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あまんきみこ「くましんし」に関する一考察 : 「 ファンタジー童話」の成立: 茨城大学機関リポジトリ

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Academic year: 2018

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お問合せ先

茨城大学学術企画部学術情報課(図書館)  情報支援係

http://www.lib.ibaraki.ac .jp/toiawas e/toiawas e.html

T itle

あまんきみこ「くましんし」に関する一考察 : 「 ファン

タジー童話」の成立

A uthor(s )

根本, 真希; 昌子, 佳広

C itation

茨城大学教育学部紀要. 人文・社会科学・芸術, 67:

129-145

Is s ue D ate

2018-01-30

UR L

http://hdl.handle.net/10109/13508

R ig hts

(2)

あまんきみこ「くましんし」に関する一考察

「ファンタジー童話」の成立

根本真希*・昌子佳広** (2017 年 8 月 31 日受理)

A Study on Aman Kimiko’s

“KUMA SHINSHI

A Gentleman who is a Bear

Maki Nemoto* and Yoshihiro Shoji**

(Accepted August 31, 2017)

はじめに

 童話作家あまんきみこが現在までに発表した作品は200編を超えているが,現在の我が国にお

いて最も多くの読者を獲得している童話作家と言って差し支えないであろう。1965年(昭和40年)

のデビュー以来,多くの受賞歴もあり,一貫して高い評価を維持してきた。またこの間,小学校の 国語教科書にも多くの作品が教材として採録され,その作品数は全ての作家の中で最多である。こ うしたあまんの作品については数多くの先行研究があり,また国語科教材としての教材研究論や授 業実践報告も膨大な数に上る。

 先にあまんきみこを「童話作家」としたが,その前に「ファンタジー」の言葉をつけ加えること に異論はないであろう。あまんがこれまでに発表した作品は,「リアリズム」に則るものもあるが, 多くはいわゆるファンタジー童話に属するものと言える。童話・文学の一ジャンルとしてのファン タジーの定義には諸説があり端的に整理することは難しいが,できるだけ広くその定義を述べるな らば,物語内容において,現実の世界と非現実の世界が混在し交差するもの,と言えよう。ここで 言う現実とは,我々が生きている現実そのままの枠組みをもつ世界を指し,非現実とはそれとは異 なる枠組みによって構成・規定される世界を指す。例えば,我々の生きている現実世界においては 人間以外の生物は人間と同じ言葉を話すことはできず,人間と他の生物との間で言語を媒介とする コミュニケーションをもつことは不可能であるが,あるファンタジー童話の物語内においては,ひ とまず人間以外の生物が言葉を話すことはないという現実世界が存在した上で,他方に何らかの生 物が人間と会話を交わすことが可能な世界も存在し,それら二つの世界を跨ぐ形で物語が進行・展        

*常陸太田市立里美小学校(〒311-0505 常陸太田市大中町60-1; Satomi Elementary School, Hitachiota 311-0505 Japan).

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開していく。そして,ファンタジーの多くの作品が,現実世界を出発点とし,その世界を生きてい る登場人物がふとしたことから非現実の世界に触れ,再び現実の世界に戻る,という筋立てをとっ ている。その場合において,登場人物の体験した非現実の世界は,現実の枠組み・価値観から見る ならばその人物の一時の「夢」や「幻」のようなものであり,この点でこれまで述べた非現実の世 界における登場人物の体験を「幻想体験」と呼ぶことができる。このようなファンタジー童話の定

義や基本構造,また幻想体験のあり方などについては,別稿1)において考察を加えた。

 本稿では,ファンタジー童話作家として名高いあまんきみこの数多くの作品の中から,デビュー 作である「くましんし」を対象とした考察を試みる。この概要やあらすじについては後に紹介する が,上述のファンタジー童話の典型的な筋立てをとる作品である。あまんはこの作品でデビューし た後,同じ登場人物(主人公)を設定した短編を連作していく。そしてその一連の作品をまとめた

ものが,あまんの第一単行本(童話集)となった『車のいろは空のいろ』(1968年,ポプラ社)で

ある。同書は刊行翌年の1969年に「日本児童文学者協会新人賞」,「野間児童文芸推奨作品賞」の

二つの賞を受賞し,あまんは当時新進の童話作家として一気に脚光・注目を浴びることになった。  「くましんし」の発表・初出はある雑誌上であったが,その数年後に『車のいろは空のいろ』に 収められるまでの間に,改変・改稿が加えられた。初出形とその後の発表形との間に異同が見られ るのはこの作品に限ったことではなく,またあまん個人にも限らず多くの事例があって,決して特 殊なものではない。が,本作品においては,上記の異同,改変・改稿が,特にファンタジー童話と しての完成度・成熟度に大きく作用したという見方をしている。もちろん,上記の通り,初出・発 表後間もなく高い評価を得た作品であり,その時点において十分に完成度の高いファンタジー童話 であったことは間違いない。本稿では,初出以降の改稿の如何に関わらず,ファンタジー童話とし ての「くましんし」がいかに完成度の高い作品であるかを論じた上で,その完成度をさらに高めた と思われる改変・改稿の事実を具体的に考察し,その評価を試みる。このことを通じて,改めてファ ンタジー童話としての本作品の完成度・成熟度を明らかにし,さらにはあまんきみこのファンタジー 童話作家としての成熟の過程,その一端を捉えていこうとするものである。

「くましんし」の概要

 改めて,「くましんし」の概要を以下に確認しておく。

 初出は,童話作家坪田譲治が主宰した児童文学雑誌『びわの実学校』第13号(1965年10月10日)

誌上であった。そして,『車のいろは空のいろ』の出版が1968年である。同書がその後に版を重

ねる一方,連作短編の発表も継続され,『続 車のいろは空のいろ』も刊行された(1982年,ポプ

ラ社)。これらは後に文庫化もされており,さらに新たな短編も加えて「新装版」も出版された他, あまんの短編アンソロジー,ファンタジー童話のアンソロジーなどにも重ねて収録されている。こ うした多くの収録本のある「くましんし」は,あまんのデビュー作にして代表作の一つと言える。  あらすじは以下の通りである。

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という名刺が入っており,それが最後に乗せた紳士のものだと考えた松井さんは,すぐに車を 飛ばして紳士を降ろした屋敷へ向かう。門の前に立ち,ベルを押すと,家の中から紳士が現れ, 松井さんを邸内に招き入れる。そして,その財布はあなたにもう一度会いたくてわざと置いて おいたのだと言い,自分は実は人間ではなく熊なのだと告白して,本当の姿を見せる。紳士の 妻(奥さん)も熊である。そして熊紳士は,松井さんと酒を酌み交わしながら,どうして熊で ある自分たちが人間に姿を変えて暮らしているのか,その身の上を語る。やがて,酒の酔いも 手伝ってか,熊紳士の話を聞く松井さんは夢心地になっていく。(初出形ではここで物語が終 わるが,その後に以下の展開が加筆された。)そしてはっと気づくと,「財布を忘れていった紳 士の家の門の前」に立っており,既に一度押したベルへの応答を待っているところだった。深 夜でもあり家の人はもう寝てしまっているのか,なかなか出てこないので,松井さんは改めて ベルを押す。すると,門が重々しく開き出し,同時に松井さんの心臓がどきどきと高鳴り出す …というところで物語が終わる。

 童話作家でありファンタジー童話の研究者でもあった佐藤さとるは,自身が編んだ『ファンタジー

童話傑作選2』(1979年,講談社文庫)に「くましんし」を収録し,

 ファンタジーを創る資質にめぐまれた作家であるらしく,こうした愛すべき作品を楽々と書 いているようである。ふんわりした情感につつまれたものが多い中で,この作はわりあい密度 の高いかっちりした構成を持っている。

と評している。

 この作品が高く評価され,あまんは「春野タクシー会社」の運転手「松井さん」を主人公とし, タクシーにお客を乗せることによって非現実の世界を体験していくという基本的な枠組みで連作を

発表していくことになった2)。シリーズ中,夙によく知られているのが小学校国語教科書に長年採

録されている「白いぼうし」であろう。松井さんが道端で見つけた白いぼうしを拾い上げたことか らある不思議な体験をする物語である。

ファンタジー童話としての「くましんし」の考察と評価

 「くましんし」に対する評価については,前述の佐藤さとるによるものをはじめとして数多くの 意見を見ることができるが,いずれもあまんの作品全般,あるいは『車のいろは空のいろ』の一連 の作品に対する評価の一部として,本作品そのものに対してのコメントはごく短いものにとどまる。 本作品そのものを考察の対象に据えたものとしては,畠山兆子による論文「あまんきみこ初期作品

の検討―「くましんし」が内包するもの―」3)がある。同論文は,作者あまんの生い立ちや,あま

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ましんし」に対する筆者らなりの考察と評価を試みたい。畠山も検討したように,初出形に対する 加筆・修正の問題も含めて,本文テキストに触れて具体的に検討を進めていくが,本作品では初出 形以降の数多くのテキストにおいて,表記面に至るまでの細かな異同が数多く見られ,例えばタイ トルにおいて初出誌版における「しんし」を「紳士」と漢字表記されたテキストなども見られるので, 注意が必要である。が,本稿では,表記上の問題は考察の対象としないものとし,また多数のテキ スト間の異同を細かく見ることは徒に問題を複雑にするので,初出誌掲載テキストと,現在までの 最も新しいテキストの二つに対象をしぼることとする。本稿ではそれらをそれぞれ「初出形」・「最

新形」と呼ぶ。初出形とは既に述べたように雑誌『びわの実学校』第13号に掲載されたテキスト

を指すが,本稿での引用には雑誌『ざわざわ―子ども文学の実験』創刊号(草創の会編,四季の森社,

2015年5月)に復刻掲載されたものを用いる。そして最新形とするのは『あまんきみこセレクショ

ン④ 冬のおはなし』(三省堂,2009年)に収録されたものを指し,引用には同書を用いる。なお,

引用に際してそれぞれの掲載頁については省略する。  以下,いくつかの項目を立てて考察と評価を試みる。

(1)設定―タクシー・運転手

 既に紹介した通り,主人公は,「春野タクシー会社」の運転手,「松井さん」である。松井さんは 客の紳士が車内に忘れていった(残していった)財布を届けようとしたことで,不思議な体験をし ていくことになる。本作品の発表後,同じ人物設定のもとで連作が続けられていくことになったの であるが,この,タクシーとその運転手という場と人物の設定は,ファンタジーの物語として絶妙 な設定であったと考えられる。

 本作品以降の全ての連作・エピソードにおいて,松井さんはそのタクシーにお客を乗せ,そのお 客との間で,あるいはそのお客とともに不思議な体験をするというのが,共通の物語内容となった。 最も多いのが,人間だと思って乗せたお客が実は人間以外の動物であったという展開で,本作品で

は「熊」であったが,「山猫」「狐」「蝶」など,さまざまな動物・生き物が松井さんのタクシーに乗

ることになる。そのシリーズが『車のいろは空のいろ』にまとめられたわけだが,初出形において はタクシーの車体の色は特に明示されていない。が,上記の単行本化に際して,「空色の車」とい う描写が加えられた。前に紹介した畠山兆子は,同論文において,本作品の発表当時のタクシーは そのほとんどが黒い車体であったのに対して,本作品のタクシーが「空色」とされたことに,「黒 色が持つ重量感から解放され,空に溶け込んで雲の上まで上昇することを可能にした」と,加筆・ 修正によるその新たな設定の妙を高く評価している。その指摘に同意したうえで,本稿においては, タクシーそのものが抱える特徴に注目してみたい。

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釈が可能である。

 また,前述のようにタクシーは乗客の指示にしたがってその目的地まで走ることになる。例え運 転手がその目的地までより短時間で着くルートを知っていたとしても,乗客にルートを指定されれ ばそのように走るしかない。「くましんし」以降のエピソードにおいても,乗客が告げた地名を松 井さんは知らず,そこまでの行き方を尋ねてみたところ,目印となる建物などは知っておりその先 に乗客の言う地名は存在しないはずだと思うが,必ずあるのでそこへ向かってほしいという指示に したがって,松井さんは疑問を持ちながらもタクシーを走らせる,という話がある(「すずかけ通 り三丁目」4))。

 そして,こうした運転手と乗客との関係は,ほとんどの場合,一度きりの関係である。あくまで も偶然のタイミングで通りがかったタクシーを乗客が停め,あるいは乗り場に待つ乗客の前に順番 でやってきたタクシーに乗り込む。まれには,乗客によって運転手が指名されるということもある が,逆に,運転手は乗客を選んで乗せることはできない。つまり,運転手と乗客とは「一期一会」 の関係にあると言える。既に述べたように,ファンタジーの物語では登場人物(主人公)がある不 思議な体験,幻想体験をするのだが,多くの場合においてその体験は一回限りの刹那的なものとし て描かれる。それはまさに,同じ運転手の同じタクシーに同じ乗客が乗ることは極めてまれであり, その出会いと時間の共有は刹那的なものであることになぞらえることができる。

 このように,タクシー,またその運転手という設定は,不思議なできごとが起こる,幻想体験が 生じる物語において実にふさわしい設定であったと言えよう。

(2)人物―主人公「松井さん」

 次いで,松井さんの人柄,人物像について検討したい。松井さんはシリーズを通じて善良な,心 優しい人物として描かれている。前述の通り,乗客に導かれて不可思議な体験をするのだが,乗客 が少々不審な言動をしようとも腹を立てるようなことはなく,常に真摯な態度で職務を全うしよう とする。複数のエピソードを通じて,名は「五郎」であること,弟があること(五郎という名前か らすると兄や姉もあるかもしれない),郷里を離れてこの町で働いていること,年齢としては二十 代後半から三十代前半と思われること,妻や子どもの話は出てこないのでおそらく未婚・独身であ ること,などが読み取れる。本作品は第一作ということもあり上述の細かな設定はまだ読み取れな いが,くましんしが,人間に追われる形で故郷を捨て,人間に姿を変えて暮らしているというその 身の上を語る話にじっくりと耳を傾け,深い共感を示したのは,松井さんもまた郷里を離れて暮ら しているという背景を言外に説明する役割をもっていたと言えるかもしれない。ともあれ,このく ましんしとの向き合い方を通じても,善良で優しく,さらには,純粋で無垢な人柄である松井さん の人物像が規定されている。

 冒頭,後部座席に忘れ物とみられる財布を発見した松井さんは,その中を検め,記憶に基づいて 持ち主を特定し,すぐに届けようと再び車を走らせる。このとき,時刻は夜中の二時を過ぎている。 おそらく何時間にもわたる勤務を終え,深夜にやっと仕事を終えて会社に戻ったところである。例 えばその財布を,事情を報告した上で会社に預け,持ち主からの問い合わせを待つ,という方法が とられてもよい。しかし松井さんは手間を厭わず届けようとするのである。

(7)

のわたしの顔,こわいですか?」という相手の質問に,「いいえ,顔はくまになっても,かわらな

いものが,一つだけあります。それは―,目です。」(最新形)と答える。固定観念や偏見に囚われず,

自らの目で物事を判断するという純粋さが見て取れる。そしてくましんしがその松井さんの言葉に お礼を述べ,一緒にウイスキーを酌み交わすことになる。この後のくだりは初出形と最新形で若干 の違いがあるので両者を引用する。

【初出形】

 松井さんは,グラスに,こはく色のウイスキーをなみなみとついでもらいながら,楽しい, と思いました。おだやかな目のかがやきを,美しい,と思いました。すると,くまが人間のこ とばを話し,人間の生活をしていることが,あたりまえのことのように思われてきました。

【最新形】

 松井さんは,グラスにウイスキーをなみなみついでもらいながら,楽しい気もちでした。お だやかな目をしたくまが,人間のすがたで,人間のことばを話し,人間とおなじくらしをして いても,あたりまえのことのようにおもわれてきました。

 松井さんは,このくましんしの存在を「あたりまえのこと」として受け入れることになった。こ のことは後にも改めて言及するが,人間の世界と熊の世界は別々のものではなく,それらは一体の ものであるという世界観を松井さんが持ち始めた,気づき始めたということであろう。言い換えれ ばそれは,現実と幻想の壁を超越したところに存在する真実を見出したということでもある。これ は,作者あまんきみこの次のような証言・価値観とも合致するものである。

 私にとってのファンタジーは夢や幻じゃないし,虚構を書いているつもりもないんです。一

生懸命,本物を書いている。創造の世界は,事実と真実の橋渡しをしていると思うからです。5)

 2Bの鉛筆を握った手が動きだすのは,書きたいことが,「ありえない」ことではなく,「ほ

んとうのこと」だと,信じられた時からです。それは,私自身の目に,ほんとうに見え,耳に, ほんとうに聞こえ,体内に,ほんとうに感じられる時だともいえます。(中略)

 それは,もちろん,私にとっての「ほんとう」にすぎないのですが,その「ほんとう」があ ることで,空色のタクシーには,くましんしが乗り,山ねこ先生が乗り,また,子ぎつねも,

雪のかまくらにはいって,あたたかい甘酒をのみだすように思います。6)

 作者あまんの言う「本物」,「ほんとう」が,松井さんの「あたりまえ」に置き換えられるであろう。

こうした「本物」「ほんとう」「あたりまえ」を見極めるには,純粋・無垢な心が必要であり,それ を体現する人物として本作に設定されたのが松井さんであったと言える。

(3)構成―現実から幻想へ,幻想から現実へ

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変えて人間の世界で暮らす熊,「くましんし」との邂逅である。何度も言うように,本作の設定が その後の連作を通じて維持され,タクシーに乗せた幼い兄弟が実は子狐の兄弟であったり,患者の もとへ往診に向かうという医者を乗せるとそれは山猫であったり,という松井さんの体験が重ねら れていく。本作はこの雛形を作ったことになる。

 既に述べたように,ファンタジーにおける非現実の体験は体験者にとっては現実と一続きの体験 ではあるが,客観的に見れば体験者が一時に見た夢のようなものであり,幻想体験である。現実・ 日常の中に起きたふとした非日常がきっかけとなって,鏡のような水面に投げ込まれた小石が波紋 を広げていくように,幻想の世界が広がっていく。「くましんし」における「非日常」は何だった のだろうか。タクシーの後部座席に残されていた財布であったのか,財布の中にあった名刺に書か れた奇妙な名前だったのか,あるいはもっと時間を遡って,深夜に乗せた客の顔をバックミラー越 しに見た時,熊そっくりに見えたことだったのか,それは多様な解釈が許されるであろう。いや, それを一つに定め難い,様々な解釈をもたらす要素がそこかしこにちりばめられていることが,本 作がもつファンタジー童話としての魅力であると言ってよいかもしれない。

 星が,つめたい冬の空に,ちかちかとひかっています。

 葉のすっかりおちたイチョウの木が,道の両側にならんでいます。そのイチョウ並木の下を, 空色の車がぐんぐん走っています。

(今夜は,これでおしまいだな。)

 ハンドルをまわしながら,運転手の松井さんはおもいました。遠くにオレンジ色の光があら われて,みるみるうちに近づき,ビュン,と風のうなりをのこして,すれちがっていきます。  

 これは,最新形の書き出しである。例えばこの下線部に幻想世界の始まりが表現されているとい う見方もあるだろう。「オレンジ色の光」は,現実的に見れば対向車のヘッドライトであろうと思 われるのだが,そのことを明言せず,あくまでも「オレンジ色の光」として,しかもそれが「近づき」 「うなりをのこして」「すれちがっていきます」と,それ自体に意思があるかのように語られている

ことで,対向車のヘッドライト,という現実性を覆い隠し,何か幻想的な存在に感じさせるのである。  そして松井さんは,紳士の家のベルを押し,開かれた門の向こうに広がる幻想の世界に足を踏み 入れることになる。そして,くましんしとの邂逅を経て,再び現実の世界へと戻ってくる。既に「あ らすじ」の説明において述べたように,物語の終末部分は初出形以降に大幅に書き換え(加筆)が 施された。その実際は以下の通りである。

【初出形】

 松井さんの目には,くましんしとくま奥さんの顔が,二重にも三重にも,ぼやけてきました。 顔を横にかたむけると,オレンジ色の光で,かさのような形にひろがった線が,ぜんぶ横にか たむきました。そうだ,子どものころ,涙をいっぱいためた時,電燈の光の線が,みんなこん

なふうになったことがあったっけ―かすかな意識の中で,松井さんは,「ねむる,あ,今,ねむる」

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【最新形】

 松井さんの目に,くましんしとくまおくさんのすがたが,だんだんぼやけてきました。  でんとうのまわりに,オレンジ色の光の線が,かさのような形にひろがってみえました。 (そうだ,子どものころ,なみだをいっぱいためた目で,明るいランプを見ると,こんなふう

にみえたことがあったっけ……)

 松井さんは,ぼんやりとそんなことを考えました。 〈一行空き〉

 そのとき,はっと目がさめたように,松井さんは気がつきました。

 さいふをわすれていったしんしの家の門の前で,ひとりぼんやりと立っていました。家の人 たちは,もうねむってしまったのでしょうか。なかなかでてきません。

 松井さんは,ぼうしをかぶりなおして,もう一度,強くベルをおしました。

 足音が近づき,かんぬきをはずす音が,おもたそうにひびきました。そして,黒い鉄の門が, ずずずずずっ,とひらきだしました。

 そのとき,松井さんの心臓が,どきどきどきどきとはげしく鳴りはじめました。

 最新形における〈一行空き〉以降が,初出形から大きく加筆された部分である。この直前,くま しんしは故郷の「こたたん山」をなつかしむ歌を歌い,それに合わせて松井さんも即興で歌を歌う。 そして,視界がぼやけ,初出形では眠りに落ちそうな松井さんの自覚とともに物語が終わるが,最 新形では,〈一行空き〉の後,松井さんは意識を取り戻し,まだ紳士の家の門の前に立っていて, 今財布を届けに来たところだったと自覚する。そうしてみると,最新形の場合,物語の大半を占め るくましんしの邸内での体験は,屋敷の門の前でベルを押し,応答を待つほんの一瞬の間に見た幻 想であったことになる。このとき,「さいふをわすれていったしんしの家の門の前で」と語られる ことにより,その財布の中に「熊野熊吉」という名刺は入っていたのかどうかさえも曖昧に思えて くる。そもそも,松井さんがその財布の持ち主を最後に乗せた紳士であると考えたのは,単に最後 の客だったからという理由だけではなかった。後部座席で眠っていたその客の顔をバックミラー越 しに見た時,熊そっくりに見え,驚いた松井さんがハンドル操作を誤って車が大きく揺れた後,目 を覚ました紳士の顔をもう一度見るとそれは普通の男性であった,という出来事があった。その印 象と「熊野熊吉」なる奇妙な名前が結びつき,「あの人が,熊野熊吉さんにちがいない。」(最新形) と松井さんは思ったのである。が,この一連のくだりさえも,それは現実にあったことなのか,そ れ自体が幻想の中のできごとであったのか,わからなくなってしまう。こうして,最新形における 最後の一節は,それまでの展開におけるあらゆることを霧の向こうに隠してしまうような効果があ ると思われる。

 既に述べたように,ファンタジー童話の典型的な構成として,登場人物(主人公)が,当初はあ たりまえの現実を生きているが,一時的に幻想的な体験をし,再び現実の世界に戻ってくる,とい うものが多い。ファンタジー童話は「行きて,帰りし物語」だと言われる。これはイギリスの古典

的なファンタジー文学作品であるJ・R・R・トールキンの「指輪物語(Lord of the Ring)」の前

(10)

これに照らすと,「くましんし」の初出形の場合は,幻想から現実への帰還が果たされたのかどうか, やや曖昧であったように思われる。もちろん,上記はあくまでも典型的な,比較的多くの作品に見 られる構成なのであって,何もそれに則って書かれなければファンタジーと呼べない,というもの ではない。また,最後の場面を書き加えたのは,典型的なファンタジーの構成を意識してのことで あったのかどうか,そのことをあまん自身が証言しているわけではないので,確かなことは言えな い。そうした作者あまんの意図は検討の外に措くとして,結果的には,最後に明確な現実世界を置 いたことで,幻想世界を幻想世界としてより一層際立たせることに成功したと思われる。

 そしてこのとき,この最後の場面に「足音が近づき,かんぬきをはずす音が,おもたそうにひび きました。そして,黒い鉄の門が,ずずずずずっ,とひらきだしました。」という二文からなる一 節が置かれたことも見逃せない。実は,初出形においても最新形においても,物語の冒頭にほぼ同 じ文が置かれており,冒頭ではこの後にくましんしが現れるという展開であった。この加筆によっ て,現実世界と幻想世界の境目に,ほぼ同じ文が呼応するように配置されることになったのである。  また,それ以前に,ぼやけた視界の中で松井さんは「オレンジ色の光」を見ている。松井さんは これを,涙をためた目で見た電灯の光が滲んで見える様子,ととらえているが,前にとりあげた通 り書き出しの場面でも「オレンジ色の光」が登場していた。これも,終末の場面の加筆によって生 み出された呼応である。

 このような方法は多くのファンタジー童話に見られるもので,例えば宮沢賢治の「注文の多い料 理店」でも,「風がどうと吹いてきて,草はざわざわ,木の葉はかさかさ,木はごとんごとんと鳴 りました。」という全く同じ一節が,現実世界と幻想世界の境目に置かれている。これもまた,作 者あまんがファンタジー童話の定型として意識的にとった方法であったかを検証することはできな いが,それぞれの世界の間にほぼ同じ文言や表現を配置することによって,現実―幻想―現実の流 れをいっそう明確にすることに成功していると思われるのである。

 以上のように,この終末部分における加筆(改稿)は,ファンタジー童話としての完成度を大き く左右したと言えるであろう。

(4)松井さんの役割

 本稿では既に何度も登場人物である松井さんを指して「主人公」という言い方をしてきた。「主 人公」という用語の意味するところを今更説明するまでもないが,複数の一般辞書等における「主 人公」の意味記述をまとめれば,物語内で中心的な役割をもつ人物であり,全編に一貫して登場し, その行動や思考が物語の進行を支えている,というような説明が可能であるだろう。この意味にお いて,松井さんを「主人公」だとするとらえ方は妥当なものだと言える。

 しかしながら,本作品における松井さんの役割を「主人公」という用語のみをもって表現するの はどこか不十分に思われてならない。

 本作品のテーマを「くまと人間の共生」だとする意見がしばしば見られる。例えば萬屋秀雄は『車 のいろは空のいろ』についての与田凖一の解説を紹介しながら「共生への強い願望」が書かれてい

ると述べ,「くましんし」は「まさに圧巻」であると評価している7)。それは,以下に述べるよう

な物語の筋に基づく意見であろうと思われる。

(11)

二人はともにウイスキーのグラスを傾ける。そして,くましんしがその身の上を語り始める。この 場面についても初出形と最新形とでは若干の変化が見られるが,細かな字句・表現の修正にとどま るので,ここでは初出形によって見ることにする。

 くましんしが言いました。

「こたたん山は,今ごろ雪でまっ白にとじこめられているでしょうよ。―あのあたりも人間の 開拓がすすみましてね,わたしたちくま族の住む場所がだんだんせまくなってしまったのです よ。こたたん山のくまたちは,みなで三百七十二ひきいたのですが―とうとう,十五年前の秋, おわかれ会をひらいたのです。このままでは,くま族はほろびるばかりだとわかってきました から。さびしかったですよ。」

 くましんしは,グラスの中をぐいとほして,ことばをつづけました。

「深い緑のかさなりが,少しずつ黄ばんだり,赤茶けたような色になりかけたころのことでした。 白いススキのほが風にざわめいて,もえたつように光っていました。三百七十二ひきのくまは, ただ立ちつくしていました。おたがいの顔を一ぴきずつ見,青くすんだ空を見,山々の遠い重 なりを見ました。あの時,くまたちの間をかすかにふきぬけていった風のはだざわりを,わた しは,今でもはっきり感じることができます。

 やがて,宝物を同じように分けあってから,わたしたちは一家族ずつ,二,三人,四,五人と かたまりになって,ゆっくり山をおりていきました。わたしも,家内とふたりの子どもといっ しょに,山をおり,長い汽車にゆられ,東京に出て来たのです。仕事は,はじめなかなかうま くいきませんでしたが,やがて,どうやら順調になりました。子どもたちも大きくなって,今 ではもう,長男は大学,長女は高校に行っております。」

 奥さんは,くましんしのうしろで,その話にときどき深くうなずいて聞いていました。そし て,ふたりのグラスがからになると,だまってウイスキーをついでいました。

(12)

 こうした畠山の指摘に関しても,先の萬屋秀雄の意見についても,大幅な異論はない。が,本稿 で問題にしたいのは,このことに関わる松井さんの位置である。

 先の引用部分は,かなりの長文,広範囲にわたる。くましんしによる発話が二つに分けて書かれ ているが,その内容から見て,ゆったりと間をとりながら,時間をかけて語られたと想定される。 この間,松井さんは文章上にいっさい登場していない。もしこの場面を映像(動画)に映すならば, 画面上にはくましんしの顔がクローズアップされ,くましんしの思い浮かべているふるさと「こた たん山」や「おわかれ会」の様子が描かれていくことになるだろう。もちろん,この場に松井さん は存在している。しかし,松井さんが声を発することはなく,声以外の反応,例えば頷くとか,目 を伏せるとかいった身体の動きも,いっさい描かれない。この場面においては,主人公であるはず の松井さんが物語上でいったん姿を消し,まるで物語の枠外に出ていってしまったかのようである。  松井さんはおそらくじっとくましんしの話に聞き入っているのであろうが,その松井さんの様子 を言葉で描き,くましんしの語りの間に挿入することは,むしろ余計なことであったと思われる。 そうすることによって,この間,読者もまたくましんしの語りに集中して耳を傾けることが要求さ れるのではないだろうか。

 これに類することは「くましんし」以降のエピソードの中でも随所に確認できる。例えば既に一 度紹介した「すずかけ通り三丁目」では,物語の終末に,松井さんが,料金メーターよりも多い金 額を支払い車を降りていった女性の後を追いかけていく場面がある。おつりを返すため,という目 的ももちろんあるが,それより前に,「何かひとこと言いたい」という思いに突き動かされて松井 さんは運転席を飛び出していく。しかしここでは「何かひとこと」としか書かれておらず,松井さ んはその言うべきことがらを自覚・決定しないままである。このことによって,松井さんが何を言 うべきなのかは読者に委ねられることになる。それはそのまま,読者自身が,その女性に対して何 を言いたいか,言うべきなのかを考えるということである。

 松井さんは,「主人公」であり,幻想の世界に読者を誘う案内人であり,ストーリーテラー,語 り部のような役割をもつ存在にもなっているのである。松井さんは,読者に批評される存在ではな い。松井さん自身の思考や認識が,そのまま読者の思考を促したり,認識を新たにしたりする。こ のような役割を主人公に担わせたことも,ファンタジーの物語として効果的であったと言えるだろ う。

(5)「歌」とその改変

 「くましんし」では,初出形の発表以降に結末部が大きく書き改められたことは既に述べた通り であるが,これに次ぐ大きな改変が加えられた部分として,「歌」の場面が挙げられる。最後にこ の「歌」の改変について考察を加えることとする。

 前項で見たように,くましんしはここまでの自分の半生について語り,松井さんがその話をじっ と聞く。そして,話を聞きながら,ウイスキーによる酔いも手伝って,松井さんの顔や身体が火照 り出し,良い気持ちになっていく。幻想が終わりに近づいていくことが予見される。そしてここに, くましんしの歌う歌が重なっていく。

(13)

【初出形】

 くましんしは、ひょうしをとって歌いはじめました。 こたたん山の くま族は

人に追われて 人になり 人の世界に くらしてる   こたたん こたたん

雪のふる朝 山こいし 風のふく昼 山こいし 雨のふる夜も 山こいし   こたたん こたたん

こいしい朝には 歌うたい こいしい昼には 目をとじる こいしい夜には 夢をみる   こたたん こたたん

 半分とじられたくましんしの目に涙が光っていました。松井さんが歌いだしました。くまし んしも、奥さんも、手びょうしをうちました。

人の世界に くま住むか くまの世界に 人住むか どちらがどうか わからない   こたたん こたたん

どちらがどうでも よいことよ たのしい朝と 昼がすぎ 静かな夜に 夢みのる   こたたん こたたん

 奥さんが、ほそいやさしい声で歌いました。 静かな夜の しあわせは

手びょうしとって 歌うたう もえるだんろの 横の夢 もえるだんろの 横の夢

【最新形】

(14)

人におわれて 人になる   こたたん こたたん

雪のふる朝 山こいし 雨のふる夜も 山こいし   こたたん こたたん

さびしい朝には うたうたう こいしい夜には ゆめをみる   こたたん こたたん

 半分目をつぶったまま,くましんしはうたいました。その目に,なみだがひかっていました。  松井さんも,まねをしてうたいはじめました。

 くましんしとくまおくさんが,手びょうしをうちました。

人の世界に くまがすむ くまの世界に 人がすむ   こたたん こたたん

どちらがどうか わからない どちらがどうでも かまわない   こたたん こたたん

 初出形は4行×6連の構成であったが,最新形では3行×5連である。そして,初出形の場合は,

第1連~第3連 ― くましんしの歌

第4連~第5連 ― 松井さんの歌

第6連     ― くまおくさんの歌

であり,最新形では第1連から第5連までがそのまま上記に対応していて,第6連としてあった

くまおくさんの歌が削除されたことになる。

 はじめに,くましんしが自分の故郷への思いを歌う。「こたたん こたたん」と繰り返すリズム は明るく心地良いが,哀愁の漂う歌である。そして,その歌にあわせて松井さんが即興で続けた歌は, くましんしと過ごす中で気づいた思いである。さらに初出形ではその後にくまおくさんが今の状況

を歌にしている。くまおくさんの歌は,それまでの5連とは異なり,「こたたん こたたん」で終

わるのではなく「もえるだんろの横の夢」を二度繰り返して終わる。

 このくまおくさんの歌についてまず検討すると,それ以前の5連と明らかに形式が異なる。それ

(15)

れていた。くまおくさんの歌では,4行目の字下げはなく,3行目・4行目にわたってその前の2 行と同じ高さで「もえるだんろの横の夢」が繰り返される。これ以前の5連とはリズムも異なるこ とになる。

 このくまおくさんの「もえるだんろの横の夢」の繰り返しの後,松井さんは夢心地に陥り,「ねむる,

あ,今,ねむる」という結末に至ったのであるから,くまおくさんの歌は松井さんを眠りに誘う「子 守歌」のような役割を持ったと言えるかもしれない。しかし,その後の改稿では結末部分に大幅な 加筆,書き換えが行われているので,このくまおくさんの歌の役割も消失することとなった。この ように見ると,くまおくさんの歌の削除は必然的なものであったと言えるだろう。

 次に,松井さんの歌の部分についてであるが,改めて初出形と最新形を比較対照する形で見てみ ると以下の通りである。

【初出形】       【最新形】

人の世界に くま住むか        人の世界に くまがすむ くまの世界に 人住むか        くまの世界に 人がすむ どちらがどうか わからない        こたたん こたたん   こたたん こたたん

       どちらがどうか わからない どちらがどうでも よいことよ     どちらがどうでも かまわない たのしい朝と 昼がすぎ      こたたん こたたん 静かな夜に 夢みのる

 こたたん こたたん

 松井さんの歌は2連にわたるが,これを前半・後半と呼ぶことにすると,初出形における前半の

3行目「どちらがどうか わからない」が最新形の後半に移されている。最新形では既に見たよう

に各連3行に揃えられたので,ここでも3行に整えるために上記の改変が加えられたと見られるが,

結果的に初出形の「たのしい朝と 昼がすぎ/静かな夜に 夢みのる」は削除された。改めて見る

と,この削除された2行は,物語の展開やこれ以前の歌の流れからするとよく意味がわからないも

のになっていた。物語は一貫して「夜」に進行しており,「朝」と「昼」を経たという事実はない。

初出形では,これ以前の「くましんし」による歌の第2連・第3連で「朝・昼・夜」の対句が用

いられていたので,初出形における松井さんの歌もこれを受けた形で作られていたと思われるが,

3行に改変するにあたり,くましんしの歌から「風のふく昼 山こいし」「こいしい昼には 目をと

じる」と,「昼」をとりあげた行が削除されたために,これとの対応が成立しなくなったという事 情もあるだろう。そしてまた,「夢みのる」が何を指しているのかも不明である。「みのる」と言う

以上,ここで言う「夢」は眠っている間に見る「夢」ではなく「希望」「願い」という意味での「夢」

であると見られる。しかしそれは誰の,どういう「夢」なのかはよくわからない。松井さんであれ, くましんしであれ,何らかの「夢」を抱いていたということは特に語られていなかった。これらの

ことから,この2行の内容が削除されたことも必然であったように思われる。そして結果的に,最

(16)

言うことができるだろう。松井さんの歌の内容は,くましんし・くまおくさんの歓待と,くましん しによる告白,さらにくましんしの望郷の歌を受けて,松井さんの中で,くまの世界と人間の世界 が区別されることなく一体のものとなり,まさに「どちらがどうか わからない/どちらがどうで も かまわない」という認識が生まれたことを示している。既に述べたように,松井さんはこの体 験を通じて,現実と幻想の壁を超越したところに存在する真実を見出した。これを歌の一節におい て明言したこと,それをもって歌を締めくくる形に改稿されたことが,この作品の世界観を形成す る上で効果的にはたらいたと言えるだろう。

 何度も述べるように,この後に積み重ねられる『車のいろは空のいろ』のエピソードを通じて, 松井さんは現実世界と幻想世界を行き来する体験を繰り返していくことになる。それを通じて常に 発信されることが,作者あまんの言う,何が現実で何が幻想かという区別を超越した,「本物」「ほ んとうのこと」,即ち,あまんの信じる「真実」なのであろう。この基本的な立場は,この「くま しんし」において,松井さんの歌う歌によって形作られていたのである。

おわりに―本稿の成果と課題

 「くましんし」は,ファンタジー童話作家として高い評価を受け続けてきたあまんきみこのデ ビュー作という意味において注目されるべき作品であるが,作品そのものを対象とした詳細な検討・ 考察は,管見によれば,本稿において何度も触れてきた畠山兆子の論文以外では行われていない。 畠山の論文の主旨は既に紹介した通りであるが,本稿では,畠山の研究成果を踏まえながら,本作 品のファンタジー童話としての完成度・成熟度を再評価するという目的のもとで,発表・初出以降 に施された改稿の問題も含めながら,本作品に含まれるいくつかの要素について考察を加えた。お わりにあたり,本稿の成果について整理すると以下の通りである。

 本作品は,タクシー運転手である松井さんのある不思議な体験の物語である。タクシーという乗 り物,またその運転手の職務内容からして,この設定はファンタジーの物語における舞台として有 効なものであった。そしてまた,主人公松井さんが善良で優しく,純粋な心をもつ人物として描か れたことも,ファンタジーの物語における幻想体験者に相応しいものであったと言える。さらには, そうした松井さんに,物語内で活躍する主人公としてだけでなく,ストーリーテラーのような役割 が与えられていることも,本作品のファンタジー童話としての魅力を支える一側面であると思われ る。こうした諸要素は,それをそのまま維持した形で連作・シリーズが生み出されていく,その起 点として重要な問題であった。

 上記は発表・初出時において既に成立していたことであるが,その後に改変・改稿された点につ いても,ファンタジー童話として重要な問題を含んでいた。畠山の指摘した通り,タクシーの車体 を「空色」としたことも見逃せないが,最も大きな改変が加えられたのが,くましんしの「歌」か ら以降の結末部であり,注目すべき問題であった。この場面の改稿は,この作品の構成自体を大き

く変え,ファンタジー童話としての構成をより確かなものにするとともに,作者あまんが「本物」「ほ

んとう」を求め,物語に描こうとするその基本姿勢を明らかにしたと言えるだろう。

(17)

短編ファンタジー童話の先駆けとして,重要な作品であったとも言えるだろう。我が国における短 編ファンタジー童話作品としては,大正期,雑誌『赤い鳥』に発表された諸作品の中で,例えば芥 川龍之介の作品などが既にその要素・性格をもっており,また同時期に宮沢賢治もファンタジー童 話と言って差し支えない作品を書いていた。ただそれらは,まだ我が国において「ファンタジー」 という言葉も一般には知られていない中で,言わば無自覚のうちに生み出されていた作品である。

そして昭和30年代以降になって,海外のファンタジー作品の影響も受けながら,佐藤さとるやい

ぬいとみこといった作家たちが,自覚的にファンタジー童話の作品を生み出していったが,それら はいずれも長編の作品である。そもそもこの時期における彼らに先行した海外のファンタジー作品 が,先にも触れた「指輪物語」に代表されるように,非常に長大な作品であったことにもよるだろ う。そのような中で,「くましんし」が短編ファンタジーとして高く評価され,さらに改変・改稿 を通してファンタジー童話としての完成度をより高められたという事実は,既に述べたように作者 あまんきみこ自身のファンタジー童話作家としての成熟過程において大きな役割を果たしたと言え るが,それは,ひいては我が国のファンタジー童話の成立に大きく寄与したと言えるであろう。  以上を明らかにできたことが本稿の成果である。

 今後に続く課題としては,あまんの『車のいろは空のいろ』に含まれる作品群およびその他のファ ンタジー童話作品群を対象としたさらなる考察を通じ,あまんきみこのファンタジー童話の特色や, あまんがファンタジー童話作家として成熟していく過程をさらに明らかにしていくことである。そ

して,昭和30年代以降の我が国におけるファンタジー童話の諸作品についても考察を加えながら,

あまんの登場以降50年以上にわたる我が国のファンタジー童話の特色とその成立の経緯を跡づけ

ることを目的として,今後も考察を深めていきたい。

付記

 本稿は,根本真希が茨城大学大学院教育学研究科においてまとめた修士論文「あまんきみこのファ ンタジー童話作品とその教材化に関する研究」の一部に基づき,同論文執筆の際に用いた資料に再 検討を加えて,研究指導教員であった昌子佳広と協議のうえ新たにまとめたものである。

1) 鈴木亜季子・昌子佳広「ファンタジー童話における「幻想体験」の意味―宮沢賢治『注文の多い料理店』

を中心に―」『茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学・芸術)』第65号(2016),39-54.

2)『日本児童文学』第43巻第6号(1997),56~57頁に掲載された「〈シリーズ・作家が語る〉『車のいろは

空のいろ』のあまんきみこさん談(1)」であまんは,師匠となる与田準一から「松井さんはその後、元気で

すか?」,「そろそろエンジンをかけてもいいころではないですか。こんどは,どんなお客が乗りますか」と 言葉をかけられたことをきっかけにこの連作を始めたと述懐している.

3)『梅花女子大学文学部紀要 児童文学編』第36巻(2002),21-37.

4)『車のいろは空のいろ』所収.

(18)

6) あまんきみこ「『ほんとう』にこだわりながら」『ある日ある時』(三省堂,2009),pp.206-207.

参照

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