この連載も最終回である。最後は20世紀の歴史 を、世界の一体化とその解体という観点から整 理しておこう。例によって『タペストリー』の世 界全図を広げてじっくり眺めるところから出発し たいのだが、よく見ると20世紀を前半と後半に分 けた40〜43ページ以外に、38〜39ページと44〜45 ページの図が20世紀の初めと終わりを含んでいる。 これはどういう意味だろうか。歴史教育がもつさ まざまな意味のうち、現在につながる過去を理解 するという意味がとりわけ大きい現代史の性格も 考えながら(そこで次ページには44〜45ページの 図を掲げる)、20世紀の構図を考えてみたい。
短い20世紀か長い20世紀か?
話を前の時代に戻すが、ヨーロッパ経済史で は、1450年から1620年ごろまで続いた拡大の時代 を「長い16世紀」と呼ぶ。その後、半世紀の景気 後退局面(17世紀の危機。またオランダの覇権時 代)の後に来るのが「長い18世紀」(覇権の面で は英仏の争いの時期)だ。最近では、これらのト レンドがヨーロッパおよび大西洋経済圏以外の地 域(とくに東アジア)にも共通していたことが主 張されている。では、1世紀おきで「長い20世紀」 はおとずれたのだろうか(大英帝国の覇権時代を 「短い19世紀」とする)。それとも複数の激変を経 験した20世紀の世界史には、「戦争の世紀」など という以上の、単一の性格づけはできないのだろ うか。
従来唱えられていた現代史の構図の多くは、20 世紀初頭までを旧時代と見なし、しかもこれこそ 現代と考えたものが20世紀末まで持続しなかった ので、結果として、「短い20世紀」を主張したこ とになる。たとえば、「ロシア革命から現代史が 始まる」という社会主義を主役とする時代像は、
ソ連崩壊と冷戦終了で終わった。また第一次世界 大戦後に始まった「民族自決権の時代」も、ソ連 やユーゴの解体ののちに大きく事情が変わった。 これらに共通する特徴は、19世紀末から20世紀初 頭(帝国主義の時代)にピークに達した、近代世 界システムが強制する世界の一体化に対して、そ こから抜け出すことを志向していた点にある。と すれば、「社会主義の挫折」や「国民国家のたそ がれ」は、帝国主義時代が、グローバル化を強制 する21世紀の今も続いている(または20世紀末か ら復活した)という意味で、「長い20世紀」の見 方を支持するのだろうか。それとも、現代のアメ リカ一国によるグローバル化の強制は、列強が競 合した帝国主義段階よりむしろ、19世紀イギリス の覇権時代と共通するものと見るべきなのだろう か。
第二次世界大戦の意味
一方、世紀単位で時代を区切るという、見るか らに便宜的なやり方にこだわらなければ、1945年 で大きく世界史を区切る方法が、今なお有効だろ う。第二次世界大戦は、ファシズムと民主主義の 戦いというだけでなく、第一次世界大戦同様の帝 国主義国間の世界分割をめぐる戦争という面をも ち、一方で第一次世界大戦でも一部に現れていた 民族自立の戦いという性格が(とくにアジアで) きわめて強くなった。その後今日まで、列強の世 界戦争というものが起こらず(起こりえず)、し かも植民地の大半が独立したことは、それで世界 全体が平和になったというものではまったくない (先進国が結託して紛争を第三世界に押しつける
体制ができたという皮肉な見方すらある)にせよ、 世界の一体化をめぐる16世紀以来の構図ないしル ールが変化したことを示すのである。
連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第6回
20 世紀の世界史の構図
− 3 − − 2 −
アメリカの20世紀
次に、世界の一体化という点で間違いなく20世 紀の主役をつとめたアメリカ合衆国について、そ の「強み」(強烈な影の部分をともなうにせよ) を整理しておこう。経済面では第二次産業革命の 成果をオートメーション技術の発明などによって もっとも高度に利用し、圧倒的な生産力を築いた こと、その基盤のうえで大衆消費社会を実現した ことなどである(両者に共通するのは、神を信じ る者がスーパーコンピューターを駆使するような、 サイエンスに対するテクノロジーの優位)。社会 的には、移民の国らしい多様性への寛容と、「ア メリカン・ドリーム」に象徴される未来志向だろう。 このアメリカの19世紀末以降の対外進出の過程 と1920年代の生産力が、タペストリー40ページ下 段の図に示されている。ただしこの段階での「世 界の銀行」イギリスの力を過小評価してはいけな い。現在のアメリカが世界最大の債務国でありな がら、諸外国に対米投資を続けさせ資本の一斉逃 避を許さない「力」をもち、また大量消費で世 界の景気を支えている面をもつのと同様の存在が、 当時のイギリスだったとされる。その意味で、ア メリカの1929年恐慌と「世界恐慌」を同一視する
のは正しくない(実際、世界的な恐慌状態は1930 年秋以降のことである)。また、ニューディール でアメリカの景気が回復したのではない(30年代 末以降に戦争の中で景気回復する)ことは、広く 知られているだろう。アメリカの覇権獲得はあく まで第二次世界大戦後のことである。
社会主義とはなんだったか?
「マルクス=レーニン主義」を中心とする社会 主義勢力が、20世紀にあれほど支持されたのは、 ①資本主義の構造的矛盾と非人間性、そこから抜 け出す道を、理論的に説いた。②しかも理論だけ でなく強力な組織と運動を築き、「社会主義国」 の建設や民族独立への支援を実行した、などがお もな理由だろう。それが最初から全部陰謀やイン チキだったという議論は論外だが、社会主義には マルクスも含め、資本主義以上に近代的で高度な 生産をめざす「正統派」の発想以外に、小規模な 共同体(コミューン)を理想とする反近代的発想 がつねに混在していたことに注意する必要がある。 それでは社会主義のどこが、どう破綻したのだ ろうか。資本主義理論の面では、帝国主義が資本 主義の最高段階で、世界恐慌後はその「全般的危 機」の段階に入ったという説は、今後その正しさ
13 1
2 354
6 7 8 11 12 9 10
台湾
ムルロア環礁 ファンガタウファ環礁
120゜ 180゜
120゜ 60゜
0゜ 60゜
60゜
30゜
30゜
60゜ 0゜
60゜ 0゜ 180゜
60゜
30゜
30゜
60゜ 0゜
A BB
C D
A BB
C
D
E F G
E F G 1 2 3 4 5 1 2 3 4 5
地中海
黒 ス ピ カ 海
海
大
西
洋 大
平
洋
イ ン ド 洋
マ−シャル諸島
ロ シ ア 連 邦
モンゴ ル
中華人民共和国
日本
オ − ストラリア
ニュ−ジ−ランド ミ
ャ ン マ
タイ カンボジア
マレ−シア 大韓民国
シンガポ−ル フィリピン ラ オ
ス ェ ヴ ト
ナ ム
インド ネシ ア 朝鮮民主主義
人民共和国
ブルネイ・ダルサラ−ム パラオ共和国
ミクロネシア連邦
バヌアツ フィジ−諸島 ソロモン諸島 パプア・ニュ−ギニア
ツバル諸島
ー
キリバス
カ ナ ダ
ア メ リ カ 合 衆 国
ブ ラ ジ ル メキシコ
イギリス ドイツ
インド フランス
アイスランド
アイルランド
ポルトガル スペイン
ノ ル ウ ェ
−
−
−
−
ス フ ン ィ ラ ン ド ウ ェ デ ン
イラン アフガニスタン パキスタン イラク
イエメン サウジアラビア
南アフリカ共和国
アルジェリア
エジプト
リ ビ ア
ス−ダン
コンゴ民主 共和国 ナ イ ジ ェ リ ア 中央アフリカ
カメル−ン
トルコ
モロッコ
リベリア ト
− ガ
ゴ
ナ エチオピア
ア ン ゴ ラ
マダガスカル モ
ソ マ リ ア
ザ ン ビ ク ガ
イ ア ナ ス リ ナ ム ベネズエラ コロンビア エクアドル
ペル− ハイチ キュ−バ
パラグアイ
ウルグアイ
チ リ
アメリカ合衆国
グアンタナモ プエルトリコ
ノーフォーク アゾレス
ロタ
ディエゴガルシア
ノースウェストケープ グアム 横須賀
沖縄 佐世保 チャールストン
ロングビーチ サンディエゴ
ハワイ
ボリビア
カザフスタン
ポ−ランド
ギリシア
ナミビア チ ュ ニ ジ ア
バ ン グ ラ デ シ ュ
ア ル ゼ ン チ ン
グアテマラ エルサルバドル
コスタリカ バハマ
ホンジュラス ニカラグア
パナマ
イタリア
エリトリア オ マ ン − カタ−ル
ジプチ
コモロ
スワジランド レソト
セイシェル
モ−リシャス ブルンジ
ウガンダ ルワンダ
マラウイ
スリランカ モルディヴ アラブ首長国連邦 モ−リタニア マリ ニジェ−ル チャ
ド
ベ ナ ン ブルギナファソ
ザンビア セネガル
ギニア シエラレオネ カ−ボベルデ
ガボン コンゴ共和国 ガンビア
ギニアビサウ コ−ト ジボワ−ル
赤道ギニア サントメ・プリンシペ
ボツワナ ジンバブエ
ケニア
タンザニア ド
ミ ニ カ 共 和 国
グレナダ
シリア レバノン
ヨルダン イスラエル
キプロス グルジア
アルメニア アゼル バイジャン
ネパ−ル ブ−タン
クウェ−ト トルクメニスタン
ウズベキスタン キルギスタン タジキスタン
トンガ サモア
ギアナ
東ティモール
フォークランド諸島
1967 東南アジア諸国連合(ASEAN)発足
1995 南米共同市場(MERCOSUR)発足 1993 欧州連合(EU)発足
1994 北米自由貿易協定(NAFTA)発足
政府開発援助(ODA)
〔我が国の政府開発援助2000,ほか〕
国連平和維持活動(PKO)
国連休戦監視機構 国連インド・パキスタン軍事監視団 国連キプロス平和維持隊 国連兵力引離し監視隊 国連レバノン暫定隊 国連イラク・クウェート監視団
UNTSO UNMOGIP UNFICYP UNDOF UNIFIL UNIKOM 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13
名 称 略 称 派遣期間 MINURSO UNOMIG UNMIK UNAMSIL MONUC UNMEE UNMISET 国連西サハラ住民投票監視団 国連グルジア監視団 国連コソヴォ暫定行政ミッション 国連シエラレオネミッション 国連コンゴ(民)ミッション 国連エチオピア・エリトリアミッション 国連東ティモール支援団 1948.6∼ 1949.1∼ 1964.3∼ 1974.6∼ 1978.3∼ 1991.4∼ 1991.4∼ 1993.8∼ 1999.6∼ 1999.10∼ 1999.11∼ 2000.7∼ 2002.5∼
日本が最大援助元の国 アメリカが最大援助元の国 EU諸国が最大援助元の国 DAC(開発援助委員会)加盟国 その他の国・地域 おもな地域統合
アジア太平洋経済協力 会議(APEC)参加国 イスラーム諸国会議 機構(OIC)加盟国 アメリカのおもな海軍 基地
2004年10月現在続いているもの
20世紀末∼21世紀初頭の世界
20世紀末∼21世紀初頭の世界
が証明される可能性を残すものの、数十年程度の スパンでは「オオカミが来たぞ」に終わった。一 方「社会主義国」についていえば、それが必ずし も平和勢力ではないとか人権を抑圧したとかいう 点(それなら「理想を裏切った」でも説明できな いことはない)だけでなく、「私的所有を廃絶す れば搾取はなくなる」「したがってGNPは小さく ても福祉は充実する」という理屈が、ごく狭い範 囲でしか成り立たなくなってしまったことが大き い。社会経済的にどんな状態を社会主義と呼ぶの かが、決められなくなってしまったのだ。そうす ると、社会主義とは後発型工業化の一形態だとで もいうしかなくなり、しかもそれは、韓国のよう な開発独裁モデルより劣っていたことになる。
東アジアの奇跡
20世紀後半、ベトナム戦争とならんでアメリカ の覇権に打撃をあたえた(ように見えた)のは、 西欧の経済復興と統合、それに東アジアの連鎖的 経済成長だった。とくに後者は、旧来の日本特殊 論(日本は西欧的な社会をもともと持っていた、 ないし脱亜入欧に成功した結果、近代化をとげた という論)の効果を弱め、「日本を含む東アジア」 が(前回取り上げた「勤勉革命」などの歴史を踏 まえて)地域として独自の近代化をとげつつある、 という新しい世界史像に注目させた点で、大きな 意義をもつ。近代世界システムにおいて周辺とさ れた地域でも、「低開発」からの脱却が可能なこ とを示した点も軽視できない。
ただし日本−NIEs−ASEAN−中国(−イン ド)と続く発展の連鎖は、大半が独裁政権による 追いつき型近代化であるから、近代市民社会の建
設という点では明らかに弱点をもつ。またそれは、 「対米従属」という側面を共有し、今日でも(東
アジアで伝統的に強力なナショナリズムとは裏腹 に)アメリカ中心のグローバル化を推進する歯 車という性格をもつ。この面で東アジアの、マン ガ・アニメや映画など大衆文化の一部で示したよ うなアメリカを超える動きが今後広がるかどうか は、予断を許さない(社会・文化全般ではむしろ アメリカナイズが進んでいる。今日の日本で広が る歴史離れも、そこに一因がある)。
アメリカは衰退しているか?
以上のように、20世紀の歴史には「そろそろは っきりしてきた事柄」「今後変わるかもしれない 事柄」「どちらに進むかまだわからない事柄」が 折り重なっており、全体を一言で性格づけられる ようになるのは、まだしばらく先のことであろう。 たとえばアメリカの覇権が現在衰退しつつある のかどうかも、単純ではない。経済面では、国内 生産の空洞化とドル安の進行は、即座にアメリカ の崩壊につながりはしない。米国系多国籍企業は むしろ支配力を拡大しているし、ドル安のもとで もアメリカが世界の資本と消費物資を吸い寄せる 仕組みは崩れていない。オルターナティブの地位 をしぶとく保っている西欧型福祉社会も、先行き を過大評価はできまい。ただ逆に、今日のアメリ カがもつ軍事面での絶対優位も、全世界のアメリ カ系企業をテロから守る力はないし(「第二のホ ー=チ=ミン」がどこかに現れて、反米テロを「世 界が支持する正義の闘争」に転化させないとも限 らない)、資本主義の底力を示し社会主義をたた きのめした電子化・IT化も、万能ではない。そ れなのにグローバル化をますます強めなけれ ばアメリカの覇権は維持できない、という現 在の自転車操業的な構図は、資源・環境・人 口などの問題から考えて、いずれ壁にぶつか るだろう。その先は、世界の人々の選択にか かるが(その結果によって20世紀の評価も最 終的に決まる)、そのとき、歴史認識や歴史 的思考の能力が、間違いなく問われるだろう。 左:アメリカ(カジノ・ラスベガス)、右:中国(太極拳・上海)
− 4 − − 5 −
第3次中東戦争とイスラム復興
今からほぼ40年前、1967年6月に第3次中東戦 争が起きた。その後の流れにとって、これが大き な転機であった。イスラーム復興は、ここを起点 として動き始める。
この戦争は、イスラエル側から「6日戦争」と 呼ばれる。電撃的な先制攻撃によって、わずか6 日間で勝利したからである。屈辱的な敗北を喫し たアラブ側は、「6月戦争」と呼ぶ。この敗北に よって、アラブ民族主義は地に墜ちた。
イスラエルは1948年に建国宣言をして、周辺の アラブ諸国と戦って、その存在を確立した。第一 次世界大戦中に、イギリスがユダヤ人の郷土建 設を支援する約束(バルフォア宣言)をしてから、 ほぼ30年で国家を作りえたのだから、大きな成功 であった。他方、パレスチナの地を、ヨーロッパ からのユダヤ移民に奪われた形のパレスチナ人、 および周辺のアラブ諸国は、その奪回を誓わざる をえなかった。アラブ民族主義が、その原動力と なった。1948年の第1次中東戦争をまじめに戦わ なかった「腐敗した君主制」に対しては、民族主 義による革命が襲いかかった。1952年のエジプト 革命、58年のイラク革命、62年のアルジェリア独 立、63年のイエメン革命、同年のシリアでのクー デタ(民族主義のバース党による権力奪取)など、 次々とその勢力が広まった。
ところが、これが67年戦争の敗北で、大きく挫 折した。イスラエルを破ってパレスチナを取り戻 すどころか、2割ほど残っていたパレスチナの地 であるヨルダン川西岸地区、ガザ地区、東エルサ レムさえもイスラエル軍の占領下に入り、さらに、 エジプトのシナイ半島、シリアのゴラン高原も占 領されることになった。
この危機的な状況において、イスラーム覚醒が
生じた。アラブ人たちの多くが、自分たちの宗教 であるイスラームを忘れていた、あるいは怠けて いたために、このような試練に受けることになっ たと解釈した。「惰眠」からの「覚醒」が必要と 自己批判した。思想的にも、民族主義からイス ラーム復興への転機となった。とくに、67年戦争 において、イスラーム「第3の聖地」である東エ ルサレムが占領されたことは、危機意識を醸成し、 さらにその危機感にイスラーム的な色彩を与える ものとなった。今やパレスチナ問題は、イスラー ム世界全体にとっても大きな問題となった。 しかも、1969年にはアクサー・モスクで放火事 件が起こり、イスラーム世界の危機感は最高潮に 達した。そのためサウジアラビア、モロッコが 首脳会議を呼びかけ、第1回イスラーム首脳会議 が開催された。サウジアラビアもモロッコも王国 であり、急進的な民族主義期のエジプトであれば、 このような会議は「反動勢力の策動」であると非 難したに違いない。しかし、エジプトはすでに67 年戦争を経て穏健化していたから、イスラームを 旗印に集まるすることに賛成した。
各国でのイスラーム闘争
穏健化したエジプトと保守的なイスラーム君主 国であるサウジアラビアの和解によって、「アラ ブの大義」体制が生まれた。これは、「イスラエ ルと戦うために君主制を倒そう!」と革命をめざ すのではなく、共和制の国と君主制の国がアラブ の大義によって団結してイスラエルと戦う路線で あった。この路線は、1973年の第4次中東戦争に あたって、「アラブの大義を理解しない国には石 油を売らない」という石油戦略の発動へとつなが った。
日本は、その「理解しない国」のカテゴリーに 区分され、原油輸出削減の対象となって第1次石
京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰
連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニーまで
油ショックに襲われた。それまでアラブ諸国と友 好関係だと思っていた日本人は、「大義を理解し ない」といわれて、驚愕し、急いで親アラブ政策 への転換を図った。この場合の「大義」とは、祖 国を失ったパレスチナ人の苦難を理解し、その権 利回復を支持することであった。
アラブの大義はいっけん、アラブ民族主義的な 印象を与えるが、実際には、アラブの現場ではイ スラーム的となっていた。たとえば、石油戦略の 大立て者であるサウジアラビアのファイサル国王 は、「奪還したエルサレムで礼拝する」ことを終 生の夢としていた。エジプトでは、この戦争を、 イスラーム暦の断食月に行われたゆえに「ラマダ ーン戦争」とも呼んだ。
次の第2次石油ショックは、1979年のイラン・ イスラーム革命と連動して起きた。この出来事は、 国際社会に対して、イスラーム復興が生じている ことを劇的に示すものとなった。
イランでは、前年から、パフラヴィー朝の国王 に反対する運動が盛り上がっていた。警察や軍を 動員した過酷な弾圧にもめげず、多くの犠牲者を 出しながら、非武装の民衆がデモをし、労働者た ちがストを続けた。やがて、高位の法学者である ホメイニーが指導者として姿を現すと、世界のメ ディアはいずれも、驚きの声をあげた。1902年生 まれの老齢の指導者は、黒いターバンを頭に巻き、 伝統的な長衣を身につけていた。いかにも「神の 革命」を率いるにふさわしく、その分だけ、この 革命が時代錯誤的で、現代に合わない印象を与え た。実際には、ホメイニーはイスラーム法学の知 識に秀でていただけではなく、いつもラジオをか たわらに置いて国際ニュースに気を配る今日的な 反体制運動のリーダーであった。
ホメイニーの指導下で、イランはイスラーム共 和制を樹立し、「法学者の監督」論というイスラ ーム統治の原則を盛り込んだ憲法を採択した。さ らに、革命派の学生によってテヘランのアメリカ 大使館が占拠され、大使館員たちが人質となる事 件がおこった。対米関係は一気に悪化し、革命ま での親米国は、反米国の1つとなった。
革命が起きた1979年は、イスラーム復興にとっ て分水嶺となった。マッカ(メッカ)、マディー ナ(メディナ)の二聖都を擁するサウジアラビア は、イランとならぶ強大な王国と目されていたが、 マッカにおいて武装反体制派が蜂起する事件がお こった。イランのような西洋化・世俗化を推進す る王政ならばともかく、サウジアラビアのような イスラーム国でイスラームの名の下に武装蜂起が おこるとは、誰にも予想ができなかった。 サウジアラビアは、精鋭部隊を投入して武装勢 力を鎮圧したが、その威信は大きく傷ついた。サ ウジアラビア国王は、「イスラーム的でない」と いう批判に応えるために、やがて、称号を「大権 の主(国王陛下)」から「二聖都の守護者」に変 えることになる。また、聖典クルアーンを刊行す る世界最大の印刷所を設立するなど、イスラーム 的な正当性を補強する施策をとるようになった。 後にソ連が崩壊すると、この印刷所から中央アジ アに向けて数多くのクルアーンが送られ、その地 のイスラーム復興を助けることになる。
1979年は、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した ことでも知られる。これは、同国の親ソ政権を守 ることをめざすものであったが、実際には、逆効 果であった。イスラームと愛国主義の諸勢力が強 力な反ソ・ゲリラ活動を展開するようになるから である。彼らはムジャーヒディーン(ジハード戦 士)と呼ばれ、80年代を通じて、イスラーム闘争 を行った。ソ連軍は1989年に撤退を余儀なくされ るが、アフガニスタン介入がソ連崩壊を早めたと も考えられる。
イランでの革命、サウジアラビアでの武装反乱、 アフガニスタンでのイスラーム闘争は、イスラー ム復興の登場を劇的に世界に知らせるものであっ た。しかし、政治的な大事件の蔭で、経済におけ るイスラーム復興の流れ、すなわち、イスラーム 金融も始まっていた。
イスラーム金融
− 6 − − 7 −
のハブ空港を有する商都としてよく知られている が、当時は、独立してわずか4年で、ドバイ自体 も、同国が構成員となっているアラブ首長国連邦 も、全く無名であった。イスラーム銀行は、まも なく各地での設立ブームとなっていく。
イスラーム金融を押し上げた要因の1つが、 1973年の中東戦争の際の産油国の勃興であり、新 たに誕生したオイル・ダラーであることは疑いを 入れない。折からのイスラーム覚醒およびイスラ ーム復興が経済の分野に及んだため、イスラーム 銀行を次々と生み出すことになった。
イスラーム金融は、「無利子金融」と呼ばれた。 しかし、当時の認識では、金融と利子を切り離す ことはできない(そもそも資本主義から利子を排 除することはできない)のは自明であり、利子を 取らない銀行とは、たとえば「開かないドア」の ような言語矛盾と思われた。「単に、利子を手数 料といいかえるだけ」と揶揄する声も聞かれた。 無利子金融を考えるときに、イスラームにおけ る利子の禁止だけに着目することはバランスを欠 いている。利子の禁止は7世紀に聖典が成立して 以来で、新しいことではないし、逆に、西洋の銀 行制度が現代社会に浸透して利子を取るようにな ってから、今さら、前近代のシステムに戻れるわ けではない。したがって、無利子金融の重要性は、 利子とは別の利益を生む契約システムを開発した 点にある。そのために、前近代ではキャラバン貿 易の仕組みであった協業の契約や売買契約であっ たいくつかの方式を、現代的な金融の手法として 再開発したのである。
イスラーム銀行の考え方では、利子とは、事業 の成否が決まらないうちから、借り手が必ず支払 うものとして、貸し手にリスクのないままに定め られているから、不公平とされ、禁じられている。 したがって、あらかじめ一方だけの利益を決めて しまうことなく、双方がリスクを負っていれば、 利益が生じた時に両者で分配することは正当とな る。つまり、事業がうまくいかない時に預金者や 銀行も不利益をこうむる覚悟をしていれば、得ら れた利益は公正となるという考え方である。後は、
出資する事業をよく査定して、必ず利益が上げら れるように努力する、という金融の基本に立ち返 ればよい、ということになる。
30年余経た今日、イスラーム銀行は世界で200 行をはるかに超えた。全世界の金融資産の1%に ようやく達し、年率15〜20%で成長している。途 上国中心であることを思えば、なかなか立派な成 長というべきであろう。
おわりに
イスラーム金融の成功は、イスラームの現代的 な解釈という点にある。それは、現代社会に適合 するイスラームの解釈と同時に、イスラームに適 合する現代的なシステムの創出である。イラン革 命が生み出したのも、同様に、現代政治とイスラ ームをどう適合させるかという冒険であった。 ほかに多くの政治的・社会的な、あるいは思想 的な冒険がなされている。現代にイスラームを生 かそうということ自体が大きな冒険であろう。新 しい冒険は、残念ながら、イスラーム過激派のよ うなマイナス面を生むこともある。しかし、イス ラームは歴史を通じて変わり続けてきたし、これ からも変わり続けるであろう。ダイナミックに変 わるイスラームがこれからどこへ行くのか、それ を同時代的に見守っていきたい。
世界史学習の根っこにあるもの?
「グローバル化が進む現代世界では、さまざま な地域の文化を理解することが求められている」 (「明解新世界史A 新訂版」)という指摘は重要で
ある。確かに世界史は異文化理解の宝庫であり、 世界史の学習はそうした宝物を一つひとつ発見す る時間の旅でもある。
人類は世界各地で環境変化に呼応しつつ固有の 価値を見出していき、多様な結びつきを受け入れ ていった。生徒がそうした文化的な結びつきを発 見し、その多様性に共感しつつ、多角的な見方や 考え方を身につけることに誰も反対はしないであ ろう。それゆえ文化的接触による摩擦や対立を強 調するよりも、さまざまな文化の接触・交流から 豊かに生きる共生社会を学ぶ世界史学習へと生徒 を導いていくことが必要である。
本誌(2007.10)にも指摘されているとおり、中 学校社会科では世界地理や世界史の学習に十分な 時間がかけられず、内容も浅薄なものになりがち である。世界史が必修化した高校でも先般の「世 界史未履修」事件で露呈したように、世界史学習 を生徒も教師も避ける現実があった。こうした事 態について歴史地理教育を担う一人ひとりがおお いに反省すべきであり、世界史教育は21世紀の多 文化世界を生きていく生徒の礎となるべきである。
異文化理解と多文化世界
ヨーロッパ人による大航海時代以降、西欧世界 は世界の一体化という傾向を強め、その結果、非 西欧世界は西欧世界の植民地(=西欧的価値観の 及ぶ世界)へと変質させられていった。
さらに19世紀以降は近代化という名のもとに西 欧流の近代システム(政治・経済・文化システム) へと変容していった。20世紀後半から現在にかけ
てもそれらシステムは変わらず、ますます地球規 模での世界の一体化、いわゆるグローバル化が進 展したのである。
しかし、こうしたグローバル化への反発は強い。 すなわち現にあるアメリカ合衆国という国家の文 化・考え方への画一化(文明化)ととらえ、グロ ーバル化の動きが違った価値の世界に生きる人々 を押し殺そうとするように感じ、抵抗する動き(反 グローバリズム)もある。こうした反発の一例と して2001年の「9・11」同時多発テロという衝撃 的事件があったともいえる。
抗しがたいくらいのグローバル化という大きな 流れがある状況で、現代世界にはさまざまな地域、 民族、文化があって、それぞれの価値を持って生 活している、あるいは生きているのだという、多 様性を認め合い、個人を守る世界=多文化世界の 構築をめざす考え方がある。
授業展開
異文化理解・共生に関してはそれぞれの時代の 学習単元の中で扱えるものであり、あえてこれを テーマに授業を展開することはしない。この論文 では、異文化理解・共生についてどのような観点 で授業を展開したらよいかの私見を述べたいと思 う。誌面の関係で、大航海時代以降を取り扱うこ とにする。また、宗教は文化の形成には重要な要 素であるが、あえて論究していないことをご寛恕 いただきたい。
物の出会いと新たな生活文化の形成
大航海時代のヨーロッパ人によるアメリカ大陸 征服の結果、先住民は富を収奪され、文化を破壊 された。生徒はこうした強者による文明破壊には 敏感である。授業ではラス=カサスの『インディ アスの破壊についての簡潔な報告』を引用し、文 明への無理解な行為への告発を紹介しながら、世
世界史A 再考 指導計画立案のコツ
異文化理解・共生を基軸とした世界史授業
− 8 − − 9 −
界の一体化の一面を語るようにしている。 次に「コロンブスの交換」の説明をする。ヨー ロッパ人がアメリカ大陸にもたらしたキリスト教 や疫病と交換に、ヨーロッパに伝えられたとうも ろこしやじゃがいも・トマトなど生徒にもなじみ がある食材が、アメリカ大陸原産であることを確 認させる。それら食べ物がヨーロッパの人々を飢 餓から救ったことを説明するのである。
またヨーロッパ人の持ちこんだインフルエンザ で多くの先住民が死亡したこと、風土病の一つで あった梅毒がヨーロッパに持ちこまれ、瞬く間に 世界に広まって日本にも伝わったことなども説明 する。グローバル化した現在なら、なおさら感染 性の高いウィルスが大流行する可能性があること も付言している。
アンデス山脈の冷涼なところが起源のじゃがい もは生育期間が短く、寒さに強い作物である。し かし、じゃがいもがすぐに有用な食べ物としてヨ ーロッパで栽培されたのではない。ヨーロッパ各 地に表のようなエピソードが伝わっている。
イングランド 芋という概念がなく、 葉や茎が
食材で、中毒を引き起こした。
アイルランド 外見の不格好さから食されず。
イングランドのアイルランド征 服後、 じゃがいもが貧困なアイ ルランド人の食べ物となった。 1840年代にじゃがいもの伝染病 が広がって飢饉が深刻、 アイル ランド人のアメリカへの移民が 急増した。
フランス 一般に「悪魔の作物」 と考えら
れ、 ヴェルサイユ宮殿の庭園で は花として鑑賞された。
ドイツ 冷涼な気候のプロイセンで、 フ
リードリヒ2世自らじゃがいも を食べ続け、 人々にじゃがいも 栽培を奨励した。
次の事項は授業で確認しておきたい。
○ 地理的理解→じゃがいもは冷涼な気候を好む作 物。痩せ地でも育つ作物。ヨーロッパでの作付
けが可能。
○ じゃがいもへのイメージ→地中にできる悪魔の 作物。不格好で毒がある。鑑賞用植物(花)。 ○ 貧乏人の食べ物→貧しいアイルランド人は小麦
の代わりにじゃがいもで人口を増やした。 ○ 皇帝による栽培奨励→その結果じゃがいもがド
イツ料理に定着し、食文化を豊かにした。 食べ物の出会いを通して生徒の「食」への関心 を高めることにもなり、生活・文化を理解するこ とへも発展していくであろう。日本史の授業でも、 じゃがいものかわりにさつまいもを話題にして生 活・文化への関わりを述べている。
トマトやとうがらしなど作物に関わる栽培や料 理法について生徒に調べさせてみよう。さまざま な発見が生徒から報告されるであろう。
人との出会い
貧困にあえぐ人々、抑圧に苦しむ人々などさま ざまな人々が求めた「新天地」、いかに困難な船 旅であってもたどり着きたい新世界がアメリカで あった。北アメリカへの移民は、通常4つの時期 に歴史区分される。
入植・植民地時代 (17〜18世紀)
イギリス・北アイルランド・オ ランダなどヨーロッパ人 1790年のアメリカ人口 白人 イギリス人60%
アイルランド人7.8% ドイツ人7%
オランダ人2.6% 黒人 20%
旧移民 (〜1880年)
ドイツ・スカンディナヴィア・ 南アイルランド(西・北欧方面) 1870年の民族構成
ドイツ移民30%(294万人) アイルランド移民28%(276万人) イギリス移民19%(188万人)
新移民
(1880年〜第二 次世界大戦)
イタリア・ユダヤ・スラヴ(東・ 南欧)
新新移民 (〜現在)
アジア・ラテンアメリカ 難民
アイルランドの「じゃがいも飢饉」によって多 くのアイルランドの人々がアメリカをめざしたこ とはよく知られたことである。アイルランドから のアメリカへの移民を、異文化理解を踏まえて考 えてみる。
① じゃがいも飢饉前後─アイルランド農民はなぜ 貧しかったのか。
・イギリス人地主の支配下での小作農の地位。 ・農耕から牧畜への変化で失業。
・ 1840年代のじゃがいも飢饉の結果、飢餓・病 気で100万人が死亡。
→ アイルランド農民の貧困化が人口の流出、 移民への圧力となった。
②アメリカでの生活─どのような職業についたの か。
・ 低賃金の雇用(非熟練労働、炭坑夫、沖仲仕・ 土木作業など)
・ 都市のスラム街に移り住む(アルコール中毒、 喧嘩、犯罪の都市に生きる)
③激しい差別─どのような差別を受けたのか。 ・ アイルランド人への白人からの差別(イギリ
ス系WASP)
→ 貧しい生活・異様な風習。イギリスでの非 征服民としての偏見。カトリック教徒であ ることへの嫌悪。
④ アイルランド人移民の民族的自覚の高まりはあ るのか。
・ カトリック教の教会・教区での組織化。多彩 な伝統的祝祭の開催、母国語の新聞。自警団・ 消防団など社会組織の結成。
・南北戦争で民兵を組織化し、戦争に協力。 → 彼らはアメリカの「まだ白人ではなかった」
が、徐々にマイノリティ白人として勢力を 拡大していった。
こうした民族的自覚による社会的上昇に反し て、同じように差別に苦しむ黒人に対しては、 労働現場での競合もあって、黒人への敵意を増
し、黒人排除へと傾いていった。 ⑤アイルランド移民女性の立場
アイルランドからの移民の半分は女性であり、 とりわけ若い独身女性が多かった。飢饉の時代、 手工業の衰退で仕事を失ったアイルランドの女 性はアメリカに移民し、アメリカの上・中流階 級の家庭の家事手伝いとして働いた。家事手伝 いという仕事は住居と食事つきであり、アメリ カ人の礼儀作法も身につけることができたので、 アメリカ社会への適応が可能となった。
彼女たちが働いて得た賃金はアイルランドの 故郷へと送られ、やがて家族を呼び寄せること になり、さらなる移民の増加を引き起こした。 ⑥アイルランド人の成功
・英語が話せること。
・ アメリカ市民になるにつれ政治的・経済的に 成功を収める人々の台頭。
民主党や労働組合への進出により1920年代に アイルランド系アメリカ人は経済的成功をおさ めた。またラジオやメディアの発達をうけてア イルランド文化の再生を促した。
・ 1960年のアメリカ大統領選挙にアイルランド 移民出身のケネディの当選。
アイルランド移民がアメリカ社会で支配層か ら認知を受けるまでに被った差別、自らが上昇 する過程で引き起こした黒人への差別、自文化 への自覚と自文化の再生など、人々の移動と出 会いにさまざまな曲折がある。こうして得られ た関係性を手がかりに社会のあり方を見つめる ことが肝要である。
留学生の登場
− 10 −
その一方で日本の国粋文化を再評価していく動 きもおこった。岡倉天心のように日本文化を紹介 し、インドの文学者でアジア最初のノーベル賞に 輝いたタゴールと交際した人物も現れる。 ②日本への中国人留学生
日清戦争後の1896年、13名の清朝政府派遣の中 国人留学生が日本に留学し、中国人留学生は下表 のように増加した。(『中国人日本留学史』)
年度 留学生数 年度 留学生数
1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908
280 500 1,000 1,300 8,000 8,000 7,000 4,000
1909 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916
4,000 不明 不明 1,400 2,000 5,000 不明 4,000
表の留学生数から読みとれることを生徒に問い かけてみよう。
・生徒は日清戦争を手がかりに戦後の中国政治の 動向を復習することになる(中国の半植民地化・
戊戌の変法・義和団事件)。
・日露戦争中の1905年に留学生が急増しているこ とから、東京で結成された中国同盟会に多くの 中国人留学生が参加していたことに気づく。 さらに生徒にはなぜ留学先に日本を選んだのだ ろうかと問いかけてみよう。生徒からは、①地理 的に近く費用が安い、文字・風俗習慣が似ている、 ②日本の近代化に学んで改革への意志と中国の危 機回避の手立てを模索する、③留学するが一部知 識人にとっては自己の進路に有利に働くなどの意 見が出てくるだろう。事実留学生は日本で幅広い 分野の勉強をし、新聞や雑誌を創刊した。また、 数多くの日本の書籍を翻訳して中国に紹介したり することで中国の近代思想の発展に貢献した。中 国人留学生にとり勉学が容易であった理由は、日 本が漢字文化圏に属し、明治時代は漢文による読 み下し文が主流で、外国の参考書・専門書が漢文 調の翻訳のため内容を理解しやすかったからであ
る。日本人が苦労して外国語から翻訳した漢字用 語を、中国人留学生は中国へと持ち帰った。それ らの用語が今でも使用されているのである。
英 語 日本語
politics economy law right civilization history
政治 経済 法律 権利 文明 歴史
* 留学生は政治、経済、軍事 などの専門分野への関心
が強かった。魯迅は医学
から文学を志すようにな った。
「明解新世界史A 新訂版」p.135より
中国人留学生は、日本を介して西欧文明を学ん だ。また魯迅のように中国の新文化運動において 白話小説『阿Q正伝』を発表し、抑圧を受け入れ る人々の心理をえぐりだした文学者も留学生なの である。
結びにかえて
日本の高校に3か月以上留学した外国人は2006 年度に約1,890人に上り、過去最多となった(日 本の高校生の外国留学は約3,900人。行き先は45 か国)。また、英語以外に外国語を学んでいる高 校は2,000校余りで、異文化交流は身近になって きている。
産業界では日本企業のグローバル展開が加速し ているが、日本の現地法人は「凧の糸が切れた状 態」に陥りがちだという。それは世界の人々と深 く意味のあるコミュニケーションができるビジネ スリーダーが育っていないからだといわれる。そ れゆえリーダーには日本の歴史や文化に通暁する とともに、世界の人々と共感できる世界観や歴史 観を持つことが重要だと中谷巌氏(経済学者、多 摩大学学長)は語っている。
企業にとっても異文化を理解し、多様性を認め 経営に生かすこと(ダイヴァーシティ・マネジメ ント)が基本といえるならば、異文化理解のうえ に共生を実現できる多文化世界が望ましい世界で あろう。
はじめに
大阪大学では、2005年10月より、月例会形式で 大学教員・院生・高校教員はじめ歴史教育関係者 が集まり、幅広いテーマについて報告・討論をお こなう「大阪大学歴史教育研究会」(代表・桃木 至 朗 大 阪 大 学 教 授。http://www.geocities.jp/ rekikyo/)を継続してきた。ここでは、会発足当 初から院生としてほぼ毎回参加し、途中から事務 局の一員として運営にかかわってきた筆者の視点 から、当会創立の経緯、現在までのあゆみ、狙い や取り組み内容を紹介し、会の意義や長期的な目 標などを述べてみたい。
1.創立の経緯と現在までのあゆみ
大阪大学文学研究科では、2003年度から2006年 度にかけて文部科学省21世紀COEプロジェクト 「インターフェイスの人文学」の一環として、毎夏、
高校・予備校、教科書出版社などの歴史教育関係 者が一堂に会し、最新の研究成果をかみくだいて 紹介する講義を聞き、討論を行う全国規模の高校 歴史教育の研修会を開催するなど、高大連携の先 駆的な取り組みを続けてきた(詳細は本誌2005年 4月号、2007年1月号およびhttp://www.let.osaka-u. ac.jp/toyosi/main/seminar/index.html)。そんななか、 大阪大学教員と高校教員との間で、年1回の大会 だけではなく、月例会のようなかたちでの継続的 な活動の場が必要であるという認識が共有される ようになった。
このような流れのなか、2005年10月、大阪大学 にて、夏の大会で協力関係を深めた大学教員と高 校教員を中心メンバーとする「歴史教育研究会」 (以下、研究会)が発足した。これは夏の大会と
は異なり、固定メンバーを中心にセミ・クローズ ド方式で継続的な議論・共同作業を進めていくこ とを目的としたものである。毎月、大阪大学文学
部内の会議室・講義室に常時30人程度(多いとき は40人超)の参加者が集まった。そのなかには高 校教員志望の、または夏の大会を通じ歴史教育に 関心をもった院生・学部生も混じっていた。 そして2006年度より、本研究会が大阪大学にお ける文部科学省「魅力ある大学院教育イニシアテ ィヴ(IAE)」の授業のひとつとして設定され、 大学院教育の一環と位置づけられることになる。 このとき、正式に日本史・東洋史・西洋史研究室 より院生各1人がRA(リサーチ・アシスタント) として事務局を構成し、大学院修士課程および博 士課程の学生が履修生として1年間通して参加す るという現在の体制が整えられた。その後、本研 究会は文学研究科の「歴史学方法論」演習として 設定され、今日に至っている。
2.狙いと取り組み
(1)研究会の狙い
研究会の狙いは、さまざまな機会に示されてき た(たとえば代表の桃木教授が、参加メンバーに 対してはガイダンスの折に、大学関係者には COE、IAE報告書を通じ、より広くは新聞各社の インタビュー記事などを通じて発信してきた)。 具体的な目的は端的にいえば、語句や事項の暗記 でなく「像を結ぶ」、「背景がわかる」高校歴史教 育の材料の提供、そのための教科書や資料集・指 導書等の検討である。本研究会の新しさは、従来 大阪大学が取り組んできた高校歴史教員のリカレ ント教育を、研究者養成を含む大学院教育と結び つけた点にある。なぜ、いまこうした新しいかた ちの連携が必要なのか。
(2)あたらしい「かたち」の取り組み
高校教員が、歴史の授業に新しい内容や方式を 取り入れるための学習にあてる時間は不足しがち である。したがって、年1回の単発的な取り組み だけでは、学んだことを授業に反映させることは
高大連携のあたらしいかたち
大阪大学「歴史教育研究会」の射程
− 14 − − 15 −
容易ではない。また、新しい歴史教育を実践して いくためには、現場の実情と照らし合わせながら 検討を繰り返し、状況に応じて改善を重ねる必要 がある。そのため、わが歴史教育研究会では、大 学教員・若手研究者の講義とあわせ、高校教員の 実践報告の機会を設けている。
今年度も、第14回の「時代が見える歴史の授 業─『ジャズエイジと進化論裁判』から見る20年 代の合衆国─」、第15回の「16〜18世紀東南アジア・ 海域世界授業試案──主体的でしたたかな実像に せまる」など、「像を結ぶ」、「背景がわかる」授 業の手本をしめす報告がなされた。
また第16回から、研究者側も専門分野に閉じこ もらず、高校歴史教科書の記述をふまえた最新の 研究動向を報告するという方向性が強く打ち出さ れた。第17回の「遣唐使廃止」と「国風文化」と が結びついた古い枠組みを克服する新たな研究動 向を紹介した「唐滅亡前後の『東アジア』の交流
と日本列島」は、その方向性を確固たるものにした。
一方、「山川詳説世界史Bの全分野を授業で教 えて─マニュアル化という視点からの問題提起 ─」(第17回)は、全範囲を教えないことが前提 となってしまっている世界史Bの現状の問題点を 指摘し、全範囲を教える全国的「マニュアル」作 成の必要性を提言した。
以上のような今年度の動向は、本研究会の活動 が着実に新たな段階に向けて前進していることを 実感させてくれる。驚かされたのは、日々多くの 職務に追われる高校教員が、通常の授業のなかで 工夫し、生活の身近なところから歴史上の事柄を 実感させる授業や、歴史の背景や流れを理解させ る授業の試みを実践していることである。本研究 会が掲げる目標が決して「絵に描いた餅」でない ことを実証する高校教員の努力には頭が下がる。 高校教員の勤務先の実情は様々であり、参加する 教員同士ですら現状変革の方法に対する意見を異 にする場面がみられる。だが、やはり、世界史B の用語を精選すべきこと、世界史Aの教えかたを 確立すべきこと、新しい教科書の枠組みや内容に 即した副読本・副教材が必要、など取り組むべき 緊急課題についての共通認識はかえって深まって いった。そのような共通認識をもとに、本研究会 では具体的な取り組みをはじめている。
歴史教育研究会では、午後5時に本会が終了し た後、普段交流する場の少ない他の都道府県の高 校教員同士および大学教員・院生らが懇談する時 間を設けていたが、2007年度より、その時間を活 用して、具体的な副教材作りの試みが始められた。 3人いるRAがヘッドとなり、「日本史」、「中央ユ ーラシア史」、「グローバルヒストリー」の三つの 研究班に分かれ、それぞれの担当分野で必要な副 教材は何かを議論し、具体的な作業に着手した。 「日本史」班は、いちはやく「歴史の授業で使え
るコラム集」を発表し、先陣をきった。「中央ユ ーラシア史」班は、中央ユーラシア史と東アジア 史共通の時代区分の可能性を探り、15世紀以降の 「世界システム」を主軸とするグローバルヒスト リーと対置した、前近代ユーラシアの「異文化間 交流」を主軸とするグローバルヒストリーを描く 構想を掲げた。「グローバルヒストリー」班は、 本研究会に参加する日本史・東洋史・西洋史の院 生を対象とする「グローバルヒストリー・世界シ ステム・世界史」読書会(詳細はhttp://www. geocities.jp/rekikyo/PGseminar) を 主 催 し、 グ ローバル化への歩みを大きな柱とする現在の学習 指導要領と世界史教科書の枠組み自体を再検討す る取り組みをはじめている。ここに、院生たちに 歴史研究の最新の動向を高校教育に結びつけてわ かりやすく紹介する機会を与え、鍛錬を行わせる という、あらたな「かたち」が、具体的に現れて きた。そしてこれは、次に述べるように、広い意 味での歴史業界に大きな変革をもたらす可能性を 秘めた「かたち」なのである。
「きめ細かさと世界の大半をカバーする点で世 界一の日本の学界」でありながら、現在、日本歴 史学に対する世間の風当たりはきつい。その理由 を、桃木教授は次のように分析する。まず、学問 そのものとして従来の歴史学には扱う対象や方法 の面で限界があり、行詰まりをみせていること。 そして、それを打開しようとする新しい歴史学が 研究対象・方法を多様化させた一方で、全体を見 通すグランドセオリーは消失してしまい、研究領 域の細分化とあいまって歴史学全体が見えにくく なっていること、などである。また近年、歴史研 究に従事する者に対し、個別テーマの歴史全体と の繋がりや、社会における研究の意義が鋭く問わ れるようになってきている。そうした状況のなか で、高校歴史教育と大学院教育の連携という独自 の高大連携のかたちを体現する本研究会が担いう る役割はけっして小さくない。
3.会の存在意義と長期的目標
じつは、会の世話人となっている大学教員の複 数が、かつて予備校などで世界史を教えた経験を もつ。その経験が現在でも、教養課程などで歴史 の大きな流れを教えるのに役立っているという。 世界史をまんべんなく教えるということは、必然 的に大きな枠組みのなかで歴史を捉える知的作業 を伴う。巨視的な歴史論を展開し、日本の学界を リードする影響力のある歴史学者が、かつてその ような場で鍛錬を積んだことも、しばしば耳にす る。ところが現在そのような鍛錬の機会は激減し ている。また、日本の歴史研究者養成のシステム には、理論や歴史観といった大きな世界を論じる 能力を育成する仕組みはなく、個人の研鑽に委ね られている。歴史分野の院生が、自身の拠って立 つ学問の根本について深く考えるきっかけとなり うる他学科のゼミでの研鑽の機会も多くはない。 この面での放任主義(緻密な実証や文献精読の鍛 錬の面では放任ではない)が実績至上主義とあい まって、自分の狭い専門以外のことをうまく語れ ない歴史専門家を生み出しているのも事実であろ う。こうしたことも現在の歴史学の立場を微妙な ものにしている一因となっている。社会における 歴史学の位置を正しく把握し、自分の研究を社会 にどう還元していくのか、プロの歴史研究者とし
てつねに問いただす姿勢を涵養することは、歴史 学全体の今後にかかわる緊急の課題である。 そうしたなかで、歴史教育研究会が独自の「他 流試合」の場を提供していることも見逃せない。 研究会では、日本史・東洋史・西洋史と専門分野 の異なる院生のほか、大学教員、高校歴史教員(自 身の研究テーマをもち、勤務の傍ら研究を行う教 員も多い)が、その日の報告内容や関連する問題 についてしばしば意見をぶつけあう。そのような 議論が会終了後の懇親会まで白熱することがしば しばある。本研究会における高校教員は、たんな る講演の聞き手、聴衆ではない。院生や若手研究 者にとってよき師であり、するどい問いかけを浴 びせる手ごわい論敵でもある。また異なる研究室 の院生が互いの専門分野の方法論について意見を ぶつけあうこともしょっちゅうある。
そして実はこれら、一見周辺的に見えることが 非常に重要な意義をもつと考えるのである。現今 の歴史教育を取り巻くさまざまな問題を解決する ためには、もはや大学教員だけの力でも、高校教 員だけの奮闘でも対処しきれない。大学院時代に、 現場の高校教員と交流し、社会における歴史学の 存在意義、価値について熟考し、歴史研究者の仕 事と歴史教育の現場との関係を知悉し、歴史の一 般社会における受けとめられかたについて、鋭敏 な感覚を備えた研究者・教員を含む幅広い人材を 生み出し、社会に送り出していくことは、歴史に かかわる業界全体の長期的な戦略からみて、大き な利益となろう。
くわえて、日本の歴史学はパラダイムの面で多 様化するとともに、現在、大きく変容しようとし ている。そして、そのような変容を受けて、最新 版の教科書や大学の入試問題でも、一国単位の政 治・外交・経済中心の叙述からグローバルな歴史、 「世界システム」、世界観など主観的認識の問題や
− 16 − − 17 −
はじめに…単元の構成を考えて
絶対主義時代の西欧諸国と大航海時代の流れを うけた貿易活動の単元では、まず各国別に国内状 況を説明していかざるを得ないため、アジアや新 大陸への進出とヨーロッパ情勢との関連性を理解 させることは難しい。そこで今回の授業案では、 各国別の説明を終えたあとの時間を想定し、横に つなげる授業展開によって既習事項を取り上げな がら、角度を変えて整理することをねらってみた。 既習事項の整理では、経験上補習を想定して考 えれば、新たな内容(些か専門的な事項をも含む) も含め、具体的なデータや事実を織り交ぜること によって、生徒の理解を深めることが可能であった。 そのため、本稿の構成は一般的な世B授業案の 紹介という体裁をとらず、「教材研究①②③」の 節を立てて、授業で用いることに適する専門的内 容を紹介した。「専門的な内容が、必ずしも高校 生にとって難解であるとは限らない」という授業 案になれば幸いである。
1.教材研究①「17世紀の危機」
1954年に英の歴史家E.ボブズボームによって 提起された「17世紀の危機」とは、16世紀の価 格革命と人口増加が17世紀に停止したことによ る経済的な停滞と、神聖ローマ帝国での三十年戦 争や仏のフロンドの乱、英のピューリタン革命な ど、各国の政治的な混乱が相次いだことを、一つ の時代相として捉えることができるか否かで議論 となっている事項である。ボブズボームは16世 紀の発展をあくまで封建制度の枠中での出来事=
封建的生産関係の中での発展であるため、自ずと 限界があると考えた。
また、H.トレヴァー=ローパーは、危機の存在 を認めながらも、16世紀の発展を支えたものが絶 対王政の奢侈な宮廷であり、絶対王政を支える官 僚と常備軍もそれ自体が莫大な支出となるため、 王室は財政改革か租税強化のいずれかが必要と なったという。したがって、トレヴァー=ローパー は危機の政治的な現象である英国の市民革命の発 生を、改革を怠った英王室の政策に求めている。 近年では経済的な側面に偏ったこれらの見方 に、別の角度からの見解も示されており、「人口 の停滞という点を除けば17世紀のヨーロッパ経 済全体に、危機と呼べるような著しい収縮があっ たという証拠はない」という記述も見られる(大 久保桂子・『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開 花』中央公論社 1997年)。
一方、教科書でしだいに取り上げられてきた「近 代世界システム論」では、16世紀から北西ヨー ロッパを核とする世界的な分業体制にあり、17 世紀に入るとそれが拡大していかなくなったとい う点に「危機」を認めている。具体的には、アメ リカ大陸から流入する銀の量の減少をはじめ、オ ランダ・イギリス・フランスの海外進出はスペイ ン・ポルトガルに代わっただけであり、新たな地 域での展開ではない。この状況は「中核諸国が分 割すべきパイそのものが拡大しなくなったのであ り、必然的に中核地域においては、パイの分け前 をめぐる競争、つまり中核国としての生存競争が 始まった。競争の道具となったのは、 ほかでもな い《重商主義》と呼ばれる一連の保護政策であっ た。」と川北稔は明解な説明をしている(『ヨーロッ パと近代世界』(財)放送大学教育振興会 2001
タペストリー活用の授業案
17世紀の危機と列強のアジア進出
神戸市立六甲アイランド高等学校 鵜 飼 昌 男
タ
ペ
スト
リー
年)。この流れを用いると、17世紀の危機の中で のオランダの発展は説明しやすいのではないだろ うか。
高校の授業で「17世紀の危機」を取り上げる 場合には、オーソドックスに各国の絶対主義体制 を解説した後に、17世紀全体を概観するような
1時間を設け、西欧経済史の「小麦価格グラフ」(岩
波講座新版『世界歴史』16 1999年 所収 近 藤和彦「近世ヨーロッパ」掲載)を使って、発展 問題的に「危機」と捉えられるような現象を確認 する授業が考えられる。グラフの読み取りは知識
の柔軟な活用のためのトレーニングとなるので、 些か高度な問いかけになろうかと思われるが、年 間数回はセンター入試対策としても、チャレンジ してみる価値はあろう。
2.教材研究②「オランダ東インド会社」
オランダ共和国の発展を解説する場合、すぐさ ま東南アジア貿易を持ち出すことは、あまりに一 面的である。スペイン・ポルトガルばかりでなく、 同時期に海外貿易に乗り出している英・仏との競 争に勝つ背景を述べなくては、単なる事実の切り 貼り授業に陥りやすい。本節では16世紀オラン ダの発展からたどって、17世紀の発展要因を具 体的に取り上げてみた。
まず、発展の背景となったものはヨーロッパ内 でのバルト海貿易の利益とそれを支えた海運業の 隆盛や北海の鰊漁業であった。バルト海の穀物取 引の70%近くを支配したばかりでなく、大型の 新造船(フライト型船)の導入によって輸送量を 上げ、乗員を1/3節約するなど他国との競争力 を確実につけた(石坂昭雄「オランダ共和国の経 済的興隆とバルト海貿易(1585〜1660)─ズント 海峡通行税記録の一分析─」日蘭学会編『オラ ンダとインドネシア 歴史と社会』山川出版社 1986年)。この経済力がオランダ東インド会社 にも注ぎ込まれ、資本金の大きさ(英の10倍以上) や継続的な運営方針(英は1回ごとに起債する方 式)などによって、他国の同会社から抜きん出る 存在となった。
東アジア貿易への進出のきっかけは、スペイン との独立戦争の過程で、スペインがリスボン寄港 を禁じたことにより東方商品の入手が困難となっ たため、1594年アムステルダムに設立された「遠 国会社」の活動で始まる。そして諸社の競争激化 による産地での価格の高騰とヨーロッパ市場で の下落を防ぐため、1602年「連合東インド会社」 の設立となった。
連合東インド会社が目をつけた地域は、ポルト ガルが進出していたモルッカ諸島である。そこで 最新世界史図説
− 18 − − 19 −
はポルトガルの一方的な 香料買い付け方式やカト リックの布教に対して、 原住民たちは反感を抱い ていた。オランダはそれ を利用しながら、ポルト ガル王室による独占貿易 形態(封建的な旧弊を組 織内に残す)の効率の 悪さや一貫性のなさを、 「十七人会」を頂点とす
る徹底した利潤追求シス テムによって圧倒して いったのであった。 しかし、オランダのラ
イバルはポルトガルだけではなかった。それは同 時期に東インド進出を果たした英東インド会社で あり、この会社は資本金は小さいものの本国の海 軍力が強力なバックアップとなっていた。外交的 にも独立戦争中のオランダにとっては得難い同盟 国であったため、英東インド会社と連合東インド 会社との競争は、非常にデリケートな問題を含ん でいた。当時の連合東インド会社の報告書では、 英船を「まるで馬の虻のようだ」と嫌い、英人を「偽 りの友人」と呼んでいることからも伺われよう。 したがって、このような蘭×英の東インドをめ ぐる競争は、西欧の政治情勢、とくにオランダ独 立戦争の推移と連動して考える必要がある。 西欧の政治情勢で鍵となる事項は、1609年ス ペインとオランダとの12年間の休戦条約である。 東インド方面に関してオランダは、ジャカルタに 翌年100m2ほどの狭い根拠地(後のバタヴィア) を得ているが、注目すべきはこの休戦が切れる 1621年前後の動きである。1617年にヤン=ピー テルスゾーン=クーンという人物が東インド総督 に就任して対英強硬路線を推進していたが、オラ ンダ本国は支援国である英との関係悪化を避ける ために、1619年両国東インド会社の業務提携と もいうべき協定を結び、英との敵対行動を止める よう指示していた。その中で1621年スペインと
の戦争が再開し、2年後の1623年に有名なアン ボイナ事件が位置するのである。この事件によっ て、当然英蘭東インド会社の協定は決裂し、英の 世論は反オランダ的となったが、1625年オラン ダに親近感を持つチャールズ1世の即位によって 反オランダムードは低下し、事件は東アジア貿易 にからんだ限定的なものとして扱われた(1654 年第1次英蘭戦争での講和で、賠償金の支払いに よって処理された)。植民地活動と西欧諸国の政 情とを横につなげるエピソードとして使えるので
はないだろうか。(永積昭『オランダ東インド会社』
近藤出版社 1971年)
3.教材研究③「17世紀の長崎」