• 検索結果がありません。

データ 上越市の近代史に輝く先人たち(全件データ) 上越市ホームページ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2018

シェア "データ 上越市の近代史に輝く先人たち(全件データ) 上越市ホームページ"

Copied!
1
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

せきの ただし

高田藩士の家に生まれる

1867 年(慶応 3)関野貞は、高田藩榊原家の下級藩士の家に生ま

れました。高田学校(現・大手町小学校)に入学し、成績や生活態

度が優秀だとして何度も賞を受けています。その後、高田中学校

(現・高田高等高校)などを経て、東京帝国大学工科大学(現・東

京大学工学部)へ進学し、建築学の勉強をしました。

奈良へ

貞は、大学を卒業した 2 年後の 1897 年(明治 30)、在学中から

研究していた社寺建築の研究のため奈良県技師として、奈良に赴任

することになります。ちょうどこの年、現在の文化財保護法の前身

となる古社寺保存法が制定され、この文化財保護の流れに乗って、

貞は業績を伸ばしていくことになります。次々と奈良・京都の古い

社寺の調書と図面を作成し、平城京大極殿址を発見するなど大きな

業績を残しました。1901 年(明治 34)には、東京帝国大学工科大

学の助教授に任命され、さらに 1908 年(明治 41)には、平城京大

極殿の研究成果によって、工学博士の学位を授与されています。

1905 年(明治38)2 月に発表された「法隆寺金堂塔婆及中門非

再建論」は、再建説を主張した喜田貞吉との間で大論争となったこ

とで有名です。このように、貞は建築士の立場から歴史学や美術史、

出土瓦の分類など考古学などの広い分野で優れた先鞭的な研究を

残し、現在でもそれぞれの学問分野における基礎的な研究となって

います。

文化財保護の先駆者

貞が建築史の第一人者となっていたころ、日本政府は朝鮮半島や

中国など大陸に目を向けていました。貞は、朝鮮・中国・インドの

文化財の調査・保護においても大きな貢献をしました。その後は、

文化財防災の基礎を築き、法隆寺や姫路城の解体修理の道を開くな

ど、現在でもその功績は大きく評価されています。

1935 年(昭和 10)、貞は国宝調査旅行中に急性白血病を発病し、

7 月 29 日に 68 歳で亡くなりました。東京都多摩墓地に埋葬され、

死後、従三位勲三等が授与されています。また貞が設計した建築と

して、奈良県物産陳列館(現・奈良国立博物館仏教美術資料センタ

参照

関連したドキュメント

を軌道にのせることができた。最後の2年間 では,本学が他大学に比して遅々としていた

昭和62年から文部省は国立大学に「共同研 究センター」を設置して産官学連携の舞台と

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

大学は職能人の育成と知の創成を責務とし ている。即ち,教育と研究が大学の両輪であ

北陸 3 県の実験動物研究者,技術者,実験動物取り扱い企業の情報交換の場として年 2〜3 回開

「心理学基礎研究の地域貢献を考える」が開かれた。フォー

老: 牧師もしていた。日曜日には牧師の仕事をした(bon ma ve) 。 私: その先生は毎日野良仕事をしていたのですか?. 老:

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい