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Eurogames234 a 最近の更新履歴 ボードゲーム読書会@高田馬場

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2. アングロアメリカン・ホビー・ボードゲーム 1960-1995

二十世紀後半のホビー・ゲームは「直接衝突」をインタラクションの鍵としており、この意味で、システム的観点からはユーロゲームの祖先とは言い がたい。一方 1960-95 年頃にかけては、前述のホビー・ゲームと平行して、ホビイスト市場を狙って、後のユーロゲームに繋がるような戦略的ボード ゲームが英米で出版されていた。この時代のゲームは、位置に関するメカニクスを重点から外し、対人スキルと論理性を重視した。より重要な事とし て、この時代のゲームは、テーマ的にもメカニクス的にも、直接衝突から徐々に離れていった。

■3M - 現代ユーロゲームの起源

1962 年、3M は収益を増やすため、大人向け戦略ゲームのラインを作ることを決めた。このラインのために新たに発掘されたゲームデザイナーの中に アレックス・ランドルフとシド・サクソンがいた。当時サクソンはニューヨークのゲームグループにいて、ランドルフは広告業界を辞めてゲームデベ ロッパとしてのキャリアを求めていた。3M は彼らのゲームを、本棚に収まる「ブックシェルフ」ゲームのラインに加えた。

第二世代の最初のゲームのひとつに、「アクワイア(1962/3)」がある。彼ら以前のボードゲームは、「第一世代」のゲームと見做すことができる。第一 世代のゲームでは、手番は厳格なパターンで決められ、インタラクションは少なく、手番に行える選択の幅は狭く、稀な例外を除き、手番以外ではテ ーブルに着いている必要もない。

1975 年にアバロンヒルにラインを売却するまでに、3M は多くの大人向けゲームを発表した。3M の最盛期には、年あたり 400 ないし 600 個ものゲ ームアイデアが送られてきたという。

3M は 1966 年、ドイツの全国紙 Die Zeit(発行部数 50 万)でゲーム批評を行っていた Eugen Oker を雇い、欧州へのマーケティングを開始し、アク ワイア等のドイツ語版を販売。アクワイアはドイツ式ゲームデザイン(下記のような特徴を持つ)の源になり、ランドルフやサクソンの名は、米国よ りもむしろドイツで著名になった。

・テーマよりも抽象的なシステムに重点を置く

・短く明瞭なルールセット

・比較的短いプレイタイム

・プレイヤー負け抜けの排除

■1970 年代のボードゲームデザイン

英国では、アクティブなボードゲームコミュニティが 70 年代初に形成された。また、英国初のゲーム専門誌である Games and Puzzles の刊行も、こ れらのコミュニティを支援する形になった。

Games and Puzzles はメインストリートのニューススタンドで購入できるもので、ディプロマシーのメールゲーム・コミュニティの健全な発展に貢献 するものだった。この雑誌が載せていたのは、基本的にはワディントンやスピアーズといった英国の既存の玩具会社のゲームだったが、時には AH や 3M のゲームも載せていた。4 号ではロンドンのショップや通販業者 Games Guild への言及も行った(この業者は後に英国で最初に 3M を扱うことに なる)。1976 年にはバーミンガムで最初の年次ゲームコンベンションが開かれ、Games and Puzzle 誌はこれのサポートも行った。

これらのホビーの進展は、既存のゲーム会社の堕落と軌を一にしていた。既存のゲーム会社の穴を埋めるように、小規模な会社が戦略ゲームを発表し ていった。これらのゲームの多くは、米国のホビー・ゲームと異なり、衝突とシミュレーションに重きを置かないものであった。

(Intellect Games の Election[1972], Hare&Tortoise[1973]など。Sigma File[1973]もこの時代の作品)

また、「衝突有り」のホビー・ゲームにおいても、Ariel 社の Kingmaker[1974]は国会を導入して政治的要素をゲームに付与し、アバロンヒルの Don Greenwood と Mick Uhl の手でリメイクされ、初の「アメリカのホビー・シーンに嵐を巻きおこした輸入ゲーム」になった(※RISK は元々フランス Miro 社のゲームだが、ここでは Parker のものということになっている)

ドイツに最も大きな影響を与えた英国のゲームは、おそらく Francis Tresham の 2 作、1829[1974]と Civilisation[1980]だろう。Civilisation は直接衝 突の要素こそあれど、古代文明の文化的および技術的進展(そして取引と交渉)に焦点を当てており、これはユーロゲームに直接つながっている。ま た、テクノロジーツリーシステムはテーブルゲーム・コンピューターゲームを問わず極めて多くのフォロワーを生んだ。米国でも、Crude[1974]など、 のちのユーロゲームにつなげるゲームが出版されている。

そしてこの時代、アメリカのウォーゲーム会社は、SF/F の興隆に伴い、「もっともらしさ」に重点を置かないゲームを作成しだした。サイモンセンの Starforce[1974]、コスティキャンの The Creature that ate Sheboygan[1979]など。また、アバロンヒルはパブリック・イメージとは異なり、ウォーゲ ームだけの会社だったことは一度もなかった。この時代には、Rail Baron[1977]が発表されており、またファンタジーゲームの分野でも Titan[1980] や Magic Realm[1978]を発表している。

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しかし何より、この時代で最も重要なゲームは、Eon 社の Cosmic Encounter[1977]だろう。プレイヤーごとに異なる特殊能力をもって基本ルールを 壊せるというコンセプトは、その後のカードゲーム、ビデオゲーム等あらゆるゲームにきわめて強い影響を与えた。多くのゲームデザイナーががこの ゲームからの影響を公言している。コンセプトに加え、このゲームの「個々の戦闘に絡める」というルールを通じた盤外交渉を持ち込んだのもこのゲ ームだ。

■80 年代∼95 年のボードゲームデザイン

80 年代英国で注目すべき会社として、まずは Gibson が挙げられる。Gibson は 1903 年創業の古い会社だが、この時期には経営が代わり、 Britannia[1986]などを含むオリジナルのボードゲームを作った。

この時代には RPG の人気に影響される形で、RPG 的なテーマやシステムを持ったゲームが数多く作られた。最古のものは TSR の Dungeon![1975]。 最も著名なものは Games Workshop の Talisman(1983)だろう。Games Workshop は他にもイギリス版の Cosmic Encounter などを出版している。 GW がアメリカのゲームのリプリントをする一方、アメリカの会社も欧州のタイトルを発売を始める。Kremlin[1986/88]は、初めて米国で発売された ドイツ語のホビーゲーム(※)と言われる。

Cosmic Encounter に始まった流れでは、Steve Jackson(元 Metagaming, 後に SJG を設立)の Illuminati[1983]がバリアブルゴールを採用。Goldberg の Tales of the Arabian Nights[1985]では、パラグラフスタイルを採用した上で、物語点と宿命点の 2 パラメータの混合による勝利条件を設定、ナラ ティブとボードゲームを巧みに組み合わせた。

この時期(70-80 年代)はマスマーケットゲームが暗闇に落ち込む一方、ホビーボードゲームのデザインにおいて、のちのユーロゲームの出現に影響 を与えるような進歩が生じている。実際、ホビーボードゲームが長時間の 2 人ゲームからより社交的かつプレイアビリティに重点を置いたマルチゲー ムに移行するのもこの時期だ。

3. ドイツのゲーム

いわゆる「ドイツのゲーム」(とそのプレイヤー)は急に現れたものではなく、1970 年代後半まで遡ることができる。そもそもドイツには、高品質の 玩具の製造に関して長年にわたる伝統があり、博物館やアーカイブも整備されていた。また、メディアも個々のゲームに対する批評を行っていた。そ してドイツのゲームが直接衝突を避け建設的な主題を好むようになった背景には、ドイツにおけるゲーム文化の形成と、第二次大戦の記憶がある。

■玩具製造の伝統

そもそもは 14 世紀、ニュルンベルクにおけるクレイドールの製造に端を発する。16 世紀には木製人形メーカーの数は 1400 に達した。産業構造の変 化により材料が木材からブリキに変わるなどがあったが、20 世紀に至るまで、玩具業界における名声に変化はなかった。

なお、18-19 世紀における社会構造の変化は、社会から切り離した子供、という概念の誕生に繋がり、これは玩具(そしてゲーム)の需要の増大に繋 がった(このあたりは、以前 The Game Makers で紹介された通り)。書店を営んでいた Otto Maier、現在の Ravensburger はこれを背景として 1884 年に最初のゲーム「Trip around the world」を発表、1902 年には既に Ravensburger Games とっして 100 本にのぼるゲームのカタログを出している。

この業界は、WWI、ナチ党の台頭(玩具業界のユダヤ人の追放と、後には玩具製造の禁止)、WWII により破壊されたが、再建は比較的素早く進み、玩 具輸出額は 1948 年の 8M マルクから 1953 年には 100M マルクまで回復している。また、1950 年にはニュルンベルクで最初の国際問フェアが開催 された。この玩具業界の回復は 50 年代を通じて堅調だった。

そして 1959 年、William Hurter の Memory のヒットにより、Ravensburger はファミリーゲームにおける国際的なプレゼンスを獲得する。

しかし 1970 年代になると、ドイツのゲーム会社は他の国の会社との比較において、IP 不足の問題に直面する。Ravensburger はモノポリーもクルーも スクラブルの版権も持っていなかったので、自ら開発するという選択肢を取らざるを得なかった。

(本当はこれだけでは理由としては不足しており、TV 版権物に大きくシフトしなかった理由も考える必要がある。真っ先に思い浮かぶのは Martin Wallece が FT のインタビューで述べた「ドイツ人には面白いテレビ番組を作る才能がなかった」という軽口だが)

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■メディア

ドイツにおける現代ゲーム文化で他の国と最も異なるところは、メディアにおけるゲームのプレゼンスの高さだろう。ゲームはラジオでレビューされ、 デザイナーはテレビ番組で自作を語り、新聞はボードゲームのコラムを定期で載せる。

加えて専門誌も存在する。最初の専門誌である Die Poeppel-Revue は 1977 年創刊(2001 年廃刊)。で、最初はメールゲームの議論のために作られた。 Spielbox は 1981 年に創刊、2005 年時点で部数 13000。ほか、Spielerei, Fairplay の 2 誌が現存している。

ドイツのメディアによるゲーム文化へのサポートとして最も大きい物は、1978 年設立のゲーム賞ドイツゲームオブザイヤー Spiel des Jahres だろう。 この賞は、ゲーム業界に対し、市場での競争力のある高品質な製品を供給するよう圧力をかけることを目的として作られた。審査員はドイツのメディ アでゲームに対する見識を示した人間で構成される。ゲーム業界の人間は含まれない。

SdJ は賞の趣旨からホビイスト市場向けのゲームには冷淡なので、その種のゲームは Deutscher Spiele Preis で主に取り扱われる。他の国もこれらに倣 って色々な賞を設立しているが、SdJ ほどの影響力を持った賞は存在しない。

■ゲーム文化

英米とドイツではゲームデザインへの考え方が異なる。英米では発明家とみられるのに対し、ドイツでは著者として扱われる。

(※ホビー・ゲームとマスマーケットゲームの分野の混同が見られる。1 章で触れた通り、ホビー・ゲーム、特にウォーゲームの世界では、ゲームデ ザイナーは早い段階から「著者」だった。ユーロゲームの特異性は、ホビー・ゲームのマナーがマスの世界に持ち込まれたことにある)

そもそも SdJ が設立された 1970 年代の時点から、コミュニティがゲームの著者に対して非常に協力的だったと言える。また 80 年代の小規模な会社に とってはマーケティングの一環という側面もあった。それに加え、著者側の運動もあり、Reinhold Wittig によるゲッティンゲン・ゲームデザイナー会 議の設立(1983)、これに続いて、箱に著者名を記載するよう求める「コースター憲章」(1988)、その後のゲームデザイナー協会 SAZ の設立(1991)な どの運動が行われた。SAZ は様々な賞を設け、表彰を行っている。賞に関しては、Speilerei 誌主催の公募賞 Hippodice Autorenwettbewerb などもあり、 これも「著者としてのゲームデザイナー」という文化の証左といえるだろう。

■ゲームショー

Essen Spiel は 1983 年に"German Games Con"として、「集まって共にゲームを遊び、ゲームがドイツ文化の重要なパートを占めることを示す」ことを 目的として設立された。当初はどれだけ公の関心を惹けるかについて疑問を持たれていたが、大きく発展し、現在では 15 万人の来場者を集め「2 月の Nurnberg、10 月の Essen」として、世界のボードゲームの主要なショーケースになっている。

Essen の成功の後、いくつか別のフェアも誕生している。Stuttgart (Sueddeutsche Spielemesse) は 10 万人の来場者を集め、他にも Munchen や Vienna などで行われている。

重要なこととして、ゲームフェアはゲームデザイナーの卵が大会社と同じ場所で新作を並べられるのと共に、大会社のほうでもイノベーティブなデザ インを積極的に求めているということがある。アメリカの会社がセールスの話に目を輝かせるのに対し、ほとんどのドイツの会社はもっと理想主義的 に見える。

■ウォーゲームへの反対

ドイツはウォーゲームに対して極めて批判的だ。これは WWII 後のドイツにおけるアンチ・ミリタリー文化、戦争関連製品への非難・規制に起因してい る。例えば Risk についても、ドイツ版は「世界を解放する」設定になっている。ウォーゲームに小さいヒトラーの図柄のマーカーが入っているだけで も、発禁焚書の処分になる。アメリカのウォーゲームを輸入販売するショップは、そのウォーゲームを 18 禁のポルノか何かのように扱っている。3M がドイツで受け入れられたのは、3M のゲームがテーマ的にもメカニズム的にも直接衝突を扱っていなかったという点も大きい。

サクソンの Acquire をモデルとして、ドイツのゲーム会社は彼らが「社会的ゲーム Gesellshaftspiele」と呼ぶようなものを作り上げた。社会的ゲーム とはつまり、戦争の混沌と無法ではなく、文明社会の通常の営みに関するゲームだ。当時、ほとんど全てのゲームの中心原理は衝突であり、ここを離 れようとするのであれば、何か本当に新しい代替案を持ってこなければならなかった。ドイツのゲームが個々の建設的な発展を取り扱い、衝突をベー スとする当時の英米のデザインと大きく異なるのは、これに起因する。実際、ドイツの著名なゲームデザイナー(Kramer, Teuber, Knizia など)は、衝突/ 戦争テーマの拒否を明言している。

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■プレーの文化

無論、いま全世界のホビイストが遊んでいるユーロゲームは全ドイツ家庭で遊ばれているわけではないが、他のどの国よりもドイツ家庭ではボードゲ ームが購入されているというのは事実だ。ふつうの玩具店の棚にも、他の国ならホビーショップにしかないような、色々な大人向け戦略ゲームが並ん でいる。

US にはゲーム批評の文化が無く、小売店は箱のなかに何が入っているかろくに把握していない。マーケットにおけるコミュニケーションは TVCM によ ってのみ行われるから、それに合わせたような内容のゲームしか発表されない。ドイツでは店員がゲームについて知識を持ち、消費者に対して良いア ドバイスを行える。これはゲームの地位にも関係しており、ドイツではゲームは「健全な良い pastime」と見做されている。ドイツではゲームのプレ イは「Family Values」の同義であり、他の西洋諸国で見られるような、ゲームを文化の隅に押しやるような動きとは無縁だ。Essen Spiel にはホビイス トに限らず老若男女がやってくる。

このゲームの占める社会的価値は、WWI/II の影響も関係している。つまり、当時の西ドイツでは、安価なエンターテイメントへの経済的需要があった。 ドイツはゲームの占める地位を反映して、専門のアーカイブや博物館が複数存在している。1978 年創立の Deutsches Spiele-Archiv は、WWII 後のドイ ツ語圏におけるボードゲーム文化の進展の記録、家庭と社会におけるゲームの地位向上、ゲームを伝えるメディアのサポート、そしてゲーム研究のた めの研究施設であり、非デジタルゲームに関する約 3 万点のコレクションを誇っている。ここでも、ゲームと家庭の間の関係が強調されていることを 確認しておくべきだろう。

■ホビーゲーマーが遊ぶファミリーゲーム

「子供と大人が共に遊べるゲーム」というドイツの視点はどれだけ強調してもし過ぎることにはならない。結局のところ、プレイタイムやルールの短 さやテーマといった諸々の制限もここに由来する。英米でのファミリーゲームは反復とブランディングの場所であるのに対し、ドイツではここがイノ ベーションの源となっている。それこそが、ドイツのファミリーゲームが英米のホビーゲーマーの注目を口コミで集めた理由であり、やがては世界へ 拡がった理由でもある。

4. ドイツゲームからユーロゲームへ

前章の通り、1982 年から 94 年にかけて、ドイツのゲームマーケットは年率 10%に達する勢いで力強い成長を遂げた。英語圏に広くこのドイツゲー ムが伝わるのは 1996 年(カタン英語版)のことだが、それ以前にも、最初は英国、ついで米国で、エンスージアストの小グループには(主に口コミ ベースで)伝わり、注目を集めていた。

■1980∼1994 年のドイツゲーム

SdJ 開始(1979)から 3 年は、受賞作は他国のゲームの翻訳であり、最初にドイツのゲームが受賞したのは 82 年のザーガランド(但し作者の一人はア メリカ人のランドルフ)、作者も出版社もドイツというのは 83 年のスコットランド・ヤードが最初だった。この年は候補作も全てドイツのゲームであ り、この年がドイツゲームの元年と言える。ドイツ人 1 人に対して SdJ が賞を与えたのは 86 年、Wolfgang Kramer の Heimlich&Co.が最初で、Kramer はドイツゲームにおける最初のスターといえるだろう(Kramer は活動自体は 70 年代前半から行っている)。

さて、この時代、ロンドンではゲームショップ Just Games を営む Mark Green が、いくつかドイツゲームを輸入し、英訳を付けて売り始めた。この 店はすぐに英国ゲーマーのメッカになった。米国では、マサチューセッツ州ケンブリッジで Carol Monica が営む Games People Play が 1829, Civ, Railway Rivals といった英国のゲームを輸入して成功していた。近くの Boston では、元 AH の Alan Moon が、North Shore Gaming Club を設立し、 AH の雑誌 The General への広告などを通じて人を集めた。80 年代後半を通じて North Shore Gaming Club は拡張を続け、Moon は初めて Kremlin に 触れて以降、ドイツのデザインに触れる機会を増やしていった。

1988 年には、Brian Walker が Games International 誌を創刊し(誌名は 90 年に Strategy Plus に変わりコンピューターゲームメインに変わった)、ド イツゲームの紹介を定期的に実施、デザイナーインタビューや Essen Spiel の紹介もはじめて行った。この雑誌は 8000 部を印刷(売れたのは 2000 部 くらい)、英国のニューススタンドや一部米国のストアでも販売された。

Moon のクラブの参加者だった Mike Gray は、MB の社員として Essen に行き始めた。Gray は 90 年代、MB に Flinke Pinke や Niki Lauda F1、Bausack、 Zick Zacke Huehnerkacke などいくつかのゲームを紹介した。

1990 年代初頭、Klaus Teuber の Adel Verpflichtet(1990)の米国版が AH から、英国版が Gibson から発売。この国際版は AH や Gibson といった「ハ ードコアな」出版社から発売されたこともあり、多くの人にとって「はじめてのドイツゲーム」として受け入れられた。

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一方、Games International の終焉に伴い、そこで書いていた Mike Siggins(もとはウォーゲーマー)は自分でファンジン"Sumo"を 89 年に発刊。これ はホチキス止めの A5 コピー誌で、最初から英国のゲームシーンに「ヨーロッパのゲーム」を紹介することを目的としたものだった。この雑誌は 8 年 間 44 号続き、ドイツや米国のホビー・ゲームシーンでも注目を集めた。Siggins はこの雑誌以外にも「Siggin's Rules Bank」を開始し、輸入ゲームの 翻訳ゲームを提供する業務を行った。

80 年代後半はインターネットの存在がクローズアップされた時代でもある。87 年にニューズグループ rec.games.board 開始。多くはウォーゲーム、 アブストラクト、電子メールゲームに関する議論だったが、1989 年には、AH のデザイナーである Jennifer Schlickbernd により、ドイツゲームに関す る最初の投稿が行われた(Die Macher の詳細なレビュー)。

1990 年、Moon はヨーロッパのゲームに特化した招待制のコンベンションである"Gathering of Friends"をマサチューセッツ州で開催。このコンベン ションは欧米のデザイナー、プレイヤー、パブリッシャーを招いて現在も行われている。Moon は短期間 Parker に勤めた後、インディ出版社 White Wind を 91 年に設立、ドイツのマーケットでのインディ出版を開始した。

1993 年には、主に AH の Adel Verpflichtet 米国版の存在により、ドイツゲーム・ムーブメントの勃興は rec.games.board でも明らかになっていた(Knizia のゲームのレビューが載るなど)。この時期には、AH の黄金期が過ぎ去ったことへの慨嘆と共に、米国のファンから批判的なコメントも受けることが 出てきた。

1994 年 6 月、Ken Tidwell がウェブサイト The Game Cabinet をスタート。このサイトはすぐに、英語圏のゲーマーにとって欧州のゲームに関する主 要な情報源になった。

高まる需要に対応する形で、Ray Pfeifer は 1994 年の Gathering of Friends から、欧州ゲームの通販会社 R&D Games を開き、米国のゲーマーはドイ ツの新作を専門に扱うチャネルを手に入れることになった。

■カタン

1995 年、Die Siedler von Catan 発売。このゲームは発売と同時にドイツで爆発的ヒットを記録(ちなみに米国のホビーゲーマーはこのゲームにはさほ どの感銘を受けなかったと言われる。【訳注】概して、The Game Cabinet / rec.games.board 周辺のゲーマーは Knizia 派で、Teuber には冷たかった記 憶がある)。このタイトルは 2009 年までに全世界で 1500 万セットを売り上げ、最も売れたユーロゲームとして記録されている。

カタンが最初に米国で売られたのは 1995 年、前述 Gathering of Friends において R&D Games が輸入したものだった。続く AH のコンベンション Avaloncon では、人々が最もよく遊んでいたのはカタンだった。当然、カタンが初めてのドイツゲームだったという人も多く、多くの米国人がその衝 撃を語っている。

このドイツ版のリリース直後、米国のゲーム出版社 Mayfair Games がドイツゲームの英語版の可能性の調査を開始。この出版社のオーナーである Darwin Bromleyはドイツゲームに魅せられ、既に 1991 年ころからこれを輸入販売する業務を行っており、出版社の特性を反映して 1835 や Dampfross といったタイトルを売っていたのだが、輸入というものの特性上、どうしても高価になり、マーケットも限られる状況だった。これを打開すべく、従 業員の Jay Tummelson(RPG 畑出身)は英語版の発売を提案。彼はライセンス取得の責任者に命ぜられ、カタンを含む複数のタイトルのライセンスを 獲得。Tummelson はこのとき、ドイツ版のグラフィックをそのまま使うことを主張したが、Mayfair の方針からアートワークの変更が行われ、1996 年にカタン米国版が発売された。

カタンの成功はドイツでも影響が大きく、良い戦略ゲームを作ることが報われる仕事であることの証明にもなった。結果として、業界の人々が戦略ゲ ームに傾斜することになった。続いてかなり複雑なゲームである El Grande(1995)もヒットし、これが 1990 年代を通じて続くことになる「クオリテ ィ・デザインの時代」の開始を告げることになった。

ドイツゲームの米国における可能性に手応えを受けた Jay Tummelson は独立して Rio Grande Games 社を設立。この会社の基本的な戦略は、ライセン スとともに製造もドイツの出版社と共同で行うことだった。1999 年までに 20 タイトルを出版。2000 年には、Games 誌の年次企画「Top 100 Games」 のうち 21 個が Rio Grande のゲームで占められることになった。現在までに Rio Grande は 300 を越えるタイトルを出版している(そのうちの多くは 少部数で、増えつつあるドイツゲームのエンスージアスト向けの出版である)

1999 年頃になると、米国においてもドイツゲームは注目を幅広く集めるようになり、またインターネットの興隆もあって、多くのウェブサイトが設立 されるようになった。これらの情報の拡散は、アメリカで活動するデザイナーがドイツゲームに注目するきっかけにもなった。2001 年に、ゲームデザ イナーの Stephen Glenn と Dominic Crapuchettes はドイツ式のデザインに重点をおいたテストプレイ会 Protospiel を開催している(この会名にした のは、モノポリー式のぐるぐる回るゲームを持ってきてほしくなかったからだとのこと)。

■ユーロゲームへ

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ゼロ年代前半には、ドイツ式のゲームはグローバルなホビー・ゲーム市場において安定的な地位を確保した。ジャンルはドイツで始まったものだが、 他の欧州の国も活発に活動を行っている。これを表すため、「ドイツゲーム」の名称は「ユーロゲーム」に変化した。市場の認知とともに、Rio 以外の 会社もこのジャンルに参入、US/フランスの Days Of Wonder は Moon の Tikcet to Ride で SdJ を獲得した。絶版 CCG の再販を仕事にしていた Z-man も翻訳出版に参入、後にはヨーロッパの影響を強く受けた米国人によるタイトルを出版するようになった。この種の人々のデザインは、ドイツ式のメ カニクスに英米式のテーマ性を載せたハイブリッドと言えるものだった。

メインストリームの出版社ですら、ユーロゲームの影響を受けている。Hasbro は Risk のルールをリデザインし、Mattel は欧州ゲームの市場に再参入 した(※Mattel は 80 年代には、ドイツでドイツ式のゲームを出版していた)

ホビイストの間でユーロゲームの人気が出るにつれ、デザインはより複雑に、ファミリーオリエンテッドなものから遊離していくようになった。典型 例としては Puerto Rico(2002), Caylus(2005), Agricola(2007)など。SdJ はファミリーゲーム重点のままである一方、2011 年にはこの種のゲームのた めに Kennerspiel des Jahres が新設された。

2009 年にはヨーロッパのデザインの米国への影響は既に明らかになっており、この年の SdJ は、CCG のシステムにベースを置きながらユーロゲーム の美意識をふんだんに取り入れた Dominion(2008)に与えられた。カタンと Carcassonne はマスマーケットゲームの仲間入りを果たし、米国のメディ アでも大きく取り上げられるようになった。加えて、2000 年代後半からは、少なからぬユーロゲームがビデオゲーム化(近年ではモバイルゲーム化) され、誰の目にも触れるものになった。

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