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2yamada 山田肖子 アフリカ教育研究の歴史的展開と現在ー新の地域理解に向けてー

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アフリカ教育研究の歴史的展開と現在

−真の地域理解に向けて−

山田肖子

(名古屋大学大学院国際協力研究科)

近年、日本でアフリカの教育研究に関心を持つ人々が急激に増加している。日本語 で刊行されたアフリカ教育に関する報告書、論文等は1970年代から既に見られるが、 それらはまだ外国教育研究や援助研究のなかで散発的に行われていた感があった。し かし、90年代以降、アフリカ教育研究は急速な成長を見せ、その研究のレベルも年々 向上している。その背景として、日本のアフリカに対する援助額が90年代以降急激 に増加し、開発や援助の対象としてアフリカへの関心が高まったことが挙げられる。 アフリカ研究全般を見渡しても、90年代以前には、人類学、歴史学といった社会に深 く身を置いて特定テーマを長く追いかけるタイプの研究や、国や地域、民族集団に特 化し、その地域や民族に関する様々なテーマを多面的に調べる地域専門家的な研究が 主流であったのに対し、90年代以降は、開発援助の実務に関わる研究テーマ−ガバナ ンス、経済、政策、政治、行政−を扱う研究者が増えた。途上国の教育研究を行う人々 が必ずしも開発や国際協力を前提とした研究を行うわけではないが、少なくともアフ リカにおいては、学校教育を前提とする教育研究の大部分は日本の教育協力、教育開 発と密接に関わってきた。そこで本論では、まず、援助、開発の対象としてのアフリ カがどのように世界及び日本の注目を集めてきたか、その中で日本のアフリカ教育研 究がどのように展開してきたかを概観する。特に、アフリカ教育研究が、他地域の教 育に関する研究と比べてどのような特徴を持っているのかについても論じることとす る。さらに、旧宗主国である英仏等を中心に行われてきたアフリカ教育研究の歴史を 振り返り、今後、アフリカ人及び外国人研究者がアフリカにおける教育の諸側面を研 究していくうえで、課題となる事柄を検討することとする。

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.統計上のアフリカ教育開発の遅れと援助対象としてのアフリカ

1990年時点で、サブサハラ・アフリカにおける初等教育の純就学率の平均は55% であった(UNESCO統計による)。つまり、20年前には、就学すべき年齢の子どもの 半分近くが小学校に行っていなかったことになる。このとき、発展途上国全体の純就 学率平均は79.8%であったことと比べると、サブサハラ・アフリカでの学校教育の普 及度は他の地域より圧倒的に低かったと言える。

1990年に、世界全体の教育開発の潮流に大きな影響を与えた「万人のための教育

(Education for All: EFA)世界会議」が、タイ国ジョムティエンで開催された。この 会議には、ユネスコ、ユニセフ、世界銀行、国連開発計画を中心として、教育分野の 国際開発に関わる150の機関と155カ国の代表が参加し、国際社会が一致して途上国

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の教育開発に力を注ぐため、教育分野では初めて目標を共有化したのである。このジョ ムティエン会議以降、ここで合意された開発目標−特に初等教育の完全普及(Universal Primary Education: UPE)、教育の場における男女の就学差の是正−は、途上国におけ る教育開発の最重要課題となったのである。こうした国際社会の動きを反映して、初 等教育の完全普及が危ぶまれる国には国際社会からの援助が集中したが、その筆頭は サブサハラ・アフリカの貧困国であった。「万人のための教育」開発目標は2015年を 達成期限に設定していたが、10年経ったのちも、目標達成には程遠い国が多く、国際 社会は、2000年にセネガル国ダカールで「世界教育フォーラム」を開催し、「万人のた めの教育」開発目標を再確認するとともに、より明確な行動指針に合意したのである。

特にダカール会議が開催された2000年以降、国際社会による無償義務初等教育の 普及に向けた援助が加速し、アフリカで初等教育の普及が遅れている国々も急速に援 助受け入れ額が増加したのである。サブサハラ・アフリカ諸国の国民総所得に占める 援助の割合は、2000年から2005年の間に4.1%から5.5%に増えているが、これは、 低所得国平均の2.9%(2005年)を大きく上回り、世界でも最も援助依存の高い地域 であることが分かる(World Bank 2008)。2000年代前半から半ばにかけて、サブサハラ・ アフリカの多くの国では、援助額が増えるのに伴って、政府の教育支出、特にその中 でも初等教育の割合が増えた。

このように教育開発の関心がアフリカに集中するのと時を同じくして、国際社会に おけるアフリカへの援助の関心も高まってきた。特に2005年は「アフリカの年」と も呼ばれた。2005年1月には国連ミレニアム・プロジェクト報告書がとりまとめら れ、ミレニアム開発目標の達成状況のレビューにおいて、サブサハラ・アフリカは悪 化、アジアは最も改善したが不十分、その他の地域は改善・悪化が混在とした上で、 貧困削減の主な責任は開発途上国自身が負うが、最貧国のミレニアム開発目標達成に は当該国の努力だけでは足りず、援助国・機関によるODAの大幅な増額が必要とし ている(UN Millennium Project 2005, p.92)。2005年3月には、英国ブレア首相のイ ニシアティブによるアフリカ委員会(Commission for Africa)の報告書が発表され、 アフリカの国々がミレニアム開発目標を達成するためには、アフリカに対する援助額 を倍増するする必要があること、つまり2010年までに追加的なODAが250億ドル 求められていることが掲げられた。そして同年7月のグレンイーグルズG8サミット において、アフリカ委員会の提言通り、2010年までにアフリカ向け援助を倍増する ことが合意され、「開発援助の主対象はアフリカ」という潮流が形成されていったと 言える。更に9月には、世銀はアフリカ開発計画(Meeting the Challenge of Africa s Development: A World Bank Group Action Plan)を発表して、2015年に向けた10年 間を「アフリカの10年」と名づけた。

また近年、中国もアフリカ諸国との関係強化を活発化している。中国は、アフリカ との「新たな戦略的パートナーシップ」構築を外交の柱に掲げ、経済協力のみならず、 民間セクターのパートナーシップの構築を通じて投資を活性化している。中国は、ア フリカとの経済・貿易関係を強化するための「中国・アフリカ協力フォーラム」を 2000年に北京で、2003年にはアディス・アベバで開催したのに続き、2006年11月

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には、アフリカ48カ国の首脳を北京に招いて「中国・アフリカ協力フォーラム首脳 会合」を開催し、債務免除や投資拡大、人材育成などを含む対アフリカ支援策を打ち 出した。また中国は、1991年に銭外相が年初にアフリカ訪問を実施して以来、政府要 人による年始のアフリカ訪問が恒例化しているのに加え、胡国家元首が2年連続して アフリカ訪問を行うなど、経済的のみならず、政治的なパートナーシップの構築を図っ ている。

またアフリカの開発においては、日本のイニシアティブによるアフリカ開発会議

(Tokyo International Conference on African Development: TICAD)も重要な役割を果 たしている。TICADは、アフリカに対して意味があると同時に、日本国内でアフリ カに対する関心を高めたことにその意義が高かったと言えるかもしれない。現在、日 本でアフリカ教育研究に関心がある若者が多くなっていることの一因として、TICAD 等に端を発するメディアや市民社会組織による広報・啓発活動が果たした役割は無視 できないだろう。

TICADは、アジアとアフリカがアフリカの開発促進を目指して協力するための国

際的枠組みとして、5年に一度行われてきた。1993年に開催された第一回会議(TICAD I)においては、アフリカに対する支援プロセスの継続とアフリカの開発優先課題に 関する合意が形成された。このプロセスは、1998年の第二回会議(TICAD II)を通 じて強化された後、2003年の第三回会議(TICAD III)においては、アフリカ自身に よって生まれた開発のための新基盤、「アフリカ開発のための新パートナーシップ(The New Partnership for Africa s Development: NEPAD)」との協調を軸としながら、人材 育成やアジア・アフリカ支援の強化を打ち出すに至っている。また2008年に開催さ れたTICAD IVは、アジア、アフリカ、援助国を合わせ51カ国の元首と50のNGO の代表、延べ3000名もの人々が参加し、参加人数は過去3回を上回っただけでなく、 メディアでも頻繁にアフリカについての情報が発信され、日本におけるアフリカへの 関心は未曽有の高まりを見せたのである(Yamada 2010)。

こうした国内外の状況を受け、日本のアフリカに対する二国間ODAは、2000年 代に入って急激な増加を見せている(図1)。特に2005年グレンイーグルスサミット の直後の金額の伸びが著しい。日本はグレンイーグルスにおいて、アフリカに対する ODAの倍増を約束した。しかし、この公約には、円借款の債務免除等も含まれ、新 規の援助額は公約によって国際社会が期待したほどには高くなかったことから批判を 受け、2008年のTICAD IVにおいては、福田首相(当時)が2012年までに更にアフ リカへの援助額を倍増させることを約束した。このようにして、日本の二国間ODA に占めるアフリカの割合は2002年の8.7%から2006年には34.2%を占めるまでに なり、ODA予算削減の中でもアフリカ向けだけは特別扱いという状況になっている。 このように、アフリカへの援助額増加が繰り返し宣言される一方、現場でのニーズ調 査の積み上げから金額が算定されているわけではないため2008年のTICAD IVのフォ ローアップでプロジェクト形成に奔走するという状況も生まれている1。援助のニーズ は減らない反面、実施のための情報、人材が不十分な局面があることが、アフリカ教 育研究に関心のある人材が増え続ける背景要因の一つとも考えられる。

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.開発のコンテクストにおけるアフリカ教育研究

上述のような日本のODAの増額やアフリカへの世界的な関心、MDGsやEFAの 達成に向けてサブサハラ・アフリカの低開発国への支援ニーズの認識を背景に、日本 で外国の教育を研究する人々の間にも、開発を志向する者、更にはアフリカ教育研究 を目指すものが多くなってきた。著者が日本比較教育学会の会員に対して行ったアン ケートからは(山田2011)、いまだ少数派ながら、援助動向やジェンダーといった国2 際アジェンダに関心があるグループが、特に90年代半ば以降の入会者の間で増えて いることが分かっている。日本比較教育学会は、外国の教育を様々な手法、角度から 研究する人々によって構成される学会で、2010年6月時点での学会員総数は1153名 で、そのうち1991年以降の入会者は全体の54%を占める3。90年代以降の入会者が 多いということは、従来、日本で外国教育研究していた人々とは異なる研究関心やア プローチを持った人々が増えているということを示唆する。アンケートでは、回答者 が関心を持っている研究テーマを選択してもらい(複数回答可)、回答結果から、研 究傾向を見るため、因子分析を行った。因子分析の結果、開発やジェンダーといった、 国際的に必要性が合意された目標の達成に強い関心をもつグループとして「国際ア ジェンダ型」が抽出された。「国際アジェンダ型」は、他のグループほど人数は多く ないものの、近年の学会入会者が多く、回答者間で、関心のあるテーマのばらつきが 少なく、かなり均質なグループであることが分かった4。まず、実験、フォーカスグルー プ・ディスカッション、質問票といった構造化された調査手法を用いる傾向が非常に 高い。更に、相手国及び相手国に対する日本の外交・援助政策に影響を与えたいとい う意思が非常に明確である(相手国積極型)半面、日本の国内政策や教育実践に影響

1 二国間ODAの地域別配分の推移

(出所)外務省(2008)

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を及ぼすことはあまり考えていない。これは、欧米や近隣諸国の政策や教育実践から 日本に対する示唆を得ようとしたり、純粋に相手国の教育事情に関心を持って詳細に 観察、理解しようとする研究者(相手国消極・国内型)とは明らかな態度の違いである。 このように、政策提言をして現状を変えることを志向するのは開発研究の一つの特徴 と言える5。ある社会で教育が行われている様子をつぶさに観察し、そこでの意味を理 解しようとする姿勢からは、観察者自身の判断基準や国際アジェンダに基づいて改革 のための示唆を与えるという発想は生まれないからである。アンケート結果から、「国 際アジェンダ型」の因子が強く働いている研究者は、地域的には、従来の比較教育学 会員と比べ、経済発展のレベルが低い国での調査を行う傾向が強いという結果が出て いる(図2)。このグループが調査を行う地域は、北アメリカの11.5%を除くと、ア ジア、アフリカの諸地域に広く分布しており、アフリカ教育研究に関心を持つ大学院 生、若手研究者の多くは、こうした傾向を反映していることが想像される。

開発研究としてのアフリカ教育研究がひろまったことは、当該分野の進展を早め、 優秀な人材がこの分野に多数参入したことを示唆している。一方、以前は、自らが研 究対象とするアフリカの国、地域、民族集団の文化、伝統、歴史、政治、経済などに ついて、かなり理解していないと、アフリカ研究者としては一人前とみなされないと いうのが日本のアフリカ研究界の傾向であったのに対し、最近は、アフリカ社会の知 識をさほど厳しく問われず、マクロ分析や世界的に関心が高まっている行政改革等の 手法(教育分野であれば、分権化、参加型学校運営、生徒中心の教授法など)をアフ

2 研究で社会に影響を及ぼしたいかどうかと調査国の経済レベルの関係

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リカの国の事例を用いて調査をするケースが多くなってきた。このことは、比較教育 学だけでなく、アフリカ研究という地域研究学界でも開発系の研究者が急激に存在感 を増していることを示唆する。アフリカ教育研究に関して言えば、この分野の関心を 持つ大学院生等の多くは、国際開発関係の研究科に所属しており、地域研究者になる ことを目指しているわけではないから、人類学系の学生のように、現地に数年暮らす ことを研究者としての訓練の前提とするような伝統はない。しかし、研究者の数が増 え、ある程度の蓄積が出来てくると、学問分野としての成熟度が問われ、情報整理や 事例の報告以上の分析を求められるようになってくる。日本のアフリカ教育研究では、 気鋭の研究者が質の高い論文を発表しているが、まだ層も薄く、向上の余地がかなり あると言わざるを得ない。アフリカの事例を用いた教育開発研究から、真にアフリカ 教育研究と言える分野になっていくためには、アフリカの社会を知るとともに、これ までアフリカ人、非アフリカ人によって行われてきたアフリカ教育研究の蓄積につい ても注目する必要があるだろう。こうした認識に基づき、以下の節では、アフリカ教 育研究の歴史を簡単に紹介することとしたい。

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.アフリカ教育研究の歴史的展開

ヨーロッパにおけるアフリカ教育研究は、植民地時代から活発に行われていた。当 初は、キリスト教ミッショナリーがアフリカにおいて布教とともに行った教育実践の ため、学校教育のモジュールや教授法を伝達することが主目的であったと思われる。 19世紀前半から、ドイツのプレスビテリアン派のバーゼル布教団は、学校農園を運 営したり、職業技術を教えるなど、技能重視の教育を提供し、対照的に、メソジスト 派の布教団は、ヨーロッパ的な教養教育を行ったと言われている。一部のヨーロッパ 人が、アフリカの資源を求めて探検したり、キリスト教の布教活動のために内陸部に 入り込んだ時代から、19世紀後半になると、ヨーロッパ列強が国レベルで領土獲得 競争をするようになり、それに伴って、統治のために、現地の伝統社会や文化、言語 について多くの調査が行われた。教育研究は、そうした流れの中で、ヨーロッパやア メリカの教育モデルをアフリカに適応させるために、アフリカの社会の在り様や教育 ニーズを見極めるといった、政策的意図の強いものが多かった。英国植民地省には、 1925年に「熱帯アフリカ教育諮問委員会(Advisory Committee on Native Education in Tropical Africa)」が設立され、女子教育、教育言語、職業技術教育、エリート教育、 宗教教育など、様々な分野の検討会による委託調査や、提言文書が作成された。英 国・国際宣教者評議会(International Missionary Council)のInternational Review of Missionや、アメリカのJournal of Negro Educationといった学術誌が定期刊行され、 アジアでのミッション教育やアメリカの黒人教育とともに、アフリカ教育にかかる論 文も多く掲載されている(Yamada 2008, 2009)。

植民地時代には、政策を推進するための情報整備という側面が強かったアフリカ教 育研究であるが、アフリカの多くの国々が植民地支配から独立した1950年代後半か ら60年代には、植民地時代の教育についての客観的な分析が行われるようになった。

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イギリスやフランスといった宗主国の植民地教育政策のマクロ的分析(Hillard 1956、

Scanlon 1966など)、国ごとの教育制度や高等教育、中等教育といった教育段階ごと

の歴史的分析(Graham 1971、Ashby 1966など)、それに、植民地時代にミッショナ リーや植民地政府によって作られた名門校などの教員がまとめた学校史なども、50∼ 60年代に多く出版されている。

60∼80年代には、先進国(旧宗主国)とアフリカ新興国の歴史的関係を、抑圧― 被抑圧の関係と捉えるマルクス主義的な立場の教育研究が少なくなかった。ひとつの 流れは、アフリカ人研究者によるポスト植民地主義的な思想運動である。アフリカの 独立運動の思想的指導者の中には、植民地時代にヨーロッパ人が行った学校教育が、 アフリカ人の心に、ヨーロッパ中心主義的価値観と自らの文化をさげすむような屈折 をもたらしているとして、批判する者が少なくなかった。アフリカらしい独自の教育 を求める言説は、多様な言語集団による言語空間、文字での表現を求める言語学や文 学の世界での運動や、汎アフリカ主義などの政治思想とも深く関連していた。イギリ ス支配下のケニアで育ったングギ・ワ・ジオンゴは、文学を通してアフリカの民族性 を表現した。特に、70年代以降は、植民者の言語でなく、自らの母語であるギクユ語 で文学を発表するようになった。このようなナショナリスト文学や、南北アメリカや カリブに住む黒人も含め、アフリカに起源を持つ人々の連帯を提唱した汎アフリカ主 義は、教育思想にも大きな影響を与えたのである。

しかし、アフリカのこうした批判的教育言説の悲哀は、学校教育という制度そのも のが、一部の例外を除き、外生的にヨーロッパがアフリカに制度的支配を行うように なった19世紀以降に出来上がったものだということである。さらに、現在、政治、経済、 学問の中心的な担い手は、ヨーロッパ人の学校に通うことで、伝統的な権威の外で形 成されたエリート階級の子孫である。従って、学校教育をアフリカ化する、という議 論は、政治思想として、強いメッセージ性を持つ反面、社会サービスを担う政府の意 思決定の中枢では、エリートをエリートたらしめてきたヨーロッパ言語による教養教 育を是とする態度が根本にある。また、大衆レベルでも、学校は社会的栄達の第一歩 と見るために、学校が家で教えられないようなことを教える異質な空間であることを、 むしろ望む傾向がある。こうしたことから、現在でも、「教育をアフリカ化すべき」 という議論は度々起こるが、そのために具体的に何を行うか、という点になると、研 究者も実務者も、学校で伝統的な衣装を着て特定の日に儀式を行ったり、伝統的な舞 踊や音楽を学校の活動に取り入れるといった、形式的な伝統主義に留まった提言や実 践が多い(山田2004)。

もうひとつのマルクス主義的な教育研究の流れは、欧米の援助を批判するタイプの もので、この類の研究は、70∼80年代に活発であったが、現代でもしばしば見られ る。援助機関は、アフリカで学校を建設し、そこで特定の教材や教育モデルを普及 しようとしたり、奨学金を提供してアフリカの将来を担うような若者を欧米に留学 させることによって、ソフトパワーによってアフリカへの影響力を維持しようとし ているといった批判的論考である。古くは、フェルプス・ストークス基金やカーネ ギー、ロックフェラーといった米国の教育援助活動を植民地支配的であると批判した

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Berman (1971など)や、King (1971)などがその例である。教育援助に対する近年の 研究にもマルクス主義の流れを汲む世界システム論や従属論的なものは多い(例えば、 Brock-Utne 2000)。アフリカの教育が、極めて高い援助依存の中で、グローバル・ス タンダードに集約されていっていることは否定できない事実だからである。しかし、 そのような単純な援助押しつけ論では、アフリカ諸国の政府や大衆も積極的に国際標 準にあった教育を望んでいる状態を説明しきれず、最近は、それぞれの国の事情や政 策プロセスをより詳しく観察し、国際的言説が国内にどのように取り入れられたかを 分析するようになっている。

さて、時代を戻って、80年代までの時代性を反映した研究のもう一つの例は、ア フリカの社会主義体制国家における教育の研究であろう。キューバやニカラグアなど の南米国と並んで、アフリカのタンザニアやギニアなどを事例とし、社会主義国家が どのように教育というチャンネルを用いて政治的イデオロギーを伝達し、社会の構 造変化をもたらしたかについて、特にアメリカ人研究者が注目している(Carnoy &

Samoff 1990など)。社会主義が教育の場を明示的に政治変革のための思想教育の手段

と位置付けたことは、民主主義国の教育研究者の関心を惹いたことは想像に難くない。 なお、タンザニアは左傾化した国の中では珍しく、外部者による教育研究が比較的 多いが、それは、初代大統領ニエレレが、アフリカ社会主義の思想に基づいた、識 字を中心とする独自の教育モデルである「自立のための教育(Education for Self-

Reliance)」を実践したことで注目されていたためであろう。ユネスコは、成人識字教

育を積極的に推進したが、そうした動きの背景には、ブラジルのフレイレやタンザニ アのニエレレなど、途上国の政治家や教育者が実践した識字教育があることも忘れて はならない(Kassam 1994)。

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.現代のアフリカ教育研究

1980年代半ばから、多くのアフリカの国々は、世界銀行・IMFが推進した構造調 整計画を受け入れ、社会主義体制を採っていた国家も、次々と国際機関や西側諸国の 援助を受け始めた。このことにより、アフリカ諸国は、社会主義―民主主義の二つの 陣営に色分けされていた時代から、経済発展や識字率、就学率といった指標の高低で ランク付けされる時代に入ったと言える。構造調整以降、アフリカの援助依存は高まっ たが、特に、1990年代に入って、MDGsやEFAが合意されてから、教育分野に流入 する援助額は劇的に増大した。アフリカには、これらの戦略や開発目標で重点を置か れた基礎教育(初等+前期中等)の普及度が低い国々が集中しており、国際社会は、 こうした国々の教育アクセスを拡大するという共通の目標に向かって援助を集中させ たからである(Yamada 2005)。

80年代までも、アフリカ教育研究は、何らかの形で援助に関わるものが多かった。 しかし、90年代以降、国際機関が大学やコンサルタント会社等に委託する調査研究が 教育研究の大きな部分を占めるようになった。イギリス、アメリカなど、先進国の大 学も、補助金削減が続き、外部資金を獲得することが大学教員の重要な仕事となった

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が、純粋研究のための補助金は限られており、途上国教育研究に関わる多くの人々が、 国際機関、自国の二国間援助機関等の公募に応募している。例えば、イギリスで国際 開発分野で実績のあるサセックス、エジンバラ、ケンブリッジ、イーストアングリア といった大学は、英国国際開発省(DfID)が公募したテーマ別多国間共同研究の資金 を獲得し、アフリカ、アジア各国の研究者と連携して「教育と技能形成」「教員養成の質」 といった様々な共通のテーマで国際比較研究を行っている6

このように、援助と極めて近い関係で行われる研究が増大しているのと同時に、援 助による教育の画一化、外部主導に対する批判的論考も多いことは既に述べた通りで ある。ただし、世界システム論的批判は、「援助の押しつけ」とレッテルを貼って、 複雑な状況を単純化しすぎるきらいがあり、また、ポストモダニズム的な相対主義は、 結論なき事例紹介になりがちであり、極めて現実的な援助実践のための調査とはかみ 合わないところがある。情報としての「調査」と、論説としての「研究」の格差を埋 めていくことは、アフリカ教育研究の一つの課題かもしれない。

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.日本におけるアフリカ教育研究

日本アフリカ学会が設立されたのは1964年で、その当時は、人類学、歴史学、地 理学などの研究者が中心であったことはさきに述べた。教育をテーマとしてアフリカ の研究に関わったのは、当時アジア経済研究所に在籍しておられた故豊田俊雄氏が恐 らく最初なのではないか。豊田氏は、日本のODA草創期に、教育分野の戦略策定の ための調査・研究に従事され、1970年代に、ケニアッタ大学で客員教授を務められ ている。80年代以降、丹埜靖子氏(1990)がケニア、川床靖子氏(1989)がタンザ ニアの教育について著作を発表しているほか、教育学者ではないが、アフリカ研究の 中で、教育も研究テーマとしている人々は散見される(三藤2005;砂野2007;亀井 2010など)。一方、教育研究の側からアフリカを見ると日本比較教育学会誌である「比 較教育学研究」に最初にアフリカについての論文が掲載されたのは1996年、浜野隆 氏によるものであった。

先述のとおり、1990年代以降の日本でアフリカ教育研究は、アフリカへの援助の高 まりと深く関わっている。そうした背景から、アフリカ教育研究の論文は、国際開発 に関わる学会誌に掲載されることが多い。ただ、こうした開発志向のアフリカ教育研 究は、日本におけるアフリカ教育研究の全てではない。歴史学、人類学、社会学、言 語学などのテーマは、教育と重なる部分が多い。例えば、キリスト教の布教史は、ア フリカの学校教育史そのものであるし、教育言語はアフリカ社会言語学の大きなテー マである。社会学や人類学で、都市のストリートチルドレンや農村社会の青年グルー プなどを分析対象とする日本人研究者がいるが、そういった研究と教育研究は、接点 が多い。日本のアフリカ教育研究は、まだ未成熟な部分が多いが、国別情報の収集や 援助の評価だけでなく、より地域理解に根差した地域研究的な奥行を備えた教育研究 の発展が望まれる。

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むすび―アフリカの高等教育と教育研究の今後

ここまで見てきて分かるように、アフリカ教育研究は、植民者や援助機関といった 外部者の存在なしには考えられない。良かれ悪しかれ、アフリカの学校教育の歴史は、 外部者との関わりの歴史でもあるし、その教育を通じて、どのような人材を育てるか というビジョンも、外部の援助者に影響され続けてきた。例えば、高等教育機関とは、 研究者や研究を生みだす母体であるが、アフリカにおける高等教育機関の在り様は、 考えさせられる点が多い。

アフリカでは、独立後、経済発展が遅れたために、植民地時代からあった名門大学 であっても、施設を十分に維持できず、図書館の本なども何年も更新されていないと いうケースも少なくなかった。また、大学教員の給与が安く、国内に研究補助金など の制度もなかったため、大学教員が、援助機関などから調査研究を請け負うコンサル タント業に精を出しがちである。海外の大学や研究者との共同研究という形もしばし ば取られるが、アフリカ人研究者が個人的な問題意識に基づいて調査研究を企画・実 践しようとすれば、自腹を切ることにもなりかねない。このように、高等教育機関が、 外部資金に依存していると、自由な発想による研究が難しいだけでなく、高等教育機 関の自立運営に支障をきたすことになる。本稿は、援助やアフリカの教育実践につい て論じることを直接の目的とはしていないが、アフリカ人研究者自身の手による研究 がなかなかアフリカ域外でまで認知されないことの理由として、研究テーマの選び方 や国際的な学会で評価されるような論旨構成という点で、不十分な場合もあるが、研 究者を擁する高等教育機関の在り方も大きな影響を及ぼしていることを指摘しておき たい。

一方、このように高等教育機関研究の質が問題となっている反面、南アフリカ共和 国やナイジェリアなど、高等教育機関が非常に活発で、独自の研究、出版活動を精力 的に行っている国もある。また、アフリカ人は、教育熱心で、欧米の大学で博士号を 取り、海外にそのまま残って活躍している研究者なども少なくない。こうした優秀な 個人や活動的な大学が中心となって、アフリカ人研究者が、全く新しい切り口でこれ までの教育議論に風穴を開けることが、アフリカ教育研究の今後にとって極めて重要 であろう。同時に、我々外部者も、援助の評価や実践のための手法開発といった調査 研究だけでなく、批判的かつ社会によりそった研究を行うべく、アフリカ社会につい て理解を深める必要があるだろう。

1 著者のJICAアフリカ部等でのインタビューから。Yamada(2011)も参照。

2 アンケートは、学会員の研究傾向、手法、属性などについて調べることを目的に行われ、 2007年までに入会し、個人情報の公開に同意していて、連絡がついた699名に配布され、 264名から回答を得た(回収率38%)。

3 学会事務局提供資料より。 

4 「国際アジェンダ型」以外には、国の政策、政治、行政、労働市場の状況などを大局的に

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取り扱う「政策・制度型」、マイノリティや宗教、言語、文化といった社会的なテーマと 教育の関わりを取り扱う「教育と社会型」、教師、教授法、カリキュラムといった教育内容・ プロセスに関心のある「教師・教授法型」、比較教育学などの学問分野の研究動向や手法 を研究テーマとする「学問論・手法分析型」の4グループが抽出された。

5 北村(2005)は、比較教育学における開発研究の意義を指摘し、研究者が相手国の政策や 教育実態の向上のために行動する「コミットメント・アプローチ」を提唱している。 6DfIDは、教育を含む主要なセクターについて、それぞれ5∼10程度のテーマを提示し、

それらのどれかに関する研究プロポーザルの提出を呼び掛ける「systematic review」とい う方法で、援助機関の問題意識に基づく学術研究の蓄積を目指している。

参考文献

外務省(2008)『ODA白書2007年版』国立印刷局.

亀井伸孝(2010)『森の小さな<ハンター>たち:狩猟採集民の子どもの民族誌』京都大学 学術出版会.

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参照

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