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160421哲学原理レジュメpdf 最近の更新履歴 京都大学哲学研究会

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Academic year: 2018

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0. はじめに

本レジュメは京都⼤学哲学研究会の 2016 年 4 ⽉ 21 ⽇新歓例会⽤に作成された。題材はデカルト の『哲学原理』(岩波⽂庫・桂寿⼀訳)の第 1 部のうち、認識そのものおよびその主体である精神 に関する記述がある前半部分(01〜47)である。後半部分(48〜76)は、認識の客体であ る物体に関する考察や前半で議論した部分の詳細な部分(たとえば、誤りをその原因の属性により カテゴライズしたりなど)や正しく哲学をするために必要な⼼構えを扱っている。後半部分は 5 ⽉ 中に提起していく予定である。

1. 01〜06真理探究の場でのスタンスとしての「疑う」こと

1.a.不確かなものはとりあえず真であると断定せず、⼀旦は偽であるとみなす。 1.b.疑うことができる対象として最初に挙げられるのは感覚によるもの。 1.b.1.真偽の区別が不可能だから。

1.c.数学的証明のように⾃明とされているものも対象になりうる。 1.c.1.⾃明であると措定したうえで間違えることもあるから。

1.c.2.明⽩であるものですら⾒落とされることもある。本⽂では明⽩であるものの例として「神の存 在」を挙げている。

1.d.疑うことも同意することも⾃由意志の所作。

2. 07〜12疑うことが可能な対象の範囲・思惟⾏為の性質

2.a.可能な限り多くの対象を疑うことに決めたとしても、疑う⾏為および疑う⾏為の主体の存在を 疑うことができない。

2.a.1.存在を疑うことができない最⼩範囲は思惟⾏為と思惟⾏為の主体である精神の存在のみ。

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2.b.思惟⾏為は意識的に知覚・表象すること。ただし、⾝体作⽤そのものは除外。 2.b.1.錯覚がありうるから。

2.b.2.ただし、錯覚及びその主体である精神の存在は確定できる。

2.c.概念を組み⽴てる際に使⽤される⾃明な語句については学術的定義の対象とするべきではな い。

2.c.1.概念の共有・考察を⽬的としているので単独ではなんらかの事物を指さないものである語句を 思惟の対象にすべきではない。

2.d.物体と精神では、先に存在を確定できるのは精神。任意の物体はその存在を疑おうと思えば疑 うことは可能。

2.e.物体と精神を区分しないでいると、むしろ精神の存在を措定できなくなる。

★メモ執筆者のつぶやき1★

2.c.1.の該当箇所である10のタイトルは原著では「最も単純で⾃明的なものは、論理学的な定義 によってかえって不明にされる。かようなものは、研究によって得られた認識に数えられてはなら ない」となっているが、フランス語訳では「それ⾃ら極めて明⽩であってこれを学院⾵に定義しよ うとして、不明にされる概念がある。そしてかのような概念は研究によって得られるのではなく、 我々とともに⽣れるものである。」とされている。最後の部分は原著のタイトルにもなく、本⽂に もこのような⽰唆をする箇所が⾒当たらない。訳者の解釈が反映されすぎたのでは?と感じている。

(実際、訳者による序⽂でも、フランス語訳は逐語訳的なものではなく啓蒙的な⽬的から訳者⾃⾝ の解釈が⼊り込んでいると指摘されている。)これは、勝⼿な憶測でしかないが、「⽣得観念」と の関係があるのではと考えている。まさに、ヘーゲルの弁証法の解釈において弁証法の最終到達点

=絶対精神の存在を認めるか否かの党派闘争が⽂字通り政治的な⾊を帯びて激しく⾏われていたよ うに、デカルトの解釈を巡っても「⽣得観念」に関する党派闘争が⾏われていたのかもしれない。

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執筆者は哲学史はほぼ未習なので、詳しい史的位置づけを知りたい⼈は2016 年 4 ⽉ 11 ⽇例会のレ ジュメも参照してほしい。

2.d.の部分だが、これを以て「ははーん、デカルト君は反唯物論的⽴場やな」と結論付けるのは 違うと思っている。実際に彼がどうだったのかを推測することはメモ執筆者の現状の知識・⼒量で はできかねるが、少なくともこの箇所は観念論を謳ったものではないとは⾔えると思っている。本 例会で扱っている『哲学原理』の前半箇所は、あくまで真理探究を⽬指した思惟⾏為で何をなすべ きかを提⽰したものであり、いわば、認識・考察における⽅法論の提⽰である。いわば、この本は

『何が真で何が偽か』を提⽰しているのではなく、『真偽をいかに区分するか』を提⽰するガイド ブック的なものではないか。そして、認識において真っ先に真と確定できるものは何かと考えたと き、認識する主体が存在することがそうであり、認識の客体である物体ではないという結論を出し たのだろう。何が真か何が偽かを決められた⽅法で議論していくありかたそれ⾃⾝は、個⼈的には マルクス主義⽂献の底流にも流れていると感じている。

逆に、おそらく、「主客合⼀」を謳う⻄⽥哲学とは真っ向から対⽴するだろう。実際、⻄⽥哲学 の信奉者とされる宗教家⾕⼝雅春は⾃⼰の経典(幸福の科学でいう「太陽の法」のようなやつと思 えばだいたい合ってる)にてデカルトの⼆元論を全否定している。⾕⼝は瞑想を重ねることでこう い認識に⾄ったんだと豪語しているが、まさに⻄⽥の純粋経験に関する記述と⼀致している。ちな みに、⻄⽥は弟⼦である⽥辺元に「⾃意識内で完結するあんたの論は他者との共有作業が不可能だ から哲学なんかじゃねーよ。宗教だろこれ。」と『⻄⽥先⽣の教を仰ぐ』(⽥辺元)で指摘されて いた。

3. 13〜21認識の拡⼤過程

3.a.まずは、数多くの事物の観念を⾒る。次いで、その中から共通公理を⾒出す。そして、それら

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を駆使して論証していく中で新たな認識が出てくる。

3.a.1.この過程を踏む際、正しい前提を正しい順序で⽤いているかを常に確認することが必須である。 3.a.2.より確実な⼤前提を確認すること抜きには正しい論証は不可能。本⽂ではより確実な⼤前提と して「神の存在」を挙げている。

3.b.⾃⼰の様々な観念のうちで⾄⾼の能⼒を持つ観念が存在している以上、それを⽣み出した者で ある最⾼完全者の存在は否定できなくなる。

3.b.1.⾄⾼の観念ではない普通の観念の場合、そうではない。そして、⾃⼰のうちに⾄⾼の観念を⾒ 出すことができない以上は、外部に最⾼完全者が必然的に存在すると結論付けることができる。そ の存在を信ずることができないものは先⼊観が妨害している。

3.b.2.観念の客観的完全性はその原因も⼤きいことを⽰す。完全な観念の存在はゆえに完全存在であ る神の存在を⽰す。

★メモ執筆者のつぶやき2★

認識の拡⼤過程とその過程における注意事項としては⾃分も同意できる。しかし、完全な観念を

⼈間の所作ではないということを前提とした議論には同意できない。たとえば、執筆者がパッと思 い出せる範囲で最も完全な観念は実数という概念であるが、実数の概念そのものが扱われてきた経 緯には、測量における必要性や、物体の運動=位置の時間に伴う変化の動向を探る(微分)必要性 が明確にあった。そして、それらはどう考えても⼈間の労働の蓄積物ではないか。⼈間の労働を史 的に位置づけることができず(これは時代的制約もあるかもしれないが)、観念をあたかも⼈間の 労働から分離され宙に浮いた存在とみなすからこそ、こういう結論が出たのではないかとみている。

ヘーゲルもまた、思惟⾏為の⼿順を明確化させたが、この弱点を抱えており、結果として「絶対 精神」なる代物を⽣み出した。しかも、なまじっかヘーゲルの提⽰する⽅法論が明確であったがゆ えに、⾃⼰が明確化させた⽅法論と原理的に⽭盾するオチを出すというオマケつきである。ヘーゲ

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ルは、これまで存在した観念は合理的な理由で⽣み出され、そして、その合理性を喪失させる原因 が⽣じた際には対⽴し、結果的には両者は糾合され、⽣み出された新しい観念に椅⼦を奪われると いうプロセスの連続が無限に続くと⽰した上でその到達点を置いてしまったのだ。これは上界が存 在しない数列なんだよと決めてしまった上でこの数列には上限値があんねんというぐらいには滑稽 な話だなと感じる。

そして、おそらく、こういった何か外在的な完全体めいたものを置いてしまうのは、様々な⽣産 物(概念もまた、知的労働の⽣産物とみなせる)が⼈間の労働の結果なんだということを明確に意 識できないことに原因があるのではとふと思った。

これまでの哲学で迷宮⼊りしてしまうことに対し唯物論を⼈間の労働とリンクさせて対抗しよう としたマルクスの問題意識が垣間⾒えた気がした(『ドイツ・イデオロギー』読めば彼の苦闘が感 じられるよ)。

以上の考察を経て、執筆者⾃⾝は、デカルトの神に関する考察にこれ以上⽴ち⼊る必要はないだ ろう(少なくとも俺は必要としていない)と判断し、思惟の形態に関する議論に移していきたい。

4. 32〜35、42〜44思惟の形態および誤りの原因 4.a.我々が経験する思惟の形態は認識と判断の2つである。

4.a.1.認識が不⼗分なもの(=明晰判明ではない)に対して判断を下すことをしなければ誤ることは 防げる。

4.a.2.判断には、認識と違い意志が介在する。

4.a.3.判断はその範囲が認識に⽐べ広く、有限な範囲にとどまる認識と異なり無限に拡張できる。こ れが判断において誤りを犯す原因である。

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5. 45〜47明晰判明について

5.a.注⽬する精神の前に顕在的に現れる知を明晰と呼ぶ。

5.b.明晰であるが故にあらゆる知から分離・区別されたものを判別と呼ぶ。ゆえに、判別なものは すべて明晰である。

5.b.1.任意の判明なものは明晰であるが、逆は成⽴しない。例えば、激しい苦痛が明晰であることは 間違いないものの、その苦痛を他のものと分離・区別できないケースが存在する。

5.c.幼年期では、明晰なものを他の知から分離・区別するには精神の独⽴が不⼗分である。この時 期に形成される偏⾒は⼤⼈になって以降の判断に誤りをもたらすので、⾃分の思惟を構成する単純 な概念について明晰か否かを再検証していく必要がある。

参照

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