世界史芸術鑑定団 7
A(教え子。大学の教育学部で歴史教育学を専攻): 最近はどういう勉強をなさっているんですか。 B(先生):ライフワークにしている【世界史教育 における文化史・生活史教材の研究】の一環と して、絵画教材をいかに世界史授業で活用する かという、今はやりの「絵画史料研究」を少し ずつかじらせてもらっているよ。絵画の場合「史 料批判」が難しいけどね。
A:でも面白そうですね。それで今、取り組んで いる絵画は何ですか。
B:では、昔を思い出して、私の拙い授業をあえ て受けてもらうことにしようか。
A:図版資料の大好きな先生らしいですね。よろ しくお願いします。
B:ここに、ある画家が有名な歴史上の人物を描 いた2枚の油彩肖像画があるけど、誰だかわか るかな。もちろん、同一人物だよ(左頁参照)。 A:同一人物ですか。右上の髭のある人物は見た
ことがないけれど、左下の方は…。確か図説に 載っていましたよね…。わかりました。あの宗 教改革で知られるルターですね。しかし、右上 の人物も本当にルターなんですか。
B:よいことに気がついてくれたね。自分の勉強 もこの肖像画をめぐってのものなんだ。制作年 に注目してほしい。制作年が不正確な場合、こ ういう形で記載するのは絵画作品ではよく行わ れることなんだ。ちなみに左下の肖像画は制作 年不明で、そっくりの絵がイギリスのブリスト ル美術館にもあり、こちらは1546年作となって いて、この年はルターの没年にあたるから、ル ターの業績を顕彰してクラーナハが描いたのか もしれない。右上の肖像画について、多くの研 究者は1521年末にデッサンが描かれて、翌22年 にその下絵をもとに油彩画や版画が制作された と考えているようだ。1517年にルターが「95か 条の論題」を発表してローマ教会と対立し、や
がて1521年4月にはヴォルムス帝国議会で即位 間もない神聖ローマ皇帝カール5世から帝国追 放処分に処せられたことはまだ覚えているよね。 A:ええ、その後、ルターを支持するザクセン選
帝侯フリードリッヒの企てた「偽装誘拐」によ ってヴァルトブルク城とかいう山城に1年近く 保護され、新約聖書のドイツ語訳に励んだとい うところは、先生があの特製プリントによって ドラマティックに取り上げられ、先生も少しは しゃいでいらっしゃったことを覚えています。 B:よく覚えていてくれたね。実はその後、ルタ ーは表面上は「殺された」ということになって いて、ルター自身も一般の人々の前では姿を見 せることができなかったんだ。それで、中世盛 期の歌合戦の伝統もあるこの城で、ザクセン侯 のやっかいになる一騎士という設定で彼はここ で暮らすことになるんだ。ただ、ヴィッテンベ ルクの改革が急進派に牛耳られ、混乱状態に陥 っているのを知って、彼は1521年12月にこの町 に密かに帰ってきていたらしい。このことを事 前に連絡を取り合って知っていた、親友にして 宮廷画家でもあったクラーナハが面会した際に デッサンし、正式にヴィッテンベルクに帰還し た1522年3月以降に油彩肖像画として完成した のが、この作品なんだ。
A:じゃあ、もともとルターはどういう格好をし ていたのですか。
B:ルターはエルフルト大学在学中の神秘体験か ら厳しい修行で知られるアウグスティヌス会修 道士となって以来、修道会服姿に頭は、あのU. エーコ原作の映画『薔薇の名前』でおなじみの、 真ん中がツルツルで外側に土手のように髪を残 した、いわゆる“修道士カット”の剃髪で過ご していたんだ。1524年以後のルターは市民の 「宗教改革家」としての服装に変わっていく。
とくに1532年登場の、「ベレー帽」を被り特徴 のある黒衣を着た画像は、左下の肖像画ととも に広く一般に普及していったと考えられるね。 A:興味深い話を本当にありがとうございました。 (福岡県立小倉高等学校 今林常美)
クラーナハによる
………近代世界システムから見た近現代史 ………近代世界システムから見た近現代史
基 調 提 案
世界史教育の危機?
【川北氏】12月に、阪大でグローバル・ヒストリー の国際シンポがあり、出席したんです。その席に、 中国から来ていた人がいて、中国における「世界 史」の話をしたんですが、要するに「中国抜きの 世界の歴史」であるというのですね。ふだん、わ れわれが考えているグローバル・ヒストリーとは 違うものですね。
戦後つくられた日本の高校の「世界史」は、中 国史抜きの世界史と同じで、日本史抜きの世界の 歴史、つまり端的にいえば、「外国史の寄せ集め」
にすぎません。それはグローバル・ヒストリーと いうのとは違う。だいたいグローバル・ヒストリー という以上は、各国の歴史ではなく、「一体とし ての世界」の話でなければならないはずです。 先日、世界史未履修という深刻な問題が発覚し ました。新聞等では、未履修の生徒がたくさんい て、受験前になってから世界史の授業に時間をと られて可哀想だという論調が目立ちました。世界 史を学ぶ機会がなかったのは可哀想だったという 意見はほとんどなかったわけです。このことを私 たちは真剣に考えてみる必要があります。世界史 という科目は何なのか、何のために教えないとい けないのだろうかということこそが、はっきりし ていないといけません。
近現代の世界史、とくに近現代の世界について このたび、弊社では、装いも新たに世界史B教科書『新詳世界史B』を発刊いたします。この 教科書の特色の一つは、計10か所に設置した特設ページ「一体化する世界」にあります。ここで は、前近代史を“ネットワーク論”を軸に、近現代史を“近代世界システム論”を軸に構成して います。この特設を設けた背景には、同時代史の内容を特設ページ化することで通史部分との整 理がよりしやすくなるという点もありますが、それ以上に、高校生に、古代から現代までどのよ うに「一体としての世界」が形成されてきたのかストーリー性をもって世界史の流れを考えても らいたい、世界史の流れを見すえて未来を考えてもらいたい、という点にあります。
そこで、今号より三回にわたって著者三人にお集まりいただき、この特設ページに関連した三 つのテーマ、「近代世界システムから見た近現代史」、「陸から見たユーラシア前近代史」、「海か ら見たユーラシア前近代史」を設定し、基調提案+鼎談をするという企画を立ててみました。 この企画の背景には、高等学校の世界史担当の先生方から、著者の先生方の“生の声(本音)” を聞いてみたい、教科書編集にあたって著者の先生方のお考えや、裏話を聞いてみたいという声 が多数寄せられたことにあります。読者である高校の先生方におかれましては、三回の基調提案 +鼎談から、著者の先生方の世界史教育に対する“熱き想い”をくみとっていただければ、企画 者としてはうれしく思います。
川北・桃木・杉山3氏と語るグローバル・ヒストリー 第1回
近代世界システムから見た近現代史
◆出席者大阪大学名誉教授
川 北 稔
大阪大学教授
桃 木 至 朗
駒澤大学専任講師
杉 山 清 彦
◆司会・進行
帝国書院 資料編集部
………近代世界システムから見た近現代史 ………近代世界システムから見た近現代史
は、現代の世界がなぜいまのようないろいろな問 題を抱えるようになったのか、また、いまなぜこ ういうかたちになっているのかということを、そ の歴史的経緯に沿って認識させる。そこのところ が一番重要な課題になるだろうというふうに思っ ています。基本はそこだということが認識されな いと、なかなか「世界史」という科目が絶対に必 要で、面白いものだというふうにはならないし、 21世紀を担っていく若者に、絶対必要な知識だと は主張しきれないと思うのですね。これが、私自 身、高校の世界史に関わりたいと思っている大き なポイントです。
われわれの学問は、ここ20 〜 30年、いわゆる「歴 史学の破裂」を起こしています。ストーリーとし て歴史が書けないんです。“history”はもともと “story”と同じ語源なんで、やっぱり話が時系列 に沿って、因果関係をもって流れていかないと、 本当の意味での歴史の面白さは出てこない。 一昨年、文化勲章の受賞者を決める審議会に出 たのですが、そのときの食事会で、世界史の教科 書の話が出たのですが、「いままでの教科書は、 通読するようには書かれていないんです」と話し ましたら、皆さん大笑いをされたんです。しかし、 これは笑いごとではありません。通読に耐えない 「歴史書」が教科書として押しつけられることの 問題は、もっと深刻に考える必要があると思って います。
ストーリー性の復権をめざして
──キーワードとしてのグローバリゼーション
現代史について、普通にいわれていることで重
要なのは、グローバリゼーションということで しょう。とすると、「世界の一体化」というのは どういうふうに進行していったのか、という問題 を教科書でわかるようにしていかないと、世界史 の教科書としてはよくないと思います。
ところで、第一次世界大戦の前が、これまでの 歴史のなかでいうとグローバリゼーションのピー クと考える人が研究者のなかにはいます。つまり この時代は、たとえば関税がものすごく低いんで す。まだあまり移民排斥も行われていないので、 人の移動もフリーだったんです。
ところが第一次世界大戦に入っていっきょに逆 転していく。実は、第二次世界大戦後1970年代、 80年代でも、貿易の総量に対する関税は、元に戻っ ていないんですね。このように見る角度によって は、グローバリゼーションというのは一直線で進 行してきたわけではまったくないので、こういう プロセスもあるということは、しっかり見ていか ないといけない。これが一つのポイントであると 思います。
地域世界が「並存した」時代
世界史の全体の構成としては、われわれの教科 書では、いくつかの時代区分を暗に想定しました。 世界史は、大まかにいって、三つくらいの時期に 分けるというのが適切かなと思われます。まず一 番古い時代から中世まで。この時期は、「世界」 は「地球」ではないということです。地球上には、 「地中海世界」や「中華世界」などという「世界」 がいっぱい存在しました。とくに、「ヨーロッパ」 と「アジア」とは、相互に関係はあるのですが、
………近代世界システムから見た近現代史 ………近代世界システムから見た近現代史
なお、一体化はしていません。
ところで私には、「アジア」についていうと「ア ジア」というのは、明らかにヨーロッパ人がつくっ た概念です。だから、日本人がドバイの人と同じ アジア人だということで、アイデンティティを共 有することはかなり難しいと思います。
ところが、われわれの歴史学は、交易の研究ひ とつをとっても、しばしば「ヨーロッパとアジア」 とか、「アジア間貿易」とかいうかたちで書かれ てきているわけです。「アジア」という概念は、 どうなんだろうと思うのですね。本日は、私以外 のお二人ともアジア史の先生なので、そのことに ついて教えていただければ、と思っております。
ヨーロッパ主導の「地球の一体化」の時代
話を戻しますと、地球上にいくつかの世界が存 在した時代から、大航海時代以降になると、世界 の一体化、つまり、今日に続いていく世界の一体 化がスタートしました。しかし、「世界の一体化」 というのは言葉が間違っていると思っています。 本当は、「地球の一体化」なんですね、それまで 地球上にあった諸世界が一体化していく、そうい う意味です。
ここでグローバリゼーションという観点からい うと、重要なポイントは一体化の主導権がヨー ロッパにあったということです。ヨーロッパ人が なぜ動き始めたのかというと、アジアに物質的な 繁栄があったからです。
要は、ことを起こしていったのはヨーロッパ側 だったということを理解しないといけないと思い ます。実際にはヨーロッパに主権国家──後のこ とばでいえば国民国家──が成立して、そこが中 核になって、資本主義が成立し、あるいは工業化 を果たしていくという時代になるのだろうと思い ます。これが第二段階の時代です。
とくに、近世以降、「近代世界システム」が成 立していくことになると、そこは教科書でも大き く扱いましたが、覇権、つまりヘゲモニーの移動 の話があります。
世界システムとしては、あまりヘゲモニーの話
ばかりしていると、焦点がぼける恐れもあります が、高校生にとっては割合わかりやすいというこ ともありますので、いわゆる超大国の出現を話題 としてとりあげています。
覇権には、オランダの覇権、イギリスの覇権、 アメリカの覇権がありますが、実際に覇権状況が 成立している時期は、ごく短期間にすぎません。 この場合もまた、現在の状況はどうかということ が、重要な問題になります。
つまり、アメリカのヘゲモニーが衰退している か否かということですが、これは諸説分かれてい ますが、私は衰退しつつあると見ています。しか し軍事力を中心に見る人は衰退しているようには 見ていません。
工業と農業の問題
ほかにたとえば、教科書でもとくに注意をした 問題として、つぎのような事柄もあります。一つ は、工業化の問題です。中世から近代への移行は、 一般に農業社会から工業社会への転換と捉えられ ことが多いですね。そのために、産業革命ないし 工業化が、従来、圧倒的に重要な画期とされてい ます。その場合、現代世界を工業社会ととらえる ために、それが重要視されたのですが、その工業 化が多くの環境破壊や資源問題をもたらすという ことも指摘されてきました。しかし、いまいろん な条件を考えると、農業社会というものも、環境 にとってどういうものだったのかという問題もあ りますし、また、工業化の先に何があるかという か、現在はもう工業化の時代ではないのではない かという考え方もあるわけですね。
金融と情報の問題
──「イギリス衰退論争」を例に
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いくと、イギリスは、金融面ではかなり頑張って いるという点につきます。ものづくり、つまり、 農業や工業は駄目でも金融と情報でやっていけば いいのかどうか、簡単にいうとそういう話です。 日本でも、ものづくりがおろそかにされているの は危険だという意見もあります。ものづくりは大 事なもので、それが実質的な経済なんですけども、 そこが重要なのか、情報と金融という、実体のな い、ヴァーチャルな世界だけでいいのか。それが 問題です。金融と情報だけなら、イギリスはそこ そこうまくいっている。しかし、それでもやっぱ り農業や工業が大事なんだというふうに考えるの か。それが大事と考えるなら農業革命とか産業革 命が重要であり、それらこそが現代世界の始まり だといえるわけです。しかし、そうでなければ、 金融とか情報とかの動向を重視して、時代区分も 多少組み換える必要があるということになりま す。ここが一つのポイントだと思います。
環境と資源の問題
それに、ものづくりについて考えていくと、現 代の環境と資源の問題と直結しますので、ここも 非常に重要なところですね。工業化、農業革命か ら生じた現象が現代の資源・環境問題につながっ ているわけです。同時に、現在、資源・環境問題 がものすごく深刻になっているのは、世界システ ムが地球全体を覆ったということと非常に深く関 わっているわけですね。世界システムがなぜ拡大 していくのかを、具体的に見ていくと、資源とエ ネルギーとかを求めて拡大していくわけです。そ こで、システムが地球全体を覆ってしまうと、も はやそれ以上の拡大の余地がなくなるわけです。 むろん、資源・エネルギー問題は昔からあります が、従来は、ある種の経済圏ないし生活圏という、 ある程度限定されている範囲で起こっていたので すね。たとえば16世紀のイギリスでは、人口が激 増したこともあって、鉄と石炭の使用が増加して いくのですが、その当時は、鉄を木炭でつくって いましたので、イングランド全域の森林を切り倒 してしまいました。現在の環境学で使われている
deforestation[森林の枯渇]という言葉は、16世 紀のイギリスに起こった現象を示す言葉としてつ くられたものです。
もう一例あげますと、16世紀のイギリスの中核 産業は、毛織物工業でした。人口増加に伴って、 これを急速に拡大しようとすると、羊を増やす必 要が生じますが、そのために、羊を飼うか、人間 が食べる穀物をつくるかという競争になります。 こういうデッドロック=食糧・エネルギー・環境 の危機を突破するために、イギリスは植民地を獲 得し、帝国を形成しようとしました。いわば世界 システムを拡大するかたちで、「周辺」から原料 や食糧を確保するという方式です。もうひとつの 解決方法が、産業革命を起こして、エネルギー源 を鉱物に転換していくということだったのです。 これらは、とりあえず地球の一部しか抑えていな かった当時の世界システムの内部、もっと厳密に いえば、イギリス一国のことであったわけですが、 いまはこのような危機が地球規模で起こっている わけです。
農業社会から工業化、工業社会から脱工業化に なっているという人も多いのだけども、金融と ITで本当に世界が成立するのかというと、それ はありえない。誰かが食糧や製品をつくらないと、 人間は生きていけない。
そこで、あらためて時代区分をすると、第一に、 人間が自然環境に順応しようとしている時代があ る。農業は、環境破壊の一面もあったが、基本的 に自然環境に順応していく方向だと思うんです が、それに対して工業化というのは、自然環境を 変えてしまおうとする時代である。さらに、現在は、 自然環境と共存しないといけない時代だという時 代区分ができあがるんじゃないかと思います。
エスニック・マイノリティの問題
………近代世界システムから見た近現代史 ………近代世界システムから見た近現代史
イギリス出身でアメリカで活躍している歴史家 が、『憎悪の世紀』という本を出して、「20世紀と は相互の憎悪が増幅した時代」だととらえていま す。確かにそのような要素もあると思います。19 世紀までは、トルコとかロシアとか中国とか、イ ギリスとか、さまざまな「帝国」が併存した時代 ですが、この時代の帝国はゆるやかな支配をして いるので、諸民族がその内部で共存できました。 しかし、20世紀、とくに第一次世界大戦後は、民 族自決という考え方が強く出てきて、帝国は崩壊 し、民族国家になっていったため、民族対立がか えって深刻化したというのです。今後どうなって いくかという点では、西ヨーロッパが全体に少子 高齢化になっていて、労働力不足になりますから、 アジアなどからの移民に頼らざるをえない、とみ ています。そうなっていくと、文化摩擦の問題が でてくる。相互の憎しみも、ちょっとしたきっか けから生まれることになるので、たいへんなこと になるだろうというのが、彼の意見です。 こうしたエスニック・マイノリティの問題に加 えて、男女の問題とか、家族の問題とか、人口増 加率の問題もものすごく深刻なものがあります。 人が移動した後の人口の問題もあります。たと えばイスラーム圏の人たちがイギリスに移住する と、入ってからの人口増加率が高いため、ヨーロッ パはこのままいくと、人口の半数くらいが移民の 子孫になる可能性があることも、この歴史家は警 告しています。
科学技術の問題
それから、この教科書で力を入れるべきだと 思ったもう一つの点は、科学技術の問題ですね。 宗教から科学へ転換があったという主張がかつて は強くありましたが、「転換」ではなく宗教から、 しだいに科学が出てくるというようななだらかな 変化と考えたほうがよいのではないでしょうか。 近世において、宗教の時代から科学の時代に移行 した、しかし、そうした科学一辺倒ではまずいだ ろうというのが、たぶん現代という時代ではない かと思います。したがって、こういう変遷も含め
て時代区分を考えていきたいと思ったしだいで す。ちょっと長くなってすみません。
鼎 談
【司会】川北先生には、総括的な話を含めてのお 話をいただいたわけですが、世界史教育危機論と いう話から、世界史教育はそれにどう答えるかと いう話からはじまって、一つの回答として、世界 史というのは現代の問題を考えるうえで、必要な 学問なんだというお考えを示されたと思います。 もう一つは総合的にそうしたことを考えるために 世界システムを入れてはどうかということをこの 教科書では考えたというお話であったかと思いま す。具体的には、環境問題から民族問題・男女の 関係などまで考えていく非常に幅の広い考え方と して世界システムをとり入れたということだった と思います。そしてこうした点を世界史教育を通 して考えていくことが、これからの高校生に必要 なのではないかというふうに、聞いていました。 それでは鼎談に移りますが、私も聞いていて ちょっとドキッとしたんですが、アジアをどう やってとらえたらいいのか。面白い提言をいただ いたなと思いました。
それでは、今の川北先生のお話に対して、ご質 問だとか、何かこういった観点も盛り込んだん じゃないかとか、裏話みたいなものがあればそれ も含めてお聞かせいただきたいのですが。いかが でしょう。
「考える」世界史をめざして
【桃木氏】では一つだけ。あとで私の番のときに と思っていたんですが。まずやっぱり、世界史教 育をめぐる状況はとても危機的であると思いま す。
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昔からある話ですが、教科書を教えるか、教科書 で教えるかという問題があるでしょう。
後で述べるように、この教科書自体をストー リー性をもった、読めるものにしていくという川 北先生の考えには賛成でそう書いたつもりなので す。しかし、高校世界史だけ頑張っても、所詮蟷 螂の斧で、われわれがあまり一所懸命やっても しょうがない。不十分な努力はしないほうがいい と。やはり中学校までで、暗記型、縦割りの歴史 ということを刷りこまれてしまった生徒が多い し、また高校の先生のなかにもそういう教え方が 正常だと思っている先生がいるのではないでしょ うか。しかしこれは世界史だけの問題だけではな く、国語教育が変わってくれないことには、われ われがいくら変わろうがどうしようもないことと 思っています。ところで二つのことを私はいつも 考えているのですが、二つめのことは後に廻した ほうがいいようですので、一つめのこと。それは やはり、世界史Bという教科が生徒にものを考え させるような教育でなければどうするんだと。そ の詳しい、難しい内容に対応した、物の考え方を 育むものになっていなくてどうするんだろうとい
うことは本当に強く思っています。
高校の先生は、いま中学では教え方が足らない と文句をいっている。しかし私の中学生の子ども をみても、中国ならイン、シュウ、シン、カン… ナチス・ドイツなら水晶の夜など、難しいことを ずいぶん覚えている。だから、その文句は、間違っ ていると思います。私はやはりそんな暗記は大幅 に減らして、その分、考え方、調べ方、説明の仕 方等々を教える時間をとる。教科書もその後押し をするようなものにしないと、このままではいけ ないと思います。関連して、もう一つ。
言語学者で面白いことをいっている人がいて、 英語というのはどういう言語かというと、全能の 神の視点で、はるか上空から全人類を見下ろして、 その動きを記述する言語だ。それに対して、日本 語というのは、対照的に、草むらを這う虫の目で ずっと上の方を動いている動物やらなんやらの動 きを記述する言語だと。
グローバル・ヒストリーというようなものを理 解する必要があると認めるのであれば、日本語に 英語のような全能の神の視点で遙か上空から全人 類を見下ろしてその動きを記述するという機能を
①16世紀半ば
近代世界システムに組み込まれた地域
②17世紀半ば
覇権国: オランダ
③19世紀はじめ
覇権国:イギリス
④20世紀半ば
覇権国:アメリカ
② 近代世界システムの広がり 西ヨーロッパと「新
大陸」からはじまった近代世界システムは,しだいに 世界全体に広がっていった。
中核 西ヨーロッパ
北アメリカ
周辺 東ヨーロッパ 西アフリカ ラテンアメリカ
工業製品
食料・原材料・ 労働力
① 近代世界システ ムのしくみ 周辺地域 は中核地域の工業化を 食料や原材料の供給で ささえた。中核と周辺 の地域は時代によって かわる。
………近代世界システムから見た近現代史 ………近代世界システムから見た近現代史
もたせるぐらいのことを、逆立ちしてでもやらな くてはいけないと思います。
それからもう一つは、その歴史の授業や地歴・ 社会科の授業でも、それなりに理屈や説明という のがあるわけですが、私はよく大学の授業で理科 の教え方に喩えることがあるのです。
19世紀くらいの歴史学で、王朝や国家のことだ けをやっていたような歴史学というのは、自然科 学からいうと、天動説にたとえられると思います。 それが、新しい動きが出てきて、ようやく地動説 にはなってきた。ニュートンも出てきた。でも歴 史学はアインシュタインの段階にはまだ行ってい ない、というのが私の考え方です。
この点、われわれの世界史は何も、本当に学問 の最先端を教えようとしているわけではないんで す。そんなことをするとすぐにひっくり返されて しまいかねないわけです。それにしても、せめて DNAくらい教えよう、素粒子というものがある んだぐらいは教えようじゃないかというのが私の 主張です。
だからそのために、やはり、教科書も変える必 要があるし、教科書だけではやっぱり駄目。それ だけで学校教育を変えろというのは先生方にも酷 だし、解説書も含めて教えられるようにしていか ないと、世界史Bなんていう科目は駄目になると 思います。
【司会】実は、私が営業で回っていて、この教科 書が評価された点の一つに、因果関係といいます か、なんでそういうふうな歴史が展開していくの かということが非常によく書けていてよいという 意見が多数ありました。また、もう一つが「視点 をかえて」というコラムでして、もっとこういっ た視点を取り上げてほしいという意見も多数あり ました。先生方も、世界史にはもちろん受験とい う制約があるんですが、やっぱりそれだけじゃ駄 目だというふうには、お感じになっているんだな と感じました。教科書会社側としてはいま桃木先 生にお話いただいたようなこと、つまり暗記だけ ではない「考える」素材を提供しているといった
ことも踏まえて、この教科書に込めた執筆者の先 生方の想いというのを伝えていかなければいけな いなぁと思いました。
【桃木氏】そのことに関して、もう一つだけ。ま さにおっしゃるとおりで、21世紀に生きる若者た ちをどういう教育をしたらいいかというときに、 ありふれているけれども、国際人として、やって いけるような人を育てることは絶対必要なことだ と思います。
世界史だけとはいわないけれども、世界史とい うのはそういう能力を身につける、物の見方とい うのは一つだけではないんだと。複数あって、そ れが必ずしもどれが正しいと簡単にいえないこと もたくさんあるんだというようなことも歴史的な 実例を通して理解させることが大切ですね。
【司会】ありがとうございます。他に、川北先生 へのご感想などいかがでしょうか。
世界の歴史の見取り図がえがけるように
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ら世界の見取り図、歴史の大枠が頭の中にあれば、 社会人になって突然仕事で外国のことを扱わなけ ればならなくなったとしても、相手への理解や現 状の把握が全然違ってくると思うんですね。骨格 さえ理解していれば、詳しいことは後で必要に応 じて自分で補うこともできますが、全体の枠組み を与えるのは世界史教育の役割だと思います。 その見取り図を頭の中にしっかりと描いてもら えるよう、執筆にあたっても、因果関係や流れ(ス トーリー)のわかる叙述を心がけました。
視野の狭さをなんとかしたい
【杉山氏】もう一つ感じていることを申し上げま すと、近年の趨勢として、教育の現場から政治・ マスメディアに至るまで、視野が狭くなっている というか近視眼的になっているというか、知識や 思考がどんどん断片的、刹那的になっているとい うように感じます。
パソコンやインターネットの普及で情報はあふ れかえっているのに、逆にそれをきちんと系統 だって集め、把握しようとはしない。まして歴史 的な背景・淵源に溯ろうとはしない。しかし、世 界の過去や現在を理解するには、断片的な知識を ただかき集めても駄目なんですよね。タテとヨコ にどれだけ広い視野をもって物事を眺めることが できるか、それを歴史の流れのなかに位置づけて 整理・理解できるか、結局それがものをいう。 そういう意味でも、歴史を学ぶことによって、 長いスパンで物を見る目、姿勢を養ってほしい。 そのためにも高校生には、歴史の流れの大枠と世 界の見取り図というものを、骨組みだけでもいい から押さえてほしいと思いますし、またわれわれ も、教育現場にも社会に対しても提供していく必 要があると強く思います。
軍事力とそれにまつわる問題をどうとらえるか
【杉山氏】最後に川北先生のお話に関連して、も う一つポイントになると思ったのは、やはり軍事 力とそれにまつわる問題をどうとらえていくかと いう点です。まず前近代は陸上の軍事力が決定的
な役割を果たしましたし、やがてそれが海上の軍 事力の時代へと推移する。それからお話のなかで 情報と金融をポイントとしてあげられていました が、情報というのも自他の命運を左右する要素と いう点で、直接的な軍事力にも劣らず重要なもの といえます。
どうしても軍事力というと、たとえば軍事史と いったら戦闘の歴史、つまり戦史と混同されるよ うに──そういうのが好きな人の需要というのは 必ずあるのですが──、むき出しの暴力というふ うに狭くとらえてしまって、その結果否定的にし か扱われないことになる。しかし、軍事力という ものは、直接的な打撃力の問題だけでなく、政治 力・総合国力の問題でもあり、さらにいうならば 直接行使しなくてもその力を背景にして自分の意 思を相手に及ぼすことができるという点で、歴史 を動かす大きなモーメントの一つだと思うのです。 それを戦史とは違うかたちで、適切なかたちで 盛り込んでいくことは、今後の課題だと思います。 たとえば、20世紀についても先ほど川北先生がふ れられた『憎悪の世紀』というとらえ方や虐殺の 世紀といういい方もありますが、歴史における軍 事力の問題を、単純な戦史ではなく広く人類史に おける暴力の問題としてとらえるならば、それら も同じ範疇の問題として考えることも可能にな る。人類史の負の側面をきちんととらえ、考えて いくというのは、まだこれからですけれども教育 のなかで必要なことだと思いますね。
【川北氏】両先生とも世界史離れを心配されてい るようですが、ちょっと気になるのは、われわれ は世界史離れといいますが、地理離れというべき 現象も深刻といわれていて、何か共通の背景があ ると思います。
強みがあると思うんですね。
一方、事実を何も知らないのに考える歴史と いっても考える土台がないというジレンマもあり ます。しかし、だからといって、暗記すべき事項 をどんどん入れていくと、もう覚えることがいっ ぱいになってしまいます。バランスが大切だと思 います。細かい事実は、ちょっと本でも持ってい ると調べることができる。ネットで確認すること もできる。むしろ、そうした調べる能力が大事だ と思います。
あらゆる情報源を駆使して、何をどう調べて、 どう判断するかが社会人としての力だと私は思い ます。
アメリカの覇権(ヘゲモニー)の確立はいつか
【司会】最後に私から一点だけ。これは川北先生 がお書きになったところではないのですが、1873 年の、大不況を境にアメリカとドイツが中核国に なっていき、その後アメリカの覇権が確立します が、その確立は、第一次世界大戦でアメリカが世 界一の債権国になったとき、これが金融との絡み で覇権が確立したと見るのか、それともブレトン= ウッズ体制で覇権が確立したと見るのか、先ほど、 金融の話がでましたので、このところの整理をど ういうふうに考えるべきなのかなと。
【川北氏】アメリカの覇権(ヘゲモニー)につい ては、厳密に議論をすると、かなりやっかいな問 題になるとは思うのですが、一般にはブレトン= ウッズ体制の話をしていると思います。ただ、一 連の流れとしては、1870年代くらいからアメリカ 勃興の傾向がでてくる。イギリス型の産業革命と いうのは、軽工業で始まって、鉄道などの重工業 に展開するのですが、アメリカ型の産業革命では、 はじめから重工業が中心になっていくことになる と思うんですね。しかし、金融とか情報とか、と くに金融の力は、イギリスはその時期に衰えたと いうことはない。むしろ、金融の中心、ロンドン のシティは強力であった。他方、製造業の世界、 ものづくりの世界では、その頃から、ドイツとア
メリカに抜かれていく。イギリスは「世界の工場」 ではなくなっていく時期にあたる。
それで、イギリスの代わりに、製造業でどこの 国が出てくるかというと、広くドイツ、アメリカ、 ロシア、日本などなのですが、どちらかというと、 日本やロシアはちょっと遅れていくかなというこ ともあって、ドイツ、アメリカのことが強調される。 しかし、世界戦争が始まると、先ほどの『憎悪の 世紀』の著者がはっきり言ってるんですが、ヨー ロッパは第一次世界大戦で、あらゆる製造業のリ ソースを戦争にむける。これに対して、アメリカ と日本は、非軍事物資をつくることで圧倒的に有 利な立場になった。こうして、第一次世界大戦中 に、すでにアメリカはかなり有利になったんです が、それでは、アメリカが世界システムのヘゲモ ニーを確立したのかというと、そういうことには ならない。とくに、金融面で見ると、そういうこ とはないので、「生産の面でも流通の面でも金融 の面でも、世界をおさえた状況」と定義できる「覇 権(ヘゲモニー)」の状態には至っていません。 19世紀のイギリスは、シティを中心に、なお金 融面では世界を支配していました。しかし、もの づくりでは、アメリカやドイツに遅れをとりはじ めている状況でした。イギリス国内では、工業保 護をめざしたジョゼフ=チェンバレンらの帝国特 恵関税の設置を求める運動もあったのですが、自 由貿易主義を掲げるシティの力が強く、実現しま せんでした。このことが、結局、イギリスの衰退 につながったとする強い意見もあるのですが、反 対にいえば、それだけ、シティの金融界の力が強 かったということでもあるわけで、第二次世界大 戦後まで、この面では、ニューヨークはロンドン に及ばなかったのです。
以上、第一回の基調提案・鼎談をおわります。 弊社では、このようなかたちでの企画を初めて行 ってみました。もしご感想などございましたら、 編集部宛お手紙をいただけるとうれしいです。 10月号では杉山先生の基調提案と鼎談になりま す。
はじめに
ヴェネツィア生まれのマルコ・ポーロといえば、モ ンゴル帝国時代の東西世界を結んだ旅行者としてあま りに有名な人物であるが、彼の旅行から半世紀ほどの ちの14世紀前半、当時の西ヨーロッパ世界を除くユー ラシアとアフリカの既知の世界のほぼ全域を踏破した 男がいた。現在のモロッコ北部、ジブラルタル海峡に 面した港町タンジール生まれのベルベル系ムスリム、 イブン・バットゥータ(1304-1366/67)である。 イブン・バットゥータによる30年近くにわたる数奇 な旅の記録は、マリーン朝のスルタン=アブー・イナー ン・ファーリス(在位1348-59)の求めに応じて、ま ず宮廷書記によって書き取られ、その草案をもとに、 グラナダ出身のイブン・ジュザイイが文学者としての 才覚を発揮して、序文を書き加えたり、詩句の引用と スルタンに讃辞を呈する美文調の文章を随所に挿入す るなどの整理・編集を加え、『大旅行記』−正式の題 名は『都会の新奇さと旅路の異聞に興味をもつ人びと への贈り物』、一般には『イブン・バットゥータのメッ カ巡礼記』として知られた−を編纂した(1355年12月 9日完成、56年2/3月に数種の写本を作成)。 連載の第1回では、イブン・バットゥータが故郷の 町タンジールを旅立ってから、最初の目的地であるイ スラーム第1の聖地メッカに至るまでの旅のあらまし を説明することによって、彼の旅をささえた情熱の源 泉とはなにであったのか、また旅を可能にした当時の イスラーム・ネットワークとはいかなるものであった のかを考えてみたい。
東方への旅のプロローグ
イブン・バットゥータの家族や家系について、また 彼の若いころのことは、『大旅行記』のなかで彼自身 が伝えていることと、若干の歴史家や伝記学者たちに よる断片的な記録を除いて、あきらかでない。なお、 イブン・バットゥータのイブンは「息子」「子孫」を
意味し、バットゥータ−バトゥータと読む説もある− は、いわば姓であり、家系の名として現在でもモロッ コにおおく残されているという。彼の実イ ス ム名はムハンマ ド、またアブー・アブド・アッラーはいわば父系をあ らわす添クえン名ヤである。なお、東方イスラーム世界(マ シュリク)の各地を旅しているとき、人びとは彼のこ とをシャムス・ウッディーン、またはバドル・ウッ ディーンと呼んだ。これは宗教的な尊ラ カ ブ称で、「宗教の 太陽」「宗教の満月」の意味である。
14世紀の伝記学者イブン・ハティーブによれば、イ ブン・バットゥータは1325年6月14日に故郷の町タ ンジールを離れる前から、学問研究に若干のかかわ りをもっていたこと、出発してわずか3か月後のチュ ニス滞在中にメッカ巡礼キャラバン隊(ラクブ)が 組織され、その公認法官(カーディー・アルハッジュ) として任命されたことなどから判断して、すでに若 くしてマーリク派(イスラーム・スンナ派四大法学 派の一つで、当時、マグリブとアンダルスの諸地方 においておおきな影響力をもっていた)の法カ ー デ ィ ー官職を 務めるに足る学問を修めていたと思われる。
21歳のとき、「親しく付き添ってくれる旅ラ フ ィ イ ー クの仲間も なく、集団で行く[メッカ巡礼の]キラャラバン隊に加ク ブ わるのでもなく、ただ一人の旅立ちであったが、押さ え難い心の強い衝動に駆られ、またあの崇高なる約 束の場所[聖地メッカとメディナ]を訪れたいとい う胸の奥深く秘めていた積年の思いがあった。(中略) あたかも鳥たちが巣立ちするが如く、わが故郷をあと にした。その当時、私の両親はまだ健在していたので、 その二人から遠く離れることが何よりも堪え難いほ ど心残りであった」と、イブン・バットゥータは述 懐しているように、不安と期待が交錯するなか、故 郷をあとにした。そのときの旅の目的は、ムスリム にとっての宗教的義務の一つであるメッカ巡礼(ハッ ジ)を果たすことにあった。また、ダマスクスやメッ カで著名な学者・知識人たち(ウラマー)と会って 学問を修得することも、彼の重要な目的であったと 14世紀の世界旅行 イブン・バットゥータをめぐるユーラシア世界 第1回
イスラーム・ネットワークの時空に生きる
思われる。
ムスリムたちにとって、メッカ巡礼はイスラームの 信仰をささえる五本の柱(実践行為)の第五にあげら れ、聖典『クルアーン』(第3章第90節)にも「誰で もここ(メッカ)まで旅して来る能力がある限り、こ の聖殿[カーバ神殿]に巡礼することは、人間として アッラーに対する[神聖な]義務であるぞ」と規定さ れている。したがって、経済的・社会的条件が許され る限り、イスラーム世界の辺境にある中国や中央アジ アのムスリムたちも、またサハラ砂漠を越えたニ ジェール川流域の黒スーダーン人地域のムスリムたちも等しく、 一生のうちで一度はメッカを詣でることが宗教的な務 めとされていたのである。
13世紀以降になると、チュニス、カイロ、ダマスク ス、バグダードとタイッズ(イエメン)などの諸都市 は、国家の編成する巡礼キャラバン隊の発着地となっ た。そして、イスラーム系国家や支配者にたちにとっ て、それらの諸都市からメッカに至る巡礼キャラバン 道(ダルブ)の安全を守り、巡礼者たちを保護するこ とは、支配者の権威と信頼を一般民衆に誇示するうえ でも、重要な責務となっていた。
チュニスやカイラワーンには、マグリブとアンダル スの諸地方やサハラ砂漠のオアシス都市、ニジェール 川沿いに成立した黒人系の諸国家を出発地とする多く の巡礼者たちが集結した。彼らは、「マグリブ巡礼隊(ラ クブ・マグリビー、ラクブ・アルマガーリバ)」として、 ひ と つ の キ ャ ラ バ ン 隊 に 組 織 さ れ、 ハ フ ス 朝 (1228-1574、東部アルジェリアとチュニジアを支配し たベルベル系マスムーダ族による王朝)によって任命 された巡礼司令官(シャイフ・アルハッジュ)が巡礼 隊を統率し、巡礼旗を掲げながら、スファークス、ト リポリ、アレクサンドリアなどを経てカイロに向かっ た。そして、カイロではマムルーク朝によってエジプ ト巡礼キャラバン隊(ラクブ・ミスリー)が組織され、 西から来たマグリブ巡礼隊と合流してメッカに向かっ た。エジプト巡礼隊には、『クルアーン』の写本とカー バ神殿の覆い布(キスワ)を納めたマフミル(ラクダ の背中に設置された飾り輿こし)が随伴し、その送り出し と到着の行事は、王権の象徴として、また支配者と民 衆が心をひとつにして歓喜に沸く一瞬であった。 イブン・バットゥータがチュニスに到着したあと、 しばらくするとヒジャーズ地方に向かう巡礼キャラバ
アナトリア
明の建国 1368 貧農出身の朱元璋,紅巾 の乱の混乱のなかから台 頭し,明を建国。
アンカラの戦い 1402 ティム−ルにオスマン帝国敗れる。 マンサ=ムーサ王,メッカ巡礼。 途上カイロやメッカでたくさ んの黄金を振るまう。
トゥグルク朝の太守が独立。
パレンバンを完全征圧。 マラッカ海峡地域の港 市連合を解体させる。 黄帽派(ゲルク派)の
ツォンカパが,チベッ ト仏教を改革。
モスクワの台頭
キプチャク=ハン国から ロシア諸公国の徴税を ゆだねられ、台頭。
ティムール旗あげ 1370 モンゴル帝国の有力貴族出身の ティムールが建国。
旧チャガタイ=ハン国の 西半分と旧イル=ハン国 領は,分裂して混乱状態。
デリー=スルタン朝 マムルーク朝
リューベク ハンブルク
教皇領
サマルカンド
ティムール帝国 オスマン帝国
ド ニ エ プ ル
川
ナ イ ル 川
ナ 青 イ ル ナ 白 イ ル
シ ル 川
ア ム 川
イ ン
ダ ス 川
エー ヤ ワ ディ ー 川
メ コ ン 川
長 黒 竜 江
江 バ
イ カ ル 湖 イ
ル テ ィ シ ュ
川
河 黄
ガ ン ジ ス 川
地
中
海
アゾフ海
黒 海
紅
海
ペ ル
シ ア 湾
カ ス ピ 海
ア ラ ビ ア 海
黄海 東
シ ナ 海
南 シ ナ 海 日
本 海
アラル海
ベ ン ガ ル 湾
イ ン ド 洋
太
洋 平
ア ル タ イ 山 脈
モ ン ゴ ル 高 原
ヒ マ ラ ヤ 山 脈
イ ラ ン 高 原
サ ハ ラ 砂
漠
ソコトラ島
アンダマン 諸島
ニコ バ ル 諸 島
モ ル デ ィ ブ 諸 島
モルッカ (香料)諸島
ヒ ジ ャ ー ズ アラビア
アナトリア
ハドラマウト
シンド
ネパール
ジャワ スマトラ
ボルネオ ルーシ(ロシア)
ヨ ーロ
ッパ全域へ
ヨ ーロ
ッパ全域へ
1250∼1517 13C∼15C 1243∼1502 1228∼1574 1196∼1465 1206∼1526 1336∼1649 1347∼1527 1370∼1507 1271∼1368 1320∼1413) 1293∼1527? 918∼1392 1225∼1400
カルマル リガ リューベク ハンブルク
ボルドー
トンブクトゥ ガオ ジェンネ
チュニス ジェノヴァ アヴィニョン
ウィーン
アレクサンドリア
ジッダ メッカ メディナ
マッサワ
アデン
モガディシュ
マリンディ モンバサ
ザファール マスカット ホルムズ バグダード カッファ
キエフ スモレンスク
イエレス
タブリーズ レイ
イスファハーン ウルゲンチ
ブハラ メルヴ ニシャープル
ヘラート
カンダハル カーブル バルフ キシュ
ガズナ
ムルターン
ゴア
カリカット クイロン マドゥライ
コロンボ ラホール
ホータン
ラサ ヤルカンド
カシュガル クチャ
トゥルファン アルマリク
沙州 (敦煌)
チッタゴン パガン
サムドラ
ジャンビ パレンバン
スラバヤ ブルネイ スコータイ
チェンマイ 粛州 カラコルム
甘州 ヌルカン
平戸 坊津 フェズ
クカ カアリ サワーキン アイザーブ アスワン
クサイル キフト バルカ トリポリ
ターナ ウラジーミル
トレビゾンド
アレッポ
クーファ バスラ
ザンジバル
シフル モカ
ライスート ハマダーン
ブルガル
ダイブル
タンジョール カンベイ
アグラ
ビシュバリク
カータカ
ヴェーンギー グルバルカ
ナディヤ
テナッセリム
タンブラリンガ ケダー
パジャジャラン ヴィジャヤ パンドゥランガ 昇竜 涼州
興慶
ダマスクス
ベラサグン
大同 太原
べんりょう こう 登州 膠州 梁 河南 奉元 襄陽
鄂州
成都 重慶 江陵 竜興
天臨
大理 中興 広州
泉州 福州 高郵
がく 慶元(寧波) 集慶(南京) 開元
(長沙) (京兆府) シビル
(旧)サライ
オトラル
アラハバード
ペグー
モスクワ
ロンドン
パリ
リスボン トレド
グラナダ ローマ
プラハ
コソヴォ
ブルサ クラクフ オーフェン
カイロ
ノヴゴロド
モスクワ
ヴィジャヤナガル ダウラタ−バード
デリー
アユタヤ
京都 ニコポリス
マラケシュ
マジャパヒト アンコール (新)サライ
上都
大都 ヴェネツィア
コンスタンティノープル
サマルカンド コンスタンティノープル
イングランド王国 デンマーク スウェーデン ノルウェー
ジャラ−イル朝
東チャガタイ=ハン国 (モグーリスタン)
チベット フランス王国
カスティリャ 王国 ポルトガル
王国
マリーン朝 ナスル朝
マリ王国
ザイヤーン朝 ハフス朝
カネム王国
マムルーク朝 ヴ
ェ ネ ツィア
共和 国 教皇領 アラゴン王国
スイス
神聖ローマ帝国 ドイツ騎士団領 リトアニア大公国 ポーランド
王国
ハンガリー王国
オスマン帝国
ティムール帝国 (ジョチ=ウルス)
キプチャク=ハン国
デリー=スルタン朝 (トゥグルク朝
バフマニー朝
ヴィジャヤナガル王国
元(大元ウルス)
アユタヤ朝 大越(陳朝) ダイヴェト
チャンパー
マジャパヒト王国
高麗 コ リョ
日本
(南北朝時代)
ランサン
カンボジア セルビア
ウイグル オイラト キルギス
女真
じょしん
0° 120°
60°
30°
0°
60° 120°
0° 30° 0° 15゜ 15゜ 45゜ 45゜ 15゜ 30゜ 75゜ 75゜ 90゜ 90゜ 105゜ 105゜ 135゜ 135゜ 150゜ 150゜ 15゜ 15゜ 30゜ 30゜
45゜ 60゜
45゜ 1 1 2 3 3 4 4 5 6 5 A B B C C D D E E F F G G H H I I J J K K L L M 5 6 東アジア
紅巾の乱の流れをくむ反乱勢力 朱元璋の勢力 14世紀前半の元の領域
ヨーロッパ カルマル同盟 イングランド領 ヴェネツィア領 ビザンツ帝国領 イスラーム(ティムールの拡大)
1370年建国時のティム−ルの勢力圏 ティムール帝国の最大領域 ティムールの進出 トゥグルク朝直接統治地域の最大範囲 イブン=バットゥータの旅行路
イスラーム国家
おもな陸上交通路 おもな河川交通路
14世紀ころの世界
14世紀ころの世界
百年戦争 1339∼1453 英仏両国が,現在のフランス領内 を戦場に約百年にわたり抗争。
ペスト(黒死病)大流行 ペスト伝播の推定ルート 疫病の大流行が記録されるアジア・ アフリカのおもな都市
(1397∼1523)
こうきん しゅげんしょう 東方貿易の展開
により勢力拡大。 ティムール (1336∼1405)
ン隊が組織された。彼はその巡礼隊に所属する法官に 推挙され、隊旗をかざしつつ、隊列の先頭に立って進 んだ。そして、キャラバン隊に同行していたフェズ出 身のターリブ階級の人(マリーン朝の行政・管理にか かわる役人、法官や学問・教育にたずさわる人)の娘 を妻として娶ることになった。当時の一般的な慣習と して、同じキャラバン隊に所属する旅仲間(ラフィー ク)は、ジワールの関係(相隣関係と相互保護)にあ るので、しばしば仲間同士が婚姻関係を結ぶことが あったと思われる。
地中海に臨むエジプトの都市アレクサンドリアを訪 問したイブン・バットゥータは、その後、ナイル・デ ルタ地域を通過して、マムルーク朝の首都カイロをめ ざした。その旅の途中で、彼の未来の運命を決定する ような出来事があった。それは、ふたりの聖ワ リ ー者と出会っ て彼の東方の旅を予見する話を聞いたことである。聖 者のひとりはイスラーム神秘主義教団(タリーカ) シャーズィリー派のムルシディーという長シャイフ老で、ナイ ル川の岸辺からほど近いザーウィヤ(スーフィー教団 の修道場)で孤独の生活を送っていた。イブン・バッ トゥータは、訪れたザーウィヤの屋上で真夏の一夜を 過ごしたが、不思議な夢を見た。そこで、翌朝、ムル シディーにその夢の判断をしてもらうと、「そなたは、 やがてメッカ巡礼を遂げ、[メディナにある]預言者[ム ハンマド]の聖墓を参拝したのち、イエメンとイラク の諸地方、そしてトルコの諸地方、インド地方を遍歴 し、インドには長い間留まるに違いない」と、告げら れた。この聖者を通じて神託をうけたかのように、し だいに彼の心のなかには、遙かな国々まで行ってみた いという希望が芽生えたのである。
その後、聖者ムルシディーの言葉どおりに、イブン・ バットゥータはエジプトとシリアの諸都市を経て、 1326年11月にメッカで行われた巡礼大祭に参加し、さ らに東アフリカ海岸、バルカン半島、南ロシア、中央 アジア、インド、東南アジア、中国などを遍歴し、いっ たんモロッコに帰国してからも、イベリア半島南部、 さらにはサハラ砂漠を縦断してニジェール河畔の黒人 王国マーッリー(マリ・タクルール王国)まで足を延 ばすことになった。こうして、彼の旅は人生のもっと も多感な21歳から50歳までのほぼ30年間におよび、実 に旅の全行程は、現在のほぼ50か国にまたがり、11万 7000kmにも達した。
イスラーム世界を行き交う人びと
では、イブン・バットゥータが長期にわたって、し かも当時知られていた旧大陸の西ヨーロッパ世界を除 くほぼ全域におよぶ大旅行をつづけることができたの は、なぜだろうか。それは、彼自身が未知の世界に憧 れるままに、旅に生き、旅に学び、旅を全人生とした からである。彼自身の言葉を借りるならば、「私はこ の目で見て、その真実を知ることに無上の喜びを感じ た」「なんでもこの目で実際に見届けたい」とする強 い願望を抱き、「できる限り一度通った途みちをもとに戻 らぬ」というのが彼の一貫した旅の哲学であり、他人 からも遠行漫遊を好む遍ラ ッ ハ ー ル歴の人であるとみなされた。 また、彼がイスラーム世界を自由に旅することがで きた理由のひとつには、マーリク派法学についての高 度の知識をもち、豊富な経験・情報とすぐれた判断力 をそなえていたことがある。当時のスンナ派イスラー ム法学においては、ハナフィー派、マーリク派、シャー フィー派、ハンバル派が正統四法学派の地位を確立し、 法廷ではこれらの法学派に属する法官が自説の主張を 重ね、四法学派の合議によって最終的な判決が下され た。従来、東方イスラーム世界ではシャーフィー派や ハナフィー派の法官たちが多数を占めていたため、と くにマーリク派法官については不足していた。このこ とは、彼の東方の旅を容易にした重要な条件の一つで あったと思われる。こうして、インドのデリーには8 年間、インド洋に浮かぶモルディブ諸島のマーレ島に は一年近く滞在し、マーリク派の法官として国家や地 域社会で厚遇され、人びとから高い尊敬をうけていた のである。
1 はじめに
世界史授業での人物教材は、偏りすぎれば英紩 のみが歴史を動かすという見方を植えつけてしま うが、 果的に用いればその時代の特徴を生徒に 伝えることができる。
今回の舞台は16〜18世紀のインド、登場する のはムガル帝国のバーブル、アクバル、アウラン グゼーブの3人の皇帝である。
2 ー ル( 、 )
中央アジアのフェルガナ地方にティムール朝の 王子として生まれた。父はトルコ系、 はモンゴ ル系であるが、本人はモンゴルと呼ばれるのを好 まなかった。12歳で父を い、フェルガナ地方の 太守となるが、彼の転機は1504年のカーブル征服 のときであり、ここを本拠地として、以後しばし ば北インドに 入した。
1526年には、北インド支配をめぐってロディー 朝の 主と決戦を行った(第1次パーニーパット の戦い)。このときのバーブル軍の戦術は次のよ うであった。まず 700台をつなげてバリケー ドとし、その間に100騎ほどが通れる間 を何か 所かあけて騎兵を待機させ、 の後ろには 兵 および小 隊を配置して 護態勢をととのえた。 そして、左右両絒の端に楍 を配置し、敵軍が近 くまで来たら、右と左からその背後にまわり込ん で混乱させるというもので、騎兵・ 兵・小 隊 の連係よろしく、見事に敵軍を打ち破った。 ムガル帝国の建国者バーブルは、「浄上で天下 を取った」武人であると同時に、優れた文人でも あり、その生 に多数の詩を残している。また、 その回想録『バーブル・ナーマ』は、トルコ 文 学史上の最高 作とされる。宗教的にはスンナ派 ムスリムだが 信的ではなく、 容な支配者で あった。
3 アク ル( 、 )
父帝フマーユーンが階段から絝ちて急 したの にともない、アクバルは13歳で即位した。当時、 ムガル帝国はパンジャブ地方の一部を支配するに 過ぎず、インドは諸勢力の群紩割拠の状態にあっ た。その中でも、ヒンドゥーの武将ヒームーは北
インドに勢力を拡大し、さらに政治・軍事の要地 デリーをムガル軍から壻い取っていた。このヒー ムーにアクバルが奝んだのが第2次パーニーパッ トの戦い(1556年)である。戦いに勝利したアク バルは、その後うるさ型の老棸バイラム=ハーン と値 マーハム=アナガの一派を退け、本格的に 親政を始めた。
1562年、ラージプート勢力の王女と結婚してヒ ンドゥーと同盟関係を結ぶとともに、 綇の強制 改宗と奴隷化を した。1563年にはヒンドゥー の聖地巡礼税を、翌64年にはジズヤ(人頭税)を 浆 し、 容と融和の楍神を基本とする政策を実 施した。一方、敵対する勢力には断固たる方椀で のぞみ、1567年から69年にかけてラージプート族 の拠点を攻め絝とし、1576年までには北インドを 統一した。
この皇帝は、もの作りが非常に好きであった。 そのため「職人たちとともに石切場で石を切り出 すこと」もあり、「各種の職人たちの仕事ぶりを
人 を って をまとめる授業実践例 世界史A
ム ル
の
大阪府立浡太高等学校 一 一
眺める」だけでなく、「 しみから彼らと同じ作 業を行ないさえする」気さくな人物であった(図 ①)。また、意外にも字の読み書きはできなかっ たが、好奇心は非常に強く、「学者を常時近くに えさせ、さまざまな事柄を俋論させ、いろいろ な話を語らせる」のが常であった。
名 アクバルも、子どもの問題では苦労した。 3人の男子いずれもが の飲みすぎなどで身体を こわし、次男は1599年、三男は1604年にそれぞれ 親に先立ち くなり、残る長男サリーム(のちの ジャハーンギール帝)も保守派貴族にそそのかさ れて1601年に反乱をおこした。父子の仲をとりな す周囲のすすめで、サリームはアグラへ到着し、 父の前で平渫した。すると、それまでおだやかだっ たアクバルが、いきなり息子の緾をつかんで私 に引っ張り込み、 に平手打ちをくらわした。さ らに結 に1日中 じ込め奜らしめた結果、子は 父に 罪しようやく許されたという。しかし、子 は最後まで父の思い通りにはならなかった。「親 の心、子知らず」という言葉は、時代と地域をこ えて存在するらしい。
4 ア ラング ー
( 、 )
第5代シャー =ジャハーン帝には4人の息子が いた。長男ダーラー、次男シュジャー、三男アウ ラングゼーブ(図②)、四男モラード=バクシュで あるが、この4人が帝位をめぐって激しく争った。 ダーラーが「うぬぼれの強すぎるところがあり、 何でも一人でできる」と思う性格であるのに対し、 アウラングゼーブは「本心を見せぬ い性質と、 王位に対するひそかで激しい野心」を持つ人物で、 来るべき対決に備え、手を打っていた。ダーラー への 侓心を持つ3人の佚たちは、武力で を除 こうとして軍を動かした。この戦いで佚たちの連 合軍は の軍を破り、さらにアウラングゼーブは 計略を用いて次男と四男を破り、渇望していた帝 位を手に入れた。
アウラングゼーブは、宗教的には敬 なスンナ 派ムスリムで、その生活は質素を極めた。朝5時 に起 し、モスクで朝の りを行いコーランを読
み、 後には りの会 を主 、日没時には紫 べの り、夜にも り、
に着くまでの数時間 は宗教的 想にひたる という過ごし方であっ た。この間、書類に目 を通し、指示を与え、
見を行うなど楍力的 に仕事をこなした。検 時間は 日4〜5時 間で、衣食は質素を心 がけ、 を飲まず、金 の食器を用いずとい う 絎的生活であった。
しかし、この真面目さが帝国支配には いと なった。アウラングゼーブは「異教徒の国」を「イ スラームの国」に変えるため、イスラーム法を厳 格に統治に適用し、反対する者には容 しなかっ た。1669年にヒンドゥー教徒を浬 、1675年には シク教の教主を処 、そして1679年に非ムスリム に対するジズヤを渭活し、諸勢力との対立を決定 的とした。アウラングゼーブの非 容的態度と反 動的政策に対し、非ムスリムの反対勢力は反乱や 作 などの行動をとった。シヴァージーがデカン 高原にマラータ王国を建てて勢力を拡大し、教主 を殺されたシク教徒も戦闘態勢を整え、インド西 部ではラージプート諸王国のヒンドゥー勢力がム ガル帝国との対決姿勢を強めていった。
涨年のアウラングゼーブは自分の 政を認め、 孤独にさいなまれながら、来世への不安におびえ る日々を送った。次は、彼の残した遺書の一部で ある。「女は統治において、また人民の 福への 配綅において けるところがあった。女の人生は 空しく過ぎ去った。神はこの世に存在するが、女 には見えぬ。この世に常なるものはなく、過去を してくれる 跡もなければ、来世への希望も存 在しない。女を駆り立てた熱情は去り、女に残る はただ槚せさらばえた骨と皮だけである。」 ムガル帝国は衰退への道を一歩一歩、速度を速 めながらたどり始めるのである。