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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2005年 1月号

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(1)

 第二次世界大戦が終結して、2005年で60年にな

る。この時代を「戦後」という慣習は今でも続い ているが、この60年間をひとくくりにして歴史を

とらえるのは、いささか無理が生じているように みえる。第二次世界大戦の前を「戦前」というに しても、1939年の60年前は1879年であって、この

頃まで含めて「戦前」ということはない。その間 に第一次世界大戦もあるから、「戦前」といって

も意味がないからである。

 これに比べると、第二次世界大戦後は、諸大国 すべてを巻き込んだ世界戦争は、幸運にも発生し

ていないから、いまだに「戦後」が続いていると みることもできるわけである。しかし、そのよう な「戦後」の時代の一つの特徴として考えられて

きたのが「冷戦」であり、その「冷戦」はすでに 終結してしまった。したがって、1990年代には、

「戦後」ではなく「冷戦後」という呼び方が広く 使われることになったのであった。いまや、「戦 後」といっても、冷戦という戦争の「戦後」だと

いうことになる。

 しかし、21世紀にはいった今日、「冷戦後」と

いう時代認識も、かなり古びてきたようにみえる。 2001年9月11日のアメリカ中枢部に対するテロ攻 撃の衝撃が極めて大きかったからである。いまや、

戦後でも、冷戦後でもなく、「9・11後の世界」 という言い方の方が、世界的によく使われるよう になってきたのである。

 いうまでもなく、何かの「後」の時代というと らえ方は、それ自体でその時代の特徴を指し示し

ているわけではない。したがって、もし現代を「9・

11後」の時代ととらえることに意味があるにして も、「9・11後」というだけでは、何事も語った

ことにならない。9・11を境に何が変わったのか。 9・11以後、世界システムにいかかなる特徴が現

れたのか。このような点が明らかにされなければ

ならない。

新しい「戦中」の時代?

 2001年9月11日に起きたことは、日本では、「同

時多発テロ」と呼ばれた。ニューヨークとワシン トンに対してハイジャックされた民間航空機が体

当たりをし、もう一機のハイジャックされた航空 機は、墜落した。たしかに、この事件はテロとみ なすしかない事件であった。しかし、通常、テロ

リズムという言葉で多くの人々が考える事態とし てみると、あまりに大規模で破壊力があった。ニ ューヨークの世界貿易センターの二つの摩天楼は

テレビカメラの前で大音響とともに崩壊し、3000 人以上の人々が殺害された。

 国際政治の研究に おいて、「戦争」を 小規模な武力紛争と

区別するときに、し ばしば使われる基準

は、戦闘員の死者が 1000人を超えるとい うものである。この

基準に、とくに理論 的根拠はないが、だ いたい1000人程度の

犠 牲 の で る も の は 「戦争」と呼ぶだけの重要性はあると思われてい

るのである。この基準からすれば、9・11テロは、 まさに「戦争」の規模にたっしたテロだったとい えるだろう。

 アメリカ人の多くにとっては、これは真珠湾攻 撃以来初めての米国領土への直接的な攻撃だった。

戦 後 史 を 考 え る

(2)

したがって、ブッシュ大統領が、このテロリスト

たちとの戦いを「対テロ戦争」と呼んだことは、 違和感なく受け取られた。その結果、対テロ戦争 という名目で行われる、軍事作戦を含む様々な活

動に対してアメリカ国民の多くは支持を与えた。  こうして、9・11以後の世界は、戦後とか冷戦 後というよりも「戦時」に近い雰囲気で推移する

ことになったのである。2004年11月のアメリカ大 統領選では、ブッシュ大統領が再選されたが、そ

の最大の要因は、対テロ戦争を遂行しているさな かで、アメリカ国民が自らの最高司令官を交代さ せたくないと思ったことにあるとみられる。ブッ

シュ大統領自身、選挙戦では自らを「戦時の大統 領」として支持を求めていた。

 したがって、2001年以後の世界は、ある種の世 界戦争のもとにあるとみなすことすらできるので はないかと思われる。唯一の超大国であるアメリ

カ自身、世界中でテロリストと対峙していると意 識しているし、これに対する9・11の首謀者とみ られるアルカイダもまた、世界中でテロ攻撃を狙

っているとみられるからである。実際、アルカイ ダとどれだけ関係があるかはともかく、以後、か

なりの規模のテロが、インドネシアのバリ島、ジ ャカルタ、中東の各地、スペイン、モスクワ、チェチ ェンなどさまざまな地域で発生している。冒頭で、

諸大国すべてを巻き込む世界戦争はおきていない から、現在も「戦後」と言われると述べたが、い

まや新しい「戦中」の時代なのかもしれない。

イラク戦争

 さらに、9・11以後の世界が、よりきな臭くな ったのは、対テロ戦争の一環として、アメリカが

二つの通常の意味の戦争を始めたからである。そ の第1は、9・11直後から実行したアフガニスタ

ンでの戦争であった。これは、9・11の首謀者と みられるアルカイダがタリバン政権のもとのアフ ガニスタンに根拠地をおいていたからであった。

第2は、2003年3月に開始したイラク戦争であっ た。このうち、アフガニスタンへの攻撃に対する

国際的な支持は強く、軍事作戦が成功しタリバン

政権が崩壊したあと、ただちに国際社会によるア フガニスタン復興支援の試みがなされ、依然とし てさまざまな問題は抱えつつも、2004年秋には無

事大統領選挙が実施されるまでになった。  これに 比べると、

イラク攻 撃は国際

的にたい へん大き な問題と

なった。 アメリカ

がイラク攻撃を行った公式の理由は、サダム=フセ イン政権が1991年の湾岸戦争後の国際約束である 大量破壊兵器の破棄ならびにこれを確保するため

の国際的査察を受け入れていないというものであ った。このような要求を受けて、2002年後半から 国連や国際原子力機関の査察チームがイラクには

いって調査を行ったが、はっきりした結論がでな かった。サダム=フセイン政権の十分な協力姿勢

が得られないということで、アメリカは制裁とし ての攻撃に踏み切ったのであった。

 これに対して、フランスやドイツなどは、査察

をさらに継続すべきであるとして攻撃に反対した。 アメリカ、イギリス、そして日本などは、サダム=

フセインの協力が得られないことを確認し武力行 使を正当化する国連安保理決議を作成しようとし たが、これに対しても、フランスは、そのような

決議に賛成しない(つまり拒否権を発動する)と の立場をとった。結局、アメリカは国連安保理決 議を求めることを放棄し、それ以前の国連安保理

決議のみで武力攻撃の正当性はあるとして攻撃に 踏み切ったのであった。

 もちろん、この法的論争の背後にある対イラク 武力行使に至る経路は複雑であり、今後の歴史研 究の重要な課題であろう。一つの見方からすれば、

(3)

査察とも関係なく、とにかくサダム=フセイン政

権の打倒を常に考えてきていたと言われる。1991 年の湾岸戦争でイラク軍をクウェートから排除し た段階で戦争をやめてしまい、結果としてサダム=

フセイン政権を生き残らせたことが、その後の中 東の混迷を深めたと彼らはみなした。そして、サ ダム=フセインを武力で打倒すれば、彼の圧政に

苦しむイラク国民はこれを歓迎し、イラクに民主 制をもたらすことが可能になると考えた。そして、

イラクの民主化に成功すれば、これを模範として 中東全体に民主主義をひろめ、出口のみえないイ スラエル・パレスチナ問題も進展させることがで

きるのではないかと考えた。さらにまた、かれら は、現在の国際政治の中で、国連などの国際組織

の手続きはアメリカにとって拘束要因になるだけ であって、良い結果を生まないとも考えた。いず れにしても、軍事的にアメリカ軍は圧倒的につよ

いのであって、他国の協力がなくともイラク攻撃 は十分可能であり、武力行使か否かの決断は軍事 的に最も望ましいときに行えばよいのであって、

複雑で困難な多国間外交に縛られることはないと 考えたというのである。

 もちろん、このような考え方に対しては、ブッ シュ政権内部でも国務省を中心とした反対があり、 ブッシュ(父)政権の高官であったスコウクロフ

ト元安全保障補佐官、イーグルバーガー元国務長 官など、伝統的な現実主義者からの批判もあった。

彼らは、対テロ戦争を行っているさなかにイラク に武力攻撃を行うことの問題点を指摘し、かりに 武力攻撃を行うのであれば、かつてブッシュ(父)

政権が湾岸戦争の際に行ったように国連安保理の 支持を取りつけるべく努力しなければならないと 説いた。2002年後半からのブッシュ政権の行動は、

こうした国務省などの見解を受けたものに沿った ものとなった。しかし、その後の国連安保理決議

の作成をめぐっては、表面的には仏独とアメリカ の対立という面が目立ったが、その背後ではブッ シュ政権内部の、安保理決議などはいらないとい

うネオコンと国際協調を重視する国務省などの対 立も大きかった。

 しかしながら、いかにネオコンの影響力がブッ

シュ政権内部で大きかったとはいえ、アメリカ国 民に対して、イラク開戦の正当性を付与したのは、 サダム=フセインが大量破壊兵器を密かに保持し

ているという疑惑であり、9・11テロの首謀者た ちとサダムが結託するかもしれないという恐怖で あった。もし9・11テロを行ったテロリストの手

に大量破壊兵器がわたったら、彼らは必ずこれを アメリカに対して使うだろうと思った。この危険

性からすれば、イラクを攻撃することはやむを得 ないとしたのである。2004年の大統領選でブッシ ュ大統領に対抗し、その後のイラク戦争を批判し

たケリー上院議員も、開戦当時は武力行使を支持 したのであった。やはり対テロ戦争という状況が

あってはじめて、アメリカ国民はイラク攻撃を支 持したのであった。そして、最後まで、大量破壊 兵器を保持しているかのごとく振る舞ったサダ

ム=フセインもまた、イラクへの武力攻撃論に説 得力を与えたのであった。

 いうまでもなく、その後の事態は、アメリカ国

民の期待通りには進まなかったし、ましてやネオ コンの主張した通りにはならなかった。第1に、

イラクで大量破壊兵器は発見されなかった。アメ リカの情報機関の見積もりは、結果的にみれば、 危険の過大評価に陥っていたことになる。第2に、

劇的な軍事作戦勝利後のアメリカ軍のイラク占領 統治は、拙劣を極めた。国内武装勢力の武装解除

が進まないなか、国境管理が十分できず、外国か ら多数のテロリストの入国を許してしまった。こ うして、イラク各地でテロ攻撃が繰り返されるな

か、治安は回復せず、イラクの今後の安定にむけ てなかなか確固たる道筋がつけられなくなってし まったのであった。当初のネオコンの希望的観測

はまったく実現せず、混迷するイラクが、まさに アメリカとテロリストが戦う、対テロ戦争の主戦

場となってしまったのであった。

地域主義の進展

(4)

世界中が戦争をしていたわけではない。現在の世

界が「対テロ戦争」という世界戦争のさなかにあ るとしても、テロリストとの戦争状態のみが、国 際政治における重要な動きなのではない。対テロ

戦争と並行して、21世紀にはいって、世界ではい くつかの新たな趨勢がみえるようになっている。 その中で最も注目されるのが、地域主義の動きで

ある。

 とりわけ地域主義の進展の著しいのはヨーロッ

パである。ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC) 以来、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、ヨーロッ パ共同体(EC)、そしてヨーロッパ連合(EU)

へと統合の度合いを進めてきたヨーロッパでは、 1999年に単一通貨「ユーロ」が導入された。その

後は、冷戦後に民主化した中・東欧の諸国などが 加盟を求めてきたが、2004年には、合計10か国の 新規加盟が実現した(ハンガリー、ポーランド、

チェコ、スロバキア、スロベニア、リトアニア、 エストニア、ラトビア、キプロス、マルタ)。こ うして、EUは、加盟国は25か国となり、全体で

人口は4億5千万、国内総生産も全体で日本の倍 以上という巨大な存在となった。さらに、全体の

統治構造を決める「ヨーロッパ憲法」が2004年6 月のEU首脳会議で採択された。「大統領」職や「外 相」職やEUとしての意志決定方式などを規定し

たこの憲法が、25か国すべてで順調に批准される かは不透明なところはあるが、国際的な行動主体

としてのEUの姿が大きくなる趨勢には変わりは ないであろう。

 一方、これまであまり地域主義的な動きの強く

なかった東アジアでも、ここ数年の地域主義に向 かう動きは顕著である。数年前であれば「東アジ

ア共同体」などという言葉は、ほとんど存在しな かったが、いまや毎年秋から冬にかけて開催され るASEAN+3の首脳会議にあわせて、そのビジョ

ンや方向性が語られるようになった。2004年11月末 にラオスのビエンチャンで開催されたASEAN+3

首脳会議では、2005年にマレーシアで、最初の「東

アジア首脳会議」を開催することの合意がなされ るようになった。もちろん、東アジアの地域主義

は、ヨーロッパに比べれば何十年も後を追いかけ

ている面があり、実質的には、さまざまの経済連 携協定や自由貿易協定を促進するというところに 最も顕著な活動がある。今後、自由貿易や金融協

力などを中心とした協力の枠組みづくりが進むと みられる。

 つまり、現在の世界は、対テロ戦争という世界

戦争という局面にありつつも、ヨーロッパではま すます地域統合が進み、東アジアでは地域協力の

端緒が開かれたという状況にある。このそれぞれ の動向は、独自に動くという面も大きいが、やは り関連せざるをえない面もある。とくに対テロ戦

争の主役がアメリカであるのに対して、二つの地 域主義は、アメリカのはいっていない動きである

ところにある種の緊張がうまれる。

 とくに問題含みは対テロ戦争を戦うアメリカと ますます統一を強めるヨーロッパとの関係である。

イラク戦争の結果、米欧関係とりわけアメリカと 仏独との関係は、過去半世紀にわたってみられな かったほどの緊張を生んでいる。主権国家を超え

て、多角的枠組みのもとで、平和で人権尊重の理 想を実現しようとしているヨーロッパ人の多くに

とって、イラク戦争でみせたアメリカのネオコン 的単独主義は、きわめて野蛮にみえる。他方、現 在のイラクの困難な状況について同盟国であるア

メリカに協力の手を差し伸べないフランスなどに 対しては、アメリカ人の多くは無責任であると思

うようになっている。もちろん、ヨーロッパの中 にもイギリスのように一貫して、イラクにおいて も対米協力を行っている国もある。しかし、全般

的にいって、統合してますます一体感を強めるヨ ーロッパとアメリカとの関係は、やや冷ややかな ものとして推移する可能性がある。

 非国家主体であるテロリストが超大国アメリカ の最大の脅威となり、冷戦時の盟友であるヨーロ

ッパとの関係にも不透明感が漂う。もはや「冷戦 後」でもなければ、ましてや第二次世界大戦の「戦 後」でもない時代にはいっているとみるのが適当

(5)

は じ め に

 本校では、1年次に全員が世界史Aを学習して

いる。最初のうちは、膨大な言葉の暗記や国と国 とのつながりにとまどっていた生徒も、様々なエ ピソードや実物教材で興味を引きながら授業を進

めていくと、やがては「歴史は丸暗記ではなく理 解だ!」と考えるようになってくれる。

しかし、第二次世界大戦後、冷戦が始ま ったあたりから生徒の反応は微妙に変化 してくる。多くの生徒が現代史に興味を

持っていないのである。生徒にとって、 歴史というものは過去のことであり、現 在へのつながりは感じていない。つまり

自分たちが生きている‘今’が歴史の1 ページになるという実感がないのである。

そのような中で、現代史、とくに東南ア ジアの独立後の過程を学習することは、 非常に困難である。

 そこで、現代の情勢をスタートにして、 どうしてそのような状況になったのかを

過去の歴史の流れから考察させ、そして 再び現代を考察し直すという授業を実施

することにした。東南アジア全体を考えるとどう

しても複雑になって理解が難しくなるので、一つ の国に絞って行った。ここでは、「インドネシア」 を題材とした授業を紹介したい。

導  入

 まず、「世界で一番新しい国はどこか」と発問 する。高校1年生である。なかなか答えが出てこ ない。様々なヒント(インドネシアから独立した

など)を出したがわからず、結局正解をこちらが 言って、東ティモールの場所を「最新世界史図説

タペストリー 初訂版」(以下図説と表示)で探す

こととなった。次いで、東ティモールがインドネ シア領になる前は何領だったのかを問うてみた。

多くの生徒が「オランダ」と答えた。恐らく彼ら の頭の中にはオランダ領東インドが浮かんでいる のだろうが、それを否定すると生徒は図説を調べ

始めた。

 やがて生徒は「ポルトガル」が正解であると気 づく。次に、「インドネシアがオランダ領になる 前はどのような状況であったのか」と尋ねる。生

徒の反応はほとんどない。彼らは、インドネシア に対して“第二次世界大戦後独立した発展途上国”

という認識程度しか持っていなかったに違いない。 そこで、東南アジア史を古代から「インドネシア」 に焦点を当てて、眺めるという作業を行う必要が

生じてくるのである。

アジア諸国の独立後の課題−インドネシアを中心に−

福岡県立小倉東高等学校

  田 早 奈 恵

1768∼71 クックの探検

中華民国

仏領 インドシナ

日本 アメリカ合衆国 カ ナ ダ 連 邦

オ ー ス ト ラ リ ア ロシア帝国

オランダ領東インド シャム

ニュージーランド タスマニア島

小笠原諸島 千島列島

グアム島 太 平 洋

南洋諸島

1920ニュージー ランド(委任) 1920オーストラリア

(委任) パラオ諸島

カロリン諸島 コマンドル諸島

ニューカレドニア島 クック諸島 マーシャル諸島

ハワイ諸島 ウェーク島

マルケサス諸島 サモア諸島

フィジー諸島

クリスマス島 ギルバート諸島

トンガ諸島 ナウル島

エリス諸島 ジョンストン島 ミッドウェー諸島

パルミラ島

フェニックス諸島 英・オーストラリア・ ニュージーランド(委任)

サンタクルズ諸島 ニューヘブリディーズ諸島

タヒチ島 トゥアモトゥ諸島 ビスマルク諸島

1884[独]

南鳥島

パプア

シドニー

オークランド 東京

奉天 大連

京城 上海

香港 マカオ

広州

マニラ

シンガポール

バタヴィア 厦門 南京 北京

天津

ハバロフスク ヴァンクーヴァー

スワード

ウラジオストク チタ

ウェリントン メルボルン

イギリス[英] フランス[仏] ドイツ[独] オランダ[蘭] アメリカ[米] ロシア[露] アメリカの進出方向 ロシアの進出方向 日本の進出方向 クックの探検ルート

赤文字 1914∼44年の所属

ビルマ

沖縄 外モンゴル 満州

朝鮮

西サモア1899[独] 東サモア ジャワ

セレベス ボルネオ サラワク

スマトラ

台湾

アラスカ

樺太

ニューギニア 南 西 諸 島

0 2000km

日本(委任)

1840[英] 1907[自治領]

1912 1595[日本人が発見]

1875[日本]

1898[米] 1920 1899[独]

1899[独]

1853[仏] 1788∼[英の流刑植民地]

1901[自治領]

1825

1885[独]

オアフ島 1898[米]

1889[米]

1842[仏] ソロモン諸島

1899[英] 1884

1892[英]

1892[英] [米]

1899[英] 1867[米]

1897[米]

1889[英] [独]

1906[仏]1906[英]

1842[仏] 1858[仏] [日本]

1879[日本]

フィリピン 1898[米]

ティモール [葡]

1895[日本] 1875[日本]

1910[日本] 1905[日本]

[英] [葡]

1899[米] マリアナ諸島

1920日本 (委任)

[英]

サンフランシスコ

1867[米] ア リ ュ ー シ ャ ン

列 島

⑤太平洋の分割

(6)

展   開

1.インドネシアの歴史

 インドネシアの歴史といっても、詳しく説明す

ると時間が足りない。そこで、図説の世紀ごとの 地図である「世界全図で見る世界史」を利用して、 歴史を概観させる。

 まず、前2∼前1世紀頃の地図を見せる。東南 アジア自体に国家らしきものはないが、インドか

らマレー半島あたりまで海上交易路が発達してお り、インドではすでに仏教が成立していたことを 補足すれば、交易路を通って仏教が伝播したこと

が容易に想像できる。その後、ヒンドゥー教が伝 播し、地図にはないが、4世紀頃にはインドネシ

アではヒンドゥー教を奉ずるインド型の初期国家 が誕生したことを紹介する。7世紀の地図ではシ ュリーヴィジャヤ王国を確認させる。この国は大

乗仏教を奉じ、海上貿易で栄えたことを説明する。 また、中国から渡印した唐僧の義浄が途中でこの 国に立ち寄ったことなどを付け加えると、今まで

遠く感じていたインドネシアが急に身近に思えて くるようである。8∼9世紀の地図ではシャイレ

ーンドラ朝を確認させ、この国が建造した世界遺 産のボロブドゥール寺院を紹介する。14世紀の世 界では、ジャワ島最後のヒンドゥー教国であるマ

ジャパヒト王国を確認させ、その後、16世紀には 中部ジャワにイスラームを奉じるマタラム王国が

隆盛を誇ったことを紹介する。

 ここで、16世紀という時代が、ヨーロッパはい わゆる大航海時代であったこと指摘する(1492年

に、コロンブスがアメリカに到達したというエピ ソードを紹介すれば、生徒は容易に理解できる)。 東南アジアが香辛料の一大生産地であったため、

マタラム王国は、しだいに香辛料を求めてやって きたオランダに駆遂されて、ついに20世紀初頭に

は“オランダ領東インド”という植民地になって しまったことを理解させる。

 ここまでの作業で、生徒はインドネシアの王朝

の交替やそのたびに国の宗教もめまぐるしく変化 していったことなどを理解することができたよう

である。そして、それらの国がオランダやポルト

ガルなどのヨーロッパ勢力によって一方的に侵略 され、結局植民地になってしまったことを実感で きたようである。また、オランダが導入した悪名

高い強制栽培制度を紹介すると、植民地になると いうことがどれだけ現地の住民の生活を脅かすも のであるかおぼろげながらわかっていくのである。

2.独立運動とインドネシア共和国の成立

 オランダの植民地になると同時に、インドネシ

アの人々は独立運動を始めたが、オランダからは 容赦のない弾圧があったこと、その弾圧された 人々の中に後のインドネシア初代大統領スカルノ

がいたことを説明する。またスカルノたちは、第 二次世界大戦に際しては、太平洋戦争遂行のため、

インドネシアの資源・人材を必要としていた日本 軍と戦後独立の約束を交わし、協力関係を築いた が、同時に日本によって食料強制徴用・強制労働

などの暴政が行われたことも理解させる。  第二次世界大戦後、スカルノによってインドネ シアの独立が宣言されたものの、再支配をめざす

オランダとの独立戦争を経て1949年に完全独立を 果たしたことを説明する。

3.独立後の課題

 ここで、ようやくインドネシアの現代に戻って くる。独立後のインドネシアにどのような課題が

あったのか、国内の民主主義は成長したのか、複 雑な国際関係の中で、インドネシアは独立を確固

たるものにしていけたかを考察させる。

 これまで行ってきた作業の中から、生徒が考え たインドネシアの課題は、「インドネシアが多数

の異なる言語や文化・宗教を持っていること」そ して、「その多様なインドネシアをどのように一 つにまとめていくか」というものであった。その

他にも、それまでの植民地支配の中で独自の発展 を抑制されていたため、石油生産やプランテーシ

ョンは、外国資本に握られたままであったことを 指摘すると、その深刻さが理解できたようであっ た。

(7)

 独立を達成したインドネシアは、1955年にアジ

ア・アフリカ会議を主催するなど外交の根幹に、 反帝国・半植民地主義を掲げていた。しかし、1950 年代は、冷戦がアジアにも波及しており、独立し

たばかりのインドネシアは有効な外交政策を実施 することができなかったことを説明する。初代大

統領となったスカルノは、上記の課題を克服する ために自らの権限を強化するという「指導民主主 義」という体制をとり、スカルノ・国軍・共産党

という三つの政治勢力を権力基盤として、社会主 義陣営に接近し、産業の国有化・外国資本の接収 などを行った。しかし、これにより経済が破綻し、

国際的にも孤立していったことを説明する。1968 年にスカルノにかわって大統領となったスハルト

が、スカルノとは反対の反共政策をとり、積極的 に外国資本を導入し、他のアジア諸国とともにめ ざましい経済発展を遂げた。東ティモールを27番

目の州として併合したのも彼の時代である。しか し、1997年の金融危機の際、華人への反発などか

ら暴動がおこり、スハルト独裁体制が崩壊したこ

とを説明する。この時、インドネシアの経済にお いて、華人が多大な影響力を持っていたことを補 足しておく。一方、導入で触れたように、2002年

には東ティモールが独立し、またアチェの分離運 動やキリスト教徒とイスラームとの抗争で多くの 死者が出るなど、その複雑な民族構成から、イン

ドネシアからの分離・独立を要求する動きも激化 していることも説明する。

ま  と  め

 2004年9月にはユドヨノ氏が大統領に選ばれた。

小政党出身のユドヨノ大統領がインドネシアの民 主化を確かなものにすることになるのか、それと

も改革がつまずいて国民の失望を買い、再び権威 主義の政治の復活となるのか。新政権の前には政 治・経済面で多くの困難が立ちはかだっているこ

とを指摘する。

最  後  に

 このように、インドネシアの歴史をたどってみ ると、植民地であった国が独立し、政治的にも経

済的にも自立することがいかに難しいかを痛感す る。生徒の一人から「こんなに民族・宗教・文化 が複雑な所なのだから、一つの国になること自体

が無理だ」という発言があったが、これには多く の意見が出た。確かに、現状を見る限りではそう

かもしれない。しかし、だからこそインドネシア の人々が様々な地域から伝播してくる文化や宗教 を柔軟に受け入れてきた歴史を見てほしい。民族

が異なっていても共存していたのである。一方的 な植民地支配がそのバランスを崩してしまったと は言えないだろうか。この授業は、1時間程度の

予定で考えたものであったが、実際には2時間も 費やしてしまった。しかし、今回の授業で生徒は、

歴史は過去のものではなく、現在につながってい るものなのだということを少しだけ実感してくれ たようである。不十分な点も多々あると思うが、

ご意見ご批判をいただければ幸いである。 民

主 化 の 代 発 独 裁 の 代 独 立 冷 戦 の 代

戦後の東南アジア・台湾の動き

p.231

1945 インドネシア共和国成立(スカルノ大統領)

ヴェトナム民主共和国成立(ホー=チ=ミン国家主席) 46 フィリピン共和国成立,インドシナ戦争勃発(∼54) 48 ビルマ連邦共和国成立

49 オランダ,インドネシアの独立を承認 中華民国国民政府,台湾へ(蔣 石総統独裁) 54 ュネーヴ休戦協定でインドシナ 国の独立承認

55 アジア=アフリカ会議 催(インドネシア,バンドン)

63 レーシア連邦成立(65 シンガポール共和国が分離) 65 ヴェトナム戦争勃発(∼ 5)

インドネシア,九・三〇事件 スハルト独裁政権成立 ィリピン,マルコス 大統領就任→独裁政権成立 67 東南アジア諸国連合(ASEAN)立

(タイ・インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・    ルネイ〔1984 ・ヴェトナム〔1995 ・ミャンマー〔1997 ・

ラオス〔1997 カンボジア〔1999 )

68 インドネシア,スハルト 大統領就任 反共路線を推進 1 華民国,国連追放

5インドシナ 国の親米政権が解体

ンボジア,プノンペン陥落,ポル ト派が実権にぎる 民主カンプチア,ヴェトナム社会主義共和国が成立( 6)

インドネシアが東ティモールに軍事侵攻

9カンボジア内戦(∼91)

86 ィリピン,マルコス政権崩壊→アキノ政権成立(現,アロヨ政権) ェトナム,ドイモイ(刷新)政策 択

88 ルマ,軍事クーデタ勃発(89 ビルマ,ミャンマー改称) アウンサン ーチーの民主化運動

90 台湾民主化,李登輝 総統に就任 92 イ,民主化運動

97 アジア通貨危機

98 インドネシア,スハルト政権崩壊→ハビビ政権成立 00 台湾,陳水扁が総統に就任

1 インドネシア,メガワティ(スカルノの娘)政権成立

2 ティモール独立

p.239∼240

p.239

p.244

ょう き

⑧スカルノ

⑪李登輝リートンホイり とう き

⑩ポル=ポト

⑨マルコス

(8)

今までどのような授業を行ってきたか

 東南アジアの近代は西欧世界との接触なくして

は語ることはできない。その近代とは19世紀前半 の西欧列強による植民地支配に直面してから始ま る。つまりイギリスの海峡植民地の形成、フラン

スの仏領インドシナの形成、オランダの蘭領東イ ンドの形成、スペインにかわってアメリカのフィ

リピン支配という近代の歴史である。そして植民 地時代の終焉は第二次世界大戦後、いわゆる冷戦 開始前後である。

 この間東南アジアは、西欧の物質的優位を否定 しようもなく西欧の文物を受け入れ、様々な支配 の過程を経て、その中から民族主義や国民国家的

まとまりを育むこととなった。

 教科書の多くは、植民地化の過程を客観的に描

く中で、東南アジアの人々が過酷な植民地支配に あえぎ、打ちのめされる存在であったと描く傾向 にある。確かにそれは間違いではない。イギリス

におけるインド支配がそうであり、東 南アジアでも例外ではないからだ。

 ところが帝国書院の教科書「高等世 界史B 新訂版」の記述はそれのみで はない。私が注目するのは、現代の東

南アジアの社会構造を踏まえての記述 がみられ、きちんとした東南アジア像 を提示していることにある。

 そこで私は、この社会構造を生徒に 理解させ、現代の東南アジアを知る手

がかりを紹介したいと考える。

 植民地化される東南アジアについて、 授業では東南アジアの全体を理解させ

るため、教科書の歴史地図を用いて西 欧諸国による植民地の形成を跡づけて

いる。結果的に生徒自身は東南アジア像をほとん

ど描けず、植民地になった事実しか理解しない。 人が生活し、文化を育むといった姿は捨象されて

いる。本来なら、そうした点を理解させるべきだ が、東南アジア全体を理解させることを優先する 必要から無視している。結局、生徒の東南アジア

像は、西欧諸国の圧倒的な力の前に呆然とするし かないという東南アジアの人々の姿を固定化させ

ることになる。

 こうした授業に対する教師の負い目も手伝って、 教師は唯一植民地にならなかったタイの説明では、

タイの自立性、とりわけ近代化を強調する説明を 行うのである。

 イギリスとフランスの緩衝地帯という地政学的

環境の中で、植民地化の危機を深刻に受けとめた タイ王室が、日本と同じように近代化を模索し、

独立を維持すべく列強と粘り強い外交を展開して いき、その圧力と対峙していったと説明するので ある。

植民地時代の東南アジア

−世界システムの周辺と地域間貿易の機能−

神奈川県立総合教育センター

 小 島 正

仏領 インドシナ連邦

フィリピン

オ ラ ン ダ 領 東 イ ン ド 英領

マレー

 東ティモール シャム(タイ)

王国 

台湾

英領インド

サンボアンガ マニラ

サイゴン

 ホンコン (英) マカオ (ポ)

(ポ) (日)

フエ

台北

コタキナバル

シンガポール マラッカ

バタヴィア

バリ島

クチン ブルネイ ペナン

ラングーン

バンコク ハノイ

ス マ ト ラ 島

ボ ル ネ オ 島

ジ ャ ワ 島

*(ス)スペイン領  (ポ)ポルトガル領  (日)日本領 1867

1896

1819 1858

1825

1813 1863 1888

1844

1860 1898(米) 1565(ス) 1887

1863 1886 1893

1842

1887 1895

太 平 洋

0 500km

オランダ領(オ) フランス領(仏) アメリカ領(米) イギリス領(英) イギリス保護領 イギリス海峡植民地 宗主国による獲得年 数字

(9)

 植民地化時代の東南アジアという単元において、

授業時間の確保が容易でないこともあり、こうし た授業が行われてきたのではないかと思う。  このような授業の進め方では、どうしても歴史

の主体として生きた東南アジアの人々の歴史を説 明したことにはならない。加えて教科書にもほと んどそうした点を意識した記述はみあたらない。

 では東南アジアの人々が、どのように近代との 出会いを受けとめ、どのような明日を描こうとし

たのかということについて、私たち教師はどこで それらの事項を説明しているのか?

 その点は、次の20世紀前半から第一次世界大戦

前後のアジアにおける民族主義の台頭のところで 説明するのである。私もそのような授業の進め方

をとってきた。たとえば、インドネシアのカルティ ニやヴェトナムのファン=ボイ=チャウなどを紹介 している。少々長いが、有益な資料なので紹介す

る。

資料 インドネシア民族主義の芽−カルティニ

 オランダ語を自由にあやつり、ヨーロッパ文化

に通じていたカルティニ(1879∼1904)であった が、彼女がもっとも愛し心をくだいていたのは

ジャワの文学であり、文化であり、ジャワ人の生 活であった。(略)

 村びとが毎日の仕事のあとでの練習で受け伝え

てきたジャワ音楽ガムランの調べは、とてもやわ らかく洗練されていて、魅惑的な音がまじりあい

ふるえあいどこへともなくただよっていく。それ は、ときには嘆くようにときには泣くようにとき には笑うように語りかける人間の魂の声、民族の

魂としてカルティニの心にしみこんだ。

 彼女はオランダ人の友人にあてた手紙でこう書 いた。

「わたしたちはよく、ジャワ人よりも心はオラン ダに近いといわれます。そういう批判は心をいた

めます。わたしたちの血管のなかを熱く流れてい るジャワの血は消すことはできません」

「ああ!もともとは美しく気高く心やさしく信仰

深くつつしみ厚かったジャワ人の魂は今はどう なってしまったのでしょう。外国勢力に支配され、

この落ちこんだ何百年ものあいだにジャワ人の魂

はどうされてしまったのでしょう?」

(吉田悟郎著『恐れと怒りのはなし』「歴史のなかの子ど もたち 4巻」大月書店)

世界システムと域内貿易の活性化の視点

 東南アジアの植民地化について、ほとんどの教

科書では、19世紀以降の東南アジアがイギリスを 中核とする世界システムに組み込まれ、世界市場

向けに商品を輸出する周辺として位置づいたと記 述している。

 ところで帝国書院の教科書は、世界システムと

は別にアジア地域間貿易というサブシステムが有 効に機能していることを記述している。そして東

南アジアを含めたアジア経済交易圏は、世界シス テムには完全には従属していないことを明らかに している。この指摘は東南アジアの社会構造を理

解するうえで、きわめて重要な視点である。  そこで私は、植民地化された東南アジアの授業 においては、アジア地域間貿易までを視野に入れ

た授業展開を行うことを提案したい。紙面の都合 もあるので、ここでは要点を整理しつつ展開の柱

を明示したいと思う。

①イギリスによる天然ゴム・錫など世界市場向け の商品生産とプランテーション経営。これと関

連してオランダの強制栽培制度を説明する。こ こではプランテーションに特化することの危険

性(食料自給力の低下)も補足説明したい。 ②19世紀以降、プランテーションや鉱山開発にお

いて、東南アジア社会に急増する移民労働者の

動きを説明する。中国系労働者による華人社会 の形成などを例にあげ、現代につながる東南ア ジアの民族構成を理解する手がかりとする。関

連として教科書p.282∼283の内容(「世界の一 体化と社会」)はグローバルな視点から移民を

考えることができるので、生徒にきちんと読ま せたいと考える。

③アジア地域間貿易とは何かを理解させる。また

世界システムとの関連性を明らかにする。「最 新世界史図説 タペストリー 初訂版」p.200の「植

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─────────────────────

─────────────────────

──────

──

(10)

民地開発と交易圏の形成」の図を用いてメコン

デルタの水田開発とアジア米市場の流れを説明 する。その視点は次の通りである。

④西欧文化の接触と民族文化の変容。

 教科書p.274の内容を生徒に読ませるとよい。

 ・地域内での経済発展の不均衡  ・植民地支配と分断策

 ・経済的優位にある中国人・インド人の存在  ・西欧崇拝と伝統文化の見直し

 以上の視点を生徒に気づかせたい。他の教科書

にはない記述でもあり、教師側にも参考になる。

身近な東南アジアの学習を深める

 現在の生徒は、東南アジアのマレーシアやシン ガポールに修学旅行に行き、東南アジアで生産さ

れた多くの商品を消費し、音楽・ファッションなど の文化を受容している。そのため、グローバリゼ ーションの進展で、東南アジアはより身近な存在

となりつつあるのではないだろうか。そうである ならば、過酷な植民地支配のみを強調して理解さ

せる説明だけではすまない時代が来たように思う。  東南アジアの人々の過去にはどのような歴史が あり、その歴史の中でどのように生きてきたかが

問われるべきであり、教えるべき本筋ではないだ ろうか。 

 また第二次世界大戦後に東南アジアの国々がど のようにして独立し、 それらの国づくりや地

域の特色がどうであっ たかも考察させるべき ものである。

 19世紀以降の東南ア ジアの近現代を学習す

ることはたいへん重要 な時代になってきてい る。しかしながら、教

科書では時代ごとに細 切れの学習に重きをお

きがちである。  そこで、東南アジア の近現代をテーマ学習

として取り上げたらど うだろうか。現代世界をよりよく理解するうえで、 生徒にも東南アジアに注目させることが重要で、

そのためには多少時間を多く割く必要を感じてい る。

参考文献

「東南アジアの歴史 人・物・文化の交流史」  桐山昇他著 有斐閣アルマ 2003年 世界市場向け商品の増産

○ インド系・中国系労働者の増大と食料需要の増 加

○メコンデルタによる米の増産と輸出

○米のアジア域内での流通拡大 ↓

○労働者の収入増加と必需品購入による消費拡大

○製造業(軽工業)の生産活動の活性化 ↓

アジア経済交易圏の形成(東南アジア含む)

────────────────

サイゴン (ホーチミン) ミイトー

カントー ハティエン

カンボジア ヴェトナム

0 100km

1900年の水田(117.5万ヘクタール) 1937年の水田(102.5万ヘクタール)      (合計220.0万ヘクタール)

コンダオ島

メコン川 南

海 ナ シ

オケオ

シャム

朝鮮 日本 フィリピン

ネパール

セイロン

フランス領 インドシナ

中東

蘭領東インド

中国 ・香港 海峡植民地

700

39 135 280 285

121

313 323 116

330 208 147

81 249

335

57

数字

米の産地 

米の輸出量 (単位 千トン) シャム

インド

150

〈杉原薫『アジア間貿易の構造』より作成〉

メコンデルタ (年)

作付面積(万ヘクタール)

人口(万人)

サイゴンからの米輸出(万トン)

1880

52.2 167.9 28.4

1900

117.5 293.7 74.7

1937

220.0 448.4 154.8 植民地化の進展

によって,各地でプランテーション建設が 進んだ。食料供給地としてメコンデルタ・ 下ビルマが開発され,米の増産と大量輸出 が図られた。働き手として移民してきた華 僑・印僑の本国への送金と米の輸出を通じ て,東南アジアに交易圏が形成された。

④メコンデルタの開発

⑤アジアの米市場の流れ(1913年)

⑥メコンデルタの開発の推移

植民地開発と交易圏の形成

2

(11)

は じ め に

 「19世紀前半の世界」という言葉から生徒は何

をイメージするだろうか。ヨーロッパでは「産業 革命」と「フランス革命」が同時進行で起こる「二 重革命」の時代であり、ヨーロッパ以外の地域で

は植民地化・半植民地化の時代であった。そして 両方の地域にまたがりパックス=ブリタニカの繁

栄を謳歌したのが、他国を圧倒する経済力と海軍 力を持った覇権国イギリスであった。「19世紀前 半の世界」を帝国書院『最新世界史図説タペスト

リー 初訂版』p.36∼37(以下「タペストリー」、 またはp.36のように略記)では、この時期につい て「工業化で圧倒的な生産力を得たイギリスが、

世界各地をイギリス中心の経済分業システムに組 み込んでいった」時期であると概観している。

 本稿では「タペストリー」を使った「ラテンア メリカ独立」と「インドの植民地化」、「アヘン戦 争」の授業案を示し、イギリスがどう関わり、「自

由貿易」を進めていったか考えたい。

ラテンアメリカの独立

授業展開

 この授業は多くの場合「フランス革命とナポレ

オン」の後となり、アメリカ独立とフランス革命 の理念が、ラテンアメリカ独立に大きな影響を与 えたことが強調される。(p.165「環大西洋革命」)

 授業は2つの地図(p.34、36)を見比べること から始める。ポルトガル領であったブラジルを除

き、ラテンアメリカ諸国はスペイン領であったこ と、イギリスとの自由貿易を求め本国スペインへ の不満が高まっていたことを読みとらせる。イギ

リスにとっては、貿易の中心は西インド諸島であ ったが。

 p.174には独立に関連して3人の肖像が登場す

るが、⑤のトゥサン=ルーヴェルテュールだけが 黒人の指導者である。1804年世界最初の黒人共和

国となったフランス領サンドマング(ハイチ)の 独立が、他のカリブ海植民地やラテンアメリカの 独立運動に、大きな衝撃を与えたことを指摘して

おきたい。難を逃れたフランス人植民者がハイチ での「惨劇」(殺害と追放)を伝え、独立運動を

指導する白人たちは「ハイチの二の舞」を警戒し たからである。「ハイチ」は「流血と破壊」、「有 色人支配」「貧困」の代名詞となった。

 ハイチ以外のラテンアメリカ諸国の独立では 1.独立の中心となったのは誰で、理由は何か。 2.独立の経緯とイギリスの関与。

3.独立後のラテンアメリカ社会。 という観点から授業を展開したい。

 まず1だが、p.174④の社会構造の図(下図) を使い、ラテンアメリカ社会の特色を説明する。 それぞれ階層の割合はどれくらいだろうか。

 ペニンスラールの割合が0.1∼0.2%であるのに

対し、クリオーリョ(現地生まれの白人)の比率 は総人口の約2割であり、同じくほぼ2割の混血

を従え、約6割の先住民を支配する。これが米国 やオーストラリアのような「定住植民地」(先住 民は1%未満)とも、また英領インドや仏領イン

ドシナなど「行政植民地」(白人は1%未満)と も異なるラテンアメリカ社会の特色である。ボリ

「19世紀前半の世界」を「タペストリー」で学ぶ

千葉県立幕張総合高等学校

 竜 田 雄 志 栄

────

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───

──────

────

──

ヨーロッパ 本国からの 白人(ペニンス

ラール)

クリオーリョ

(植民地生まれ  の白人)

メスティーソ(白人と   インディオの混血) ・ ムラート  (白人と黒人の混血)

・全人口の約 80%を  占める ・大土地所有の底辺を

 ささえる ・クリオーリョからも差別 ・社会の最高位・特権階級 ・ラテンアメリカの大半  を支配 ・本国生まれの白人から

 差別 ・サン=マルティンやボリ

 バルもクリオーリョ この二つ

が中南米 独立を 推進

・ インディオ(先住民)・黒人 ④スペイン統治下の社会構造

(12)

バル(p.174①)も、サン=マルティン(p.174⑥)

もクリオーリョ出身であった。

 1800年頃のスペイン本国の人口は約1150万、対 する植民地の人口は約1500万人であった。海上支 配権を持つイギリスを味方につけさえすれば独立 は十分可能であり、しかも植民地との合法貿易を

望むイギリスには動機があった。砂糖・カカオ・

皮革など農牧産品の輸出を基幹産業とし、独立へ の要求がとくに強かったベネズエラとアルゼンチ

ンが二人の出身地であったことに注意したい。  2について、p.171の「ヒストリーシアター」 と地図を使い、本国スペインがフランス軍に占領

されていたことを復習する。ナポレオンによる王 位簒奪に反発して1806年5月2日に始まったマド

リード市民の蜂起は、すぐスペイン全土に広がり、 国土解放と市民革命を同時的課題とする半島戦争 に発展していった。本国の混乱に乗じて1810年、

クリオーリョが反旗を翻したが、スペインの蜂起 軍と同盟者となったイギリスは、独立運動の味方

をするわけにはいかなくなり、本国側の強力な巻

き返しの結果、1814年の時点でクリオーリョの自 立体制が残っていたのはブエノスアイレスだけと

なった。独立闘争はナポレオン失脚とスペイン・ ブルボン王朝復位をはさんで繰り広げられた。  1816 アルゼンチン独立

 1818 チリ独立(サン=マルティン)  1819 大コロンビア共和国独立(ボリバル)

 1821 ペルー独立(サン=マルティン・ボリバル)  1821 メキシコ独立

 1822 ブラジル、ポルトガルより独立(帝政)

 スペイン本国はウィーン体制からの援助を求め たが、イギリスのカニング外相は、中南米がスペ インの支配から離脱することが貿易上好ましいと 判断、メッテルニヒの干渉政策に反対して独立運 動を支持した。1823年、独立に対する干渉を排除

するための共同宣言を米国に提案し、またフラン スの干渉意図に対する警告をだして計画を放棄さ せたのである。大西洋の制海権を握るイギリスが

明確に独立支持を打ち出したことで、スペインに よる植民地奪還の見込みは事実上消え、あとはキ

ューバとプエルトリコを残すだけとなった。

 3に移る。ラテンアメリカ独立は社会革命を伴 わず、クリオーリョによる大土地所有が強まった。 国内の分離主義が強く、政治的にも不安定であり、

カウディリョ(頭目)と呼ばれる政治指導者によ る暴力と恐怖の支配がしばらく続く。イギリスの

自由貿易体制に組み込まれたラテンアメリカでは、

クリオーリョ支配層は原料の輸出によって必要な 工業製品を獲得することを好み、国内工業の育成

には無関心であった。だが1870年代に政治は安定 し始め、第二次産業革命を背景に一次産品・工業 原料に対する需要が高まると、経済的にも発展を

遂げた。

綿布とアヘン:自由貿易帝国主義

授業展開

 世界最初に工業化を行ったイギリスが、自由貿

易を他地域に強制していく過程を、東アジアと南 アジアを例にとり勉強する。

 初めはヨーロッパと北米がおもな輸出先であっ たイギリス綿製品の流れが変化し、アジア・アフ リカ・南米向けの輸出が伸びてくる。逆転の時期

がドイツやフランスが産業革命を迎える1830年頃 であることを、グラフから読みとらせる。アジア

の相手国がインドと中国であること、第1位のイ ンド向けが第2位の中国向けのほぼ2∼3倍であ ったことを付け加える。南米向けの輸出が伸びた

理由は上述の通り。またp.162④のグラフで、1820 年頃を境にインド向け綿布の輸出が、輸入を上回

────

────

────

───

1.輸出の流れが変化するのは、何年頃か。 2.アジアの貿易相手国は、どこか。

図10 イギリス綿製品輸出とインド・中国

加藤祐三「イギリスとアジア」 %

60

50

40

30

20

10

1815 1820 1840 1860 1880 1900 ①

①イギリスの対インド輸出にしめる綿製品の比率. ②イギリスの綿製品輸出にしめる対インド輸出の比率. ③イギリスの綿製品輸出にしめる対中国輸出の比率.

(13)

ったことを読みとらせる。

 イギリスは植民地の拠点を持っていたインドに 対しては、関税率をいじることで、インド綿布の 輸入という「東から西」の流れを逆転させること

ができた。並行して自由貿易への要求が国内で高

まり、1813年に東インド会社の対インド貿易独占 権は廃止された。インド向け輸出の中で綿製品が

占める割合は、1830年には55%に達した。  「タペストリー」p.198∼199の地図と年表から

東インド会社によるインド支配の過程を整理する。

 植民地拡大に伴って増大する維持経費は、どの

ようにまかなわれたのか。(p.198⑥、⑦参照)

近代の東アジア 

 イギリスは中国から茶を買っていた。支払いは

銀である。銀塊を積み中国の広州で買いつけた茶 をイギリスに運ぶ。アヘンの専売が開始された

1773年の前後、東インド会社がかかえた大幅な貿 易赤字の多くが茶の輸入によるものであることを、 p.35およびp.34の茶のグラフから読みとらせる。

インドの2∼3倍の人口を持つ中国で、イギリス 製の綿製品の輸出がなぜ伸びないのか。イギリス

はその理由を、中国の貿易制度(貿易港の広州限 定と公行)に求めた。林則徐によるアヘン没収は、 イギリスには自由貿易を強制する好機に映った。

 答えはともに、東インド会社である。

自由貿易強制のための軍隊

 対中国貿易の独占権が廃止された1834年以降、 東インド会社は貿易活動から撤退し、イギリス本 国の植民地支配・対外侵略の出先機関となってい

く。軍隊維持や植民地行政、さらに本国の財政を 支えるためにも、アヘンの輸出は欠かせなかった。 インドから輸出されたアヘンの約85%は中国へ、

残りの15%はオランダ領インドネシアなどへ転売 された。インド軍には周辺諸国への出兵の役割も

あった。アヘン戦争でイギリスが動員した兵力は 陸軍1万5000人、海軍艦船46隻、輸送船は100隻 に及んだ。兵士のうちインド人シパーヒーが約8

割を占めた。1826年にペナン、マラッカと海峡植 民地を構成したシンガポールが、カルカッタを出

発した遠征軍の集結基地となったことを、p.37の 地図「日本と東アジア海域」(下図)で確認する。 世界に点在する島が、海軍の補給基地であった。

 北京への食料輸送のルートであった大運河を、 イギリス海軍が封鎖したことが決定打となった。

戦意を失った清国側は1842年南京条約を結び、賠 償金を支払い、上海など5港を開港した。アヘン の密貿易は黙認された。しかし、イギリス産綿布

の中国向け輸出は依然として停滞し、市場開拓の ために条約改正を求め、再度の武力行使(アロー 号戦争)につながっていった。

<参考文献>

歴史学研究会編『講座世界史2・3』東京大学出版会 高橋均『ラテンアメリカの歴史』山川出版社 高橋均/網野哲哉『世界の歴史18』中央公論社 大江一道『世界近現代全史1』山川出版社 加藤祐三『イギリスとアジア』岩波新書

横井勝彦『アジアの海の大英帝国』講談社学術文庫

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──

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─────────

──

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プラッシーの戦い →ベンガル地方

カーナティック戦争 →南インド東岸   (ポンディシェリ攻略:仏の敗退)

マイソール戦争 →南インド

マラータ戦争 →デカン高原

シク戦争 →北西部(パンジャーブ)

1 .図は、イギリスの戦艦が清の軍艦を砲撃して いる場面だが、この戦艦はどこからきたか。

2.アヘンを輸出(専売)しているのは、誰か。

①アヘン戦争

ヒストリー

シアター イギリスの一発逆転打となったアヘン

清のジャンク船

イギリスの鉄甲艦 ネメシス号

ボートで脱出する清の水兵

福州 厦門 (アモイ) 広州 マカオ ハノイ

キャフタ イルクーツク

ネルチンスク アルバジン

ウラジオストク アイグン サイゴン

バンコク ペグー

マラッカ ペナン コロンボ

マドラス

カルカッタ

フエ シンガポール

マニラ 寧波 香港

南京 北京 天津 上海

横浜 箱館

根室 新潟 江戸 大坂 下田 神戸

琉球 長崎 シャム

ビルマ

カンボジア ラオス

スペイン領 フィリピン オランダ領東インド

イギリス領 インド

越南

バタヴィア

アンボン マカッサル 対清貿易で赤字が続 いたため,アヘンを 密輸出。

日本 朝鮮 清

ロシア

沿海州

小笠原諸島

1826年,海峡 植民地成立。

ヨーロッパ諸国との貿易 港は,広州に限定してい たが,アヘン戦争に敗れ て5港を開港。

1847年に東シベリア総督を 設置。ムラヴィヨフが就任。

ナポレオン戦争時,フラン ス領オランダの植民地を占 拠。ついでに長崎にも野心。

ア ム ー ル 川

江戸時代

アヘン戦争の英軍の進路 南京条約で開かれた港 イギリスの植民地 米ペリー艦隊の進路 日米和親条約の開港地 通商条約の開港地 ロシアの進出 英フェートン号の進路

日本と 東アジア海域

強まるイギリスのアジア支配 西半球で覇権を確立したイギリスは,アジアでもインドを拠

(14)

はじめに−「資料活用」の位置

 いわゆる観点別評価は、教育現場に大きな影響

を与えつつある。4観点のうちでは「資料活用の 技能・表現」が地理歴史科で注目されており、世 界史の分野でもセンター試験をはじめとするテス

トおよび学力評価問題で、グラフ読み取り等が目 立って増加している。しかし、グラフや表などの

「資料活用」は初学者の世界史学習でそれほど重 要なものなのだろうか。新傾向の問題対策に翻弄 される教員や受験生の姿を見て、素朴にこんな疑

問を感じている。

「資料活用」問題の例とA君の解き方

 次に紹介するのは、近年のセンター試験・世界 史Aで実際に出題されたものである(一部修正を

加えてある)。

この問題を見て受験生のA君は次のような順で答

えを出したという。

「パズル的思考」と「歴史的思考」

 ここで問いたいのは次のようなことである。 (1)A君は「思考Ⅰ」から「思考Ⅹ」のうちい

くつかに見られるように、ただ覚えるだけでなく、

その場で一応考えて答えを出しているが、このう ち「歴史的思考」と呼べるものがあるとすれば、

それはどれか。

(2)A君はこの答えを導き出す作業を通して、 どんなことを学習したことになるか。(ここでは、

新しい発見、今までの考えの修正、もしくは今 までおぼろげだった考えが強化されたり、確証に

「3部 現代の世界と日本」

̶観点別評価と世界史の魅力̶

愛知県立成章高等学校

 西 牟 田 哲 哉

世界史A 学習の評価について

フ ラ ン ス ロ シ ア

そ の 他

1870 1880 1890 1900 1910 1913年 (単位:%)

18 4 10 13

23

32 19

3 9 13

28

28 22

3 8 14

31

22 22

6 7 16

31

18 23

5 7 16

35

14 22

6 6 16

36

14  下のグラフは、帝国主義時代の各列強が、1870 年代 から 1910 年代にかけて世界の工業生産高で占めていた 割合を示したものである。図中のa∼cの国の名の組み 合わせとして正しいものを、次の中から一つ選べ。 ① a)アメリカ b)ドイツ  c)イギリス ② a)イギリス b)ドイツ  c)アメリカ ③ a)アメリカ b)イギリス c)ドイツ ④ a)イギリス b)アメリカ c)ドイツ ⑤ a)イギリス b)オランダ c)アメリカ

(15)

至ったりすることなどを含めて、認知構造に何ら

かの変化があった状態を「学習」と呼ぶことにす る。)

(3)この問題を「学習の評価」のための問題と

捉えた場合、“祈り”も通じてかろうじて正解に たどり着いたA君や他の受験生らは、結局どんな 学習上の力(「学力」)があったと、評価しうるのか。

(4)この問題で使われているグラフという「資料」 は、何のために「活用」されているのか。

 筆者の考えを端的に述べる。A君は自分が試験 場で思い出した「知識」を利用し、確かに「考えて」 答えを導き出している。しかし、その「思考」は

いずれも「歴史的思考」とはいいがたいものであ る。「急上昇したのはアメリカとドイツ」という

知識を思い出し、その条件にあてはまらないもの を消去し、残った中から類推をしているだけであ る。その「類推」は、歴史的事項の因果関係や意

味連関を踏まえたものではなく、形式操作を使っ てあてはめていくいわば「パズル的思考」とでも いうべきものである。

歴史的な思考の特徴と世界史の魅力 −代案の分析を通して

 以下のものは、上記の資料を利用した筆者の代 案である。

 <代案>では、受験生(学習者)が単純な形式 推論でなく歴史的事項を意識しながらグラフを見

ていくことを期待している。たとえば次のような 具合である。

 A群の「南北戦争終結」によって国内市場が統

一され、さらに「大陸横断鉄道の開通」がそれに 拍車をかけて、この国すなわちアメリカではこの

直後に資本主義が急激に進展した。したがって、 これらの事項の直後にこの国の工業生産力は増加 しているはずだ。こう推論したうえでグラフを見

る、といった思考の想定である。この際、ベルな どによるあいつぐ発明も、鉄道建設における電信

電話技術の必要性と関係があったのだ、と新しい 発見やある種の学習も成立しうるよう、仕組んだ つもりである。

 もちろん、これでもまだ南北戦争の年次など「知 識・理解」に頼る嫌いは残っている。ただ、筆者 がここで強調したかったのは、次のことである。

すなわち、「因果の連鎖を感じながら問題を解い たり学習したりすること」が歴史的な思考の特徴

であり、世界史という科目の持つ大きな魅力の一 つなのではないか、ということである。

終わりに−「資料活用」を超えて

 筆者の<代案>では、「資料活用」が主ではなく、

A群の各歴史的事項相互の因果関係を考えること が主となっている。「資料」がなければ思考でき ない問題ではなく、「資料」は思考の結果を補強

する程度の役割となっている。本格的な「資料活 用」を世界史の初学者に、テストという短い時間 で課すのはあまりにも無理がある、と筆者は考え

ている。「資料活用」にこだわりすぎて世界史本 来の魅力が欠けてしまっては、本末転倒というべ

きであろう。観点別評価を世界史の魅力につなげ るためには、「資料活用」をするか、しないかを 越えて、「因果の連鎖を感じながら、歴史的に思考」

する問題になっているかどうか、の確認がより重 要なのではないか、と考えるしだいである。

<代案>

 下のグラフは、帝国主義時代の各列強が、1860 年代 から 1910 年代にかけて世界の工業生産高で占めていた 割合を示したものである。次のA群に並べた事項は、グ ラフのア∼ウのいずれかの部分に関わるものである。ど れにあたるか。ア∼ウの記号で答えよ。

 A群[ 南北戦争終結 大陸横断鉄道の開通 ベルなど の発明]

1870

1860 1880 1890 1900 1910 1913年 (単位:%)

フ ラ ン ス ロ シ ア

そ の 他

a 18

4 10 15

17

36 18

4 10 13

23

32 19

3 9 13

28

28 22

3 8 14

31

22 22

6 7 16

31

18 23

5 7 16

35

14 22

6 6 16

36

14

参照

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