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Grasshopper 最近の更新履歴 ボードゲーム読書会@高田馬場

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Academic year: 2018

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1 バーナード・スーツ「キリギリスの哲学 - ゲームプレイと理想の人生」 ハンドアウト作成:沢田 Bernard Suits "The Grasshopper" 1978 年発表(訳書は 2015 年発売)

バーナード・スーツ(1925-2007):アメリカの哲学者。本書の訳者あとがきによれば、おおむね本書のような内容のこと、つまりゲームとかスポーツ とかに関することをずっと追いかけていたらしい。カナダの Waterloo 大学で 1966 年から 1994 年まで教鞭を取っていた。本国でもあまり知られた人 ではないようで、本人については Wikipedia(en)にも項目がないが、本書に出てくる「ゲーム内部的態度 Lusory Attitude」については項目がある。訳 者後書きにあるとおり、どちらかというと哲学領域(「スポーツ哲学」というのがあるんだそうです)よりはサレン&ジマーマンとかイェスパー・ユー ルとか、ゲーム研究の分野で参照された人。

書籍の内容は、ゲーム、およびゲームプレイの定義について、一冊かけて対話篇をやるというもの。そこでの定義については、前述のサレン&ジマー マン(Rules of Play, 2004)やイェスパー・ユール(Half-Real, 2005)が(他の人々による定義と併置して)まとめているので、まずそちらを紹介する。

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ホイジンガの定義 1950

意識的に「日常」生活の外に出て、「まじめではない」ものとして行う自由な行為。同時に、遊び手を夢中にさせるもの。物質的な利害に関係ない行為 で、固有の時間と空間の中で行われる。ルールに従って進められ、世間から区別された社交の集まりを作り出す

カイヨワの定義 1961

自由(強制されない)、分離(Act Apart)、不確実性、非生産性、ルールによる支配、「ふりをする(現実に対して、第二の現実とかフィクションという ような特殊な意識を伴う)」

クラーク・アブト(「シリアスゲーム」提唱者)の定義 1970

二人かそれ以上の意志決定者による活動であって、プレイヤーたちはある限定されたコンテクストにおいてその目標を達成しようとする。

(活動、意志決定者、目標、限定された状況) アヴェドン&サットン=スミスの定義 1971

自発的にシステムを制御する行い。不均衡な結果を作り出すために力を競い合い、ルールで制限が加えられている。

(システムの制御、自発性、力の競い合い、ルールによる対立、不均衡な結果) クロフォードの定義 1982

クローズドシステムという表現(アートフォーム)、やりとり(インタラクティビティ)、対立、安全性(対立と危険を「安全に」味わう為のシステム であること=Act Apart と異なるが共通点のある考え方)

(クロフォードはコンピュータゲーム「Balance of Power (1985)」の作者で、GDC[Game Developers Conference]の創始者。1982 年の「クロフォー ドのゲームデザイン論」が特に有名。クロフォードのゲームデザイン論はウェブ上で無料の和訳が提供されている)

David Kelley の定義 1988

レクリエーションの形式の一種であり、ルールセットにより構成される。このルールセットにより目標と可能な手段が与えられる。

(Kelley はアメリカの哲学者。上記は The Art of Reasoning -- たぶん未訳 -- による。なお、同名の有名なビジネスマンがいるがこれは別人) コスティキャンの定義 1994

芸術の一種。プレイヤーが目標達成を目指して、ゲーム内の各種トークンを使ってリソースのやりくりをするため、意志決定する。

(芸術、意志決定者、資源のやりくり、ゲーム内トークン、目標)

(コスティキャンの定義はゲームを玩具やパズルと分けるためのもので、コスティキャンの定義ではシムシティは「玩具」に入ることに注意。この 1994 年の論文「言葉は無いけどデザインせねば」は、ウェブ上で和訳が「コスティキャンのゲーム論」として無料で公開されている)

パーレットによる「形の整ったゲーム」の定義 (たぶん 1999) 目標(終了条件、勝利条件)の存在、手段(ルール一式)の存在。 サレン&ジマーマンの定義 2004

プレイヤーがルールで決められた人工的な対立に参加するシステムであり、そこから定量化できる結果が生じる。(本人の認識では、アヴェドン&サッ トン=スミスの定義に近い。)

(システム、プレイヤー、人工性(Act Apart)、対立、ルール、定量的結果)

(このあとに「デジタルゲームの定義」が続く)

ユールの「クラシカル・ゲーム・モデル」による定義 2005

ルールベースのフォーマルなシステムで、定量的かつ様々な結果があり、その結果のそれぞれに価値が定義され、プレイヤーはその結果に対して感情 をもつ。活動の結果に関しては、現実世界につながる結果ありでもなしでもプレーできる。

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(ボーダーラインケース:スキルベースのギャンブル、運ベースのギャンブル、TRPG、オープンエンドなシミュレーション。ゲームでないもの: ライフゲーム、ストーリーテリング、ハイパーテキスト・フィクション、フリーフォームな遊び)

(ただしユールのここでの主題は、クラシカル・ゲーム・モデル自体ではなく、TRPGとビデオゲーム以降の時代においてこのクラシカル・ゲーム・ モデルに限界があるという認識のもと、改めて現在のゲームについて捉え直すことにある)

(なお、ユールのこの部分については、要約が日本語で存在する。www.jesperjuul.net/text/gameplayerworld_jp/)

◆スーツの定義 1978

事態を特定の状態(「目標」)に向けて進めようとすること。その際、ルールで許された手段だけを使う(つまり、目標達成のために許される「手段」 を規定するのが「ルール」)。そのルールでは、物事がすんなり進まないように、わざわざ効率の良さを禁じている。こうしたルールにより(やりがい のある)ゲームが成立するからこそ、プレイヤーはそれを受け入れる。

(行為、自発性、特定の状態、ルール、非効率性、ルールをうけいれる。)

(スーツ自身は、基本要素を、目標、手段、ルール、ゲーム内部的態度、の4つとしている)

「効率の良さ」に対するユールのコメント

スーツの「効率的でない」という定義は有名だがミスリーディングだ。ルールで定義された方法が最高効率である場合も当然にありうるだろうし、も っと本質的な問題として、たとえばコンピューターテニスゲームにおける目標を達成する際の「非効率性」とは何を指しているのか?

むしろスーツのこの定義は、人工性や自発性を伴うところに重点があるものと考えるべきだろう。

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さて、この要約はしかし、この本の独特の魅力を削いでいる感がある。哲学者であるところのキリギリス(アリとキリギリスのキリギリス)が死の床 で弟子を前に「俺は働かないし、ふぁっきん蟻の世話になぞ金輪際ならねえ」(読んでない人へ:口調に嘘があります)と断言するところから始まり、 延々と「その定義においてこれはゲームか、これはゲームプレイか」と問答を続ける対話篇の要約は、章ごとに行われる議論を追っていくことでなさ れるべきであろう。

第1章。

キリギリスは自らを「ただ自らの人生を遊び通して死ぬ」ために生まれた存在と定義し、「働かなければ冬に死ぬ」という技術的制約により、今死の うとしている。その状態においてキリギリスは、自分が見ている夢について語る(最終章でネタが明かされる)。

「生きる者は全て「ゲームの」プレイに携わっているのに、自分ではそれぞれ日常の事柄(仕事)に携わっていると思いこんでいる。この思いこみ が解消されると、これら生きる者たちは、存在しなくなってしまう」

第2章。

ワーク(仕事)とプレイ(遊び)の定義。

ワークは「何か他のもののために価値があることをする」、 プレイは「それ自体で価値があることをする」。

加えて、あらためて、「プレイ」と「「ゲーム」のプレイ」が区別されるべきものであることが確認される。 第3章。(ここから第13章まで回想)

ワークの再定義。「目標に到達するために、最高効率の手段を用いようとする活動」。

ゲームがワークではない一つの理由として、ゲームでは非効率的な手段が選ばれる。レーサーはオーバルの内側を決して横切らない(コース上に赤 ん坊が飛び出してきてもこれを挽くのをためらわないかもしれないが)。

「ある一定の事態を達成すること(フィニッシュラインを超えること)」と勝利条件を分けて考えよう。プレイヤーは勝利条件の達成において非効率 性を求められない。が、ある一定の事態を達成する点では非効率性を求められる。それはつまり、「ある一定の事態を達成する手段という意味では」恣 意的に設定されたルールに従う必要がある、という意味だ。

そして既出の「ゲームの定義」が現れる。前述の四要素(目標、手段、ルール、ゲーム内部的態度)のうち、「ゲーム内部的態度」についての説明。 ゲーム以外の場面でルール(目標達成のための手段の限定)が定められる場合、普通は尤もな外部的理由つまり目的があるのだが、ゲームのルールに は(役所のあれと同様)何もない。このルールを「そういうゲームをしたいというそれだけのために」受け入れるのを、ゲーム内部的態度とする。 第4章

対話者から「チェスのチェックメイトなんて(前提的)目標はそもそもゲーム内にしか存在しないんだから、ルールと別個のものとして考える意味 があるのか」と問われる。

キリギリスは「たしかにチェックメイトはチェスの制度における概念だが、チェスのゲームとは切り離して考えられる。チェス盤を取り出して得駒 をチェックメイトの位置に並べることは、チェスの制度に依拠した行為だが、チェスのゲームの外側で行っていることではある」と返す。

(この部分はユールが改めて蒸し返した部分でもある。スーツはコンピュータゲームを想定していなかったが、コンピュータゲームでは実行環境の 強制が可能なので←レッシグの議論みたいですね)

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3 補論として、「真剣でないプレイヤー=ふざけ屋=ルールに従うが目標に従わない」や「いんちき屋=いかさま屋=目標に従うがルールに従わない」

「荒らし=目標にもルールにも従わない」のうち、前二者はゲームをプレイしているとはいえないがゲームの制度には従っている、としている。 第5章

対話者から「遠回りして家に帰る、という(明らかにゲームと言いたくない)事例がその定義だとゲームに入るんじゃないか」と問われる。 キリギリスは、それはこの定義でもゲームに入らない、と返す。ただし、「遠回りして、時間内に家に帰る」なら定義上ゲームに入るし、また入れる べきだ。

「ルールによる制限がきつすぎてもゆるすぎてもゲームとして機能しない」と、良いゲームについての示唆も与えられる(これは必ずしもルールだ けじゃなくて目標についての話でもあるだろう)。

第6章

対話者から「例えば、相手を殺すのが目的でそのために何をやってもいい、というゲームはゲームと認められるはずだが、しかし手段について規制 が何もなく、定義上ゲームに入らないんじゃないか」と問われる。

キリギリスは、それはゲームに入る、と返す。つまり両者がこのゲームにいつから参加するか知ってるからで、もちろんゲーム開始前に相手の不意 をついて殺す方が効率良いが、そうしないという制限がここにはある。

第7章

アウレル・コルナイ(Aurel Kolnai、実在の哲学者。1900-1973)による「(ゼロサム)ゲームのパラドクス」の紹介と反論。

コルナイによるゲームのパラドクス「チェスの共通の楽しさのために絶対的に協調してそれをプレイすることと、どのプレイヤーもチェスの中では、 相手の力を削ぎ相手の目的を挫くことによって相手を負かすことだけを狙うということ。この二重の分離できない合目的性」

キリギリスは以下のように反論する。競争の存在という点で協調し、競争の結果という点で対立するのだから、これはパラドクス(A かつ非 A)では ないし、擬似的パラドクスとしても面白くもない。

加えて、キリギリスは、より有益な(擬似的)パラドクスを提案する。例えば「熟練者と初心者のチェスにおいて、熟練者が初心者にアドバイスす る」(勝利があまりに容易であると、ゲームに価値がなくなる)。とはいえこれは優れていないゲーム(または優れていないマッチング)によるもので、 優れたゲームはこれを回避したものだといえる。

さらに、(競争)ゲームが他のプレジャー(たとえば性行為)と異なる点として、敗北によってゲームを「達成」することができる、という点があげ られる。サスペンデッドや失格やその他ではなく敗北でゲームを終えるというのは、活動を成功裏に完了したことになる。

第8章

対話者から「登山はゲームなのか」と問われる。

キリギリスは「ゲームである」と返す。仮にエベレストにはヘリで行けないとしても、そもそもわざわざヘリで行けない山を探している時点で「非 効率性の制限」をかけているのと一緒だし、仮に登山列車で行けるとしても登山者がそれを使うことを「登山」と言うはずもないからだ。

第9章(この章から話が変わります)

対話者から「警泥」や「ままごと」は脚本のある営みではないのでゲームに含まれるではないかと問う(「かごめかごめ」はゲームではなく「脚本の ある営み」だということについては、対話者もはじめから同意している)。

対話者はこの種の役割支配型の遊戯を、これまで見てきたゲーム(目標支配型の遊戯)と同じ括りにするため、新たな定義「ゲームはそれ以外の活 動の目的と手段を転倒させる」を持ち出す。

キリギリスはこれに対して、その定義はカント、キルケゴール、シラー、ジンメルなどが美学等の分野において持ち出したアイデアであるが、役割 支配型の遊戯には当てはまるとして、目標支配型の遊戯には当てはまるだろうか、と疑問を示す。

これに対して対話者は、目標支配型遊戯においても、(たとえば A 地点から B 地点までの移動という)目標と手段の転倒が起きていると指摘する。 では、ごっこ遊びは(未発達な点の多い)ゲームなのか。

(ここで、「そうした娯楽(ごっこ遊び)が事実ゲームなのだとすると、それがどう機能しているかを見極めるべきだ。大人が追求しても社会的に受 容されるものとしてそれらを改良し、制度化できるようにするためにね」とキリギリスはコメントしている)

第10章(第9章のつづき)

対話者が二重スパイのストーリーを語る。他者を欺くという目的のために誰か他者になりすまし演じていたのだが、実際にはこのスパイは「誰か他 者を演じる」という手段のみを重視していた。

キリギリスはこれに対して、「他者を欺く」というのはこの二重スパイにとって実のところ(手段化しているというよりは)単に不要なのであって、 最初からごっこ遊びだけ行えばよいと指摘する。ただし、ごっこ遊びは物まねや演劇とは異なり、複数の役割を持った複数の人による遊びである。二 重スパイの例では「他者を欺く」ためにプレイヤーは一人しかいなかったが、ごっこ遊びではプレイヤーも普通に二人でよい。

ここで、この例における「本来の」目的の重要な一部を構成する、「他者になりすます」という部分は本質ではないのか、という疑問が生じる。 第11章(さらにつづき)

少年と老女のストーリーが語られる。少年は老女の道路横断を補助したくてたまらないので、少年は老女を操って道路横断させようとする。老女は 少年にあわせてあげる。これは役割二つ、人二人、プレイヤー一人のごっこ遊びで、少年は下手なプレイヤーなので本来このゲームはすでに破綻して 終わっているのだが、老女側がつきあってあげている(逆に先の二重スパイはうまいプレイヤーなので本人が望むだけゲームを続けられている)。この

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4 例では、少年は自分自身を演じているのであって、他者になりすます必要はどこにもない。ごっこ遊びは、遊びを可能にする役割を果たすゲームなの だから、前の章の例との本質的な違いは無い(上手か下手かはともかく)。

ここまでの議論で、「手段と目標の転倒」は(ゲームとしての)ごっこ遊びにおける本質ではないことが示された。 第12章(10ー11章の再検討)

ごっこ遊びの系統のゲームで大事なのは、自分とは異なる性格を装うことではなく、良い手を指すこと。つまり、プレーを終了させるのではなくゲ ームを継続させることだ。目標を達成するとゲームが終わる通常のゲームをクローズドゲームと呼び、そういうのがないゲームをオープンゲームと呼 ぼう(時間が来ると勝手に終わるゲームについての考察が無いが...)。ピンポンラリーのようなものもこのオープンゲームに入るだろう。このオープン ゲームにおける目標は、ゲームをインプレイにし続ける、ということだ。つまり、役割演技型か目標追求型かというよりは、オープンゲームかクロー ズドゲームか、という分け方のほうが、「警泥」と卓球を区別するには重要だ。警泥は役割演技を含み、ピンポンラリーには演技は無いが、どちらもオ ープンゲームだ。

ごっこ遊びにおける「手段の限定」とは何か。脚本を用意しない、というのが例えばそれにあたるだろう。

「警泥」のようなゲームについて9章で述べた疑義は、このオープンゲームのプレイヤーが、オープンゲーム性とクローズドゲーム性を混同してい る(あるいは、共通理解がない)ことに起因すると言える。

(これをうけて、さてRPGとはどういうゲームか、という議論になると面白いのだけれど) 第13章(ここで話が切り替わります)

対話者から、プロプレイヤーは(ゲーム内部的態度の面で)ゲームをプレイしていると言えるのか、と問われる。

キリギリスの回答は、「プレイしていると言える」。プロプレイヤーにせよ、ゲームのルールに自発的に従っている点では基本的に同じだ。べつに4 00m走のプロプレイヤーは、たまたまそれが最高効率だからトラックを回って走っているわけではない。単に、外部的目的「も」存在しているとい うだけだ。ゲームに対して他の外部的目的の混入は認められるべきだが、「ゲームは本質的に他の何かの目的のためのものである」という考え方には与 しない。いかさま屋はプレイヤーではない。ゲームは(エリック・バーンの主張とは異なり)社会的承認を前提的目標としてプレイするものではない。

バーン(社会心理学者)の定義(1967)では、ゲームとは

「はっきりと規定される予測可能な結果に向かって進行する、相互補完的かつ隠蔽的な、一連の継続する交流である。(中略)より口語的に言えば、罠 や「からくり」を伴う一連の手である。(中略)すべてのゲームは...基本的に不正直である。」

となるが、もちろんそうである必要はない。

さて、バーンは、自律した状態と、ゲームプレイヤーに特有の神経症的依存状態を対比し、自律した状態は「ゲームをプレイしたいという強迫的衝 動からの解放」を意味している、と述べている。ここでの強迫的衝動は「働かなくてはならない」という蟻の強迫的衝動と同じものだろう。 これに対して、ここまで議論したゲームというのは、完全に自律した個人が行いうる唯一の事柄ではないか、とキリギリスは提示し、死ぬ。 第14章(回想からもどってくる。キリギリスは都合により生き返る)

対話者は、ゲームプレイは内在的な価値を持つ活動だが内在的価値を持つ活動がすべてゲームだというわけではない、という疑問を提示する。 第15章

キリギリスはあらためて、プレイ(内在的価値を持つ活動一般)は生の理想を適切に説明するために必要だが充分ではなく、ゲームプレイこそが決 定的役割を果たすと論じる。

ユートピアにおいて、人々は内在的価値を見いだしている活動にのみ従事するものとしよう。仕事はもはや必要ではない。欠乏をベースにした我々 の社会をベースに考えると、共有や賞賛や愛や衝動や諸々はすべて存在しないことになってしまい、芸術の主題も無いということになるだろう。 これはユートピアの実情としてはあまりふさわしくない感があるので、「仕事」は存在することにする。ただしこの仕事には、ユートピアの定義上、 内在的価値だけが認められる。つまりその仕事はゲームプレイ(まあ、一種のスポーツ)だということになる。

ユートピア人はこのゲームプレイをベースとして社会の諸々の概念を築くことになる。勝利の喜び、敗北の悲しみ、愛や友情といったもろもろが、 スポーツマンシップ的なもののようなありかたで導入される。ユートピアはゲームプレイにおける内在的価値によってのみ駆動できる。

しかし、皆が皆ゲームプレイを好むわけではない。外部的価値(人類の進歩とかそういう)こそを動機とする人間にとっては、自らの生が無に帰さ れるように思えることになるだろう。

*** かんそう

ユールの指摘する疑問は誰もが抱くものだろう。「非効率性」をあくまで押し通すために、強引な論理展開を押し通している部分がある(脚本のある営 みと役割演技型ゲームの差異、つまり脚本の有無を「脚本という効率性の放棄」と言ってみるとか)。後の研究者が整理している通り、これは「恣意性

(この言葉はスーツも使っている)」ないし「人工性」としてまとめられるべきものだろう。

もう一点気になるのは、スーツは本書のあちこちでハードル設定(高すぎず低すぎず)を良いゲームの重要な要素として取り上げているにもかからわ らず、彼のゲームの定義にはこの点が含まれないことだ。個別に「これはゲームか否か?」と区分けを行う際には、どうもこの点を意識しているよう にしか見えないのだが(「かごめかごめ」をゲームから外しているが、これは脚本の存在よりもハードルの不在を理由にしたほうが遥かに適切だろう) 一方、この広いゲームの定義を拡張することで、RPG を適切に位置づけられるのではないか、という予感がある。プレイでなくゲームが論じられる際 に大抵 RPG が除外されるのに対し、ごっこ遊びの検討に 3 章分を用意し、「ごっこ遊びの制度化」というフレーズまで用意する本書はとても魅力的だ。

参照

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