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第 1 章 序論
1.1 はじめに
化学とは、約言するならば「化学結合の形成と変換」を扱う学問であ る。重点の置きようにより、反応論と構造論に便宜上分類されることも あるが、両者は本来一体である。
現代の物質科学は、量子力学と統計力学に立脚している。このことは、 以下のように要約される。
物質は原子核と電子から成り立っている。物質科学の通例では、原子 核の内部(陽子と中性子あるいはその先) には立ち入らず、原子核は一定 の質量と電荷をもつ点粒子として扱われる。電子も同様である。
原子核と電子の個数を指定し、それらの質量と電荷を量子力学の基礎 方程式に代入すれば、分子の構造、安定性、反応性が「原理的には」解明 され得る。例えば、水分子H2O では、2 個の水素原子核と 1 個の酸素原 子核および10 個の電子につき、質量と電荷を量子力学に入力し解けば、 結合長、結合角、電荷分布(双極子モーメントなど)、ひいては他分子と の反応性までが全て分かる。ただし、「解けば」とは書いたが、実際には 近似的に解くのみであり、近似の程度により解の精度も異なる。上で「原 理的には」と断ったのは、このような事情による。現実的な化学の問題 は複雑で、十分な精度で解くのは一般には容易でない。そのための技法 を発展させるのが計算化学の主題となっている。とくに近年では、スー パーコンピューターを活用して大規模な数値計算を実行するのが盛んで、 これを「第一原理計算」と称している。
これに対し、基礎方程式の解を容易にすべくモデルや近似を導入し、扱 いやすく理解しやすい概念を打ち立てる方向への努力も存在する。化学 結合論では、第6 章で扱う分子軌道法や原子価結合法およびそれらの定 性的近似理論などが該当する。反応論では、福井のフロンティア軌道理
18 第1 章 序論
論やWoodward-Hoffmann の軌道対称性保存則が、この方向での代表的 成果である。これらにおいては、いわゆる「一電子軌道概念」が共通の 基盤となっている。これは、上記の第一原理的大規模数値計算の出発点 ともなっている。
次の段階として、巨視的な数の分子が集った分子集合体の諸性質を調 べる場合には、統計力学が基礎となる。しかし、これについては本書の 主題の範囲外とする∗。
1.2 化学結合論の課題
上記の枠組みの中で、量子力学に立脚した化学結合論は中心的な位置 にある。化学結合論において解明すべき主要課題は、以下のように要約 される。
1. 化学結合力の存在
• 二つの水素原子は容易に結合して安定な水素分子H2を形成す る。このように、電気的に中性な二原子が結合を形成する要因 ないし駆動力は何か?
• 水素原子もヘリウム原子も中性原子であって、後者では核電荷 と電子数が前者の倍になっているだけであると見るとき、H2
分子は安定なのに、He2分子は安定に存在しない事実は如何に 説明されるか?
2. 原子価の存在とその飽和現象
• 二つのH 原子は強く結合するのに、さらに第三の H 原子が強 く結合しないのは何故か?
• メタン(CH4) 分子が安定に存在するのに、CH5, CH6分子が存 在しないのは何故か?
∗大学院講義「化学統計論I」で取り扱っている。(京都大学オープンコースウェアに て2007 年度講義ノートを公開中。)
1.2. 化学結合論の課題 19
• 上記二件については、水素が1 価、炭素が 4 価の「原子価」を 持つとすることで一応の現象論的「説明」がなされる。このよ うな原子価の存在とその飽和現象に対し、より根本的な説明を 与えるのは何か?
3. 分子の幾何学的構造
• メタンおよびその他の炭素化合物の構造から、4 価の炭素原子 には正四面体方向に四つの結合の「手」が出ていると考えるこ とが出来そうである。それは何故か?
• CH4分子では四つのH 原子が正四面体の頂点にあり、結合角
6 H-C-H=109.28 度であるのに、クロロホルム (CHCl3) 分子で は6 Cl-C-Cl=110 度、6 H-C-Cl=108 度のように歪んでいる。こ れは何故か?
• 二酸化炭素(CO2) と水 (H2O) はともに三原子分子であるが、 前者は直線形(O=C=O) である一方、後者は曲がった構造 (二 等辺三角形) が安定であるのは何故か?
上記1∼3 は、Coulson 著「化学結合論」†に従った。これらに追加す るならば、
4. 化学反応(結合の組替え)
• 各々の分子は特徴的な反応性をもち、しばしば特異な選択性を 示す。これらは化学結合論の立場からどのように説明、記述さ れるか?
以上のような問題意識に応じるのが、化学結合論の目的である。これら は結局、原子核と電子の集まりの振舞いを調べることに帰する。したがっ て、量子力学が必要となる。
†C. A. Coulson, Valence, Oxford 1961