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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2005年 10月号

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Academic year: 2018

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− 12 − − 13 −

 1.は じ め に

 言葉だけではイメージできない。地図を見ても

どこかよくわからない。絵を見てもイメージしに くい。そんな声を生徒からよく聞くようになった (もちろん、教科書の内容を口頭で説明するだけ

では、何一つわからない! ということになる)。 教科書がカラーになったものの、本文の記述との

関係にふれないと、生徒自身の好奇心に委ねたま までは生徒に過重な負担を与えることになってし まうらしい。という現状に鑑みると、図説資料に

ついて、「教科書に該当する内容を見ておくよう に」というだけの指導では、世界史嫌いの人々を 無限に生産するだけということになる。以前は、

百科事典の代わりに持たせておくことにも意味が あると感じていた図説資料だが、見方・使い方を

具体的な授業の中で提示していかないと、図説資 料の面白さに気づくこともなく、苦手だった科目 の教科書の一つということになってしまいかねな

い。本稿は、具体的な授業の中で、生徒諸君が図 説資料を見ることから気づき、考えることに

つながるような学習活動をどう展開するか、 という観点から、とくに、ナポレオン没落後 の世界を一例として検討したい。

 2.環大西洋革命としての整理

 「市民革命」というまとめ方は教科書など

では見られなくなってきた。それでも通常の 授業では、二重革命という整理の仕方を含め、

産業革命・アメリカ独立革命・フランス革命 とナポレオンとして展開されがちであろう。

ここでは、タペストリー*p.169の環大西洋革

命の説明を示して整理しておきたい。まず、 「七年戦争に関係した国のその後の動乱」の

地図を見て、七年戦争のおもな戦場を確認し、と

くにインドと北アメリカでの戦いについて答えさ せる。そのうえで、七年戦争に勝利したイギリス

が手に入れた広大なものは何か、そしてそれが産 業革命を迎えていたイギリスにとってどのような 場となっていったか、答えさせる。イギリス産業

革命は19世紀半ばまで他国をリードして「世界の 工場」と称されるようになることを確認する。

 一方、七年戦争直後のイギリスでは、財政難か らアメリカ植民地に対する課税を強化したことを 確認し、どのような内容だったか答えさせる。植

民地住民の本国政府への不満が募る中、茶法に対 するボストンでの事件(p.170で再度確認させ、内 容を答えさせる)とそれへの本国政府の対応から

独立革命にいたったことを確認させる。フランス などから派遣された義勇兵(p.171で具体名を挙

げさせる)や武装中立同盟(提唱した君主の名と 国名を挙げさせる)などによるヨーロッパ諸国の 支援を得て、アメリカは独立を果たす(p.171の

独立宣言を読ませる)ことを確認する。アメリカ

19世紀前半の世界

神奈川世界史教材研究会

タペストリーを使った授業案

*帝国書院「最新世界史図説タペストリー 三訂版」

タペストリー p.169 ③七年戦争に関係した国のその後の動乱

ポルトガル

(1794年)

(1773∼75年) (1757年) (1755∼63年)

(1789年∼) フランス革命 コシューシコの蜂起

プガチョフの乱

プロイセン

オーストリア

スペイン

プラッシーの戦い フレンチ=インディアン戦争

(1794年)

(1773∼75年) (1757年)

(1782∼1801年)

(1780∼81年) (1810∼25年)

(1775∼83年) アメリカ独立戦争

シモン=ボリバルの独立運動

トゥパク=アマルの反乱

(1780∼81年) (1810∼25年)

(1791∼1804年) (1755∼63年)

(1789年∼) 1821年

1823年

1823年

1819年

1821年

1818年

1816年 1811年

1818年 1825年

1816年

1811年 1822年

1828年

メキシコ

ロンビア 大コロンビア

ペルー

チリ ボリビア

ブラジル パラグアイ

ウルグアイ

中央アメリカ 連邦

アルゼンチン

(1775∼83年) アメリカ独立戦争

アイルランド独立運動

フランス革命 コシューシコの蜂起

プガチョフの乱

ハイチ独立革命

シモン=ボリバルの独立運動

トゥパク=アマルの反乱 太

北極海 平

イ ン ド

西

ロ シ

ア 帝

イギリス プロイセン

オーストリア

ダホメー ベニン スペイン フランス

オスマン帝国 オスマン帝国

国 ベンガル大守領

プラッシーの戦い

イスラーム諸王国

フレンチ=インディアン戦争

国名

七年戦争に関係した国と その植民地 七年戦争の主な戦場 アメリカ独立戦争・フランス 革命の影響を受け反乱・ 革命のおきた地域 1814年までの成功につな がった反乱・革命 1814年までに失敗した 反乱・革命 独立を勝ちとった地域

(2)

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独立革命の理念はフランス革命に影響を与えたこ

とを確認する。

 七年戦争に敗北したフランスは、ルイ14世以来 の戦争など(「鏡の間」で有名な宮殿と庭園を造

営したことも一因だったね、とp.154を示して再 確認させる)とあいまって、財政が危機的状況に 陥り、財政改革に取り組んだが、特権身分である

貴族が課税に抵抗して失敗したことを確認する。 この時、貴族が主張した身分制議会(1615年から

休会のままだった、この議会の名称を答えさせる) の開催には、農民や商工業者などの新たに成長し てきた勢力(この階級の名を答えさせる)が中心

となった第三身分が同調したが、召集後の採決方 法の対立などから、第三身分を中心として国民議

会が成立し、憲法制定までは解散しないことを誓 い(p.172の球戯場の誓いの絵で確認する。名前の 出ている人物の業績なども説明させる)、政府の

その後の対応からパリ市民が武装蜂起してフラン ス革命が勃発したことを確認する。

 アメリカ独立革命とフランス革命の理念がラテ

ンアメリカに影響を与え、フランスの植民地であ ったハイチで黒人奴隷による蜂起から独立革命が

展開されたことをp.178で確認し、このハイチ革 命の指導者でナポレオンによって捕えられ獄中死 した人物を答えさせる。フランス革命の限定相続

人ともいわれるナポレオンは、イギリスによる覇 権に対抗して工業化を進め、大陸封鎖令を発する

が、その経済的意味と影響・結果についてp.175 を参考にしながら確認する。ナポレオン戦争によ ってスペイン本国が混乱するとラテンアメリカは

クリオーリョの指導によって独立運動が展開され ていくことをp.178によって確認する。また、ラ

テンアメリカの植民地が貿易関係を強化していく 相手国をp.175の⑥19世紀初頭の英仏勢力範囲(ヨ ーロッパをこえた英仏の抗争)の図を見ることか

ら答えさせる。 

フランス革命・ナポレオン戦争の影響からヨー ロッパ各国では、ナショナリズムや自由主義の動

きが生まれてくるが、ナポレオン戦争後の国際秩 序として構築されたウィーン体制の果たした役割

とその限界について考えていくことを確認する。  環大西洋革命の観点で、産業革命・アメリカ独 立革命・フランス革命とナポレオンの内容を再確

認することによって、英仏の対立の背景として、 イギリスの工業化と覇権の確立の過程が資料を通

じて確認できる。

 3.ウィーン体制

 1814年、フランス革命・ナポレオン戦争の戦後 処理のために、オスマン帝国をのぞく全ヨーロッ パの支配者が参加する国際会議がウィーンで開か

れた。まずp.176のヒストリーシアターを読み、「会

議は踊る、されど進まず」と皮肉られた状況をイ

メージさせる。オーストリア外相(のちに宰相と なる)メッテルニヒが議長として、各国の利害対 立を調整しようとしたが、ナポレオンのエルバ島

脱出と百日天下の報で、諸列強の妥協が成立する ことになった。ウィーン会議の基本原則とされる

正統主義と勢力均衡を挙げ、とくに正統主義の内 容は「キーワード」で確認する。フランス外相タ レーランが中心となって主張した、革命前の主権

と領土を正統とし、革命前の状態に戻すべきとい う考えである。なぜフランス代表が主張したか、 それをなぜメッテルニヒが受け止めて利用し、そ

の結果どういう結果につながったか、考えさせる。  会議の結果はウィーン議定書にまとめられるが、

p.176「③ウィーン会議による主な領土変更」の

図と「zウィーン体制下のヨーロッパ」の地図を

見比べることで、その内容を確かめる。「ウィー

ン体制の成立から崩壊へ」の表を見ながら、革命 を封じ込める反動勢力のインターナショナルとも

0 3000km

イギリス インド

オランダ領東南 アジア植民地へ

本国同様フランス に占領されたため イギリスが攻撃

ナポレオンの遠征によ りイギリスとインドを 結ぶ線を断たれる スペイン本国との

通商断たれイギリ スとの貿易増える 中立を保ち英仏と中継貿易 をしていたがイギリスの介 入にあい1812年米英戦争へ

フランス牽制のた めイギリスに攻撃 され1807年参戦

エジプト デンマーク

エジプト デンマーク

イギリス 勢力範囲 フランス 勢力範囲

0 3000km

イギリス インド

オランダ領東南 アジア植民地へ 0 3000km

イギリス インド

フ フランス アメリカ

オランダ領東南 アジア植民地へ 南米植民地

(3)

− 14 − − 15 −

いえるウィーン体制の中核となる四国同盟の加盟

国を確認する。また、ロシア皇帝アレクサンドル 1世が主唱し、ウィーン体制の精神的支柱となっ たキリスト教精神に基づく君主間の同盟の名称を

答えさせ、英王・教皇・オスマン帝国スルタンが 参加しなかった理由を考えさせたい。さらに、こ の表から、自由主義とナショナリズムの動きをウ

ィーン体制側が弾圧していく段階、ラテンアメリ カ諸国の独立とイギリスの五国同盟脱退・アメリ

カ合衆国のモンロー宣言、ギリシアの独立、フラ ンス七月革命、ベルギーの独立などによってウィ ーン体制が破綻しはじめる段階、フランス二月革

命に始まる「諸国民の春」「1848革命」によって

ウィーン体制が崩壊していく段階を読み取り、「z

ウィーン体制下のヨーロッパ」やp.177の「z七

月革命・二月革命」の地図によってそれぞれので きごとの位置と関係を確認する。

 ラテンアメリカ諸国の独立につ

い て、p.178の「zラ テ ン ア メ リ

カ諸国の独立」の地図とその運動

の指導者たちの説明を読み、とく に1811年以降の独立の指導者2人

の名と活躍した地域を確認する。 また、イギリスはラテンアメリカ 市場の開拓をねらって独立を支援

する外交(英外相の名をとった用

語を答えさせる)を展開したため、合衆国モンロ

ー大統領によるアメリカ大陸とヨーロッパの相互 不干渉を唱えたモンロー教書とともに、ウィーン 体制に動揺を与えたことを確認する。

 4.大英帝国の繁栄

 p.179の「イギリス帝国の確立」の年表を見て、

1801年にアイルランドと合同することによってグ レートブリテンおよびアイルランド連合王国が成

立することを確認する。また、この年表から工業 化の影(p.168で再確認)とそれへの対応や自由主 義政策をとりあげ、その内容を確認する。また、

自ら自由貿易政策(「z大英帝国の構造」から用

語を確認する)を展開するとともに、他の地域に

自由貿易を強制する政策を展開していく戦争を、

年表から選ばせる。この戦争については、イギリ ス国内においても不名誉な戦争であるという批判 もあったが、その契機はともかく清に対する自由

貿易の要求を実現させたことと、この戦争によっ て「アジア」に対する「ヨーロッパ」の優位が確 定したということから、「世界史」を語るうえで

も重要な戦争になると考えられる。この戦争の直 前の1837年に18歳で即位したヴィクトリア女王の

時代はまさに大英帝国の繁栄の時代である。イギ リスは世界経済の覇権を確立し、植民地と本国の 関係についても経済的な分業体制として整理し、

国内政治においては自由党と保守党の政権交代が 続く中で選挙法の改正をはじめとして様々な自由

主義政策が展開されていったことを確認する。

 5.まとめにかえて∼ 19 世紀前半の世界

 上の図はp.200のイギリスの覇権を示した図で

あるが、p.36∼37の「19世紀前半の世界」と合わ せて示すことによって、ウィーン体制でヨーロッ パが語られている時期に、イギリスの工業化と植

民地帝国化がすすみ、イギリスの覇権が確立して いったことを確認する。とくに「時代の概観」を 読み、「19世紀の世界経済∼『世界の工場』イギ

リス」の年表と物流地図を読み解くことによって、 イギリスの覇権について具体的なイメージを持た

せたい。まとめとして「歴史と経済」を用い、自 由貿易政策を理論化したのがリカードであり、ド イツのリスト(p.38)との対比で整理する。

ナショナリズム運動弾圧

アヘン戦争

海峡植民地

制海権は英が掌握 セイロン アルジェリア出兵

東方問題

ケープ

インド 植民地化

イギリスの進出 フランスの進出 ロシアの進出

世界の工業生産各国シェア

イギリス フランス ド イ ツ アメリカ ロ シ ア

約28% 19 12 12 5

(1850年)

参照

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