徒然草 の漢籍受容と漢訳・継承
黄 昱
博士 文学
総合研究大学院大学
文化科学研究科
日本文学研究専攻
成 7 5 度
成 二 十 七 度 博 士 学 位 申 請 論 文
徒 然 草 の 漢 籍 受 容 と 漢 訳 ・ 継 承
黄 昱
目 次
序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
第一部『徒然草』の漢籍受容―間接的な受容方法―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
第一章『徒然草』における漢籍受容の方法―『白氏文集』を例に―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
第二章『徒然草』における漢籍受容の方法―第二十五段「桃李もの言はねば」をめぐって―・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
第三章灯下読書の和と漢―『徒然草』第十三段をめぐって―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70
第二部異種『蒙求』に見られる『徒然草』の漢訳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・91
第一章前期の異種『蒙求』に見られる『徒然草』の漢訳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・92
第二章後期の異種『蒙求』に見られる『徒然草』の漢訳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・118
第三章漢訳される『徒然草』の方法―近世期兼好伝との関わり―・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・133
第三部近現代中国における『徒然草』の中国語訳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149
第一章近現代中国における『徒然草』の中国語訳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・150
附章資料周作人「『徒然草』抄」と郁達夫「『徒然草』選訳」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・172
:
終章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・181
序章
鎌倉時代に兼好法師によって著された『徒然草』は、和文脈
で書かれた随想的文章ではあるが、中に『文選』『白氏文集』と
いった漢籍の書名が見え
* 1用にもととるれさ引、が現表章文のそ、
記される感情や思想などにも漢籍からの影響が指摘されている。
作者の兼好法師が「ひとり、灯のもとに」(『徒然草』第十三段)
ひもをとき、親しんだ書籍の中、つまり、兼好法師の教養の基
盤に漢籍があったことは、江戸時代に多く著された『徒然草』
の古注釈書に指摘されている。
たとえば、『徒然草』最初の注釈書である、慶長九年(一六〇
四)刊行の『徒然草寿命院抄』(以下『寿命院抄』と略す)に、
「兼好得道ノ大意ハ、儒釈道ノ三ヲ兼備スル者歟。草子ノ大体
ハ、清少納言枕草子ヲ模シ、多クハ源氏物語ノ詞ヲ用。作意ハ、
老仏ヲ本トシテ、無常ヲ観シ名聞ヲ離レ、専ラ無為ヲ楽ン事ヲ
勧メ、傍ラ節序ノ風景ヲ翫ヒ、物ノ情ヲ知ラシムル者乎」
* 2と
、
『徒然草』は『枕草子』『源氏物語』の形式と表現を用いながら、
その作意のもとは老仏にあると述べている。
また、林羅山による『徒然草』の注釈書である、元和七年(一
六二一)成立の『野槌』に「此草紙の言葉大かた枕草紙。源氏 物語の躰をうつせり。兼好は。天台の教を学ひて。又老荘の道
をもうかかふと見えたり」と、『寿命院抄』と同じように、『徒
然草』の思想は老荘によるところがあると述べている。
これらの古注釈は思想面の影響関係を指摘しただけではなく、
『徒然草』が依拠した漢籍の典拠についても詳細な分析作業を
行った。このような出典分析の作業は近代以降も継続されてい
る。日本古典文学大系(西尾実校注一九五七)、新日本古典文
学大系(久保田淳校注一九八九)、日本古典文学全集(永積安
明校注・訳一九七一)、新編日本古典文学全集(永積安明校注
・訳一九九五)などの古典全集類に『徒然草』の全文に対す
る注釈が見られるほか、安良岡康作『徒然草全注釈』(角川書店
一九六七)、三木紀人『徒然草全訳注』(講談社一九八二)、
久保田淳「徒然草評釈一~三四三」(『国文学解釈と教材の研究』二
三・六~五四・九一九七八・五~二〇〇九・六)といった集
大成的なものもある。また、川口久雄「徒然草の源泉―漢籍」(『徒
然草講座』第四巻有精堂出版一九七四)、古沢未知男「漢籍
引用より見た徒然草の一考察」(『日本漢文学史論考』岩波書店
一九七四)のような総論的な論文もあり、出典の指摘が詳細
に行なわれてきた。これらの研究は、『徒然草』の文章表現の拠
って立つ出典を検出する基本作業を行い、出典研究の第一歩と
して重要な意義を有している。しかしながら、従来行われてき
た典拠の指摘や受容方法の分類だけでは、『徒然草』における漢籍受
容の意図や効果、また作者である兼好法師の知的基盤を探るの
には不十分であり、漢籍との影響関係が認められる箇所につい
てより詳細に考察を行う必要がある。
そのほかに、『徒然草』に大きな影響を与えた『文選』『白氏
文集』『荘子』など、個々の漢籍を取り上げた論考も少なからず
見られる。例えば、金文峰「『徒然草』の研究―『白氏文集』
受容考(一)」(『岡山大学大学院文化科学研究科紀要』十二二
〇〇一・十一)、同「『徒然草』の研究―『白氏文集』受容考
( 二 ) 」
(『岡大国文論稿』三十二〇〇二・三)、同「『徒然草』におけ
る『文選』引用の諸問題」(『岡大国文論稿』三十六二○○八
・三)、陳秉珊「『徒然草』第七段と『荘子』再考―「夏の蝉」
をめぐって」(『詞林』三十八二〇〇五・十)、同「『徒然草』
第三十八段における「荘子」受容考―「智」を手懸りとして」(『語
文』八十七二〇〇六・十二)、同「『徒然草』第九十七段にお
ける「荘子」再考」(『詞林』四十一二〇〇七・四)といった
論文である。これらの先行論文において、『徒然草』の漢籍受容 の具体例を考察したが、『徒然草』に取り入れられた漢籍の文章
表現は分散しており、その中に原典に辿り着けることが難しい
ものも多く含められている。このような状況の中で、原出典だ
けに焦点を当てて出典研究を行うのは、『徒然草』の文章表現の
形成過程を明らかにするのには不十分であり、本書の漢籍受容
を考える上で方法論をまとめる総論的な研究は必要と考える。
よって、本論文は江戸時代以来の研究によって指摘された漢籍
と『徒然草』の関係について再検討を行い、書物としての漢籍
が舶載された後の日本における受容の形態とその過程における
変容の状況をも視野に入れ、『徒然草』が先行する作品を受容す
る方法とその表現効果を分析し、『徒然草』という書物の内部世
界の解明を試みた。
『徒然草』の漢籍受容について、このような日本において変
容した漢籍の表現に注目した研究は村上美登志の「『徒然草』と
和製類書―もう一つの漢籍受容」(『伝承文学研究』四十一九
九一・十二)と「徒然草と類書」(『国文学解釈と鑑賞』六十二
・十一一九九七・十一)が見られる。氏は和製類書は『徒然
草』の漢籍受容を考える際に看過できない存在であると指摘し
ている。また、『徒然草』と和文脈の先行作品との影響関係につ
いて論じた研究として、稲田利徳の一連の研究が見られる。例
えば、「『徒然草』と『宝物集』」(『徒然草論』笠間書院二〇
〇八)に、氏は兼好法師の「見聞しうる可能性のある情報網を
整理し、その表現背後に揺曳する精神や意図」、つまり、『徒然
草』がどのような文学作品を背景に形成されているかを解明す
る研究を試み、その方法が作品の形成の内実を認識する上で十
分に有意義なものであると述べた。本論文はこのような方法論
を踏まえて、『徒然草』の文章表現の出典になる漢籍の原文とと
もに、これらの表現の日本における受容と変容の様態を考察し、
『徒然草』の作者兼好法師がこれら和漢の先行古典作品をどう
享受・消化して、『徒然草』に取り入れたのかを明らかにするも
のである。
また、『徒然草』は中世に成立した作品であるが、中世におい
てはわずか正徹・心敬の作品に言及された程度で、ほぼ読まれ
た形跡はなかった。近世に入ってから古典作品として発見され
たものであると言っても過言ではない。前述したように、近世
の古注釈は『徒然草』の表現と思想に漢籍の影響を大いに認め
た。近世期以降に、このような漢籍受容を通して漢籍的な性格
を獲得したともいえる『徒然草』の一部を漢文に翻訳した作品
が現れる。この『徒然草』の漢訳の問題について、川平敏文「徒
然草の漢訳」(『文彩』六二〇一〇・三)に岡西惟中の『真字 寂寞草』(元禄二年刊)、服部南郭の『大東世語』(寛延三年刊)、
宇野明霞の『明霞先生遺稿』(寛延元年刊)と山本北山の『作文
率』(寛政十年刊)という四つの作品を紹介したが、そのほかに、
『徒然草』を漢訳したものはまだ様々な形で存在しており、本
論文では、そうした『徒然草』の漢訳を収める書物の中で重要
な一群をなす異種『蒙求』(唐時代に成立し、漢学啓蒙書として
大きな影響力のあった『蒙求』の意匠に倣った作品群)を対象
として江戸時代以降の『徒然草』受容の注目すべき形態のひと
つである漢訳という問題を考えた。。
近世期以降の『徒然草』受容は『徒然草』研究において看過
されがちな存在であったが、近年、学界において見直される傾
向が見られる。島内裕子『徒然草文化圏の生成と展開』(笠間書
院二〇〇九)一書に、「徒然草文化圏」という概念が提唱され
た。つまり、注釈書だけではなく、兼好の人物伝記、近世文壇
における『徒然草』の伝授、絵画化された『徒然草』、近代文学
との関係、翻訳された『徒然草』など、『徒然草』受容研究の範
囲は大きく広げることとなった。
本論文はこれらの先行研究を踏まえて、受容と影響という二
つの視点から、『徒然草』と漢籍の関係という問題を三部八章に
分けて考えた。第一部は、『徒然草』が漢籍を受容する時に用い
た方法論を考察する。漢籍の原典のみではなく、日本の古典作
品に受容され、日本化した漢籍の文章表現にも焦点を当て、こ
ういう中間的な媒体を通して間接的・重層的に漢籍を受容した
方法とその表現効果について考察した。第二部は、近世期に盛
んに編纂された『徒然草』と兼好法師の伝記資料と関わらせな
がら、和文脈の『徒然草』を敢えて漢文に翻訳した異種『蒙求』
作品群という今まであまり顧みられなかった資料を取り上げ、
その漢訳の特徴と背景および『徒然草』が漢訳される意義を考
察した。
具体的に、第一部においては、三章に分けて『徒然草』の漢
籍受容について論じた。第一章では、表現と思想の両面で『徒
然草』に多大な影響を与えた『白氏文集』を取り上げ、『徒然草』
が漢籍を受容する際に用いた重層的な方法を分析した。『徒然草』
は『千載佳句』『和漢朗詠集』といった平安時代に撰述された秀
句撰、『源氏物語』『枕草子』などの王朝文学、「文集百首」をは
じめとする和歌の世界といった中間的媒体を通して間接的・重
層的に『白氏文集』を理解・享受している。つまり、原典『白
氏文集』にとどまらず、『徒然草』に先行してそれを受容した古
典作品の中で変容し日本化した表現や理解を踏まえているので
ある。本章では『徒然草』が漢籍や、漢詩文表現を日本化した もの等を重層的に享受した様相を中心に論じた。第二章では、『徒
然草』第二十五段を例に重層的な漢籍受容の具体例について分
析した。第二十五段において旧邸懐旧のテーマを語る際に用い
られた「桃李もの言はねば、誰とともにか昔を語らん」という
文章は『史記』李将軍伝を出典とする故事「桃李不言」による
が、この故事は、「徳のある人には自然に人が心服する」という
原典の意味から離れて、中国・日本の漢詩文、さらには和歌に
おいても懐旧の思いが詠まれたことを明らかにした。『徒然草』
に到るまでの「桃李不言」の理解の変遷を述べることによって、
『徒然草』がそうした変容した理解を取り入れていることを指
摘した。第三章では、兼好法師が『文選』『白氏文集』『老子』『荘
子』を漢籍の代表としてあげ、長い夜にひとりで灯のもとで読
書することを通して古人を心の友として憧れたことが描かれた
第十三段に焦点を当てた。前述したように、近世期に『徒然草』
は盛んに読まれ、一種のブームといえるほどの読者を獲得した
が、作者の兼好法師の肖像画はほぼ灯のもとで読書する姿で描
かれている。俳諧付合集である『類船集』(延宝四年刊)に「物
の本」と「灯のもと」が付合のことばとしてあげられたほど、「灯
のもと」で読書する兼好像が定着していた。本章は、中国と日
本の漢詩・和歌における「灯下読書」の詠まれ方と関わらせな
がら、『徒然草』第十三段は和文の古典作品に見られる「灯のも
と」の類型ではなく、これらの漢詩に詠まれた「灯下読書」の
場面から影響を受け、兼好独自の美意識が作り上げたことを考
察した。以上のように、本論文は第一部において、『徒然草』は
漢籍を受容する際に、漢籍の原典とともに、日本の古典作品に
受容され、変容し日本化した文章表現という中間的媒体を経由
した間接的・重層的な受容方法とその表現効果について考察し
た。
第二部は、和文脈の『徒然草』を漢文に翻訳した上で受容す
る異種『蒙求』作品群を取り上げ、近世期に盛んに編纂された
兼好法師の伝記資料と関わらせながら、『徒然草』の漢訳という
問題を考えた。異種『蒙求』は江戸時代を通じて出版され続け
たが、『徒然草』の漢訳が異種『蒙求』に取り入れられた数量や
内容には年代的な変遷が認められる。第一章ではそのターニン
グポイントとなる安政五年(一八五八)刊行の『皇朝蒙求』ま
でを対象として、その『徒然草』の漢訳の方法について考えた。
『皇朝蒙求』以前に刊行された異種『蒙求』には主として奇話
が選択されることが多く、漢訳する際の文章表現にも独自性が
目立つ。その中、『皇朝蒙求』は『徒然草』から十話を取材し漢
訳しており、『徒然草』の説話を漢訳した異種『蒙求』の中で一 番多い作品である。その背景には、川平敏文『徒然草の十七世
紀―近世文芸思潮の形成』(岩波書店二〇一五)が述べた十七
世紀頃まで『徒然草』が記す思想的側面への関心の高まりとそ
れ以降こういう関心の衰退
、とりまつ。う思いとなはで係関無は* 3
十七世紀は『徒然草』自体の注釈書が多く作成されるようにな
り、本書の思想的側面への関心も高かったが、その後に啓蒙書
である異種『蒙求』に『徒然草』の多くの逸話が取り込まれる
ようになったと考えられるのである。第二章では、『皇朝蒙求』
以降、幕末から明治期にかけて制作された異種『蒙求』を対象
とした。この時期の異種『蒙求』に漢訳される『徒然草』の部
分は『徒然草』に由来する表現や思想、『徒然草』を引用する『大
日本史』や先行する異種『蒙求』からの再引用が多く、受容さ
れる内容も松下禅尼(第百八十四段)と北条時頼(第二百十五
段)の倹約の美徳、及び兼好法師の読書・尚友の美徳の話だけ
に集中する。この時代の異種『蒙求』では『徒然草』由来の逸
話が引用される例も一話二話程度に激減し、その内容も教訓性
の強いものに限定されるようになる。第三章では、異種『蒙求』
の人物の対偶について考えた。異種『蒙求』は原典『蒙求』に
ならい人名二文字と事跡二文字の四文字を対にした八文字の成
句(韻文)で標題が記されるが、その組み合わせには、江戸時
代に作られた兼好法師の伝記に見える人物像が影響を与えてい
る。江戸時代の兼好法師伝記には、世を逃れた隠遁者である兼
好、南朝と深い関わりを持つ兼好、好色法師である兼好、とい
う現在の兼好法師とは隔たった兼好像が描かれるが、異種『蒙
求』の対句はこうしたイメージを背景として構成されていると
考えられる。以上のように、第二部では、啓蒙的書物である異
種『蒙求』の中に『徒然草』を出典とする逸話が引用され、そ
の説く思想や教訓が受容されることを新たに指摘し、漢訳され
た上で受容されるという、従来あまり注目されなかった『徒然
草』の受容の様態とその意義を明らかにした。
第三部においては、中華民国時代以降、『徒然草』が中国語に
翻訳される過程を辿り、近現代中国語訳と第二部で検討した江
戸時代日本における漢訳とを比較し、それぞれの特質を分析し、
古典のみではなく、現代の問題にも視野を広げて本書の漢籍的
な性格を考えた。
以上のような作業を通して、『徒然草』と漢籍の関係を受容と
影響という二つの視点から考えた。『徒然草』は、漢籍由来の知
識を原典から受容するとともに先行する古典文学作品の中で日
本化された表現などをも重層的に受容している。こうした漢籍
受容を通して獲得した一種の准漢籍的な地位を背景に江戸時代 には漢訳されて享受される事例のあったことを指摘し、そうし
た享受の方法を考える際に重要な作品群であった異種『蒙求』
の歴史的変遷とその内容について考察した。三部を併せて、和
から漢へ、漢から和へという「和」と「漢」の往還を通して権
威化される『徒然草』という書物の古典としての性格の一端を
明らかにした。
本論文における『徒然草』本文の引用は近世期に広く流布し
た烏丸本を底本とした『徒然草全注釈』(安良岡康作一九七六)
による。必要に応じて現在確認できる最古本の正徹本を底本と
した新日本古典文学大系『方丈記・徒然草』(佐竹昭広・久保田
淳校注一九八九)を参照する。
* 1
『徒然草』第十三段に、「ひとり、灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。文は、文選
のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇」と、漢籍を代表する書物を列挙している。
* 2
『寿命院抄』『野槌』『なぐさみ草』の本文は吉澤貞人『徒然草古注釈集成』(勉誠出版一九九六年)に拠る。
* 3
川平敏文氏はこの著書に「徒然草注釈史における十七世紀と十八世紀との温度差」を強調した。例えば、「徒然草をめぐる儒
仏論争―中世的学知の再編」(『徒然草の十七世紀―近世文芸思潮の形成』岩波書店二〇一五年)に「無論、一般教養書・文芸書と
しての徒然草受容はこれ以降も続き、徒然草は『古典』としての星霜を着実に積み重ねていったのであるが、十七世紀の人々が示し
た、徒然草の『思想』への狂熱とも言えるような感情の昂ぶりは、そこにはもう、ほとんど見られなくなるのである」と論じられた。
第 一 部 『 徒 然 草 』 の 漢 籍 受 容 ― 間 接 的 な 受 容 方 法 ―
第一章『徒然草』における漢籍受容の方法―『白氏文集』を例に―
一、はじめに
『徒然草』第十三段に、「文は、文選のあはれなる巻々、白氏
文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物
も、いにしへのは、あはれなる事多かり」と述べられるように、
兼好法師は『文選』『白氏文集』『老子』『荘子』を漢籍の代表と
してあげている。『徒然草』に見られる『白氏文集』の影響の大
きさについてはすでにいくつかの先行研究があるが、その受容
の実態についてはまだ諸説あり、未だ定説を見ない。
早くに、久保田淳氏、川口久雄氏は、『徒然草』に引用された
1
『白氏文集』の詩句の多くは『和漢朗詠集』や『千載佳句』『源
氏物語』などの先行古典作品に見られるものであり、直接に出
典を『文集』に仰ぐかどうかは疑問とした。また同時に、久保
田氏は「兼好の教養を考えれば、直接『文集』から出た表現が
多いのではないか」と、兼好の漢学教養を考慮した考え方を示
しているが、戸谷三都江氏、金文峰氏は、久保田氏の示した後
2
者の考えを進め、『徒然草』の『文集』の受容は詩句の引用に止
まらず、章段全体の主題や構想までその影響が見られると、『白
氏文集』の直接な影響を大いに想定している。 村上美登志氏は『徒然草』の漢籍受容に中世の和製類書を中
3
間に置いたものが多々見られることを指摘した。これら中世に
成立した和製類書にも『白氏文集』が取り上げられており、『徒
然草』が受容した『文集』の文章と重なる部分が三箇所確認で
きる。『徒然草』の『白氏文集』受容を考える上には重要な指摘
であるが、後述するように、『徒然草』には、明らかに『白氏文
集』を受容したと認められる部分が二一箇所あり、『白氏文集』
の受容に関しては、原典或いは別の受容媒体を考慮に入れて考
える必要がある。
これらの先行研究は『徒然草』が直接に『白氏文集』を受容
したか否かに焦点を当てたもので、典拠を洗い出した基礎的な
研究として有益ではあるが、『徒然草』における『白氏文集』受
容に関して、部分的な引用、或いは全体の構想に関わる引用と
の区別を考えるよりは、『徒然草』が『白氏文集』の受容を通し
て獲得した表現効果など、その受容の方法を全面的に把握でき
ない恐れがあると考える。
さらに、『徒然草』の『白氏文集』受容を考える時、『源氏物
語』は重要な中間的媒体となるが、『徒然草』の『源氏物語』受
容について、稲田利徳氏が「自己の関心のある体験を、生活次
元の生のままの描写せず、その対象を一度、自己の美的理念、
思想、あるいは古典文学の世界を通過させて、再創造を試みる
やりかたである」、「『源氏』の珍しい語句や印象鮮明な場面を
4
借用しながら、それから少し離陸し、兼好なりの新しい美意識
や場面状況、人物造形を目論んでいたのではなかろうか」と指 5
摘されたように、兼好が先行の古典作品を受容する時、それを
媒体に独自性を持つ文章表現を目指す意匠が見られる。『徒然草』
の『白氏文集』受容も、その典拠や中間的資料を特定するのが
難しいほど、こなれた引用方法をしている。
そこで、本章では『徒然草』における『白氏文集』の受容例
を指摘したこれらの先行研究の例を改めて検討し、その受容の
方法と表現効果について考える。兼好が『千載佳句』『和漢朗詠
集』の秀句撰や、『源氏物語』『枕草子』などの王朝文学、「文集
百首」など和歌の世界を経由して『白氏文集』を摂取した重層
的な方法とその作意を考察し、『徒然草』はこれらの中間的媒体
を通して『白氏文集』を理解している傾向を分析する。
二、『白氏文集』と日本における受容
『白氏文集』は中国の中唐(七六六~八三五)を代表する文 人である白居易の作品集であり、今日流布している諸本は凡そ
諷喩詩・閑適詩・感傷詩・律詩・格詩と詩賦銘賛碑誌などの散
文を順に収められている、いわゆる前詩後文形式のものである。
実は、このような順番に改められたのは、宋代に刊行された宋
刊本からであり、白居易自身が編集した順番は編年形式であっ
たという。まず、先行研究によって明らかにされた本書の成立
と伝本について簡単に紹介したい。白居易の親友の元稹が長慶
6
四年(八二四)に『白氏長慶集』五十巻を編集した後、白居易
自身が積極的に自分の文集の編集作業を重ねてきた。自ら自分
の文集を編集するというのは、文学史上ではむしろ珍しいこと
であり、このような作業から白居易が自分の作品に込めた意欲
が読み取れるのであろう。こういう作業を通して、大和二年(八二
八)に、『長慶集』ができ、大和九年(八三五)に『後集』十巻
が纏められ、先の『長慶集』と合わせて『白氏文集』と名付け
られた。この『白氏文集』は廬山の麓にある江州(現在の江西
省九江市)の東林寺に納められた。翌年の開成元年(八三六)
に、六十五巻本が編集され、洛陽の聖善寺に、開成四年(八三
九)に六十七巻本が編集され、蘇州の南禅寺に納められた。さ
らに、翌開成五年(八四〇)には『白氏洛中集』十巻を洛陽の
香山寺に納められ、会昌二年(八四二)に白居易は『長慶集』
以降の作品を纏めて『後集』二十巻を成した。そして会昌五年
(八四五)、白居易が没する前の年に、さらに『続後集』五巻を
加えて、七十五巻の大集を完成させたが、その後四巻が散佚し、
現存するのは七十一巻である。今現在中国における最古の善本
は「紹興本」といわれる南宋紹興年間(一一三一年~一一六二
年)に刊行された宋刊本であり、ほかに主要な伝本は明の万暦
三十四年(一六〇六)に馬元調が刊行した『白氏長慶集』(馬本)
と、清の康煕四十一年(一七〇二)に汪立名が編訂した『白香
山詩集』(汪本)である。これらの刊本はいずれも前詩後文の刊
本の形を伝えたものである。それに対して、日本には、旧鈔本
と称される唐鈔本の旧態を比較的によく伝えたものが現存して
おり、その中の有名なものに、平安時代書写の神田喜一郎旧蔵
本(神田本)は巻三・巻四を存し、鎌倉時代に書写され、部分
的に北宋刊本の面影を伝えた金沢文庫本などがある。さらに、
朝鮮にも年代順の旧編成形式のものが伝わり、現在は完本とし
てよく用いられている江戸時代刊行の那波本はこのような朝鮮
本を底本としたものである。本論文では、『白氏文集』の本文と
詩番号は那波本を底本とした平岡武夫・今井清『白氏文集歌詩
索引』(同朋舎一九八九)により、南宋紹興本を底本とした謝
思煒『白居易詩集校注』(中華書局二〇〇九)を参考した。訓 読は神田本(太田次男・小林芳規『神田本白氏文集の研究』勉
誠社一九八二)、金澤文庫本(『白氏文集
: 金
澤文庫本』勉誠社
一九八三)、万治元年刊立野春節訓点本(長澤規矩也編『和刻
本漢詩集成九』汲古書院一九七七)を参考した。
『白氏文集』は白居易生前から、大集或いは選抄の形で日本
に伝わってきた。例えば、承和五年(八三八)に大宰少弐であ
った藤原岳守が唐の商人の荷物から「元白詩筆」を見付け、仁
明天皇に献上した記事が『文徳実録』巻三・仁寿元年九月条に
見られることや、承和一一年(八四四)には留学僧恵萼により
六十七巻本の『白氏文集』が書写され伝来されたことなどがよ
く知られている。寛平三年(八九一)以前の成立と推定されて
いる『日本国見在書目録』にも『白氏文集』の書名が見られる。
『白氏文集』が早い段階で日本に伝わって、平安時代からよく
読まれ、日本の古典文学に大きな影響を与えたことは言うまで
もない。『本朝麗藻』『都氏文集』『江吏部集』などの漢詩文集だ
けではなく、『源氏物語』『枕草子』などの王朝文学からもその
引用が見られる。さらに、『和漢朗詠集』に収められている計二
百三十四首の中国詩人の漢詩の中、白楽天の詩句が百三十九首
も占めていることからも、『白氏文集』が当時の知識人に愛読さ
れていたことが窺われる。このように、『白氏文集』は平安貴族
7
社会においては一種の教養書として広く読まれていたが、『枕草
子』と同じ、『白氏文集』を漢籍の代表として列挙した『徒然草』
の時代は、『白氏文集』の読まれ方はいかなるものであるか、次
節から考えたいと思う。
三、先行古典作品を中間媒体としての受容方法
『徒然草』に『白氏文集』の文章表現を受容したと思われる
部分は凡そ次の二十一箇所である。
第七段、第八段(二箇所)、第十九段(二箇所)、第二
十九段、第三十段、第三十八段(三箇所)、第四十一段、
第四十三段、第五十四段(二箇所)、第百五段、第百三
十七段、第百四十二段、第百七十二段、第百七十四段、
第百八十八段、第二百三十五段。計十六章段。
その内容を見ると、諷喩詩(巻一~巻四)が九首、感傷詩(巻
九~巻十二)が一首、律詩(巻十四~巻二十・巻五十一~巻七
十一)が十一首であり、閑適詩(巻五~巻八)の直接な受容は
見られない。これらの例の中には、第七段「夕の陽に子孫を愛
して」というように、『白氏文集』の詩句「夕陽愛子孫」を訓読
した形で取り入れた場合もあり、『白氏文集』の中でも広く親し
まれた「上陽白髪人」の一句「秋夜長、夜長無寐天不明」を第二 十九段「人しづまりて後、長き夜のすさびに」に取り込むよう
に、一見して『白氏文集』の文章が直接の典拠だと気づかれな
いほど『文集』の漢詩文を和文化して文章を綴った場合もある。
こうした例は、前述する久保田淳氏(一九七〇)、川口久雄氏(一
九七四)が『徒然草』の『白氏文集』の直接的な受容を疑問視
するように、そのほとんどが『源氏物語』や『和漢朗詠集』な
どの先行古典作品に見えるものである。つまり、第七段・第二
十九段の例は先行する日本の古典作品を経由して『文集』を典
拠とする表現を受容した可能性が高い。本章はまず、前述した
金文峰氏(二〇〇一)の論文を踏まえ、中間的媒体と関わらせ
ながら、『徒然草』が受容した『白氏文集』の例を考察したい。
その受容の主な中間的媒体は『千載佳句』『和漢朗詠集』といっ
た秀句撰、『源氏物語』、『文集百首』などの和歌とその他、主に
四つの節に分けて考える。
(一)『千載佳句』『和漢朗詠集』などの秀句撰の場合
先に示した『白氏文集』の影響が指摘できる二十一箇所のう
ち、『千載佳句』に取られた詩句は九箇所、『和漢朗詠集』に取
られた詩句は十二箇所見られる。『徒然草』の『文集』受容を考
える際には、こういう秀句撰の影響は看過できない。本節では
まず、先行研究で指摘されたこれら秀句撰に見られる『白氏文
集』と、『徒然草』と重なる部分について、その用例を分析する。
(1)匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知
りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするもの
なり。(『徒然草』第八段)。
為レ 君薫二 衣裳一 、君聞二 蘭麝一 不二 馨香一 。為レ 君盛二 容飾一 、
君看二 金翠一 無二 顏色一 。(『白氏文集』巻三・諷喩三「新楽
府・太行路」)
0134
為レ 君薫二 衣裳一 、君聞二 蘭麝一 不二 馨香一 。為レ 君事二 容餝一 、
一二二一 )漢恋・下巻』集詠朗(和『君。色顏無翠金見 778
『徒然草』第八段は人の心を惑わす色欲について説いた章段
である。匂いは一時的なものと知りながら、思わず魅力される
人間の愚かさを描く時、「しばらく衣裳に薫物すと知りながら」
という表現を用いた。これは『徒然草』最古の注釈書『寿命院
抄』から指摘されてきたように、『白氏文集』「新楽府・太行路」
の一句「為レ 君薫二 衣裳一 」を踏まえている。『文集』の中でも新
楽府は平安時代からとくに愛好された部分で、この詩句は『和
漢朗詠集』にも採られて、人口に膾炙したものと思われる。た
8
だし、「太行路」は「借二 夫婦一 以諷二 君臣之不一レ 終也」と題目の
注にあるように、本来的には夫婦のこと以て人の定まらない心、 そして君臣の関係を諷喩した詩であるが、『徒然草』はその中の
「為レ 君薫二 衣裳一 、君聞二 蘭麝一 不二 馨香一 」、君のために衣装に香
をたきしめても、愛情が薄くなった君がこの蘭麝の匂いをよい
香りとしないという部分だけを借用し、白詩の意味とは逆に、
衣服のよい匂いに惑わされる愚かな人間を描いている。これは、
白詩の本意、さらに、『和漢朗詠集』の句の意味ともかけ離れた
使い方であると言えよう。『徒然草』における『白氏文集』の受
容はこのように、原典の意味と用法から離陸して、日本に伝来
した後、『和漢朗詠集』に取り入れられる程人口に膾炙するよう
になった『文集』の表現を自然に文章に溶け込ませ、独自の文
章を作り上げる傾向が見られる。
(2)「もののあはれは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、
それもさるものにて、いま一きは心も浮きたつものは、
春のけしきにこそあめれ。(『徒然草』第十九段)
黄昏独立仏堂前、満レ 地槐花滿レ 樹蝉。大抵四時心揔苦、
就中腸断是秋天。(『白氏文集』巻十四・律詩「暮立」)
0790
大底四時心惣苦、就中腸断是秋天。(『千載佳句』巻上
秋・興) 177
大底四時心惣苦、就中腸断是秋天。(『和漢朗詠集』巻
223
上・秋興)
『徒然草』第十九段は四季の風物についての随想を述べた章
段である。その美意識は和歌や、『源氏物語』『枕草子』などの
王朝文学の流れを汲むものであるが、傍線部の「もののあはれ
9
は秋こそまされ」という部分について、『野槌』などの古注は『白
氏文集』「暮に立つ」を典故として指摘している。この白詩は『千
載佳句』『和漢朗詠集』『源氏物語』にも採られて、著名な詩句
であるが、現代の『徒然草』諸注にも指摘されるように、秋は
ものの哀れを感じやすい季節という美意識は、『古今和歌集』に
収められた「いつはとは時はわかねど秋のよぞ物思ふ事の限り
なりける」(巻四・秋歌上)に端的に表れた和歌の世界でも好
189
まれた意趣である。注意されるのは、白詩は「苦」「腸断」とい
う言葉を用いて、秋の哀愁な雰囲気を詠んだが、『千載佳句』『和
漢朗詠集』はこの句を「秋興」に配置している。古注では、書
陵部本『朗詠抄』(書陵部本系甲本)に「大底四―、此モ、遊覧
ノ詩也。四季ニ随テ、心ヲ慰ムルコト、取リ〳〵也。(中略)取
分、秋ハ興勝リ」と注を付しており、『和漢朗詠集仮名注』(書
陵部本系乙本)に「惣題 ニ合セ ハ、春 ハ花 ニ苦 ロノ心、夏 ハ郭公 ヲ待 ノ心、
冬 ハ雪 ニ乗 シテ、何 レモ面白 キコトアレトモ、取 リ分、秋 ノ天 ニ、秋風 ノ落
葉 ニ昆 シテ、管弦 ヲ成 ス感情、面白 ト也。但 シ又、此義 テハ、腸断ツコト、
不 レ聞。然 トモ、面白紅葉ナト ノチル ニハ、ハラワタ断 ン歟也」と記さ れている。書陵部本系が特にこの問題に注目して、四季の慰み
や面白みを説明している。朗詠古注の大概な系図は次頁の図一
で示したとおり、書陵部本系朗詠注は室町初期以前の成立とさ
れ、『徒然草』との前後関係は必ずしも明らかではないが、四季
10
のとりどりの風情を述べていく『徒然草』第十九段の冒頭にこ
の秋に関する記述が置かれたことは、こういう四季の情緒を以
てこの白詩を解説する朗詠古注の発想と軌を一にするものであ
る。
(3)人しづまりて後、長き夜のすさびに、なにとなき具足と
りしたゝめ、残し置かじと思ふ反古など破りすつる中に、
亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ、た
だその折のここちすれ。(『徒然草』第二十九段)
妬令三 潛配二 上陽宮一 、一生遂向二 空房一 宿。秋夜長、夜長
無レ 寐天不レ 明。耿耿残灯背レ 壁影、蕭蕭暗雨打レ 窓声。(『白
氏文集』巻三・諷喩三「新楽府・上陽白髪人」)
0131
耿々残灯背壁影、蕭々暗雨打窓声。(『千載佳句』巻上
雨・夜) 285
秋夜長、夜長無レ 眠天不レ 明。耿々残灯背レ 壁影、蕭々暗
レ )詠夜秋・上巻』集漢朗雨和『(。声窓打 233
遅遅鐘漏初長夜、耿耿星河欲レ 曙天。(『和漢朗詠集』巻
234
図一上・秋夜)
燕子楼中霜月夜、秋来只為二 一人一 長。(『和漢朗詠集』
巻上・秋夜) 235
蔓草露深人定後、終宵雲尽月明前。(『和漢朗詠集』巻
上・秋夜) 236
『徒然草』第二十九段は古い手紙などを整理する時に催した
懐旧の思いを述べた章段である。冒頭の文章について、三木紀
人氏『徒然草全訳注』(一九九二)は『千載佳句』『和漢朗詠集』
にも採られている『白氏文集』「上陽白髪人」の一句「秋夜長、
夜長無レ 眠天不レ 明」と、同じ『和漢朗詠集』巻上・秋夜の小野
篁の詩句「蔓草露深人定後」の影響を指摘しているが、ほかの
ほとんどの注釈書がこの部分について典拠を挙げていない。し
かし、右であげたから始まる『和漢朗詠集』秋夜の部の詩文
233
は、「人しづまりて後、長き夜」と続く『徒然草』本文の「秋夜
長」、「人定後」といった要素が含まれているだけではなく、長
い秋の夜という、稲田利徳氏が指摘した「孤寂のなかに我が身
を深く沈潜させ、現在おかれている自己をとりまく状況の一切
を捨象した時間帯」が持つ哀愁な情緒も一致している。ちなみ
11
に、『狭衣物語』に、「文のけしきなども、ただおほかたに思は
せたるなつかしさをば、おろかならぬさまにいひなさせ給へる
さまなども、さし向ひ聞えさせたる心地のみせさせ給ひて、い
とど御とのごもるべうもなければ、「燕子楼の中」とひとりごた
れ給ひつつ、丑四つと申すまでになりにけり」という、秋の長
い夜に、狭衣帝が源氏の宮からの手紙を読んでしみじみと懐か
しさと恋しさを覚えた場面がある。手紙を読むことで相手と対
面するような気持ちになれるという『徒然草』第二十九段と近
似する状況に「燕子楼中霜月夜」の一句が引用されており、王
朝文学にすでに寂しい秋夜に一人で手紙を読み、寂寥たる情緒
に沈む文脈と『和漢朗詠集』秋夜の漢詩文の接点が見られた。
第二十九段は『白氏文集』「上陽白髪人」および『和漢朗詠集』
「秋夜」の一連の詩文を下敷きにして、秋の夜の寂しい雰囲気
を引き立てるが、もとの漢詩文の形がわからなくなる程、自然
に和文化して取り入れている。
(4)埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけ
れ。(『徒然草』第三十八段)
遺文三十軸、軸軸金玉声。龍門原上土、埋レ 骨不レ 埋レ 名。
(『白氏文集』巻五十一・格詩歌行雑体「題二 故元少尹集
後一 二首その二」)
2217
遺文三十軸、軸軸金玉声。龍門原上土、埋レ 骨不レ 埋レ 名。
遺巻(付詞文・下』)集詠朗漢和『文 471 いし空ておべすは利名るけ』に生人は段八十三第草然徒『も
のだと説く章段である。「埋レ 骨不レ 埋レ 名」という『白氏文集』
の一句を取り入れているが、これは『和漢朗詠集』に採られ、
和歌にも多く詠まれて歌語として定着した表現でもあり、詳し
い分析は後節の和歌について述べる部分に譲るが、白詩の「名」
というのは文才を指すのに対して、『徒然草』では名声と解して
否定的な意味で使われている。ここも原詩の意味から離れて受
容した一例である。
(5)春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、いやしからぬ家
の、奥ふかく、木立ものふりて、庭に散りしをれたる花、
見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子、皆お
ろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあ
きたる。(『徒然草』第四十三段)
貌隨レ 年老欲二 何如一 、興遇レ 春牽尚有レ 餘。遙見二 人家一 花
便入、不レ 論三 貴賤與二 親疎一 。(『白氏文集』巻六十六・律
詩「又題二 一絶一 」)
3244
遙見二 人家一 花便入、不レ 論三 貴賤與二 親踈一 。(『千載佳句』
巻下・雑花) 664
遙見二 人家一 花便入、不レ 論三 貴賤與二 親疎一 。(『和漢朗詠
集』巻上・花) 115
『徒然草』第四十三段は趣ある家で風情ある若い男性を垣間
見した話である。『寿命院抄』などの諸古注が『千載佳句』『和
漢朗詠集』にも見られる『白氏文集』の一句「遙見二 人家一 花便
入」を典拠としてあげたが、現代の諸注には受け継がれていな
いようである。前述した金文峰氏論文(二〇〇二)はこの白詩
とその前の一首「尋レ 春題二 諸家園林一 」の詩句「聞レ 健朝朝出、
乗レ 春処処尋。天供二 閑日月一 、人借二 好園林一 」をあげ、第四十三
段全体の発想にこの両首の白詩の影響が見られると指摘してい
る。表現上に相違が見られるものの、春ののどかで優艶なひよ
りに、賤しからぬ家の庭に散り敷く花に魅力されて、つい人の
家に入ってしまったという設定の一致性から見て、金氏の指摘
は的を射たものと言える。第四十三段は、『源氏物語』などの王
朝文学に散見する表現と美意識を用いながらも、『白氏文集』の
漢詩のストーリー性を読み取り、物語的な一段に作り上げた。
なお、左であげたように、『和漢朗詠集』の諸古注はこの詩句に
ついて、白居易と師礼石という人物の逸話を取り上げて注を付
けている。
裏書云、或注曰、白居易乍乗馬致師礼石之家。師礼石 シレイセキ
見之大怒云、汝作詩方免此過云。随言作此詩、成二 親昵
之契一 云々。(『和漢朗詠集私注』書陵部蔵甲本) 有云、此詩師礼石家櫻花盛時、白居易興之乍乗馬 ノハノノノナリシニシテヲ一 らリニ一
打入其門。于時師雷石云、我雖隠居其身公卿而年八十有 トニ
一 ニカクスト
一 ノ
餘也。汝下官人也。又年若少。何無礼乍乗馬入門 ハしナリクシテ
一 からのりニ
一 ルソト
一
云白居易荅云、我見花忘礼入門。尤怠矣。洸時石云、若 フテクれトシテヲれテヲ
一 と
一 もレリノニカク
然者其過作詩云々。居易乍立作此詩。石自下馬口取付成 しらはノニ
一 ち
一 るヲ
一 らりテノちヲりテなる
親昵云々。(『和漢朗詠註抄』東北大学本)
師礼石の名前の漢字表記に差異が見られるが、白居易は花に
12
気を取られて、馬に乗りながら師礼石という身分も年齢も上の
人の家に入ってしまったところ、この詩を詠んで咎めを逃れた
という説話である。永済注に「文集ニハ、コノヨシミエズ。タ
ツヌベシ」とあるように、この話はほかに見られないものであ
り、その出所が確認できていないが、『白氏文集』のこの漢詩は
このような説話が附会される程、有名な一句であり、広く知ら
れているものである。『徒然草』第四十三段は漢詩を自然に和文
に溶け込むように文章を綴ったが、「賤しからぬ」、「花」、「見過
しがたき」、「さし入りて」という白詩を暗示する表現を用いる
ことで文章の深みを増し、読者にこの白詩を思い出させながら、
物語的な一段を作り上げた。
(6)風流の破子やうのもの、ねんごろにいとなみ出でて、箱
風情の物にしたため入れて、双の岡の便よき所に埋み置
きて、 ①紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、
御所へ参りて、児をそそのかし出でにけり。うれしと思
ひて、ここかしこ遊びめぐりて、 ①ありつる苔のむしろ
に並みゐて、「いたうこそこうじにたれ。 ②あはれ紅葉を
焼かん人もがな。験あらん僧たち、祈りこころみられよ」
など言ひしろひて。(『徒然草』第五十四段)
①不レ 堪紅葉青苔地、又是涼風暮雨天。莫レ 恠独吟秋思苦、
比レ 君校近二毛年。(『白氏文集』巻十三・律詩「秋雨中
贈二 元九一 」)
0620
不レ 堪紅葉青苔地、又是涼風暮雨天。(『千載佳句』巻上
暮・秋) 201
不レ 堪紅葉青苔地、又是涼風暮雨天。(『和漢朗詠集』巻
上・紅葉) 301
②林間煖レ 酒繞二 紅葉一 、石上題レ 詩掃二 緑苔一 。惆悵旧遊無二復到一 、菊花時節羨二 君迴一 。(『白氏文集』巻十四・律詩
「送二 王十八帰レ 山一 寄二 題仙遊寺一 」)
0715
林間煖酒焼紅葉、石上題詩掃緑苔。(『千載佳句』巻下
詩・酒) 799
林間煖レ 酒焼二 紅葉一 、石上題レ 詩掃二 緑苔一 。(『和漢朗詠
』巻上・秋興)集 221 が師たちば稚児を喜のそ法段寺和仁は四十五第』草然徒『う
として、『白氏文集』の「林間煖レ 酒焼二 紅葉一 」の風情を習って、
野遊びを計画したが失敗した滑稽譚である。この章段では二箇
所『白氏文集』の表現の影響が認められる。傍線①の「紅葉散
らしかけなど」と「ありつる苔のむしろ」という、紅葉を散ら
かし、苔が生えている計画の舞台は『千載佳句』『和漢朗詠集』
などに見られる白詩「不レ 堪紅葉青苔地」を下敷きにした風景で
あり、傍線②の「あはれ紅葉を焼かん人もがな」は同じ『千載
佳句』『和漢朗詠集』に見られる白詩「林間煖レ 酒焼二 紅葉一 」を
踏まえた表現である。この両句はいずれも著名な詩句であるが、
『徒然草』第五十四段はこれらの詩句を用いて、笑いのおかし
みを引き出すものである。①の白詩「秋雨中贈二 元九一 」は秋の
寂寥たる風景とともに老年の憂いを嘆いた詩である。『徒然草』
はこのような白詩を仁和寺の法師の滑稽譚に用いたのは、原詩
からかけ離れた修辞的な受容方法であるが、その背景に、「不堪
者、紅葉 ノ、青 キ苔 ノ上 ニチリカヽルハ、不堪、面白 ト也」という白
詩が描いた景色に注目した国会図書館本『和漢朗詠注』などの
朗詠古注の存在が想起される。このように、『徒然草』は『白氏
13
文集』を受容する時、読者が知っていると想定できる極めて有
名な部分を取り入れながらも、原典から離陸して自在に用い、
独自な文章を作り上げた。
(7)人事多かる中に、道を楽しぶより気味深きはなし。これ、
実の大事なり。一たび道を聞きて、これにこころざさん
人、いづれのわざか廃れざらん。(『徒然草』第百七十四
段)
老来生計君看取、白日遊行夜酔吟。陶令有レ 田唯種レ 秫、
鄧家無レ 子不レ 留レ 金。人間栄耀因縁浅、林下幽閑気味深。
煩慮漸銷虚白長、一年心勝二 一年心一 。(『白氏文集』巻六
十六・律詩「老来生計」)
3248
人間栄耀因縁浅、林下幽閑気味深。(『千載佳句』巻下
幽・居) 1015
人間栄耀因縁浅、林下幽閑気味深。(『和漢朗詠集』巻
下・閑居) 617
『徒然草』第百七十四段は仏道に志すことを勧めた章段であ
る。「道を楽しぶより気味深きはなし」の一文は老年の生活を描
いた『白氏文集』「老来生計」の詩句「林下幽閑気味深」を踏ま
えた表現である。白詩は「因縁」などの仏教用語も見られるが、
「虚白」というような『荘子』のことばも詠み込まれており、
必ずしも仏教的な意味合いが強いものではなく、「白日遊行夜酔
吟」というような自由な老後の閑居生活を描いている。しかし、 『和漢朗詠集』の諸古注はこの詩句を仏教的な文脈で解釈して
いる。
人間榮耀因縁浅、林下幽閑気味深白 かんのえいえうハあさしかノかんハふかし
名事雲浮如是実。榮為声。、縁為君仕、因為親也 ヲ 406
一 ト
一 るヲニ
一 ト
一 ヲト
一 ニノ
一
林下求道果者、浄心為因、善友為縁、仏身為期。誠是気 ニ
一 ヲ
一 ト
一 ヲ
一 ヲト
一
味深云也。(黒木文庫本『和漢朗詠集註抄』) ト
人間 ト者、人間 ノ栄楽 ハ、皆是レ、電光朝露 ノ如 クニ、ア
484 617
タナル果報ナレハ、因縁浅 ト云也。林下 ノ幽閑 ト者、背代、 ヲ
一
山林入人 ハ、後世菩提 ニ心 ヲカクル故 ニ、是レ、実ノツトメ
ナレハ、気味深 シト云也。(後略)(国会図書館本『和漢朗
詠注』見聞系丙本)
人間―、(中略)下句、林下ニ坐禅ナトスレハ、万慮、一
440 617
時ニ収リ、チヽノ乱、刹那ニ滅ス。故ニ、禅居コトンナ
リ。是、出離覚悟ノ要路也。故ニ、気味深ト云。白居易
作。(書陵部本『朗詠抄』書陵部本系甲本)
人間栄耀因縁浅 、林下幽閑気味深香呂炉峯下新 ニ卜山居 ノようす
かかやく シかノハき
いき び
さし シム二 ヲ一
楽白天 479
(中略)下句 ハ、林下ナント ニ、独 リ草庵 ヲカマヘ、座禅ナ
ント ヲシツレハ、万慮一時 ニヲサマリ、チヽノ乱 レ、刹那 ニ
滅 ス。故 ニ、散心定 マテ、覚悟心 ニ進 メハ、決定菩提 ノ指南、出
離生死 ノ掟 ニ、気味深 ト云也。(後略)(『和漢朗詠集仮名注』
書陵部本系乙本)
人間栄耀因縁浅、林下幽閑気味深白 ノようハシノハシ
439
(中略)下句ハ、イマハ、ヤマ、ハヤシニ、コモリヰタ
ルコトノミヲ、コノミニオヘルワサニテアルト云也。(『和
漢朗詠集永済注』)
前述した第十九段・四十三段・五十四段と本段はいずれも朗
詠古注の解釈に近い理解の仕方を示しており、兼好がこの一句
を仏道を勧める文章として取り入れたのは、このような朗詠古
注の影響が想定できよう。また、本論文の第一部第二章に『徒
然草』第二十五段「桃李もの言はねば」の表現と漢故事「桃李
不レ 言、下自成レ 蹊」との受容関係について永済注の影響を論じ
た。このように、『徒然草』が『白氏文集』を摂取した際、原典
よりも、『和漢朗詠集』の古注など、日本における『文集』の受
容と近い理解を示していることが注目される。
(8)世をのどかに思ひて打ち怠りつつ、まづさしあたりたる
目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、事々成す事な
くして、身は老いぬ。(『徒然草』第百八十八段)
空王百法学未レ 得、玉女丹砂焼即飛。事事無レ 成身老也、
酔郷不レ 去欲二 何帰一 。(『白氏文集』巻十七・律詩「酔吟二 首その一」)1064
事事無レ 成身也老、酔郷不レ 知欲二 何之一 。(『和漢朗詠集』
巻下・述懐) 756
『徒然草』第百八十八段も一大事の仏道に専念すべきと述べ
た章段である。『和漢朗詠集』にも見られる『白氏文集』「酔吟二
首その一」の一句「事事無レ 成身老也」を訓読した形で取り入れ
た。しかし、白詩は仏教も道教もどちらの道にも進めない身と
して、ひたすらに酔郷に耽るのが良いと述べたものであるが、『徒
然草』はこの詩句の表現を借りて、すべてを放下して仏道へ進
むべしという文脈で用いた。この部分も原詩の意味とは異なり、
『白氏文集』の表現を自由に取り込んだ受容方法と言える。な
お、この白詩の一句と『和漢朗詠集』とは本文の異同が見られ
る。底本として使った那波本と南宋刊本はいずれも「身老也」
と作るところ、管見抄本(内閣文庫蔵『重鈔管見抄』)と『和漢
朗詠集』諸本は「身也老」と作る。『徒然草』が「また」という
言葉を用いていないところは刊本の表現に近いが、ほかの引用
箇所から見て、『徒然草』が『白氏文集』などの漢籍から引用す
る際、自然に和文化して文章を作り直したところがほとんどで
あり、必ずしも原本通りではない。この一ヶ所ではどちらかの
系統によったかは判断しがたい。
以上、『千載佳句』『和漢朗詠集』といった秀句撰に取り入れ
られた『白氏文集』と『徒然草』が受容した『白氏文集』と重
なる部分について見てきた。『徒然草』が受容した『白氏文集』
の巻数を見ると、巻一から巻六十六まで及び、広い範囲を受容
している印象が残るが、前述した久保田淳氏(一九七〇)、川口
久雄氏(一九七四)、金文峰氏(二〇〇一・二〇〇二)の論文に
指摘されたように、その半分以上がこれらの秀句撰によって人
口に膾炙している詩句を摂取していると考えられる。このよう
な秀句撰に取り入れられたほど著名な『白氏文集』の詩文を用
いて『徒然草』の文章の深みを増やしながらも、その受容態度
は、『白氏文集』の原典から離陸して、朗詠古注の理解に近いも
の、或いは、『徒然草』の本文の文脈に沿うように白詩の表現だ
けを借用し、独自な文章を作り上げた。
(二)『源氏物語』の場合
『徒然草』に受容された『白氏文集』の中、『源氏物語』に受
容された『白氏文集』と重なるものは八箇所見られる。本節は
これらの例を取り上げ、『徒然草』が『源氏物語』の世界を通し
て『白氏文集』を受容する様相を考察する。
(1)そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出 でまじらはん事を思ひ、夕の陽に子孫を愛して、さかゆ
く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる
心のみふかく、もののあはれも知らずなりゆくなん、あ
さましき。(『徒然草』第七段)
可レ 怜八九十、歯堕双眸昏。朝露貪二 名利一 、夕陽憂二 子
孫一 。掛レ 冠顧二 翠緌一 、懸レ 車惜二 朱輪一 。金章腰不レ 勝、傴
僂入二 君門一 。誰不レ 愛二 富貴一 、誰不レ 恋二 君恩一 。年高須レ請レ 老、名遂合レ 退レ 身。(『白氏文集』巻二・諷喩二「秦
中吟・不致仕」)
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明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで、御
岳精進にやあらん、ただ翁びたる声に額づくぞ聞こゆる。
起居のけはひたへがたげに行ふ、いとあはれに、朝の露
にことならぬ世を、何をむさぼる身の祈りにかと聞き給
ふ。(『源氏物語』夕顔)
「齢などこれよりまさる人、腰たへぬまで屈まり歩く
例、昔も今もはべめれど、あやしくおれおれしき本性に
添ふものうさになむはべるべき」など聞えたまふ。(『源
氏物語』行幸)
太政大臣、致仕の表奉りて、籠りゐたまひぬ。「世の中
の常なきにより、かしこき帝の君も位を去りたまひぬる