− 18 − − 19 − 省都といっても、西寧の街はやはり小ぢんまり
している。ここは、青海省の政府がおかれている し、最近は中国政府の内陸開発政策のため、変化 は早まっているかもしれないが、それでも、一昔 前の少しのんびりした中国の街の雰囲気がまだ残 っている気がする。
西寧は、黄河の一支流に沿ったところにある。 この西寧をふくむ青海省から甘粛省にかけての地 域には、チベット仏教やイスラームを信じる人々 が多く住んでいる。巨視的にいえば、現在の中央 ユーラシアは、東西トルキスタンを中心とするイ スラーム圏と、チベット高原・モンゴル高原を中 心とするチベット仏教圏とから成る。この黄河(支 流を含む)の上流地域は、その二つの文化圏がま さに交錯する場所といえる。
チベット仏教圏
西寧から少し離れたところには、チベット仏教 ゲルク派の名刹クンブム(塔爾寺)がある。寺域 には多くの僧が住んで修行に励んでいる。 チベット仏教と中国の仏教とはいずれも大乗仏 教であるが、その相違はまずは経典にあるという べきだろう。仏教が中央アジア経由で中国に伝わ ると、大量の漢訳仏典が作られた。とくに唐代の 玄奘が経典を持ち帰り翻訳活動を進めたことは有 名である。百済・新羅・高麗や日本に伝わった仏 典も、そのように漢訳された仏典にほかならない。 確かに、たとえばサンスクリット語の『般若心経』 写本が日本の法隆寺に伝わっているといった事例
はあるが、漢訳された仏典が圧倒的な影響力を持 ったといってよい。
これに対して、チベットは、ヒマラヤを越えて 直接インドから仏典を導入して翻訳を行い、大量 のチベット語経典を生みだした。そして、インド で展開した密教思想を導入したり、またチベット 古来の文化要素を取り入れたりすることで、個性 あふれるチベット仏教文化が誕生したのである。 これが、モンゴル人にも伝播し、また清朝皇帝の 庇護を受けることで、ますます大きな役割を果た すことになる。北京にいくつもチベット仏教の寺 があるのは、そのためである。
黄河上流地域では、チベット仏教を信じる人々 の多数はチベット族である。チベット族といって も、チベット自治区だけではなく、四川省から青 海省・甘粛省の広い地域に散在している。
モスクを訪ねる
中国語でモスクのことを、清真寺という。たと えば、西寧の街の東のはしにあるモスクは、東関 清真大寺といい、その規模と歴史を誇る。 名前は「寺」であっても、モスクとしての役割 にかわりはない。つまり、集団で礼拝を行う空間 を提供し、しばしばアラビア語(端的には『クル アーン』)を学ぶための学校が附設されている。 その建物時代の外観は、ほぼ中国の寺院建築に ならって建てられたといえるものもあれば、全く 中国史の奥の細道
東京大学文学部助教授 吉澤 誠一郎
中国の西北角をゆく
西寧の風景
青海省西寧市の東関清真大寺
− 18 − − 19 − アラビア式と いう感じの丸 いドームに三 日月をつけた ものもある。 最近は、アラ ビア風に建て ることが多い ようである。 モスクには、 アホンなどと 称する指導者 が駐在してい る。アホンか ら話を聞いていると、だいたいイスラーム教学を 修めたあと、招かれてそのモスクに来たという経 歴がわかる。
様々な民族
この黄河上流地域でムスリムの多い民族として は、まずは回族がいる。回族は、西域より渡来し た人々の子孫という伝承はあるが、現在では、中 国語を話している。もし漢族と区別されるアイデ ンティティがあるとすれば、それはまさにイスラ ームに求められる(新疆のウイグル族のように言 語そのものが独自であるのと異なる)。このよう に回族にとってイスラームはとても大切なもので あり、私の目から見ても非常に信心深くまじめな 信徒に出会って感動したことは少なくない。 また、西寧から自動車で2〜3時間のところの 循化を郷里とするサラール族の人々がいる。サラ ール族は、かつてサマルカンドからやってきたと され、チュルク系の言葉を持つ。伝説によれば、 西からきて住み良い土地に来たところで、駱駝が 止まってよだれを垂らしたという。そのよだれの 名残として、駱駝泉という清冽な泉があり、とな りに立派なモスクがある。
そのほか甘粛省の一部の地域に住む保安族や東 郷族といった人々にも、ムスリムが多く、それぞ れの伝承と言語を持っている。東郷族は50万人ぐ
らいの人口があるとされるが、サラール族は10万 人程度、保安族は数万にも満たない。中国の少数 民族について考える場合、ついつい大規模な人口 をもつ集団に注目しがちだが、このような小さな 民族集団がどのように成り立っているかにも関心 をもってゆきたい。
相互依存する人々
甘粛から青海にかけての地域は、様々な民族、 とくにイスラームやチベット仏教を信じる人々が まさにパッチワークのように交錯して住んでいる。 青海省の西寧や甘粛省の臨夏(中国の小メッカと 呼ばれる)は、ムスリムが多く住んでおり町じゅ うにモスクが建っているが、実は買い物に来たチ ベット族の人々も多く歩いている。
チベット人とムスリムの経済的相互依存は、相 当以前から見られたと想像できるが、とくに19世 紀後半以降に新展開をみせた。天津で欧米との貿 易が始まると、中国西北地域のチベット族の人々 の飼う羊の毛が注目されることになった。良質な 羊毛が西寧や臨夏に集められたが、それを商った のはムスリム商人が多かったのである。チベット の牧民はこの商売で、麦などの穀物や綿布を得た。 異なった宗教が対立するというような図式は必ず しも当てはまらず、むしろムスリムの集団どうし が抗争した事例も少なくない。
西北角の未来
1930年代、中国では「西北建設」ということが しばしば主張された。これは、日本の侵略に備え て、内陸部をしっかり経済的・軍事的に統合しよ うとする政策的意図に基づくものといえる。ジャ ーナリスト范長江は、そのころ話題の中国の西北 部を旅して『中国の西北角』を著した。
今日の中国の「西部大開発」は、むろん1930年 代とは背景を異にする。しかし、依然として、複 雑な民族構成、沿海と内陸との経済的格差といっ た課題が残っているとも考えられる。