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★16~17ページ 広報たかはし 2016年6月号 高梁市公式ホームページ

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Academic year: 2018

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私 の

健康

第2回

休日に親子で楽しく作れる料理を紹介します!

簡単手作りピザ

健康づくり課 ☎(21)0267

  

材 料 (4人分)

  薄力粉・・・・・・・・・150g   ベーキングパウダー・・・小さじ1   塩・・・・・・・・・・・小さじ 1/2   砂糖・・・・・・・・・・大さじ 1/2   オリーブ油・・・・・・・大さじ1   牛乳・・・・・・・・・・90cc ピザソース・・・・・・・・・40g ミニトマト・・・・・・・・・8個 タマネギ・・・・・・・・・・小1個 ナス・・・・・・・・・・・・40g ツナ(水煮)・・・・・・・・・40g ゆで卵・・・・・・・・・・・1個 ピザ用チーズ・・・・・・・・50g 乾燥パセリ・・・・・・・・・適量

人 と 交 わ っ て 暮 ら す

 健康なまちづくり応援団、老人会、愛育委員とたくさんの会に参加しています。 特に応援団は

いときた過ごしいて思っています。 わら!人との関にりれもをからこ切大 く 健康でも楽しんな人生なぴてまっい

健 今 後 の 目 標 は 楽 康 で し く 暮 ら す こ と

訣康な秘かもしれません。 味ろなことに興があ、健で元気もとこる 塗クロスワドやーりな絵ろどい芸い手、 ど また、ヨなガの動だけではなく運、 だすが大切いと思ってます。ことごを過 っます。人と交わいてし間時暮楽、しら 話の健康についてすていい機会になっ良 参に団す援応 加自ることで、分や仲間 で活動てしいます。 には登山をするなどと、ろころないいろ 時目を健康に、を!標しりにた」を操体 グするだしけでンがたの、人はり「今周 、ら参加しており初当は仲でウオーキ間 14年か時たげ上ち立に前

ひ ら い

井 みどり

さん

(備中町長屋)    

作 り 方

[1] タマネギを薄く切って水にさらし水気を絞る。ナスは薄い半月切りして水にさらし水気をとる。

ミニトマトは薄く切り、ツナは汁を切ってほぐしておく。ゆで卵は輪切りにする。

[2] 薄力粉とベーキングパウダーを合わせてボウルにふるい入れ、塩、砂糖、オリーブ油を入れて軽

く混ぜる。牛乳を全体に回し入れ、耳たぶくらいの硬さになるまでしっかりこねる。

[3] クッキングシートの上に生地をのせ、めん棒で薄く伸ばす。生地の上にピザソースをまんべんなく

ぬり、タマネギ・ナス・ミニトマト・ツナ・ゆで卵をのせ、最後にピザ用チーズとパセリを散らす。

[4] 200度に温めたオーブンで約10分焼く。(フライパンの場合は、生地を入れて弱火で5分焼き、生

地に火がとおったらピザソースを塗って材料をのせ、蓋をして弱火でチーズが溶けるまで焼く)

※このレシピは行政放送、市ホームページでも紹介します。

ピザ生地

フライパンでも焼けるよ♪

16

H28 (2016) 6月

福 ふ く に し 西 志 し げ こ 計 子 第 1 回 文  児 玉  享

さん

女 子 教 育 に     身 を 捧 げ た

高梁偉人列伝

有終館の学頭︵校長︶になって藩士教育にあたるとともに、松山最初の私塾﹁牛麓舎﹂を創り、学問を目指して各地より集まる生徒を教えていた。

  この塾の隣家に福西志計子は生まれた。父は福西郡左衛門︵伊織︶、母は飛天、弘化4︵1847︶年

。育つ子もにどっていった 学の教えを受けて問の強い情熱を持へ ななら大きく方り、山田谷がきを声聞 た隣ばれ。志計子は家の塾生の句読の に幼名は繁、後呼志計、志計子とで、 12とこの月   7歳の時に父は亡くなり、母は志計子を実家の剣持家で育てたが、

つづ︶へ号次︵く 生活は厳しかった。 持、維新後米七二石とあり、一家の斗 士は準士︵下級八族︶で米石二人扶彼下 松の下巻︶﹂の山藩︵侍でみると、帳 てた記録が残っ岡いる。﹁山県通史し 告所報のに山の百一揆姓終息を岡山役 め撫育型うなどを勤年、明治初には野 復を活させた。助五扱郎物を産藩のは 七五郎︵上泉平助男西︶を家井福え迎て 6の慶応2︵18︶年6、志子に養子計 10年後 た︶しみの校9に国。 校学の女学・順正女校を創設︵当時全 県励のかに、下で最初苦勉な困き生を 今れ、幕末ら明治︵かか百数十年前︶ら   は福西志計子に高前町生ま御梁の   順正女学校の校舎は老朽化していたが平成

28年3月に修復され、明治

。いたみてっど 計めに奮闘した志の子尊い一生をた とたの上向立そ自の性女を涯生の、に 姿の静時建戻にとった。木村の共創 28年

  当時、松山藩は激動の時代を送っていた。困窮した藩財政を建て直し、学問を発展させたのが山田方谷である。方谷は幼時より学問に励み、その優れた学力・人格を認められ、藩校である   その上、明治初年の松山は岡山藩の支配下に入り、藩士は5、6月頃まで城下を明け渡して津川・高倉などで謹慎し、その後城下には

戻 っ

たが、元の家に帰るのは明治2︵1869︶年の9月、岡山藩の撤退後高梁藩として二万石で再建されてからである。藩が存続の危機に立たされたこの間、藩士はどのような生活をしていたのであろうか。志計子は和裁の師匠などをして家計のやりくりをしていたと思われる。

  ﹁没後三十年に当たり福西先生を偲びて﹂によると、神崎竹代は﹁明治三年頃から長年、先生のお膝元で教えをうけ﹂た。また﹁先生は独立心のある意志の強い正義を行う人で、同情心、勇気のある愛にみちたお方でありました。またお手早と

い っ

たら人の二人前、三人前もお仕事のできる人でした。時間を大切にされました。又先生は女子の覚醒という事を申され、女子教育が大切だといわれました﹂と書いている。やっと藩が再興されたと思ったら、2年後には廃藩置県となり、藩 士は生活の手立てを探さなければ生きていけない大変な時代になった。

  明治新政府は新国家建設のため次々に制度をつくり、明治5︵1872︶年に学制を公布し、女子も男子同様に勉強ができるようになった。明治6︵1873︶年に有終館の跡地に高梁小学校が設置された。   明治8︵1875︶年志計子が

時、 29歳の

。江忠蔵の女で長戸に生まれた た村木は静村木。し入に所習伝縫学 10静年長の木村歳と一緒岡山裁に

で本家に嫁ぎ、 19歳

。のたいてめ努に育養女二 31歳とあたっ失を夫で   2人が学業を終えて帰った明治9︵1876︶年7月に、﹁女子教育普及ノタメ各郡ニ女紅場ヲ設置シ、年齢十四歳以上ノ婦女子ヲ入場セシメ、裁縫ヲ専修セシメ、傍ラ言語礼節身体動作ノ略節ヲ学バシム﹂との布達があり、

学所小校付属縫裁と改称する。 のにった。こな女紅場は翌年よう高梁 すそれた。2人はのる教として勤務師 10月に高梁小さ校学女紅場が付設

裁 縫 教 師 へ の 道

17

H28 (2016) 6月

参照

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