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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2008年 1月号

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Academic year: 2018

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はじめに…単元の構成を考えて

 絶対主義時代の西欧諸国と大航海時代の流れを うけた貿易活動の単元では、まず各国別に国内状 況を説明していかざるを得ないため、アジアや新 大陸への進出とヨーロッパ情勢との関連性を理解 させることは難しい。そこで今回の授業案では、 各国別の説明を終えたあとの時間を想定し、横に つなげる授業展開によって既習事項を取り上げな がら、角度を変えて整理することをねらってみた。  既習事項の整理では、経験上補習を想定して考 えれば、新たな内容(些か専門的な事項をも含む) も含め、具体的なデータや事実を織り交ぜること によって、生徒の理解を深めることが可能であった。  そのため、本稿の構成は一般的な世B授業案の 紹介という体裁をとらず、「教材研究①②③」の 節を立てて、授業で用いることに適する専門的内 容を紹介した。「専門的な内容が、必ずしも高校 生にとって難解であるとは限らない」という授業 案になれば幸いである。

 

1.教材研究①「17世紀の危機」

 1954年に英の歴史家E.ボブズボームによって 提起された「17世紀の危機」とは、16世紀の価 格革命と人口増加が17世紀に停止したことによ る経済的な停滞と、神聖ローマ帝国での三十年戦 争や仏のフロンドの乱、英のピューリタン革命な ど、各国の政治的な混乱が相次いだことを、一つ の時代相として捉えることができるか否かで議論 となっている事項である。ボブズボームは16世 紀の発展をあくまで封建制度の枠中での出来事=

封建的生産関係の中での発展であるため、自ずと 限界があると考えた。

 また、H.トレヴァー=ローパーは、危機の存在 を認めながらも、16世紀の発展を支えたものが絶 対王政の奢侈な宮廷であり、絶対王政を支える官 僚と常備軍もそれ自体が莫大な支出となるため、 王室は財政改革か租税強化のいずれかが必要と なったという。したがって、トレヴァー=ローパー は危機の政治的な現象である英国の市民革命の発 生を、改革を怠った英王室の政策に求めている。  近年では経済的な側面に偏ったこれらの見方 に、別の角度からの見解も示されており、「人口 の停滞という点を除けば17世紀のヨーロッパ経 済全体に、危機と呼べるような著しい収縮があっ たという証拠はない」という記述も見られる(大 久保桂子・『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開 花』中央公論社 1997年)。

 一方、教科書でしだいに取り上げられてきた「近 代世界システム論」では、16世紀から北西ヨー ロッパを核とする世界的な分業体制にあり、17 世紀に入るとそれが拡大していかなくなったとい う点に「危機」を認めている。具体的には、アメ リカ大陸から流入する銀の量の減少をはじめ、オ ランダ・イギリス・フランスの海外進出はスペイ ン・ポルトガルに代わっただけであり、新たな地 域での展開ではない。この状況は「中核諸国が分 割すべきパイそのものが拡大しなくなったのであ り、必然的に中核地域においては、パイの分け前 をめぐる競争、つまり中核国としての生存競争が 始まった。競争の道具となったのは、 ほかでもな い《重商主義》と呼ばれる一連の保護政策であっ た。」と川北稔は明解な説明をしている(『ヨーロッ パと近代世界』(財)放送大学教育振興会 2001

タペストリー活用の授業案

17世紀の危機と列強のアジア進出

神戸市立六甲アイランド高等学校 鵜 飼 昌 男

スト

リー

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年)。この流れを用いると、17世紀の危機の中で のオランダの発展は説明しやすいのではないだろ うか。

 高校の授業で「17世紀の危機」を取り上げる 場合には、オーソドックスに各国の絶対主義体制 を解説した後に、17世紀全体を概観するような

1時間を設け、西欧経済史の「小麦価格グラフ」(岩

波講座新版『世界歴史』16 1999年 所収 近 藤和彦「近世ヨーロッパ」掲載)を使って、発展 問題的に「危機」と捉えられるような現象を確認 する授業が考えられる。グラフの読み取りは知識

の柔軟な活用のためのトレーニングとなるので、 些か高度な問いかけになろうかと思われるが、年 間数回はセンター入試対策としても、チャレンジ してみる価値はあろう。

 

2.教材研究②「オランダ東インド会社」

 オランダ共和国の発展を解説する場合、すぐさ ま東南アジア貿易を持ち出すことは、あまりに一 面的である。スペイン・ポルトガルばかりでなく、 同時期に海外貿易に乗り出している英・仏との競 争に勝つ背景を述べなくては、単なる事実の切り 貼り授業に陥りやすい。本節では16世紀オラン ダの発展からたどって、17世紀の発展要因を具 体的に取り上げてみた。

 まず、発展の背景となったものはヨーロッパ内 でのバルト海貿易の利益とそれを支えた海運業の 隆盛や北海の鰊漁業であった。バルト海の穀物取 引の70%近くを支配したばかりでなく、大型の 新造船(フライト型船)の導入によって輸送量を 上げ、乗員を1/3節約するなど他国との競争力 を確実につけた(石坂昭雄「オランダ共和国の経 済的興隆とバルト海貿易(1585〜1660)─ズント 海峡通行税記録の一分析─」日蘭学会編『オラ ンダとインドネシア 歴史と社会』山川出版社 1986年)。この経済力がオランダ東インド会社 にも注ぎ込まれ、資本金の大きさ(英の10倍以上) や継続的な運営方針(英は1回ごとに起債する方 式)などによって、他国の同会社から抜きん出る 存在となった。

 東アジア貿易への進出のきっかけは、スペイン との独立戦争の過程で、スペインがリスボン寄港 を禁じたことにより東方商品の入手が困難となっ たため、1594年アムステルダムに設立された「遠 国会社」の活動で始まる。そして諸社の競争激化 による産地での価格の高騰とヨーロッパ市場で の下落を防ぐため、1602年「連合東インド会社」 の設立となった。

 連合東インド会社が目をつけた地域は、ポルト ガルが進出していたモルッカ諸島である。そこで

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はポルトガルの一方的な 香料買い付け方式やカト リックの布教に対して、 原住民たちは反感を抱い ていた。オランダはそれ を利用しながら、ポルト ガル王室による独占貿易 形態(封建的な旧弊を組 織内に残す)の効率の 悪さや一貫性のなさを、 「十七人会」を頂点とす

る徹底した利潤追求シス テムによって圧倒して いったのであった。  しかし、オランダのラ

イバルはポルトガルだけではなかった。それは同 時期に東インド進出を果たした英東インド会社で あり、この会社は資本金は小さいものの本国の海 軍力が強力なバックアップとなっていた。外交的 にも独立戦争中のオランダにとっては得難い同盟 国であったため、英東インド会社と連合東インド 会社との競争は、非常にデリケートな問題を含ん でいた。当時の連合東インド会社の報告書では、 英船を「まるで馬の虻のようだ」と嫌い、英人を「偽 りの友人」と呼んでいることからも伺われよう。  したがって、このような蘭×英の東インドをめ ぐる競争は、西欧の政治情勢、とくにオランダ独 立戦争の推移と連動して考える必要がある。  西欧の政治情勢で鍵となる事項は、1609年ス ペインとオランダとの12年間の休戦条約である。 東インド方面に関してオランダは、ジャカルタに 翌年100m2ほどの狭い根拠地(後のバタヴィア) を得ているが、注目すべきはこの休戦が切れる 1621年前後の動きである。1617年にヤン=ピー テルスゾーン=クーンという人物が東インド総督 に就任して対英強硬路線を推進していたが、オラ ンダ本国は支援国である英との関係悪化を避ける ために、1619年両国東インド会社の業務提携と もいうべき協定を結び、英との敵対行動を止める よう指示していた。その中で1621年スペインと

の戦争が再開し、2年後の1623年に有名なアン ボイナ事件が位置するのである。この事件によっ て、当然英蘭東インド会社の協定は決裂し、英の 世論は反オランダ的となったが、1625年オラン ダに親近感を持つチャールズ1世の即位によって 反オランダムードは低下し、事件は東アジア貿易 にからんだ限定的なものとして扱われた(1654 年第1次英蘭戦争での講和で、賠償金の支払いに よって処理された)。植民地活動と西欧諸国の政 情とを横につなげるエピソードとして使えるので

はないだろうか。(永積昭『オランダ東インド会社』

近藤出版社 1971年)

 

3.教材研究③「17世紀の長崎」

 西欧の絶対主義時代の政情と東アジアの植民地 活動を横につなげてきたが、それをもう少し東ア ジアまで引き伸ばして、東アジア貿易圏を構成す る長崎貿易を題材に清朝の前半期を眺めてみたい。  オランダ東インド会社は、バタヴィアの根拠地 から中国貿易のために北上し、ポルトガルのマカ オ奪取を図ったが失敗したため、1624年台湾西 岸の安平に要塞を築いた。当初、オラニエ城と呼 び、後にゼーランディア城と改称したが、中国人 はこの港を「大員(ターユワン)」と呼び、オラ

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ンダ史料もこれを借用 して「タヨワン」「タイ オワン」と記し一般化し ていった。

 東アジア貿易の特徴 は日本に限れば、香料や インド産の綿織物はあ まり重要ではなく、中国 産の生糸や絹織物が輸 入品の首位を占めてい た。これは豊臣秀吉の朝 鮮出兵以来、明との国交

が断絶して中国商品の入手が困難になったことが 背景となっている。この状況に対して、日本商人 は第三国の港を経由地として、中国商品を得よう と積極的に海外に乗り出し、その地で中国商人と 取引をした(出会貿易、朱印船貿易)。西欧の貿 易船はこの構図に組み込まれていったのである。  さて本節で注目したい点は、オランダの占拠し た台湾についてである。江戸幕府による鎖国政策 の推移はここでは省略するが、平戸のオランダ商 館が1641年長崎の出島に強制移転させられる頃、 中国情勢は明から清へと王朝の交代で緊迫してい た。1644年李自成軍を討伐するとして入関を果 たした清は、呉三桂ら明の遺将を南部に封建し中 国支配を開始したが、復明運動を企てる勢力も多 く、入関当初は決して順調な滑り出しではなかっ た。その復明運動の中心が鄭氏一族であり、福州 を拠点に抵抗していた鄭芝竜から、その子鄭成功 は厦門へ拠点を移し、1661年オランダ人を駆逐 して台湾を反抗の拠点とした。鄭成功は翌年死去 したが、長子鄭経へと受け継がれ約40年間に及 んでいる。

 台湾に拠る鄭一族の復明運動は、海上貿易の利 益を資金源に執拗に続いたため、清朝は同年海岸 線から10 km以内の住民の居住・立ち入りを禁 じた「遷界令」を発して、鄭氏の資金源を枯渇さ せようとする。この法令の効果は長崎への来航清 船に如実に表れてくる。1670年入港の36艘の内 の18艘、1676年 入 港 の24艘 の 内 の10艘 が 鄭 氏

の船であったが、1681年には全入港数がわずか 9艘のみという状態になっている。鄭氏の船は生 糸を多量に商っていたようで、中国本土からの集 荷に支障をきたすようになり、日中貿易は遷界令 によって逼塞していった。この結果、台湾獲得の 翌年に鄭成功が急死したことと合わせて、鄭氏の 資金源は断たれ83年遂に鄭氏は降伏。清朝はこ れをうけて84年「展海令」を発して海禁政策を 変更した。

 それでは、展海令の影響は歴史の中にどのよう に現れてくるのであろうか? 江戸時代の日本史 を世界史の中に位置づけてみよう。

西暦(年) 入港清船数 解 説

1670 36艘 鄭氏船18艘 1673 三藩の乱

1675 29艘 鄭氏船9艘 1676 24艘 鄭氏船10艘 1678 26艘 鄭氏船7艘 1681 9艘 すべて鄭氏船か?

1683 24艘 台湾の鄭氏降伏

1684 24艘 遷界令→展海令へ

幕府は貿易制限令を発布

1685 85艘 来航数が3倍以上に急増 1686 102艘

1687 115艘

1688 193艘 江戸時代中の最多入港数

(大庭脩 『日中交流史話』燃焼社 2003年−旧題:『江戸 時代の日中秘話』東方書店 1980年)

南海物産

南 海 物 産

生糸 生糸

(インドから) 火薬・綿織物

鹿皮・サメ皮 (武具の材料)

ルソン 台湾

堺 対馬

江戸 博多 長崎 平戸

厦門 福州

広州 マラッカ

バタヴィア バンテン (パレンバン) 旧港

アンボイナ(アンボン) バンダ テルナテ

ブルネイ マニラ

ゼーランディア

後金 (清)

カンボジア シャム

トンキン

コーチシナ

ルソン 台湾

漢城 釜山 山海関 北京

南京 海州 登州

皮島 開原 サルフ

寧波 淡水 マカオ 昇竜 アユタヤ

日本

江戸時代

朝鮮

幕府主導で,日中間の 新たな貿易のしくみを 構築することで,幕府 の収入増をねらう。

明から銀が流れて成長 した女真が,後金(の ちに清)を建国し,明 打倒の意志を示す。

対馬の宗氏が,朝鮮出 兵でこわれた日本・朝 鮮の交流再開を交渉。 倭寇以来の好戦的

な日本を警戒。

朱印船が中国商人 とおちあう地

*朱印船貿易の盛行とともに東南アジアに進出した日本人が形成した町

中国商人の海上交易路 ヨーロッパ人が中国物産 を日本へ運ぶ航路 朱印船のおもな航路 日本町 ヨーロッパ人の拠点 朱印船が購入した物産

生糸 * 日本と

東アジア海域 (17世紀前半)

朱印船貿易 豊臣秀吉の明侵攻をめざした朝鮮侵略で,明との公式貿易の再開は絶望的になって  いた。そのため,江戸幕府は,台湾・コーチシナなどの明領外の中国商人根拠地や,中国商人   が来航するヨーロッパ人根拠地に,幕府認可の商船(朱印船)を派遣し,中国商人がもたらす    物産を購入させた。ヨーロッパ人も,日中間の貿易を仲介して莫大な利益を上げた。

しゅいんせん

奠 鄭 奠 鄭 ア モイ

てい し りゅう

りゅうきゅう 1598 1603  ○ 1609 1619 1624 1628 1635  ○ 1637∼38 1639 1641

朝鮮出兵,豊臣秀吉の死で終結 徳川幕府成立(徳川家康) 朱印船貿易で東南アジア進出 オランダ,平戸に商館設置 対馬の宗氏,朝鮮と通商条約結ぶ 島津氏の侵攻で琉球服属

サルフの戦い(後金、明をやぶ る)

オランダ,台湾に進出

スペイン船の来航禁止

福建商人 芝竜,厦門の提督と なる

日本人の海外渡航・帰国禁止。

 芝竜,中国沿岸を支配,オラ ンダと提携。

島原の乱

ポルトガル船の来航禁止→鎖国 オランダ人を長崎の出島に移す 日本と東アジア海域年表

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 下の表を見れば、海禁 政策が解かれ清朝の商人 が一斉に日本との貿易に 向かっていった様子が伺 わ れ る。1685( 貞 享 2) 年当時の江戸幕府は5代 将 軍 綱 吉 の 時 代 で あ る が、中国情勢の急変によ る清商の来航急増に対し て、「積戻し」も含めた 厳しい貿易制限で対応し ている。しかし、表のよ

うに来航数は減るどころか88年(元禄元)には 江戸期最多を記録することとなり、これを放置す ると貿易代金として支払われる日本産金銀(正貨) や銅の大量流出が続き、幕府の貨幣政策に深刻な 問題が生じてくる。したがって、幕府では早急な 対策が必要となり、厳しい貿易制限でも治まらな い来航数の増加を、長崎以外の地での「抜荷(密 貿易)」にあると考え、幕府による長崎貿易の管 理強化策を実施していった。89年に出された「唐 人屋敷」の設置とは、清商の居住区を隔離しその 出入りを監視することで密貿易を防ぐ措置なので ある。

 このような政策の延長線上に、1715年(正徳 5)の「海舶互市新例」も位置づけられ、新井白 石が来航清船数30艘という船数だけでなく、取 引の銀高・銅量までをも制限せざるを得なかった ほど、長崎貿易で清商が得る金銀は多かったので

ある。これはタペストリーの図から、長崎とは鎖

国体制の中での唯一の貿易港という見方だけでは なく、東アジア貿易圏にある十数の港の中で最も

北に位置する貿易港として、確かな地位を有して

いたと見ることができよう。日本史事項は世界史 の中に位置づけることで、より理解が深まるので ある。

 

4.専門的な内容を授業で用いるには…

 教材研究①では、「17世紀の危機」という西洋

史で提案された考え方について検討し、授業での 扱い方に一案を示した。西洋史の場合、新しい理 論が提議され、それが教科書の記述に比較的早く 登場してくる。その際、われわれは個々の事実を 理論にあてはまるように「演繹法」で教えていな いだろうか? 歴史において演繹法を用いるとい うことは、それは初めて世界史に接する生徒に対 して、一種の誘導尋問的な授業となっているので はないだろうか。理論によって歴史的な物事の見 方を教えるならば、やはり帰納法を用いて理論の 立てられ方を説明し、一緒に検証するような姿勢 で生徒に自ら考える時間を持たせたい。

 教材研究②③では、「オランダ東インド会社」「長

崎貿易」の詳細を調べて、教材化を試みたもので ある。この2つの記述は授業での流れを文章化し たものであり、教室では各国別の既習事項を対照 できるような略年表プリント、または板書によっ て進めていった。留意点は個々の事項の説明にあ まりこだわらず、時代の中から一定期間を切り取 り、その全体像を見るトレーニングの一つとして 位置づけたことである。専門的な内容は、生徒が より具体的に考えるための貴重な触媒の役割を果 たす。暗記物ではない歴史の授業とは、歴史事項 をすべて生徒に提示した上で、それらから何かを 読み取る(解釈する)力を養うことにあると考え ているが如何であろう。

 皆さんからのご教示を賜われば幸いである。 幕府は朱印船貿易で潤っ

ていたものの,キリスト 教の普及などを恐れ,一 転して海外渡航を禁止。 明の統制下を離れた中 国商人や,オランダ商 人から海外物産を入手。

松前藩の交易統制に対する 近世最大のアイヌの蜂起。 ②農民反乱軍の李自

 成,北京を占領。

③守将呉三桂,清に投  降。清,北京入城。

④明の皇族をかつぐ元密輸海  商・ 成功の財源を断つた  め,沿岸住民を内陸へ強制  移住(遷界令)。

⑤ 成功,清に抵抗するため台湾の拠  点から,オランダ人を追放。オラン  ダは,日中間仲介貿易からは撤退。

ただし,オランダは,17世紀末の 貿易不振で弱体化したインドネシ ア各地で植民地化開始。 ⑥ 成功鎮圧後,清は海禁解

 除。清の安定成長のもと,   華僑進出が加速。

 摩藩,占領下の琉球に, 清への朝貢貿易をさせ, 中国物産入手。 ①清の太祖・ヌル

 ハチの興起地

杭州 寧波 南京

北京 山海関

福州

厦門 金門

広州

マカオ

マニラ 淡水

安平(旧ゼーランディア) 釜山 漢城

大坂 江戸 シャクシャインの 戦い

摩 平戸

長安

開原 ヘトアラ

サルフ

ヌルカン

平城京

東南アジアへ

東南アジアへ

松前

対馬 長崎

琉球 日本と

東アジア 海域

(17世紀後半  ∼18世紀)

せっけん ちく

せき

か きょう りゅうせい さ こく

鎖国と華僑の隆盛 16世紀の銀の流通にささえ られた世界的な商業の活発化

で好景気にわいた各国は,清・

江戸幕府などによる政権交代を経

た17世紀後半以降,一転して統制を 強め,国内安定を図った。ただ、日本

は「鎖国」に転じたが,清は残明勢力と結

んだ福建商人の討伐以後は,税関による統 制はするが,中国船の海外渡航を認めた。蓄

積したネットワークを持つ華僑が海を席巻し,

ヨーロッパ植民地の流通をも握っていく。

鎖国下の4つの貿易口 海商・ 氏の交易路 遷界令の対象地域 朝鮮通信使のルート 琉球の貿易 蝦夷錦(江南製絹織物) が伝わったルート

長崎 てい 日本と東アジア海域年表

せんかいれい

ていせいこう

きょうほう

かんせい 1644 1645 1658 1661 1669 1673  ○ 1685 1689 1715  ○ 1716∼45 1757  ○  ○ 1787∼93

清,北京入城。  氏,清に反抗。

江戸幕府, 成功の援助願いを 黙殺。

遷界令(∼84)  成功一族,台湾占領。(∼83) シャクシャインの戦い 三藩の乱(∼81) 明の遺臣を名のる集団が, メコンデルタに大量移住。 日本,貞享暦を採用(渋川春海が 中国の授時暦をもとに作成) 長崎に唐人屋敷ができる。 新井白石,金銀の海外流出制限。 中国人口が急増し,海外への移 民増加(華僑の進出) 享保の改革(徳川吉宗)

清,西ヨーロッパ諸国に対し,交 易を広州に限定。 オランダ,ジャワ島全域支配。

日本,衣料としての木綿の普及。 寛政の改革(松平定信)

朝鮮

江戸時代 日本

参照

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