広域的な交流・統合−その解体−再統合という サイクルで世界史をとらえるこころみの第3回は、 各地域世界や世界帝国とそれらの間の交流がつい にユーラシア・アフリカの大部分を直接巻き込ん でゆく様子を、モンゴル帝国下での大交流と大破 局、そこからの再生というプロセスを中心として まとめてみたい。『タペストリー』24〜29ページ の大きな地図を広げながらお読みいただきたい。
遊牧国家の構造とモンゴル帝国
モンゴル帝国や遊牧民族・遊牧国家に関する杉 山正明氏(京都大学)の一連の学説は、今日広く 知られている。最初に、遊牧国家のおさらいをし ておこう。
中央ユーラシアの「遊牧国家」は一般に、遊牧 民(遊牧経済そのものによる富の蓄積は不可能だ が、代わりに圧倒的な軍事力をもつ)とオアシス 民(農業生産力だけでなく広範な商業ネットワー クをもつが、人口規模が小さいので遊牧民に匹敵 する軍事力をもつことは不可能で、むしろ遊牧民 を後ろ盾として商業網を広げようとする)の共生 関係にもとづいて成立する。
遊牧民は通常、部族・氏族単位で行動し、一定 の民族的アイデンティティももついっぽうで、一 定以上の広い商業ネットワークと結びつかねば国 家が成り立たない。そこで、遊牧国家はつねに多 元主義的かつ多民族的である。教科書で「○○族 の△△国家」というのは、支配集団が何族だった かを示すにすぎない。遊牧生活と戦争、国際商業 などはどれもきわめてシビアな世界なので、社会 は徹底した実力本位にならざるをえない(多元主 義で多民族ならみんな平等で差別がないなどと誤 解してはいけないが、あるのはおもに「結果によ る差別」であって、「参加・挑戦の自由」はどの
民族や集団にも保証されている)。遊牧国家の拡 大・解体がどちらも急激におこるのはそのためで ある。なお戦争の目的は力の誇示と相手の破壊、 人・物などの掠奪にあり、敗れた集団は、普通は 素直に降伏する。勝った側も労働力が希少な草原・ 砂漠の世界で皆殺しなど愚の骨頂だから、通常は 支配者を罰するだけで降伏した集団には手をつけ ず、国家の拡大に協力させる。そこで手柄を立て れば、「被征服者」がやがて「支配集団」に変身 できる。ただし徹底して抵抗したような場合は、 集団を解体して成員を山分けする。
モンゴル帝国とはこのような遊牧国家が、遼・ 金・西夏などのシステムも参考にしながらきわめ てよく整備され、おりからのユーラシア全域への 商業の拡大を背景として、極限まで拡大したもの だった(しかも陸だけでなく多くの農耕地帯や海 域まで支配する)。「蒙古・色目・漢人・南人の身 分制」「儒教の軽視」などの硬直したイメージは そろそろ卒業して、かわりに「世界最先進の市場 経済と多元的・開放的な実力主義のしくみをもつ が、それを世界最強の軍事力で他者に押しつける 帝国」であったことをきちんと教えたい。押しつ けだから日本に限らずこのしくみを拒否する国・ 支配者が出てくるいっぽうで、ウイグル人、ムス リム、チベット仏教徒、女真族に漢族、高麗人な どあらゆる「被征服」集団のなかから、この帝国 を通じて夢を実現しようとする者があらわれた。
モンゴル帝国と13〜14世紀の大交流 ユーラシア西方のムスリム商業ネットワーク、 東方における中国人ネットワークなどが象徴する 海陸の貿易発展は、9、10世紀以降も着々と進ん だ。連載第2回で見た東南アジア、日本列島やヨ ーロッパなど辺境地帯の発展についても、温暖な
連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第3回
ユーラシア規模の交流と破局
気候による農業発展だけでなく、「中心」の大帝 国からの政治圧力がゆるむのと裏腹に、交易ネッ トワークがそれらの辺境まで広がったという国際 的条件が働いていた。ロシア・北欧でもアフリカ 東岸やサハラ南縁でも、また琉球列島や日本列島 北方でも、交易が社会を躍動させた様子が、現在 の教科書には記述されている。各地域の交易網は ゆるやかに結びつき、13世紀には全体として一種 の「世界システム」が出現していたと、社会学者 アブー =ルゴド(『ヨーロッパ覇権以前 もうひ とつの世界システム』上下、岩波書店、2001年) は主張している。
モンゴル帝国は、この交易網に乗って出現し、 しかも大都や杭州を焦点とする駅伝・海運網、銀 を裏づけとする紙幣制度、国家が特権商人(オル トク商人)に資金を委託して貿易させる仕組みな どの諸システムによって、ますます貿易を発展さ せた。分立後の元朝と諸ハン国(いずれも多元的 な権益集団の集合体)のあいだも、また朝貢国・ 属国はもちろん日本のような服属しない国との間 でも、戦時以外は貿易が奨励された。カトリック 世界から僧侶や商人が来訪し、日本からは多数の 禅僧が中国留学するなど、文化交流が活発だった こともいうまでもない。
モンゴル帝国時代の広域交流については、マル
コ=ポーロらの人物、ミニアチュールや貞享歴な どの文物・技術、最近では「新安沖沈没船」など 沈没船のことも教えられる。なかでも近年、発掘 調査が進んで注目を浴びているのは陶磁器である。 陶磁器は五代・宋の時代から重要な貿易品となり (重くかさばるのでおもに船で運ばれる)、青磁・ 白磁などの中国磁器に混じってペルシア湾岸で焼 かれたコバルトブルーの陶器が貿易されていた。 これらの土台のうえで、14世紀の元朝後期には、 白い土にコバルト顔料(当時は西アジアから輸入) で絵を描いた上から透明釉をかけて焼く、つまり 白磁に青い絵を描いた「染付磁器」(中国では「青 花磁器」)が、中国で生産されるようになる。明 代には世界の陶磁器市場を席巻し、染付の主産地 である景徳鎮の名声が確立する(宋代の青磁・白 磁の段階で景徳鎮を主産地として教えるのは間違 いで、輸出なら圧倒的に竜泉窯)。
14世紀の危機と再生
以上の叙述から、読者はすでにお気づきだろう。 モンゴル帝国と13〜14世紀の大交流は、20世紀のア メリカ合衆国とアメリカを中心としたグローバル 化に、とてもよく似ている。モンゴル帝国時代を 学ぶ大きな意義はそこにある。
ただし現代経済をアメリカが独占支配できない ように、モンゴル帝国もすべてを支配はできなか った。たとえば陶磁器を見ると、宋代の高麗青磁 はあまり輸出されなかったが、14世紀にはベトナ ム、タイ、チャンパー、ビルマなど東南アジア大 陸部諸国がいっせいに輸出用の陶磁器生産を開始 する。なかでもベトナム(大越)では、もっとも 技術的に高度な染付の生産が実現し、15世紀には 日本列島からマムルーク朝やオスマン帝国まで広 範囲に流通する。それより先13世紀には、インド 製にまじってジャワ島の綿布が東アジア各地に輸 出されている。中国やインドの高度な手工業技術 が、急速に周辺諸国に拡散していたのである。 もう1点、グローバル化が暗転した際の危機の 巨大さという点でも、モンゴル帝国時代は現代世 界を予言している。各地でのモンゴル政権の崩壊、 ユーラシア西方のペストの流行、日本列島の南北 朝動乱と倭寇の大暴れなど、「14世紀の危機」で ある(南アジアや、マジャパヒトが栄えた東南ア ジア群島部はあまり打撃を受けなかったようだ が)。
危機のきっかけは、14世紀前半に始まる地球の 寒冷化だとされる。当時の農業技術や生活水準で は、天候が不順だとすぐに饑饉と疫病が発生する。 そのとき支配者が無能であったり国家のメカニズ ムに機能不全があれば、逃亡や反乱が広がる。し かし、そこまではよくあることだ。危機があれほ ど深刻化した理由としては、長期の好況下で人口 が増加し、気候不順に弱い悪条件の土地まで開発 されていたこと、交通の発達で伝染病が急速に広 がったこと、貿易ルートがあったからこそ海賊が 侵攻できたことなど、長期の繁栄がもたらした負 の側面に目を向けざるをえない。
それでも危機は克服され、14世紀末からユーラ シア・アフリカの経済は、ふたたび上向きとなっ た。陶磁器や銅銭を筆頭とする重くかさばる商品 がますます増加したため、陸より海の貿易が圧倒 的に主流となった。しかも、火器の普及で遊牧騎 馬軍団に対抗することが可能となったため、中央 ユーラシアの遊牧帝国が歴史を動かす時代は終わ った(ティムール帝国やムガル帝国だけでなく、 ユーラシアを支配した14世紀以後の帝国の多くが、 直接間接にモンゴル帝国の遺産を継承していた が)。そのなかで、ユーラシアの東端と西端に、重 要なあたらしい動きが生まれた。
おそらく元朝の多元主義と商業中心主義をこれ 以上推進すれば、中国は中国でなくなると考えた のだろう。明の洪武帝(朱元璋)と永楽帝は、元 朝の人材や制度をかなり受け継ぎながら、一元的 な小農支配と皇帝専制など、大事なところで「中 華原理主義」を強行した。倭寇など外部勢力と国 内の不満分子が結びつかないように、民間の貿易・ 海外渡航を禁じ、外交・貿易を朝貢国との間に限 る「海禁・朝貢体制」も、この原理主義の産物だ った。中国経済は順調に回復し、当時の東アジア を圧した火砲部隊の火薬用の硫黄輸入など、明朝 自体も貿易を必要としたが、その貿易は、鄭和の 艦隊の派遣(巨大な軍船を中心とした艦隊が各地 を朝貢を強要して回ったのであり、「平和の使者」 などとんでもない)、琉球王国の中継貿易や足利 義満の日本国王名義での貿易など、いずれも海禁・ 朝貢体制を前提としたものとなった。
経済紛争を解決するイスラーム法
イスラームは時代とともに姿を変えながら、世 界の各地に広がった。12世紀頃から、スーフィー 教団と呼ばれる組織が大きな姿を現すようになっ た。いわゆる神秘主義教団のことである。それ以 前は、イスラーム法学や神学の整備が急務であっ た時代で、戒律や規則の体系としてのイスラーム が確立されたから、その次の時代に急速に出現し た神秘主義は、そこから逸脱したかのようにも見 える。そのため、神秘主義がどこに由来するのか、 という議論もなされてきた。今回は、この転換期 について考えてみたい。
7世紀のアラビア半島に成立したイスラームで は、開祖であるムハンマドの存在が非常に重い。 何よりもまず、ムハンマドがもたらしたクルアー ンが神の啓示として唯一の聖典となっている。さ らに、ムハンマド自身の事蹟も「スンナ(慣行)」 と呼ばれて、信徒が従うべき規範となった。イス ラームを「ムハンマドがもたらした聖典に従い、 彼の人生モデルに習う教え」と定義できる。 しかし、モデルとしてのムハンマドには多様な 側面がある。夜通し礼拝をして脚がむくんだ、と いうような敬虔の面がある一方、商業によって身 を立てていたことも事実であるし、預言者と名乗 ってからも俗事を捨てたわけではなく、家庭生活 をやめることもなかった。おそらく、聖と俗のバ ランスのなかにムハンマド的な特徴があるのであ ろう。彼自身、過度の敬虔に流れることを戒めて、 「アッラーにかけて、私は汝らの中でもっともア
ッラーを畏れ、篤信なる者である。しかし、私は 断食もすれば断食明けの食事を摂るし、礼拝もす れば睡眠もとり、妻たちと結婚している。(独身
主義や苦行に走って)わがスンナを避ける者は、 われに従う者ではない」といったと伝えられる。 しかし、バランスは逆の方向、つまり現世的な 方向にも崩れうる。8世紀に成立したアッバース 朝のもと、広大な世界貿易ネットワークが構築さ れ、イスラーム世界は大きな富と力を手にした。 帝国の繁栄によって、富裕な社会生活や奢侈的な 人生態度も生まれた。イスラーム法の整備は、そ れを規制する側面を持っていた。
一般論としていえば、イスラームは人間の本能 や欲望を肯定する。神が人間をそのように創造し た以上、食欲があり性欲があり、種々の欲望はそ れ自体としては自然である。そこで大事なことは、 生活をイスラーム法によって制御することである とする。たとえば、食欲を満たすことはよいこと であるが、食べ物が神の恵みであることを認め、 例外として禁じられているものは食べてはならな い(豚肉のように)。性欲を満たすことは大いに けっこうであるが、結婚契約を結んでいる男女の 間だけに限られる、とする。
守るべきルール、規則が何であるか、それを明 示するためにイスラーム法学が8〜10世紀の間に 整備された。ムハンマド時代からイスラームの法 として「シャリーア」という考え方は確固として あった。シャリーアとは、もともと「水場へ至る 道」を意味する。乾燥地帯では水場に至る道を歩 まなければ、生命を失うことはいうまでもない。 シャリーアには「人の生きる必然的な道」という ニュアンスがある。
しかし、その具体的内容は、聖典クルアーンの 中に条文のように書かれているわけではない。た とえば、クルアーンではブドウ酒が禁じられたが、 イスラーム帝国の版図が広がると、各地でブドウ 京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰
連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで
以外を原料とする酒に出会うことになった。クル アーンを字義的に限定的に理解するならば、それ らの酒は禁じられていない。しかし法学者たちは、 酩酊作用を共通要素として、禁止の規定が酔いを もたらす飲料すべてにあてはまる、と解釈した。 法学者たちは、聖典クルアーンとムハンマドの 慣行の中から、しかるべき内容を探し、新しい事 態に適用させる努力を続けた。時の経過とともに、 このような解釈の具体例が蓄積し、解釈の方法論 も確立した。「法学者」という専門家集団もでき あがり、イスラーム法学ができあがったのである。 この過程は10世紀頃には、一応の完成を見た。 このようにして、大征服によって成立したイス ラーム世界で、イスラーム法によって運営される 社会が成立した。イスラーム法の確立は、過剰な 奢侈を戒めるとともに、いわば、「法にのっとっ ていれば、おおいに現世を享受してよい」という 生活態度をも生み出した。礼拝が終わったら市場 に戻り商売をしてどんどん儲ける暮らし、をイメ ージすることができる。
修行機会と同胞意識を提供するスーフィズム
これに飽き足らない人びともいた。より倫理的 な暮らし、純粋に精神的な満足を求める人びとで ある。「スーフィー」という言葉は、「スーフ(羊 毛)」を語源とするといわれる。「粗末な羊毛の衣 服を着て、修行に励んだ人」が、転じてスーフィ ーと呼ばれるようになったという。それが発展し て、現世の奢侈、享楽を避けて、より純粋な宗教 的価値の追求を行う個々人が、やがて組織化され てスーフィー教団となる。
ここで、羊毛の衣服は粗末か、という点に注記 したい。日本人の感覚では、羊毛は暖かく、十分 立派なものに見える。しかし、牧畜を生業とする 地域ではそうとはいえない。イスラーム暦の12月 (巡礼月)には犠牲祭があり、一家の主人は羊を ほふることになっている。その肉は、3分の1を 自分たちで取り、残りは貧者などに施す。そのた め、どんなに貧しい人でも、このときだけは肉の 食事にありつける。羊の皮も、衣服や敷物にする
ため施されることが多い。粗末な羊毛の衣服とは、 そのような貧者に施された羊の皮のことであろう。 羊皮の服を着た人びとは、物欲を抑え礼拝をし たり神の名を唱えて暮らしていたようで、8世紀 から9世紀にはそのような禁欲主義の人びとが各 地で現れた。世を捨てるような生活態度のゆえに、 キリスト教の修道院さらには仏教の影響があるの ではないかとする説もある。実際、南アジアでは 仏教との接触もあったであろう。しかし、現世の 暮らしを批判的にとらえる立場は、もともとクル アーンの章句にも明確に示されている。クルアー ンには「彼らは現世の暮らしを好んでいるが、来 世こそ、よりよく永続的である」「現世の暮らしは、 迷妄の糧である」というような表現が数多い。 別な説ではスーフィーの語源は「スッファ(回 廊)」とされる。これは、マディーナの預言者モ スクの一角に設けられていた回廊をさしている。 そこは住居さえも持たない貧しい信徒を保護する ために使われていた。土地も家畜も持たない彼ら は、モスクの一角に住んでいるだけに、イスラー ムを学び信仰儀礼を行うことに精を出した。それ が、のちの修行者たちの原型であり、スッファの 名がスーフィーの語を生んだという。
ちなみに、「スーフィー」に主義や思潮をさす「イ ズム」をつけて「スーフィズム」としたのは、近 代の西欧での造語である。スーフィー教団が12世 紀に登場する以前は特定の名称がないので、思潮 としてのスーフィズムという表現は便利であろう。 思潮としてのスーフィズムは9世紀にはっきりと した姿を現した。しかし当時は、法学的なイスラ ームの確立期であり、修行者たちの実践は行き過 ぎと思われていた。たとえ初期イスラームに起源 があるにしても、いささかバランスを欠いている のではないか、という疑問や批判が寄せられた。 初期のスーフィズムは、正統な教義の一部とはま だ認知されていなかった。
この転換に貢献したのは、2人の偉大な思想家で あった。一人は、アブー =ハーミド=ガザーリーで、 この人の没年は西暦1111年なので覚えやすい。も う一人は、史上初のスーフィー教団を生み出した ジーラーニー(1166年没)である。
二人とも、帝都バグダードで活躍した。ガザー リーは、当時の正統なイスラーム学の牙城であっ たニザーミーヤ学院の正教授となって、法学者と しても、神学者としても高名をはせた。哲学や論 理学にも通暁し、その著作は後に西欧でも訳され、 大きな影響を与えた。ラテン語ではアルガゼルの 名で知られる。しかし、ガザーリーは精緻な学問 を修めながらもそれに飽きたらず、内面の信仰を 追求するため、職をなげうって放浪・修行の旅に 出た。要するにスーフィーの道を歩んだのである。 後に悟りを開いたガザーリーは、法学や神学と スーフィズムが調和したイスラームを説いた。彼 のような確立された大学者が、スーフィーの道が イスラームの教えと合致していることを説いたた め、スーフィズムは正統な教えの一部となった。 他方、ジーラーニーは、彼の名「アブドゥルカ ーディル」から後に「カーディリー教団」と呼ば れる組織を創始した。すでにスーフィズムは思想 的にも熟成してきていたから、時代はその教えを 体系的に伝達する仕組みを必要としていた。それ を成し遂げたジーラーニーの功績は大きい。彼以 降、数々の教団が誕生し、イスラーム世界の各地 に広がることになった。カーディリー教団は、今 日でも最大規模の教団の一つとなっている。 教団の広がりは、初期の征服地を越えて、東ア フリカ、東南アジア、中央アジア、南アジアなど へとめざましいものがあった。とりわけ、東アフ リカ、東南アジアの2地域は、スーフィー教団と 商業ネットワークによるイスラームの広がりとい う点で共通性を持っている。商人であると同時に 教団に帰属する人びとが、商業を広め、スーフィ ズムを通じてイスラームを広めた。大征服によっ て獲得された地域が主として乾燥オアシス地帯だ とすれば、彼らが活躍したのは湿潤な地域であり、 海域世界によって結ばれていた。
インドネシアのジャワ島では、「ワリ・ソンゴ(9 人の聖者)」によってイスラームが広められたと されている。彼らは15〜16世紀の人物であるが、 スーフィーだったと考えられる。インドネシアに 限らず、スーフィー教団こそが12世紀以降、イス ラームの拡大に最も貢献したのであった。 スーフィー教団は単に倫理的な生活を強調し信 仰行為に励むだけではない。彼らは「唯一神」の 信仰を極限まで突き詰め、神が絶対者であるなら ば世界は真の実在ではなく、修行によって迷妄の 自己を取り去れば、神だけが実在する次元を体験 できる、と説いた。自己滅却による「神との合一」 といわれるのはそのことで、スーフィズムが神秘 主義とされるのは、この考え方による。
身をもってそれを実体験したスーフィーたちは、 教団の中で弟子たちに修行の仕方やその意義を教 えた。もとの「タリーカ」という語は「道」を意 味する。排他的な組織の意味ではなく、修行道と 訳す方がわかりやすい。シャリーア(イスラーム 法)が信徒の誰もが歩むべき道とすれば、タリー カは、とくに強く神を求める人びとだけが歩む道 なのである。
その一方で、神だけを実在と見る彼らの考え方 は、被造物の中にも神を見出す汎神論につながる 面を持ち、また、「神との合一」を体験した聖者 を特別な人間とみなし、いわゆる「聖者崇拝」に つながる面も持っている。実は、この側面が、イ スラーム以前の土着の宗教感情をうまく汲み取る 作用を持った。また、教団では師を中心に弟子た ちの親密な同胞関係が築かれた。イスラームがい たるところに広まるとイスラームの同胞性は薄ま るため、教団の絆は本来の同胞精神を体現するも のとして歓迎された。
はじめに
20年にわたり世界史を担当してきた者として、 ここ数年生徒たちの世界史離れが顕著になったこ とを感じている。そして高校生の世界地理的な知 識が極端に乏しいことに気がついた。私は新しい 単元に入る前に、よく扱う地域の地理的な質問を 生徒たちに行う。かつてならば、生徒たちが自分 の知っている知識で活発に答えてくれたものだ。 この導入は世界史を教える者にとっていわば「常 道」である。しかし、ここ数年はとんちんかんな 答えが返ってくるか、沈黙のままという状態だ。 世界のおもな国や首都の名称から世界の地域名に いたるまで以前と比べ知識が乏しいのだ。 これは明らかに新課程(現行)になってからの 現象である。最近、勤務校の1年生を対象に出身 中学校別(勤務校の校区は神戸第1学区=神戸東 部地区・芦屋学区と呼ばれるところ)の簡単な調 査を行った。中学校の地理の時間に世界のどの国・ 地域を扱ったか、また内容は? というものであ る。その結果、いずれの中学校でも扱っていたの がアメリカと中国で、後はヨーロッパ全般か西欧 主要国(仏・独・英・伊の何れか)の中から1国 を扱う、というものだった。予想はしていたが、 ほぼ画一的な結果に驚いたしだいである。教科書 の帝国書院『社会科 中学生の地理 世界のなか の日本 初訂版』に目を通しよくその事情がわか った。教科書の構成どおりなのである。他の地域 については、3つの地域の捉え方を参考に自分で 調べてみよう、ということだ。時間の都合もあっ て授業ではロシアという大国やアフリカ・南米と いう大陸が無視され、ヨーロッパでも東欧は除外、
オセアニア地域や本稿で取り上げる東南アジア・ 海域世界も対象となっていないと考えられる。歴 史授業の世界史部分の少なさに加え、以上のよう な地理学習を経て高校に入学してきた生徒たちに とって「高校の世界史は馴染めないもの」と映る のはいたし方ないのかもしれない。今の高校生は 「馴染みのないもの」に対する興味が欠落する傾 向が強いからだ。こういった昨今の高校生に対し ていかなる授業を展開すればよいか、試行錯誤の 日々である。
その中で帝国書院の図説『最新世界史図説タペ ストリー』の発刊は私にとって福音であった。そ れは世界史のタテとヨコ、つまり時間の流れと空 間(地域)がうまく連動した図説の登場だったか らである。何より世紀ごとの世界地図をはじめと した豊富な地図資料は、現在の高校生の欠落した 地理的知識を補いつつ授業に活用できる。ここで 取り上げる東南アジア史は、知識が皆無に近い高 校生を相手に授業しなければならない「難関」で ある。あまつさえ東南アジア史の従来教科書での 扱いは王朝や国名の羅列でいかにも教えづらい。 そこで、タペストリーを使った地理的把握をさせ る東南アジア・海域世界史の授業案作りを試みた。 まず、今回は12〜13世紀における東南アジアの独 自文化形成までを扱いたい。
1.導入 東南アジア・海域世界への誘い
このような現状の中で、世界史教育は扱うべき 対象となる地域の地理的把握とイメージを湧かせ ることが重要である、という観点から始めたい。 とくに東南アジアは、生徒たちにとって馴染みの うすい地域である。そのことから地理の授業のよ
タペストリー活用の授業案 東南アジア史・海域
世界の展開(その1)
兵庫県立東灘高等学校 矢 部 正 明
タ
ペ
スト
リー
うな導入でのぞもうと思う。
東南アジアを取り巻く地理環境を理解させるた め、タペストリーの最後に出てくる「①世界の 国々」の地図を開かせる。ここでは世界の中で東 南アジアとはどこに位置するかを大きく把握させ る。この地図から西にインド・北東に中国をのぞ み、日本とも海洋でつながった「思った以上に近 い地域であること」に気がつくようにする。 次にp.44〜45「20世紀末〜21世紀初頭の世界」 の地図を開かせる。p.45の「日本と東アジア海域」 の地図を使い、黄色に色分けされた部分が東南ア ジアであることを伝え、同時にその国名に目を向 けさせる。そして、いかに現在の日本がASEAN 諸国との繋がりが深いかを「各国における日本の 進出企業」や東南アジア諸国の輸出発展から理解 させたい。
あとはタペストリーのページをp.39・p.37・ p.33・p.29…と遡らせ、「日本と東アジア海域」を 見ていくように指示。p.28から前のページでは見 開き左下にある「ネットワークナビゲーター」の 地図も見るように指示する。これは、同一視点の 地図を使い連続的に時間を遡って見てみることに より、日本と東アジア海域が歴史的にどのように 関わってきたかを大きく把握させる目的を持つ。 さらに「ネットワークナビゲーター」を見れば、 ユーラシア南部における時代ごとの交易ネットワ ークで日本が東端に位置することや東南アジアの 位置がよく見えてくるのである。つまり導入とし て、インド洋〜太平洋〜東シナ海と連なる海域世
界全体の把握にはこの見せ方が有効ではないかと 考えている。海域ネットワークの基礎をここで理 解させるのである。
以上のようにタペストリ−を使い、東南アジア 海域世界の大まかな歴史地理的把握を行った後、 授業用プリント(B4判)を配布する。その左半 分には東南アジアと周辺海域の白地図を載せてあ る。白地図は地理の副教材(帝国書院『楽しく学 ぶ世界地理Bノート』)から抜粋したもの。白地 図には現在の国境と主要河川が書かれている。さ らに書き込みができるよう( )が施してあり、 エーヤワディー川・メコン川・チャオプラヤ川、 インドシナ半島やマレー半島の名称と各国の名称 (ベトナム・ラオス・カンボジア・タイ・ミャン マー・マレーシア・シンガポール・ブルネイ・イ ンドネシア・フィリピン)、インドネシアの主要 な島名(ジャワ島・スマトラ島・ボルネオ島・ス ラウェシ島・バリ島・モルッカ諸島に加え東ティ モールが分離独立したティモール島など)につい て書き込ませるようになっている。
「タペストリー 四訂版」p.45
「タペストリー 四訂版」p.28
「楽しく学ぶ世界地理 B ノート」p.55 日本
大韓民国
台湾 香港
フィリピン インドネシア
シンガポール マレーシア
タイ ミャンマー
カンボジア ラオス
ヴェトナム
ブルネイ・ ダルサラーム 1028 659 583 7 783 55 414 20 17 858 11 417 1250 16 572 375 881 769 2133 4211 1446 8 193 205 11 25 459
60年代 経済成長開始
経済成長 の連鎖
アジアNIES
60年代後半 経済成長開始
ASEAN
70年代後半 経済成長開始
中華人民共和国
80年代後半 経済成長開始
インド
90年代後半 経済成長開始
179
1588
各国の輸出額
(数字の単位は億ドル)
各国における 日本の進出企業
(数字の単位は企業数) (2001年現在) 1997年 1970年
日本と 東アジア海域
東アジア交易圏の復活 海外への輸出用製品の生産に重点を置いたアジアNIESも1970年代から経 済発展が本格化した。1971年のドル=ショック後の円高で,日本などの企業が進出した東南アジア 地域も,70年代後半から急速な経済発展を見せた。90年代後半には金融危機が襲い,一時深刻 な経済危機に見舞われたが,現在は回復に向かい,中国やインドの経済成長とからんで一大 経済圏を形成している。
A S E A N N I E S 日 本
中 国 イ ン ド
変 動 相 場 制 移 行
ヴ ェ ト ナ ム 戦 争
石 油 危 機
ア ジ ア 金 融 危 機 プ ラ ザ 合 意
2000 1990 1980 1970 1960年
輸入代替工業化政策 外資導入・輸出志向工業化政策 工業化成功と工業製品輸出の急成長 海外投資と投資先の工業製品の輸入急増 東
このあと、東南アジア史や欧米諸国による東南 アジアの植民地化や、現代史に必要な最低限の地 理的知識を文字通り「暗記」させたい。このこと から、生徒は東南アジア史に関する教師との「共 通言語」を獲得できるのである。以前より、世界 史受験を考えている生徒を対象に夏の補習では東 南アジア史の講義を行ってきた。その際、まず行 ったトレーニングがこの白地図を使った東南アジ アの地理テストであった。これを授業のときにも 応用させるのである。
さらに、東南アジア史上の2大遺跡について触 れ、日本との関わりを説明し興味を喚起したい。 タペストリーのp.122「東南アジアの文化」を開 かせる。最近日本でも観光で人気のカンボジアの アンコール遺跡群については、有名なアンコール= ワットが旧宗主国のフランスによって修復された こと、都城遺跡のアンコール=トムの中心寺院バ イヨン寺院の修復に日本が関わっていて、そのプ ロジェクトが現在も続行中であることを説明。バ イヨン寺院の写真はタペストリーにはないので、 自分で撮影してきた観音菩薩の回廊の写真を持参 し生徒に回覧させる。もう一つはインドネシア・ ジャワ島のジョクジャカルタにあるボロブドゥー ルの写真を見るように指示。この遺跡は丘の上に 土を盛り、それに安山岩のブロックを積みあげた 建造物で、相当傷んでいたが、これも修復と遺跡
公園の造園に日本の援助が大きな役割を果たした ことを語る。
2. 東南アジア世界の形成(先史から1〜3世紀 の東南アジア初期国家)
「東南アジアの風土と人々」あるいは「東南アジ アの風土と社会」のところでまずおさえさせたい のは、地理的な大陸部と諸島部(島嶼部)の特徴 である。タペストリー p.120の地形図を開かせる。
大陸部ではモンスーンの影響下でおもに大河の デルタ地帯で稲作を中心に発展、諸島部は熱帯雨 林気候で海・河川が交通路となり港市が発達、赤 道直下でも高原・山間部ならば水田耕作も可能で ジャワ島・ルソン島などは平地が広がり乾季もあ ることから大規模な稲作社会が早期に発達したこ とはおさえておく。ただ、『新編 高等世界史B 新訂版』にあるように、東南アジアには前1000年
「タペストリー 四訂版」p.122
バイヨン寺院の観音菩薩の回廊
頃より前に稲作は伝わったが、それに適する土地 は限られたこと、メコン川などの3大デルタ地帯 は雨季には全面水没、乾季には海水が逆流し淡水 が得られず、農耕は困難を極め、なおかつ湿地帯 で疫病も発生しやすかったため、実は全面的に開 発されたのはかなり遅い(19世紀後半)ことも説 明しておきたい。
民族構成については、従来、語族の詳細な説明 まで行ってきたが、地形が複雑、移動が盛んであ り、民族集団のまとまりが時代を追って変化した ため民族の種類が極めて多く、国家・地域を考え る場合、民族の違いというものが大きな意味を成 さないケースも多々あることから簡略な説明に留 めたい。マレー・ポリネシア(マラヨ=ポリネシア 系)、モン=クメール系(アフロアジア系)、タイ= カダイ系、チベット=ビルマ系、ミャオ=ヤオ系な どの民族の名称は「一応」あげるぐらいとする。 先史から初期国家の形成期について。前2000年 紀〜前1000年紀にかけて東南アジア各地に金属器 文化が出現したこと、その一つが銅鼓で知られる ドンソン文化である。中国の青銅器文化の影響下 にある北部ベトナムでの文化というイメージが強 いが、実際には銅鼓の分布はインドシナ半島から スマトラ島・ジャワ島など諸島部にも広がったこ とことにもふれたい。紀元前後には「海の道」に
よる東西を結ぶ交易が始まると、東南アジアはそ の中継地となると同時に特産物の輸出をするよう になった。その交易を通じた外部文明(インド・ 中国)との接触から国家形成の動きが始まったこ とをタペストリー p.11を参照させて説明する。 同時に交易ルート沿いの沿岸部に港市国家が成 立し、扶南や林邑などが港市国家群の盟主として 繁栄したことも説明。東南アジアでは交易を基盤 とした緩やかで流動的な国家が多数並び立つとい う状況がしばらく続くことなど、東南アジアの独 特な国家形成についても言及したい。そして「国 家」といえば現代の領土を持った国民国家のイメ ージを持ってしまうが、それはずっと新しい概念 であって、近代以前の世界では国境も民族につい てもより曖昧であったり緩やかな形態がほとんど であったことの説明もしておく。
3. 東南アジア諸国の興亡
—東南アジアの「インド化」と独自文化の形成
4〜5世紀に始まる東南アジアの「インド化」に ついてはタペストリー p.13の地図を用いて説明す る。ここでは「インド化」されつつも、東南アジ ア地域としての独自性を持ったことに注目させた い。具体的にはインドや中国という文明圏の周辺 としてその影響下にあるだけではない、というこ
とだ。インドの古典文明については既習であるこ とを確認のうえ、インドの成熟したグプタ朝期の 文化であるヒンドゥー教・仏教・サンスクリット 語が取り入れられたことを理解させる。
タペストリー p.14〜17の「7世紀ころの世界」 および「8〜9世紀ころの世界」では、マラッカ 海峡をぬける交易ルート海域を支配した諸島部の スマトラ島南部の港市国家連合のシュリーヴィジ ャヤ、ジャワ島のシャイレーンドラ朝の発展を説 明。これらの国家では、インド化が進展し大乗仏 教が栄えたこと、やがてジャワ中部では大仏教遺 跡・ボロブドゥールができたことを説明する。そ してタペストリー p.17の地図上で、ジャワ島のシ ャイレーンドラ朝がインドシナ半島東部へ進出し、 チャンパーや北部ベトナムのインド化を進展させ たことを確認する。
ここで注目させたいのは、この頃伝わった仏教 がおもに「大乗仏教」であることだ。「南伝仏教」 のことばから、あるいは現代のタイやミャンマー (ビルマ)の仏教信仰から、東南アジアに伝わっ た仏教は上座仏教のみである、という先入観を入 れないようにしたい。
タペストリー p.19・21・23の「9〜10世紀ころ の世界」および「11世紀ころの世界」「12世紀ころ の世界」の地図を使い、ますます海上交易が発達
し、主要ルート上のチャンパー(インド化した林 邑の後身)やシュリーヴィジャヤ(三仏斉)など の繁栄を伝える。その一方で、農業を主体として 国力を高め、沿岸沿いや内陸ルートの交易を支配 する王朝の出現を語る。ここでは東南アジア史上 で本格的に領土を持った強大な国家が出現し、中 国文明やインド文化を消化し「独自の民族文化」を 持った国家となったことを強調したい。北ベトナ ムの李朝〜陳朝〜黎朝の大越国、アンコール朝の カンボジア(真臘)、ビルマのパガン朝といった 王朝である。このあたりはタペストリー p.21・23 の地図を使えば、歴史の流れ・概要がとてもわか りやすく説明できる。
そして12〜13世紀には、強大な王権を誇示すべ くアンコール朝の王がヒンドゥーの神々をまとい、 その富と権力の象徴であり王を祀る施設としての アンコール=ワット、都城としてのアンコール=ト ムをはじめとする建造物群を建てたこと、大陸部 の交易ネットワークのほとんどを抑え繁栄したこ とを話せばこの時代の大陸部の歴史がよくわかる。
【参考文献】
『歴史世界としての東南アジア』(桃木至朗著 世界史リブレット12 山川出版社 1996年) 『世界の歴史』13東南アジアの伝統と発展
(石澤良昭・生田滋著 中央公論社 1998年)
「タペストリー 四訂版」p.17
は じ め に
北伐から南京政府の成立までの時期には、中国 の「国民国家」建設の原点があるが、生徒の共感 を引き出すことが難しい時期でもある。ここでは 宋家の三姉妹という中国のトップ・レディーを取 り上げ、無味乾燥になりがちなこの時期の政治史 を生徒に身近に感じられるような授業案を考えた。
導 入
Q 教科書p.160の②の絵は、中国で1919年に起 こった五・四運動を描いたものだ。五・四運動が どのような運動だったのか、絵から分かることを 自由に述べなさい。
この絵は北京の学生たちの様子を描いたものだ が、彼らが「廃除二十一條」というスローガンを 掲げていることから、これが、日本の二十一か条 要求を示すという答えを引き出したい。中学の社 会科の歴史教科書を提示して思い出させるのもよ い。山東省のドイツ権益等を求める二十一か条要 求が、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で承 認されたことへの抗議であるとことを確認する。
次に、教科書p.134②の辛亥革命の武昌の蜂起の レリーフを一瞥しながら、辛亥革命は、一部の革 命派の男性兵士を中心に闘われたが、五・四運動 では、男女の学生が街頭に出て抗議行動をすると いう新しい闘いのスタイルが生まれたことを指摘 する。さらに上海などでは、商人や労働者も抗議 行動に立ち上がり、国民各層の政治的覚醒が進ん だことも指摘したい。辛亥革命で中華民国が成立 し「国民国家」の器は形成されたが、そこに欠如 していた国民のナショナル・アイデンティティが 反日運動である五・四運動を通じて、しだいに成 熟していくことを気づかせる。
第1次国共合作
Q 五・四運動で中国の国民が政治的に目覚めて いく中で、ソ連の影響で中国共産党が誕生し孫文 の政党も大衆的な中国国民党に改組され 1924年 に両党が連合する第1次国共合作が成立した。次 の史料は中国共産党の陳独秀が第1次国共合作を 行う理由を党の宣伝誌『嚮導』に書いたものだが、 この史料を読み、彼らが国共合作を必要とした理 由を述べなさい。
【資料】「 軍閥を倒すには、国民革命の中心地に 各省各団体が集合して国民代表大会を開くべきだ が、それには統一体としての革命党が必要である こと、すべての革命勢力が民主革命的な中国国民 党の周りに結集して、それを強力な革命政党たら しめる必要がある。」(栃木利夫・坂野 良吉『中 国国民革命』)
この発問の前に、中国共産党が労働者、農民の 支持を得た勢力であることと、中国国民党が資本 家の支持を得た勢力であることに簡単にふれ(『最 新世界史図説タペストリー 四訂版』p.224⑤参
世界史 A 授業研究
宋家の三姉妹と中華民国
香川県立高松高等学校 真 鍋 篤 行
照)第二次世界大戦後に前者が勝利して中華人民 共和国を建国、後者は敗北して台湾に政権を建て たことを指摘しておきたい。
国共両党は支持勢力を異にしながら、目の前の 軍閥を打倒して国家統合を果たすためには、国民 党を中心に革命勢力を結集する必要があると考え ていたことをここで説明したい。
Q 次の略年表は孫文の革命運動を支援した上 海の資本家の宋家と孫文との関係を示している。 第1次国共合作までの孫文と宋家の人々の関係に ついて具体的に述べなさい。
《略年表》
・1892 宋嘉樹(父)と孫文の親交が始まる ・1903 宋靄齢(長女)、中国女性初の米国留学 ・1908 宋慶齢(次女)、宋美齢(三女)、米国留
学に出発 ・1911 辛亥革命勃発
・1912 宋靄齢、孫文の英文秘書となる ・1913 袁世凱の専制に対する国民党の蜂起が失敗
宋一家、孫文とともに日本に亡命 ・1914 宋靄齢、財閥の孔祥煕と結婚 ・1915 宋慶齢、孫文と結婚
・1919 五・四運動
・1924 中国国民党第1次全国代表大会
第1次国共合作成立 宋慶齢、大会に参加 宋家と孫文の関係を考える際には、教科書p.161 ③の政治の流れの図と関連づけると、整理が容易
になる。略年表には、宋家については宋嘉樹とそ の娘である靄齢、慶齢、美齢の三姉妹の動向を記 した。嘉樹は長女を中国女性で初めて米国に留学 させるなど進取の気性に富んでいたという。また 男子もおり、長男の子文をハーバード大学に留学 させ、次男、三男も米国に留学させた。嘉樹はメ ソディスト派キリスト教徒で聖書の出版などを主 とする印刷会社を経営していた。三姉妹は英語を 自由に使いこなし、姉の靄
齢は孫文の英文秘書をし、 後に孔子第75代目の子孫と いう財閥孔祥煕と結婚する。 次女の慶齢は、米国から日 本に立ち寄って、孫文と結 婚する。孫文には妻と、慶 齢より年上の息子がおり、
周囲の反対を押し切った結婚であった。慶齢は孫 文を救国の英雄として尊敬して、孫文は慶齢をク リスチャンネームのロザモンドの名で呼び、たい へん愛したという。慶齢は第1次国共合作を成立 させた中国国民党大会に参加するなど孫文と絶え ず行動をともにした。
上海クーデタ〜南京政府成立
Q 孫文は革命の途中で病気でなくなり、蒋介石 が国民革命軍総司令官となり、軍閥の打倒と中国 の統一を目ざす北伐を開始するが、1927年4月に 突然、上海クーデタを起こし、多数の共産党員を 殺害、中国国民党と中国共産党は分裂することに なった。このクーデタには、上海の資本家の支持 があったといわれているが、彼らが同盟者であっ た中国共産党を敵視するようになった理由は何だ ったのか。次のグラフをもとに考えなさい。
上海では1924年以降、ストライキ件数が激増し てきていることに気づかせたい。1925年の五・三 〇事件の反帝国主義運動を経て、1926、27年には 上海市民が武装蜂起で市政を奪取する事態となっ た。上海の資本家は、ストライキの打撃と労働運 動の過激化への恐れから中国共産党への不信感を 「明解世界史A 最新版」p.161
孫文と慶齢 「明解世界史A
募らせた。これに北伐の過程で武漢に移転した国 民政府と蒋介石の確執など様々な要因が絡んでク ーデタがおこったのである。これまで、上海クー デタは蒋介石の革命に対する裏切り行為として断 罪されてきた。事実、謀略であることに違いない のだが、国共の階級利害の調整の失敗がクーデタ を引き起こす最大の要因になったことを指摘した い。
Q 上海クーデタから南京政府成立までの蒋介石 と宋家の関係を、次の略年表を使って説明しなさ い。
《略年表》 ・1925 孫文死亡
・1926 国民革命軍総司令に蒋介石就任、北伐開始 ・1927 宋慶齢、武漢国民政府の要職につく
上海クーデタ
宋慶齢、蒋介石のクーデタを非難 宋慶齢、国共合作の堅持を説き、ソ連に出国 宋美齢、蒋介石と結婚
・1928 蒋介石、南京政府主席に就任 三女の宋美齢はクーデタ
後、蒋介石と結婚する。宋 靄齢は、この結婚を祝福し、 夫の孔祥煕も宋子文も後に 南京政府の要職に就き、蒋 介石と深く結びついた。こ うして、宋家、孔家は蒋介
石を支えた財閥である四大家族の一角を占めるよ うになった。一方、宋慶齢は、孫文の遺志を堅持 し、クーデタを起こした蒋介石と袂を分かってソ
連のモスクワに出国した。妹美齢が蒋介石と結婚 したことをモスクワで聞いたときは、しばらく立 ち直れないほど精神的打撃を受けたという。中国 に「国民国家」を建設することを目ざして進めら れていた北伐は、上海クーデタという不幸な形で 分裂し、革命に深く関わった宋家の人々の絆にも 深い溝を作り出した。
その後の三姉妹の動向については、1931年の満 州事変で日本の侵略が本格化、1937年に日中の全 面戦争が始まると、第2次国共合作が成立し、三 姉妹は再び協力関係をもつが、その後、1945年の 国共内戦をへて、慶齢は中華人民共和国の要職に、 靄齢は一家をあげてアメリカに移住、美齢は蒋介 石とともに台湾に逃れた。
終 わ り に
「一人は権力を愛し、一人は富を愛し、一人は 中国を愛した」。これは1930年代の多くの中国人が、 美齢、靄齢、慶齢の三姉妹を評した言葉である。 これは三姉妹の個性のある一面をうまくとらえて おり、映画『宋家の三姉妹』では、3人の人とな りとその後の人生を暗示する言葉として、冒頭で 語られている。しかし、一方で、この三姉妹の人 生の軌跡は、同じ「国民国家」という理想を掲げな がら、上海クーデタという惨事で異なった道を歩 まざるを得なくなった中国の革命の悲劇を象徴し ているともいえる。
「国民国家」は、少数民族の抑圧など負の側面を 伴うが、アジアの諸民族が独立を獲得するために 選ばざるをえない数少ない有効なモデルであった。 日本の侵略を前に闘われたこの矛盾に満ちた中国 の革命の過程を、宋家の三姉妹の人生の軌跡と重 ね合わせることで、生徒にとり、より身近で共感 がもてるものとすることができるのではないか。
【おもな参考文献】
イスラエル・エプシュタイン『宋慶齢』(サイマル出版) 中国女性史研究会編『中国女性解放の先駆者たち』
(日中出版) 栃木利夫・坂野良一『中国国民革命』(法政大学出版会) 件
1918
(出典:古山隆志「上海市社会局ストライキ統計の紹介と業種別集計」)
250 200 150
100 50 0
上海のストライキ件数
20 22 24 26 28 30 32 34 36年
はじめに
大阪大学では、2003年度から高校の夏休み期間 中に全国の高校の世界史・日本史教員と大学の歴 史研究者が集まり、「全国高等学校歴史教育研究 会」を開催してきた(本誌2005年4月号に、第1・ 2回の紹介が掲載されている)。本年度も2006年 8月1日〜3日の3日間、大阪大学を会場に第4 回研究会を開催し、37都道府県97名の高校教員の ほか、大学・教科書出版会社・予備校・報道機関 の関係者など合わせて約130名が参加した。 筆者は2004年度から事務局長を務め、企画・運 営を担当してきた。ここでは、本研究会開催の目 的やその成果と課題等について、参加した高校教 員側から寄せられた意見を踏まえて報告したい。
1. 開催の趣旨
本研究会は、大阪大学大学院文学研究科の文部 科学省21世紀COEプログラム「インターフェイ スの人文学」の取り組みの一環として発足した。 大学側が本研究会を企画した主なねらいは、以 下の諸点にある。
1 )用語や年代の羅列・暗記中心の現行の高校歴 史教育を刷新すること。
2 ) 従来の一国史観・大国中心史観を打破し、「考 え方や背景がわかる」「像を結ぶ」歴史教育を 高校において行うこと。
3 )1)2)の必要性を、大学で歴史学を専攻す る教員が最新の研究をふまえつつ、歴史学の全 体を見すえた巨視的な講演を通じて説くこと。 4 )歴史学系大学教員は、教育技術の専門家では
ない。1)2)のような歴史教育を高校で実現 するにはどうすべきか、大学側・高校側双方が 質疑・討論を通じて検討すること。
上記のねらいを達成すべく、主催者側は本研究 会を、学術講演会でもなく、また教育技術研究会 でもない、中間的な「歴史研究の専門家」と「歴 史教育の現場の専門家」が対話をする場として位 置づけた。
「『阪大史学』の挑戦」をテーマとした今回の研 究会では、中央ユーラシア史・東南アジア史・近 現代世界システム論・日本中世史を専門とする大 阪大学の4名の教授が、旧来の一国史観・大国中 心史観・時代区分論を打破し、日本史・東洋史・ 西洋史の壁を乗り越えた新しい枠組みの歴史像を、 講義形式で紹介した。次に、高校教員1名が、第 1回研究会で得られた知見に基づく授業実践例を 報告した。講演に対する質問があれば、主催者側 が配布した「質問票」に記入、提出してもらい、 各講師が翌朝までに目を通したうえ、書面・口頭
大学教員と高校教員の対話
〜大阪大学「全国高等学校歴史教育研究会」の活動〜
大阪大学特任研究員 佐 藤 貴 保
で回答した。現在も電子メールでの質問を受け付 けている。講演の概要ならびに質問に対する回答 については、大阪大学文学部東洋史学研究室ホー ムページ(http://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/ main/)を参照されたい。
2. 高校教員側の参加の目的
研究会終了後に高校教員全員が提出したレポー トによると、高校教員はおもに以下のような目的 で本研究会に参加していた。
1)最新の研究情報を収集する機会が少ない。 2 )情報は入手できるが、その信憑性を判断しに
くい。専門家の判断を仰ぎたい。
3 )生徒の関心を上げるための「ネタ」を提供し てほしい。
4 )歴史をなぜ高校で学ばねばならないか、大学 教員の意見を聞きたい。
1)は、各地に高校教員の研究会はあるものの、 古い学説に基づく教育技術の研究が主体であるこ と、そもそも教員同士の研究活動が不活発な地域 もあること、などの実情を反映している。 2)は、インターネット等の情報が氾濫してい るが、多忙を極める校務の合間を縫って教員個人 で情報を収集し、その真偽を判断することの困難 さが窺い知れる。
3)からは、暗記中心型の世界史が受験生に不 人気であるために生徒の「歴史離れ」が進行して いる現状と、その打開に苦悩する教員の姿が窺え る。参加教員に対して別に行ったアンケートによ ると、それでも生徒は歴史の現代との関わり合い や、身の周りにあるものの歴史に、比較的関心を 持っているという。
4)は、大学で歴史学を専攻しなかった教員に 多く見られる目的意識である。用語や年代を教え 込ませることが中心の授業を進めつつも、歴史を 学ぶ意義がどこにあるのか、生徒だけでなく教員 自身も疑問を感じているのである。
3. 研究会に対する高校教員からの反響
以上のような目的意識で本研究会に臨んだ教員 から感想を求めたところ、「歴史の見方が変わっ た」「教える際の姿勢が変わった」「学界ではすで に誤りとされていることが、教科書や入試問題で はいまだに放置されていることに驚いた」という 声が多く寄せられた。総じて有意義な研究会であ った、また参加したい、との評価を得られた。 しかしながら、以下のような理由から、講演内 容を高校の教育現場で活用することは難しい、と の意見が多く寄せられている。
1 )内容が高度すぎる。生徒に分かりやすく伝え る工夫を高校教員が検討する必要がある。 2 )「教科書が間違っている」「教科書に書いてあ
ることと違う見方もある」と教えることが、発 達途上の生徒に良い影響を与えるとは限らない。 教科書の記述を変える必要がある。
3 )大学入試の多くが旧態依然とした暗記重視の 出題をし続けている以上、そこから脱却した授 業を行うことは難しい。
中学・高校・大学が縦割りになり、相互の連携 が図られていない歴史教育および大学入試の構造
的問題が障害となっているようである。すなわち、 これらの意見は、歴史教育の刷新には、高校だけ でなく中学・大学の教育のあり方を見直すことが 必要であることを示唆している。
4. 高校教員が望む大学との連携のあり方
大学の歴史研究と高校の歴史教育との連携には 今後どのような可能性があるのか。高校教員は何 を求めているのか。それを探るため、研究会最終 日に全参加者を4班に分けてグループ討論会を実 施した。
圧倒的多数を占める意見は「本研究会のような 企画を今後も継続すること」であった。書籍やイ ンターネット、電子メールよりも、顔の見える形 で講演を聴き、質疑応答をその場で丁寧に行うこ とが、最新の研究動向を把握、理解するのに最も 有効であるという。
そのほかにも、次のような提案がなされた。
1 )新しい学説・歴史像を積極的に取り入れた教 科書・一般向け概説書の編纂(教科書作成に際 しては、用語の精選・統一を図る必要あり)。 2)教案検討会の実施。
3 )中学・高校・大学全体の教育を視野に入れた カリキュラムの策定。
4 )インターネットを用いた学説・文献・資料情 報の提供。大学図書館の開放。
5 )暗記型の大学入試問題の見直し。歴史科目の 受験義務化。採点基準の公開。
6)高校教員研修の場としての大学授業の開放。
大学教員が高校生向けに行う出前講義が中心の 従来のいわゆる「高大連携」は、大学・高校とも に負担が大きく、生徒の学問への好奇心を掻き立 てることには必ずしもつながっていない、など教 育効果を疑問視する意見が多かった。高校教育の プロは高校教員である。そこへ高校教育の素人で ある大学教員が直接介入しても、必ずしも高校教 育の活性化にはつながってないのである。
新しい学説を授業や教科書に反映させるならば、 大学側がすべきことは大学入試の見直しである。 また、高校側は「授業の教案作成と授業実施後の 検証」という作業を反復継続的に進め、その活動 を大学側が情報面で支援する。縦割りになってい る中学・高校・大学で、子どもの発達段階に応じ てどのような教育を行うべきかを各種学校教員の 協働で検討していくことこそ、高校教員の望む「高 大連携」であるとの意見が大勢を占めた。
おわりに
過去4回の研究会に、43都道府県260名強(複 数回参加者を除く)の高校教員が参加した。応募 者数は年々増加し、今回は百数十名の応募者に対 して参加の見合わせをお願いする事態となった。 本研究会への期待が高まっているともいえる。本 研究会の成功を受け、高校教員どうしが勉強会を 新たに立ち上げたり、全国各地の大学で同種の研 究会が発足したりしている。
COEプログラムは2006年度で終了するが、研 究会の活動を中断することは、全国の高校教員が 寄せる期待に背くことになろう。より多くの高校 教員と対話ができるよう、こうした機会を増やす ことが肝要である。
海路、天津にむかう
私は、1994年の8月末、神戸から船に乗って天 津に向かった。天津の南開大学に留学するためで ある。天津は、それまでにも訪ねたことがあった が、その何回かのルートは北京まで飛行機で行っ て陸路で行くというものだった。
留学にあたって、わざわざ海路を使った大きな 動機は、港町としての天津をしっかり感じとりた いという気持ちだった(くわえて、船のほうが安 いという現実的な理由もあった)。神戸港もはじ めて見たのだが、半年後の大震災のことは、むろ ん知る由もなかった。
神戸を出発した船は、瀬戸内を通って九州の西 へ回り、広い海原を経て進んでいった。残念なが ら夜の時間帯になったため、渤海湾に入ったとこ ろで海の色が変化したかどうか、わからなかった。 船は、塘沽地区の新しい港に着いた。ここから、 市内までは少し距離がある。
残念ながら、実はこれは船で天津にたどりつく 歴史的な接近法とは少し異なる。天津の市街地は、 渤海湾にそそぐ海河という川ぞいに位置する。20 世紀はじめまでは、船は海河を遡行して天津の街 まで行けたのだが、現在では、港湾機能は、海ぞ いの新港のほうに移っているからである。
水のまち天津
天津は、水運の拠点として発展してきた。江南 地域から現物の税として集められた米は、19世紀 前半までは、大運河によって北に運ばれ、最終的 には北京に近い通州に至った。渤海湾に注ぐ海河 と大運河の合わさる地点に天津がある。
天津は、明代永楽年間に城壁が作られてから、 ほぼ600年という歴史を誇る。清代には、福建や 台湾からも海をわたって船が集まり、ますます商 業的に発展した。天津の城は、地図上そろばんに たとえられる長方形をしていたが、城壁の北側と 東側に河道があり、その近辺が繁華になっていた。 天津の海洋的な性格を示すのが、河畔から城壁 の東側に至る間に設けられた天后宮といえる。天 后とは、福建に由来する女神(媽祖)が王朝から もらった称号である。航海の安全を祈願する神だ が、その祭りは天津では最大の規模を誇っていた。 今日、天后宮は天津民俗博物館という名前にな ってはいるが、依然として地元の人々にとって大 切な信仰の場であり、また媽祖信仰の盛んな台湾 からも寄附をうけて修築されているようである。 今でも、天津駅に降り立つとすぐ海河のゆった りした流れが目に入ってくる。河は冬の寒さが厳 しいと凍りつき、勇敢な人々が(たぶん禁令をお かして)スケートをしていることもある。
天津の開港
1860年、第二次アヘン戦争ののちの北京条約に もとづいて、天津は開港された。つまり、イギリ スをはじめとする欧米諸国の領事が駐在し、外国 貿易が始まったのである。
このような外国人のためにとくに確保された土 地が租界である。租界は、ある範囲の土地を恒久 的に賃借するという形式で設置された。天津の場 合、城の東南方向の川沿いの土地が、これにあてら れ、イギリス租界についてはゴードン将軍がその 範囲を実地確定する責任者となった。ゴードンは、 常勝軍を率いて
太平天国と戦い、 のちにスーダン でマフディー運 動を鎮圧しよう として戦死した ことで知られて いる。天津では 租界の設置をお
中国史の奥の細道
東京大学文学部助教授 吉澤 誠一郎
河にはぐくまれた天津
租界区分概念図(20世紀初頭) ①オーストリア=ハンガリー
● ①
● ②
● ③ ●④
● ⑤
●
⑥ ●⑦
●
こなったことから、後にイギリス租界が立派な役 所を建てたとき、彼を記念してゴードン・ホール と名づけたのである。
租界には、衛生や治安など実質的な行政権が認 められ、道路も整備された。こうして欧米人が快 適に居住できる空間となっただけでなく、金融・ 貿易などの経済活動の中心として租界は発展して いくことになる。
他方で、旧来の天津城はそのままであり、19世 紀後半の天津は、古い地区と新しい地区があまり 関係なく併存する二重都市となっていた。
義和団戦争の衝撃
1900年春、天津は異常な雰囲気に包まれた。不 死身の義和拳を使い外国人を打倒しようとする 人々が、地方官を批判して一時的に城内を実質支 配し、さらに租界の攻撃を始めたからである。 そこで多国籍軍が到来し激しい戦闘となった。 ついに天津城は陥落して八か国連合軍の軍政下に おかれ、義和団は厳しく鎮圧された。
これより少し前から租界の拡張がはじまってい たが、義和団戦争後、ついに天津には九か国の租 界が設置されるに至った(ただしアメリカ租界は イギリス租界に合併された)。天津の城壁は撤去 されて大通りとなっただけでなく、日本租界が天 津城に比較的近いところに設置されたため、新旧 の市街地がつながっていった。1906年、市内電車 が開業し、城壁のあとの大通りをぐるりと回る路 線やそれと租界のビジネス街をつなぐ路線が、ま すます都市としての一体化を進めたのである。
これよりさき、1902年には、租界の外の地区の 軍政は終了して、清朝側に行政権が返還された。 こうして天津の支配を開始した総督の袁世凱は、 意欲的な近代改革を開始した。
租界のほうも、ますます発展し、多くの中国人 もここに住んだ。辛亥革命で退位させられた元皇 帝の溥儀はじめ、民国時期の軍人・政治家の多く は天津租界に広壮な屋敷をもっていた。
旧城の風情、租界の繁華
私が留学していた1995年ごろまで、天津の旧城 地区には、20世紀前半に建てられた古い民家がま だ残っていた。華北に多く見られる胡同という小 路が縦横にはしり、灰色煉瓦の建物が並んでいた。 老朽化していたが、それなりの風情があるとも感 じられた。この10年で、中国の開発ラッシュはめ ざましく、古い民家はほぼ全面的に取り壊され、 新しい建物が次々に建てられている。むろん、こ のような一種の地上げに反発する動きもあるよう だが、他方で生活の便利さを求める地元の要請も 強いのだろうと思う。
もとの租界地区には、いまでも各種各様の建築 がよく残っている。私の見るところでは、たとえ ば天津イタリア租界の洋風住宅がほんとうにイタ リア風なのか、判断できない。いずれにしても、 とにかくたくさんの立派なオフィスビルや高級住 宅がつくられた。
租界は第二次世界大戦中にすべて廃止されたが、 その建物は別の用途に転用されつつも今日まで使 われているものが多い。新中国の政府や銀行にな ったものもあれば、市民の住宅として分配された ものもある。また、かつての壮麗な屋敷を、改装 して高級レストランに使うのが最近の流行である。 租界は、外国の帝国主義の表現であるという見方 が公式にあるとはいえ、その建築をも巧みに商売 に利用しつつ保存するところに、歴史と現在をつ なぐ才気と愛着を感じることもできるだろう。 天津をはぐくんだ海河でも、護岸の整備が進み、 ウォーター・フロントが人気を集めている。天津 は、やはり河とともにある都市なのである。 旧ドイツ租界の建築 ドイツ租界の行政権は、第一次世界大戦後は中国に返され