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為替レートと国際収支――プラザ合意から平成不況のマクロ経済

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為替レートと国際収支

――プラザ合意から平成不況のマクロ経済

河合正弘 高木信二

要 旨

日本経済は 1980 年代後半に資産価格バブルを経験したが,それは 90 年代 初めに崩壊し,長期に及ぶ平成不況に陥った.10 年間に及ぶ長期停滞から 脱却したのはようやく 2000 年代初めになってからである.この間,円の為 替レートと経常収支は何度かの変動の波を経験した.為替レートは,プラザ 合意の 1985 年から 88 年に向けて円高となり,1995 年に瞬間的に 1 ドル 80 円を割る超円高を経験し,2000 年には 3 度目の円高となった.経常収支は 一貫して黒字を計上したが,黒字増大と減少の波を何回か経験した.

(2)

る.

(3)

1

はじめに

本稿は,1980 年代後半の「バブル期」から平成の「失われた 10 年」の末 期までに焦点を当て,日本のマクロ経済状況を為替レートおよび国際収支の 観点から評価しようとする試みである.

日本経済は 1980 年代後半に未曾有の資産価格バブルを経験したが,90 年 代初めにバブルが崩壊し,長期に及ぶ平成不況に陥った.2000 年代初めに ようやく平成不況から脱却したが,2008 年の世界金融危機の影響を受け, 再び深刻な景気後退の状況にある.この間,日本の為替レートと経常収支は 波を打つように変動した.為替レートは,プラザ合意の 1985 年から 88 年に 向けて円高となり,1995 年に瞬間的に 1 ドル 80 円を割る超円高を経験し, 2000 年には 3 度目の円高となった.経常収支は,一貫して黒字を計上した が,黒字幅は大きく増減した.黒字のピークは 1986 年,1993 年,1997 年, 2007 年となったが,現行の世界金融危機で経常収支黒字は大幅に縮小し, 赤字になる可能性もある.

この時期は,為替レートや経常収支の大幅な変動はどのような要因で起き たのか,為替レートは経常収支調整機能を果たしたのか,バブルの生成,平 成不況の深まり,平成不況からの脱却に為替レートはどのような役割を果た したのか,為替市場介入は為替レートに影響を及ぼしたのか,為替政策と金 融政策はどのような関係にあるのか,円高に抵抗力のある経済体質にするに は何が必要なのか等々興味深い問題点を提供している.

(4)

プラザ合意後の円高,為替レートと経常収支の関係,内外価格差の問題,円 高と産業構造調整の関係について述べる.第 5 節の「為替政策の将来」では, 円と東京市場の国際化,日本の外貨準備に関する政策,為替政策と金融政策 の整合性,円高と経常収支黒字の関係,アジアとの政策協調の可能性につい て将来展望を行う.第 6 節は「まとめ」である.

2

為替レートと国際収支

2.1 為替レートの動向

1980 年から直近に至る 30 年近い期間を通じて,円の為替レートは大きく 変動してきた.全体的な趨勢としては,名目円レートは大きく増価してきた

といってよい(図表 7 1).まず,円の対ドルレートで見ると,バブル期は円

がドルに対して大幅に増価した時期であった.1980 年代の前半,円は 1 ド ル 200 円強から 250 円強にまで減価した.しかし,1985 年のプラザ合意を 機に,円はいっきに増価し,1987 年には 1 ドル 120 円の水準に達した.そ の後は一時的に 140 円以上の水準にまで減価した時期もあったが,平均で見 ると,2008 年にいたるまでおおむね 100 円から 130 円の範囲内で変動して

320 300

250

200

100 150

90

1980 85 90 95 2000 05 08(年)

円/ユーロレート 円/ドルレート 図表 7 1 円の対ドル,対ユーロ為替レート(年平均)

注) ユーロが導入された 1990 年以前の時期は,円の対ユーロレートの代わりに対 ECU レートが 用いられている.

(5)

いる.

円の対ユーロレートを見ると(ユーロ導入以前の時期には対 ECU レー ト),1980 年代と 2000 年代の 2 つの時期で円の対ドルレートの動きと異 なっていることがわかる.1990 年代には両者はおおむねパラレルに動いて いる.第 1 の 1980 年代の時期には,1980 年から 85 年にかけて円はドルに 対して安定的に推移していたが,ECU に対しては大幅かつ急激に増価した. しかし 1985 年のプラザ合意後は,円はドルに対して大幅に増価したものの, ECU に対して若干切り上がっただけである.第 2 は,2003 年以降の時期に おいて,円はドルに対して比較的安定的に推移したものの,ユーロに対して は大幅な円安となった.2000 年から 2006 年にかけて円はユーロに対し約 60%切り下がったことがわかる.

1980 年代の前半,政策当局者の間では,基礎的経済要因に照らして見る と,ドルは他の主要通貨に対して過大評価され,円はドルに対して過小評価 されているという見方が支配的だった.その是正を図ろうとしたのが 1985 年 9 月のプラザ合意である.バブル期を通して見られた円の趨勢的増価は実 は 1985 年 2 月ごろから始まっていたが,プラザ合意によって増価のペース は加速した.円ドルレートはプラザ合意直前には 1 ドル 240 円前後の水準に あったが,1 カ月後に 210 円台,2 カ月後に 200 円台と急激に円高,ドル安 が進んだのである.1980 年代後半のバブル期の直前に大幅かつ急激な円 レートの増価が起きたことは,円高ないしそれへの政策対応がバブルの生成 に重要な意味をもった可能性があることを示唆する.

(6)

ジで変動したのである.ただこの間,2000 年に円は対ユーロで 1 ユーロ 99 円という歴史的な円高を記録している.

日本の全般的な対外経済関係を考慮した実効ベースで名目円レートを見る と,別な視点が得られる.図表 7 2 は,IMF,BIS,日本銀行による名目実 効円レートをプロットしたものであるが,これら 3 者の動きはおおむねパラ レルになっている.すなわち,円の名目実効レートは 1980 年から 1995 年ま でほぼ一貫して(1989 90 年の円安の時期を除いて)増価している(図表 7 1 と異なり,値の上昇は増価,下落は減価を意味する).また 2000 年にも 円高になっており,それ以降は緩やかな円安基調になっていることがわかる.

次に,内外の価格の変動を調整した円の実質実効為替レートを見ると,

2000 年代に入ってさらに注目すべき変化が起きていることがわかる(図表

7 3).実質実効レートは,名目実効レートと同じように,1985 年のプラザ

合意後 1988 年に向けて急激に増価した後 1989 90 年に一時的に減価したも のの,その後は 1995 年の超円高期までほぼ一貫して増価した.1995 年には 1980 年の水準に比べ 60 80%の実質円高になったのである.その後減価と増 価の局面を経るが,2000 年の円高のピーク後は 2007 年まで一貫して減価を 続けるのである.実際,2007 年の円の実質実効レートは,プラザ合意前の 水準にまで下落したことが見て取れる.1990 年代の実質実効ベースでの円

(年) 300

280 260 240 220 200 180 160 140 120 100

1980 85 90 95 2000 05

BOJ指数 BIS指数 IMF指数

図表 7 2 円の名目実効為替レート(1980 年=100)

注) 指数の上昇は円の名目実効価値の増値を,低下は減価を意味する.

(7)

の高騰が「失われた 10 年」の一因となった可能性があり,2002 年以降の日 本経済の回復は,実質実効ベースで見た円安に支えられた外需主導型の成長 によってもたらされた可能性がある.

2.2 国際収支の動向

国際収支

図表 7 4 は日本の国際収支を全般的にとらえたもので,経常収支,資本収 支,外貨準備の増減が金額ベースでプロットされている.まずここから見て わかることは,経常収支が一貫して黒字で(1980 年を除く),増減を繰り返 しながらも上方トレンドをもって動いていることである.次に,1980 年代

から 90 年代にかけて,資本収支はおおむね赤字(=資本純流出)を計上し,

経常収支黒字をほぼ相殺していたが,2000 年代に入ってそのパターンが崩 れている.すなわち,資本収支は 2000 年代に入ると経常収支を相殺するも のとはならず,とくに 2003 年には大幅な資本純流入を記録した.経常収支, 資本収支がともに黒字になったため,外貨準備の増減が大幅なプラスになっ た(外貨準備の積み増しが起きた)のである.これは後述するように,この 時期に通貨当局が大規模の為替市場介入を行ったからである.

80 180 170 160 150 140 130 120 110 100 90 190

1980 85 90 95 2000 05 (年)

BOJ指数 BIS指数 IMF指数

図表 7 3 円の実質実効為替レート(1980 年=100)

注) 1.IMF 指数は内外の単位労働コスト,BIS 指数は内外の消費者物価指数(CPI),BOJ 指数は基本的に内外の企業物価指数(貿易相手国によっては CPI)で評価.

2.指数の上昇は円の実質実効価値の増大を,低下は減少を意味する.

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日本の経常収支は 1980 年に第 2 次石油危機の影響で赤字を記録したが, それ以来,経常収支が年次で赤字になったことはない.1981 年以降,経常 収支は改善を続け,1986 年に 13.7 兆円の黒字を記録した後,黒字額は 1990 年に向けていったん縮小した,その後は増大と減少を繰り返した.経常黒字 額は 2001 年以降一貫して増大し,2007 年には実に 25 兆円の水準に達した. しかし,2008 年には世界金融危機の影響で黒字額が減少している.

経常収支

これを対 GDP 比で見ると,1986 年の経常黒字は 4%と際立って大きかっ たが,その後減少して 1990 年には 1.5%以下の水準になり,平成不況期を 通じておおむね 2 3%の範囲内に抑えられていた.しかし,黒字額は 2002 年頃より増え始め,2005 年には 4%に迫り,2007 年には 4.9%まで膨れ上 がった(図表 7 5).2002 年からの平成不況からの景気回復期において,外 需が内需の低迷を補う役割を果たしたことがわかる.この時期の経常収支の 動きを一言でまとめるならば,① 1980 年代前半の急速な黒字幅の拡大,② 1986 年から 1990 年までの経常黒字の一時的な是正,③平成不況期を通じた 経常黒字の安定的な推移,④ 2002 年以降の景気回復期における黒字の大幅

−100 −50 0 50 100 150 200 250

1980 85 90 95 2000 05 (年)

経常収支

資本収支のマイナス値 外貨準備増減

図表 7 4 日本の国際収支:経常収支,資本収支,外貨準備の増減(1,000 億円)

注) 1.資本収支のマイナス値は資本純流出(赤字)を示し,グラフで上昇は純流出増,下落 は純流出減(ないし純流入増)を示す.

(9)

な拡大,と特徴づけられよう.

経常収支を財貿易収支,サービス貿易収支,所得収支に分けると,財貿易 収支は黒字(受け取り超過)だが変動が大きく,サービス貿易収支は赤字 (支払い超過)で安定的に推移し(対 GDP 比で約 1%),所得収支は着実に

伸びてきたことがわかる(章末の付表 1 も参照のこと).財貿易収支は 1990 年

代まで経常収支とほぼ同じ動きを示してきたが,2000 年代に入っても安定 的な水準にあり,拡大する経常収支の動きと乖離を示し始めている.それは, 所得収支の黒字幅がほぼ一貫して増大し,2005 年以降は財貿易収支を上ま わるほどの額になっているからである.所得収支の対 GDP 比は 2007 年に 3.2%になり,財貿易収支の 2.4%を 0.8 ポイント上回った.これは,日本 が経常収支黒字を累積してきた結果,国際投資ポジションを大幅なプラスに し,海外から金利・配当などのかたちで資産所得を得るようになっているこ とを示している.日本は対外純資産国として,次第に成熟した国際収支構造 をもつ方向に進んでいるといってよい.

資本収支

資本収支の内訳を直接投資,証券投資,その他に分けて見ると,直接投資 はほぼ安定的に純流出を計上してきたが,証券投資とその他の資本収支は変

動が大きかったことがわかる(付表 2).まず直接投資の純流出額は,1988

−2 −1 0 1 2 3 4 5

1980 85 90 95 2000 05(年)

経常収支 財貿易収支

サービス貿易収支 所得収支

図表 7 5 日本の経常収支とその内訳の推移,1980 2007 年(対 GDP 比率,%)

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90 年と大きく伸び,その後は 2 兆円前後の水準を推移していたが,2005 年 から再び増大した.対外直接投資(資産項目のマイナス値)の動きは,直接 投資収支の動きをおおむね決めており,1980 年代末から 1990 年にかけて大 幅に増え,2000 年代を通じて高い水準を維持した.対内直接投資(負債項 目のプラス値)は多少の変動はあるものの,その規模は他の資本取引と比べ ると限られていた.

証券投資の純流出は,1984 年から目だって増え,1986 年には 17.5 兆円を 記録した.その後,数年(1990 91,1997 年)を除いては 2003 年まで純流 出を計上し,とくに 2002 03 年には 11 兆円以上の額に上った.対外証券投 資(資産項目のマイナス値)は 1980 年代前半に増え始め,1980 年代を通じ て高い水準を維持した.1990 年代以降も対外証券投資は順調に推移し, 1990 年代後半から再び増え始め 2003 05 年には 20 兆円の規模に達した.と くに 2003 年以降,証券投資は流出,流入の双方向で活発になっている.

その他資本収支とは,銀行融資や金融派生商品などを含むもので変動が大 きく,いくつかの時期で資本収支全体の動向を決めるものになっている. 1980 年代にはその傾向は強くなかったが,1990 年代以降になると,証券投 資収支が黒字(純流入)でもその他資本収支が大幅な赤字(純流出)のため 資本収支全体が流出となる年が見られるようになった.1991 年,1997 年, 2006 07 年がそうである.逆に,2003 年には,証券投資収支が大幅な赤字 (純流出)でもその他資本収支がそれを上回る黒字(純流入)であったため,

資本収支全体が流入を計上した.

円キャリートレード

(11)

リートレードが助長された1).経常収支の黒字で円高が進行しておかしくな

いところに,円キャリートレードの加速が逆に資本流出を加速させて,円安 をもたらしたといってよい.

円キャリートレードの規模を日本の国際収支から推計することは難しい. その一部は,2004 07 年に計上された対外証券投資やその他資本収支の資産 項目でとらえることができよう.OECD の調査によれば,その規模は 4 兆 ドル(約 400 兆円)に上るといわれる.

3

為替政策の推移

3.1 資本自由化

1980 年代の対外証券投資の拡大は,資本の自由化によるところが大きい. もともと日本では,対外資本取引は「外国為替及び外国貿易管理法」(いわ ゆる「外為法」)と「外資に関する法律」(いわゆる「外資法」)により厳し く規制されていたが,1980 年,外為法は対外取引を原則自由とする法体系 に改められるとともに,外資法は廃止された.こうして,個人や非金融企業 にかかわる対外資本取引はほぼ前面的に自由化されたが,金融機関を含む機 関投資家の対外資産運用に関してはかなりの規制が残されていた.1980 年 代を通して自由化されたのは,こうした金融機関やその他の機関投資家にか かわるものだった.円安が顕著に進んだとき,当局は対外投資の自由化を一 時的に後退させることもあったが,1980 年代全体として大幅な自由化が進 んだ.

1980 年代の前半には,金融機関は金融自由化による競争の激化から,収 益機会の拡大をねらっていた.米国金利の上昇によって内外金利差が拡大す るなかで,外国資産保有規制が緩和されたことから,日本の金融機関・投資 家は対米証券投資を活発化させた.植田・藤井[1986]は,当時の急激な円安 の背景には,とりわけ機関投資家による分散投資の拡大があったとしている.

(12)

当局は為替市場介入や一時的な資本流出規制強化によって円安を食い止めよ うとしたが,分散投資への動きを抑えるには不十分だった.Koo[1993]によ れば,高金利の外貨建て資産への需要はあまりに強かったため,1984 年ま でに生命保険会社の外国資産の保有高は許容最大額に達する勢いだったとい う.

資本自由化は,金融自由化を背景とした金融機関・投資家のリスク選好の 変化など,日本の経済・金融環境の変化に即した政策対応だったと考えられ る.そのなかで,いわゆる「日米円ドル委員会」(正式には Joint Japan-US Ad Hoc Group on Yen/Dollar Exchange Rate, Financial and Capital Market Issues)が果たした役割も重要だった.円ドル委員会は,円安が日本の経常 収支黒字と米国の経常収支赤字の拡大をうながした主要因だという米国政府 の見解に基づき,1983 年秋に,両国政府間で設置が合意されたものである. 米国政府の立場は,必ずしも厳格な経済論理に基づくものではなかったが, それは①日本の金融市場は国際投資家にとって魅力的な市場ではない,②円 は国際投資家や多国籍企業にとって魅力的な通貨ではない,③日本の金融市 場と円の国際的な利用を自由化すれば,日本に資本流入が起きて円高が生じ る,という観点から東京市場と円の国際化を日本側に求めたのである.

円ドル委員会の報告書は 1984 年 5 月に公表されたが,これには対内外投 資のさらなる自由化,円の国際化,国内金融市場のさらなる規制緩和を目的 とする諸策が盛り込まれた.こうして,日本側は①円建て国内債(サムライ 債)の起債条件の緩和(1984 年 4 月),②先物為替取引における実需原則の 撤廃(1984 年 4 月),③居住者によるユーロ円債の発行条件の緩和(1984 年 4 月),④非居住者によるユーロ円債の発行条件の緩和(1984 年 12 月),⑤ 円建て銀行引受手形(BA)市場の創設(1985 年 6 月)等の諸策を確認ある いは約束した.これらの諸策は,円の潜在的な強さを引き出すことを目的と していたものの,その多くは日本からの資本流出を促進するものだったため, 円 ド ル 合 意 の 直 接 的 な 結 果 は む し ろ 円 安 に 働 い た と 評 価 さ れ て い る

(Frankel[1984]).それにもかかわらず,円ドル委員会が日本の金融自由化・ 国際化を推し進める上で重要な役割を果たしことは間違いない.

(13)

のストックおよびフローの規制は徐々に緩和され,同年 8 月,フローの規制 は撤廃された.ストック規制は残ったが,1987 年頃までには,機関投資家 の投資行動に影響を与えないほどまでに緩和されていたといわれている

(Fukao and Okina[1989]).つまり,日本の資本勘定は,1980 年代後半には事 実上完全に開かれたものになり,内外金融市場の一体化がもたらされたので ある.

3.2 金融ビッグバンと円の国際化

資本自由化がほぼ完結した後も,対外金融・資本取引をより円滑にする努 力は続いた.これは,1990 年代に入って,居住者外貨建て海外預金の自由 化,非居住者ユーロ円債および円建て外債の適債基準の撤廃,諸取引の許 可・届出手続きの弾力化および簡素化,居住者ユーロ円債の還流制限の撤廃 などの形で進められた.このような実績を踏まえ,さらには 2001 年までに 東京をニューヨーク,ロンドンと並ぶ国際的な金融市場として復権させると いう観点から,1998 年 4 月に「外国為替及び外国貿易管理法」が廃止され, それに代わる「外国為替及び外国貿易法」が施行された.これは「fair, free, and global」というスローガンの下で推し進められることになる「日本版金 融ビッグバン」の第 1 弾として位置づけられた.

このいわゆる新外為法は,事前の許可・届出制度,外国為替公認銀行制度 (いわゆる為銀制度),指定証券会社制度,両替商制度を廃止し,さらに制限

業種を除く対外直接投資の事前届出制を廃止することにより2),法運用上の

基本原則を事前許可・届出制から事後報告制に移行させるものだった.外国 為替市場の働きに関しては,2 つの法律上の変更点があった.第 1 に,為銀 制度の廃止により,非金融企業は為銀の仲介なしに直接外国為替取引に参加 することが可能になった.そのため,支払いの相殺やマルチネッティングな ど為銀を通じない決済が可能になった.第 2 に,居住者は制約なく外貨建て 預金を外国に保有したり,それを利用して海外金融機関を相手に債券投資や

株式投資を行うことが可能になった3)

2) 対内直接投資については,1992 年の改正によって原則事後報告制に移行済みになっていた. 3) また,有事規制については,経済的な事由による規制は残され,政治的有事に対応するための

(14)

「日本版金融ビッグバン」が外国為替市場,さらには国際金融・資本取引 全般の効率性を高めたことは否めないであろう.しかし,それが東京市場の 復権という目的にどれほど寄与したのかは定かでない.東京市場の地位はさ まざまな国内的な経済要因に加え,他の主要国際市場の動向にも影響を受け るからである.事実,ビッグバンの後も,東京市場の相対的な地位はさほど 高まらず,むしろ低下した部分もある.たとえば,非居住者による国債保有 高は 1997 年の約 250 兆円から 2000 年には 330 兆円に増えたものの,非居住 者による債券発行高に占める日本市場のシェアは微々たる額にとどまった (2000 年は 2.5%,2002 年は 0.6%に低下).東京オフショア市場の規模は,

1997 年をピークに 2000 年まで縮小を続けた.

こうした事態を背景に,大蔵大臣(現,財務大臣)の諮問機関である外国 為替等審議会は専門部会を設け,円のさらなる国際化を促進し,ひいては東 京金融市場を主要な国際金融センターとするために必要な施策の検討を始め た.1999 年 4 月,外国為替等審議会は答申を出し,同年 9 月,答申のフォ ローアップと円の国際化のいっそうの推進に必要な政策を調査するために, 新たな研究会を設けた(その報告書は 2001 年 6 月に公表).この作業は 2001 年 10 月発足の「勉強会」,2002 年 9 月発足の「研究会」によって継続 されたが,何ら具体的な成果を出すことなく終結した.その後,財務省の関 心は「円の国際化」から「金融・資本市場の国際化」にシフトしたようであ るが,そのために設立された財務省国際局の研究会が数カ月の活動のあと, 2003 年 7 月に「座長とりまとめ」を発表した後,円の国際化や東京市場の 国際金融センター化をめざした包括的な施策はとられていない.

3.3 外国為替市場介入

ルーブル合意の時期

(15)

引ではドルは若干値を戻した.ところが翌日から再び円に対して減価を始め,

ドル安基調は 10 月初めまで続いた4).為替レートはプラザ合意前の 1 ドル

240 円程度から大幅に調整され,10 月には 214 218 円程度で推移した. ところが,円高が急速に進みすぎたため,急激な為替調整が実体経済に与 えるマイナスの影響が危惧されるようになった.1986 年に入ると,日本銀 行はそれまでの高金利政策から金利を段階的に引き下げる政策に転じた.さ らに通貨当局は春から夏にかけて,大規模なドル買い介入を行って円高・ド ル安に歯止めをかけようとした.秋から翌 1989 年の 1 月にかけて,日米当 局はマクロ経済政策の協調を通して為替レートを安定化させようと試みた. しかし,これらの諸策にもかかわらず,円高・ドル安の動きがおさまる気配 はなかった.1987 年 2 月に,G5 にカナダを加えた G6 諸国によって,主要 為替レートの安定化に向けた政策協調がパリのルーブル宮で合意されたのは このような状況によるものだった.

1987 年 2 月 22 日に公表されたルーブル合意での公式声明は,現行の為替 レートがおおむね基礎的経済要因と整合的な水準にあると述べ,「現状にお いては,為替レートを現在の水準の周辺に安定させることをうながすために 緊密に協力する」としている.しかし,ルーブル合意の政策上の詳細は明ら かにされていない.船橋[1988]は,複数の政府高官から得た情報に基づき, 円とマルクに対するターゲットゾーンがドルに設けられたと主張している. 円に関して具体的な数値をあげると,当初の中心レートは 1 ドル 153.5 円で あり,変動幅は上下 5%だった.その後,4 月 7 日の G5 会議において,中 心レートは 1 ドル 146 円に改められ,新ターゲットゾーンは 10 月 18 日まで

有効だったとされる5)

この期間を通じて,通貨当局は,為替レートを安定化させるために双方向 に活発に介入したものと思われる.当時の新聞報道によると,1987 年 2 月 22 日から 10 月 18 日までの 169 日のうち,日本の通貨当局は合計 37 日間外 4) こうした事実,またドルの円に対する減価がほぼすべてニューヨーク市場が開いていたときに 起こったという観察に基づき,Ito[1987]は円ドルレートを動かしたのは為替市場介入自体では なく,連邦準備制度が介入したというアナウンスメント効果だったと論じている.

(16)

国為替市場に介入した.とくに 5 月初め,円が想定される下限(1 ドル 138.7 円)に達したとき,日米通貨当局は協調して大規模なドル買い介入を 行ったとされる.このようにして約 8 カ月間,為替レートはターゲットゾー

ンと想定される範囲に完璧におさまっていた(図表 7 6).しかし,為替安定

を目的としたと考えられた協調介入は長く続かなかった.1987 年夏には円 高傾向は終結したかのように見えたが,9 月に入り,円はドルに対して増価 を再開した.円高傾向は 10 月のブラックマンデーの後さらに顕著になり, 円は 1 ドル 150 円から 10 月には 140 円台,12 月には 120 円台まで上昇した のである.

1995 年の超円高

円レートの増価は 1989 年に入ると逆転し,1990 年 4 月には 1 ドル 158 円 のボトムにまで減価した.しかしその後,再び増価し,とりわけ 1993 年以 降円高のスピードが速まり,1995 年 4 月 19 日には東京市場で一時的に 1 ド ル 79.75 円という歴史的な値を記録した.1990 年 4 月から 95 年 5 月の 1 ド ル 83 円へと 88%(月平均 1.5%)のペースで切り上がったのである.この 円高は,長期にわたる深刻な景気後退のなかで進行したことに特徴がある.

135 140 145 150 155 160 165 135 140 145 150 155 160

165

87/2/23 87/3/2 87/3/9 87/3/16 87/3/23 87/3/30 87/4/6 87/4/13 87/

4/20

87

/4/27 87/5/4 87/5/11

87

/5/18

87

/5/25 87/6/1 87/6/8 87/6/15

87

/6/22

87

/6/29 87/7/6 87/7/13 87/7/20 87/7/27 87/8/3 87/8/10

87

/8/17

87

/8/24

87

/8/31 87/9/7 87/9/14 87/9/21 87/9/28

87

/10

/5

87/10/12

図表 7 6 ルーブル合意下の円ドル為替レートのターゲットゾーン (1987 年 2 月 23 日 10 月 16 日)

(17)

資産価格デフレ,不良債権問題,さらには阪神・淡路大震災(1995 年 1 月) のなかで円高が生じ,93 年 10 月を底に緩やかな回復過程に入ったといわれ た景気を脅かしたのである.

通貨当局は 1993 年,94 年と市場介入を行ったが小規模であり,円高に歯 止めはかからなかった.95 年には 2 月から 9 月まで毎月為替市場介入を 行った.3 月には大規模介入を行ったにもかかわらず円高は 5 月まで続き, ようやく 6 月になって反転を始め,9 月の第 2 弾の大規模介入で 10 月に 1 ドル 100 円の水準にもどった.それ以降の時期は,1996 年 2 月に市場介入 が行われたほか,しばらく円売り・ドル買い介入は行われなかった.1993 年から 95 年にかけての為替市場介入は,95 年の超円高を阻むことはできな かったが,95 年に入ってからのそれは頻度が高く,規模も大きくなったこ とから,円高を反転させる力になったものと思われる.

平成の大介入

平成不況の間,通貨当局は記録的な外国為替市場介入を行った.1993 年 1 月から 2004 年 3 月まで,実に 341 日間介入したのである.とりわけ 2003 年 1 月以降最後の介入が行われた 2004 年 3 月までは,介入は以前よりも頻繁

であり大規模なものになった(図表 7 7).1998 年を除き,介入はほぼ一貫

円/ドル為替レート(右目盛) 外国為替市場介入(左目盛) 8,000

10

6,000 4,000 2,000 0 −2,000 −4,000 150 140 130 120 110 100 90 80 1993 94 95 96 97 98 99 2000 01 02 03 04(年) 図表 7 7 円ドル為替レートと外国為替市場介入(1993 年 1 月 2004 年 12 月)

(18)

して円売り,ドル買い介入だった.とくに 2003 年 1 月から 2004 年 3 月に至

る「大介入」(Taylor[2006])は,経済が長期低迷からようやく回復の兆しを

見せ始めた時期に対応していた.この 15 カ月間,通貨当局は実に 35 兆円の 円売り介入を行ったが,それは日本の GDP の 7%に相当する額であり,そ の間の経常収支黒字(21 兆円)を上回る額でもあった.その裏側として, 2003 04 年に,民間部門は資本の純流入(資本収支の黒字)を記録していた のである.

この間の為替介入をやや詳しく見ると,2002 年まで,介入の強弱は為替 レートの動向に依存していたことがわかる.すなわち 1995 年および 1999 2000 年という円増価期の最後の局面で円売り・ドル買い介入の規模が増し, 1998 年の金融危機を背景とする強い減価圧力期の最後の局面では,円買い・ ドル売り介入の規模が増している.ところが,2003 04 年の時期では,介入 は頻繁かつ大規模であり,為替レートの動きとさほど連動していないように も見える(この間,円は持続的に増価していた).この時期における介入は, 後述のように,為替レート以外の要因が考慮に入れられていた可能性が高

い6)

3.4 為替政策と金融政策

多くの実証研究によれば,1980 年代から 1990 年代初めにかけて,日本の 金融政策は為替レート水準を考慮して運営されていた.実質円高が進むと短 期金利は引き下げられ,実質円安が進めば短期金利が引き上げられる政策が

とられていたと考えられるのである7).たとえば日本銀行は,プラザ合意後

(19)

の 1985 年 10 月に高金利政策に転じることによってそれまでの過度な円安を 是正しようとしたと考えられ,この間コールレートは 6.2%から 12 月中旬 の 8.5%まで上昇した.

また 1986 年に入って急激な円高が進むと,日本銀行は実質円高が実体経 済に与える影響を懸念し,連邦準備制度と協調して短期政策金利を引き下げ る方向に金融政策を転換した.

こうして,5%の水準にあった公定歩合はルーブル会議直前の 1987 年 2 月 には 2.5%まで引き下げられた.ルーブル合意後も金融緩和スタンスは続き (コールレートは 3 月中旬の 3.9%から 5 月中旬の 3.1%まで低下),1989 年 5 月,円が減価を始めるまで維持された.日本銀行は,円の減価にともない 公定歩合を 3.25%に上げ,さらに 10 月には 3.75%にまで引き上げた.1990 年に入っても,円安・ドル高はおさまらず,日本銀行は 3 度にわたる公定歩 合の引き上げを行った.

このように,プラザ合意の時期から 1990 年代初めまで,金融政策は為替 レートに反応するかたちで運営されたと解釈できよう.しかし,1990 年代 に入ってバブルが崩壊し,実体経済の低迷が始まると,金融政策の為替レー トに対する反応は変化することになった.金融政策の運営が,デフレからの 脱却と景気の回復を主眼とするものになったからである.すなわち,1991 年末から金融政策は再び緩和に転じ,公定歩合は段階的に引き下げられ, 1995 年 9 月には 0.5%にまで下げられた.さらに,1999 年 2 月,日本銀行 はオーバーナイトの無担保コールレートを事実上ゼロである 0.15%に誘導

することによって,いわゆる「ゼロ金利政策」を始めた8).ゼロ金利政策の

下では,政策金利を引き下げることによって金融緩和を行う余地はもはや存 在しなくなる.そのため,日本銀行は 2001 年 3 月に「量的緩和」政策を打 ち出し,市中銀行が日本銀行に保有する当座預金残高の目標値を公表して, それを定期的に引き上げていくという「非伝統的」な金融政策を採用した

7) De Andrade and Divino[2005]は,コールレートを購買力平価からの乖離(実質為替レートの ミスアラインメントの代理変数)を含む説明変数に回帰させ,この期間,コールレートが実質為 替レートと反対の動きをしていたことを示した.短期金利が実質為替レートの動きを抑えるよう に決められるという関係は,プラザ合意直後から 1987 年 5 月までとくに顕著だった.

(20)

(図表 7 8).量的緩和政策の期間(2001 年 3 月 2006 年 3 月),日本銀行は当 座預金残高の目標値を約 5 兆円から 30 35 兆円程度に段階的に引き上げた. 2003 年 1 月から 2004 年 3 月の為替大介入の期間に限ると,当初の 15 20 兆 円程度の目標値から 30 35 兆円程度の目標値へと,約 15 兆円の目標積み増 しを行ったのである.

この間の外国為替市場介入と金融政策の関係は,量的緩和政策の文脈で理 解することができよう.大規模な市場介入の一次的な目的は急激な円高を抑 えることであったとしても,円売り介入による市場への円資金供給は,量的 緩和の目標を達成する手段ともなりえた.たとえば,2003 年 1 月から 2004 年 3 月までの大介入の時期における円売り・ドル買い介入の累積額が 35 兆 円であったのに対し,同期のマネタリーベースの累積増加額が 18 兆円であ

り,為替介入の半分程度しか不胎化されなかったことになる9).しかし,量

的緩和の当初から大介入の終わりまで(2001 年 3 月 2004 年 3 月)を見ると, 介入の累積額は 42 兆円であったのに対してマネタリーベースの純増額は 44

9) Watanabe and Yabu[2007]は,日次データを使った分析によって,この間の介入額の約 60%が 不胎化された(すなわち 40%が不胎化されなかった)と推定しており,本文中の数字と大きく 離れたものではない.日本の為替市場介入は,もともと自動的に不胎化される仕組みになってい る.それは,財務省が円売り・ドル買いのための円資金をあらかじめ市中から調達して(為券を 発行して)それをドル買いに使うからである.ところが,2003 年 1 月から 2004 年 3 月の期間の 市場介入は規模がきわめて大きく,一時的に日本銀行が為券を引き受けざるをえず,後日市中に 売却するまで時間がかかったといわれる(谷内[2008]).このことから,為替介入の一部は結果 的に不胎化されなかったのである.

図表 7 8 量的緩和政策下の当座残高目標値(2001 年 3 月 2004 年 1 月)

政策審議委員会の決定日 当座預金残高目標値

2001 年 3 月 19 日 約 5 兆円

2001 年 8 月 14 日 約 6 兆円

2001 年 9 月 18 日 6 兆円以上

2001 年 12 月 19 日 10 15 兆円程度

2002 年 10 月 30 日 15 20 兆円程度

2003 年 3 月 25 日 17 22 兆円程度

2003 年 4 月 30 日 22 27 兆円程度

2003 年 5 月 20 日 27 30 兆円程度

2003 年 10 月 10 日 27 32 兆円程度

2004 年 1 月 20 日 30 35 兆円程度

(21)

兆円に上った.中長期的視野からは,量的緩和政策の下で,不胎化されない 為替介入が可能になったと考えることもできよう.

4

為替レートとマクロ経済

4.1 円高と景気動向

プラザ合意後の円高

1985 年 9 月のプラザ合意後の急激な円高の要因を分析するに当たり,G5 諸国によるマクロ経済政策協調のアナウンスメント効果が一定の役割を果た したことは否めない.しかし,1985 年 2 月からすでに,円はドルに対して 増価を始めており,また,基礎的経済要因とは無関係にアナウンスメント効 果のみで円が 1989 年までの 4 年間増価し続けたと考えることは難しい.

プラザ合意後の円高の背後にあった経済要因の 1 つとして,資本自由化の 下で活発になった国際資本移動の動きが挙げられる.すでに述べたように, プラザ合意以前の円安の背景には,内外金利差と機関投資家による対外証券 投資の規制緩和があった.円安が進むと,日本の通貨当局は一時的に対外流 出規制を強めたが,プラザ合意以降の円高の局面で,これらの規制は撤廃さ れた.深尾[1989]によると,こうした対外証券投資に関わる規制撤廃によっ て,プラザ合意後も 1987 年前半まで,円レートの増価にもかかわらず機関 投資家による長期資本流出は増え続けたという.しかし,対外投資による キャピタルロスがかさんだ結果,機関投資家による対外証券投資は減少し始 めた.1985 年に始まった米国金利の低下を背景に,1987 年以降は対外証券 投資の減少が円高に拍車をかけたのである.

プラザ合意後の円高の第 2 の背景としては,石油価格の下落による交易条

件の大幅な改善が挙げられよう(浜田・岡田[2009],伊藤[1991]).石油価格

は 1986 年から半年で 3 分の 1 に下落し,その後回復したものの 1989 年でも 1985 年の半値という水準にあった.

(22)

円高不況,バブル景気,平成不況

プラザ合意後の急速な円高により,製造業の生産活動は約 2 年間停滞した (いわゆる「円高不況」).しかし,1987 年秋以降,円高にもかかわらず生産 活動は急速に回復した.西川[1989]の実証分析によると,円高の製造業への 影響が比較的限定的であったのは,①財政拡張や金融緩和が効果をもったこ と,②原材料価格が円ベースで大幅に低下したこと,③国内市場と海外市場 が比較的分離されていたため,国内価格が輸出価格に比べて高止まりしたこ と(内外価格差については後述)などの理由による.

円高不況からの回復後,日本経済はバブル期に入った.このバブル期を通 して経済活動が好況であったことの説明として,浜田・岡田[2009]は,上述 の交易条件改善のプラス面が実質円レート増価のもつマイナス面を相殺した 点を強調している.サービス産業の好況が,輸出産業,輸入競合産業の落ち 込みを補ったが,その後交易条件が悪化すると,1989 年から実質円高が修 正され始めていたものの日本経済は不況に陥った.

1990 年代の前半にバブルが崩壊し,日本経済は長期の平成不況に入った が,それは資産価格の下落から,企業の間で資本設備,雇用,債務のいわゆ る「3 つの過剰」が顕在化し,経済活動が停滞したからである.円レートは 1990 年に円安のボトムに達した後,95 年まで大幅に増価したが,95 年の ピーク時の実質円レートはプラザ合意時点のそれよりも 60 80%高い水準に なった.円はその後減価し,1998 年にボトムに達したが,再び 2000 年に向 けて増価した.浜田・岡田[2009]は長期にわたる実質為替レートの高騰が 「失われた 10 年」の一因であり,金融緩和の遅れは実体経済をさらに深刻化

させたにすぎないと論じている.

4.2 為替レートと経常収支

(23)

日本市場の閉鎖性,不公正な取引慣行,政府による産業助成など,日本経済 に内在する構造的問題が指摘されることもあった.

1986 年 4 月には,首相の私的諮問機関「国際協調のための経済構造調整 研究会の報告書」(いわゆる「前川レポート」)が公表され,マクロ要因を強 調する観点から,内需中心の経済構造への転換とそのための規制緩和が提言 された(ボックス 1. 参照).その後急速な円高のもとで国内製造業の将来へ の懸念が高まったため,首相の諮問機関である経済審議会の「経済構造調整 特別部会」で,1987 年 4 月に,前川レポートを具体化するための報告書 (いわゆる「新前川レポート」)が発表された.

プラザ合意後の急速な円高にもかかわらず,日本の経常収支黒字はさほど

ボックス 1.「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」 (いわゆる「前川レポート」)

経常収支不均衡を国際的に調和の取れるよう着実に縮小させるこ とを中期的な国民的目標として設定し,わが国の構造調整という 画期的な施策を実施し,国際協調型経済構造への変革を図る

内需拡大 ⑴住宅対策および都市再開発事業の推進,⑵消費生活

の充実,⑶地方における社会資本整備の推進

国際的に調和のとれた産業構造への転換 ⑴産業構造の転換と積

極的産業調整の推進,⑵直接投資の促進,⑶国際化時代にふさわ しい農業政策の推進

市場アクセスの一層の改善と製品輸入の促進等 ⑴市場アクセス

の一層の改善,⑵製品輸入等の促進,⑶節度ある企業行動

国際通貨価値の安定化と金融の自由化・国際化 ⑴適切な国際通

貨価値の安定と維持,⑵金融・資本市場の自由化と円の国際化

国際協力の推進と国際的地位にふさわしい世界経済への貢献 ⑴

国際協力の推進,⑵新ラウンドの積極的推進 財政・金融政策の進め方

(24)

縮小しなかった.図表 7 9 は 1980 2007 年の時期について,部門別の貯蓄・ 投資バランスを示したものである.この図では,民間部門を法人企業部門 (非金融法人企業と金融機関)と家計部門とに分け,その各々と,一般政府 部門,海外部門(マイナス値)の貯蓄・投資バランスの対 GDP 比率がプ ロットされている.海外部門の貯蓄・投資バランスについては,その符号を 逆にしたものが国際収支ベースでの経常収支に対応するので,そのマイナス 値が示されている.

図からわかるように,海外部門の貯蓄・投資バランスは 1980 年代央以来 一貫してほぼ 3 5%の間で推移しているが,その他の経済部門のバランスは それ以上の変動を示している.そのなかでも家計部門のバランスは 1980 年 代の 10%程度の水準から,90 年代には 6 7%の水準に低下し,2000 年代に はさらに 2 3%の水準に落ち込んでいる.法人企業部門は 1980 年代を通じ て投資超過の状態にあり,とくに 80 年代後半のバブル期から 91 年までは大 幅な投資超過を経験したが,バブル崩壊後,次第に投資超過が減りむしろ貯 蓄超過になった.1990 年代を通じて貯蓄超過額は拡大し,とくに 2002 05 年には対 GDP 比 7 8%の貯蓄超過を記録した.深刻な経済低迷に面した法 人企業部門は,貯蓄超過をつくり出すことによって,バブル期に累積した過 剰債務の返済・処理を進めたものと思われる.2005 年以降は,おりからの

−15 10

5

0

−5

−10 15

1980 85 90 95 2000 05(年)

家計部門 法人企業部門 政府部門 海外部門のマイナス値

図表 7 9 日本の部門別貯蓄・投資バランス(対 GDP 比率)

(25)

経済回復にともない,貯蓄超過を減らす方向に動いている.

他方で,一般政府部門の投資超過額(財政赤字)は 1983 年まで大きかっ たが,その後は 1986 年からの円高不況にもかかわらず順調に減り,1988 年 にはバブル経済の進展もあり貯蓄超過(財政黒字)に転じた.しかし,バブ ルが破裂し経済停滞が始まると,1990 年代を通じて相次ぐ経済対策が打ち 出されたため,投資超過になり,その額も増大した.2000 年代初めに経済 回復が始まると,一般政府部門の投資超過は減り始めた.

この部門別の貯蓄・投資バランスの分析からわかることは,1980 年代後 半のプラザ合意以降の円高にもかかわらず経常収支黒字が続いた背景として, 一般政府部門のバランス(財政収支)の改善,家計部門の貯蓄超過の高止ま りが見られたということである.この背景を支えるさらなる要因としては, 日米貯蓄率の差異,日米金利差,交易条件の改善が円高下での経常収支黒字

を長期化させた可能性が挙げられる10).また,1990 年代前半から 1995 年に

かけての超円高にもかかわらず経常収支黒字が続いたのは,法人企業部門が 貯蓄超過をつくり出して債務返済・処理を行ったからである.

4.3 内外価格差

プラザ合意後の急速な円高にもかかわらず,経常収支黒字がさほど縮小し なかった理由として,貿易財価格の動きに注目する議論もある.この議論の 背後には,1980 年代に入り,少なくとも米国において為替レート変動が相 対価格に十分な影響を与えなくなったという認識があった.すなわち,プラ ザ合意後の大きな為替レート調整にもかかわらず,日米の経常収支不均衡が 持続したのは,企業の市場別価格設定行動により,米国における輸入価格が

十分に上昇しなかったからだと議論された11).これは,日本の輸出企業の

観点からすると,輸出価格が円建てで据え置かれず,むしろ引き下げられた

10) 植田[1986]は貯蓄・投資バランスによるアプローチを用い,1984 年時点で,GNP 比 3%の経 常黒字のうち 2%は官民部門の純貯蓄の動き,残り 1%は景気循環的な部分(おもに日米の景気 局面のずれによる部分)によって説明されると結論づけた.Song[1997]は,標準的な為替レー ト・モデルを推定することによって,1980 年代後半における円高下の経常黒字の拡大が,日本 の貯蓄率の上昇,交易条件の改善(原油価格の下落),米国の長期金利の高止まり(それによる 海外への資本流出)によって説明できることを示した.

(26)

可能性があったことを示唆する.事実,1985 年から 1988 年まで,日本の輸

出物価指数は約 20%下がったのである(高木[1993]).

松本・白井・松田[1989]は,円高の輸出価格への累積転嫁率は,1986 年 で 52%程度だったが,その後急速な転嫁が進んだことを示した(ただし, 価格転嫁率は海外生産の割合が高い企業ほど小さくなり,電気機器では 40%にとどまった).一方,国内価格は輸出価格に対して高めに設定された. 国内価格を高めに設定することにより,企業は国内部門での利幅で輸出部門 における採算の悪化を相殺したと考えられるのである.プラザ合意以降の急 激な円高によって日本経済は一時的な景気後退を経験したが,景気は 1987 年春頃から緩やかに回復し,1988 年には製造業は全体として史上最高益を 更新した.この背景には企業の価格設定行動による内外価格差があり,また それが為替レートの経常収支調整効果を妨げていた可能性が示唆される.

内 外 価 格 差 は 輸 入 財 に つ い て も 観 察 さ れ た.Sazanami, Kimura, and Kawai[1997]によると,1985 年から 1995 年まで輸入財の内外価格差は拡大 した.為替レートの増価率と比較して,輸入財価格はそれほど低下せず,卸 売り価格の低下率は輸入財価格のそれを大きく下回っていた.佐々木百合は 経済企画庁(現,内閣府)のデータに基づき,1985 年から 1990 年まで,日

本の物価は購買力平価に比べて割安であったことを示している(本巻第 9 章

参照).その後,日本の物価は割高になり,内外価格差は 1995 年ごろにピー

クを迎えたが,2000 年代のデフレ期を通して,日本の物価は下落を続け, 内外価格差は縮小することになった.

4.4 円高と産業構造

(27)

や海外生産の拡大,②貿易財部門における高付加価値化,③非貿易財産業へ の生産資源のシフト,というかたちをとる.

図表 7 10 は,1980 年以降の,非貿易財部門と貿易財部門の間の国内生産 比率をプロットしたものである.ここで,非貿易財部門としては,建設業, 電気・ガス・水道業,卸売・小売業,金融・保険業,不動産業,運輸・通信 業,サービス業が考慮に入れられ,貿易財部門としては製造業が考慮に入れ られている.興味深い点は,両部門の生産比率を名目値でとると,非貿易部 門が貿易財部門と比べて傾向的に増大しており,経済のサービス化が進んで いるように見えるが,両部門の生産比率を実質値でとると,上方のトレンド は見られず,経済のサービス化は進んでいないということである.この違い は,図には示していないが,両部門間の相対価格に現れている.すなわち, 非貿易財部門の価格が貿易財部門の価格よりも急速に上昇していることから, その実質的な生産規模は貿易財部門のそれとほぼ同程度で推移しつつも,名

目ベースでは増大しているのである12)

また,この図からわかるもう 1 つの点は,平成不況の時期においては,名 80

90 100 110 120 130 140

1980 85 90 95 2000

(1980年=100)

(年) 05 非貿易財部門の生産/貿易財部門の生産比率(名目値)

非貿易財部門の生産/貿易財部門の生産比率(実質値)

トレンド線 トレンド線 図表 7 10 非貿易財部門の生産/貿易財部門の生産の比率(名目値と実質値)

注) 1.非貿易財部門は,建設業,電気・ガス・水道業,卸売・小売業,金融・保険業,不動 産業,運輸・通信業,サービス業を指す.貿易財部門は製造業をさす.

(28)

目値を見ても実質値を見ても,非貿易財部門の生産が貿易財部門の生産をト レンドよりも上回っており,不況から脱却した 2005 年以降はトレンドを下 回っていることである.平成不況の時期においては,実質円高が基調であっ たことから,非貿易財部門の生産が相対的に伸びたが,2000 年代に入って 実質円安になるとそれが逆転したのである.2002 年から見られる,非貿易 財部門から貿易財部門への生産シフトが平成不況からの脱却のテコになった のである.しかし,それは 2008 年に始まった世界金融危機で日本が大きな 打撃を受ける下地ともなったといえる.

5

為替政策の将来

5.1 円の国際化,東京の国際金融センター化

2003 年以降,政策の焦点は「円の国際化」から「東京市場の国際金融セ ンター化」に移ったが,その後,いずれの政策目標においても,目だった政 策はとられていない.円の国際化への政策的な関心が薄れた背景には,国際 通貨の選択は民間の市場参加者が決めることであり,これ以上,政策に果た せる役割は残されていないという認識がもたれたり,「失われた 10 年」の期 間に円の国際化がほとんど進捗せず,これ以上進めようとする熱意が失われ たことがあった可能性がある.その意味で,政策の焦点が「東京市場の国際 金融センター化」に移ったのは自然なことであった.しかし,具体的な施策 は,東京市場の国際金融センター化においてもとられてこなかった.これに は,財務省(および旧大蔵省)が行っていた金融行政の企画業務が金融庁に 移管されたことと大きく関連しているように思われる.わが国が国際金融取 引において果たすべき役割を一体的に考え,実施する仕組みが欠如している

(29)

ことは,大きな問題だろう13)

20 年間にわたる円の国際化に向けた取組みにもかかわらず,円の国際的 な使用が高まることにはならなかった.しかし,政策が失敗したと結論づけ ることは性急である.「円の国際化」という旗印のもとで,各種の金融資本 取引が自由化され,国債の多様化や国債市場の機能向上など,さまざまな金 融資本市場改革が進められてきたからである.結果は何であれ,円の国際化 に受けた取組みを通して,日本経済は国際金融市場との統合を深め,対外的 金融取引はより効率的になってきたと考えられる.同様に,今後も「東京市 場の国際金融センター化」を旗印に,わが国の金融資本市場において残され た非効率性や障壁をさらに除去していく努力は必要であろう.法人税や非居 住者の源泉徴収など,これまで以上に横断的に対処すべき問題は多い.「円 の国際化」のメリットが大きいことも今では広く認識されている.財務省の 関係局はもちろん,金融庁,日本銀行,民間金融機関等が認識を共有し,1 つの国家目標に向けて協力していくための枠組みを構築することが求められ よう.

5.2 蓄積した外貨準備をどうするか

これまでの為替政策の結果として蓄積された 1 兆ドルにのぼる外貨準備

(図表 7 11)をどうするかは,政府が真剣に考えるべき問題の 1 つである. 先進国でこれだけの外貨準備を有する国は例を見ない.米国も,ヨーロッパ の主要国も,またオーストラリアなどの国でさえ,わが国の数十分の一の外 貨準備しか保有していないのが現状である.そもそも外貨準備とは,金融危 機その他で国際資本市場へのアクセスが失われる場合に備えてもつ保険だと 考えられる.通常,先進諸国の政府や高格付けの金融機関・企業はほぼ常に

(30)

国際資本市場での資金調達が可能だとされる14).さらに日本の場合,世界

第一の対外純資産国でもある.1 兆ドルの外貨準備が必要だと主張する根拠 はほとんどない.

日本の場合には,政策当局者や産業界の間に「円高恐怖症」が根強くあり, 円高は輸出に悪影響を与え,景気を悪化させると考えられる傾向にある.そ のため,円高期に大量の円売り・ドル買い介入を行い,巨額の外貨準備を累 積させてきた.為替市場介入が円高を防止するための政策としてとらえられ, その結果外貨準備が積み上がってきたのである.通貨当局は,2004 年 3 月 までの大介入の後は市場介入を控えてきた.2008 年の世界金融危機にあた り,国内経済の落ち込みにもかかわらず円が増価したときでさえ,通貨当局 は円売り介入を行っていない.

おそらく今後も,かつてのような大規模介入は行わない可能性が高い.そ うした介入は本来,為替変動をスムーズなものにする介入に限るべきであり, ある一定期間では外貨買いと売りがバランスすることが望ましいものと思わ れる.

そうだとすれば,長期的には,現在外貨準備としてもつ 1 兆ドルのうち,

14) むろん先進国であっても,アイスランドのように巨額の短期対外債務を累積して,通貨危 機・金融危機に陥り,IMF 支援を仰がざるをえなく場合もあろう.しかし,そうした事態は, 適切なマクロ経済政策や金融機関監督によって防げるはずである.

10

0 1000

800

600

400

200

1980 85 90 95 2000 05(年)

図表 7 11 日本の外貨準備高(1980 2007 年)

(31)

相当部分(たとえば半分程度)を時間をかけて安定的なかたちで取り崩して いくことが望ましい.残りの部分は,将来の危機対応に備えて保有し続ける ことの意義があろう.

たとえば,今回の世界金融危機に際して見られたように,日本企業であっ ても,ドルの流動性が逼迫しているおりから,市場でドル調達を行うコスト が高くなるような場合には,外貨準備を国際協力銀行(JBIC)経由等で日 系企業に貿易信用などの目的で貸し付けることが望ましいこともあろう.し かも,国際流動性問題で通貨・金融危機に陥る国に対して,それらを 2 国間 ベースで直接に,あるいは国際機関を通じて間接的に支援することも日本の

国際貢献として意義があろう15).とくに東アジア諸国とはチェンマイ・イ

ニシアティブを結んでおり,そのマルチ化や規模拡大に備えて日本の拠出額 も増える可能性があろう.

このように,流動性の高い外貨準備を危機に備えてある程度保有すること の意義は大きいといってよい.しかし,日本が過剰な外貨準備を元手に,国 家ファンドをつくって運用益の高い長期資産にシフトさせることは,G7 の メンバー国としてふさわしいものかどうか,十分検討すべきだろう.ただ, 流動性の高い外貨準備の部分に関しては,相場変動による評価損を最小化す るためにも,多様な短期資産運用をめざすことが望ましいことはいうまでも ない.

5.3 為替政策と金融政策の整合性をいかに確保するか

1990 年代初めまで,日本は資本移動規制,金融政策,および為替市場介 入を為替レート変動に対処するための政策手段として使ってきた.しかし, 1980 年代に進んだ国際資本移動の自由化によって,資本移動規制の強弱を 変えることで為替レートを操作することは,選択肢として存在しにくくなっ ている.

そこで残された手段は,金融政策と市場介入であるが,両者は密接に関係 している.むしろ,介入政策は金融政策の一部だとさえいえよう.とくに 1998 年のビッグバンにより,国境を越えた資本の動きは膨大な量になって

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おり,介入が金融政策の支持なしに有効性をもつことはますます難しくなっ ている.ここで問題になるのは,残された政策手段としての為替市場介入と 金融政策の整合性をいかにとるかという点である.

日本では,為替市場介入を含む為替政策は財務省の管轄事項であり,金融 政策は日本銀行の管轄事項となっている.1998 年施行の新日銀法によって 日本銀行は独立した中央銀行となり,政策審議委員会で金融政策を決められ るようになった.

しかし,1998 年以前の時期では,財務省(当時大蔵省)が金融政策に対 してある程度の影響力をもっており,為替政策と金融政策の整合性を図るこ とが可能だった.たとえば,プラザ合意からルーブル合意にかけて,財務省 による介入政策は日本銀行による金利政策と整合的に運営され,当初は円の ドルに対する増価,その後は円のドルに対する安定化に向けた取組みが一体 的に行われた.

ところが,新日銀法の下では,金融政策の運営に関して,日本銀行には一 定の独立性が確保されている.そのため,日本銀行が独立した金融政策の下 で財務省による市場介入を完全に不胎化するとしたら,介入はその効果を 失ってしまうことになろう.

平成の大介入の際には,日本銀行は量的緩和政策をとっており,日本銀行 の金融政策スタンスと財務省の為替政策は整合的なものになりえたといえる が,このような状況は今後は稀であろう.近年,中央銀行は短期金利を操作 変数として金融政策を運営するようになっている.その場合,短期金利を同 時に変更しない限り,介入は不胎化されることになる.つまり,財務省と日 本銀行が責任を分担し,両者の協調が制度化されていない現状においては, 為替政策と金融政策の整合性を確保できる保証はないのである.そのため, 危機時を想定した両者の協調のあり方を,将来的に検討していく必要があろ

う16)

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5.4 経常収支黒字の解消には円高が必要か

日本の経常収支黒字は,1980 年代央から国際的な経済摩擦問題をつくり 出してきた.米国が大幅な財政赤字を出し,ドル高が進むなかで経常収支赤 字が拡大していたことから,米国内で保護主義的な動きが高まったのである. 日本の経常収支黒字は米国への失業の輸出だ,それを防ぐために日本からの 輸入を制限すべきだ,黒字削減のためには閉鎖的な日本市場の対外開放が必 要だ,日本の黒字が縮小しないのであれば日本は円高を覚悟すべきだ,など

の議論が米国の経済学者の間でも主張されるようになった(伊藤[1994]).

プラザ合意によるドル高是正は,こうした経常収支不均衡を縮小させるこ とによって,米国国内の保護主義的な動きを封じることが期待された.これ を受けて日本でも,1986 年の「前川レポート」で,経常収支不均衡を国際 的に調和のとれるよう着実に縮小させるとして,黒字の縮小を政策目標に掲 げた.

たしかに日本の経常収支は,1980 年代後半のバブル景気と円高のなかで 縮小に向かった.しかし,1990 年代に入ってバブルが崩壊し平成不況が始 まると,輸入が伸び悩み経常収支黒字が再び拡大した.1995 年の円高を受 けて経常収支は一時的に縮小したが,98 年の円安と 2000 年の円高で拡大・ 縮小を繰り返し,2000 年代の 7 年間に及ぶ円安で経常収支黒字は拡大を続 けたのである.

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レートだということになる.

たとえば,これまでの日本のように将来の高齢化に備えて人々が貯蓄に励 むという経済社会では,家計貯蓄が過剰となり経常収支黒字が常態となる. こうした状況を変えるには,社会保障制度を充実させて,人々が将来に対し て不安感をもたないようにさせることが必要で,それは景気対策としてのマ クロ経済政策では解決できないのである.要するに,趨勢的な経常収支不均 衡を是正するには,構造的な政策が必要であって息の長い政策努力が要請さ れるということになる.このことを逆にいえば,循環的・短期的な経常収支 不均衡はマクロ政策や為替レートの変化によって変えていくことができる, あるいは為替レートの変化は短期的・一時的には経常収支に影響を与えるこ とができる.その意味でマクロ政策や為替レート政策は有効なのである.し かし,それは長期的・趨勢的な経常収支には影響を与えることはできないの である.

5.5 アジア域内の為替レート協調の可能性

東アジア諸国は,97 98 年のアジア通貨危機を経て通貨・金融協調を強化 させてきた.通貨・金融危機の再来を防止するという考え方がその出発点だ

といってよい17).たとえば,2000 年から ASEAN+3(ASEAN 10 カ国に日

本,中国,韓国を加えたグループ)の枠組みでチェンマイ・イニシアティブ と地域経済サーベイランスを開始させ,2003 年からはアジア債券市場を発 展させるための各種の試みがなされている.

チェンマイ・イニシアティブは通貨投機を受けたり通貨危機に陥った国に 対して短期流動性を供与して流動性不足から脱却させるための 2 国間通貨ス ワップ協定の枠組みである.2009 年 4 月までに 16 の 2 国間協定が締結され, 総額 900 億ドルの通貨スワップ枠が設定された.2005 年には IMF プログラ ムなしでチェンマイ・イニシアティブを発動できる枠が 10%から 20%に引 き上げられ,2007 年にはチェンマイ・イニシアティブの多国間化(マルチ 化)が合意された.地域経済サーベイランスは,域内各国の経済状況につい

て,多国間枠組み(ASEAN+3 など)での政策対話を通じて相互に監視し,

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ピアプレッシャー(友邦の圧力)により域内各国の政策改善をめざすもので ある.

2009 年には地域経済サーベイランスを強化する目的で,専門の事務局を 設置することが決まった.アジア債券市場の発展は,アジア現地通貨建ての 債券市場を発展させることにより,通貨と満期のダブル・ミスマッチを回避 しつつ,アジアの貯蓄をアジアの投資に直接つなげることをめざすものであ る.これは現在のところ,中央銀行当局によるアジアボンド・ファンド (ABF 1 と ABF 2)と財務省当局によるアジア債券市場構想(ABMI)の

両輪で進められている.

このように東アジアでは,通貨・金融協調が活発化しているが,域内為替 レートの相互安定のための政策協調はいまだ始まっていない.東アジアにお いては,貿易・投資を通ずる経済的な相互依存関係が高まっており,またマ クロ経済変動の連動性・同調性も緊密化しつつある.こうした域内経済相互 依存の大きさや緊密化にマッチした域内通貨安定の枠組みづくりが求められ ているのである.

当面は,東アジア各国が対ドルレートの変動幅を拡大する方向へ向けた為 替レート制度の収斂が必要だろう.さもなければ,お互いの間での為替レー トの安定が望めないからである.そうした方向に向けて,アジア通貨単位 (ACU)の創出や SDR(特別引出権)ないし SDR プラスの通貨バスケット を参照とする管理フロート制の採用など,非公式かつ緩やかな為替協調を行 いつつ,チェンマイ・イニシアティブと経済サーベイランスの強化,域内金 融システムの開放・統合など協調的な制度づくりに努めていくことが現実的 だろう.そうした努力を通じて,各国間で信頼性を醸成しつつ相互の為替 レート安定化に向けた機会を探っていくことができよう.

参照

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