■ 1.歴史の証言者 ■
1987年に世界遺産に登録された敦煌莫高窟は敦煌の 歴史の鏡であり、敦煌社会の縮図でもある。今回は、 莫高窟第17窟をめぐる謎に挑んだ井上靖の原作をもと に制作された映画『敦煌』と“敦煌人”にして“敦煌 の英雄”ともされる人物の凱旋パレードを描いた壁画 《張議潮出行図》の2作品を通して、敦煌莫高窟の歴
史的資料としての意義について考えてみたい。 4世紀後半に最初の石窟が掘られて以来、14世紀ま でにおよそ大小約500の石窟が開掘され、補修されて 仏教の聖地となった莫高窟には、約2000体の塑像と1 mの高さにして全長約50kmにも及ぶ壁画が、砂漠地 帯ゆえの乾燥もあってよく保存され残っている。この うち、歴史資料として注目されるのはやはり“砂漠の 大画廊”とも“敦煌の百科全書”ともいわれる各種壁 画類である。映画『敦煌』のラストシーンでは第158 窟の有名な「各国王子像」などが登場し、国際交易都 市にしてかつ国際仏教都市としての当時の敦煌(沙 州)とその霊場の存在感をアピールしている。
■ 2.張氏帰義軍政権と莫高窟 ■
敦煌が中国史上に登場するのは前漢の武帝が前2世 紀末に河西4郡(武威―張掖―酒泉―敦煌、ちなみに 授業ではこれを“部(武)長(張)は素(酒)っ頓(敦) 狂”と読ませて生徒に覚えさせている)の西端として 郡を置いてからである。5世紀に新たな位置に再建さ れた敦煌は東郊に開掘が続く莫高窟とともに唐代まで に仏教都市としての性格を加味しながら、シルク=ロ ードの中国側出入り口、多くの非漢人を受け入れる国 際交易オアシス都市として発展していった。しかし、 唐の繁栄が失われていく安史の乱期に河西進出を始め たチベット系吐蕃により、781年には敦煌もその支配 下に組み込まれてしまった。その約70年後に吐蕃本国 の内紛に乗じて再び漢人支配の時代を「収復」し、唐
朝に「帰義」して沙州(敦煌)帰義軍節度使の地位を 得たのが他ならぬ今回の壁画の主人公、張議潮である。 表写真上段に示した《張議潮出行図》部分図には張 議潮騎乗の白馬の前、橋の上方に白い短冊状の榜題が ある。ここには「河西十一州節度使張議潮□除吐蕃収 復河西一行図」とあり、この出行図が吐蕃を破って河 西一帯を収復した張議潮の凱旋パレードであることが わかる。議潮の後ろに続く部隊は一族郎党の兵士で 「子弟軍」の榜題がついている。天井が煤けて暗い第 156窟の西壁には頭が失われた如来座像が安置され、 南壁から東壁にかけて《張議潮出行図》が、北壁から 東壁にかけて《宋国夫人出行図》がちょうど向かい合 う形で描かれている。表写真下段の全体図に目を移そ う。《張議潮出行図》が一種の「鹵ろ簿ぼ」(儀仗警護の隊 列を整えた格式ある王侯君主の行幸の列)であること がわかるだろう。先頭の太鼓と画角(竹や銅で作った ラッパ状の絵の入った角笛)の軍楽騎士から最後尾の 狩猟者まで計画的に演出された行列で、その総人数は 100人以上に達している。従者の数の多さは官位の高 さを示すと当時考えられており、異常に拡大されて描 かれた張議潮の意気込みや喜びを反映したものと考え られている。上段のクローズアップの画面を覗いてみ よう。壁画の主人公が今、橋を渡ろうとする場面設定 は、その社会的地位を顕示するうえで大変効果的であ る。張議潮が渡ろうとしている橋の前方に大棒をひき ずって歩く仕丁4人の2列の人々はその服装などから 非漢人系と想定され、下段の全体図にも同様の非漢人 系と思われる騎兵や随員が見られて当時の沙州帰義軍 の国際性をうかがうことができる。上段部分図の中央 部、赤袍を着て白帽をかぶり、鞭を手に見事な白馬に またがる張議潮の後ろには、顔を白く塗って付き従う 2人の若い騎者が続いており、議潮と特別の関係にあ る若者だろうと考えられている。牙軍(一族郎党の 軍)の後ろに見える、オレンジ色の地に円を染め抜 き、「信」の字の入った大軍旗は議潮の節度使として
の旗だろうか。下段の全体図の中には騎兵や旗持ちに 囲まれて演奏をしながら行進をする12人の楽員の姿が 描かれているが、彼らが奏でる楽器には正倉院に伝わ るものも少なくなく、興味は尽きない。
実はこの壁画にはもう一つの歴史の刻印が刻まれて いる。下段全体図の行列の後方、壁の折れ目のところ にある黒い煤跡は1917年のロシア革命で逃れてきた白 系ロシア人たちがここを仮の住居として暮らした、そ の生活跡を示すものである。“こんな煤をつけてしま って”と嘆く、9世紀後半の張議潮のつぶやきが聞こ えてきそうな、現代史の生々しい「傷跡」である。河 西地方全域を約20年かけて制圧した議潮は866年、兄 議譚の死を受けて帰義軍節度使の地位を甥の張淮深に 譲り、唐の都長安に兄に代わって入朝した。一種の “人質”である。その淮深が議潮の意向を受けて865年 頃に完成したといわれるのがこの出行図の入った第 156窟である。
■ 3.曹氏帰義軍政権と莫高窟 ■
10世紀前半、沙州敦煌の支配権を受け継いだのが張 氏の外戚でもあった曹氏である。その初代曹議金が正 式に帰義軍節度使に任じられたのは924年のことであ った。曹氏帰義軍時代は甘州(張掖)ウイグル王国や 涼州(武威)吐蕃に東方を領有され、瓜州(安西)と 沙州(敦煌)のみを有するオアシス都市国家の時代で ある。曹氏政権は自国の安全保障と交易利権の維持の ために東は甘州ウイグル王国、西はホータン国との間 に同盟関係を保ち、濃厚な政略結婚をこれらの国々と 繰り返した。たとえば、初代の曹議金は甘州ウイグル 王国の公主(王女)を妻として迎え、夫妻の間に生ま れた娘をホータン国王のもとに嫁がせている。第98窟 壁画の供養者像はそのことを如実に物語っている。最 近の研究では曹氏一族は漢人ではなく、かつてシルク= ロードの商権を握り、中国内地にもコロニーを持って いたソグド人系の家系ではないかといわれている。確 かに曹姓はあの曹操のように漢人の姓にもあるが、中 央アジア・ソグディアナ地方の曹国(カグダン)出身 者が中国で名乗っていた姓でもある。敦煌の歴史やそ の国際性を考えていくと後者の説の方が説得力がある ように思えるが如何であろうか。
映画『敦煌』に登場する主人公の恋人役にして悲劇 のヒロインともなるウイグル女王ツルピアは、西夏軍
に滅ぼされるという形で、映画前半の舞台にもなる甘 州ウイグル王国の王女という設定になっている。原作 者井上靖の周到な歴史考証に感服せざるをえない。映 画に描かれた李元昊の西夏軍はこの曹氏政権を1036 (映画では1035)年頃に滅ぼすことになるわけだが、 このあたりの史実はまだ十分に解明されておらず、そ のことに気づいた井上靖が歴史の空白を埋めるべく、 元々の西域好きの嗜好もあって名作『敦煌』の執筆に 至るのである。敦煌莫高窟と敦煌文書の存在を世界中 に広く知らせる契機となった20世紀初めの王道士によ る第17窟発見とその封印の謎を、井上靖は緻密な歴史 研究渉猟のうえに卓越した歴史的想像力を駆使して小 説の中に取り込んだ。井上靖の後年の回顧によれば、 彼がこの小説を書くうえで最も参考にした論文が京大 敦煌学の権威藤枝晃氏の「帰義軍節度使始末」(『東方 学報 京都』12・13号、1942〜43年)である。まった く勝手な想像に過ぎないが、架空の登場人物でホータ ン王国王族の末裔とされる貿易商人役の尉遅光(映画 では原田大二郎が演じている)の「光」は藤枝氏の名 前「晃」を敬意をこめて借用したのかもしれない。
■ 4.映画シーンの教材化 ■
総制作費45億円という、当時としてはかなり高額の コストをかけて作られたこの映画からは世界史教材と して役に立ちそうなシーンをいくつも挙げることがで きる。敢えて二つに絞るとすれば、映画冒頭の主人公 趙行徳が宋代科挙の最終過程である殿試を受けるシー ンと同じく主人公が西夏の都興慶で西夏文字を学ぶシ ーンだろう。前者は中国史で宋代の科挙重視による文 治主義を説明し、皇帝独裁体制確立にふれる際に必ず 取り上げる殿試の実際の模様を伝えるものとして貴重 な映像である。後者については主人公が学ぶ興慶の寺 院の一室で西夏人没蔵嗣文が西夏文字の組み合わせ原 理を表を使って説明しているシーンが印象的である。 「この偏は水を表す〇という文字、作りは△で土を表 す。そして水と土を合わせると泥という字になる。聞 くは人と耳、夢は見ると夜を組み合わせて作ってあ る。」西夏人独特の発想法がここには示されており、 西夏文字の合理性は生徒にも理解できるのではないか と考えている。図説類でこのシーンの一齣を写真とし て挿入しているところもあるが、勘の鋭い生徒にとっ て動画による学習は効果抜群である。