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今年の一月、三週間ほど香港に滞在する機会が あった。香港は、あいかわらず活気に満ちている とは一応いえる。でも、やはりずいぶん変化した なという感じもある。
今回、私は、香港大学の大学院生用の宿舎に泊 まっていた。この大学は、香港島のやや西のほう 西営盤という地区に位置する。キャンパスは、ま さに山の斜面にあるといってよい。私の宿舎は敷 地の最も高いところに建っている。門からは、階 段とエレベータでだいぶ上らなくてはならない。 土地の狭さが世界有数の香港らしい。
私が香港を初めて訪れたのは、1988 年夏のこ とだった。空港に降りて二階建てバスで市内にむ かうとき、何とも暑くてやりきれなかったことが 忘れられない。このときは一泊だけして広州に行 ってしまったとはいえ、その印象は強烈だ。 そのあとも、似たように通過地点として香港に 寄ることはあったものの、香港に「滞在」したと いってよいのは、今回が初めてだった。
いうまでもなく1988年に私が降り立った香港は、 イギリスの統治下にあった。香港島は、アヘン戦 争ののち英領となり、その対岸の九竜半島の突端 部は、第二次アヘン戦争後の北京条約でやはり英 領となった。香港島と九竜半島は、今日では地下 道でつながっていて、地下鉄も行きかっているが、 やはり船で海をわたるのがよい。スター・フェリ
ーは香港で最も低料金の公共交通機関で、だいた い十数分で海を渡ることができる。昼の海景色も 美しいが、夜景も素晴らしい。これは、安いけれ ど、とても贅沢な体験といえる。
船が九竜の側につくと、相変わらずの雑踏に入 っていくことになる。ただ、はじめに英領とされ たのはごく狭い範囲にすぎず、港から 15 分も歩 かないうちに、1860 年以降の境だった地点に達 してしまうはずだ。そこから先は、1898 年にイ ギリスが 99 年期限で租借した領域になる。これ が香港「新界」と呼ばれる比較的広い地区であり、 かつては農村地帯だった。今日では、高層マンシ ョンが立ち並ぶ近郊のようになったところも多い。 私が初めて訪れた頃は、香港新界と中国内地の あいだに国境検査があり、香港側の羅湖まで電車 で行き、歩いて橋を渡って中国側の深 に出たも のである。香港が中国に返還された今日も、依然 として中国内地と香港の間には、パスポート・チ ェックがあり、中国人であっても身分証なしでは 自由に行き来できないことになっている。
日本では香港返還というのが普通だが、中国か らみれば香港が「回帰」したことになる。 この表現には、実は少し落ち着かない気分にさ せるところもある。香港は、いまでも金融・商業 など経済活動で大きな役割を果たしている。しか し、アヘン戦争のときにイギリス軍が香港島を占 領したころには、多少の漁民が住んでいたぐらい で、都市などというものではなかった。イギリス の植民地となったがゆえに、香港の繁栄がもたら されたことは、否定しがたい。
イギリスと中国は、99 年の期限切れが近づくと、 新界だけでなく香港島までひっくるめて返還する ことを約束し、1997 年にそれが実現した。中国 がここを領土として回復したいというのは理解で きるとはいえ、清朝支配下で香港が大都市だった わけではないのだから、「回帰」という言い方が 少し気になるのである。
中国史の奥の細道
東京大学文学部准教授 吉澤 誠一郎
変貌する香港
香港再訪
香港島から九竜半島へ
− 23 − 香港には、いまだにイギリス統治期の仕組みが 色濃く残っている。自動車は、香港では(日本と 同じく)左を走るが、中国内地と台湾では車は右 を走る。香港は明らかにイギリス式である(アメ リカ合衆国や欧洲大陸諸国では、車は右を走る)。 建物の階の数え方も、日本の一階は香港では the ground loor、二階が the irst loor となるが、こ れもイギリス式である。香港大学の制度もイギリ スのものを多く踏襲しているようである。 しかし、中国に「回帰」してから、さまざまな 変化があったこともまた確かである。まず、中国 での共通語が相当に通じるようになった(でも、 地元の人どうしは、広東語で話している)。また、 イギリス統治時代よりも公共工事をしっかり行う ようになり、以前の無秩序な感じはない。沢木耕 太郎『深夜特急』で描写されたような混沌として 熱気あふれる香港は、もう過去のものである。
香港経済の中心は、その名もずばりセントラル という(漢字では中環)。ここには、香港上海銀 行や中国銀行など高層の建物が建ち並ぶ。日曜と なれば、フィリピン人の労働者がセントラルに集 まり、歌などで気分転換をはかっている(フィリ ピン人女性は、子守などの家庭内の雇用が多い)。 少し西にゆくと、じきに古い商店街になる。こ こが上環という地区で、とくに乾物を扱う店が集 中している。貝柱、アワビ、ナマコ、フカヒレ、 燕の巣などを商う。
さらに西へゆくと西営盤であり、より所得の低 い人も多く住んでいる。急な坂道や小さな食堂に は、地元の人々の哀感を見て取れる。私は冬の名 物、蛇のスープの店を見つけて入った。やはり地 元の人ばかりで、あまり中国の共通語が通じない。 いかにも香港らしい味のある界隈といえる。
孫文は、広東省のうち澳門(マカオ)に近いと
ころの出身で ある。彼がハ ワイで学んだ ことは有名だ が、実は香港 大学も彼の母 校といえる。 香港大学の起 源をたどれば、 西洋医学を教 育する「西医 書院」という 学 校 だ っ た (これは、現在も香港大学の医学部の場所になっ
ているという)。
孫文は、この学校に入る以前、教会にも出入り して、アメリカ会衆派の宣教師から洗礼をうけ、 キリスト教徒になっていた。
このように医学を学び、またキリスト教徒だっ たことが、孫文に与えた影響を考えてみる必要が あるだろう。彼がのちに結婚した宋慶齢は、上海 の中国人プロテスタント宣教師から実業に転じた 人物の娘である。孫文は1897年に南方熊楠とロン ドンで知り合ったが、ふたりで王立キュー植物園 を参観していることが熊楠の日記からわかる。こ れらは、単なる挿話をこえて、孫文の人物像を考 察するときに、科学とキリスト教という要素を忘 れてならないことを示しているようである。 最近、その孫文の記念館が香港にできたと聞い て行ってみた。ここは、孫文と親しかった資産家 の邸宅を改装したもので、もちろん中国革命で の役割は明示されているが、西医書院での彼の成 績表など興味ぶかいものも見ることができた。努 力しているのが、香港近代史のなかに孫文を位置 づけようとする展示で、イギリスの植民地支配と 近代化という香港の政治・社会環境のなかでこそ、 孫文の思想が育まれたとする点が強調されていた。 これは、一つの政治的資源としての孫文を香港に 結びつけようとする工夫であるようにも思われた。 これもまた、香港の一側面といえるだろう。 香港島を歩く
孫文の足跡