私は恩師真水康樹先生(新潟大学)のお供で近年に2 度中央アジア諸国を訪れる機会を得た。まったくの門外 漢だが、その際の見聞をご紹介したい。
写真①はタジキスタン、ペンジケントのソグド人集落 の遺跡。左奥はゾロアスター教の神殿跡である。その前 の広場では隊商が荷を広げ、街を堅固な城壁が護ってい た。アラブによる征服で放棄されるが(加藤九祚『中央 アジア歴史群像』)、ムスリム交易以前にも確実に存在し ていたネットワークの姿を垣間見る思いがした。写真② はカザフスタン、タラス川。製紙法西伝で名高い会戦の 舞台だが、ガイドによれば正確な場所は不明という。長 安とバグダードでは随分と隔たっているが、新疆の西端 タシュクルガンで唐の城砦址を目にした者(真水康樹『中 国周縁の国際環境』参照)としては、アッバース革命の 震源地がアム川を越えたホラサーン東部であることを想 起し、その現実性に得心がいった。写真③はウズベキス
タン、サマルカンドにあるシャーヒズィンダ廟群。ここ を南端とするアフラシャブの丘こそチンギスによって葬 られた古代以来のサマルカンド。土塊がむき出しの丘上 にある博物館ではソグド時代の壁画を堪能できる。廟群 にはティムールの妹や愛妃が眠っているが、御大は子息 とともに現サマルカンドのグリ・アミール廟(写真④) に横たわる。ティムール朝後の空隙を支配した3ハン国 の拠点の一つヒヴァ(写真⑤、ウズベキスタン)は現国 境をまたいで広がるホラズム地方にある。城壁内は歴史 が呼吸しているといった風情で、何度でも再訪したい欲 求に駆られる。キリル文字や単調な建造物の他にこの地 域がソ連邦に属したことを物語るのが抑留者の痕跡であ る。写真⑥はカザフスタンのアルマティにある墓地であ るが(味方俊介『カザフスタンにおける日本人抑留者』)、 ウズベキスタンのタシケントでは抑留者が建設に携わっ たオペラ劇場が現役である。
(沖縄県立那覇西高等学校 齊藤 憲) ●
① ● ③ ●④
● ②
写・真・募・集
このコーナーの「カラー写真」を募集しています。国内・ 海外で撮影された社会科の写真を、資料編集部「世界史のし
中央アジアの文化と遺跡
● ⑤
写真で語る世界史
清朝の危機と再興
18世紀、乾隆年間の清朝は最盛期を迎えていた が、実はその繁栄ゆえの危機に直面しつつあった。 人口の急増が開発の限界をもたらしていたのであ る。そして、財政難も深刻になっていった。19世 紀はじめの清朝は、それにどのように対応するか という課題を受けて試行錯誤を始めた。林則徐な ど意欲的な政策を掲げる官僚たちは、さまざまな 新政策を実行しようとした。おりしもラテンアメ リカが国際市場に供給する銀の量は減少していき、 全世界的な銀不足のなかで清朝からも銀が流出し はじめた。その代わりに中国大陸に持ち込まれた のがアヘンである。
19世紀半ばの清朝は、アヘン戦争、太平天国の 反乱、アロー戦争(第2次アヘン戦争)といった 戦乱に苦しんだが、1860年代からは再興の兆しを 得ることができた。その背景には、世界の覇権を にぎるイギリスと清朝との協調、そして世界経済 の動向があった。南京条約(1842年)による開港 は、沿海部の諸地域に大きな経済的機会をもたら した。清朝からの茶・生糸などの輸出は、好況と 不況との変動を繰り返しつつも進められ、これら の商品の生産・流通に携わる人々に利益を与えた。 清朝の財政は、ますます関税や釐り金きん(国内流通税) に頼るようになったが、それが可能となったのは、 開港以後の商品生産の活性化ゆえである。
1848年、カリフォルニアで金鉱が発見されて、 まもなくオーストラリアでも金が産出されるよう になると、ヨーロッパでは金本位制をとる傾向が 強まった。これに対し、清朝は依然として銀を重 視した財政制度をとっていて、民間でも銀が高額 決済手段となっていた。清朝の貿易収支は赤字が
続いたものの、19世紀末になると、海外からの投 資や華僑送金のかたちで、銀が中国大陸にふたた びもたらされた。
さて、清末時期の工業化といえば、銃砲・船舶 といった軍需に重点をおく官営工場の設置がまず 挙げられる。しかし、李鴻章はそれらの工業技術 が広く民間産業発展につながる可能性を視野に収 めていた。近代的工場運営の道のりは、確かに容 易ではなかった。それは技術人員の養成、経営手 法の合理化だけでなく、資本を集めて工場を設け るための金融的仕組みをつくりあげることも難し かったからである。
他方で、農村の工業化は、政府の政策とはだい ぶ離れた形で始まっていた。19世紀後半のボンベ イ紡績業の発展により、中国方面でも安価なイン ド綿糸を手に入れられるようになった。この機械 製綿糸を用いて手織り機で綿布をつくる農村工業 が発達しはじめた。農村にはずっと電気はなかっ たから織機は手動でありつづけたとはいえ、それ を動かす人手は潤沢にあった。民国時期になると、 日本製の織機をまねてつくった新しい織機も導入 されていった。
さて、19世紀後半の経済発展が清朝の再興を支 えたといっても、その波に乗ることのできない地 域は、貧困から抜け出すことは難しかった。有望 な特産品を持たない地域、交通路から離れた辺鄙 な地域、生態環境の限界から自然災害にしばしば 見舞われる地域は、発展から取り残されることに なった。このような地域はとくに内陸部に多く広 がっていた。
20世紀前半の中国経済
沿海部の諸都市では、有力商人が大きな発言力
近現代中国150年の歴史をみわたす
─経済発展の軌跡
を持つようになった。彼らが業種をこえて結束す る場となったのが、清朝の指導のもと20世紀初頭 につくられた商会という組織である。清朝が滅亡 したのちも、各都市の秩序は、商会に集う有力者 によって維持された。
上海・天津などの大都市では、工場労働者だけ でなく、企業・官庁に勤める事務職サラリーマン が多く生活するようになった。このホワイト・カ ラーに加えて医師や弁護士など自由業者が都市の 中間層を形成した。
第一次世界大戦は、欧米製品の流入を減らし、 中国経済に大きなチャンスをもたらした。こうし て、中国でも紡績業など工業化の兆しが見えてき たのである。
1927年、南京に国民政府が成立し、蔣介石を中 心とする国民党の政権が中国を代表する存在とな った。国民政府にとって、不平等条約の改正は、 非常に重要な課題だった。国民政府は、熱心な交 渉を通じて、関税自主権を回復した。これによっ て引き上げられた関税が政府の重要な財源となる とともに、国内産業の保護にも役立つことになっ た。また、世界恐慌に対応するなかで、貨幣制度 の整備もなされた。国民政府は、銀貨の流通を禁 止し、政府系のいくつかの銀行が発行する紙幣(法 幣)のみを認める政策を採用したのである。これ は政府が貨幣を統一して発行量を制御しようとす る画期的な試みだった。
国民政府は、厳しい国際環境のもとで生き残る ため、重化学工業の育成も重視することになった。 中国は、タングステン、アンチモンなど世界的に 希少な金属の産地であり、これをおさえた国民政 府は、さらなる工業化や軍備のために有利な国際 取引を進めることができた。
日本の中国侵略は、中国経済に大きな衝撃を与 えた。とくに東北地方が満洲国として中国市場か ら切り離されたことの意味は大きかった。日本資 本は、満洲国領内に大規模な工業投資を行った。 また1937年12月に南京が日本軍によって陥落し、 国民政府は結局、重慶に移転することになった。 それとともに、沿海部の工業の一部は四川省・雲
南省などに移り、内陸部の重化学工業化の端緒を つくった。重慶国民政府は、それまでの関税や消 費税など大きな税源を失い、地元の農村を掌握し 土地税をとりたてることで抗戦を支えることを余 儀なくされた。
日本の敗戦後、中国でもっとも工業化の進んだ 東北地方を接収するのを、国民党と共産党は競っ た。このときの国民党の本拠は遠く四川にあり、 共産党のほうはソ連の協力を得ることができたか ら、共産党にはずいぶん有利だった。
とはいえ、国際的には連合国の一角を占めた蔣 介石の国民政府が正統性をもっていた。国民政府 は上海・天津などでは、戦時期に日本のものとな った工場を接収していった。このとき国民党の官 僚が不正利得を手にしたと共産党は喧伝し、また 折からの国民政府の経済自由化策・金融政策は極 端な物価高をもたらして都市民に不満を抱かせた。 このようなことを背景としながら、共産党は軍 事的に国民党に勝利して、1950年にはほぼ中国大 陸全体をおさえることに成功した。
社会主義を経験する中国
内戦が共産党の優勢に進むなか1949年10月に成 立した中華人民共和国は、新民主主義をとなえ、 進歩的な勢力の結集を掲げた。しかし、1950年の 朝鮮戦争によって、アメリカとの対決を余儀なく されると、冷戦の構図のなか社会主義建設の途を 明確にしていった。1950年代には、私企業はつぎ つぎと集団経営とされていった。
な集団化は生産の現場を混乱させ、大飢饉を引き 起こすことになった。
そこで1960年代に入ると、調整政策とよばれる 穏当な統制をめざす経済運営がめざされた。しか し、復権をねらう毛沢東は、調整政策を進める劉 少奇らを「資本主義の道を歩む実権派」と名ざし て批判し、1966年、学生を扇動して文化大革命を ひきおこしたのである。
文化大革命は、中国に大きな傷跡を残したが、 1970年代になると、中国をめぐる国際関係が大き く変わってくる。中ソ対立の激化やベトナム戦争 におけるアメリカの苦戦を経て、中国とアメリカ は接近していった。1971年、中華人民共和国は国 際連合に参加して安全保障理事会の常任理事国の 地位を獲得する。翌年、ニクソンと田中角栄があ いついで訪中した。
1976年、毛沢東は死去し、その後の数年のうち に権力を握った鄧小平によって文化大革命は否定 されることになった。鄧小平は改革開放の政策を となえ、中国の経済発展の可能性を探っていった が、1980年代には社会主義的な統制経済を重視す る勢力も強く、政策は揺れ動いた。
このころ、農村では注目すべき動きが見られた。 1970年代には人民公社や生産大隊は農機具補修を はじめとする簡単な機械工場を自ら備えていなく てはならなかった。1980年代になると、商才のあ る幹部はこれを基礎として積極的な経営をすすめ、 しだいに郷鎮企業とよばれるような事業を築き上 げた。農業そのものも、1980年代にはしだいに集 団経営が解体されて、個別農家が生産を請け負う という変化が進んでいった。このような一定の自 由化は、農民の生活を多少なりとも向上させる効 果をもっていた。
また、鄧小平は、沿海部に経済特別区を設け、 その政策的な優遇のもとでの輸出向け加工工業の 発展もめざしていった。たしかに中国工業は技術 の面では日本や韓国・台湾よりも劣っていたが、 圧倒的な人件費の安さが強みとなった。これら近 隣諸国が経済発展をとげていく環境にあって、中 国はまず労働集約的な工業によって国際的な経済
関係に結びつけられた。
しだいに工業地帯は限られた特別区から各地へ 広がり、製造品目も繊維製品から機械部品などへ と展開していった。
メイド・イン・チャイナの席巻
1990年代に入ると、電化製品を中心に中国国内 市場が拡大していくようになった。広大な農村部 には、まだテレビもクーラーも冷蔵庫も少なかっ たから、農民が豊かになれば巨大な内需が生まれ る。21世紀に入ると自動車がこれに続く。この段 階となると、なかなか郷鎮企業の資本力・技術水 準ではたちゆかないから、やはり大規模メーカー が主流となっていく。
また中国は依然として繊維製品の生産国である。 日本人が安価な衣料を手に入れられるのは、まさ に中国の労働集約的なアパレル産業のおかげであ る。東京の原宿や渋谷のファッションは、すぐ中 国で模造されて日本に送られる。
こうして、日本や韓国・台湾と中国は、経済的 には切り離せない関係を築いてきたことがわかる。 漢字をコンピュータで使えるようにしたのは日本 人の工夫であり、安価で品質の良いコンピュータ 部品を提供したのは台湾である。中国人のビジネ スマンが利用する携帯電話の仕様は、たぶんに日 本の技術をとりいれたものである。日本人は安く てまずまず満足できる中国製品を購入して生活す ることが可能になっている。
それだけでなく、東南アジアからアフリカまで、 いまや中国製品は広範な市場を見出している。日 本製の電化製品は高くて買えない人々も中国製な ら買いやすいから、経済発展途上の国々では中国 製品の需要は大きい。
物を通して見る世界史
抗生物質としてのペニシリン 人類にとって薬とは 何であろうか。今日、私たちの健康に薬が果たす役割 を疑うことは少ない。しかし、歴史を振り返ってみる と、薬と人間との関係が今日のようなものになったの は、比較的最近のことであることに気づく。その変容 を決定づけたのは、20世紀中葉における抗生物質の登 場である。抗生物質は、一定の病原微生物に対して顕 著な効果を有する「特効薬」であった。抗生物質の登 場によって、かつて人類を悩ませた多くの感染症から 私たちは解放されたのである。
よく知られたエピソードであるが、英国のフレミン グ(A.Fleming, 1881〜1955)は、細菌の発育を妨げ るカビを偶然に発見し、特定の化学物質が抗菌作用を 持つことを発見した(1929年のことである)。こうし て発見されたペニシリンが、第二次世界大戦中に実用 化され、肺炎などの治療に効果を発揮した。これが抗 生物質の嚆矢であり、その後、結核の治療に大きな役 割を果たしたストレプトマイシンなど多数の抗生物質 が発見・実用化され、様々な感染症の治療に絶大な効 果を発揮した。抗生物質は、特定の病原微生物を叩く という意味で、「魔法の弾丸」と比喩されることにも なった。
薬と人間 しかしながら、かつて薬というものは、 このような「特効薬」ではなかった。植物もしくは鉱 物から抽出された薬物の、疾病に対する効果は穏やか で緩慢なものであった。そして、洋の東西を問わず、 その薬物の多くは、長い年月をかけて経験的に知られ るようになったものであり、人間が能動的に創りだす ようなものではなかった。それに対して、抗生物質の 登場以降、人類は、感染症のみならず、非感染症の克 服に向けて、様々な薬品の開発に邁進するようになっ た。20世紀半ば以降、製薬産業は巨大産業となり、21 世紀にはバイオ産業として経済を牽引する役割まで期 待されている。
「特効薬」としてのキニーネ ところで、抗生物質 以前に、「特効薬」としての薬が存在しなかったかと
いえば、例外もまた存在する。話は17世紀の前半にま で遡ることになるが、原産地の南アメリカからヨーロ ッパにもたらされたキニーネは、マラリアの治療に顕 著な効果を示した「特効薬」といえる。厳密にいうと、 キニーネとは、キナという植物の樹皮から抽出される 特定のアルカロイドをさし、後に19世紀になって初め て物理化学的に分離され命名されたものである。さて、 キニーネが治療薬として定着していくのにかなりの時 間を要したことに注目すべきである。なぜならば、17 世紀の医学的知識に基づく治療法−いわゆる体液病理 論を基にした瀉血法(血を流させること)など−から かけ離れた、「特効薬」としてのキニーネの効果には 懐疑の眼も免れがたかったからである。
事実、19世紀においてすらキニーネによる治療法は 定着したとはいえなかった。一例を挙げよう。イギリ ス東インド会社による支配が固まりつつあった19世紀 前半のインドでは、イギリス人統治者たちはマラリア による被害に悩まされていたけれども、キニーネによ る治療は、ある失敗例が災いして19世紀初頭に放棄さ れ、19世紀半ばまで使用されなかったという。その後、 再び処方がなされるようになったが、キニーネは非常 に高価であったためにその使用には限界があった。キ ナ樹皮は南アメリカのアンデス山脈東麓の限られた地 域でしか採取されなかったからである。
キニーネ・帝国主義・薬の「産業化」 だが、ヨー ロッパ人によって、キナの栽培が南アメリカ以外の地 域でも試みられるようになった。19世紀後半に、英領 インドやオランダ領東インド(現インドネシア)でプ ランテーション栽培が行われ、大量に供給されるよう になった。このような経緯は、同時期に、イギリス・ フランスなどのヨーロッパ帝国主義が、アフリカの熱 帯地域への進出を本格化させた過程とほぼ軌を一にし ている。それと同時に、この過程はまた、薬の生産が 「産業化」していく時代の幕開けと位置づけることも 可能である。すでに述べた「魔法の弾丸」としての抗 生物質の登場は、このような薬生産の「産業化」の流 れの中にある。今日私たちは、このような製薬産業の 発展の恩恵を享受しているといえるが、他方で病原微 生物の薬物耐性もまた進行しており、薬と人間をめぐ る歴史を単純な「進歩史観」で割り切ることもできな いように感じられる。
薬の「産業化」
−キニーネとペニシリン丹砂と水銀
戦国末期、「逐客令」に反駁して秦王政に上書し た李斯は、その中で秦の朝廷を彩っている「西蜀の 丹青の彩采」について言及している。「丹青」とは丹砂・ 青哂、「西蜀」とは蜀(四川西部)のこと。『史記』 貨殖列伝にも、巴(四川東部・湖北西部)の寡婦の 清の先祖が丹砂を産する洞穴をみつけ、数代にわた ってその利益を独占したことを伝えている。明・宋 応星の『天工開物』も、辰州・錦州(ともに湖南) および四川西部に産する上等の朱砂を挙げている。丹 砂は朱砂・辰砂・朱・丹などとも呼ばれる赤色顔料 で、四川がその重要な産地の一つであった。とくに 「丹」字について後漢・許慎の『説せつ文もん』は「巴・越 の赤色なり。丹井に采るに象かたどる」、すなわち水銀を 含む鉱物を採取するのに井戸状に掘り下げて行うの で「丹」というと字解する。この丹砂とは水銀の原 鉱である硫化水銀である。その顔色としての「朱」 色は、古代人にとって生の色、不死の色と考えられ た(白川静)。松田壽男は甲骨文の「朱」字を、牛 を胴切りにした形とみなし、胴切りにした牛からの 出血をもって赤色を示し、元来丹砂や水銀を意味す る字ではなかったという。ただし『説文』は松・柏 など中心の赤い木の意とする。中国における施朱の 習俗は、すでに周口店山頂洞人の新人の埋葬にみえ る。それは赤鉄鉱の粉末で、丹砂ではない。殷では 副葬品や甲骨の刻字に施朱した。西周金文には、主 家から家臣に対して墓葬に用いる朱を賜ったことを 述べるものがある。馬王堆1号漢墓の棺椁に朱色の 溶液がみられるのも、丹砂が赤い血液を象徴し、そ れを棺椁に施すことで生命の復活を祈り、かつ遺体 の防腐用としての効用が期待された。
陵墓と水銀
丹砂から製錬される水銀に関する正史の初出は、 『史記』秦始皇本紀である。それによると、驪り山ざん陵りょう
の地下宮殿では「水銀を流して百川・江河・大海を
作り、機械じかけで水銀がたえず注ぎ込まれるよう にした」。実際、近年の調査で墳丘の中央やその周 辺で水銀が検出され、ボーリング調査によると水銀 は幾何学模様に分布している。ちなみに唐・李泰の 『括かつ地ち志し』に、西晉末に斉の桓公の墓があばかれ、「水 銀の池を得」たとある。これらの例は、丹砂を製錬 して水銀がえられ、水銀と硫黄が化合して丹砂とな る循環性が、不変・永久の表象として古代人に認識 されるようになったことを意味する。
煉丹術と水銀
水銀が不老不死の仙薬としてクローズアップされ るようになるのは、前漢武帝の時代からである。『史 記』封禅書によると、方士の李少君は武帝に次のよ うに上書した。
カマド(竈)を祭れば鬼神を呼びよせられます。 鬼神を呼びよせれば、丹砂を黄金に変えることがで きます。それで飲食の器を作れば、寿命がのびます。 寿命がのびれば、蓬莱山の仙人にも会えます。仙人 に会って封禅の祭りをすれば、不死が得られます。 坂出祥伸はこれを道教の煉丹術の歴史にとって画 期的な意義をもつものとして、①丹砂から黄金を変 成する煉丹術が当時すでに行われるという技術的段 階に達していた、②その変成に鬼神とカマドが密接 に関わっている、の二点をあげている。しかし丹砂 から直接金アマルガムを作ることは不可能であろう。 そこで市毛勲は「李少君はアマルガム鍍金を辰砂の 黄金化として漢の武帝に信じ込ませた。竈は辰砂を 製錬し、あるいは飲食器を鋳造する設備ではなかっ たか」と推定している。そこで私はこの文を次のよ うに解したい。李少君は丹砂を加熱して水銀を製錬 し、その水銀で黄金を溶かし、それで銅器などの飲 食器に金メッキし、それを丹砂の黄金化として漢の 武帝を欺いた、と。坂出祥伸の指摘するように、後 世、煉丹の器具の炉を「竈」と呼ぶのも、李少君の 煉丹術がカマド(の機能)を使って行われるもので あったからであろう。それを神秘的にカモフラージ ュするため、カマドの祭りにかこつけたと思われる。 すると、不老長生を求める煉丹術が富を求める錬金 術といつごろ合体したのか、これは今後の検討課題 である。
水 銀
1 はじめに
本来教えたい世界史は世界史Bである。しかし、 世界史必修とはいいながら、日本史・地理も選択 必修であるのでA科目がある。世界史Bを忌避し た生徒(結構これが多い)は必然的に世界史Aを とっている。この週2時間の多数の生徒との出会 いも大切にしたいものである。何しろ地歴科全体 を取り巻く情勢は、年々厳しさを増している。日 本史や地理の理解に資する世界史とすることがで きるように尽力したいものである。
しかし、中学校の学習指導要領によれば、古代 文明は中国文明のみ教えればよく、ルネサンスを 教える必要はなく、地誌的な知識もそう万遍なく 教えることになっていないので、基本的な地歴の 知識をもっていることを前提とした授業はもう成 り立たない。このような生徒に対して世界史Aを 教えるというのは、なかなか難事であるが、同時 に楽しくはある。
むしろ、世界史Aでは、世界の歴史上の出来事 が我々にどのような意味をもっているのかという 解釈・説明がより明確に求められているといえる。 つねに本質を突いた説明を簡潔にどうできるかと いうことが問われる科目である。如何に印象的な 説明ができるかが大事である。今回は、ヨーロッ パのめざめについて、授業で展開したことをまと めてみようと思う。
2 実際の指導についてのアイディア
ルネサンス
ルネサンスは今日では必ずしも、中学校で習っ ているものではない。生徒にどこまで習っている かと確認しつつ始めたい。とにかくルネサンスの 意味と意義をわかりやすく最初に示す必要がある。 この時代の風潮はヒューマニズムと表されるこ
とがある(多分にこれはブルクハルトの着想であ る)が、これは今日では人文主義という訳語より もわかりやすい。
より自由で人間的な表現が求められ許されたル ネサンス期に対して、中世のヨーロッパの文化は、 学問も芸術も教会と神に奉仕するものであったと 対比することもできる。ヨーロッパの中世では芸 術も学問も教会に奉仕するものであったと印象づ けるとしたら、たとえば「エスカリエ」*p.108を
見れば、教会の建設は厳かであり、神の権威を示 すものに外ならなかったと説明できよう。学問も 教会の付属施設から始まった大学で厳粛に行われ ていた。
これに対して、「エスカリエ」p.110〜111を見 れば、ルネサンス期の諸作品は自由奔放に創作さ れていることがわかるだろう。
何故に、ルネサンスはイタリアで始まったので あろうか。経済的な裏づけと優れた文化の伝統の 二つが要因になろうが、どちらを優先して説明す るかといえば、唯物論的に,先立つものは金であ ろう。経済的な裏づけの方を優先して説明したい。 実際にフィレンツェは商業が発達した都市であり、 その名残を景観からうかがうこともできる。フィ レンツェの景観はイタリアのルネサンスの発祥の 地としてルネサンスを象徴する風景でもある。毛
*「明解世界史図説 エスカリエ 初訂版」
世界史
A
授業案ヨーロッパのめざめ
徳島県立城北高等学校 山腰敏寛
織物業と金融業やさらには東方貿易による豊かな 富があった。初期のルネサンスは大商人と貴族と ローマ教会が担ったものであった。フィレンツェ の豪商であったメディチ家はドナテルロやボッテ ィチェッリを後援した。また教皇レオ10世、クレ メンス7世はメディチ家の出身である。両教皇は ラファエロ、ミケランジェロらを後援した。この ようにルネサンスへのメディチ家の影響は無視で きない(レオ10世のときにルターが95か条の論題 を出し、クレメンス7世はイギリスのヘンリ8世 を離婚問題で破門しているように、宗教改革にも 直面した一族でもあった)。
大商人と貴族がルネサンスを後援したことは、 ボッティチェッリの『春』を見れば明らかである。 まず、横315cm×縦205cmというその大きさを印 象づけたい。女神たちも等身大に近く実物はかな り迫力がある。これは、中世のローブで体を覆っ た意匠とは対照的であるし、古代ローマの裸像に 回帰している。しかも、透けて見える布で艶めか しく描いてすらいる。貴族と富める者の現世的な 欲の肯定を見ることができる。
古代のギリシアとローマの文明はヨーロッパ世 界の源流である。力強い古代ギリシア・ローマの 像、また、躍動感があり技巧に優れたヘレニズム 時代の彫刻、悲劇を追求したギリシア演劇もあれ ば、優れた社会風刺もあった。その再発見がまさ にローマ帝国の中心地であったイタリアで行われ たのである。ルネサンスはそのような人間味あふ れる古典文化が復活した時代であった。
この他にも、ビザンツ帝国が衰退し、そこに温 存されていたローマの文化もイタリアに伝えられ
たのである。
後は、「エスカリエ」を活用して、作品を通し て、生徒にこの時代を感じさせたい。
ルネサンス期は万能人が理想とされたが、それ はレオナルド=ダ=ヴィンチとミケランジェロの2 人の例で説明できるだろう。とりわけレオナルド は一般的に広く知られている人間なので、この時 代を説明するには利用しつくしたい。
『最後の晩餐』は遠近法の手法として面白いも のがある。遠近線を画面中央まで延ばすとイエス の顔に焦点がある。この遠近法は小説・映画の 『ダ・ヴィンチ・コード』でも有名なものとなっ た。彼のアイディアは絵画だけにとどまらず、建 築や科学の分野でも業績を残している。ヘリコプ ターの設計も紹介しておきたい。
レオナルドに匹敵する天才であったのがミケラ ンジェロである。ピエタ像は石像でありながら人 体(等身大)の丸みと
布の柔らかさを描いて おり、その才能は驚く べきものである。また、 ダビデ像は均整のとれ た体が印象的であるが、 実は等身大でなく4m を超える巨人像である (台座込みで5.4m、人 体部分は4.34m)。均整 が見事であるために、
写真ではその巨大さがわからなくなってしまう。 ここにもミケランジェロの天才ぶりを見ることが できる。
『最後の審判』は、イエスを中心におき、左に 昇天する魂、右に地獄へ堕ちる魂という壮大な構 図をもつ大作である。フレスコ画であるため漆喰 が乾ききる前に描かなければならず、時間制約は
「エスカリエ 初訂版」p.110
「エスカリエ 初訂版」p.110
絶対的なものであった。 技量もさることながら 超人的な体力をもって いたことを生徒に想像 させたい。
ラファエロはアネテ 学堂の人々を描く際に、 プラトンをレオナルド に擬して描いたという。 映画の『天使と悪魔』 は、ミケランジェロの
『最後の審判』と『天地創造』のオリジナルが描 かれたシスティーナ礼拝堂のセットで教皇選出の コンクラーベも描かれており、授業者が見ておく と参考になる。
当時のイタリアの複雑な諸政体の混在は、19世 紀のイタリア「統一」でも利用できる。王国があ るし、貴族領(サッカーチームのACミランなど をつかってミラノを印
象づけてもよい)があ るし、教皇領もあると いう複雑さである。そ のうえで、神聖ローマ 帝国のイタリア政策の 干渉があった。この複 雑な政体の混在と神聖 ローマ帝国のイタリア 政策が戦乱をおこしも
した。戦乱があったことも現世的な文化が花開い た一因となった。
ダビデ像が公開されたのは1504年であるが、日 本ではこの世紀の後半に戦乱の時代を背景として 安土桃山文化が出現している。戦乱を背景として 現世の美を求める文化が同じ世紀の日本とイタリ アに出現したという紹介もしておきたい。 ヨーロッパ各地でのルネサンス
は簡単に説明することになる。も う一つの中心地たるネーデルラン トのルネサンスの特徴や各国語が 成立したことなどをおさえておき たい。イギリスまでルネサンスが
波及した頃に現れたのがシェークスピアである。 彼の生没年(1564〜1616)の覚え方で年代を印象 づけるということはできる。日本でいうと安土桃 山から江戸初期であるが、「人殺しいろいろ」で ある。
宗教改革 ルターの改革
これも時間数が限られているので、宗教改革を 始めたルターについてはその原因と経緯を、資本 主義の成立に大きく寄与したのではないかとされ るカルヴァンについてはその教説を中心に教えた い。
導入としては、ルネサンスでは必ず載っている サン=ピエトロ大聖堂を使う。当初ブラマンテが 設計をしたのをラファエロとミケランジェロが受 けつぎ設計変更をしてつくっていった。
このサン=ピエトロ大聖堂の修築費として、こ の奇怪な贖宥状(免罪符)という商品が、王権が 強かったフランスではなく、ローマの牝牛として カトリックに従順とされたドイツで販売された。 販売を請け負ったのはアウクスブルクのフッガー 家であった。献金が桶に投げ込まれる音がすると ともに、魂が煉獄から救われるという売り文句ま でもつくられた。
ルターが純粋に、神学的な疑義を書き出した 「95か条の論題」は決してローマ教皇の権威を否 定するつもりはなかったものである。しかしルネ サンス期の発明の一つとされる活版印刷によって、 その主張は広まり、ライプツィヒの公開討論を経 て教皇を否定するに至った。ルターの主張が支持 されたのはカトリックの横暴と腐敗に対して不満
「エスカリエ 初訂版」p.111
「エスカリエ 初訂版」p.110
「エスカリエ 初訂版」p.111
が高まっていたからである。
オスマン帝国の脅威が増す中、一時黙認状態と なっていたルター派はその後再び禁止されて、そ れに抗議して『抗議書』をカール5世に送ったこ とからプロテスタントという呼称ができた。
カルヴァンの教説
教会の組織などは、時間のことを考えると話す ゆとりはあまりない。むしろ、資本主義の成立につ いては有名なヴェーバーの学説の紹介を試みたい。 カルヴァンの予定説というのは
恐るべき教説である。カルヴァン の予定説には前段と後段があり、 前段はほとんど脅迫に近い。天地 を創造した全知全能の前に人間な ど塵芥のごときもので、どの魂を 救うかは神は好き勝手にもう決め
ておられて、そこにいかなる人間の思いも努力も 顧慮されるものではないという、神が絶対である という世界観がまずある。果たして自分の魂は救 われるのかという精神的な緊張が強いられた後、 後段において神様はそのお心そのものをお示しに なりはしないが、救おうという魂には何かの兆し があるかもしれない、それは仕事がある、富がた まるということがそうかもしれないと説くのであ る。こうであるから、カルヴァン派が働くこと働 くこと。働いて金を使うのではなく、蓄財の向こ うに魂の救済を見ているものだから、やがて資本 に転化する富はどんどん蓄積されることになった。 ヴェーバーの学説を重ねて説明もしたい。小冊 である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義 の精神』は、ライン川とセーヌ川の間で産業が盛 んであるが、ここはプロテスタントが多い、関係 はあるのかという問題提起から始まる。産業と新 教を結びつけたのがヴェーバーの卓抜なところで あるが、資本主義を観察してそこに禁欲的な本質 があり、そこから彼はカルヴァンの教説にたどり 着き、職業倫理の確立と資本の蓄積を説明した。
イギリス
余裕があれば、イギリスの宗教改革にもふれた い。エリザベス1世については絶対王政で見るこ とになるので、そことどううまく分けて説明する
か考えて授業を進めたい。何しろエリザベス1世 の登場の背景となった出来事である。王様の離婚 問題と説明すると簡単である。実際、カトリック のままでは不可能であっただろうが、生涯6人も 妻となった女性がいたのがヘンリ8世である。し かし、彼にはイングランドの王権
を伸張した功績もある。実はテュ ーダー朝というのは、ヘンリ7世 が開き、その子のヘンリ8世と宗 教改革に翻弄された彼の子どもた ち(即位順にエドワード6世、メ アリ1世、エリザベス1世)の3
世代の王朝であった。そしてエリザベスはそもそ もの宗教改革の発端となったアンの娘であるとい うのも意味深長である(世界史のしおり2009年4 月号付録写真資料参照)。
対抗宗教改革(反宗教改革)
日本史で有名なフランシスコ= ザビエルは実は世界史でも有名な 人間であるということは生徒には 驚きだろう。ザビエルは宗教改革 の時代にカトリックの側で再建 (対抗宗教改革)を試みたイエズ ス会に創設者のイグナティウス=
ロヨラとともに結成に参加した。イエズスとは 「イエス」のことで、「イエスの会」とは思い切っ た命名である。中国語で耶蘇があてられ、日本で はそれを音読みして「ヤソ」会ともいわれた。軍 隊的な規律でカトリック内の再建を図ったこの集 団をつくったロヨラは軍人出身であった。イエズ ス会は教皇至上主義をとり、教育活動、宣教事業 にも力を入れた。新たな布教地を求めて宣教師を 送り、「新大陸」とアジアにカトリックが広まっ た。ザビエルは中国と日本にまで来て布教をした。 ドイツの南部をカトリックが奪回したことは、ビ スマルクの文化闘争とも関わる話である。また東 西ドイツ統一時の首相はヘルムート=コールであ ったが、彼はカトリック教徒であった。このよう に宗教改革と対抗宗教改革のせめぎ合いは後の時 代にも多くのものに刻印していることにもふれて おきたい。
「エスカリエ 初訂版」p.113
「エスカリエ 初訂版」p.113
1 はじめに
平成21(2009)年12月に発表された高等学校学 習指導要領解説【地理歴史編】の世界史Aでは、 (3)近現代史の指導に当たっての配慮事項とし
て「政治、経済、社会、文化、宗教、生活など様々 な観点から歴史的事象を取り上げ、近現代世界に 対する多角的で柔軟な見方を養うこと」とある。 多角的で柔軟な歴史の見方を養うためには、様々 な資料を読み解く力が必要となる。資料は文字史 料だけにとどまらず、絵画や風刺画を多角的に読 み解いていくことによって生徒が歴史に興味を持 つきっかけを与えてくれる。ここでは、「エスカ リエ*」の時代の扉を授業の導入部分に活用し、
生徒の学習意欲を引くための活用方法について考 えてみた。
2 「だれが税金をはらうのか」を読み解く
Try 1 1の石(税金)の上に乗っている人物2 名と石によって潰されている人物の服装に着目し て考えさせてみる。似たような構図の風刺画は多 数見られる(右図Ⅰ参照)。
Ⓐは書物を持っている聖職者、 Ⓑは剣を持つ貴族、Ⓒは平民 であることが確認できる。 Try 2 平民が立ち上がるき っかけを考えてみよう。背景 の建物はバスティーユ牢獄で
ある。民衆は自らの鎖を断ち切って、武 器を取ろうとしている。事実、バスティ ーユ牢獄襲撃は国王軍に立ち向かうため の武器を奪うためであった。この動きに 対して、ⒶとⒷの驚きの表情を見てとれ る。革命の始まりは国王の財政改革に対 する「特権身分の反発」だが、平民の蜂 起という現象は特権身分からすれば想定 外の出来事だったに違いない。特権身分 の驚きがこれ以後に彼らの身に降りかかる災難を 想起することができる。
Try 3 1の免税特権を持つ特権階級の生活を重 税に苦しめられた平民が支 えたという構図から、3で はすべての身分が平等に負 担をしているという構図に 変わった。まさに、課税の 「平等」原理の樹立である。
図Ⅰに呼応した図Ⅱではフ ランス革命で第三身分が劇 的に勝利した印象を与えるが、三者の力関係を考 えると、石を背負った絵の方がフランス社会をよ り正しく写しているような印象がある。
旧体制での財政難の原因は七年戦争である。こ の戦争により、英仏両国が財政難に陥った。この 財政難を乗り切るためにイギリスではアメリカ大 陸の13植民地に対する課税を強化した。一方、フ ランスは特権身分に対する課税を柱とする財政改 革を行った。その帰結は大西洋の両側で起こった 世界史的な変革であるアメリカの独立戦争とフラ ンス革命であった。「だれが税金をはらうのか」 という観点から両者の共通点や相違点を考えさせ ると「環太平洋革命論」を踏まえた面白いアプロ ーチとなるだろう。
*「明解世界史図説 エスカリエ 初訂版」
「エスカリエ 初訂版」p.128
図Ⅰ
図Ⅱ
だれが税金をはらうのか
フランス民衆が求めた皇帝
「明解世界史図説 エスカリエ」活用例 時 代
の扉 を授業の導入部で活用する
3 「フランス民衆が求めた皇帝」を読み解く
Try 1 この絵が何をしている場面なのか考えて みよう。この絵の正式名称は『皇帝ナポレオン1 世の聖別式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠』である。 通常では戴冠はローマに出向いて教皇より受ける ことが正当である(「エスカリエ」p.99時代の扉 のカール大帝の戴冠を参照)。ところが、ナポレ オンは教皇をフランスに呼びつけた挙句、教皇の 目の前で帝冠を自ら被り、ジョゼフィーヌに皇后 冠を与えた。この絵はナポレオンがジョセフィー ヌに戴冠する瞬間の絵である。作者ダヴィドはな ぜこの瞬間の絵を描いたの
か。生徒に考察させてみた い。答えはルーヴル美術館 に所蔵のダヴィドの習作に ある(図Ⅲ)。この絵はナポ レオン自ら帝冠を被ろうと する絵である。下絵はこの
構図で描かれたが、途中で変更された。1807年に 完成した絵を見たナポレオンはダヴィドに「良い 瞬間を選んで描いたものだ。君には私の意図がよ くわかっている」と褒めたという。つまり、ナポ レオンが自ら冠を被る瞬間より、ナポレオンが人 に冠を授ける瞬間の方が、ナポレオンが民衆の上 に立つ絶対的な権力者になったことをより明確に 表現できたのだ。ナポレオンとダヴィドの意図は まさにそこにあった。
Try 2 ナポレオンの服装について見てみよう。 勝利と栄光を意味する月桂樹の冠を身につけてい る。他にも王朝の伝統衣装を思わせるビロードや
毛皮、「正義の手」と呼ばれる笏やシャ ルルマーニュの剣など様々な小道具も存 在する。ナポレオンが歴代王朝の精神的 継承者であることを印象づけるために小 道具までもがその役割を担ったことにな る。
Try 3 ナポレオン家の家系図を見てみ よう。兄のジョゼフにはスペイン王とナ ポリ王(後に将軍ミュラに譲る)、弟の ルイはオランダ王として、ナポレオンの 征服地のうち重要な領土を支配させている。また、 妹たちも王妃としての地位を確立している。フラ ンス革命では身分制が崩壊し、社会進出の道が平 等に開かれた。下級貴族出身のナポレオンは革命 がなければ、軍人としての活躍のチャンスもなか った。自らの力で成り上がったナポレオンが革命 の成果である平等原理を否定してネポティズム (身内をひいきして特権的に処遇する)に陥った。
この結果、兄を国王にしたスペインで反乱が発生 し、ナポレオン帝国の崩壊のきっかけとなった。 この絵はナポレオンの戴冠という歴史的事実を ありのままに伝える式典の公式記録という役割と 同時にナポレオンのイメージを高める「帝権の可 視化」という政治的機能もあった。先述のダヴィ ドの習作には教皇の祝福のポーズ(右手でナポレ オンを指さす)はなく、実際に戴冠式に参加して いなかった母のマリア=レティティアの姿が描か れるなど作為的な表現もいくつか見られる。
4 おわりに〜視覚に訴える〜
講義型授業はもちろん大事だが、「話を聞く」「ノ ートを書く」などの作業だけでは生徒たちも主体 的に授業に取り組むことができない。1時間の授 業の中に生徒たちの視覚に訴えてじっくり考えさ せる時間を作ることで、生徒が主体的に授業に取 り組む態度の育成につながると考える。
<参考資料・文献>
ルーヴル美術館公式サイト(日本語版)
(http://www.louvre.fr/llv/commun/home.jsp?bmLocale=ja_JP) 鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成−フランス19世紀美術 のもう一つの顔』ちくまライブラリー 1994
母マリア
ナポレオン
教皇ビウス7世
妻ジョゼフィーヌ 兄ジョゼフ
弟ルイ
「エスカリエ 初訂版」p.130
1 はじめに
「フランス革命はどのような革命だったのか?」。 革命から200年以上が経過している今もなおこの 問いは発せられ、多くの人間がフランス革命につ いて論じている。日本でも戦前からマルクス主義 的視点や日本の明治維新との比較史の視点など多 くの学者がこの問いについて論じた。しかし、多 岐に渡る研究の成果がフランス革命の全体像の把 握を一層困難にしている。そのうえ、世界史を教 える我々教員は先述の問いに加えて、非常に複雑 である「フランス革命を高校生にどう教えるか?」 という問題を抱え込むことになる。重要なトピッ クであるがゆえに、教科書の記述も多くなる。教 員はフランス革命をどう教えるかを自分なりに追 求するために多くの本と格闘する。「これは面白 い」とか「この話は生徒にぜひ話したい」という 項目が増えていき、ついつい授業も深入りしてし まう。生徒は何を理解したらよいのかわからず、 結局フランス革命とは何だったのかぼんやりとし たままで終わってしまう。このような授業は、教 員にとっても生徒にとってもお互い不幸である。 大きな流れをつかませることを目標とする世界史 Aの科目特性から、フランス革命をできるだけシ ンプルに授業展開ができたらよいと思う。フラン ス革命〜ナポレオン時代を2時間で内容を取り扱 うことを前提に、「明解世界史図説 エスカリエ 初訂版」の活用場面をいくつか考えてみた。
2 フランス革命編(1時間目)
MQ 1 革命とはどのような現象か?
1)時代の扉を活用する(「エスカリエ」p.128) 導入については、生徒の興味をひき、MメインクエスチョンQまで 導く重要な部分である。私はフランス革命の導入 にはフランスのトランプを使うことにしている。
このトランプはK・Q・J の記号ではなく、R・D・ Vのマークが使われている。 見慣れないトランプなので 生徒の興味をひく。また、 フランス革命直後に作られ たトランプは王や王妃の絵 札が排除され、代わりに「自 由」「平等」「友愛」などの絵札へと変わる。生徒 におなじみのトランプのゲームで「大富豪(地方 によっては大貧民)」と呼ばれるゲームがある。 このゲームには「革命」というルールがあり、ゲ ーム中に同じカードを4枚出すと普段は強い絵札 のカードが弱くなり、強さが逆転する。生徒の中 にはこのルールから、「革命とは弱いものが強く なること」とイメージする者も多い。このイメー ジは間違いではないが、それだけではすべてを説 明できていない。時代の扉では聖職者・貴族・平 民の絵が示されている。革命の変遷で三者の力関 係がどのように変化したのかを理解させることが 重要なことになるだろう。平民だけが石に押しつ ぶされた絵から石を三人で支える絵への変化は、 生徒の持つ「革命」のイメージを変えるものにな る(詳しくはp.10を参照されたい)。
2)ベルサイユのばら(「エスカリエ」p.128) プチのところで紹介され ている『ベルサイユのばら』 を授業で取り扱う。この漫 画は30年以上も前に描かれ た作品であるが、今なお 人々に親しまれている。意 外なことに今の高校生への ウケもよい。テレビアニメ の最終回ではバスティーユ 牢獄襲撃からヴァレンヌ逃
「エスカリエ 初訂版」p.128
「明解世界史図説 エスカリエ」活用例
フランス革命
〜ナポレオン時代をどう教えるか
亡事件、ルイ16世とマリ=アントワネットの処刑、 テルミドールのクーデタまでの5年間を回顧する シーンがある。10分程度でフランス革命の大まか な歴史の流れを概観できるので、その部分を授業 で活用する。
3)フリジア帽(「エスカリエ」p.129⑦・⑭) 革命たるゆえんを考えるためにフランス史家フ ュレの指摘する「政治文化の創造」について扱う。 革命の中で三色旗やフリジア帽など多くのシンボ ルが生まれた。農民に広く普及していたフリジア 帽は、もともと古代の解放奴隷を意味する物だっ たが、革命中に「自由」のシンボルとなった。 1789年8月に人権宣言が発布され、自由と平等が 宣言されたが、それは成人男性だけのものだった。 ベルサイユ行進など女性が革命に大きく貢献する 場面はいくつもあったが、1793年以降は革命の表 舞台から排除された。フリジア帽は男性の帽子で あるが、ドラクロワが描いた「民衆を導く自由の 女神」(「エスカリエ」p.133時代の扉)ではフリ ジア帽をかぶった自由の女神が登場する。フラン ス革命で「自由」を獲得できなかった女性にとっ て、「自由」を獲得する戦いというイメージにも 読み取れる。女性だけではなく、フランスの植民 地に対しても、1794年に奴隷解放宣言がなされた が「自由」な存在ではなかった。このように、フ ランス革命で実現された「自由」が女性や植民地 の人に与えた影響を考えれば、フランス革命の限 界も浮き彫りになってくる。
4)国王の処刑(「エスカリエ」p.129⑧) 授業の後半では国王の処刑からロベスピエール の処刑までを扱う。フランス革命の全体像を理解 する際に、「自由」や「平等」など現代にも通じ る人権思想を生んだ「光」の部分と同時に国王の 処刑から「恐怖政治」に至った「影」の部分を併 せ持つことを生徒に理解させることがフランス革 命を教える中でも重要だと考える。生徒たちに判 断材料を与えて、実際の国王裁判と同じように「国 王は有罪か?」「国会の決定は国民の裁可を受け るべきか?」「どんな刑を科すべきか?」を考え させる。国王ルイ16世の裁判では投票は議員一人
ひとりが口頭で述べる形をとった。「自由と平等 のためには人殺しも仕方がない」という言説はフ ランス革命時に成立したが、この言説が正しいの か生徒に検討させる。生徒はその作業を通じて、 自由や平等などの人権が「恐怖政治の血まみれの 手からの贈り物」であることに気づくことができ るだろう。
3 ナポレオン時代編(2時間目)
MQ 2 ナポレオンはフランス革命の○○者
1)時代の扉を活用する(「エスカリエ」p.130) クーデタによって政権を獲得したナポレオンは 「市民諸君、革命は、開始された当初の原則にお いて固定された。革命は終わったのである」と宣 言した。しかし、クーデタ直後はナポレオン体制 が安定していたとはいいがたい。国内の混乱を収 めても、1792年に開始した革命戦争はまだ続いて いたし、皇帝戴冠の後も対外戦争は続いていった。 革命の申し子であるナポレオンをどう評価するか という観点からナポレオンの業績と同時代人の評 価からナポレオン時代の特質を生徒に考察させる 授業を展開する。
①フランス民衆から見たナポレオン
1804年の皇帝就任の国民投票の結果は357万 2339票対2579票の圧倒的多数の大差であった。フ ランス民衆がナポレオンの成果をどのように評価 したのか。政治家ナポレオンの最大の偉業は革命 の理念を法的に確定させた「ナポレオン法典」で ある。フランス国内だけではなく、ナポレオンに よって支配されたライン左岸地域でも「ナポレオ ン法典」が定着し、そこでは旧体制からの「解放 者」として迎えられた。
②ベートーヴェンとゴヤから見たナポレオン(「エ スカリエ」p.131 more)
の戦争を通じて自国民としてのアイデンティティ を意識していった。ドイツ史家のニッパーダイが ドイツの国家形成について「はじめにナポレオン ありき」を述べたが、ドイツ以外でも国民国家の 形成はナポレオンの支配とそれへの反発抜きには 語れない。ゴヤの作品 「1808年5月3日」 も対仏 ナショナリズムを強烈に意識した作品といえる。 ゴヤの作品をどう見るかについては、『世界史の しおり』2009年10月号付録を参照されたい。ベー トーヴェンのエピソードもナポレオンが旧制度か らの 「解放者」 から 「侵略者」 へと変貌したこと を示す例となる。
③母マリア=レティティアから見たナポレオン この絵には戴冠式に欠席
したはずの母親が描かれて いる。欠席の理由には諸説 があるが、母親としてナポ レオンの皇帝就任をどのよ うに見ていたのかを生徒に 考えさせたい。絵には優し く見守る表情の母親が描か
れている。しかし、彼女は一族の栄華がいつまで 続くかわからないという不安を抱いていた。彼女 はナポレオンがくれたお金を使わずに貯金し、「も しあなた方が私を頼りにこの腕に飛び込んでくる ようなことがあれば、そのときはあなた方も私が 今やっていることに感謝するでしょう」 と言った。 実は母親も 「侵略者」 ナポレオンの没落を見抜い ていた人物の一人であった。
2)フランス革命〜ナポレオン時代を総括して 1時間目ではフランス革命の「革命」とはどの ような現象かを学習した。この学習を通じて、人々 が自由や平等の理念を樹立した人権宣言とそれを どのように具現化するかの政治闘争で革命が急進 化し、恐怖政治を生み出したことを確認した。2 時間目では、ナポレオンの業績と同時代から見た ナポレオン評を通じて、ナポレオンの世界史上の 意義を確認した。フランス革命が生んだ理念をナ ポレオンはどう取り扱ったのか。ナポレオンの戴 冠式では「私は権利の平等、政治的および市民的
自由、国有財産売却の不可侵性を尊重し尊重させ ることを…(中略)…フランス国民の利益と幸福 と栄光のためにのみ統治することを誓う」と述べ た。その後ヨーロッパを戦争に巻き込んだとして も、フランス革命の成果を取り入れて近代社会の 基礎を築いたことは覆ることはない。その意味で はナポレオンは革命の「完成者」である。フラン スだけにとどまらず、フランス革命〜ナポレオン の時代は古い社会の崩壊と新しい社会ができつつ ある時代の転換点であり、その新しい社会に住む 我々にも様々な成果を残している。
4 おわりに
今回の拙稿では世界史Aでの授業を前提にフラ ンス革命をできるだけシンプルに取り扱うことに 主眼を置いた。しかし、フランス革命〜ナポレオ ン時代は研究者の間でも統一的な見方がでていな いうえに、研究が細分化されている。それを踏ま え、授業の切り口は多様な視点がある。国民国家 の視点からのフランス革命を見直す授業や、フラ ンス革命期の女性や植民地の人々(ハイチなど)、 ナポレオンの支配地域(ライン左岸)の人々の「自 由」の視点から人権宣言の持つ「人権の範囲の限 界」というテーマ学習も可能であろう。フランス 革命中の事件や人物は非常にドラマ性があり、切 り口によってはいかようにも面白く授業ができる。 それを生徒に提示することで、三国志や幕末維新 期のように、歴史の面白さに目覚めるきっかけを あたえるかもしれない。原稿執筆を引き受けた当 初は、「フランス革命をそんなに時間をかけて教 える必要性があるのだろうか?」と疑問に感じた ときもあったが、本を読めば読むほどいろいろな 切り口で授業をやってみたいという衝動に駆られ てきた。そのくらいフランス革命が魅力に溢れる 時代であることは間違いないと再確認させられた。
<参考文献>
安達正勝『物語 フランス革命』中公新書 2008
安達正勝『ナポレオンを創った女たち』集英社新書 2001 多木浩二『絵で見るフランス革命』岩波新書 1989 遅塚忠躬『フランス革命』岩波ジュニア新書 1997 松浦義弘『フランス革命の社会史』山川出版社 1997 母マリア
ナポレオン
妻ジョゼフィーヌ
はじめに
魯迅(本名は周樹人)は、 1921年5月、『新青年』に 短篇「故郷」を発表した。 主人公が故郷の人々の変容 に人生の悲哀を味わうもの の、なお未来への希望を信 じるという物語である。作 品はわが国では1972年以後 すべての中学校国語教科書
に収録されている。「国民教材」とも呼べるだろう。 世界史の授業で、中華民国の新文化運動を扱う とき、魯迅を逸することはできない。代表作とし て「狂人日記」や「阿Q正伝」とともに「故郷」 と「藤野先生」を紹介するが、「故郷」は多くの生 徒に深い印象を残しているようである。「中学校 の国語で……」と作品について語ると授業がもり あがった経験が筆者には何度となくある。教室に おける反応から、「故郷」を補助教材として活用 すれば、生徒の学習に資するように思われ、筆者 は年来この小説を清末・民国初期の中国の授業の 各回で話題とする方法を模索してきた。本稿はそ の試案の覚書である。拙い試みで恐縮するが、御 批判御教示をいただき、改善できれば幸いである。
1 教材としての提示
「故郷」を教材として最初に提示するのは、日 清戦争の学習の終了直後としたい。「中学校で勉 強した「故郷」を覚えていますか? この小説をこ れからしばらく中国史を学ぶ手がかりとしてみま
す。」と切り出すことができる。作品全文は文庫 版で10数ページ程度である。ストーリーを生徒は 承知しているはずであり、時間の制約もあるから、 授業で全文を読み合わせるには及ばないが、少な くとも必要部分の抜粋は資料として用意したい。 「思うに希望とは、もともとあるものともいえ ぬし、ないものともいえない。それは地上の道の ようなものである。もともと地上には道はない。 歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(以 下、引用は竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』岩波 文庫に拠る)は「故郷」の終末の箇所である。最 初の提示の際、これを読み聞かせ、「作者はなぜ 希望について考えずにはいられなかったのか? また、この時代の中国の人々の希望とは何だった のか?」と問いかけるとき、生徒が真摯に受けと めてくれるならばありがたいことである。
2 語り手の「私」は魯迅か?
しかしながら、「故郷」を教材とする際、まずは 作品の発表時期と作者の生涯を説明する必要があ る。「タペストリー」p.232の魯迅の資料を参照 すればよいが、以下の事項を補いたい。
1904年 仙台医学専門学校に入学。
1906年 医学専門学校を退学。東京に戻る。 1909年 帰国。郷里で教員となる。
1912年 中華民国政府(南京)の教育部に入り、 政府の移動とともに北京へ転勤。 1919年 紹興の家を整理し、北京に移住。 日清戦争後、清は日本に留学生を出すようにな り、日露戦争後、来日する清国留学生は年間5000 〜 6000人に上った。彼らは帰国後、官吏や軍人と なった。魯迅の人生はこの流れの中にあった。生
タペストリー授業実践例
清末・民国初期の中国
─魯迅「故郷」の世界史教材化のための覚書─
群馬県立桐生高等学校 安達 淳
地、浙江省紹興の位置も説明したい。「タペストリー」 p.217・232に紹興は示されていないので、地理用 の地図帳を参照するのもよいだろう。
「故郷」の主人公は語り手の「私」である。「私」 を作者本人としてよいのか。筆者は以下の部分か ら、主人公は魯迅であり、作者は読者がそのよう に解釈することを望んだと思う。
《それならね、お聞きなさいよ、迅シュンちゃん。あ んた、金持ちになったんでしょ。》
「私」はかつて「豆腐屋小町」と評判だった楊ヤンお ばさんに詰られる。経験上、楊ヤンおばさんは生徒に 非常に人気の高い登場人物である。また、幼なじ みの閏ルン土トーと再会したとき、母が言った。彼の父親は 「私」の家に繁忙期だけ来て働く雇い人であった。
《おまえたち、むかしは兄弟の仲じゃないか。 むかしのように、迅シュンちゃん、でいいんだよ》 「私」を魯迅と見なすことによって、作品は事 実の記録ではないとしても、世界史の教材となる。
3 「故郷」の中の30年
「故郷」は1919年12月の帰郷時の体験から創作 されたと考えられている。「私」は閏ルン土トーに初めて会 ったとき10歳そこそこだった。魯迅は1881年生ま れだから、その時期は日清戦争直前の1890年頃で あろう。1920年頃、「私」は変わり果てた閏ルン土トーに 再会する。「私」は昔「坊っちゃん」だった。魯迅 の実生活でも、13歳のとき、役人だった祖父が投 獄され、16歳のとき、病弱の父が死去した。 約30年を経て、主人公も故郷の人々も変わった が、小説ではその間世の中では何事も起こらず、 ただ時間のみ経過したかのようである。しかし、 現実の中国には激動が生じ、国際環境も激変して いた。「タペストリー」p.38 〜 39とp.40 〜 41の世 界全図を用いて、作品中の過去(19世紀末)と現 在(20世紀初頭)との相違を確認できる。同時に、 清と中華民国の領土がほぼ一致するという共通性 にも生徒の注意を促し、三民主義に備えたい。 三民主義の解説には、「タペストリー」p.217の 「孫文と三民主義」を利用できる。三民主義の「民
族の独立」を説明する際、「タペストリー」p.32 〜 45も参照し、明、清、中華民国、中華人民共和 国の領域を比較したい。比較を通して、今日の中 国がほぼ清の領土を継承している事実に生徒は容 易に気づくはずである。ここで「民族の独立」と いう構想が五族共和論とどのような関係にあるの かという疑問も生じるだろう。なお、この問題の 考察には「タペストリー」p.98の2「清の対外政策」 も有用である。領域の連続性に注目すると、三民 主義の理解は深まり、また、現在の中国の民族問 題を考えるヒントも得られよう。
4 離郷の旅
「私」が8歳になる甥の宏ホン児ルと会話を交わす。 《汽車に乗ってゆくの?》
《汽車に乗ってゆくんだよ。》 《お船は?》
《はじめに、お船に乗って……》
小説の冒頭、帰郷する船の中に冷たい風が吹き こみ、末尾で「私」は船の底に水のぶつかる音を 聞きつつ、過去・現在・未来に思いをめぐらす。 江南地方の水運の発達と鉄道の中国社会への浸透 が示される。この会話は「タペストリー」p.217 のヒストリーシアターと併せて、鉄道が帝国主義 時代に持った意味を考える際、参考になるだろう。 1919年に魯迅の一家は北京へ旅立った。当時の 中国の鉄道の開通状況は、同ページの2「列強の 中国侵略と日露戦争」で確認できる。この確認は 辛亥革命の契機となった、清朝政府による幹線鉄
清(19世紀末) 明(17世紀)