− 17 −
物を通して見る世界史日露海戦と下瀬火薬システム
日露海戦時、連合艦隊の主力軍艦はイギリス製で、 無煙火薬(発射薬)もイギリスに全面的に依存したが、 下瀬火薬システム(ピクリン酸を炸薬とする鍛鋼榴弾 システム)は海軍が独自に開発し自給した。同システ ムは波浪接触でも爆発して破裂弾片を激しく飛ばし、 また猛火で包み、敵艦上の装備や兵士を無力化するこ とを眼目としていた。
1888年に海軍技手の下瀬雅允が下瀬火薬の試製に成 功、94年から下瀬火薬システムの本格的開発に着手、 1900〜03年に完成する。
日露海戦の主海戦は1904年2回(8月10日 黄海海 戦、8月14日 蔚山沖海戦)、05年1回(5月26〜27日 日本海海戦)の計3回、いずれも1〜2日の短期決戦 で日本側圧勝に終わった。
下瀬火薬を大量に詰めた砲弾は、敵艦船の装甲を貫 通する能力は持たなかったが、高い破壊力によってロ シア兵と艦船に大きな被害を与え無力化した。ロシア の徹甲榴弾は有効射程距離で劣り、綿火薬を装填した ため爆発力でも劣るうえ、不安定で不発が多く、所期 の効果を発揮できなかった。ロシアのバルチック艦隊 を全滅させた重要因は下瀬火薬システムがロシアの弾 薬システムを圧したためと考えられる。
メリニットの発明と徹甲榴弾システム開発競争 欧米では1880年前後から鉄鋼革命が起こり、艦船の 大型化と建艦競争、装甲防御と徹甲榴弾との開発競争 も熾烈になった。フランスのチュルパンは渦中の1885 年にメリニットを発明した。
1865年にイギリスのアベルが安定的精製に成功した 綿火薬は、黒色火薬に比し爆発力は遙かに大だが、過 敏なため砲弾への装填は至難だった。ピクリン酸は、 爆発力で綿火薬を大きく上回り、安定性も大で砲弾へ の装填も比較的容易だった。
チュルパンは初めてピクリン酸の砲弾への装填に成 功したが、衝撃感度が鋭敏なため砲弾が装甲板に衝突 すると同時に爆発(自爆)し、装甲を貫いて内部を爆 破することが眼目の徹甲榴弾の炸薬には不適格だった。
そこで彼は、鈍感剤としてコロジオンを添加した(混 合ピクリン酸)。これがフランス軍に採用されたメリ ニットで、遅動信管の開発も「遅れた爆発」に不可欠 だった。
メリニットの開発は国際的なかけひきをうながす。 フランスは、ドイツにはメリニットを積極的に輸出し、 またドイツからピクリン酸およびコロジオンを多量に 輸入した。
ただ効果的な鈍感化と爆発力保持の両立は容易でな く、ドイツ海軍でのメリニット採用は限定的で、日露 戦争後にはいち早くTNT(ニトロ化合物)採用に向 かう。フランスでも他の混合剤の開発が図られる。 一方、チュルパンはイギリス・アームストロング社 に特許輸出を図ったかどで1891〜93年に約2年間入獄 させられている。ただし、フランスはピクリン酸の主 原料(石炭酸)を、イギリスから挑発的に多量に輸入 した。
イギリスはフランスの行為等に触発されてピクリン 酸を試製、実験して自爆問題を発見、鈍感剤としてディ・ ニトロ・ベンゾール、ワセリンを添加したリッダイト を1889年に採用した。アメリカはアンモニウムを鈍感 剤としたD火薬を1900年代初めに採用、何れも徹甲榴 弾用で遅動信管を不可欠とした。
ところでフランスは、日本海軍には輸出市場的視点 から、チュルパン邸での立ち会い実験・サンプル提供 を容認した。それは下瀬火薬開発に有力なヒントを与 えた。一方ロシアには、1891〜94年露仏同盟締結後も メリニット情報を提供しなかった。大国ロシアへの警 戒心が解けなかったことも一因と考えられる。 大艦巨砲主義のもとメリニット系が主役に
欧米列強は日露海戦を教訓として、軍艦の規模、装 甲防御、速力、砲弾の有効射程距離・破壊力など軍艦 システム全体に一大革新を加えて、ドレッドノート級 を超える超ド級戦艦を開発した。これにより、メリニッ ト系(さらにはTNT系)の徹甲榴弾システムは主役 の地位を確立し、下瀬火薬システムは時代遅れとなった。 日本海軍も、大正初年(1910年代)頃には技術導入 により超ド級戦艦自給体制を確立し、徹甲榴弾の自給 化も進捗した。しかし化学技術水準の低位に、戦勝体 験意識による「下瀬火薬神話」も手伝い、下瀬火薬の 鈍感化、つまり混合ピクリン酸化に踏み切れなかった。 この問題は日中戦争期に露呈される。
高崎経済大学特任教授 小 池 重 喜