「論語鄭玄注」は日本に伝来したのか : 「令集解
・穴記」の説を中心として
著者
高橋 均
雑誌名
中国文化 : 研究と教育
巻
69
ページ
( 1) - ( 15)
発行年
2011- 06- 25
「論語鄭玄注J
は 日 本 に 伝 来 し た の か
ー 「 令 集 解 ・ 穴 記
J
の説を中心として一
高
橋
均
はじめに
QYXS iセ ` 11英語教学討論会J に 参 加 し た 折 、 休
憩時に北京大学の朱徳照教授から f日本に E論語鄭玄法』はありますかJ とい
う質問を受けたことが、なぜ、か今も記憶に残る。「論語英5[玄 在j は、敦; 壊で発
見され、 E土魯番から
i
タ! ゴこするものと思い込んでいたわたしの頭を一瞬よぎったのは、中間人にとって、日本は東の敦爆、日土魯番なのか、ということであった。
しかし中国で早くに数供している f礼 記 子 本 疏 義 ム 「 論 語 義 疏J、「孝経,孔安
、 あ る い は 中 留 に 伝 わ る テ キ ス ト と は 異 な る 系 統 の 古 抄 本 「 論 語 集 解J
の数々が今も日本に伝わっていることは、 f中華J を車l I l にして日本が「東の敦
: 娘、兵士魯番! の役割を果たしていたといえるのかもしれない。
については、何嬰の「論語集解・序j に「漢末、大奇麗鄭
以携之j主。J と記される。 1経典釈文・序録J の記述
とあわせて読むとよ鄭玄詰「魯論( 張侯論) J、葱威、周氏の篇章にもとづいて
と 比 校 を 行 い 、 技 釈 を 施 し た こ と が 知 ら れ る の 彼 の こ う し た
よって、今われわれが見るような「論語J のテキストが作られた。しか
し そ の 「 論 語 法J は、今} 書写本残巻として残るだけで川、比校の跡も、「斉
論j との比校は明らかではなく、「古論j と の 比 校 が わ ず か に 「 経 典 釈 文 ・ 論
などに30条残るに過ぎない{ 針。
鄭玄の「論語? 主j は、中題では何憂の「論詩集解J と並び行なわれ、日本に
おいても f養老令・学令J、「日本国見在書毘録J などによれば、法来し読まれ
ていたとされる。しかしはたして「論語鄭玄控J は日本に伝来L ていたのだろ
うか。今私の結論を先に述べれば、「論語鄭玄詮J が日本i工伝来したニとにつ
いては限りなく否定的である。しかしそう患い芯がらも、この先いつか手鑑に
; 枯られた五行の「論語鄭玄注j 断簡が発見されるのかもしれない。そん怠夢を
ちながら、鄭玄の「論語控j の日本伝来について考え
τ
みる( 3)。、
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論 語 鄭 玄 注 」 の 日 本 伝 来 を 考 え る 前 提 と し て鄭 玄 ( AD1 2 7 - 200、 字 康 成 、 北 海 高 密 の 人 ) が 「 論 語J に註釈を作った
ことについては、次のような史料がある。
「凡玄所説、 j笥易・肖審・毛詩・{ 義雄・鵡記・論語・孝絞・! 尚書; 大{ 専…J (後
漢 書 ・ 鄭 玄 列 伝25)
「漢末、要[5玄以張{ 史論矯本、参考湾論・古論荷鶏之詩。… 吏部 i奇書 1ilJ委、又
ヲアセq サ iセュ N Q ョ QQ iセ
玄,伺委支於
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諸学、r
r
政)1氏甚微。期,翼手、鄭謬溺立。歪階、何・鄭並行、鄭氏感於人問。… J (1害警・経籍志)
「論語十巻鄭五注。梁有古文論語十巻、襲1I玄討:J (1清書: ・経籍志)
f論語九巻鄭玄注、驚歎騎常{ 寺j露 審 議J (1寄書; ・経籍志)
「論語、孝綬、薬
s
氏博士各一人J ( 普書: ・萄総伝)サ Qセ j
を疑う余地はない。先の「論語鄭玄j主J 十巻の) 書写本残巻が、敦爆、 i吐魯番な
どから発見されていることも、これを裏付けるであろうの
ェ iセ ェ j ( 残巻) と「論詩
集解j とによって見ることができる。ここで「論語鄭; 玄jむ と 「 論 語 集 解 」 と
の関係を編纂された! 額序を追って示せば次のようである。
i Iセ ェ ヲ ェ
i i ) 後に侍嬰が漢・鶏の「論語J y ャセ
子
L
安 箆 ・ 篤 融 ・ 荏 威 等 の 注 釈 と と も に 「 論 詩 集 解j 十巻 ( 240 - 248年間lこ成書) の中に採りいれられたの
iii) その結果、「論語J の鄭玄注には、「論語鄭玄j主」と、「論語集解j
られた鄭玄注の二種が存在する。本論で両者を区別する必要がある場合、
前 者 を 「 論 語 鄭 玄 注J、 後 者 を 「 集 解 鄭 玄 注j と呼ぶこととする。また
テキストの総称としては、「鄭注本J
r
集解本J として箆別する。そ れ で は 何 委 が 「 論 語 集 解j を撰述したとき、「論語鄭玄注J からどれほど
の鄭玄設を「論語集解j に採りいれたのであろうか。今八{ 分・盟仁・公冶長・
太{ 自・子竿・郷党の各篇に残る鄭玄注を「論語集解」に引かれる鄭玄注と比べ
合わせると、何嬰によって採りいれられた鄭玄注は、条数で数えて「論語葉
s
玄注j のおよそ1 0 %強 に あ た る と 考 え ら れ る { へ と い う こ と は 「 論 語 鄭 玄 控J
の9 0 %が「論語集解J に 採 り い れ ら れ る 際 に 紛 ら れ て し ま っ て い る と い う こ
と で あ る 。 こ れ は 「 論 語 集 解 」 に 引 か れ る 鄭 玄 控 が 、 集 解 全 体 の お よ そ109も
を
!?
5
め る こ と と 対 応 す る( 5。)2
鄭 注 本 の 臼 本 伝 来 に つ い て の こ れ ま で の 説iセセ
で あ る と さ れ て き た 。 そ の こ と を 詳 細 に 論 証 し た の が 、 内 野 熊 一 郎 の 諸 論 考 で
あ る ( 引 。 そ の 一 方 、 項 目 注 本 の 日 本 伝 来 に 疑 念 を 提 出 し た の が 小 島 憲 之 で あ
る( 7 ) 。二人の論は、この問題を論じる際避けて通ることはできない。そこで
ま ず は 鄭 読 本 の 臼 本 伝 来 に つ い て 論 証 し た 、 内 野 熊 一 郎 の 論 説 に つ い て 検 証 す
ることからはじめる。
内 野 「 鄭 校 本 日 本 伝 来 説J の 検 証
内 野 説 は 、 そ の 前 提 と し て 、 「 養 老 令 ・ 学 令j の 「 凡 数j受正業… 論誇都玄・{ 可
が 日 本 で 施 行 さ れ た こ と を 根 拠 と し 、 そ の こ と は 「 日 本 留 見 在 審 呂 録 」
に 記 さ れ る 「 論 諮 十 巻 鄭 玄 注j に よ っ て 裏 付 け ら れ る と す る 。 こ の 「 養 老 令 ・
学 令j の令文と、「日本思晃在書白銀J の 記 載 と は 、 鄭 注 本 の 日 本 伝 来 を 考 え
る場合の基本; 資料となる。
そ の 上 で 内 野 説 は 、 鄭 注 本 の 日 本 伝 来 を 裏 付 け る 有 力 な 根 拠 と し て 、 「 日 本
・
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貢宗紀j の 「 日 、 宣 哉 、 兄 弟 恰 始 、 天 下 錦 徳j の 「 兄 弟 恰 恰j という匂が、「論語j 築解本系統の羽目友切切偲{ 恵、兄弟恰恰如也j と異なり、「詩経,
常 様J のま主に引く要
1
5
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主本「朋友切切偲器、兄弟1
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合治J と 一 致 す る こ と を 手 が か りに、 「日 は 、 当 時 出 本 に 存 在 し た 「 論 語 鄭 玄 註J の 匂 を 採つi 脅かれたとして、次のような結論を導く。
応神朝に; 王仁の進献した論語十巻は、やはり鄭注別本であった、と想定せ
られるのである。… 先ず翼
s
注論語が伝わり、次いで約二百年後には、皇{ 荒本が伝来し、推古帝頃に{ 可委集解が又流入して来た、と一応推定されるの
である。 (1司書13 1p)
内野説によれば、「論語J は 「 論 語 鄭 玄 注j 、 室 係 「 論 語 義 琉J 、 何 嬰 「 論 語 集
解j の111真序で日本に伝来した、と推定する。
しか
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今 内 野 説 が 根 拠 と す る 「 論 語 ・ 子 路 篇J のこの条について、「論語j各テキストの本文を見てみると次のようである。
日 本 欝 紀 , 顕 宗 紀 「 兄 弟 恰 恰J の 匂 に 対 応 す る 「 論 議 ・ 子 路 篇j の テ キ ス ト 異
向。
①側友口口口口、兄弟鈴飴、( 定十1'11英慕竹簡論語)
②朋友切切偲偲、兄弟恰恰、( J 者・! 鵠成石経、技疏本、信寝苦様疏号! 英1!注本l、
83011本、 P 3 6 0 7本 )
③ 月 号 友 切 切 偲 { 忠 、 兄 弟 恰 始 如 也 、 ( 正 和 本 、 正 平 本 、 泉 保 「 論 語 義 疏J、
P 2 5 9 7 本)
③朋友切切倍、{ 忠、兄弟恰恰如、( 龍谷大学蔵社勢番写本)
⑤兄弟恰恰、指1"鶏 締 徳 ( f芸 文 類 潔 ・ 人 部 ・ 友 悌J / f太 平
im
ll'
覧J 84 7 )内 野 説 で い う 鄭 校 本 と は ② の 行 文 が 相 当 し 、 集
f
拝 本 系 統 と は ③ の 行 文 が 対 応 す る の し か し こ こ に 掲 げ た テ キ ス ト の 異 間 で も 分 か る よ う に 、 ② に 示 し た 「 兄 弟ェ j ャセュj セエ
疏 本 、 さ ら に83011本、 P 3 6 0 7本 な ど 敦 壊 で 発 見 さ れ た 集 解 本 も 「 兄 弟 恰
恰」と作っている。「詩経i B i t J と} 割弱成石経とが一致することについていえば、
開 成 石 経 が 長 安 に 建 て ら れ る と 、 そ の 後 に 作 ら れ る 集 解 本 、 投 疏 本 を は じ め と
す る 中 留 で 作 ら れ る テ キ ス ト は 、 そ の 多 く が 開 成 石 経 の 経 文 を 用 い た 。 そ の 結
果、開成石経が中留の「論言語j テ キ ス ト の 主 流 と な り 、 集 解 本 、 注 疏 本 な ど の
経 文 も 多 ぐ が 開 成 石 経 と … 致 す る 。 そ の 一 方 、 日 本 に 伝 わ る 古 抄 本 :
r
論 詩 集解 」 は 、 開 成 石 経 建 立 以 前 に 伝 わ っ た も の で 、 そ の 統 文 は 開 成 石 経 と 異 な っ て
いるつ「論語J の 本 文 間 の 異 向 を 考 え る 場 合 、 こ の 点 に 考 癒 し な け れ ば な ら な
「詩毅i I : i TtJ に号
i
か れ る 守 合 言 語 」 経 注 の 全 文 は 次 の よ う で あ る 。 こ の 経 文 読 本 と 認 定 す る こ と が で き る か ど う か に つ い て 検 討 す る 。論語云、朋友切切{忠{君、、兄弟,1割合。 j 主 云 、 切 切 、 動 競 貌 、 恰 始 、 謙IJ関先。
A ア ヲ iセ Zj
っ て い る わ け で は な い 。 し か し こ の 注 は 集 解 本 に 引 か れ る 馬 融 の 「 切 切 偲 偲 、
相切費之貌、 1'台1;台、和J l I 貫之貌」とは明らかに異なる。そこでこの「論語注J を
鄭 玄 詮 と み な す の で あ る 。 さ ら に ④ に 号1セサ
ェ j IQ Aセ ェ
経i l i EJ の 引 文 と 比 べ る と 、 「 熔 憶 、 謙IJ展貌J と い う 訓 誌 に つ い て は 異 な っ て い
るが、 f切 切j の君" 誌などは一致し、注の構成も似ているので、 f Z寺経疏j の号
i
文 を 鄭 玄 詑 と 認 め る た め の 傍 証 と す る ( 則 。 こ う し て 内 野 説 は 、 鄭 玄 技 に 付 さ
れている経文「崩友切切穂、偲、兄弟恰恰J を鄭注本であると認定するのである。
こ こ ま で の 論 証 は 正 し い で あ ろ う 。 こ こ で 問 題 は 、 「 詩 経 疏j の f論 語J の
引 文 が 鄭 読 本 で あ る と 認 定 で き た とLて も 、 こ の 匂 は ② で 見 る よ う に 、 開 成 石
経、読疏本、敦燈集解本などと同文である。そうであれば「兄弟恰恰」という
jIセN
内野説が「兄弟恰恰J を鄭注本であると取り立てていうことはなぜだろうか、
ここに疑念をもたざるを得ない。さらに④龍谷大学蔵吐魯番写本もまた鄭控本
とみなされるが、経文は f兄弟恰恰女IJJ と作っていて、③の日本に伝わる吉抄
築解本である正和本・正平本、皐侃の論語義正道本に近い。このように見てくる
と、内野説が「女
n
塩 J 二字の有無でテキストの系統を決め、「兄弟恰1'台J は鄭詑; 本、「兄弟恰恰女JI也J は 集 解 本 と 決 め る こ と が 成 立 し な い こ と は 明 ら か で あ
る{ 則。
ェ j iウ Aセ
考J之簿・古、以矯之
1
3
:
J と記され、「考之湾・古J については、「論語に「案鄭校周之本、以湾・古讃正j三五十事」と記され、事実鄭玄が「吉
論j に よ っ て 改 め た 箆 所 が 「 論 語 音 義J に 残 る 。 し か し 改 め た 箆 所 は 全 体 で
と多くはない。鄭詑本がもともといかなる経文であったかというこ
とは明らかではなく、またその問、転写の殺階で鄭注本に異文も生まれている
はずで、こうしたことをあわせ考えると、「論語鄭玄注」の経文を確定するこ
と が必要となる。さらに何嬰の集解がもとづいたテキストも、
の系統であったろラから、要
s
玄と何嬰二人のテキストは本来それほど異なるものであったとは思えない。そのことはとりもなおさず、要
s
読本と築解本との異相を経文によって明らかにすることがいかに関難かということ
である。そうであれば、鄭注本のテキストを確定し、それによって「論議鄭玄
の 日 本 伝 来 を 明 か そ う と す る こ と が 至 難 の 業 で あ る こ と が わ か る で あ ろ
つ
「兄弟恰恰J と作ることを拠りどころに f論語鄭玄注」の臼本伝来
を論証しようとした内野説を取り上げ、鄭注本の経文をこのように確定するこ
とはきわめて筒難であり、しかも内野説の資料操作の手続きに疑問があること
を検証した( 2 )0
鄭注本が日本に伝来したことを鄭注本の経文によって明らかにすることが難
しいのであれば、何をもって鄭控本であるニとの標識とするのか。今、私法その
標識となりうるのは鄭玄注を措いて地にないと考える。鄭玄j主であれば、
本残巻が存在し、集解との違いも比較的明らかである。「論語薬
s
玄注J の臼本への伝来を明らかにするためには、鄭設本の経文によるのではなく、鄭玄控を
標識とせざるを得ないと考える。
3 鄭注本の日本伝来を認める拠りどころ
にも触れたように、要
1
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本の日本伝来を認める根拠となっているのが、「養老令・学令j の規定と、「日本臨晃在警尋問録j の記事である。
(1)
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養老令・学令J の検討はじめに「養老令・学令J
( 718
年 撰 定/
7 5 7
年施行) の規定を記す。「養老令・学令」
uF L M
塁、 j需易・尚喜・j習機・儀趨・機記・毛詩・春秋左氏簿、各第一主主。孝経・論語、事者兼習之。
凡そ経は、 j習場、 i当 番 、 周 札 、 儀 礼 、 札 記 、 毛 詩 、 春 秋 左 氏 訟 を
ば、各一経と為よ。孝経、論語は、学者兼ねて習へ。
。凡教授正業、} 笥易葉
)
1
玄・王弼注。尚書子し安関,道5
1
玄註。凡 そ 正 業 教 へ 授 け む こ と は 、 簡 易 に は 鄭 玄 ・ 王 掃 が 注 。 尚 喜 に は
子し安居・要
s
玄が技。三干し、毛詩には葉s
玄 が 注 。 左 伝 に はm
日鹿・社預が在。孝経には子し安問・鄭玄が注。論語には鄭玄.
1
可袈が詑(的。「参考J
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庸 , 関 元 七 年( 719
年) 令J諸教授正業、局易鄭玄・主弼詮。尚蕎: 孔安関・鄭玄柱。
左{専服) 委・杜預注。公羊{ 可休
i
主。穀梁沼南設。論語鄭玄.1
可嬰注。安麗・鄭玄技。老子河上公注。
「養老令J が
I
J
者 令 」 を 襲 っ て 作 ら れ た も の で あ る こ と は す で に 指 摘 さ れ て いる。そして「養老令・学令j についていえば、「麿令J と違って「公学J、f穀
梁」、「老子」が晃えない。「老子」を経とすることは、唐朝の特殊性によるか
ら、「養老令・学令j が「老子j を除いたことはきわめて躍にかなっている。
さ ら に 「 養 老 令 ・ 学 令J に「公羊」、「穀梁」が欠けていることについては、
「養老令j の註釈 f穴 記j が「公羊簿、穀梁{ 専不載令、興塘己殊也。
n
主臨時行事耳」といい、延! 賛17
年( 798)
には、 f公 学j、「穀梁j が学生に教授 さ れ た こ と が わ か っ て い る 倒 。 こ の こ と は 「 護 者 令j が作られた当時‘ 日
本 に 「 公 羊J
r
穀 梁J が学問として行われる条件が備わっていなかったのか、テキストそのものが日本に存在していなかったことを示すのではなかろうか。
こ う し た 記 事 か ら 令 が 厳 格 に 施 行 さ れ た よ う に 見 え る か ら 、 i論 語J に つ い て
ャQゥゥj iセ ェ
時日本で「論語翼)1玄 注J が 行 わ れ て い た こ と を 示 す 有 力 な 傍 証 と な り 得 る で あ
ろうQ さ ら に 「 護 者 令 ・ 学 令j が
r
)
憩 易 王 弼 注 J IIWJ書 孔 安 関 投 Jr
左 博 杜 預 にあわせて、r
J
詞 易 鄭 玄 技 Jr
r奇 書 鄭 玄 誼 J iセ サG ェこ れ ら の 注 釈 が い ず れ も
l
r
鴇志 J に 記 さ れ 、 「 日 本 館 見 在 書 目 録J にもI
J
習易 iセ j 1d
: 1
専j
I
良1護法J (11奇 書 鄭 玄 注 J に つ い て は 記 載 さ れ ず ) が 記 さ れ る か ら 、 当 時 日 本 に 仔 在 し て い た の か も し れ な い 。 こ れ ら を あ わ せ 考 え る と 、 「 論語英1)玄 も ま た 日 本 に 伝 来 し て い た 可 能 性 が 生 ま れ て く る 。 し か し 向11寺に、
「護者令・学令J の撰者が、経警の「公羊」、「穀梁J、 そ し て 「 老 子j について
は 日 本 の 状 況 を 考 慮 し て
I
J
者令j の 記 述 か ら 除 い た と し て も 、 経 書 の 註 釈 、 す な わ ち 「 周 易 鄭 玄 注 Jr
rV: i I審要)1玄 注 J I左 伝 綴 慶 詑 」 ま で は 考 慮 の 外 で 、 「 唐令J を そ の ま ま 残 し た 可 能 性 が あ る と い う こ と も 考 え な け れ ば な ら な い こ と で
あ る 。 す る と こ こ に 「 論 語 鄭 玄 注j が 記 さ れ る と い う こ と は 、 「 唐 令j の 記 述
が そ の ま ま 踏 襲 さ れ た の か も し れ な い か ら 、 f護 者 令 ・ 学 令 」 に 記 さ れ る か ら
と い っ て 、 そ の こ と が 無 条 件 に 鄭 注 本 の 伝 来 を 認 め る 条 件 と は な り に く い と い
うことになる。
を 出 し て み た 。 「 養 老 令 ・ 学 令 」 で 「 論 語 鄭 玄 詑j が ど の よ う に
学 ば れ て い た か は 次 節 で 再 び 触 れ る こ と と す る 。
( 2)
r
自 本 蔚 児 証 番 目 録J ( 889 - 8 9 8年 間 に 成 書 ) に み え る 「 論 語J 控 釈 書の 検 討
ここに「日
である。
論 語 家 二 百 六 十 九 巻
録j に所収される f論 語J に つ い て 記 せ ば 次 の よ う
論議十巻鄭玄詮 論語十巻何嬰集解 論語六巻陸善経症 論 語 義 疏 十
巻皐侃撰 論 語 疏 十 巻 構 仲 都 撰 論 語 六 巻 論 語 義 一 巻 〆 論 語 音
論 語 弟 子 録 名 一 巻 論 語 私 記 三 巻 子し子立言廿巻梁武帝撰
孔子家語廿一巻主語撰 家 語 抄 一 巻
参考「精霊季・経籍志J 所 収 F論 語J 七 十 三 部 、 七 百 八 十 一 巻
論 語 十 巻 鄭 玄 注 集 解 論 議 十 巻 何 護 襲 論 語 義 疏 十 巻 矯 仲 都 撰 論 語 義
疏十巻皇侃撰 築住論語六巻驚八巻、普太保衛llli技
撰( 亡) 論語音二巻徐遊等撰( 亡) 孔 子
*
論語篇目弟子一巻鄭玄控(f1
1
3
J
審議: ・経籍志J)見て! 明らかなように、「論語家J の 最 初 に 「 論 語 十 巻 鄭 玄 注j と記されている。
これまでも説かれているように、 f[ ヨ本間見在審問録J が当JI寺日本に存在して
いた審物jの記録であるならば、「論語漢
)
1
玄注j がi
ヨ本に伝来し存在していたことの有力な証拠である。
しかし「日本間 録」については、すでに多くの人が指捕するように、
q
積書・経籍志j などによって作られた書目であるという説が行なわれている。私も確かな根拠があっていうわけではないが、「日本国見在審! ヨ録J とは、中
国 か ら 伝 え ら れ た 番 目 の 枠 組 み を 墓 に し て 、 当 時 日 本 に 存 在 し た 書 籍 を 補 い 記
入 し て 作 ら れ た 呂 録 で は な い か と 想 定 し て い る 。 そ れ と い う の も 、 f
I
ヨ本間見在書: 図録j には、 fNi 命諮十巻{iiJ 委 集f拝J、「論語義疏十巻: 皐{ 足撰j のようにその存
ゥ ェ サゥゥセ ェ
と い う 存 在 の 不 確 か な 「 論 語 控j も記されているからである。そしてまた、
f臼 本 国 見 在 審 問 録j の 排 列 が fm告 書 経 籍 志j な ど と 通 じ 合 う こ と も , そ う
考える理由のひとつである。
私は「日本! 翠見在警; 目録J の 記 載 が 必 ず し も 「 論 語 都 玄 投J
るものではないと考えながら、しかしそれを全面的に否定する根拠ももたないっ
「日本霞見在書自録J の 記 事 に つ い て は こ う し た 疑 念 を 持 つ が 故 に 、 こ れ 以 上
は機会をあらためて検討したいと考える問。
ヰ 鄭 注 本 の 存 在 を 疑 わ せ る 記 録
( 1)
f令 集 解 ・ 穴 記j の説f穴 記J は 「 養 老 令J の 注 釈 を 集 成 し た 「 令 集 解J に引かれる説のひとつで、
弘仁 ( 810 - 823) ・天長 ( 824 - 832) 頃 の 成 立 、 作 者 は 穴 太 内 人 と い わ れ
る( 16)。 次 に 「 養 老 令 ' 学 令J を 再 度 示 し て 、 そ の 令 文 に 付 け ら れ る f穴 記j
の説とその訳文を記す。
「養老令・学令J
ェ iセ
サ ュセ ェ サ
「令集解・穴記J
穴 去 、 周 易 強 者 包 多 。 難 然 只 議 鄭 玄 ・ 弼 注 、 不 習 鈴j主也。{ 殿、論語此伺
嬰在、英中注者税数多、{ 白岩手立嬰注者、何者要所撰i故也。鄭玄在者、非今月?
; 帝別イ寺第sI玄注j之論議一種: E j : 。録時放此也。
の説) ) 習場の注はきわめて多い。とはいえただ鄭玄・王弼注だ
け を 読 み 、 他 の 設 は 習 わ な い 。 論 語 の こ の 何 嬰 法 に は 、 そ の 中 に 引 か れ
る 技 者 は 数 が 多 い が 、 そ れ に も か か わ ら ず 何 嬰 注 と い う の は 、 何 嬰 が 撰
述したからである。鄭玄注とは、今読んでいるものではなくて、それと
は別に鄭玄注の論語が… 礎有るのである。そのほかはみなこれに倣え。
「穴記J 説 の 検 討
「穴記」の説は、次の三段に分かれる。( 1) 1)習易詑j の問題、 ( 2)
r
論 語 何嬰技J の問題、 ( 3) 1論語義)1玄注J の問題。わたしがここで検討しようとする
の は は ) 1論 語 何 嬰 法J についての「論語此侭嬰注、其中技者事; 数多、侶競
何 嬰 読 者 、 何 要 所 撰 故 也 」 と ( 3) 1論 語 鄭 玄 波 」 に つ い て の 「 鄭 玄 注 者 、 非
A ij iセ ェ
「 穴 の 撰 述 者 は 、 い っ た い 何 が 不 明 で あ る と し て 、 あ る い は 何 を 明 ら か に
するためにこの注釈を書いたのだろうか。 ( 2) の部分を読んでまず気づくこ
とは、「穴記j の撰述者は
1
1
可嬰控j と 称 さ れ る 注 釈 に 、 複 数 の 注 釈 家 の 説 が引かれていることに注目し、それにもかかわらずこの控釈書が何嬰の名を取っ
て名づけられていることを問題とする。「論語集解」に、子し安題、罵高虫、葱威、
ど多くの人の説が引かれていること、その技釈がなぜそこに引かれる控
で呼ばれずに「何委設J と呼ばれるのかということが問題となるQ こ
では何嬰は自らの説には名を詑さないから、集解の中; こ何
あっても、注釈者としての何嬰の名が出てこない。それにもかかわら
と 呼 ば れ る こ と か ら 生 じ た 問 題 で あ ろ う 。 さ ら に 、 鄭 玄 の 設 が
1
1
i : i J 委誌j と 称 さ れ る 注 釈 警 の 中 に 引 か れ て い る 、 と い う こ と も 問 題 と な っ ているのではなかろうか。この ( 2) をうけて ( 3 ) の言免が安台まることに?主思し
なければならない。つまり「穴言むの撰述者は、 ( 2) で み た 「 何 委 注 ( 論 語
集 解) J に引かむる鄭玄誌と、「学令j に「論語鄭玄j主! と記される註釈書と、
間一人の注釈がどう関わるかに解明できない疑問があるのである。この点に私
がこだわりすぎていると思われるかもしれない。しかしこだわりすぎと患、うの
は、今のわたしたちが向嬰の「論詩集解J と鄭玄の「論語鄭玄注j という二つ
の液釈の存主と関保とを知っているからである。「穴、記j の撰述者にしても、
もし f学 令j に 記 さ れ る よ う に 「 論 語 鄭 玄 誌j と「何嬰詮( 論語集解) J の二
つの論語注を読み比べることができれば、このようなことを問題とするはずも
なく、そもそもこのような注釈を書くこともなかったのではなかろうか。こう
し た 注 釈 を わ ざ わ ざ 記 す と い う こ と は 、 「 何 要 注 語 集 W( : ) J の中に鄭玄の誌
が引かれて見えるにもかかわらず、その警は f鄭玄
i
主j とよばれていないこと、そして「学令j にそれとは別に「論語鄭玄控」なる註釈が記され、しかもその
テキストを自にすることができないからに違いない。そこが問題だったのであ
る。「穴記j の文服を見ると、「今所領( 1 7 )J
r
自I j有鄭玄j主之論語J と記すから、「論語J の翼13玄 注 に 二 種 類 あ る と い う の で あ る 。 こ れ ま で も 繰 り 返 し 「 論 語j
の 鄭 玄 詮 に は ① 「 集 解 鄭 玄a J 二 円 可 嬰 注 ( 論 諮 集 解) J が 引 く 鄭 玄 注 、 ②
守備書鄭玄控j の二種類が有ることに触れた。「穴記」 の撰述者もまたこ
セiェ iセ
注之論語」が②の F論語義sr玄注」に相当するはずであるから、「今所讃J は①
の 「 集 解 鄭 玄 注J が 相 当 す る 。 そ こ で 「 穴 記J の 撰 述 者 は 、 ① と は 別 に ② の
「鄭玄浅之論語J ( 鄭玄が柱をつけている f論 語J ) が存在し、「学令」に記され
る「論語鄭玄注」とはそちらを指すといっているのである。ただし当時にあっ
ては、「論語集解」に採られている鄭玄注が、「論語鄭玄j主J の約1 0 9るに過ぎ
ないなどということはもちろん分からないから、「論詩集解j に見える
がそのまま「論語鄭玄j主i であると考えられる可能性があるのすると
が施行されたとき「論詩集解」から鄭玄注を取り出し一篇に編み、これを「論
語 鄭 玄 詑j と名づけ大学で読むことが行なわれたのではなかろうかつ
の撰述者は、こうした状況に疑問を持っていて、そのことを明らかにするため
に詑を書いた( 問。注で言おうとしたことは、大学で「論語鄭玄注j とし
まれているのは、「論語集解j から取り出した「築解鄭玄注J であり、それは
「論語鄭玄注j ではない、「論語鄭玄注J はそれとは別のものである、というこ
とである。このように考えると、当時大学では「論語鄭玄j主j は読まれていな
いだけでなく、そもそも大学に f論議鄭玄注J が所蔵されていないことは明ら
かである。以上が「穴記j の撰述者がこのj主で明らかにしようとしたことでは
ないだろうか( 問。
( 2)
藤原頼長( 1120 -
1156)
は「論語鄭玄詮J を読んでいるか平安末期に生きた藤原頼長は、当時の日本に存恋したすべての漢籍を読んでい
るかと患われるほどの読書家、蔵書家であり、また「論語義疏」を読んだこと
を記録していることで私が注目している人物である。彼の日記である「台記j
にはきわめて詳細な読書記録があるが、そこから「論語j にかかわる記事を探
すと次のようである( 刻。
①論語十巻、 保 延 三 年 ( 1137) 受子部外史説、十一月十六日始之、間五年九月
十日終j之、
②
i
司患J
f
託統十巻、首付、喜本書裏、 康 治 元 年 ( 1142)③康治元年七月八日、己亥、見始論語皇侃疏、
七月廿九日、庚! 布、論語皐1J T l . J k 夜、十巻、見了、
@ 如 論 諮 皐 侃 疏 者 、 少 年 可 学 之 由 所 見 缶 、 然 部 猶 恐 俗 語 、 ( 康 治 二 年 十
七i
ヨ)⑤ 天 護 元 年 ( 1144) 十 二 月 二 十 四 日 庚 子 、 晴 、 此 瀬 三 日 、 寒 気 殊 甚 、 先 使
定安参大接、所議、被覧之書、五絞正義、公羊解徴、穀梁疏、論語農侃疏、孝
綬述義等也、皆克之、首付勾要文了、
@ 召太部、令復讃孝経・論語、去十一一月一日以後、翠孝経・論語一部了、孝
終師頼業、論語部師光、( 久安三年 ( 1147) 十二月二十日)
⑦ 久 安
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現年 ( 1148) 七 月 十 五1
3
1
5
養子、{ 衣例議論語、講師登賞、間穀業、{ 衣七月十五日無詩、
廿 二 日 庚 子 、 深 更 、 事 口 還 商 殿 、 議 論 語 、 講 師
月也、有其無詩有今月忌疑、勤先例、人月正月忌、
難止雅築寮紫、有穏蕗糸竹之興、議此故、知紫揮結詩、
の記事の検討
これらの記事のうち、③は、「論語義疏J の読書記録、③は、「論語義m J への
評{語、「論語j は 幼 時 に 学 ぶ 審 物 と い わ れ る が 、 そ れ は 物 事 を 知 ら な い 人 の 言
であって、「論語義mJ は そ う で は な い と い っ た も の 、 ⑤ は 、 頼 長 が 大 学 に
される芸書籍を借り出し読んだ記事、そのなかに「論語鄭玄注j は入ってい
ないから、当時大学には所蔵されていなかったことを予想させる。⑤は、子供
に「孝経J、f論 語j を学ばせた記事、⑦③は、彼の錨人的な経書探究会「議論
会j で「論語」を取り上げた記事である。ここで検討するのは、①と②である。
① で 、 頼 長 は 保 延 三 年 の 読 書 録 に 「 論 議j 十 巻 を 学 ん だ と 記 し て い る 。 「 論
語j 十巻だけでは、それが「論語鄭玄控j であるのか「論語集解j であるのか
を決めることはできないが、注記に記される彼が学んだ「部外史j とは中原邸
( 明 経 道 の 傷 者 ) を 指 す ( 橋 本 義 彦 説 入 そ し て 中 原 家 が 伝 え た の 誌 「 論 語
集解j で あ る 。 ま た そ の 五 年 後 に 読 ん だ ② の 「 裏 保 疏j について、「首付、
( メモを取り、本欝の裏に書き付ける) と誌記している。この注記の
とは「論語鄭玄控J ではなくて、「論詩集解j でなければならない。な
ぜなら、「皐
)
1
立政J がもとづくのは「論詩集解j であるから、「皐J
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J を紙背に書き付けるのは「論詩集M4iJ でなければ対応しない。「論語疏J を翼1) 注 本 の
裏へ書き込むことはありえないのである。
こ こ か ら 頼 長 は 自 分 の 読 ん で い る 「 論 語j を 、 た だ i三命諮」と記し、「本
書j といっているが、その「論語J とは集解本であって、鄭注本ではない。頼
長 が 受 け た 「 論 語j の説、「論語疏」との関連からすると、頼長が読んでいる
の は 「 論 詩 集 解 」 と 「 論 語 義 疏J であって、「論諮翼sI玄 注j であるとは考えら
れ ず 、 も し 「 論 語 鄭 玄j主J を も 読 ん で い る な ら ば 、 必 ず そ れ に 応 ず る 記 録 を
「台記」のなかに残しているはずである。
まとめ
私は f論 語 鄭 玄 注J の臼本伝来の可能性を考えるために、 f令集解・
の記事、及び藤原頼長の日記「台記」を取りあげた。 f穴 記j の説から「大学
で f論語鄭玄注』として読まれているものは『論詩集解』から択んで、編んだ鄭
玄註であって、大学に f論語鄭玄詑』は存在しなしリことを推定した。また藤
原 頼 長 が 読 ん だ 「 論 語J は「論語集解」であって、 f論 語 鄭 玄 注J は読んでい
ないこと、さらに当時大学には「論語鄭玄住j は所蔵されていないことを推定
した。二つの記事は時間を隔ててはいるが、それぞれの時期に
は存在しなかったことを明かしているつここから「論語鄭玄注j の町本への伝
来を疑うのであるが、その結論へ導くためにはまだ検討すべきことは多いe そ
れらについては機会を改めることとする。
注
(1) r論語翼¥1玄控j については、次のように見える。 月 調 譲 著 「 輯 供 論 語 鄭 氏 注j 私 家 版 昭 和3 8 年
rJ吾 ト天寿抄写鄭氏註 論語j 巻 子 本 ' 一 巻 平 凡 社 昭 和4 7年 金 谷 治 編 「 麗 抄 本 鄭 氏 注 論 詩 集 成 」 平 凡 社 昭 和5 3年
王素編著「唐写本論語鄭氏注及其研究J 文物出版社 1991年
際 金 木 「 麗 寓 本 論 語 鄭 氏 注 研 究 一 以 考 接 、 復 康 、 詮 緯 矯 中 心 的 考 察 J
C
上)(1中) ( 下 ) 文 律 出 版 社 中 華 民 国85年
( 2) このことは、 f経典釈文・序録J に「鄭玄就魯論張包周之篇輩、考之費・古、競之
j主 意 」 と あ り 、 ま た 「 論 語 音 義 ・ 学 部 鰯j の「縛不J 条に
欝・古讃正、凡3三十事j とあるが、今見えるのは合わせて三十条である。これにつ
セ 考( 拍- ) 東 京 外 国 語 大 学 論 集 四五 … 九 九
に詳しく論じた。
Ul ) 日本がiこ:11
閣 の 文 化 を い つ 煩 か ら 自 覚 的 に 受 け 入 れ る よ う に な る の か 。 1I帯 番 ・ 経 籍
忘J の「玉三i稿、{可・翼51枝子:J {U ャjjj Oj| Aャ イヲセ
たII寺、 i痛では「論器禁1I玄 注J は f論 詩 集 解J と
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んで行なわれ、護! ) 玄注はとりわけ民間に; 読んであったといわれる。もしこのJ l 寺、「論詩集解J が 日 本 に 伝 え ら れ た な ら 、
その11寺… 緒に f論 諮 鄭 玄 注J も 将 来 さ れ て い た か も し れ な い 。
付 害 す れ ば 、 も ち ろ ん 今 日 本 に は 敦 爆 ・1ぜ : 魯 番 か ら 将 来 さ れ た も の 以 外 は 「 論 語
義)1玄 詑J は見出されていない。
(4 ) 鄭詑本はがF素 1)青写本論語道I1氏
ttJ
をm
い 、 集 解 本 は 「 正 和 本 論 詩 集 解J
( 東洋文A ェ I jセセ RUT
解 に 採 ら れ て い る の は31条であるのただしザ条の[ x 切り77に よ っ て は 差 も 生 ま れ る 。
こ の 数 字 は あ く ま で ひ と つ の 自 安 で あ る の
( 5 ) r論 語 集 解j の 注 釈 形 式 は 、 原 則 的 に … 事 項 に 一 家 の 説 を 引 き 、 援 数 説 を 引 か な い
から、「集
W
.fJ に 採 り い れ ら れ て い る 各 家 の 注 釈 は 、 元 の7注 釈 本 と 比 べ る と 大 幅 に 制ら れ て い る は ず で あ る 。 し か し 「 論 語 鄭 玄 注 」 を 除 く と 、 f也のj主釈家の
は 単 行 し て は 存 在 し な い か ら 、 そ れ を 確 か め る こ と 誌 で き な い 勾
{ の) 内野熊白日「時本j英 文 学 研 究j 名 護 普 及 会 平 成3年
( 7 ) 小 島 憲 之 「 調 態 暗 黒 時 代 の 文 撃 上 一 序 論 と し て の 上 代 文 学 一J セ 昭 和4 3
司王
小 島 説 辻 、 鄭 詑 本 の 日 本 へ の 伝 来 を 疑 問 視 し た も の で あ る 。 私 も ま た 鄭 j主本の日
本 伝 来 に つ い て は 否 定 的 な 考 え で あ る の そ こ で 小 島 説 に つ い て は 、 あ ら た め て 取 世
上 げ る こ と を せ ず 、 論 を 進 め る 中 で 触 れ て い く ニ と と す る の
( 8) r毛 詩 正 義 J が 子 し 鎖 迷 ら に よ っ て 作 ら れ る の は 貞 観 ( 627 - 649) 中 で 、 構 成 石 緩
の 建 立 ( 開 成 年 間8 3 6 - 839) に 先 立 つ か ら 、 こ の こ と に あ ま り 考 癒 す る こ と は な
いのかもしれない。
( 9 ) 丹 精 議 「 輯 { 失 論 語 鄭 氏 設j は こ の 条 を 霞 習 と す る 。
( 10) 小 島 憲 之 は (5) に お い て 、 日 本 書 紀 ・ 顕 宗 紀 「 日 、 賞 哉 、 兄 弟 始 恰 、 天 下 競
恕j の 「 兄 弟 恰1'台」について三 f芸文類媛、入、部友悌J セ
兄 弟 治 恰 、 組1I議 騎 穣j に 基 づ く も の で 、 「 論 語J は 出 典 に は な ら な い と い う 。 傾 聴 に
績いする説である。
( 11) r論 語J テ キ ス ト の 本 文 の 巽 ! 司 に つ い て は 、 「 経 典 釈 文 ・ 論 語 審 義J に
「鄭本j と あ る 。 こ の 「 吉j が 「 古 論 議j で あ る とLて も 、 す で に そ れ を 礎 か め る 方
法 は な い 。 ま た f音 義J が 挙 げ る 「 鄭 本j に つ い て も 、 今 見 る こ と の で き る 鄭 詑 本 と は 文 字 に 異 な り が 見 え る 。 こ う し た 点 か ら 、 要lifJ:本について、設を理11玄注
と措定することはできても、経文を襲11玄 本 と 確 定 す る こ と は 現 在 のj変i暗ではきわめ
て 難 し い の で は な い か と 考 え て い る 。 今 「 論 語J の テ キ ス ト で 経 文 の 異i苛をほぼ確
イセ
抄 本 系 統 の テ キ ス ト と を 大 別 で き る と い う 範 囲 に と ど ま る で あ ろ う 。 こ う し た 問 題
についても本控 ( 2) に示した拙論で官! 命じている。
( 12) 内 野 説 は 、 こ の 「 兄 弟 恰 恰J 以外にも、「経i詩集j 月刊文の主金調対策の f文質城誠
ェ ェ A}ゥj セェャ j
q
コの「捧{二里町3DuD:むを f論語道11玄j主」の日本伝来説に援} 唱しているが、ここでは省略,した。小島憲之は、これらにつ
いても鄭玄注の日本信来のtN拠足り縛ないことを論じている。
(13) 本 文 、 読 み を 含 め て 「 律 令J 日 本 思 想 大 系 ( 岩 波 書 活 1976) に拠った。ただし
ルピは省略した。
( 14) r令集解巻十五事令j 孝経論語、喜多者兼習之条下に次のように記す。 吉記云… 延暦十七年三月十六日官符云、態以春秋公学穀梁二二錦、各一線、
右 得 式 部 省 解 鶴 。 案 事 令 云 、 教 授 正 業 、 キ
:
1
導、服慶社預託: 者、上件二{ 専、奔部不取。是以古来事者、ヨ│ミ漕巽; 業、部以去主審議七年、遣} 警捜明綴言書益償請博士正六位
上郡興部連家守欝寵還来、倍以延費三年申官。始令家守講授三陣。雄然来有下符。
( 15) r日本菌見高番目録J の 記 載 に つ い て 、 小 島 憲 之 も 考 誌 を 議 い て fしかしこの究者
も、先人の説の云ふ如く、 i宥議終籍志にならって鵠裁を整えた形跡があり、
右のすべての設が、「見窪 J ( 現夜) とは云ふものの、果たしてそのまま博来してい
たかどうかについては、なお考究を要するであろう J (向欝270ページ) という。
(16) 井 上 光 貞 f日 本 律 令 の 成 立 と そ の 註 釈 欝 J ( r 律 脅 」 日 本 思 想 大 系 宥11支諜
r
n
1976) 戸庁収
( 17) r穴 記J の「今所讃j という「議J という諮が示す毒事柄に能回すべきであろう。こ
の「讃j の意味するのは、一殻に f読まれているj ということではなくて、けく学で、
読まれている」ということであるはずだから、 f大 学 で 集 解 本 に 引 か れ
令文の f論語鄭玄注』とみなノされて読まれていた J ということを推離させるφ
(18) r論 語 集 解j に 引 く 鄭 玄 誌 と 「 論 語 都 玄 投J との関部は、「論語集解: ・序j などを 丹 念 に 読 む こ と で わ か る こ と か も し れ な い 。 し か し 「 論 語 鄭 玄 技J を見ないでこの
こつの鄭玄控の関係を知ることは、決して容易なことで、はなかったであろう。
(9 ) r穴 記j のこの控から、「護者令・学令j で記される f論 語 鄭 玄 .
1
可嬰控j の実惜 が明らかになった。しかし 「穴記 J は他の経について誌、 f論 語J のようい 。 そ れ は た と え ば f}習場J で は 、 鄭 玄 と 王 弼 の 注 が 示 さ れ て い る が 、 実 際 に 読 ま
れ た の は 壬 弼 詑 だ け で あ っ た か ら で あ ろ う 。 な ぜ な ら り 笥 易 J の義)1玄とごEiJ前との関 係は、「論語」の護11玄設と何委設のような… 音)f霊捜する関係ではないからである。
( 20) 藤 原 頼 長 の 学 問 、 と り わ け 経 学 研 究 に つ い て は 、 拙 稿 「 あ る 中 菌 研 究 者 の 早 す ぎ
た 死 一 藤 原 頼 長 の 経 書 研 究 を 中 心 と し てJ ( 倉13 : 1 実編「王朝人の婚姻と信仰J 所 収
森 話 社 2 0 1 0年 ) を参服。
( 東京外国語大学名誉教授)