきたいです 人もたくさんのいに伝えるとかう活られも、け続ちもをちこ 返てし度りくといはいけないとう強い気2
原 爆
久世小学校 6年
千 代 実 紅
私は広島派遣団に入って、たくさんのことを学びました。初めに行った平和資料館では、原爆にあった人の持っていたものや着ていた衣服などが展示されていました。これらが現実にあったものだと思うと、原爆はとんでもない爆だんだと思いました。
がてがたくさ展示されんいした。すべての絵ま れたっがさ人たがふ皮、態状てで人水の時当、絵るめ求をい め人るいてけ求を助りな道水、にで頭いでん死るんっつをこ 様展がのもにい書絵を子さ示たれのてきじ下に家いたしま。 しまき行地に下館料資。たは資料館地下に、その時の次に 。す うたなってしまうきょふは考えだわまきてっなくこ、もでけ っのでまきもさ、人ぶけ界世くが瞬の光でなに一かもがな 死ばに人はっり周く黒なんりか水。水と」、さ「がで顔ま黒 し、た。瞬のうちに家や木一な草いみが人、はましてっなく 急前そんな爆だんが年に空からふってきま67
。じたしでんせまれら信とう思とだ 年島広の前67
う多すでき残ってしまこともうか後っっき生、残の。そたそ 、族家時当話はでの者バがだラ、生がけ供バ子りたっなにラ 爆被。たしましいくさんはえているあ、々も活気にふれ人て とれわ言え」いないはがて今ましたが、の広島は草木がた、 67年木、草はに島広「前 た。 な和とおこしてはいけい事と平の大しで間日二だん学をさ切 こ、すますま原り知を事たくわ度思争二も爆いも戦。たしま りをたいは毛、血りたけがら、治人ず抜っにか多がくいでん死 し残、もてがとたきで事されたか放のみかり、かに病で能射 ほし、原爆のるのおから助かも、爆うましてっばうもかも原 原おの爆こで間日二のろそ実し。何で瞬さ一たしまし感を 。でうそたす でまもも働きはじめっした。、家族がいないさみしさはあち を活てしる生しすりたっばういにま後たじこはた年数もで。 に他、りなはじこのちた人た食べ物や物をぬすんだり、子供
広 島 派 遣 団 に 参 加 し て
久世小学校
藤 田 佳 奈
年6私は友人に誘われこの広島派遣団に参加しました。以前に祖母からは戦争の話を聞いたことがあります。祖母が8~9才の時、東京に爆弾が落とされたそうです。祖母は家族と列車に乗って助かったものの、近所の方は「もうなにもない。ここに残る。」と言ったそうです。この話を聞いた時、私の背すじが凍りました。戦争はひどいものだとよく分かりました。しかし、広島で原爆を投下された話には祖母の話よりもっと恐ろしくこわいもので「恐怖」そのものでした。晴れの天気を破ったのは核兵器でした。
時8
並い、ビルがたち今び車が行き交、でリがれそ。すでうそは 今にも崩たて、は時当もムード爆原物建れの壊そうだったれ 、でどな血物骸残のがさり周みすせわそうでた。一残れた唯 話周はでさのん部り語はりな一方面建骨のやたれらく亡、 能が放原因で亡くなるた方は大勢いそうです。射っ 残血の毛が抜けたりを、吐いたり、生き髪はったび浴ても、人 。、ことをふ黒いがるのは雨をん放射能を含れだこので、も だ間瞬のこた。しまりがけの恐後怖しろ恐がいこくなはで、 て黒し崩をに全、共と光焦にげの焼は私とだ知もましていう 繰は戦争がさり返れないよ。界初れさ下投てめす爆うな世いを願いたま弾すでまきちをしらご射放はれそ能、 かた後本ら、日され兵下崎と思いす。長や投広島に核器がま間こわで界世。たしでの時たっ間変のに、広島瞬全が恐怖て 思たしまい疑に問は私で。分も、あれから日本は変わったと15計で止まってる時。 勢が方のな大もにく亡てらなくすむのに…。」 メれアに前るけさ下投がイカリなと戦争をやめておのばこん しもなれ失かうを族家やの。いト何にでボルリー広は本日島 いがなにせ幸国員全ののそ。るわけにでもな切大逆。いなも ろ争戦?うてだんるあが味をし何わかなでけはるなく良が 私れたことを聞き、なは「戦争はんの意下さ兵投器を核も崎 今ま苦もでなはんさてみのれしいけ長まなはでくだ広。す島 でいてき生もみれそ、で人れる被達しの者爆た。まき聞を話 た。すでうそすっだ酷残くご皮膚はがたま血ち落玉目、れだ れりわ代る食らえ与物べ働にをかそせが事仕の、ていてれら っがとこた子あでうそも供か分たりっはま子た供失を親。し し下そ。たして投、されしん後のは大人だけだではなく苦た 、そ思いまだとでし。たしこんるあがてそ今らかるあが昔、 下トルボーイが投いさなみ町のいらくえれ思と島広の後た並
広 島 派 遣 団 で
久世小学校 6年
松 野 莉 子
私は、この広島派遣団になぜ参加しようと思ったかというと、姉が2年前に参加していたので私も行ってみたいと思ったからです。行く前は、原爆ドームなどテレビや写真でしか見たことがなかったので見てみたいと思っていました。平和記念資料館では、
時8
15分で止まった時計、
時8
らび、窓いラスもなかったのでガっりくくるか分できはしっ たームは、周りにレンガがさくん落ちムいて、ドーが少てド ムた間から原爆ドーが見えいてのた爆原。すがでっかごす りしわま。たままいてれま家にそ型りの。たのしあがいこか ちて過さだくいっ眠にから繰はと返」込しざきみらぬせまか ねいてっむ人が々のんくさる聞と面き安、「はに正。たしま にしき行も。園公念記和平たま原い爆たはにひれい者没死 いとだのたりてました。分 いっもい雨、白カベに残たあとっあ当はふ黒に雨。本たしまり がのたっあん被のとさくたか害思にいたっふ黒後発爆。すま にか服たっなろろぼまぼ、たら、はの遠、にうよこもていにく 原ろそおの爆しまのそ。たさしりがか、と。たしま分くよもて 他いろいの生のそ、服夏なろの展の示て見もきるてれさがい たげこ黒。いしまてれさになっこた女学たげ子け、箱当弁焼 思たしまいたといき行ばれ。とが示こたち落が爆に当本に原よ際くも計時に展実、りか分 けし楽どれかたっっわこもか分たです。また行ける機会があて15 ん、今年、たくさのこと学べをたをと、りくつく友のんさ 。た し建でりかば物たれさいか。たとといしてい思まろそおもし そ地てい書がの心爆時当りあのまもしは、なくかもにな。た のばんみたいなもにがあり、そこはかんな、たしまいてっが てとこるいさ来にげさかなわがり心院病は地に爆たしま。 のまりあが子い女るてげさたしみ。がたん、ありるつんさく 像千、はたで。の子の爆原づ羽まる。ををるつさたしげささ ん爆ドームけが残ったなだくいおごてします思いしろとそ 周建のりた。はしましり物ん、ほとどない聞いたので、原と
広 島 で の 戦 争 、 平 和
久世小学校
喜 友 名 萌 那
年6私は、友達に誘われて、平和のための小中学生広島派遣団に参加しました。戦争のことを勉強するとはわかっていましたが、応募の時は、楽しい旅行気分で応募しました。
7
月14
日の説明会の時に、楽しい旅行じゃなくて、しっかり戦争のことを勉強して、考える機会なのだとわかりました。その日の語り部さんの話で、戦争の恐ろしさが、よりわかりました。戦争は、絶対にしてはいけない、ということも、改めてよくわかりました。7月
、爆わかりました。そしてなぜ原を、くったのかつとても知 こでま。たしこりあて原し示展、も爆がのくよてとさしろ恐 箱中身のそやげ当弁お黒こ三た、く輪ん車も物のさくたどな にさくた、は念館料平資和のん記出事がかかれてあり、来 たりまし。 人んで亡し苦でいせくてしまうながかこいがわとっういとた の争戦にのいなく悪にも被した。子供なも爆して苦しむ、ま んな人。し知強すでいたいらもてっにし人のんさくた、てし話ごにまるた。しスが広島に入バとを、勉少しとこの争戦 回りました。今を学んだこと、いろかくわりんの話を聞いた、ド自由に楽しく過さイよガがさ惨悲やさしと達話したり、 のろ争恐たや中むかいました。バスので島は、お菓子を食べたり友に広和、平の当本、てし加参に団遣派のこ、回今戦 。すでいたきいし説、明け受を害被な大で争戦きりか乗聞いてをらバスに、 うはにるすすそ。まいうどとしたらいいか、もっと考えて思26き市日少。たしま行に所役、てっ持を物荷なき大、 暮よるせらなに和平るせにうでな和れ界世なに平球地、ばは っ先何と和ずを平のこ続も年けもて幸んみな人の他、きい なけで、とても平和いのだと私は思ます。だと 」えことはないし、「自分を支うてれる人がいるというこく 族す。家でがいない人いまに思とだと絶対「一人」とい、も 幸こいと言ってくれるがいると人うよこなもりせに、はとな とすまい思はいなでいが、『が言たかだと』りえうおいと』ま『 こるいくな仲がんみ」「と良と。思まもれこちたまいてしっ 和うい」とが平ととこのえこ私です。の今まの「平和」とは、で いだるのりたあの本日、和平もるきでがカンまケ、和平でけ 当のに番族家、「はたっ残に心一がが私。たしまりなに勉強 たう、てく多もてと本が分部がしちととこたいてっ思。れま 語こりのくし話ていつにとこの和平、と爆原、はんさ部て 。りたくなりました
広 島 に 行 っ て
久世小学校
山 本 知 樹
年6ぼくは、
月7
26・
は島広 い「水をれー」とくう人たちでした。 「水をれくー」 た一番びっくりしはの、体がとけて み、とるにてっ入と中外ちは全然がう空気でした。 し。たま後平そのき、最初「に和記念資料館」に行 。た ス5で中のほバ、は目日一時て間をどまりとし食昼しご過 しました。 広に、「小中学生日島派遣団」に参加27
が水人るいてっいと」ーれくを「 万がたしまりなく亡が人の人14
。たしましご過 楽の修、は夜い目日一行し学旅のイ夜とイをワワ、にうよ 成、平とるみそてえ考う代時よにっ生。すたでかてきてれま は」と聞いた時ま、びっくりした。たし もあな「体がとけているのはのん。もっはないでっとひどか で話の者爆被、 れが展示さてた。しまい 中には弁、黒こげになった当たど箱車三なびさく古、や輪 。たしまりかわもと 10万いこ人上以るという げりづるをささ全る時に、体では折、 さ慰二日目の朝、みんなで霊げ碑に花を。たしまき行にさ
。をきっと、「米軍」うらんでいるはずです 思なーと。いました っ原爆のせいで、死んしまでたっ人かのるいて思うど、が がそのろしさ恐伝わりました。 に対して、残っていたからです。 しのたれさわこてにんトうと、ンクリーコのべがいっしゅか りはのたしでくっび目爆原日ドームでした。な二かといぜ た。 にみんなは、平和ためだけのつだるまじ感としんたっ折を 感のかーとま心しした。 い枚は万っている5
。和そして世界が平中でよあにう…すまり が貴重な体験をありうとございました。 あその夢を叶えてっげたかたです。 う。ょでし にー中はぼくのようサッカに選っ手いも人たるかりなにた 。す ま生ので1才00~が命才とても残念だったと思いま0
戦 争 は こ わ い
久世小学校
西 野 優 人
年6ぼくは
戦物でれ争なんてこのさ殺も植る、犬もで外以人、しるれの 国めた「なぜおのに」のいい死なないいけなととうさと殺 といます。思 いしかのお「がいるてっ言にうよのうつふがののちゃ」う? お国のたのに死ぬ」にめため国くお「は人く行に行争戦、 いてるとなならなばれけな聞死はしたわの」といい思ます。い だ思こは人でん死てれそっうい。「、るぼぜなくすい思とま が弾爆子原い人のっい死でぱんりだぼはてしくたさ死戦りれ とはくぼすこるにだむっぜはた。いょきっけくんにませ許せ 人の人大ぐいらか大なぜはのったいわかるに、人の命を切の ち思がということがかしいとおいかまどか地土っ命の人。す な言とかぜま。すとい思とうい人土のばうを地使もでま命う 非れ「りたとさ殺とう言民国てだはーいしかお言くっとぼ」 う日本は戦争をあり前のたに争や」対反はよ戦るいてっし「 」たしまい思とだぁな悪最もとて「。。とた戦争をやめいのがなて不思議に思いまもし 苦しるめし争を人は戦を人る殺してしまうこともあのが死んで人もていが人るいでんいぱっいが死は日、にのるい本 物殺がい植や人れなさだてかそと思います。うのいばし当時の日本は戦争わかりて日はいぱっいんさいた兵の本 知わさを争りました。このぜとは最悪だと思います。な戦かい戦うと一切関は係くぼ改めて争 。にすいたし問質で知人行ていたけど資料館にっさたりビデオを見るとっもわこの し争そ、かのるれくてどうのを命の人だん死でに時にいっ回爆原もさわ広島し行たたことがあって戦争のこ戦1 いてな人を殺して土地もらっをう意られわが味かかるがしの 戦きでが争はぜなくぼのた争かからないです。戦わはなぜ 力をせがなんみわあてで和。す平いしたに 球そてこれから世界、地しを和にしていきたい。だか平ら 思た。っ 器世になければいいし核兵もとこの世からなくればいいな
広 島 派 遣 団 に 参 加 し て
久世小学校
浦 川 周 馬
年6ぼくが、広島派遣団に参加したいと思ったきっかけは、今までは、広島や原爆のことをまったく知らなかったので、広島派遣団に参加していろいろなことを学んだり、体験したいと思ったからです。それと、テレビや本でしか、原爆ドームを見たことがなかったので実際に行ってみて、本物を見たかったからです。また、ちがう小中学校の人と交流して、友達を増やそうと思ったからです。一日目に、平和記念資料館に行きました。そこには、
時8
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原爆はこの原爆ドームの南東160メートルの上空約600メートルでさく裂しました。がんじょうな建物がほね組になってしまうぐらい、原爆の威力はすごくて、おそろしいものだと思いました。ぼくが、原爆のことを学んで、思ったことは、戦争のない平和な世界にしてほしいということです。
広 島 派 遣 団 に 参 加 し て
寺田小学校 6年
小 寺 旭 博
バスで広島に行きました。初めに「あいおい」と言う所で昼食を食べ平和記念資料館の見学をしました。平和記念資料館を見学して目に映ったのは、ボロボロのくつに弁当箱、それに時計全部ボロボロで信じられなかったです。原子爆弾の被害にあった人の写真をみて残こくでした。こんな残こくなことがあって助けられたらいいと思いました。次は、資料館地下展示場の見学に行きました。そこにも、残こくなことがありました。そこには、絵がかざってありました。それは、原子爆弾が落とされて水がほしいと言っている人の絵がありました。次に、被爆者の岡田美恵子さんに、原子爆弾を落とされてどれだけ苦しかったかを聞きました。その岡田さんは、外に出ようとしたときに被害にあって苦しんでたそうです。それで、これからも平和になってほしいと思いました。その次は、バスで、旅館に行きました。それで、風呂に入り、夕食を食べ、自分が一日で、何を学んだか考えてミーティングをしました。それで、ねました。次の日、旅館を出発して、広島平和記念公園に到着して、花をかざっておいのりしました。 次に、原爆の子の像の所で、折鶴を捧げました。写真をとりました。その次に、原爆ドームに着きました。原爆ドームを見ると、今にもくずれてきそうに思いました。原爆ドームを見ると、中が見えていました。その後、爆心地の所へ行きました。ここに原子爆弾が落とされたのかと思いました。この後、広島風お好み焼きを作りました。とてもむずかしかったです。でもおいしかったです。広島風お好み焼きを作ったら広島を出発して城陽に帰ってきました。こっちに帰って来てあらためて思ったことが、これからも平和でいられるように。
広 島 派 遣 団 に 参 加 し て
寺田小学校 6年
山 口 歩 人
ぼくが「平和のための広島派遣団」に参加したのは、友達にさそわれたからです。広島のことは、そんなに知らなかったけど、「はだしのゲン」の本は、読んだことがあって、広島に原子爆弾が落とされて、人や町がめちゃくちゃになったのは、知っていました。でも、広島に着くと、とっても大きなビルがいっぱいならんでいて、木や草なども、とっても、いっぱい生えていて、とてもびっくりしました。昼ごはんを食べて、平和記念資料館に入るまでは、友達といっぱいしゃべっていたけど、中にはいって、原子爆弾が落とされる前の写真と落とされたあとの写真を見て、ぜんぜんちがうのに、びっくりしました。落とされる前の写真には、家がたくさんならんでいたけど、落とされたあとの写真には、ほとんど、なにもなかったことにとてもびっくりしました。次に、とても大きな、きのこ雲の写真を見て、ちょっとだけこわくなりました。きのこ雲の写真は、はじめて見てとてもはくりょくがあってびっくりしました。あとガラスのビンが、ふんにゃりねじれていたのに、びっくりしました。写真とビンを見てから、原子爆弾のおそろしさがだんだんわかってきました。次に、ビデオを見ました。原子爆弾が落とされて、人の目玉がとれたり、人がものすごい爆風で ふきとんだりしているところを見て、原子爆弾の力がとても、こわかったです。次に、岡田恵美子さんの話を聞いて広島や長崎に落ちた原子爆弾の名前がわかりました。その時に、「原子爆弾に名前なんてあるんだなー」と思いました。原子爆弾のなかみは、放射能や、色々つまっていると聞いた時、一番こわいのは、放射能かなと思いました。なぜかというと、放射能は、目にも見えないし、においもしないからです。二日目は、主に、「平和記念公園」を見学しました。爆心地の近くに、大きなビルがたっていて、びっくりしました。原爆ドームに行くと、ガラスもなくて、れんがが、つぶれていて、鉄骨の一部が見えていて今にも、たおれてきそうでした。昼食は、広島焼きを自分でつくりました。一回目ひっくり返すときは、ばらばらになったけど二回目は、きちんとできました。おじさんがわかりやすく、教えてくれました。一回目は失敗したけど、とてもおいしかったです。広島のことと原子爆弾のことが知れてとてもよい経験になりました。
広 島 に 行 っ て
寺田西小学校 6年
山 崎 有 澄
わたしは2日間、戦争の勉強のため、広島へ行ってきました。1日目バスに乗って行きました。ちがう学校の人とも、友達になれて、楽しい気持ちでした。広島も明るい所でした。そこまでは、わたしは、楽しいことなどでいっぱいでした。平和記念資料館へ行き、中を見学したとたん、わたしの楽しい気持ちは、どこかへ消え、戦争のおそろしさ、悲しさなど色々な気持ちがこみ上げてきました。わたしが一番印象に残ったのが、体などが「どろどろ」になり、ひふなどがはがれている物でした。見たとたん、目をかくしたくなるような物でした。だけど実際は、そんな人が何人もいたらしいです。ほかにも、黒い雨がついたかべや、戦争がはじまったくらいに止まった時計や、ぼろぼろになってしまったお弁当箱などがありました。それを見ると、本当にこわかったんだと思いました。戦争にあった人の家族の人がなくなったという話では、わたしにとってお母さんなどの家族がいなくなることは信じられません。なので、本当につらかったんだなあと思います。 被爆者の方のお話を聞けたことは貴重なことだと思いました。戦争のことなどなにも知らなかったので、貴重な1日だったと思いました。2日目は、原爆死没者慰霊碑に行き、花をささげました。ささげる時、こんなひどいめにあわないように。平和をこれからも守ります。という願いで花をささげました。次に、原爆のさだ子という子の像に行き、折りづるをささげました。色々な所から、折りづるがきているので、たくさんの数でした。平和という字になっているつるや、PEACEという字になっているつるもありました。折りづるがたくさんあったことに、平和のことをたくさん思っている人がいるんだなあと思い感動しました。次に、追悼平和祈念館に行き、被爆された方の写真がありました。写真を見ると悲しい気持ちにしかなりませんでした。一つの爆弾でたくさんの命がうばわれていくことにたいして、なぜ戦争をするのだろう。なぜ、人をたくさんなくしていっているのだろう。意味もなく、人を殺さないでほしいと思います。わたしたちがふつうにくらしているのも、平和なんだと思ってくらしていきたいです。一日一日を大切に生きていこうと思いました。本当に、広島派遣団に参加できてよかったです。
広 島 派 遣 団 に な っ て
寺田西小学校 6年
橋 本 健 吾
ぼくが、城陽市の広島派遣団になったのは、自分が行きたいと思ったからです。前にも、広島に来たことがありました。けど朝、市役所に集まると、ワクワクしました。約5時間、広島に着きました。原爆が落ちたとは思えないほど、きれいでした。まず、昼食を食べに行きました。そして、また少しバスに乗り、次に平和記念資料館内を見学しました。ここでは、原爆が落ちた後の広島の様子やボロボロの服、止まった時計などいろんな資料がありました。なかには、残こくな写真やもけいがありました。資料館には、原爆が落とされてからの日数が表示されている時計がありました。「24461日(7月
感のを想しっかり言ました。そえ後と、部べゃしっなみで屋ん 1想感の日し。たましはでわ、ら、伝けいなどかはかたっわ ミンィテーし。たでましグにはね、る羽千てづ束りるづを折 浴入、きへ行バ旅で夕、ミ食をすませてーティングをス館 話てもらいました。し 、しろそおださ強のんやさ様被をおくしわ爆く子の々人の後 講者爆被し、後最。たを話に聞はき爆子原、たで講。し話ま がたい描た人やし爆被に絵なまっ黒お弁当展示してありまが 27日行)」次当、地下展示場ににきにま本は、ここ。たし 世争が起こらないっ界を強く願ています戦。 な一のは、無理かもしれいけど、つく、ととこるななく多もで 0るあ個0も332約がると知と全、すなをてく器核のそ兵 気に因は原のい病しなえる見な。かに器兵らは核界世今すで もしで中。たとまり分ても当本でにい目放。すにわこは能射 ので間日2ぼこ、はく爆原のとさもてこがしろそお、さわ に、り乗陽スバりわ城し市き役たま。てっ帰へ所 でっこうきれいな。すよかったで。食べ終け形たまり作をし まぼ。たしをり作ねき焼はくぎたきをみ好お焼せいぱっいの 入た見り念に館祈和平、りし聞食たみ好おにい昼たしま。り を、て見ーム心ド爆原に爆外地の島科を見した。それからま 像りげ子の次に昨日の折づるを捧てり。たしまとを真写合集 爆慰者没死霊原、に初最に碑次花。のを原に爆たまげ捧し い。たしまげ買つ一をしそたて館を出発しまし。旅 食をべ食を2朝、目日っ持物てに一やみおて間つ待で階荷 。たしまね、てしりた
戦 争 の 恐 ろ し さ
寺田西小学校 6年
小 原 諒 士
1945年8月6日8時
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広 島 に て
寺田南小学校 6年
奥 田 愛 子
わたしは、一日目行くとき、不安と楽しみだと不安の方が多くなっていました。でも、バスに入って出発すると、楽しみの方が多くなりました。バスの中で、ビンゴと逆ビンゴをしたときに、ビンゴの時はなかなか穴が開かず、逆ビンゴのときはすぐに穴が開いたので運がないと思いました。そして広島に着きました。そこでまずは昼食を食べ、広島平和記念公園にある平和記念資料館に行きました。そこで、ナビゲーションてきな物をもらい見学しました。その資料館には、当時の遺品や、その当時のもけいがあり、すこしかなしくなって泣いてしまいました。その後、資料館地下展示場に行きました。そこには、広島の原爆が落とされた当時のことがわかるような絵がかざられていました。その絵は、いろいろあったけれどどれもひさんな物をえがいていると思いました。その後、追悼平和祈念館で、被爆者の人の話を聞きました。1つでものすごい力を持つ核兵器が、なぜ約2万個も世界に存在しているのかと思いました。 旅館では、千羽鶴を束ねたり、思ってたことを言ったりしてこの日は、へやにもどってそっこうねました。二日目、この日はまず旅館から出発し、広島平和公園にある、原爆死没者慰霊碑に花を捧げました。花を捧げた後、広島二中原爆慰霊碑の前で手をあわせた後、原爆の子の像に、千羽鶴を捧げました。千羽鶴は、原爆の被害者へのおくり物のような気がしました。そして、原爆ドームに着き、そこにはレンガのざんがいや、鉄骨を丸だしになったドームがあり、もえたなにかがちがうかんじというイメージができました。その後、爆心地の場所に行った時には、爆心地とは思えませんでした。もう一度、追悼平和祈念館に行き資料などを見ました。記ろくは、とてもいたいたしい内容ばかりだった。だから核兵器がすこしずつでもいいからなくなってほしいと思います。その後、広島風お好み焼きを作りほとんどのこさず食べ、バスに乗り一泊二日は、ぶじにおわりました。
広 島 県 に 行 っ て 学 ん だ 事
富野小学校 6年
田 中 萌 栞
夏休みにはいる前、私の学校では第二次世界大戦のお勉強をしていました。1941年
12月8日~1945年8月
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広 島 で 学 ん だ 事
富野小学校 6年
小 林 真 菜
私は、この広島派遣団に参加して、いい体験になったと思いました。8月6日、あつい日に、原子爆だんが落とされたと聞きました。平和資料館では、その時の8時
すおごく食べてみとるいしかったです。 さすごくたくてんっいました。も そ1、もとれで。たしのびつうっがくツベャキでのたし、りも い、どけだばたみそきやおのこしみべ食いろもも、でき焼お じ広、てめ私ははに次焼島たき自分で作って食べましを。 てため思ました。い とこらかれ、うもをんだっずついからとあなあなっいはてけ いろいなにんこ内のなろん人や物をひさな形にする爆1日 ガでラ。たしまきろどお、っの残た1つスていなかっ 原をムー爆し、ててそ、見ド、こんなにも大きなたて物で した。 いま子した。私は、平和のさのつ像さをるげのの羽ま所で千 いないまっがぎせいに人でてう、思となだなそわかに当い本 いさたしまけてけかことだ。さきんやも何、聞を話おてのっ 残いてっひで形なんさしまにたが。てっが曲スんラガはび中 た当弁おこげなに黒っま箱示どが展されてて、その物が、い 15分や計時たっまとで、 たよかっしと思いまてた、いきでに日いくし楽を間日2。
平 和 を 願 っ て
奈良育英小学校 6年
後 宮 尽 我
毎年8月になると、戦争や原爆のことがテレビや新聞などで取り上げられます。映像や写真だけではなく、実際の広島の姿を自分の目で見るために、この広島派遣団に前から参加したいと思っていました。広島に到着し、まず感じたのは、明るくきれいな街だということでした。
時8。すまりあて もの目がののたっかなあ事に前りの、示展で姿しまの時当ま っしが気た代戻に時の争しまかた料。見しでた資でまれこに 時資料館で、一間が気に戦記念和平最しし、か初に訪れた 街いて、活気を感じるになっいました。て 緑く、いらくいなえ思はと多も並く建物もたさん立ち、んで がと落れ爆原に前さ年、焼け野原になった67
の死翌日平和記公園では、原爆念没を者、げささ花に碑霊慰 をさ思い知ら。れました 光てのあたいがい歩てめ求、景っ本と当こういとただのもの 風を街がな熱いもかつつつしみ、人々が苦みながら水を想像。ごとたしまいざう 広たおっらもてせ島の街、な世話にたっがりあ、まさなばみげラきついたかんなどを見るとびスガや輪やた、三車、とけ焼 に明、ばれせわるいけ未来を守っていと学思います。それをるげ当た弁箱こ黒、もに他。しっでんせま出が葉言でうたな 合ものと同時に、復興する力見るせてくれましたく。力をよいればて一瞬で全てのものがうたわたれ伝にちえ僕とこたを に争戦、僕ちたは島恐広の和ろしさと平の大切さを教てえい動でにり通もいが中の世、はつまと前のこや、こたいて分 いら出来事は起こまないと思いす。分し15、見1のことるいてを計時たっま止で っえ伝とりかさしをたがりいて二けよろばなう恐のと度、あ 加一一たし団参に遣派がの人人、じその和平たあ感れぞれに 動こたきで緒行に一らはことたと。てしまりなに験経いいも がすでた友か多が達こ、平の二日間で、和学習をしながおっ 同学じ城陽にみながら、違う住校めやたって会初、で齢年 ちい続けなければくけないと強感じも持ま。たし かな気持ちをこの場だでくら、帰ってで中の活生の日毎のけ とのこ和を願っているんというだことをきでが、こめか確る られらけ届界か中世すた。たく、さ平なんみがてを鶴の見ん りも僕、を知分どない思自鶴の折りを届けいと思ったのでた たるてのとや、病気が治と信じ、明続子ダサけり折を鶴くる れよういな動わばうが命とのにて願て募金活をして建ったこ に原爆争よってやを戦と度二、みし悲人死彼、のがちた生女 子の同級女うい子とサのダくよる白血病で亡になった佐々木 し。またが昨聞年像につのいての話をく機会あり、原爆こ、 今僕が、の回の一かったが、この原爆た子の像でもあり見番 子原爆のにのり。たしまげささ鶴折像たっ寄ち持でなんみを
広 島 に つ い て
深谷小学校 6年
寺 井 鈴 音
どうして、なんでといろいろなところで感じた。資料館、講話について感じて、思いながら心がいたんだこと。すべて現実におきたことだからうけとめなければならない。うけとめる、うけとめる。見る。見て学ぶ。そんな事をくり返しくり返し思いつづけた。その人の苦しみ、かなしみ、くやしさを学ぶんだ、そんなふうに思った。私は、広島についた時、一番に思ったことは、日本が始めた戦争で、アメリカが落とした原爆で、大きなひがいをうけたが、ほかの国もなにも悪いことをしてない人がたくさん亡くなっているのに、アメリカをうらんでないで、戦争をはじめた所をうらんだらいいのにと思っていました。でも、資料館をよく見て、その人たちのくろうがよくわかった気がしました。資料館だけではじめの考えが書きかえられました。いっしゅんにして
い自なの子、さだこちんは、ゃ分るてが思はとっな病血白に 行はたっーにムド爆原心、時がたす原。すで爆ったいくごか ドのムーも爆、原で。た、外中人にっ、いのたでだ死く、そはた しまい思といごがとすたょえだんのいりこく負けずににた 4ーメ00見約、てほをルトどな爆しにのい核いれなはかて きっかなも思わすうといんたただ原なムー爆ド。まい思とし 亡ートル以内の人がっくなたと聞て、こメい1 たしまい思。 じうこのみ焼き、もみまんじゅが食といなれしもかたれらべ い原がひの爆、の島広、とながおか人の島広っものそ、らた て人し安も心の島広らたに幸せくろらあぁなう。だれらせる に、りむねすか人や、れはこらかっらえらもて守見とっずも こい思とうまいてっ祈もですま原。亡たっなそくで爆、てし 爆ながんだ、す。いつかなく日るいうに…。核つすまきがよ す、らかるよとうしになかりしけま思とだいだ人るむが増え 、わかあえるはずなのにりに武のうと器っ思た分自てっよた とっき、間人じんな私み事は気もちが大同だす達。とまい思 二度な広島の人ちのようと悲な劇う言といたくし返りくたを とこういれいなをしもかとにみんな知ってしいです。もうほ 核るべいま世界にある爆だんすをて地なくながつ球、とうか でで発一。すっのもいなくくたうさ。の人が亡くなんてしま なと思るんにてげささま子いだし核たはんだ爆よりぱっや。 千あが鶴羽ぱのい時っ、たっいの人の爆原がでのさくた、ん わとだうそいごかくすはの思いまいをしるげささ鶴羽千。た 思たしまい走ろだたっか。とることも遊ぶこともできなうな
世 界 が 平 和 に な り ま す よ う に
深谷小学校 6年
河 合 陽 菜
私は初めて平和記念資料館に行きました。そして被爆者の話を聞きやはり戦争は絶対にやってはだめなことで人が人を死に追い遣る恐ろしさなども知りました。平和記念資料館には、8時
たをにも苦しく、残くな思いこさしせた。たっまましてい もまりか分ちどな持気いたしな。い戦たもど子ち罪、は争の をくの人、てすならゴるべ物ミう物べ食ばがたべもでてっ食 てもをけ助」っいと~よめといてててっ拾、食し、とこたそ 人じ同も々、の他そてしうよてな助目熱」「けい「れわあに と一生懸命に生きたこきも伝わってました。も、らなし労が 爆聞して、次に被者の話をしきまた。とっても大変で苦そ ました。 こともも想像でき、そして、も型たりあとをこっか分てじ通 もれさ示展、形人うよまが町し一れっましてたさ破でんゅ壊 てがさらぶつけとめやふ骨りががを見てめ求さ水らがなえも 、石の影人弁箱当たっそな、てし三皮や車て輪たっましげこ 時で止まった分計、黒こげに15
10
秒ほどで何もかもがなくなり、大勢の人の命もなくなった。「一寸先は闇」という言葉が頭の中によぎっていきました。しかし、「これをしたのは同じ人間、だからやめるのも人間」と言っておられたので早く戦争がなくなってほしいと思いま す。日本は、もう戦争をしないことになっていますが、世界には、まだ苦しんでいる子どもたちがたくさんいます。例えば、戦争をしている国の子ども達に、食べ物をあげたら、そこから
。い方が良いよ。」とおうと思言まごすしまいざたうとがり。あ で年来。すかたっ今良に当、達年に行っ行「た人たっかなけ 団し募応に広遣派島い回今てもろ話いてけ聞本な重貴とろ 早を器武くし。たてまき捨て平し和。すでいほてっなに 度を争戦とて二うもていてし、はとわ伝だがっこいとだめう ド行にムー次爆原に。たまきしし鉄たえみが骨れずくが石。 爆像の子の少原、てい歩しにんみ鶴なまげ捧をり折たっ作で いなにせ幸まらくるえて笑りしすしよそ。たてま願とにうい 死慰者没、爆原日の次で碑霊花中っとを手が界世げささを とものだま思いす。 っな切大もてっともてとはに命、、一人一つだけしかない 思んだとまいす。 日しの昔、てはそ、はで国の本てよな所で、とっうも幸せな 。んま私たせよれしもかののち活あうたが生なあるえまりの とりたっ笑家族りおとした話緒たけなせ幸りでだる居に一、 らそ。うでなかたっくしう思すと言さ下てっっの、さ田岡ん もなくし悲もてっと私んでるょしたもでけだ悲いを話。う聞 ととれか聞べ」?のあ物てっるもで悲た。すぶうたっかしそ たどけだち子もどれら日「た本りの食」「いたなに達友と子 石すかどを求。る来てめ骨とたが敵えあとだ教は国の他。っ 「くらいの子どもが人わー」と来て食べ物を40
広 島 派 遣 団 に 参 加 し て
深谷小学校 6年
一 瀬 真 友 子
1945年、8月6日、午前8時
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