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タゴール、ポスト・タゴール、エリオット: 東京外国語大学学術成果コレクション

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(1)

タゴール、ポスト・タゴール、エリオット

Tagore, Post Tagore and Eliot

丹羽 京子

NIWA Kyoko

東京外国語大学大学院総合国際学研究院

Institute of Global Studies, Tokyo University of Foreign Studies

はじめに

1. タゴールとポスト・タゴールの詩人たち

2. エリオットとタゴール

3. エリオットとポスト・タゴールの詩人たち

4. ふたつのJourney of the Magi

おわりに

キーワード:ベンガル現代詩、ポスト・タゴール、タゴール、エリオット

Keywords: Modern Bengali Poetry, Post Tagore, Tagore, Eliot

【要旨】

1930年代はベンガル詩壇にとってひとつのターニングポイントであると言えるが、この時

期、ともに活躍中であったタゴールと、ビシュヌ・デなどのそのあとの世代の詩人たちの分水

境 を 探 る こ と が 本 稿 の 目 的 で あ る。 そ の 際、 そ の 違 い を 探 る た め の ひ と つ の 鍵 と し てT.S.エ リオットの受容に関して考察する。

1930年代、ベンガル詩壇においては、詩のテーマやスタイルに関して様々な論争が繰り広

げられていた。またこの時期、特に若手詩人の間でエリオットが好意的に受け入れられたが、

タゴールはそれに否定的な論評を発表した。それを契機として、エリオットのJourney of the

Magiのふたつの翻訳――ひとつはタゴール訳、もうひとつがビシュヌ・デ訳――があらわれ

ることとなるのだが、本稿ではこのふたつの翻訳を比較し、エリオットの受容に関するこの両

者の違いを明らかにすると同時に、世代間の意識の違いについても考察を加える。

1930’s is said to be a kind of turning point of modern Bengali poetr y. In 1930’s, both Rabindranath Tagore and the younger generation such as Bishnu Dey were active and the author is going to explore the boundary of these poets. The reception of T. S. Eliot will be one of the keys of this consideration.

本 稿の著 作 権は著者が保 持し、クリエイティブ・コモンズ表示4.0国際ライセンス(CC-BY)下に提 供します。

(2)

In 1930’s, there were various controversies in Bengali poetic world regarding poetical style and theme and this is also the time when T. S. Eliot was introduced and widely accepted among younger poets. Rabindranath Tagore once criticized Eliot and “modern” poetry, but consequently, there appeared two different translations of Eliot’s “Journey of the Magi” -- one by Rabindranath Tagore and one by Bishnu Dey. The author is going to compare those two translations in order to reveal the dif ference of poetr y making of the two poets as well as the dif ference of two generations.

はじめに

ベンガル詩壇においては、1930年代がひとつの分水境となって世代交代が進んでいったと

考 え る こ と が で き る。30年 代、 ノ ー ベ ル 賞 詩 人 で あ る タ ゴ ー ル(Rabindranath Thakur,

1861-1941)はその最後となる10年間を過ごしていたが、この偉大な詩人は人生終盤のこの時期に

あたり、再び瞠目すべき創作意欲の高まりを見せていた1)。同時に30年代は次世代の詩人た

ちが次々と台頭してきた時期でもあり、この頃、いわゆる「ポスト・タゴールの五人の詩人」

が登場している。「ポスト・タゴールの五人の詩人」とはジボナノンド・ダーシュ(Jibanananda

Das, 1899‐1954)、 オ ミ ヨ・ チ ョ ッ ク ロ ボ ル テ ィ(Amiya Chakraborty, 1901‐86)、 シ ュ デ ィ

ン ド ロ ナ ト・ ド ッ ト(Sudhindranath Dutta, 1901‐60)、 ブ ッ ド デ ブ・ ボ シ ュ(Buddhadeva

Bose, 1908‐74)、ビシュヌ・デ(Bishnu Dey, 1909‐82)の五人を指し、この五人はいずれも

30年代にデビューしたことから「30年代の詩人」とも呼ばれている。

この世代の詩人たちは、単にタゴールより若いというだけでなく、自らを「タゴール後」の

「現代」を担うものとして位置づけており、そのことからも30年代は文学史上のひとつのター

ニングポイントとなっていると言えよう2)。さらに30年代は、英詩人T.S.エリオットがベン ガル詩壇に広く知られるようになった時期でもあるのだが、本稿は、そのエリオットの受容を

起点としてタゴールとポスト・タゴールの境界を探るものである。その文脈において、本稿で

はタゴールとビシュヌ・デによるエリオットの詩編の翻訳の分析も行う。

1. タゴールとポスト・タゴールの詩人たち

タゴールとポスト・タゴールの詩人たちの関係は単純ではない。ノーベル賞受賞によっての

みならず、その後のあくなき文学的探求によってタゴールの地位は揺るぎないものとなってい

たが、それに続く世代にとってタゴールは、敬愛すべき偉大な詩人であると同時に、乗り越え

るべき大いなる壁ともなって立ちはだかっていた3)。30年代にはさまざまなかたちの「タゴー

(3)

集約されよう。ひとつはこの時期盛んになった左翼運動とも関連して、タゴールが「ブルジョ

ア的」であるという批判である。タゴールが、その出自においても思想においても共産主義運動、

も し く は い わ ゆ る「進 歩 主 義 」と は 一 線 を 画 し て い た こ と は 容 易 に 想 像 で き よ う。 た だ し タ

ゴールは単なる保守とも異なり、いち早くソビエトを訪問し、その記録を好意的に発表しても

いる4)。とはいえ、散文作品を含むタゴールの創作が、階級闘争とは無縁であったことは間違

いなく、そうした傾向を批判する向きは少なくなかったのだが、本稿ではこの点についてはこ

れ以上踏み込まない。両者のもうひとつの対立である本稿の中心的課題は、詩のテーマや表現

を巡る論争である。タゴール後の世代にとってタゴール詩は普遍性に過ぎ、「リアリティーの

厚みがない、人生の燃えるような苦悩のしるしがない、そしてその人生観において人間の不可

侵の肉体というものを不当なほどに無視している5)」とされたが、この時期には思想上の問題

とは別に、タゴールと若い詩人たちの間で詩になり得るテーマや詩作のスタイルについて注目

すべき論争が繰り広げられている。

上記の「五人の詩人たち」は基本的にタゴールとはそれほど対立的にはならず、しかしそれ

ぞれのやり方でタゴールとは異なる個性を発揮していったと言うことができるだろう。ただし

そのありようは各々の詩風が異なるのと同様、育った環境や教養においても相互に異なってい

た。五人のなかで、タゴール後最大の抒情詩人と言われたジボナノンド・ダーシュは、ある種

タゴールと同じくベンガルの伝統である抒情性を前面に出した詩人でもあるが、ただ一人、初

めからタゴールの引力圏外にいたと言ってもよいだろう。タゴールとの間に交わされた書簡が

残っているものの、ほかの四人と異なり、ジボナノンドはおそらくタゴールと直接会ってはい

ない。ほかの詩人たちが、タゴールに近しくあって多くを得る一方で、反発を感じたり、ある

いはややもすればタゴールの方から距離を置かれたりとなんらかの相克を抱えていたのに対

し、ジボナノンドは一貫してタゴールに対してある一定の距離を保ち、自らの詩世界を構築し

ていったのである。

五人のなかでタゴールが最も胸襟を開いていたのは、オミヨ・チョックロボルティであろう。

オミヨ・チョックロボルティは、タゴールがその後半生をかけて発展に尽くしたビッショ・バ

ロティがちょうど大学としての体裁を整えつつあったころそこに学び、そのまま同大学の教員

を務めるなど、常にタゴールの傍にいた人物である。彼は24年から33年までタゴールの個人 秘書も務め、その間外遊にも同行している。その後はいったんインドを離れ、オックスフォー

ドで研鑽を積み、カルカッタ大学英文科教授を経てタゴール没後の48年からはアメリカで教

鞭を取っているが、彼はその専門性から欧米、特に同時代の英文学に通じ、そうした情報を得

るにあたってタゴールも彼を頼りにしていたことがうかがえる。タゴールはオミヨ・チョック

(4)

り、最も遠慮のない間柄であったと言えよう6)。ただし、30年代後半、オミヨ・チョックロボ ルティがしばしばエリオットの重要性を説いていたにも関わらず、タゴールがそれに応えるこ

とはなかった7)。

オミヨ・チョックロボルティに次いでタゴールと個人的に親しかったのはシュディンドロナ

ト・ドットである。シュディンドロナトは、もともと父のヒレンドロナトがタゴールと旧知の

仲であった関係で幼少時からタゴールの知己を得、特に1927年から8年にかけては定期的に

ジョラシャンコのタゴール家(コルカタ市内のタゴール家の邸宅)を訪ねている。シュディン

ドロナトはサンスクリット語と英語にたけ、ドイツ語やフランス語にも通じていたことから、

西洋詩の現状に詳しく、その流れから、このころシュディンドロナトは現代詩を巡ってタゴー

ルとしばしば論争を繰り広げたようである。特に有名なエピソードは詩のテーマを巡るもので、

詩になり得るテーマとそうでないテーマがあると主張するタゴールに対し、シュディンドロナ

トは現代詩ではどんなものでも詩のテーマになり得ると主張したのである。その際、タゴール

がそれなら目の前の鶏も詩にできるかと言ったのに対し、シュディンドロナトは「鶏(Kukkut)」 という詩を書き、それを読んだタゴールが「君の勝ちだ」と言ったと伝えられる8)。シュディン

ドロナトの第一詩集『理想の女性(Tambi, 1930)』はタゴールに捧げられたが、これらの詩の草 稿にはタゴールの修正の跡が見られる。事実この第一詩集は多分にロマン派的な趣を持ってお

り、シュディンドロナトが「現代詩人」としての頭角を現すのは第二詩集以降となる。その第

二詩集『オーケストラ(Orchestra,1935)』の草稿にもタゴールの修正の跡が残っているが、こ の時期になるとシュディンドロナトもほとんどそれらを採用しておらず、第三詩集以降からは

ほぼタゴールが手を入れることはなくなっている。シュディンドロナトは1929年のタゴール

の外遊に同行し、日本とカナダ、そしてアメリカを訪れている。そのあとはタゴールら一行と

別れ、ひとりでヨーロッパを回って年末に帰国しているが、これが初めての外遊であった。こ

の外遊ののち、シュディンドロナトは自らの雑誌を持つことを考えるようになり、31年から「ポ リチョエ(Paricay, 紹介)」を発行するようになるが、この雑誌についてはのちにあらためて触

れる。ただし「ポリチョエ」発行後は徐々にタゴールとの関係は距離のあるものとなっていっ

たようである。以後シュディンドロナトは順調に詩作を続け、インド独立後はしばしば外遊し、

また大学の教壇にも立っている。

残りの二人、ブッドデブ・ボシュとビシュヌ・デのタゴールとの関係はやや複雑である。彼

らは前述の二人のようにタゴールと親密な関係にあったわけではないが、文学上のやり取りが

あり、しばしば詩作についてなど意見を交わしている。ブッドデブは一時期「反タゴール」のレッ

テルを貼られたこともあったが、基本的にタゴールに対して敬意を持って接し、特にタゴール

(5)

に意見を仰いでおり、特にエリオットを巡るやり取りが知られているが、それについては後に

詳しく触れる。タゴールの側からはこの二人に対してややもすれば距離を置くような文言が見

られ、特にビシュヌの初期の作品に対しては苦言を呈するなどあまり好感を持っていなかった

ふしがある10)。

このように30年代の詩人たちはそれぞれのやり方でタゴールと関わっていったが、本稿で

は特に二人の詩人、シュディンドロナト・ドットおよびビシュヌ・デとタゴールの、エリオッ

トを巡るやり取りに注目したい。そのために、まずタゴールのエリオット観を見てみよう。

2. エリオットとタゴール

タゴールは一度エリオットに会っている。しかしそれは1913年のことで、当時エリオット

は無名の若者に過ぎなかった。一方のタゴールは、彼を世界的に有名な詩人へと導いたイギリ

ス、アメリカ旅行の最中にあり、ノーベル賞受賞作となった英語版『ギータンジャリ』が出版

された直後、イギリスからアメリカに渡ったところであった。この年タゴールはハーヴァード

を含む複数の大学で講演を行うのだが、ヨーロッパ滞在を経てアメリカに戻ってきていたエリ

オットは、このときハーヴァードでインド哲学とサンスクリット語を学んでいたのである。こ

う し た 流 れ で エ リ オ ッ ト は タ ゴ ー ル の 話 を 聞 き に 行 く グ ル ー プ に 加 わ っ て い た わ け だ が、 タ

ゴールから見ればこの時点ではエリオットは大勢の若者たちのひとりに過ぎなかった。

エリオットの処女詩集『プルーフロックとその他の観察(Prufrock and Other Obsevations)』 が 出 た の が4年 後 の1917年、『詩 集(Poems)』(1920)を は さ ん で そ の 名 を 高 め た「荒 地(The

Waste Land)」の発表は1922年のことだが、この時期はベンガルにおけるタゴールにとっても

ある種の絶頂期にあたっていた。

ベンガル詩壇におけるエリオット紹介は1930年代にピークを迎えるが、それについては後

述する。ただしタゴールは、前述のオミヨ・チョックロボルティをはじめとしてほかの若い詩

人たちの強い勧めにも関わらず、エリオットにさほどの関心を寄せていない。タゴールはもと

もとロマン派の詩人たちと親和性が高く、若いころに英詩人の中ではキーツに一番親近感を覚

えると語って以来11)、のちになってもあまりその傾向は変わらなかったようである。である

から、エリオットに対して初めから好印象を持たなかったのもさほど不思議ではないかもしれ

ない。それでも、ベンガル詩壇においてエリオットが盛んに論じられるようになったころ、タ

ゴールも「現代詩」について一石を投じる文章を発表している。

1932年、シュディンドロナトが発行していた「ポリチョエ」にタゴールは「現代詩(Adhunik

Kabya)」と題する評論文を発表する。そのなかでエリオットに触れたのがタゴールによる数少

(6)

現代イギリス詩人についてなにか書いて欲しいという要望があったが、それは易しいこ

とではない。そもそも年代の上で、だれが「現代(modern)」の区切りをつけることができ るのだろうか。それは時間の問題というよりも思想の問題でもあるのだ。…(中略)…子

供のころわたしが親しんだ英詩もその当時はmodernと考えられていた。英詩はその当時

ちょうど曲がり角を曲がったところで、それはバーンズから始まっていた。その流れで多

くの優れた詩人があらわれ、それがワーズワース、コールリッジ、シェリー、キーツらで

あった12)。

このような書き出しで、タゴールはその当時の、つまり30年代における「現代」と「英詩」に ついて論じている。ロマン派の時代をどことなく古き良き時代のように語り、現代詩というよ

り現代の諸相を批評する趣で始まるこの論は、結論から言えばエリオットに対して好意的なも

のではない。

タゴールは「現代」を「ものごとから幻想を取り去り、ありのままを見る13)」時代と捉えてい

る。個人の感じ方、個人の自由な想念が過去のものになっているこの時代、「19世紀において

は幻想のもとで色とりどりであったものが、すっかり色あせてしまった14)」というのがタゴー

ルの感じるところである。それに続けてタゴールはまず、エミー・ロエル(Amy Lowell,

1874-1925)や エ ズ ラ・ パ ウ ン ド(Ezra Pound, 1885-1972)の 詩 を 引 き つ つ、 現 代 詩 の 特 徴 の ひ と つ

は非人格的(impersonal)15)であることにあると説く。タゴールは文学より前に絵画において 「現 代 」が あ ら わ れ た と し て、 そ れ が あ ら わ そ う と す る も の は「美 し さ や 魅 力 で は な く リ ア リ

ティー16)」であると主張する。そしてタゴールは、「あるものは美しく、あるものは美しくない、

あるものは役に立ち、あるものは役に立たない、しかし創造の場では、どのような文脈におい

てもなにかを除外するということは不可能だ。…(中略)…であるから今日、文学において『現代』

を信じているものは、過去の高貴さの証を注意深く取り込んで種の存続をはかろうなどとは考

え な い。 そ の よ う な 差 別 は も は や 存 在 し な い。 エ リ オ ッ ト の 詩 編 は こ の よ う な 類 の も の で あ

る17)。」としてエリオットの詩編の解説に入る。

タゴールがここで取り上げたのはエリオットの「前奏曲集(Preludes)」である。タゴールは そのかなりの部分(1-4のうち2を除く)を引用しつつ、エリオットの作品を例に「現代」を 語ろうとする18)。タゴールは「前奏曲集」で展開するある種みずぼらしく無価値に見える日常

の連続がどのように結論付けられるかに注目する。「前奏曲集」では、薄汚い路地の夕暮れ(1)、

(7)

君の片手を横ざまに君の口元で拭いたまえ、それからお笑いなさい、

世界は廻る廻る――がらんどうの家跡で

薪を集める老婆のように19)。

この最終節についてタゴールは以下のように語る。

この薪を集める老婆は、世界に対する詩人の冷めた視線を明確にあらわしている。そし

て前の時代との違いもここにある。すなわち、色付きの夢で心に作り上げた世界のなかで、

自らをだますようなことはしたくないというわけである20)。

そこからさらにタゴールは、現代詩について以下のように論ずる。

朝の最初の目覚め。…(中略)…この慣れ親しんだ現実をそれぞれの詩人はそれぞれの

やり方で迎える。あるものはこれを不信の目で眺め、反抗的な気持ちで迎える。あるもの

はそれを尊重することもなく、無礼にも恥知らずな姿勢で対置することにも躊躇しない。

またあるものは厳しい光のなかにあらわれる形象の奥底に深い神秘を見出す。…(中略)

…先だってのヨーロッパの大戦での経験があまりに厳しく、あまりに残酷だったために、

何世代にもわたって培われた畏敬の念や恥じらいの感覚は破滅的な状況の中で突如として

灰と化してしまったのだ。…(中略)…しかし現代性にもしなんらかの真実があるのなら、

そしてその真実に非人格的な名称を与えることができるとして、世界に対するこの不信や

それを中傷するような視線もまた、反逆的ではあるもののやはりある種の個人的な意識の

広がりなのだと言わざるを得ないのではないだろうか。そしてこれもまた、ひとつの幻想

なのである。…(中略)…わたしにもし、純粋な現代性とはなにかと尋ねるなら、わたし

はこう答えるだろう。世界を個人的な深い愛情で眺めるのではなく、世界を共感のない関

心をもって眺めることだと21)。

ここに見られるように、はじめつつましやかに、そして幾分かは自虐的に自らの時代を「幻

想に彩られた」と語っていたタゴールは次第に「現代詩」に対する批判に転じていく。そして「現

代詩」におけるリアリティーも結局は幻想ではないかと問いかける。そして最終的にタゴール

は、現代詩に「愛情の欠如」を感じているようである。さらにこのあとタゴールは、世界に対

するこのような眼差しは実は現代に限ったものではないとして、李白の詩を引いてくるのだが、

(8)

界を個的で愛情に満ちたものと捉え、その後の「現代詩」をリアルではあってもある種冷たい

ものと捉えていることは明らかであろう。

終盤でタゴールはエリオットの詩をもう一篇取り上げている。取り上げられたのは「ヘレン

おばさん(Aunt Helen)」で、簡潔に内容を記したのちに、この詩についてタゴールは以下のよ うに語っている。

出来事としては信じられることだし、自然であることも疑いない。しかし古い価値観を

持つ人間の心には疑問が浮かぶだろう。それで十分なのだろうかと。…(中略)…女性の

美しい笑顔についての記述をある詩人の表現に見出したら、それは伝える価値のあること

だと思うだろう。しかしそのあとのくだりでもし歯医者が来て苦痛を伴う検査ののち虫歯

をみつけたとしたら、それも事柄としてはあり得るが、みなを呼んでわざわざ伝えるよう

なことではない。…(中略)…昔の詩人たちは(テーマを)選んで詩を書いていた、現代

の詩人たちは選んでいない、と考えることはできないだろう。実は彼らも選んでいるので

ある。新鮮な花を選ぶのも選択だし、枯れて虫に食われた花を選ぶのも選択なのである。

その違いは、彼らがだれかにえり好みをしていると非難されるのを恐れていることにある

22)

先に述べた詩のテーマに関するシュディンドロナトとの論争を想起させる文言である。ここ

でタゴールは「ヘレンおばさん」の詩が、(語るには値しない)虫歯について語っていると言っ

ているに等しい。そしてまた、そのようなことを敢えて取り上げる現代詩人たちは、主題を選

んでいないのではなく、実はそれを選んでいるのであり、それは選んでいないと見せかけるた

めである、としている。エリオット作品に見られるテーマやメタファーを評価しているとは言

い難いこの評論の最後をタゴールは以下のように締めくくる。

主題に対するほんのわずかな敬意をセンチメンタリズムと言うのであれば、それに対立

するありようにも同じ呼び名を与えることができるだろう。どんな理由であれ、心がねじ

れてしまえば、ものごとをまっすぐに見ることはできない。もしヴィクトリア中期をとり

すましていると言って皮肉るなら、エドワード時代もまさに反対の意味で皮肉らなければ

ならない。そうしたありようは自然ではないし、永遠でもない。科学であれ、芸術であれ、

私心のない心こそが最上の手段である。ヨーロッパは科学にそれを見出したが、文学にお

(9)

この現代詩、そしてある意味それを代表しているエリオットを否定するようなタゴールの論

調は、若い詩人たちに衝撃をもたらしたが、そのリアクションについては次章以降に述べるこ

ととする。

3. エリオットとポスト・タゴールの詩人たち

1920年代に確実にエリオットを読んでいたのはビシュヌ・デとシュディンドロナト・ドッ

トである。ビシュヌは非常に早熟で、10代の終わりごろから本格的に詩を書き始め、同時に

英詩にも親しんでいた。ビシュヌが当初夢中になったのがエリオットで、この詩人について誰

かと論じたいという思いで辿り着いたのが8歳年上のシュディンドロナトだったのである24)。

ビシュヌの熱心な勧めにより、シュディンドロナトは1928年にエリオットについての講演を

行う。このときの原稿は「詩の解放(Kabyer Mukti)」のタイトルで、「ポリチョエ(Paricay,紹介)」 創刊号を飾っている。25)

先 に 述 べ た 通 り、 シ ュ デ ィ ン ド ロ ナ ト は1929年 の 初 の 外 遊 後、 雑 誌 の 発 行 を 真 剣 に 考 え る よ う に な っ た。 賛 同 者 と 資 金 を 得、 そ の 計 画 が「ポ リ チ ョ エ 」と し て 実 現 し た の は1931年 のことである26)。英文学に通じているものはこの雑誌はエリオットの「クライテリオン(The

Criterion)」にならったものと考えたが、シュディンドロナト自身がどれだけそれを意識してい

たかは定かではない。しかしシュディンドロナトがしばしば文学上の「スタンダード」につい

て主張し、特に書評と批評に力を入れていた点においてこの雑誌は明らかに「クライテリオン」

を想起させるものであり、それが「ポリチョエ」をそれ以前の雑誌とは性格を異にするものと

していたことは確かである。

のちにはその性格を変えていく「ポリチョエ」だが、少なくとも当初は西洋詩の紹介に力を

入れており、シュディンドロナト本人も含めて英語のみならずフランス語やドイツ語からの翻

訳も行っていた。そのなかでもエリオット紹介は30年代の詩壇にとってある種の衝撃であっ

たと言えよう。時期的に見ておそらくビシュヌ・デとシュディンドロナト・ドット以外のほと

んどのベンガル詩人たちは、この二人の熱心な紹介によってエリオットに目を開かされていっ

たと考えられる。

ビシュヌもシュディンドロナトもエリオットを礼賛していたわけではないが、少なくともこ

うした西洋詩を翻訳紹介することでベンガル詩に刺激を与え、新境地を開いていこうとしたこ

とは間違いない。そのような趣旨の雑誌に所望されて書いたのが前出のタゴールの「現代詩」

であったわけだが、これが「ポリチョエ」を牽引する若い詩人たちの意に沿うものでなかった

ことは容易に想像できる27)。

(10)

い う か た ち で あ ら わ れ た。 そ の 翻 訳 そ の も の は 次 章 で 扱 う が、 そ の 顛 末 の 回 想 を 含 む ビ シ ュ

ヌ の 現 代 詩 論、「ロ ビ ン ド ロ ナ ト(タ ゴ ー ル )と 文 学 に お け る 現 代 性 の 問 題(Rabindranath o

Shilpsahitye Adhunikatar Samasya)28)」をここで見てみよう。

タゴールの没後24年の1965年に、ビシュヌはタゴールの生涯の文学的業績を振り返り、エ リオットやイマジストの詩人たちのみならず、エリクソンやブレヒトまで目配りをしつつ、双

方の「現代」について考察している。ビシュヌはタゴールこそが「文学においてはもちろん、文

化 全 般 や 心 的 世 界、 そ し て 実 際 的 な 活 動 に お い て も「現 代 性(adhunikata)」の 最 も 早 い そ し て 最も基本となる存在であった29)」と断言する。そして世界の名だたる詩人を引き合いに出しつ

つ、そのだれとも比較しようのない偉大さ、ユニークさを強調したのちに、ビシュヌはエリオッ

トにまつわるエピソードを以下のように回想している。

1930年か31年ごろにエリオットの『妖精詩集(Ariel Poems)』をコルカタで手に入れた。

その8番目の詩が「東方の博士の旅(Journey of the Magi)」だった。それからタゴールの現 代詩についての評論が「ポリチョエ」に出た。その批判的な文章の中で、タゴールはエリオッ

トの初期の詩を引き合いに出していた。筆者(ビシュヌ)はそのときいたく傷ついて、そ

の『妖精詩集』の8番目の詩を訳し、それをタゴールに送った。当時、散文詩についてさ

まざまな議論があったので、わたしはそれを散文詩の韻律で書き直してくれたら、その韻

律 の 性 質 を 捉 え る こ と が で き る だ ろ う と 言 っ た の で あ る30)。 タ ゴ ー ル は そ れ を 散 文 詩 の

リズムになるように修正し、数日の間に送ってくれた。わたしの友人である「ポリチョエ」

の編集人(シュディンドロナト)が、あとでタゴールにこう伝えた――彼はこの機会をと

らえてエリオットの最近の詩をあなたに読ませたのですよ。それを聞いてタゴールは言っ

た――そうか、それならエリオットはいい詩人なのだろう。わたしは彼に対して不当なこ

とを言ってしまった。あの詩の訳を彼のところからもらって雑誌に載せたらいいだろう。

そうしてタゴールは初めてそれをもとの詩とつきあわせて見たわけだが、それが1933年

のエリオットの翻訳である31)。

1930年代初頭は、ちょうどタゴールがスタイルとして散文詩を試み始めた時期であり、そ

れまでベンガル語による韻律詩32)を追求してきたタゴールのこの変化には戸惑いを隠せない

ものも多かった。若い詩人たちの間でも散文詩の是非、あるいは散文詩のリズムとは何かと言

うことに関して議論が繰り広げられていたのだが、ビシュヌはいわばその議論にのったかたち

でタゴールにこの詩の訳を送ったのである。

(11)

タゴールに読ませたわけだが、この詩、「東方の博士の旅」をタゴールが気に入るだろうこと

もおそらく想定の範囲内だったろう。実はこれに先立つ1930年、タゴールはヨーロッパ滞在

中にドイツのオーバーアマガウで十年に一度行われる有名なキリスト受難劇を見て感銘を受け

ている。そしてまさにその劇を見た翌日の朝方、タゴールは『御子(The Child)』という彼にとっ て唯一の英語による詩劇33)を書き上げたのである。この作品は1931年に発表され、同年ベン ガ ル 語 に 訳 さ れ た も の が コ ル カ タ で 上 演 さ れ て い る の で、 当 然 ビ シ ュ ヌ も こ の 作 品 に つ い て

知っていた。つまりエリオットのこの「東方の博士の旅」はまさにタゴール好みのテーマのも

のだと推測されたのである。

ビシュヌの文章に戻ろう。ビシュヌは50年以上にもわたるタゴールの詩的キャリアを辿り、

タゴールがまずロマン派に「現代」を感じたことに理解を示す。そのうえでビシュヌは、前述

のタゴールの評論、「現代詩」をあらためて見直している。エミー・ロエルやエズラ・パウン

ドの詩を引いて、苛立ちを見せるタゴールに対し、これらの詩は「楽しめる、魅力的なもので、

驚くような、目くじらをたてるようなところはなにもない34)」というのがビシュヌの感じると

ころである。そしてまた、「ヘレンおばさん」の詩に関するタゴールの論評に対しても「興味深

くはあっても厳しすぎる。この詩にはそれほど重大な欠陥はない。これは軽い、短めの、そし

て皮肉のきいた詩なのだ35)。」と異議を唱えている。このあたりの感じ方には、タゴールとビシュ

ヌあるいはほかの若手詩人たちの間に大きな開きがあり、それはある種、避けられないことだっ

たろう。

ビシュヌは、タゴールの「世界を個人的な深い愛情で眺めるのではなく、世界を共感のない

関心をもって眺めること」という現代性(adhunikata)の定義を一応は認めながらも、タゴール の言うところの「共感のない関心」もしくは「非人格性」と現代詩人たちが言わんとすることと

の間にずれがあると説く。しかしこのことば、「現代(adhunik)」および「現代性(adhunikata)」 には注意を払う必要がある。ベンガル語のadhunikは「近代」と「現代」双方を内包した用語で あり、それを「近代」と捉えればタゴールはまぎれもなくadhunikを代表する存在であり、エ リオットが「現代」としてのadhunikを表象しているとすれば、そのタゴールと重なることが ないのも当然のこととなる。

しかしそれでもビシュヌは、タゴールとエリオットには重なるところがあると考えていたよ

うである。つまり、タゴールが「近代」だけでなく「現代」をも含みこんだ巨匠であると捉えて

いたのであり、その捉え方はビシュヌのみならず、ほかの若手詩人たちにも共通していると言っ

ていいだろう。だからこそ彼は、タゴールがエリオットを理解してくれないことを残念に思っ

ていたのかもしれない。彼はタゴールの文学論とエリオットの『伝統と個人の才能』に親和性

(12)

タゴールの死の直前の、一度重篤な病に倒れたあとの詩編には、存在の光と闇の世界に

対する疑念に満ちた風が吹いている。それは広く全体を眺めて見れば、エリオットの『四

楽章』全編におけるテーマと同じであるとも言えるのである36)。

そのうえでビシュヌは「パウンドやエリオットが簡単には入り込めなかったタゴールの詩世

界の一見偏狭に見えるありようは、歴史的に考えても論理的に考えても自然なことである37)。」

と述べている。そしてそれはその両者の「現代性」が同一のものではなかったからであり、異

なる文脈において「現代」を表現していたからだとする。つまり先に述べたようにタゴールが「近

代」を、そしてエリオットが「現代」を表象するのではなく、タゴール自身も「現代」を担っており、

ただしその文脈が異なるために感じるところも同一ではなかったというのがビシュヌの出した

結論であった。たしかにタゴールは41年まで旺盛に詩作をしており、エリオットとも時代を

共有しているので、いかにロマン派的だとしても単なる「近代」の巨匠として片づけることは

できない。ゆえにタゴールとエリオットを時代で区切るのは確かにむずかしい。

ビシュヌはタゴールの生涯と詩作の軌跡を振り返ったこの文章を次のように締めくくってい

る。

タゴールの、芸術家としての文学的信念は、この詩人自身の現代性において、さまざま

なかたちで複雑な円環の完成をみたのである38)。

結局のところ、タゴールとビシュヌやシュディンドロナトは同じ目でエリオットを眺めるこ

とはなかった。しかしそれはしばしばタゴール自身がほのめかしていたように、単にタゴール

が古い世界に属していたからではないとビシュヌは考えていたのである。

4. ふたつの Journey of the Magi

タゴールがエリオットのJourney of the Magiを翻訳するに至った経緯はすでに述べた。ま ずこれを訳したのはビシュヌ・デで、それをタゴールに送って修正を依頼したところからこと

は始まる。長らく公になっていたのは、タゴールがビシュヌ訳を修正、さらに手直しして「ポ

リチョエ」誌に載せたもの39)と、そこからさらに手を入れて、タゴール自身の詩集『再び筆を

(Punashca)40)』に 収 録 し た 最 終 稿、 そ し て ビ シ ュ ヌ・ デ に よ っ て 訳 さ れ、 後 年 翻 訳 詩 集 に 収 められた最終稿41))の3パターンであった。しかし近年になってビシュヌの初稿およびタゴー

ルの最初の修正が発見され、それぞれの修正の跡が辿れるようになった42)。それを見ると、ビ

(13)

それぞれ大きな隔たりがあることがわかる。

ビシュヌの初稿はあくまでタゴールに読んでもらい、修正してもらうためのものであり、本

人としても最終的な訳とは考えていなかったろう。また、当初のタゴールの修正も、原文と照

らし合わせたものではなく、あくまでビシュヌのベンガル詩を直したものとなっている。それ

らにそれぞれが徹底的に手を加えて最終稿となったわけだが、最終的にそれぞれの翻訳には一

行として同じものはなく、だいぶ趣の異なったものとなっている。ここでは基本的に二人の詩

人の最終稿を比較し、同一の詩に対する両者の翻訳のありようを分析することとしたい。

言うまでもなく、「東方の博士の旅」、すなわちJourney of the Magiは、キリスト生誕時に

遠方からやってきてそれを拝んだとされる三博士(または賢者)を主題にしたものである。原

題では明らかなそのテーマは、いずれのベンガル語訳でも明確にはなっていない。タゴール訳

のタイトルはTirthayatri、直訳すれば「聖地巡礼者」となっているが、これはインドにおける 一般的な聖地巡礼を指す単語で、これだけを見るとヒンドゥー教徒の聖地巡礼が想起される。

ビ シ ュ ヌ 訳 の タ イ ト ル はRajarshider Yatraで、 こ ち ら は「聖 王 た ち の 旅 」と い う 意 味 に な り、 原題に近い。ただしRajarshiとは仙人もしくは聖者となった王のことで(必ずしも王位は捨て

ない)、やはりヒンドゥイムズにおいて古くから存在するイメージである。なお、ビシュヌ訳

ではyatraすなわち「旅」となっているが、タゴール訳ではyatriすなわち「旅人」となっている

ことにも注意されたい。これもビシュヌ訳のほうが原題を反映しているが、タゴールはyatri

という表現を好んで用いる傾向がある43)。ともあれ、ビシュヌ訳、すなわち「旅」であるなら

旅そのものが、タゴール訳、すなわち「旅人」であれば旅をしている人が主題となるので、お

のずと両者の視点は異なってくる。

二つの訳を比べると44)、明らかにビシュヌ訳の方が原文に忠実なつくりとなっている。ビシュ

ヌは、ベンガル語の語法ぎりぎりのところまで原文の一行一行に対応するように訳をつけてい

るのに対し、タゴールは自然かつ読みやすいベンガル語になるべく一行ずつ対応させることは

していない。例えば、一連目の二行目、三行目は原文では「Just the worst time of the year/For

a journey, and such a long journey(一年のうちで一番悪い時/旅には、そんな長い旅には)45)」

となっているところをタゴールは二行を一行にまとめて「旅はとてつもなく長く、時期は最も

悪かった46)」としている。この個所、ビシュヌ訳は原文とまったく同じである。逆に原文が一

行になっているものをタゴールが二行に分けている個所もある。例えば二連目の9行目、「But

there was no information, so we continued(しかしなんの知らせもなかった、それでわたしたち

は(旅を)続けた)47)」は原文では一行だが、タゴールは「そこではなんの知らせも得られなかっ

た/さらに先に進んだ」と二行であらわしている。なんの知らせも得られなかったことと、そ

(14)

と同じ一行で「しかしなんの知らせも得られなかった、また進んだ49)」となっている。

一連ずつ見ていこう。第一連では冬のさなかの旅のことを語り手である東方の博士がこぼし

ている。ただ寒いだけでなく、駱駝使いは逃げてしまい、道沿いの町や村も友好的ではない。

それぞれの訳を見てみると、行の分け方のみならず、ビシュヌ訳は原文に忠実で、タゴール訳

には若干の異同があるのだが、例えば、「the camels galled, sore-footed, refractory(駱駝たちは 皮をすりむき、足を痛め、手に負えなくなり)50)」がタゴール訳では「肩は傷つき、足は痛み、

駱駝たちは怒りを覚え51)」となっているし、「The summer palaces on slopes(山腹に立つ夏の別 荘)52)」も「山の麓の春の住まい53)」となっている。後者に関してはインドの夏はとても心地よ

い と は 言 え な い の で、 文 脈 上 春 に 変 え た の か も し れ な い が、 な ぜ「山 腹 」で な く「麓 」な の か、

その方が自然な描写と判断したのだろうか。こうした箇所、ビシュヌ訳は基本的に原文に忠実

である。この連は「With the voices singing in our ears, saying/That this was all folly(耳元で歌声 のように響く、それは/これはまったく馬鹿げている)54)」という語り手の文言で締めくくら

れている。この部分のビシュヌ訳もほぼそのまま、「耳元で声が歌う、それは言う/これはす

べて馬鹿げていると55)」となっている。対するタゴール訳は「ポリチョエ」版と最終版では文言

が異なっており、前者は「そのとき耳に呪いのことばが響く/これはすべて嘘だ、これはすべ

て幻想だ56)」となっているのに対し、最終版では「そしてだれかが耳元で歌う――/これらは

すべて気違い沙汰だ57)」となっており最終版では原文に近づけてある。

第二連では旅を続ける語り手が谷間や牧場をぬけ、居酒屋に辿り着く。しかしそこにいる男

たちは自堕落でなんのたよりも得られない。そのまま先へ進んだ語り手が夕刻に目的の地に辿

り着くまでがここでは描かれる。この連でもタゴール訳では原文との若干の異同が見出せるが、

それは例えば「feet kicking the empty wine-skins(からっぽになった葡萄酒の皮袋を足げにして いた)58)」が「からっぽの酒壺を足で蹴る59)」となっているような個所に見出せる。タゴールの「酒

壺」はおそらく酒を皮袋に入れるという情景がベンガル語ではしっくりこないための変更だろ

う。この部分、ビシュヌ訳はそのまま「からっぽの酒袋を蹴る60)」となっている。また、この

連には賭け事に興じる男たちが登場するが、タゴールはなぜかこれを「ポリチョエ」訳では「六

人」としているものを最終稿ではわざわざ「二人」に変更している。六人(chajan)と二人(dujan) では韻律上の差もないので、なぜ変更したのかはわからない。なおかつこの部分の原文は「six

hands」であり、「六人」ではない。ビシュヌ訳はあくまで「六つの手」である。

そしてやはり二連目の最終部の訳のニュアンスが両者若干異なっているのも興味深い。この

連の最後は「And arrived at evening, not a moment too soon/Finding the place; it was (you may

say) satisfactory(夕方に着いた、早すぎるときでもなく/探していた場所を見出し、それは(君

(15)

の訳は「ついに夕方辿り着いたのだ、そのときより少し前でもなく/その場所を探し当て、(君

はこう言うかもしれない)それは満足すべきことだった(ビシュヌ訳)62)」「進んでいくうちに夕

方になった/ほとんどその瞬間が過ぎようというときに、その場所を探し当てたのだ――/こ

う言えるだろう、状況は満足すべきものであったと(タゴール訳)63)」ここでもタゴールは原文

では二行だったものを三行に分けた上で、そつなくまとめあげている。例えば「not a moment

too soon」を「ほとんどその瞬間が過ぎようというときに」と言い換えるのはある意味見事であ

る。反面、ビシュヌの「そのときより少し前でもなく」は原文を忠実に映し出したもので、流

暢なベンガル語とは異なるものの、「エリオット的」な響きを残している。

そして最終連となる第三連である。この連のはじめに語り手は、これは昔のことだがもう一

度その旅をくりかえすことも厭わないと言う。けれども自分たちの目指していたものが、はた

して誕生だったのか、死だったのか、という疑問がここに提示される。語り手はそれまで誕生

と死は異なるものと思っていたが、そのときの、つまりキリストの誕生は死のように苦いもの

で、我々の死でもあったと語る。その旅から自らの王国に戻った語り手は以前と同じように過

ごすことはできない。異なる神にしがみつく周りの人々はまったくの異質のものに感じられ、

自分はもうひとつの死を望む、という結末である。

この連のひとつのポイントは、語り手が目撃した誕生の意味である。語り手はそれまでは誕

生と死は別のものだと思っていたが、その誕生、つまりキリストの誕生は同時に死のようであ

り、またそれは我々の死であったと言う。この部分を原文と比較してみよう。

I had seen birth and death,

But had thought they were different; this Birth was Hard and bitter agony for us, like Death, our death.64)

(わたしは誕生と死を見てきた、

しかしそれらは異なるものだと思っていた、この誕生は

我々にとって厳しく苦い、死のように、わたしたちの死。)

ビシュヌ訳は、

私は見た、誕生と死の両方を、

わたしは思っていた、それらは別々のものであると。そしてこの誕生があらわれた

(16)

対するタゴール訳は以下の通り。

それ以前にわたしは誕生を見た、死も――

それらは同じものではないと思っていた。

しかしこの誕生は大きな苦難の――

その苦痛はすさまじく、死のような、わたしたちの死のような。66)

ここでもタゴールは行数を増やし、なおかつ構文が明瞭でない部分をダッシュで処理してい

る。結果タゴール訳はずっと流暢なものになっており、加えて、「それ以前に誕生を見た…そ

れらは同じものではないと思っていた」の部分では「それ以前に」を加えた上に習慣過去形を使

い、これがこの誕生を目撃する以前のことであることを明示している。なお、両者の訳とも原

文の大文字のDeathと小文字のdeathの違いは反映されていない。ゆえにいずれにおいてもキ リストの死とわれわれの死が重なりあうニュアンスは失われる。

そ し て 最 終 行 で あ る。 原 文 は「I should be glad of another death(わ た し は も う ひ と つ の 死 を 喜 ん で 受 け 入 れ る )67)」だ が、 ビ シ ュ ヌ 訳 は「も う ひ と つ の 死 に わ た し は 喜 び を 感 じ る だ ろ

う68)」となっており、タゴール訳は「もう一度死ぬことができればわたしは生き延びる69)」となっ

ている。ここでもベンガル語自体はタゴールの方自然なものとなっている。ただしいずれの場

合もそこにキリストの死をなぞる響きは希薄である。さらに言えばこの詩には原文にも一言も

「キリスト」という文言はないため、そして前述のようにベンガル語訳では題名に「東方の三博

士の旅」であることが反映されていないため、このままではどちらのベンガル語訳を読んでも

通常の読者は特にキリストの誕生とは結び付けずに読む可能性が高い。つまりタゴールはもと

より、エリオットに忠実であったビシュヌですら、これをベンガル語訳する際にはそれが「キ

リスト」にちなんだ物語であることは重要視していなかったということになる。

ともあれ、以上のように、原文に忠実なビシュヌ訳に対して、タゴール訳はこなれたベンガ

ル語になっており、ベンガル詩として考えればタゴール訳の方がはるかに完成度が高く、読み

やすい。ついでながら行数を操作することによって、見た目にも美しい仕上がりとなっている。

しかしこの「読みやすさ」には落とし穴がある。このひっかかりのなさが逆にエリオットとし

ての特質をなくしてしまっているとも言えるからである。ビシュヌがあくまでエリオットの語

法にこだわり、その詩を「翻訳」をしたのに対し、タゴール訳はいわば完全にタゴール詩になっ

ており、冒頭の「エリオットのJourney of the Magiという詩の翻訳」という注意書きがなければ、

タゴール本人の詩と解釈できるほどである。タゴールが「ポリチョエ」版からさらに徹底的に

(17)

のスタンダードにこだわったのである。タゴールは確かにこの詩が気に入ったのであろう。で

あるからわざわざ自身の詩集に収録したと考えられる。けれども、そのテーマや言わんとする

ところは気に入ったとしても、エリオットの詩作のスタイルはやはり受け入れがたかったので

はないだろうか。たしかにタゴール訳の方が単独の詩としての完成度は高いのだが、エリオッ

ト的な表現はすべてタゴール風になっている。つまりタゴールは、エリオットの作品であれな

んであれ、最終的にそれを「タゴールの詩世界」として提示したのである。

おわりに

1930年 代 が ベ ン ガ ル 詩 壇 に と っ て タ ー ニ ン グ ポ イ ン ト に な っ て い た こ と は 最 初 に 述 べ た。

まさにその時期にエリオットはベンガル詩壇に関わりを持ったわけだが、もちろんだれもがエ

リオットに注目したわけではない。特にエリオットに批判的だったのは左翼系の詩人たちで、

まさにそうした詩人たちが主流になっていった40年代以降はエリオットはあまり取り上げら

れなくなっていった。

ここに取り上げたビシュヌ・デも青年期にエリオットに夢中になったものの、その後は作風

を変えていく。タゴールの詩的変遷はその長いキャリアもあいまって揺れ幅が大きく、初期、

中期、後期とドラスティックにそのありようを変えていき、終盤になって期せずしてエリオッ

トの一編の詩を翻訳することになった。そしてエリオット自身も「荒地」前後のころと、中期

以降ではその心的状況を大きく変えていた。ここに取り上げたJourney of the Magiは、まさ にエリオットが英国国教会に改宗した年に書かれたもので、ビシュヌが、その初期の詩を否定

したタゴールにこの詩を読んでもらいたいと考えたのも頷ける。

こうしたそれぞれ異なる詩的軌跡を描いていた3人の詩人が30年代の初めに邂逅したこと 自体、興味深いと言えるが、本稿で描き出したのは、ビシュヌとタゴールという二人のベンガ

ル詩人がエリオットを鏡として対置した姿である。

すでに述べたようにビシュヌは詩作と同時にエリオットに触れ、そのスタイルはビシュヌの

初期の作品に反映されている。タゴールはそのスタイルをよしとせず70)、エリオットのスタ

イルのみならず詩のテーマにも懐疑的だった。ビシュヌは、タゴールとエリオットの詩編の奥

深いところに通底しあう部分を見出していたが、ビシュヌがエリオットに感銘を受けたように、

タゴールがエリオットに感銘を受け、またその詩作に完全に共鳴したわけではないことは、諸々

の観点から明らかであろう。同時代に生きたものとして、タゴールにもエリオット的な部分が

あることは否めないとしても、タゴールはその独創性と審美観を重んじる姿勢において本来ロ

(18)

あったことを意味しない。その伝記を紐解けば明らかなように、タゴールの詩的源泉はまった

くのところベンガルおよびインドにある。

エリオットとベンガル詩人について考えるにあたり、最後にひとつ指摘しておかなければな

らない点がある。それはベンガル詩人と英語との関係である。周知のようにベンガルを含むイ

ンド亜大陸は当時イギリス領であったため、19世紀前半から英語による教育が行われていた。

その意味でベンガル詩人と英詩の関係は、日本とそれとの関係よりはるかに深い。ただし、英

語による教育、とりわけ高等教育を受けた層はかなり限られており、詩人になるようなものは

すべからく高等教育を受けていたというわけでもない71)。つまり英詩を自由に読みこなせた

のは、ごく限られた層であることを忘れるべきではない。ここに取り上げた「ポスト・タゴー

ルの五人の詩人」は「たまたま」全員が英文学を大学で専攻しており、そうした背景からこれら

の詩人たちが頭角をあらわした30年代にエリオットが一定程度の影響力を持ったという側面

もある。

そしてタゴールと英語の関係は複雑である。タゴールは当代一流の家庭に育ち、まれに見る

教養を身に着けていた一方で、正規の教育においては小学校も修了しておらず、イギリスに留

学したもののなんの学位も取得していない。タゴールが学校を続けられなかったのは英国式教

育と英語による授業になじめなかったせいで、当初からタゴールは英語と英国に対して複雑な

感情を持っていたことが推測される。タゴールはその抜きんでた教養により、ほとんど世界中

の主だった文学には通じていたが、英文学を系統的に学んだことはなく、また他と比べて特に

強い関心を寄せたこともない。タゴールはシェリーやキーツを読みそれに感銘を受けるのと同

じ よ う に、 ゲ ー テ や 李 白 や ハ ー フ ェ ズ に 感 銘 を 受 け そ れ ら に つ い て 語 っ て い る。 さ ら に 言 え

ばタゴールは、ベンガルが英文学と出会い、衝撃を受けた第一世代ではない。西洋との遭遇、

ということで言えば、タゴールに先立つモドゥシュドン・ドット(Madhusudan Dutt, 1824-

73)がすでに英詩を強く意識したベンガル詩を上梓しており、それに次ぐ世代であったタゴー

ルはむしろベンガル、もしくはインドの伝統に回帰する傾向が強かったと言える。そしてだか

らこそタゴールはベンガル、そしてさらにはインドを代表する「民族」詩人として大成するこ

ともできたのである。

ある意味、植民地下における初期のベンガル詩人にとっては、英詩は脅威でもあったろう。

英詩に侵食されずに、そして同時に英詩に対抗できる「近代的な」ベンガル詩を立ち上げるこ

とは、無意識にであれ、民族主義の意識に支えられた場合であれ、ひとつの到達すべき地平で

もあったはずである。

タゴールの登場によってベンガル詩は完全に自信を取り戻したと言ってよいだろう。すなわ

(19)

わり、ポスト・タゴールの詩人たちの課題はいかにしてタゴールを乗り越えることにあった。

まさにブッドデブ・ボシュが「タゴールを模倣することは不可避であり、そしてタゴールを模

倣することは不可能だった72)」と語ったようなジレンマに陥っていたのである。そのタゴール

後の世代にとって、エリオットは、タゴールに「似ていない」からこそ、あるいはタゴールと

エリオットの間に親和性がないからこそ、タゴールを乗り越えるための格好の足掛かりのひと

つとなったのである。そう考えてみると、タゴールとタゴール後の世代におけるエリオットに

対する温度差は当然のものであり、そのタゴールにエリオットを認めてもらおうとするのもあ

る種の矛盾である。しかし30年代の詩人たちにとって、タゴールは単なる乗り越えるべき壁

ではなく、文学上の父のような存在でもあったのだろう。父は乗り越えなければならないが、

同時に自らを認めてもらいたい存在でもあるのである。とまれ、それによって世代の異なる二

人の優れた詩人によるエリオット詩の翻訳というめずらしい組み合わせの文学的所産が生まれ

ただけでなく、それらはそれぞれに名訳と言えるものでもあったのだ。

1) 著名な詩人でタゴール研究家としても知られるションコ・ゴーシュ氏の試算によれば、タゴールの全

詩編およそ2000のうち、800編あまりがこの最後の時期に書かれているという。[丹羽 2011:210]

2) ポスト・タゴールの詩人たちと「現代」という意識については拙稿[丹羽 2012]も参照されたい。

3) ブッドデブ・ボシュの「わたしたちがロビンドロナト(タゴール)を得たということは、わたしたちにとっ

てこの上ない幸運だったけれども、この偉大な詩人を得たために、わたしたちはまたその対価を支払 わなければならなかったか、あるいはまだ支払っている最中なのである。その対価とは、ベンガル語

で詩を書くということを、かれがおそろしくむずかしいことにしてしまったということである。」とい

う文言が、タゴール後の世代から見たタゴールの位置をよくあらわしている。[Bose 1954:119] 4) [Thakur 1931]

5) [Bose 1954:126]

6) [Thakur 1974]にはタゴールからオミヨ・チョックロボルティに宛てた多くの書簡が収められている

が、この中でタゴールはさまざまな雑事とともに英文学や当時のベンガル詩壇について忌憚のない所 感を述べている。

7) [Chakraborty 1996:100]

8) [Dev 2001: 23]この詩はタゴールの推薦により、1928年に「プロバシ(アッシン月号)」に掲載された。

9) ブッドデブ・ボシュとタゴールの関係については、拙稿[丹羽 2012]を参照されたい。

10) ビシュヌ・デとタゴールの関係については、拙稿[丹羽 2017]を参照されたい。

11) タゴールは「知る限りにおいて、英国の詩人の中でわたしはキーツに対して最も親近感を感じている。

彼より偉大な詩人はいるかもしれないが、あのような心を持った詩人はほかにはいない」と私信に書

いている。(1895年12月14日インディラ・デビ宛)[Thakur 1922:251]

12) [Thakur 1947:420] なお、実際にはシェリーもキーツもタゴールの生まれるよりだいぶ以前に亡く

なっているので、タゴールの青年期とイギリス・ロマン派は時代的には重なっていない。 13) Ibid., 424.

14) Ibid., 424.

15) ここでタゴールは「非人格的」の個所にベンガル語のnairbyaktikという単語を充てているが、そのあ

(20)

エリオットの詩論を意識してのものかは定かではない。 16) [Thakur 1947:426]

17) Ibid., 426.

18) Ibid., 426-428.タゴールはここで、その1と3をベンガル語訳したうえで引用しているが、4について

はそのほとんどを原文(英語)のまま引用し、最後の三行のみ再びベンガル語訳している。

19) [深瀬 1960:28]深瀬基寛訳。 20) [Thakur 1947:428]

21) Ibid., 428-429. 22) Ibid., 432. 23) Ibid., 434.

24) ビシュヌとシュディンドロナトは遠い親戚でもあり、ビシュヌがごく幼いころ二人は会ったことがあっ

た。

25) この批評でシュディンドロナトは広い射程を持ちつつ、20世紀を強く意識した詩論を展開している。

論の中心部分では「荒地」を引いてエリオットについて語っている。[Dutta 1995:13-36]

26) 「ポリチョエ」はベンガル暦に従って発行され、創刊号はベンガル暦1335年スラボン月(西暦では1931

年の7月半ばから8月半ばにあたる)に出された。以後この雑誌は、当面ベンガル暦に従ってスラボン月、

カルティク月、マーグ月、ボイシャク月のそれぞれ1日に発行されることとなった(マーグ月は西暦

の年をまたぐので、西暦上の年号は1年ずれる。ボイシャク月がベンガル暦では新年にあたる)。はじ

めの5年は季刊、のちの7年は月刊誌として発行された。編集人としては時期に応じて複数名が名を

連ねているが、43年までは実質的にシュディンドロナトが中心となっていたと考えられる。ただしそ

の末期においては編集方針の対立があり、シュディンドロナトの意向に反して徐々に左翼思想を強く

打ち出すようになっていった。「ポリチョエ」の発行はこのあとも続けられたが、シュディンドロナト

は43年に完全にこの雑誌から手を引いた。

27) すでに言及したように創刊号にはシュディンドロナトの「詩の解放」が掲載されていた。翌年前述の「現

代詩」を同誌に掲載したタゴールは、「荒地」の引用を含むこの「詩の解放」を読んでいなかったか、ほ

とんど注意を払っていないように見受けられる。後年になってもタゴールが「荒地」を読んだ形跡はな

く、少なくもこれを読んだなら最終部のウパニシャッドからの引用にはなんらかの反応があったに違 いないというのが大方の考えるところである。タゴール自身もウパニシャッドからの引用が多く、英 詩人によるこうした引用を見過ごすはずがないからである。

28) この評論は、1965年にカルカッタ大学の招きで行われた講演原稿をおこしたもの。初出は「文学の葉

(Sahityapatra、1965、ドゥルガ・プジャ号)」。翌1966年に単行本として出版された。 29) [Dey 1998:4]

30) 日付はないが、おそらくこのときのものだろうと思われる手紙が残っている。そこには「(散文詩のリ

ズムとは)耳に頼る以外に方法はないのでしょうか?…(中略)…わたしの書いたものをあなたに直

してもらい正しい構造を見ることができれば助かります。ですので、勇気を奮い起こしてあなたに一 篇の詩の訳を送ることにします。」と書かれている。[Thakur 1995:220]

31) [Dey 1998:17]

32) ベンガル語の韻律には大きく分けて3つのパターンがある。この韻律体系そのものもタゴールがその

土台を作ったものであるが、それに合わせて書かれた詩を韻律詩と呼ぶ。なお、タゴールの散文詩と

それに対する若手詩人の反応については[丹羽 2012]を参照されたい。

33) タゴールは基本的にベンガル語以外で文学的創作をしたことはない。ノーベル賞受賞作の『ギータン

ジャリ』は自らの詩を英訳したものである。

34) [Dey 1998:50] 35) Ibid., 54.

(21)

見出す評者は多い。[Mukhopadhyay 1992:256] 37) Ibid., 60.

38) Ibid., 78.

39) 「ポリチョエ」の1933年、マーグ月号にこの詩は掲載された。

40) 『再 び 筆 を 』の 初 版 は1932年 だ が、 そ の 後 新 た に7編 を 加 え て 翌1933年 に 第 二 版 が 出 版 さ れ た。 Jouney of the Magiの翻訳はこのときに新たに加えられている。なお、この詩集は散文詩集で、初版を

目にしたビシュヌが、それを参考にJourney of the Magiを訳してみたと言っている。

41) [Dey 1997b] この本の初版にはエリオットの詩、18篇が収められていたが、第二版には新たに収録さ

れたものを含めて22編、第三版には23篇が収められている。

42) [Mandal 2011:576-8] このタゴールによる修正が施された最初の原稿は、長らく失われたものと見なさ

れていたが、近年になってオミヨ・チョックロボルティが保管していた文書の中に発見された。おそ らくタゴールはこの修正に関してオミヨ・チョックロボルティに意見を仰ぐべく送ったものと考えら れる。

43) 例えば日本訪問について書き記した紀行文に、タゴールはJapanyatri、すなわち「日本旅行者」という

タイトルをつけているが、一般的な紀行文には通常yatra(旅行、旅)が充てられる。

44) エリオットの原詩は[Eliot 1969:103-4]、タゴール訳最終版は[Thakur 1932:130-1]、タゴールの「ポリチョ

エ」版は[Thakur 1995:441-4]に再録されたもの、そしてビシュヌ訳は[Dey 1997b: 43-4]を底本として い る。Journey of the Magiの 日 本 語 訳 は、[深 瀬 1960:173-6]の 上 田 保 訳(「東 方 の 博 士 が し た 旅 」) を参照しているが、ここではできるだけ直訳に近づけるために拙訳となっている。またビシュヌ訳、

タゴール訳(いずれもベンガル語)とも、日本語訳は拙訳である。

(22)

70) 拙稿[丹羽 2017]参照。

71) 例えばここで取り上げた「タゴール後の五人の詩人」より少し前から詩壇で活躍したカジ・ノズルル・

イスラムなどは貧しいイスラム教徒の家に生まれ、およそ異なるバックグラウンドを持っていた。 72) [Bose 1954:118]

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参照

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