真偽論
つかさ
平成 23 年 10 月 30 日
目 次
1 観念論の本質 1
2 二つの証明 2
2.1 対象としている者
. . . 2
2.2 精神≠ 実体 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2
2.3 観念=物体 . . . 2
3 認識問題の解決 3 3.1 問題の整理 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3
3.2 解決法 . . . 3
4 偽の起源 4 4.1 二つの連結 . . . 4
4.2 偽の生じる理由 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4
4.3 導かれること . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 5
4.4 真の連結と表象の連結 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 5
1 観念論の本質
精神が実体性を持つこと。すなわち意志し、欲望し、肯定し否定し、とい うことができる能力など持っていない。そういうものも、自然における個物 と同じように、必然的な原因、因果に従って生じているということ。これを スピノザは示そうとする。
2 二つの証明
2.1 対象としている者
対象としているのは、観念論者のうちでもある程度まで洗練され、ある地点 まで到達している者。懐疑論的な段階は乗り越えていること、が前提とされ ている。というわけで、観念論者が観念論者になるまでの過程を追ってみる。
普段の経験によって、ある個体から何が生じるか。ある状況では何が生じ るかについて、決まった、普遍的な原理を認識するようになる。また、その 個物が全て、自然全体の秩序に従っていること。自然全体の秩序、配置に依 存していることを把握するようになる。このようにして、まず我々は自然を 認識する。
だが、この自然全体の秩序に従わないものを我々は経験する。自然のよう な、現実に存在する表象とは別のもの。判断や、懐疑、何かを意志して行為 をするだとかの思考作用。全体の一部として、必然的な因果に従うのではな く、それから離れた自由で偶然なものとして意識する。例えば、ある判断を したとしても、それについては違ったように判断することもできたのではな いか。自分がある行為をしたとしても、それをすることもしないこともでき たのではないか、といったように。これらは、必然的な秩序に従っていると は一見して思えないものである。
こうして、自然とは別の原理として精神が存在し、それが作用することで、 自然に還元されないような表象が生じている、とすることになる。
従って、観念論者の主張は次のようになる。「我々は、表象において自然に 由来しないものを見いだす。よって、我々は自然に還元されない、精神とい う実体性を持つものを持っている。」
2.2 精神≠ 実体
これを否定する一つの方法は、精神が実体ではないと示すことである。 このことが示されたなら、それが肯定、否定その他の能力を持つ独立した ものである、とする根拠は消えることになる。
人間が実体ではないということは、実体の定義と人間に認めることが何か をつきあわせれば容易にわかる。人間は必然的には存在しないし、人間は唯 一ではなく多数存在するし、その他、人間が無限でも、不変でも無いという ことが証明になる。
2.3 観念=物体
精神が実在する根拠とした思考作用について考察し、それらが自然と同様 の必然的な秩序に従っている、と示すことでも、同じように否定することが
出来る。精神を実体とする思想の起源的な意味では、こちらの証明の方がよ り本質的である。
観念において偶然的なものを認め、そこから精神が実体であるとしたのだ から、その観念を分析し、それが偶然的だとしたのが間違いだ、と示すこと が出来れば、精神が実在するとする根拠は無くなるわけだ。
観念に偶然的なものが無いということは、観念の連結がどのようなもので あるかを考えることでわかる。観念の原因が何か、をたどっていって、因果律 とは別個のもの。独自の、他に還元されないような実体にたどり着ければ精 神が証明できる。しかし、これは無理であり、実際はどこまでさかのぼって も観念の原因は観念であり、その原因も同様、と無限に続くことになる。精 神の実在を示すような、途中で中断する箇所を見いだすことができない。
このようにして、観念を物体とは別のものだとする根拠が無くなる。これ はつまり、先の項目で、表象において自然を原因として認めた時点で終わっ てしまうことを意味する。
3 認識問題の解決
これと同時に、「我々はものを正しく認識することができるか」「真理を認 識することができるか」というような認識論に関する問題は全て解消される。
3.1 問題の整理
真偽論、何が真かというのは、二つのものの間に成り立つ関係についての 問題である。一方に我々に現れているものがあり、他方にその対象がある。観 念と物体。精神と自然。これが一致する根拠はどこにあるのか、という問い である。それは、我々が真だと思ったことが偽になるという経験をしたこと と、精神が実体であって自然とは区別されるものだという想定とを、根拠に している。
3.2 解決法
だが、すでに実体としての人間精神は否定されており、物体と独立のもの としての観念も否定されている。あるのは必然的な秩序と因果律に従うもの 一つのみ。従って、「二つの異なったものがなぜ一致するのか」という問題は そもそも生じ得ない。
よって、その問いのたてかた自体がおかしかったという仕方で問題は解決 される。ものは、我々が認識する通りに存在しているのである。精神を否定 した以上、ある観念がもしかして真ではないのではないか、というような問 いをたてる根拠が無くなってしまうのである。
4 偽の起源
だが、偽というのは実際にあるではないか。自分の観念が真ではないとい うことは、経験的にあるではないか、という話になる。そこでこのことの説 明がなされる。
4.1 二つの連結
それにはまず、表象がどのようにして生じるかを知る必要がある。すでに 精神の実在性については否定しているので、それは単純な仕方で説明するこ とができる。
表象は、自然全体と、その一部である人間身体とが接触することによって 生じるものである。よって、この表象において何らかの連結が見いだされる とすれば、それには二つの要因がありうる。
一つが外的な連結。自然全体を原因とするもの。特定の個物に特有のもの。 特定の個体の本質。例えば太陽=あついだとか。その個体と結びついている ので、我々がどこにいようと、身体がどのような状態であろうと、その結び つきは現れる。その二つを、切り離せないものとして表象するだろう。
もう一つ。身体の状態に依存するもの。自然全体としての必然ではないが、 特定の場所でたまたま他のものと同時に経験したこと。それによる結びつけ。 あとは、快不快などがわかりやすい。
4.2 偽の生じる理由
ついで、精神が誤るだとか言う場合には実際には何が起こっているのかを 考察してみる。
現実に於いてある表象を見る。それをきっかけとして、そこから何が生じ るかを想起する。それが、現実に於いて生じたこととずれている場合、我々 はそれが偽であったという。
その想起は、それまでに経験したことを元にして起こる。かつて現実に経 験した結びつきが、現実の刺激を元に想起されることによって。例えば、か つて A と B とを同時に見たとしたら、後で A を見たときに、B を想起する というように。
そのとき、現実の表象とそこから想起される表象との関係は二通りあり得 る。身体的な連結と、外的な連結。しばしば経験しただけのものが表象され るかもしれないし、実際に外的にも結びついている連結が表象されるかもし れないわけだ。
これが身体的なものであるなら、その表象が現実に於いても同様に生じる 必然性はない。それが生じるかどうかは自然全体の秩序によるのであり、そ の個物自体とは結びついていないからだ。
このようにして、我々は偽の観念を持つ。
4.3 導かれること
ここから、偽は取り除くことが可能だということがわかる。この二つを一 緒にしているのが問題ならば、それを分ければいいだけなのだ。
また、共通概念、誰にとっても一致する観念が存在することもわかる。外 的なものについては、一致しない理由がないからだ。
4.4 真の連結と表象の連結
我々としては、その結びつきが外的に生じているものを知ればいいという ことになる。それを知ることで、出会う個体がどのような運動をし、それが自 身の利益とどう関係するかがわかるからだ。そうすれば、かつて起きて、か つ将来起こりうるだろうことが何かがわかり、対処をすることが可能になる。
そして、この認識は、誰にとっても真であり、議論の際にも根底とするこ とができる、という点でも有用。
逆に、身体に関わる連結というのは役に立たないということがわかる。そ れは、「特定の状況ではそういうこともあり得るし、過去に自分がその経験を した」というだけである。そのようなものをいくら集めても無駄であり、真 理に近づけるわけではない。
従って、この真の結びつきを求めていけばいいということになる。