1 グローバリゼーションは、冷戦終結後の 1990 年から 2000 年に急拡大した世界経済の一体化であるというこ とができる。なかでもグローバリゼーションの先進的優 等生は、EU(Europe Union:欧州連合)であった。す でに 1992 年にはマーストリヒト条約によって EC から EU に生まれかわり、人と物とサービスの域内自由移動 がほぼ完成していた1。EU はヨーロッパ各国の国境障 壁を完全にとりのぞき、グローバリゼーションの姿を ヨーロッパの域内で先取りするものであった。
し か し、2016 年 6 月 23 日、 イ ギ リ ス の EU 離 脱 Brexit2が国民投票で決まった。国民投票の結果は残留 支持派が 48.1%、離脱支持派が 51.9%と僅差で離脱支持 派が勝利する結果となった。これは、一般には、イギ リスが EU 域内の東ヨーロッパ移民、特にポーランドと ルーマニアの低賃金かつシェンゲン協定による合法的移 住がイギリス労働者の仕事を奪ったことと考えられてい る。
しかし、離脱支持派は、EU 諸国からの移民の増大の ような旧東欧諸国からの域内移住による英国労働者の職 業奪取もさることながら、イギリスの EU に対する多額 の分担金拠出に対する反発などから離脱を支持していた のである。また、離脱支持派は、この旧東欧諸国の移民 の増大により、彼らは EU の人の移動の自由にもとづい た合法的な移民であるゆえ、イギリスにおける国民医療 サービス National Health Service : NHS3の支出増大に
よって財政が逼迫すると主張することに余念がなかっ た。選挙当時には「もし離脱に投票したのなら1週間 に3億 5000 万ポンドを蓄えることができ、そのお金を NHS や学校などに充てよう」という国民投票キャンペー ンのキャッチフレーズで離脱賛成のキャンペーンを強力 に展開していた。
逆に残留支持派は、EU から離脱することより経済規 模が縮小することを危惧していた。経済規模の縮小に よって税収不足に陥り、NHS におけるサービスの質の 低下を招く恐れがあると残留派は主張していた。また、 多くの移民が労働力となっている NHS における医療ス タッフが財源不足から減少し、マンパワー不足に陥ると 予想され、イギリスの NHS が社会福祉政策として十二 分に機能しないことを恐れて、EU 離脱に反対のキャン ペーンを展開していた。
そもそも NHS はすべての国民に原則無料で包括的な 医療を提供する医療サービスである。研究報告者もイギ リス留学中に NHS に登録し、サービスを受けた経験が ある。これまでは EU 以外の人々も NHS に登録すれば 無料で医療サービスを受けられていた。
しかし、2015 年4月6日以降、6か月以上滞在する EU 以外からの人々に対しては、滞在期間に NHS に登録 する時に 200 ポンドの immigration health surcharge4 (健康保険付加料)の支払いが義務付けられている。こ の immigration health surcharge の支払いが確認できな
伊 藤 豪
Brexit 後の NHS の動向
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1 EUの母体の欧州経済共同体(EEC)の設立条約(ローマ条約、1958年発効)において、加盟国間で人、物、サービス、資本が自由に移 動できる共同市場を創ることが目指された。その後、1985年に西ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの5カ国が「人 の移動の自由」の実現に向けて、域内国境を段階的に撤廃することに合意したのが「シェンゲン協定(The Schengen Agreement)」であ る。同協定は、当時の欧州共同体(EC)の枠外で締結され、その後ヨーロッパの国々において25か国が締結している。引用:EU駐日代表 部Web http://eumag.jp/question/f0412/ accessed in 20 September 2017
2 Brexit とは、Britain Exit の造語で、EU 離脱の是非を意味する。
3 英国の国民保健サービスは National Health Service,通称 NHS と呼ばれている(北アイルランドにおいては Health and Social Care, 通称 HSC)。NHS は税金で運営されており、加入者は自己負担なく医師の診察を受けることができる(一部地域では処方箋や歯科診察に 一定料金が掛かる)。6カ月以上合法的に英国に滞在する場合、原則的に外国人でも NHS に加入することができる。ただし、加入資格が あるかどうかの最終的な判断は診療所、病院に一任されている。16 歳以上の就労者は、National Insurance Contribution と呼ばれる保険 料の支払いを求められる。また英国に6ヶ月以上滞在する一時的滞在者(non-EEA migrants)に関しては、査証取得・延長時に NHS 利 用料の支払いを求められる。NHS の長所は、原則「無料」で医療を受診できることである。引用:Ministry Foreign Aff airs of japan Web http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/medi/europe/uk.html accessed in 29 September 2017
2 かった場合には、滞在許可の申請が拒否または無効とさ れる。また、6か月未満の者に対しては、NHS のサー ビスを受けた場合、治療にかかった費用の 150%の料金 を支払わなくてはならなくなっている。
さらに、イギリスに職を求めて旧東欧諸国などの EU 加盟国からの移住を考える移民は多いかもしれないが、 いまのところ無料の医療サービスのために大量に移民が 流入してくるとはあまり考えられない5。このように移 民の流入に対しては、すでに EU 全体でもイギリス一国 でも対策が厳格化されていることから、NHS 財政に及 ぼす影響はほとんどないものと考えられる6。
やはり、イギリスが EU から離脱することにより、経 済規模の縮小が NHS 財政に直接影響し、サービスの質 の低下やマンパワー不足を招く可能性がある。これに対 し、NHS 制度として何らかの対策を講ずる必要がある と考えられる。なお、現首相であるテリーザ・メイはキャ メロン政権下で内務相を務め、移民政策を推進し、2015 年に immigration health surcharge の導入を進めた人物 である。EU 離脱後の NHS 改革をどのように推し進め ていくかを、次回のグローバリゼーションに基づく保 険・医療分野におけるテーマとして考えているところで ある。
参考文献
堀真奈美「イギリス医療保障の潮流を問う―EU 離脱問 題に焦点を当て」『週刊社会保障』第 70 巻 2885 号、法研、 pp.48-53, 2016 年8月1日
堀真奈美著『政府はどこまで医療に介入すべきか:イギ リス医療・介護政策と公私ミックスの展望』ミネルヴァ 書房、2016 年3月 20 日
一圓光彌・林宏昭編著『社会保障制度改革を考える:財 政および生活保護、医療、介護の観点から』中央経済社、 2014 年7月 25 日
田畑康人・岡村国和編著『読みながら考える保険論〔増 補改訂第2版〕』八千代出版、2016 年4月8日
学会報告
伊藤豪「NHS から見る第一次医療のあり方」日本保険 学会九州部会第 41 回例会、福岡大学、2015 年2月 21 日
福岡大学研究部論集 B 9 2017
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5 EU移民は、少なくとも労働力としてイギリス経済を支えていることから、納税者であることを考慮しながらこの問題は扱わなければな らない。