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平成27年度感想文集 広島平和記念式典派遣事業 上越市ホームページ

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(1)

非核平和友好都市宣言推進事業

平成 2 7年度 広島平和記念式典参加

「二度と同じような悲劇が起こらないように」との願いがこめられる原爆ドーム

上 越 市

(2)

発 行 に 当 た っ て

上 越 市 は 、 戦 後

50

の 節 目 に 当 た る 平 成 7 年 に 非 核 平 和 友 好 都 市 を 宣 言 し 、 豊 か な 自 然 と 長 い 歴 史 に 培 わ

れ た 美 し い 郷 土 を 末 永 く 守 る た め 、 核 兵 器 を 廃 絶 し 、 世 界 の 恒 久 平 和 に 向 け て た ゆ み な い 努 力 を 続 け る こ と

を 誓 い ま し た 。

以 来 、 こ の 宣 言 の 趣 旨 を 普 及 ・ 啓 発 す る た め 、 毎 年 8 月 6 日 に 行 わ れ る 広 島 平 和 記 念 式 典 へ の 参 加 の ほ か 、

平 和 展 の 開 催 や 戦 争 体 験 談 集 の 発 行 な ど 様 々 な 事 業 に 取 り 組 ん で い ま す 。

今 年 度 も 市 内 中 学 校 の 協 力 の も と 、 市 内 の 中 学 生

24

が 広 島 平 和 記 念 式 典 に 参 列 し ま し た 。

こ の 冊 子 は 、 広 島 平 和 記 念 式 典 に 参 加 し 、 犠 牲 者 に 鎮 魂 の 祈 り を 捧 げ 、 平 和 の 尊 さ を 直 に 体 験 さ れ た み な

さ ん の 感 想 文 を ま と め た も の で す 。

本 冊 子 が 平 和 に つ い て 考 え る 一 助 と な れ ば 幸 い で す 。

平 成

27

11

上 越 市

(3)

目 次

感 想 文

世界平和を願って⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮城北中学校三年太田美穂⋮⋮⋮⋮

1

平和への道⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮城東中学校三年山本悠太⋮⋮⋮⋮

2

自分と戦争をつなぐ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮城西中学校三年伊藤大智⋮⋮⋮⋮

3

平和への思い⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮雄志中学校三年中島友輝⋮⋮⋮⋮

5

七十年の節目の年に⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮八千浦中学校三年田中葵衣⋮⋮⋮⋮

6

広島平和記念式典に参加して⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮直江津中学校三年仲野佑生⋮⋮⋮⋮

7

原爆の悲惨さと私がこれからできること⋮⋮直江津東中学校三年山田爽真⋮⋮⋮⋮

9

広島に行って⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮春日中学校三年新保愛也⋮⋮⋮⋮

10

広島で学んだこと⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮潮陵中学校三年大竹日奈⋮⋮⋮⋮

11

広島平和記念式典に参加して⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮安塚中学校三年青海百花⋮⋮⋮⋮

12

﹁未来の平和に繋げる為に﹂⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮浦川原中学校二年山﨑光紗⋮⋮⋮⋮

13

広島派遣で学んだこと⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大島中学校三年中條綾乃⋮⋮⋮⋮

14

人の生命の尊さ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮牧中学校三年江口美帆⋮⋮⋮⋮

15

戦争による悲しみを超えて⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮柿崎中学校三年小池翔馬⋮⋮⋮⋮

16

(4)

広島で学んだこと⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮大潟町中学校三年細川凌⋮⋮⋮⋮

17

広島平和記念式典に参加して⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮頸城中学校三年佐藤玲美⋮⋮⋮⋮

18

私たちができること⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮吉川中学校三年山崎航太郎⋮⋮⋮⋮

19

広島へ行って感じたこと⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮中郷中学校三年米田駿輔⋮⋮⋮⋮

21

平和への思い⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮板倉中学校三年畔地誠⋮⋮⋮⋮

22

思いをつなぐ、未来へ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮清里中学校二年中谷斗和⋮⋮⋮⋮

23

広島派遣で感じたこと⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮三和中学校三年松栄凜也⋮⋮⋮⋮

24

繰り返してはいけない⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮名立中学校三年沢田ひなた⋮⋮⋮⋮

25

伝えて創る未来⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮二年小林優衣⋮⋮⋮⋮

26

想いを繋げる⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮三年本田瞳未⋮⋮⋮⋮

27

被爆クスノキ

2世の植樹

⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮

29

非 核 平 和 友 好 都 市 宣 言 文 ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮ ⋮

30

(5)

世 界 平 和 を 願 っ て

城北中学校三年太田美穂

今から七十年前の八月六日午前八時十五分、広島に一発

の原子爆弾が投下され、一瞬にして何万人もの命が奪われ

ました。たった一発。その一発によって何万人の﹁日常﹂

が壊されました。日本は世界で唯一原子爆弾が落とされた

国として、世界に恒久平和を呼びかけ続けています。

多くの人の命と日常を奪った戦争から、今年で七十年の

月日が経ちました。私は学校代表としてこの広島平和記念

式典派遣事業に参加させていただき、戦争と平和について

たくさんのことを学んできました。訪れた広島の町はとて

も栄えていて、本当にこの町に原爆が落とされたのだろう

かと思いました。その中に一つだけ時間が止まり、過去に

戻ったような不思議な感覚に陥る建物が・・・。

原爆ドームです。廃墟の残骸となったドームから、原爆

の恐ろしさ、戦争の悲惨さ、そして平和の尊さを同時に感 じました。

平和記念式典には、とても暑い中大勢の人が参列してい

ました。中には外国の方も参列していて、平和を願う思い

は世界共通なんだなと感じました。広島市長の平和宣言の

中に、心に残った言葉が二つありました。﹁広島をまどう

てくれ!﹂これは家族や故郷、健康を奪われた被爆者の悲

痛な叫びです。もう一つは﹁思いやり、いたわり、他人や

自分を愛することが平和の原点だ。﹂という言葉です。平

和な世界とはどんな世界なのか。今でも世界の各地で争い

が起こり、一万五千発を超える核兵器が存在します。皆が

平和を願うのなら戦争など起こるはずが無いのに。被爆体

験者の方は﹁受け身になってはいけない﹂とおっしゃられ

ていました。私が世界の平和のためにできること。それは

後世に戦争と核兵器の恐ろしさを伝えていくことだと思い

ます。人々が助け合い、笑顔があふれる平和な世界を目指

して。

(6)

平 和 へ の 道

城東中学校三年山本悠太

今から七十年前の一九四五年︵昭和二十年︶八月六日午

前八時十五分、世界で初めて広島は原子爆弾による被害を

受けました。町のほとんどが破壊され、多くの人の大切な

命が奪われてしまいました。辛うじて生き延びた方々も自

分の思い描いていた人生を送ることができず、深刻な心身

の後遺症や差別・偏見に苦しめられてきたそうです。

僕は広島平和記念式典に出席し、この出来事について改

めて二つのことを考えていかなければならないと思いまし

た。

まず、一つ目は戦争の恐ろしさをいつまでも語り継ぎ、

戦争の記憶を風化させないことです。僕は戦争を経験して

いません。だから広島に行く前は、戦争について良く分か

っていませんでした。しかし、今なら少し分かります。七

十年前、人間がどれだけ残酷なことをし、何の罪もない人 たちの命や生活、未来を一瞬にして奪ってしまったことを。

また、戦争は二度と人間がしてはいけない行為であり、日

本だけではなく、世界中のあらゆる国の人々が戦争の恐ろ

しさを考えることができなければ、今もどこかで続く世界

中の紛争を止めることができないことを。

式典に参加したあと、広島平和記念資料館に行き、被爆

された方の遺品やぼろぼろの町の写真を見ました。見た瞬

間、僕は言葉を失いました。でも、僕の悲しみはほんの少

しのものであり、原爆で家族を失われた遺族の方の悲しみ

とは比べものになりません。僕たちに遺族の方々の悲しみ

の深さを理解することは難しいと思います。でも、僕たち

は二度と戦争をしてはいけないと約束することはできます。

二つ目は平和とは何かを一人一人が考えることです。僕

は、平和とは争いがないことはもちろんですが、何気ない

毎日が送れることもそうだと思います。食べたいものが食

べられて十分に眠れて、暮らすことができる僕たちは本当

に恵まれていると思います。当時の人から考えれば、想像

がつかない生活をしているわけです。あたりまえのような

(7)

この暮らしに僕たちは感謝しながら大切に一日一日をすご

していかなければならないと思います。

七十年の節目という年に広島平和記念式典に参加し、大

変多くのことを見て感じることができました。これからは、

僕たちが語り継ぐ役割をし、戦争の記憶を風化させないよ

うにしていきたいと思います。

自 分 と 戦 争 を つ な ぐ

城西中学校三年伊藤大智

七十年前の夏、穏やかな一日が始まろうとしていた。

しかし、空から降ってきたたった一発の原子爆弾によ

って広島は私たちの想像をはるかに超える世界へと一

変してしまった。

私は昔焼け野原となった広島の街を歩いてきた。原爆ド

ームなど、負の歴史を伝えるものが街の中にたくさんあり、

その中に広島平和記念公園がある。負の遺産はその体にし

っかりと過去の戦争の悲惨さを刻みつけており、近づいて

眺めるだけで七十年前の様子を容易に想像することができ

た。体験したことのない私でさえ。

だがそれでも私には、世代を重ねる度に記憶は少しずつ

薄れてきてしまっているように思える。私たちくらいの歳

の人達は、たぶん教科書やテレビ、学校での学習会などの

機会を通して、戦争の細部を知ったと思う。しかし、今の

(8)

問題点は、身近に戦争を体験し、語ってくれる人が少なく

なっているということだろう。だが、体験した人の話しに

勝るものは無いと思う。それに、私たちが引き継ぐべきも

のはテレビや教科書などの情報だけではなく、記憶だ。

戦後七十年。私たちはこの年に転機を迎えた。今回私は

戦争に対していかに無知であるかを知った。だからといっ

て戦争を語り継がなくていいということでは決してない。

むしろ知らないからこそ積極的にならなければならない。

今度は私たちが語り継ぐ番なのだ。

戦後七十年の節目を迎えた今、私はみなさんにまず戦争

のひどさ、悲惨さを知ることから始めて欲しいと思う。世

界や日本に対して私たちができることは少ないだろう。そ

れでも、私たちの身の回りでできることはあるはずだ。平

和の意味とありがたさを再確認すること、身近にいる人が

いつも笑っていられるような環境をつくろうと努力するこ

となど、小さなことでもいいのだ。行動することが大切な

のだ。自分の身の回りに小さな平和を求めていくことが、

唯一の被爆国である私たちに今できることだ。過去を変え ることはできないが、未来は変えることができる。今何を

すべきなのか、みんなで一緒に考えていくことが私たちの

平和への第一歩だ。

(9)

平 和 へ の 思 い

雄志中学校三年中島友輝

僕は八月六日に行われた広島平和記念式典に参加してき

ました。会場には大勢の人がいて、なかには外国の方もい

ました。その様子を見て、広島に原爆が落ちたことは日本

だけではなく世界中に知れわたっているんだと知りました。

広島に原爆が落ちたことを知った他国の方達が、自分の

国のことではなくても広島平和記念式典に参加してくれて

いるのは僕としてはとてもうれしく思いました。それは、

テレビでは今の時代の子どもたちは広島に原爆が落ちた日

を正確に言えないといっていました。そんななか、外国の

方達が参加してくれていたからです。

式典は原爆死没者名簿奉納から始まり式辞献花、黙とう、

平和宣言、放鳩、平和への誓い、あいさつ、参列者全員で

歌う広島平和の歌で閉式となりました。式典の安倍総理の

あいさつのときに、周りから帰れなどのヤジが聞こえてき ました。式典が終わった後には、戦争反対のデモ行進が行

われていました。それを見て、戦後七十年たった今でも戦

争の爪痕は深く残っているんだなと感じました。

式典が終わった後は、原爆資料館に行きました。そこに

は原爆の熱で焼けこげた物などが展示されていて原爆の恐

ろしさを物語っていました。被爆された人の人形もありま

した。とても精巧に作られていて人をこんな風にしてしま

う原爆とはなんて恐ろしいものなんだと改めて思いました。

広島の原爆については今まで教科書で知っている程度の

知識でした。しかし、現地に実際に行くことで、より深く

広島の原爆について知ることができました。戦争の悲惨さ

や命の尊さを仲間と分かち合うこともできました。もう二

度と戦争を起こしてはいけないという気持ちを忘れずにこ

の戦争のない平和な日常を生きていきたいと思います。

(10)

七 十 年 の 節 目 の 年 に

八千浦中学校三年田中葵衣

﹁原爆﹂。みなさんはこの言葉を聞いて何を思いますか。

私は、八月六日に広島平和記念式典に参列しました。戦

後七十周年の節目の年というのもあって、平和記念公園に

は朝早くから国内外から訪れた沢山の人で溢れていました。

テレビで見ていた平和記念式典に自分が参列していると

いうのはとても不思議な気持ちでした。

一九四五年八月六日午前八時十五分。広島市の中心にあ

るT字の形の橋、相生橋をねらって人類史上最初の原子爆

弾が投下され、広島のまちは一瞬にして壊滅しました。七

十年間、草木は全くはえない、と言われていたそうです。

あの日から七十年。私は三日間広島を歩きましたが、広島

は七十年前に起きた事など忘れるくらい緑豊かで明るいま

ちになっていました。 献花献水慰霊式という式にも参列しました。この式は原

爆ドームの目の前で行われ、この川に何人もの人が苦しみ、

水を求めて飛び込んだことを想像すると、何の罪もない人

たちの命を奪った戦争の悲惨さを改めて感じました。

平和記念公園の中を見学しました。原爆ドームを初めて

見ましたが、爆心地から百六十メートルのところにある原

爆ドームは当時の傷がそのまま残っていて公園内で一番存

在感がありました。

平和記念資料館では被爆者の遺品や人影、黒い雨が残っ

たままの壁などが展示してありました。あまりの残酷さに

言葉を失い、直視できませんでした。私がこの資料館に行

って驚いたのは外国人の多さです。日本人より多いのでは

ないか、というくらいの人が館内を見学していました。

上越で私たちに広島被爆について教えて下さった寺本さ

んにもう一度お話を聞くことができました。寺本さん自身

が体験したこと、広島のこと。写真や図を使いながら詳し

く教えてくださいました。

寺本さんは﹁原爆は怖い!﹂と強くおっしゃっていまし

(11)

た。水を求めて黒い雨を飲み、安心によりショック死して

しまう人。後遺症に苦しむ人。大切な人を失って悲しむ人。

良い事なんてないと思います。

夜には灯ろう流しに参加しました。ひとつひとつの灯ろ

うに、書いた人の思いが込められていてとても綺麗でした。

被爆者の平均年齢が八十歳を超えた今、広島被爆を次の

世代に語り継ぐのは私たちの役目です。もう二度と同じ過

ちを繰り返さないためにも、私たちが積極的に耳を傾ける

ことが大切です。私は今回、この広島派遣に参加して改め

てそれを実感しました。三日間で学んだことを無駄にしな

いように身近な人から伝えていきたいと思います。

広 島 平 和 記 念 式 典 に 参 加 し て

直江津中学校三年仲野佑生

一九四五年八月六日午前八時十五分十七秒、広島に一

発の原子爆弾が投下され、一瞬の内に多くの人々の尊い命

を奪い去りました。その被害は、人間の想像の尺度をはる

かに超えるものでした。

七十年が経った広島は、街中に草木が立派に繁り、多く

の車両が往き来し、高層ビルが建ち並ぶ大都市となってい

ます。かつて広島には﹁七十五年は草木も生えない﹂と言

われたそうですが、原爆で破壊された痕跡を全く感じさせ

ず見事に復興を遂げていました。

そんな広島で今を生きている被爆の当事者の方々や御

遺族が七十年の節目にどのような思いを抱いているのかを

知りたいと思い、僕は平和記念式典に参加しました。

戦後七十年の今年の平和記念式典には総理大臣をはじめ、

被爆者や遺族、また海外からは最多の一〇〇ヶ国の代表者

(12)

が参列していました。

原爆投下時刻の八時十五分、﹁平和の鐘﹂が鳴り響く中、

参列者全員が黙祷をして犠牲者の冥福を祈りました。この

時の黙祷は今までに僕がしてきたものとは違い、なにか感

じるものがありました。

その後、広島市長の平和宣言が行われました。宣言文の

一節に﹃広島をまどうてくれ﹄という言葉が出てきました。

この言葉は広島弁で﹁広島を元通りにしてくれ﹂という意

味です。この言葉から七〇年が経っても被爆地ヒロシマに

原爆の苦しみ、悲しみが傷跡として深く根強く残り続けて

いることを知りました。

僕たちはこの旅で実際に被爆地ヒロシマに立ち、被爆さ

れた方に直接話を聞いたことで、原爆がもたらす苦しみ・

悲しみを知ることができました。

今、全国の被爆者は三月末現在で十八万三五一九名とな

り、平均年齢が八〇歳を超えたそうです。年々被爆者の高

齢化で、広島であったことを話してくれる人が少なくなっ

てしまっているのは事実です。それを食い止めることは出 来ません。

だからこそ、これから先は僕たちが語り部となる必要が

あると思います。僕は今回広島を訪れて学んだことを友達

や後輩たちに出来るだけ伝えていきたいと改めて強く思っ

ています。

(13)

原 爆 の 悲 惨 さ と 私 が こ れ か ら で き る

こ と

直江津東中学校三年山田爽真

私は、今回の広島派遣を通して、平和と戦争について改

めて考えさせられました。教科書や授業で学んだことより

も、現実はもっと残酷で胸が痛くなりました。

平和記念式典では、広島市長や安倍首相の話を聞きまし

た。たくさんの人が集まり、なかでも印象に残ったのは外

国人の多さでした。日本国内だけでなく世界中から平和を

祈る気持ちが伝わってきました。

次に、広島平和記念資料館に行きました。そこで、私は

黒こげになった弁当箱や爆風で折れまがった鉄の扉など目

を疑うようなものばかり目のあたりにしました。また原子

爆弾の爆発で熱線や爆風では被害がなかった人も放射線の

影響で病気になり数日間で亡くなってしまうことなどで原

子爆弾の被害の大きさが大きく取り上げられていました。 そして私は、当時十歳の頃に被爆された寺本さんの被爆

体験を聞きました。寺本さんから

﹁与えられた命の大切さ﹂

を学びました。寺本さんは原爆で大切な友達や自分を助け

てくれた人、母親も亡くしてしまったそうです。寺本さん

自身もその後病気になってしまいつらい思いをしたそうで

す。このような話を聞いて私は今、自分がこうして平和に

生きていられることはとてもありがたいことだと改めて感

じることができました。

そして現在、日本で原爆の被害が広島の復興とともに忘

れられてきています。全国で約七割の人が原爆が投下され

た日を知らないそうです。また戦後七十年で被爆体験者の

方の高齢化が進んでいます。私は平和記念式典参加という

貴重な体験をした者として今回体験したことを一人でも多

くの人に伝えていきたいです。私たちがこれからできるこ

とは、原爆の悲惨さを周りの人に伝え、そして協力し合い

平和の為に少しでも戦争と原爆の恐ろしさを語り継いでい

くことです。

(14)

広 島 に 行 っ て

春日中学校三年新保愛也

僕は広島に行ってたくさんのショックを受けました。そ

の中でとくにショックだったのは、資料館にいったときで

した。

資料館には、原爆投下に関する資料や、当時の悲惨な状

況を再現したろう人形がありました。どれも衝撃的なもの

ばかりでした。人形は、アメリカが原爆を投下したときの

再現でした。服は、ボロボロで、皮膚がめくれてたれさが

った状態でした。景色は青空など無く、黒と赤しかありま

せんでした。この人形を見て、原爆の被害がどれほどのも

のかよくわかりました。資料を見るとさらに当時の過酷な

状況がよくわかりました。資料には、食糧難で雑草を口一

杯にほおばる写真、水不足で、降ってきた雨を飲む写真、

水たまりの水を飲む写真がありました。写真からは﹁水が

ほしい﹂という叫びが聴こえてきました。人間が人間らし い姿をしていませんでした。

被爆した人の気持ちは、どうだったでしょうか。原爆の

影響だけでなく風評やうわさによる差別で身も心もズタズ

タにされ、とても辛く、苦しかったと思います。中には家

族全員を失った人もいます。しかし、広島の人々はこの苦

しみに負けませんでした。アメリカが原爆を投下して焼け

野原になった広島は、今後何十年間は草木は一本も生えて

こないだろうと言われていました。それが、今では、中国

地方の中枢都市で、ビルや様々な建物が並んでいました。

また街の至る所に草木が生い茂っていました。ここまで復

興できたのは、広島の皆さんが諦めなかったからだと思い

ます。大変な努力をしてきたと思います。今に至るまでの

努力の積み重ねを僕は絶対に忘れてはいけないと思います。

僕は、広島に行って改めて、戦争で人間は幸福にはなら

ないと強く思いました。戦争などしても、誰も得をしませ

ん。今もなお戦争をしている国があります。自分達がして

いることがどれだけ残酷なことか気付き、一刻も早く戦争

をやめ、この世から戦争をなくしたいです。

(15)

今、被爆者の人々が高齢化し、若い人々に戦争について

伝えることが出来なくなっています。僕達がすべきことは、

兄弟、子供、孫の代まで戦争のおそろしさを伝えることで

す。戦争を知らない人がいると、世界でまた戦争がおきて

しまいます。それでは、今まで自分達に戦争について教え

てくれた被爆者の努力がすべて無駄になってしまいます。

戦争を知らない人を無くし、二度と同じ過ちを繰り返さな

いようにしてほしいです。そして、世界で戦争が無くなる

ことを僕は願っています。

広 島 で 学 ん だ こ と

潮陵中学校三年大竹日奈

私は、これまでヒロシマや原爆による被害のことを、深

く考えたことがありませんでした。遠い昔、原子爆弾が投

下されて日本は敗戦となり、大きな被害を受けました。そ して、ようやく戦争が終わりました。その程度の知識はあ

りましたが、今回、広島平和式典に参加したことで、自分

の中に変化が起こりました。

私が生まれるはるか昔に、私の住む上越からずっと遠い

場所で起こった“原爆投下”という事実は、今ではもっと

身近な問題として感じられるようになったのです。﹁もし、

今原爆が落とされたら、一体どうなってしまうんだろう。

﹂想像すると、とても恐ろしい気持ちになります。戦争や

原爆という問題が、自分の問題として考えられるようにな

ったからだと思います。

また、今回の訪問で最も強く感じたのは、戦争というも

のは、一度起きてしまうと、一人の人間の中で一生続くも

のだということです。実際に被爆した方は長い間差別を受

け、差別に苦しみながら生きてこられたことを初めて知り

ました。被爆による肉体的苦痛は、私たちには想像もでき

ないほどたいへんなものであったことは知っていましたが、

被爆した方たちは精神的苦痛にも耐えながら生きてこなけ

ればなりませんでした。戦争は終わっても戦争によるけが

(16)

や病気、差別は一生続きます。私は二度と戦争をしてはい

けないと思いました。

平和式典への参加を通して、過去に起きた戦争という事

実を、私たち若い世代が忘れてはいけないということを学

びました。そして、私が見聞きしたことや考えたことを、

身近な人たちに伝えたいと思います。

広 島 平 和 記 念 式 典 に 参 加 し て

安塚中学校三年青海百花

生まれてはじめて広島の地を訪れました。私の目に映っ

た広島は、水と緑の眩しい、美しい街で七〇年前に起こっ

た惨事がまるで嘘のことのように思えてなりませんでした。

しかし、しばらくすると見えてきた原爆ドーム。それは事

実を物語っていたのです。あまりにも残酷で哀しく、愚か

しいことがあったのだと。 一九四五年、広島に原子爆弾が投下されました。もちろ

ん落とされる直前までは、いつもの朝だったはずです。し

かし、八時十五分、一瞬のうちに原爆は大きな爆風、強い

熱線とともに多くの命を無差別に奪いました。人々の平穏

な日常は壊されてしまったのです。

平和記念資料館で見たものはどれも印象深く心に残って

います。皮膚が焼けただれた人やケロイドに苦しむ人の姿

などが写る写真の数々は、見ているだけで心が痛みました。

また写真だけでなく、熱線の影響で溶けて泡状となった瓦、

歪んだレンガや塀、放射性物質を含んだ黒い雨の跡。戦争

の恐ろしさを生々しく伝えるようなものをたくさん見まし

た。

そのような中で、戦争という残虐な行為を二度と繰り返

してはいけない、という強い気持ちが芽生えました。

八月六日の朝、七〇年前のあの日と同じ夏の太陽が照り

つけていました。そんな暑い日差しの中であるにもかかわ

らず、様々な国の大勢の方々が平和記念式典のために集ま

っていました。平和に対する思いは、どの国でも変わらな

(17)

いのだと思いました。

﹁広島をまどうてくれ!﹂

これは平和宣言の中での言葉です。被爆から七〇年を経

ても、心身に傷を抱えた被爆者。この広島弁に込められた、

故郷や家族、そして身も心も元通りにしてほしいという悲

痛な叫びを感じて、胸が締めつけられる思いでした。

私は、当たり前のように家族や友人に囲まれながら、毎

日安心して生活しています。それがどんなに幸せなことか。

この広島派遣事業を通じて改めて気づかされました。

私達には被爆者の方々の意思を引き継ぎ、﹁ヒロシマ﹂

を語り継いでいく責任があります。目で見て、耳で聞いて、

肌で感じたことを、あの日の惨事を伝えていくことが、現

在を生きる私達の務めです。﹁ヒロシマ﹂について考え、

学んだこの夏を私は忘れません。そして、﹁あの日﹂の記

憶を私は忘れません。

﹁ 未 来 の 平 和 に 繋 げ る 為 に ﹂

浦川原中学校二年山﨑光紗

今から七十年前の八月六日午前八時十五分、広島に一発

の原子爆弾が投下されました。私は、七十年前に広島で起

きた事をあまり知りませんでしたが、今回初めて広島に行

かせて頂いて戦争の恐ろしさを目の当りにしました。

初めて見た原爆ドームはとても無惨な姿で建っていて、

原爆の恐ろしさや当時の悲惨な情景を物語っていました。

そこだけ時が止まっているかのようで、平和の大切さをよ

り強く感じました。

平和記念資料館では、当時の事を詳しく知る事ができま

した。血まみれで皮膚が溶けて垂れ下がっている蝋人形、

ボロボロになった服、変わり果てた三輪車、あまりにも無

惨な原爆投下後の広島の写真の数々・・・。恐怖を感じ、

言葉も出ませんでした。そこに展示してある全てのものが

七十年前の事実を語り、平和の大切さを訴えていました。

(18)

14

十歳の時に被爆した寺本さんのお話にも心が締めつけら

れました。寺本さんは、未来の平和に繋げていく為にこの

事実を忘れてはいけないと仰っていました。私も今回学ん

だ事をしっかり受け止めたいと強く思いました。

その一方で、平和記念式典で平和を祈るたくさんの人や

原爆の子の像の周りに捧げられたあふれんばかりの祈り鶴

を見て、こんなにもたくさんの人達が平和を願い、その思

いを未来に繋げようとしているのだと実感し、嬉しい気持

ちになったと共に感動しました。

現在、戦争終結から七十年が経ち、生きておられる被爆

者の方々が減ってきています。ニュースでも被爆者の方々

の平均年齢が八十歳を超えたと報道されていました。だか

らこそ、これからは私達のような戦争を知らない世代の人

達も七十年前に起きた事実を知り、受け止めなくてはなら

ないと思います。この先、戦争の恐ろしさを語り継いで下

さった被爆者の方々がいない世の中になっても、二度とあ

の過ちを繰り返さない世界にしなくてはなりません。その

為にも私は、今回広島で学んできたたくさんの事を周りの 人に伝え、未来の平和に繋げていきたいです。

広 島 派 遣 で 学 ん だ こ と

大島中学校三年中條綾乃

今からちょうど七十年前の八月六日、広島に原子爆弾が

投下されました。たった一つの原子爆弾が多くの命を奪い

さったのです。

私は一年生の頃から広島へ行ってみたかったのですが、

原爆のことはよく知りませんでした。でも今回の広島派遣

で多くのことを学ぶことができました。

広島には記念碑や像がたくさんありました。その一つ一

つに人々の平和に対する願いが込められているのです。平

和記念公園には原爆が落とされたと思えないほど、温かく

穏やかな空気が流れていました。しかし、資料館に行くと、

そんな雰囲気は全くなく、戦争や原爆を知らない私に大き

(19)

な衝撃を与えました。原爆の悲惨さは、私の想像を絶する

ものでした。同じ人間がなぜこんなことをできたのか不思

議でなりません。世界で唯一の被爆国である日本が、平和

をつくっていかなければならないのだと思いました。その

日本の未来を担っていくのは私たちの世代です。私たちが

平和で明るい未来を創るには、戦争があった過去について

学ばなければいけません。そして、原爆の恐ろしさを忘れ

てはいけません。被爆者の方がおっしゃっていました。﹁戦

争があった事実を忘れてはいけない。今の君達にこれから

の未来を託す。﹂と。

今、私達はごはんが食べられて、勉強もできる。家族が

いて、友達と遊べる。その幸せがあたりまえではなく、有

り難いことだと広島へ行って思いました。今、幸せに暮ら

すことができるのは、戦後の混乱した世の中を日本人が強

く生き抜き、日本を変えてくれたおかげだと思います。こ

れからを生きる私達が一人でも多くの人に過去を伝え、一

日でも早く世界が笑顔で一杯になるように、身近な平和活

動から、私は行っていきたいと思います。

人 の 生 命 の 尊 さ

牧中学校三年江口美帆

私は、今年初めて平和記念式典に参加しました。それま

では広島に行ったこともありません。今回参加して、原爆

や平和について自分の考えを深めることができました。

広島に着いて最初に私の目にとびこんできたのは原爆ド

ームです。建物は今にも崩壊してしまいそうなのに圧倒的

な存在感がありました。しかし、この場所で何人もの人が

亡くなったと考えただけで足がすくんでしまいます。また、

原爆の子の像のところには数えきれないほどの折り鶴が飾

られていました。多くの人が平和への想いをこの折り鶴に

託していました。

八月六日に広島平和記念式典があり、日本人だけではあ

りません、世界各国から参加がありました。それほど悲惨

な出来事なのだとあらためて感じることができます。午前

八時十五分に黙禱が行われ、静寂が広島市を包みこみまし

(20)

た。平和記念資料館の中には原子爆弾の残虐さを訴えるも

のが数多くあり、私のなかで印象に残ったものがあります。

﹁人影の石﹂というものです。人の影の跡が石に残ってい

て、みているだけで胸がしめつけられるような思いでした。

一九四五年八月六日午前八時十五分、私はこの日付を忘

れません。たった一つの原子爆弾で多くの人の生命は消え

てしまいました。後遺症で苦しんでいる人もいるというの

になぜ世界からは原子爆弾がなくならず戦争が絶えないの

か。﹁悲しみ﹂という感情と同時に﹁怒り﹂の感情が私の

なかにはあります。これ以上生命がうばわれてほしくあり

ません。いつ爆弾が落とされてもおかしくないという状況

の今、一分一秒でもはやく世界から戦争・核兵器がなくな

ることを願います。

戦 争 に よ る 悲 し み を 超 え て

柿崎中学校三年小池翔馬

今から七十年前の八月六日、人類史上初めての原子爆弾

が投下されました。原爆は上空約六百メートルで、目もく

らむ閃光を放って爆発しました。市街地の建物を跡形もな

く壊し、焼き尽くしました。数十万人もの尊い命が奪われ、

生き延びた人も放射能の影響でやがて、亡くなりました。

その都市の名は、広島です。

私は広島平和記念式典に参加し、平和への祈りを捧げて

きました。当日は雲ひとつない青空で、太陽の強い日差し

が照りつけていました。七十年前の八月六日も今日と同じ

快晴でした。八時十五分。平和の鐘が鳴り響きました。黙

祷を捧げ、目をつぶると、周りの音が聞こえず、静かな時

間が流れました。私の頭に浮かぶのは犠牲になった方々の

悲惨な光景です。胸が締め付けられる想いでした。

皆さんは戦争について深く考えたことはありますか。﹁戦

(21)

争は絶対にやってはいけない﹂と考えるのは当然ですが、

そそれがすべてではないと感じました。

原爆で被爆された寺本貴司さんは教えてくださいました。

﹁人間は虐殺された﹂と。あのときのキノコ雲の下には中

国や東南アジアの人々、米軍の捕虜の人々もいました。ア

メリカ人が日本人を殺したのではなく、人間が人間を殺し

たのです。

七十年前、広島の人々は言いました。﹁広島をまどうて

くれ!﹂これは故郷や家族、そして身も心も元通りにして

ほしいという被爆者の悲痛な叫びです。戦争が招いた悲劇、

人々の叫び、そしてそこに込められた願い、私たちはこの

ことを忘れてはならないのです。私たちにできること、そ

れは過去の過ちを学び、感じ、そして考え、次の世代に伝

えていくことです。

日本は戦争が終結して七十年が経った今、復興をとげ、

平和が続いています。しかし、世界はどうでしょうか。未

だに各地で戦争が絶えません。戦争をして何が残るのでし

ょうか。数多くの損失と悲劇だけです。 世界恒久平和の実現を求める﹁広島の願い﹂を支援して

いくことは、次の世代を担う私たちに課せられた使命です。

私たち一人一人が戦争について自分たちの問題として、し

っかり向き合い、考えることが重要であると考えます。

私は広島派遣で学んだ体験を生かし、今何をするべきか

考え、発信していきたいと思います。

広 島 で 学 ん だ こ と

大潟町中学校三年細川凌

僕にとって、8月5日から7日の3日間は、今までにな

い程とても印象に残る充実した3日間となりました。

僕は、2年生の総合学習で﹁平和学習﹂について学び、

修学旅行で広島に行きました。そしてその時に受けた印象

が忘れられず、もう一度広島を訪れ、平和について深く考

えてみたいと思っていました。

(22)

8月6日、平和記念式典の会場は、朝早くからたくさん

の人で埋まっていて、平和を願う人々の熱気が伝わってく

るようでした。

僕は式でのお話を聞いて、戦争を知らない僕たちこそが

核兵器を廃絶し、平和を守る使命を受け継いでいかなけれ

ばならないと深く心に誓いました。原爆を受け、どんなに

辛かったか、どんなに切なかったか、その気持ちを思うと

胸が痛みました。

慰霊式、並びに平和記念式が終わったあと色々な県から

来た中学生や高校生が発表をしていました。どの生徒も戦

争について自分の考えをもち、しっかりと語っていました。

僕たちのような若い世代が、戦争について語ることはとて

も大切なことだと感じました。

式典が終わったあと、ガイドさんが平和記念公園を案内

してくださいました。慰霊碑には戦争で亡くなった多くの

方の名前が刻まれていました。僕は、以前修学旅行で訪れ

たことがありましたが、改めて原爆で亡くなった方々の数

の多さに驚きました。そのあとに爆心地に行きました。今 は病院になっているその場所は原爆が落ちた時は、何と約

6千度だったそうです。改めて原爆の恐ろしさを感じまし

た。ガイドさんのツアーは約1時間ほどでしたが、とても

心に残るお話でした。

僕は、今回2度目の広島を体験して、改めて平和の大切

さと、それを守り続けなければならない自分たちの使命を

感じました。広島派遣という貴重な経験を生かし、絶対に

戦争を繰り返してはいけないということを、今後多くの人

たちに伝えていきたいです。

広 島 平 和 記 念 式 典 に 参 加 し て

頸城中学校三年佐藤玲美

一九四五年八月六日午前八時十五分、それまで歴史に育

まれた伝統文化、建物、子どもたちが遊ぶ川辺などが一発

の原子爆弾で破壊されました。

(23)

被爆から七十年たった今でも原爆ドーム、被爆者の方々

の傷が原爆の実相を物語ってきます。私たちの世代は戦争

を経験していません。なので想像しにくいかもしれません。

ですが、大切な人を失う悲しみは想像することができます。

私たちは原爆の落とされた現地で深く、平和について考

えさせられました。戦争は死者と不幸しか生まないのに、

何故戦争をしなければならないのかと思います。しかし、

世界には約1万6千発の核兵器が存在します。七十年前の

広島のような事は二度と起こしたくはないし、起こしては

いけません。世界に対し私は核兵器廃絶を求めます。

私が一番心に残ったことは、佐々木貞子さんの折りづる

のことについてです。佐々木さんは

2歳の時に被爆して

10

年間元気にすごし、

12歳の時に白血病になりました。つる

を千羽折れば病気が治ると信じ、つるを折りつづけました

が、佐々木さんの願いは届かず、

12歳という若さでこの世

を去りました。佐々木さんが折りつづけたつるの数は一三

〇〇羽以上だそうです。

被爆数ケ月は、﹁広島には七十五年間は草木も生えない だろう。﹂と言われていました。七十年経った今、その市

民の回復力を証明し人類の不屈の精神を象徴する都市とな

っています。八月六日に起こった事実を風化させないため

にも、私たちが現在、未来に伝えることが大切です。

思いやり、いたわり、他者や自分を愛することが平和の

原点だ、という言葉に強く心を打たれました。

私 た ち が で き る こ と

吉川中学校三年山崎航太郎

今から七十年前、一つの原爆が投下され、一面が焼け野

原になった広島は現在、そんなことが嘘に思えるほど急成

長を遂げ、すばらしい都市へと生まれ変わっています。そ

んな都市、広島で戦争の恐ろしさと本当の平和とは何かと

いうことを学ぶことができました。

私が三日間で印象に残っていることは、大きく分けて二

(24)

つあります。

一つは平和記念資料館の見学です。そこでは原爆が投下

された直後の町並みや人々の写真、熱線によって真っ黒に

焼け焦げてしまった実際の遺品などを見ました。そのどれ

もが原爆の恐ろしさを物語っており、当時の人々の苦しみ

や悲しみが手に取るように分かりました。原爆はたくさん

の人々の夢や希望を奪ってしまう恐ろしいものだと改めて

感じました。

もう一つは、幼少期に被爆された寺本さんのお話です。

寺本さんは、原爆の被害にあった後、おばさんと一緒に避

難したそうです。周りは爆風によってこわされた家がたく

さんあり、皮膚がやけどでただれている人に水をくれと声

をかけられた時もあったそうです。そんな悲惨な状況の中

で見つけたのが寺本さんの友人でした。友人は爆風によっ

て皮膚がただれていたそうです。この話を聞いた時に、私

はとても心が痛くなりました。今まで一緒に遊んだり毎日

を共に過ごしていた人がそのような姿になっていたらどれ

だけ悲しいことか。戦争をしてもいいことなどない。本当 にその通りだと思い、心が熱くなりました。

原爆が投下されてから七十年が経った今、投下された日

を正確に答えられない若者が増えています。今回、このよ

うな貴重な経験をさせてもらった私がやるべきことは一人

でも多くの人に戦争の悲惨さを語り継ぐことです。これが

平和につながる第一歩だと思います。

世界ではまだ戦争をしている国があります。少しでも早

く世界の人が平和に暮らせることを願っています。

(25)

広 島 へ 行 っ て 感 じ た こ と

中郷中学校三年米田駿輔

いつもの様に仕事場で、昼に食べるはずだった黒焦げの

弁当。幼い子供達が仲良く乗っていたであろう、ハンドル

が折れ曲がった三輪車。爆発の瞬間の八時十五分で止まっ

た時計。どれもが私の心に語りかけてきました。

私は今回、自分で希望して広島平和記念式典に参加させ

ていただきました。それはテレビや歴史の勉強の中で知っ

た戦争について、実際に広島へ行って自分の目で確かめて

みたいと思ったからです。正直、広島へ行く前は、戦争に

ついて真剣に考えたことがありませんでした。それは、平

和な朝がまた訪れることが当たり前だと感じていたからだ

と思います。しかし広島へ行き、平和記念資料館で七十年

前の戦争の事実に触れ、言葉では言い表せない程の衝撃を

受けました。とても恐ろしく悲しい現実が七十年前にあっ

たのだと思い知らされました。たった一発の原子爆弾が、 一瞬にして平凡な日常を破壊し、多くの一般市民の命を奪

ったのです。とても強い怒りが込み上げてきました。これ

だけの悲惨な過去がありながら、今も世界には多数の核兵

器が存在し、戦争を続けている国があるのです。戦争は何

一つ良い結果を残しません。痛みと悲しみ、そして憎しみ

だけが残るのです。今回の体験の中で、一つ印象に残って

いる言葉があります。それは﹁核兵器は簡単に作れて簡単

に町を壊すことができる。﹂というものです。私は核兵器

や武力を盾に、力ずくで問題を解決することが二度とくり

返されてはいけないと思いました。そして平和な世界を作

るために自分に出来ることは何か考えてみました。先ず、

今回広島で見、聞き、感じたことを、仲間達に伝え、戦争

の愚かさを知ってもらうことです。世界から核兵器と争い

が無くなり、人々が平和に生活できる日が一日も早く来る

ことを心から願い、自分ができることを粘り強く続けてい

きたいと思いました。

(26)

平 和 へ の 思 い

板倉中学校三年畔地誠

今から七十年前、広島に原子爆弾が投下されました。私

たちが行ってきた広島は、そんな恐ろしいことがあったと

は思えないほど復興していました。しかし、復興と同時に、

過去に起こった出来事が人々の記憶から薄れてしまってい

るようにも思いました。

私は今回の広島派遣で多くのことを学んできましたが、

その中でもとくに心に響いたことがあります。それは、実

際に被爆された寺本さんという方が平和記念公園で話され

た話です。寺本さんは、﹁今、私たちが立っている下には、

原爆で被爆して亡くなられた方々の遺骨がいくつもある。

﹂とおっしゃっていました。私はその時、すごく心が痛く

なりました。なぜなら、実際は踏んでいないのに、なんだ

か遺骨を踏みつけているような感覚になったからです。

また、原子爆弾が落とされた場所は当時、地表温度が四 千度前後になったということを聞きました。それはあまり

にも高くて、想像を超える環境の中に人々がいたことに驚

きました。

平和記念公園にある、広島平和記念資料館も訪れました。

そこで見た写真はあまりにも生々しく、なかなか凝視でき

ませんでした。展示された資料を通して、戦争や原子爆弾

がもたらした街や人々の悲痛な様子がよくわかり、原子爆

弾のことや投下された直後のことを詳しく知ることができ

ました。

私は広島派遣に参加し、さまざまな物を見て、聞いて、

感じ、貴重な体験をすることができました。わずかな時間

でしたが、改めて命の尊さ、大切さを考える良い機会にな

りました。今年、被爆された方の平均年齢が八十歳を超え

たと聞きました。数十年後には、その方々がいなくなって

しまいます。だからこそ、私たちが次の世代へ繋いでいか

なければならないと思います。そのためには、私たちが学

んできたことを多くの人に伝え、何より私自身が決して忘

れてはいけないと思います。犠牲となった方々のためにも。

(27)

思 い を つ な ぐ 、 未 来 へ

清里中学校二年中谷斗和

﹁広島をまどうてくれ!﹂これは、故郷や家族、そして

身も心も元通りにしてほしいという被爆者の悲痛な叫びで

す。私がこの言葉を松井市長から聞いた時改めて原子爆弾

を初め、多くの核兵器廃絶と、世界の恒久平和実現に向け

ての強い願いとなりました。

私は広島平和記念式典に参加してきました。実際に原爆

ドームを目にした時は、違う空気を感じました。そこは人

口二百八十万人を超す大都市・広島ではなく、たった一発

の原子爆弾により約十四万人の人々が亡くなり、まさに廃

墟と化した、ヒロシマの姿でありました。

そして平和記念式典が行われました。当日は戦後七十年

という節目の年でもあり、多くの方が参列者として祈りま

した。私は実際に、七十年前の今日、自分が立っている場

所に原爆が投下されたと思うと、ただならぬ恐怖感に包ま れると共に、今後真の平和が広がり、核兵器の存在がなく

なることで、人々が幸せに暮らすことのできる時代への強

い願いをこめて平和の鐘に黙とうをしました。

その後、平和記念資料館へ訪れました。資料館では、被

爆者の遺品や当時の惨状を示す写真が展示されていました。

特に印象に残ったのは、原爆の熱線によって人が腰掛けて

いた部分だけが黒い影となった石です。私はここに腰掛け

ていた人はどのような思いだったのかと考えました。きっ

と言葉に言い表せないような痛く、つらい思いをしながら

この世を去ったのではないかと思います。

私は三日間広島で真の平和について学びました。それは

笑顔で家族と共に暮らすことのできるあたりまえな現代が

どれほど幸せなことかということ。それを世界の人々に知

ってもらいたいです。そのためにも私が伝承者として、平

均八十歳を超えた被爆者の方の思いをつなぎ、何年経って

も笑顔で暮らせる時代にしていきたいです。

(28)

広 島 派 遣 で 感 じ た こ と

三和中学校三年松栄凜也

私は、この夏に三和中の代表として二泊三日で広島平和

記念式典に参加してきました。一日目は、平和の像に皆さ

んが折ってくれた鶴を贈呈しました。二日目は朝から平和

式典に参加しました。緊張感が漂い、黙とうの一分間は蝉

の鳴き声だけが響きました。その次に資料館で、見学しま

した。この三日間で感じたことを発表します。

まず最初に広島に着いて感じたことは、原子爆弾が落ち

たとは思えないほど復興していたことです。それは、とて

も喜ばしいことでした。しかし、それと同時に、原子爆弾

が落ちたことや、戦争の記憶が薄れていっているのではな

いかと不安も覚えました。

戦後七十年、私達は、平和への感謝の気持ちが薄れてい

るのではないでしょうか。

戦争中は、食べ物がなく、お腹いっぱい食べることがで きずに、栄養失調で亡くなった方も大勢いました。戦争が

終わってからも食料不足は続きました。

夜も空襲におびえて安心して眠ることができませんでし

た。

みなさん、想像してみて下さい。たった一つの爆弾で家

族や友達がいなくなってしまうのです。当たり前のように

あると思っていた明日は確実にあるものではないのだと気

づかされました。

熱線、爆風、放射能で一瞬のうちに町が壊滅してしまっ

たこと、助かった人も長い間、後遺症に苦しめられたこと

を聞き、本当におそろしいと思いました。

ですが、もっとおそろしいのは、戦争反対など自分の意

見を言っただけで、非国民と言われ、差別を受けてしまう、

人権が尊重されない世界です。戦争は、人の心までおかし

くしてしまうものだと思い知らされました。

今、この瞬間も、どこかの国では戦争をしています。私

達は、実際にその国に行って戦争を止めることはできませ

ん。ですが、平和のために私達にもできることはあるはず

(29)

です。

私は、今回、このような貴重な経験をさせていただき、

おそろしい歴史を知りました。知ったからには、伝えてい

く義務があると思います。なので、私は、将来にわたって

戦争や原子爆弾のおそろしさを伝えていきたいと思います。

そして、それが私たちの未来の、平和を守る力になると思

っています。

参加させていただき、ありがとうございました。

繰 り 返 し て は い け な い

名立中学校三年沢田ひなた

一九四五年八月六日午前八時十五分、広島に一発の原子

爆弾が投下されました。多くの人々が一瞬で命を落とし、

たくさんの夢や希望も同時に奪われました。

あれから七十年の時が経ち、私は初めて広島を訪れまし た。広島市内は、多くの建物が建ち、花や緑の木々であふ

れていました。しかし、原爆ドームだけが、時を止め、当

時の悲惨さを今に伝えていました。私は原爆ドームの姿を

見て今まで感じたことのない冷たく、悲しい、不思議な気

持ちに襲われました。

今回の広島派遣で、私は多くのことを学ぶことができま

した。特に被爆者の方々のお話からは、今、私があたりま

えのように日々を過ごしていることの幸せを改めて考えさ

せられました。

なぜ、多くの人々が命を落とさなくてはならなかったの

でしょうか。人を殺してよい理由なんてありません。原爆

も悪いけれど、その原因をたどれば戦争が悪いのです。こ

の七十年、日本は戦争にまきこまれず、平和な社会を保っ

てきました。しかし、世界を見渡せば、今でも多くの地域

で紛争が行われ、かけがえのない命が失われています。私

はこれからも争いごとのない平和な日本であること、そし

て、それが世界に広がっていくことを願います。

年々、被爆者の平均年齢が上がり、今年で八十歳を超え

(30)

たそうです。今、広島市は木々に覆われて美しい街に変わ

りました。それは、良いことだと思います。しかし、この

街のように、原爆の記憶も消されていくのではないかと不

安になります。戦争を体験した方々は、私たちの周りにも

たくさんいます。私たちがするべきことは、この過去のあ

やまちを次の世代へ語り継ぐことです。そして、この悲し

いできごとを二度と繰り返さないことです。

世界には、今にも発射可能な核兵器が何万とあります。

私には核兵器を作ろうと考える意味がわかりません。そし

て、日本も含めた世界の国々は、核兵器を所有している国

との関係に神経を使っています。一瞬にして多くの命や希

望を奪う核兵器が、外交の道具になってしまっているので

す。私は、だれもが自分らしく、自由に、大切な人々と楽

しい日々を送ることのできる世の中を望んでいます。こう

した世界を築くために、世界で唯一の被爆国に住む私たち

が、もっと、核兵器をなくそうという声を発信していかな

ければならないと思います。

伝 え て 創 る 未 来

上越教育大学附属中学校二年小林優衣

たった一発の原子爆弾が、尊い何万の命を奪ってから七

〇年もの時が経ちました。現在はビルも立ち、花も咲き、

たくさんの人が広島の街を歩いています。そんな広島に七

〇年前、世界で初めて原子爆弾が投下され、何万人もの方

が命をおとされたことは考えることができませんでした。

倒壊した家屋、熱線で溶け固まったビン、そして被爆さ

れた方が写った写真。どの写真や物を見ても私はショック

を受けずにはいられませんでした。とくに頭からはなれな

かったのが実際に広島平和記念資料館に展示されていた、

焼け焦げた三輪車です。三歳の男の子が原爆投下直後に乗

っていた三輪車で、その男の子は熱線による火傷で亡くな

られ、お父さんが庭に三輪車と男の子を埋めたそうです。

何年か経って男の子をきちんとしたお墓にいれるために土

を掘りおこした後、一緒に埋められていた三輪車を平和記

(31)

念資料館に展示するよう、お父さんが持ってきたのです。

この話を聞いた時は言葉もでませんでした。まだ三歳だっ

たのに突然命を絶たれた男の子と大切な家族を亡くした男

の子の両親のことを考えると目に涙がにじんできました。

もう大切な命を戦争でなくさせない。私は強くそう思い

ました。誰も自分や家族、大切な人々の命を戦争でなくす

など絶対に望んでいません。争いからは憎しみしかうまれ

ません。今現在、世界には恐しい核兵器がとてもたくさん

存在し、各地で紛争も起きています。人が人の命を奪う戦

争をなくすにはとてつもない時間が必要になります。です

が、あの広島でおきた事実を、次の世代を担う私達が未来

に語り継ぎ、平和を望む人々が声を世界に発信していけば、

いつかは戦争がなくなると信じています。私はそんな未来

が実現されるための一歩として、広島で見た事、聞いた事

を未来に伝えていきます。

想 い を 繋 げ る

直江津中等教育学校三年本田瞳未

一九四五年、八月六日の午前八時十五分、一発の原子爆

弾は広島の人々からすべてを奪いました。あれから七十年、

私は広島の地に立ちました。そして様々なことを学び、感

じとることができました。

それは、平和記念資料館での事です。そこには亡くなら

れた方の遺品や当時の写真などがたくさんありました。溶

けてくっついたガラス瓶、焼けこげた服、人影の残った石

段。どれもが原爆の悲惨さを物語っていました。この地で

本当にこのような事があったのかと思うと、とても悲しい

気持ちになり、見るのが辛くなりました。しかし、その後、

被爆された方のお話を伺った時、目をそらしてはいけない

と強く感じました。その方は本当なら思い出すのも辛いよ

うなことを私たちのために、鮮明に語ってくださり、

﹁これからは君たちにかかっているよ。﹂

(32)

とおっしゃいました。私は、この言葉を聞いて、平和への

想いを託されたような気がしました。

次に、献水献花慰霊式での事です。原爆ドームを前に行

われたこの式典には、沖縄や東京の学生の方たちも出席し

ていました。そこで、最後に式典を進行してくださった女

性が私たちに向けてこうおっしゃいました。

﹁広島に行った、原爆ドームを見た、友達や家族にそう伝

えるだけで良いのです。﹂

この言葉を聞いて、原爆やヒロシマのことを少しでも多

くの人に覚えていてほしいという想いが伝わってきました。

戦争のことを語ってくださる方が減ってきている中で、

お話を伺えたということはとても貴重なことだと思います。

だからこそ私は、戦争、原爆の悲惨さや今ある平和は先人

たちが創り上げたものだということを次の世代に伝え、想

いを繋げていきます。

(33)

長崎の被爆クスノキ 2 世の植樹

∼非核平和友好都市宣言 2 0 周年にあたって∼

1945 年 8 月 9 日 午 前 11 時 2 分 、一 発 の 原 子 爆 弾 に よ り 長 崎 の 街 は 廃 墟

と 化 し 、 そ の 年 の 暮 れ ま で に 7 万 4 千 人 も の 市 民 が 亡 く な り ま し た 。 爆 心 地 か ら 800 メ ー ト ル の 距 離 に あ る 山 王

さ ん の う

神 社( 長 崎 市 坂 本 )で 被 爆 し

た ク ス ノ キ は 、被 爆 の 惨 禍 に 遭 い な が ら も 、焼 け 焦 げ た 幹 か ら 再 び 芽 吹 き 、

長 崎 市 民 に 生 き る 勇 気 と 希 望 を 与 え ま し た 。

こ の ク ス ノ キ の 苗 木 を 長 崎 市 よ り 譲 り 受 け 、 平 成 27 年 8 月 8 日 、 直 江 津 捕 虜 収 容 所 跡 地 に あ る 平 和 記 念 公 園( 川 原 町 )に 植 樹 し ま し た 。前 日 広 島 か ら 帰 っ て き た ば か り の 中 学 生 が 平 和 へ の 願 い や 決 意 を 立 派 に 発 表 し て く れ ま し た 。

苗 木 の と な り に は 、 10 年 前 の 平 成 17 年 に 、 宣 言 10 周 年 記 念 で 植 え た 広 島 の 被 爆 ア オ ギ リ が 青 々 と し た 葉 を 茂 ら せ て い ま し た 。

戦 後 70 年 、非 核 平 和 友 好 都 市 宣 言 か ら 20 年 の 節 目 の 年 に あ た り 、こ の

被 爆 ク ス ノ キ 2 世 が 上 越 の 地 に 根 付 き 、枝 を 伸 ば し 、葉 を 茂 ら せ る よ う に 、

恒 久 平 和 へ の 願 い が 大 き な う ね り に 育 つ よ う 、努 力 を 続 け る こ と 誓 い ま し

た 。

参照

関連したドキュメント

参加議員:福田康夫 JPFP 会長(衆・自)、広中和歌子 JPFP 会長代行(参・民)、逢沢一郎 JPFP 幹事長(衆・自)、南野知惠子 JPFP

(単位:千円) 平成22年度 平成23年度 平成24年度 平成25年度 平成26年度 1,772 決算 2,509 2,286 1,891 1,755 事業費 予算 2,722 2,350 2,000. 1,772 決算

Public Health Center-based Prospective Study.Yamauchi T, Inagaki M, Yonemoto N, Iwasaki M, Inoue M, Akechi T, Iso H, Tsugane S; JPHC Study Group..Psychooncology. Epub 2014

平成 24

※短期:平成 30 年度~平成 32 年度 中期:平成 33 年度~平成 37 年度 長期:平成 38 年度以降. ②

平成 26 年度 東田端地区 平成 26 年6月~令和元年6月 平成 26 年度 昭和町地区 平成 26 年6月~令和元年6月 平成 28 年度 東十条1丁目地区 平成 29 年3月~令和4年3月

6  外出  12  忘年会  7  夏祭り  1  新年会 . 8  花火 

なごみ 11 名(2 ユニット) 、ひだまり 8 名(2 ユニット)短期入所(合計 4 名) あすわ 2 名、ひまわりの家 2 名