− − 世界史を、国・地域ごとにばらばらな縦割りの 歴史の寄せ集めでなくするには、時期ごとに世界 を横に輪切りにして全体の構図を理解したうえで、 その変遷をさぐることが必要である。この連載で は、『最新世界史図説 タペストリー』のはじめ におかれた「世界全図でみる世界史」を手がかり としながら、広域的な交流と統合を軸にして、古 代から現代までの世界史の構図を解説する。第1 回はまず、ユーラシア・北アフリカ(旧世界)の 古代史を取り上げる。
世界帝国・世界宗教・世界文明と「地域世界」 旧世界の人類はシュメール人の都市国家以来、 さまざまな形態の国家を生み出したが、紀元前 1000年紀の中・後期になると、ひとつの河川の流 域のような地理的なまとまりを越えて、広大な支 配領域や勢力圏をもつ「世界帝国」が登場した。 アッシリアとアケメネス朝が最初の例とされる (タペストリー p.4)。それから紀元後3、4世紀 にかけて、ユーラシア・北アフリカには「世界帝 国」がつぎつぎ出現した(同p.6〜13)。そこでは、 複数の民族や言語集団を支配するために、軍制・ 法制や官僚制、住民の登録と徴税・動員、交通と 物資輸送など、広域支配に必要なさまざまな仕組 みが考案・整備された。
「世界帝国」の時代は、特定地域や民族だけの ものでない普遍性・汎用性をもつ文化が成立した 時代でもあった(これを「文明」と呼び、地域限 定の「文化」と区別する用語法がある)。代表的例 として、仏教やキリスト教、それにマニ教のよう な「世界宗教」、今日のアルファベットの起源と なった西アジアの表音文字や、漢字などの文字文 化、南アジアのサンスクリット語、地中海のギリ シア語・ラテン語のように広い地域の共通語とな
った言語などがすぐに思い出されるだろう。古代 オリエントの太陰暦と太陽暦、南アジアや東アジ アで発達した太陰太陽暦など、暦法も重要である。 こうした帝国や文明・宗教の広がりと平行して、 個々の地域や生態圏、ときには「世界帝国」の範 囲すら越えた、「世界」としての結びつきや一体 感が生まれた。その基盤は農業だけではなく、地 中海の海上貿易、中央ユーラシアの遊牧と商業な どさまざまな要素が機能していた。「世界」をつ くる人々の関係は平等とは限らず、黄河流域の 人々が自己を中華、他地域の人々を夷狄と考え、 ギリシア人が自己をヘレネス、他をバルバロイと 見なしたように、中心の側が作り出す差別意識を ともなうことが多かった。「世界帝国」や「世界 宗教」は理念上、無限の遠方まで広がるべきだと いう観念をもつことが多かったが、実際には交通 が未発達で、密接な交流や詳しい情報の蓄積が可 能な範囲は限られていたので、今日の世界全体か ら見ればごく狭い範囲が「世界」となるのが普通 だった。オリエント、地中海、南アジア、東アジ ア、中央ユーラシアなどこのような「世界」を、 学界ではしばしば「地域世界」と呼ぶ。
なお、以前はおもな地域世界を「文化圏」とし て教えたが、のちのイスラーム世界が、必ずしも 平和共存とはいかなかったにせよ異教徒の存在を 認めていたように、「地域世界」がどれも、中心・ 主流の文化のほかに異質な要素を含む世界だった ことは、あまり注目されていなかった。また中央 ユーラシアや、紀元後に成立する東南アジア世界 の場合は、歴史の展開の場としては一体でも宗教 や文字文化などは単一でないから、「文化圏論」 では教えることができない。特定地域の単純化し た理解にしか役立たない「文化圏」単位の歴史教 育は、おおきな限界をもっていたのだ。
連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第1回
古代世界の統合と交流
− − − − 紀元前後:東西交流と広域ネットワークの成立
人類の発生や農耕の成立は、単一の起源から世 界に広がったとされる。これに対し、複数の「世 界帝国」や「地域世界」が比較的近い時期にあい ついで成立した現象については、直接の影響・伝 播などの関係を証明することが困難なので、「人 間は同じようなことをする(考える)ものだ」と いった説明しかできないのかもしれない。「生産 力と社会経済構造はどの地域でも同じように発展 する」という「世界史の基本法則論」は、そうし た説明の一種と理解できる。
といっても、これらの「地域世界」のうち、た がいに隣接するオリエントと地中海、中央ユーラ シアと東アジアなどは、最初から密接な関連をも ちつつ発展した。地中海世界やのちのヨーロッパ 世界が、オリエント世界やイスラーム世界の影響 なしに成立したという説明には無理がある。中華 帝国と中華文明があのように発達した背景のひと つは、騎馬遊牧民の圧力から自分を守り、遊牧社 会から自分を切り離そうという壮大な努力だった。 生態的な区切りのはっきりしない中に人為的に築 かれた万里の長城は、その象徴である。
また、おそらくこうした各「地域世界」や「世 界帝国」の繁栄を背景として、紀元前後になると、
より遠隔の「地域世界」同士の交流がはっきりし た痕跡を残すようになる。いわゆる「東西交流」 「東西交易」である(上図参照)。ローマはインド (サータヴァーハナ朝)との活発な貿易を行った だけでなく、後漢まで海路で使者を送ったらしい (大秦国王安敦の使者。扶南の港市オケオで2世 紀のローマ金貨が出土している)。ローマ貴族は インドの胡椒や中国の絹をさかんに消費し、ロー マ支配下の航海記録『エリュトゥラー海案内記』 には、インド洋各地だけでなくシナエ(中国)の 記述をふくむ。中国側も、前漢は東南インドの黄 支(パッラヴァ朝の首都カーンチープラ)まで海 路で使者を送っているし、西域経営を進めた後漢 が陸路で大秦に派遣しようとした甘英が、安息(パ ルティア)に至ったことはよく知られている。ま た、危険視される未知の地域には、宗教の伝道者 が最初に進出する例が近代でもよく見られる。仏 教は後漢代に早くも、中国に伝えられている。 こうした交流・貿易は、東西交通ルートの成立 によって可能になった。いうまでもなく、広義の シルクロード、つまり草原の道(ステップルート)、 オアシスの道(狭義のシルクロード)、海の道が それである。上の図のほか、タペストリー p.104 〜105の図も参考にしたい。これらのルートはい ずれも、複数の幹線・支線を含み(時期によって
エリュトゥラー海
後 漢
サータヴァーハナ朝 パ ル テ ィ ア
ロ ー マ 帝 国
− − − − も変化する)、また中央アジアとインドを結ぶ大 幹線のように、南北に結ぶルートも多数存在した。 重くかさばる物資の輸送には、鉄道・自動車以 前の人類は可能な限り水路を用いた。ローマ時代 の地中海での大規模な穀物流通のように、局地的 には地域の存立そのものにかかわるほどの海上流 通・貿易が見られた。だが、地域世界を越えて運 ばれる遠距離貿易品は、陸路での運搬が容易な金、 宝石や香料、絹など少量で高価なぜいたく品がほ とんどだった。また、紀元前後にモンスーンの利 用が可能になったとはいえ、造船技術や航海術は なお未熟だった。このため遠距離交易に関する限 り、古代に先行して発展したのは陸の諸ルートだ った。このことと騎馬遊牧民の軍事力のため、大 航海時代の東西交流といえば草原の道とオアシス の道がもっぱら思い出されるのである。
交通ルートが発達すると、軍事征服などとはち がった形で、もともとの居住地域を越えて活動範 囲を広げる集団があらわれる。移動性の高い遊牧 民だけでなく、陸の東西交流ルートではイラン系 のオアシス民であるソグド人が大活躍したし、ユ ダヤ教徒のネットワークは、ヨーロッパからイン ド洋まで広がった。
3〜4世紀:解体と変容の時代
こうした「世界帝国」の栄華と広域交流の時代 は、3、4世紀に大きく転換する(タペストリー p.12〜13)。もちろんすべての地域が同時に動く ことはありえず、オリエントのササン朝や南アジ アのグプタ朝は、この時期に建国されて5、6世 紀まで栄える。ただ、東アジアや地中海世界が3、 4世紀から長期の分裂と動乱に引き裂かれたこと により、広域統合や遠隔地間の交流が、全体とし て衰えたことは間違いない。
それらの引き金を引いたユーラシア東方での五 胡や西方でのフンとゲルマンの移動は、匈奴帝国 の解体が引き起こした一連の動きとされる。ただ し、匈奴の解体そのものは内紛や天災で説明でき るにせよ、そこでなぜ、周辺の農耕地帯の帝国が 漁夫の利をえて発展するのでなく、かえって混乱