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サファヴィー朝とムガル帝国
イスラームはその登場で世界史を大きく変え、 その後も自己変化しながら、世界の変化と深く関 わってきた。そのような流れにあって、近世から 現代に至る中でとりわけ大きな意味を持っている のは、16世紀であるように思われる。西暦1501年 は、イスラーム暦(太陰暦)でいえば907年にあ たっており、ムハンマドが最初のイスラーム国家 を樹立してから9世紀たった頃である。
すでに、イスラーム世界はウマイヤ朝、アッバ ース朝の主要な版図であった西アジア・北アフリ カから、アフリカ大陸では南進し、東へは南アジ ア、東南アジアへも地歩を進めていた。イランは その中央部にあたるが、ここにサファヴィー朝が 1501年に成立した。
王朝の名前は、神秘主義教団の1つである「サ ファヴィー教団」に由来する(教団名は彼らの祖 先である教団創設者の名から)。教主のイスマー イールは自分に従うトルコ系遊牧部族の力によっ て、白羊朝(アクコユンル)の都タブリーズを奪 い、新しい王朝を樹立した。教団の思想ははじめ、 イスラームとして非正統的な要素もかなり混入し たものであったが、王朝となった後は、すでに確 立されていた12イマーム・シーア派を正式の教義 として採用するようになった。
今日のイラン、西隣のアゼルバイジャンは、12 イマーム・シーア派の国として知られている。シ ーア派自体はイスラーム初期に起源を持つため、 印象としては、もっと古い時代からこのあたりに 広がっていたように感じられる。とくに、アッバ ース朝の成立時にホラーサーン地方(現イラン東 部)などのシーア派が活躍したため、その印象が 強い。しかし、実際にはサファヴィー朝となるま でのイランは、ハンバル学派などスンナ派の勢力
の方が強かった。サファヴィー朝は、この地域を シーア派化するために、わざわざ他地域からシー ア派の法学者を呼び寄せるなどの努力をした。 16世紀末には首都を南方のイスファハーンに移 した。この町はセルジューク朝時代にも栄えたが、 サファヴィー朝時代にはさらに大きく拡張され、 人口は50万人に達した。この都の栄華は、「イス ファハーンは世界の半分」として知られた。「半分」 とは、世界の富の半分が集まっているの意味とも されるが、その繁栄ぶりが偲ばれるであろう。サ ファヴィー朝の作った新市街とそれまでの旧市街 の間に「王の広場」が作られ、今日でも壮麗なイ スラーム建築が訪れる者の目を奪う。
時代を同じくして、このシーア派の帝国の東西 には、スンナ派の帝国が立ち上がった。東側に登 場したのは、1526年に北インドに樹立されたムガ ル帝国である。「ムガル」は「モンゴル」が訛っ た語であるが、地元の側がモンゴル人の王朝と誤 解した名称が定着したものである。王朝を開いた バーブルは、1世紀前に中央アジアからイラン、 アフガニスタンを支配した覇者ティムールの子孫 であった。そのティムール自身はチンギス家の女 性と結婚していたから、ムガル朝も、かつてのモ ンゴル帝国と全く無縁ではない。
この帝国も、16〜17世紀に繁栄を誇り、北イン ドは大きな経済発展を遂げた。その栄華を今日に 伝えるものは、何といっても、第5代皇帝シャー =ジャハーンが愛后のために建設したタージ=マハ ルであろう。これは墓廟を中心として、庭園、モ スク、迎賓館などが並ぶ複合建築で、日本人が「イ スラーム建築」と聞くと真っ先に、その白い壮麗 な姿を思い浮かべる。ちなみに、ムスリム(イス ラーム教徒)の中には、イスラーム建築の代表が 墓廟とされることに不満をいう人もいる。イスラ ームの教えでは、墓を飾りたてることを嫌う傾向
京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰
連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで
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があるので、その不満もわからないではない。し かし、幾何学的な均整美を持つタージ=マハルが イスラーム建築の粋であることは疑いを入れない であろう。
ムガル帝国はスンナ派、とくにハナフィー法学 派を公式の学派とした。しかし、自らスンナ派の 領袖を名乗ったわけではなく、中東の覇者となっ たオスマン朝をその盟主としてたてる道を選んだ。 オスマン朝は16世紀初め、シリアやエジプトを征 服し、さらにアラビア半島の「2聖都の守護者」 となって、イスラーム世界の最大の帝国となった。 ここに、3つの帝国が並び立つ時代が生まれた。 「イスラーム帝国の鼎立」と呼んでいるのは、そ
のことである。
オスマン朝
ところで、オスマン朝の成立は1299年であり、 16世紀に生まれた新しい王朝ではない、という疑 問を抱いた読者もいらっしゃるかもしれない。そ の通りである。成立の古い順からいえばオスマン 朝が先であり、サファヴィー朝、ムガル朝の話か ら始めるのは手順がおかしいように見えるかもし れない。オスマン朝を後にしたのには、2つ理由 がある。1つは、今回のテーマは転換期としての 16世紀であり、オスマン朝の始まりから話を始め たのではそこに行き着かない、ということ。もう 1つは、より重要な点であるが、「3帝国の鼎立」 という形の一部としてのオスマン朝は16世紀に確 立した、という点である。
イスラーム世界の歴史を考えるとき、13世紀末 に生まれたばかりのオスマン朝はまだ主人公では ない。それもそのはず、この王朝は当時のイスラ ーム世界の辺境(あるいは、拡大の最前線)であ るアナトリアで生まれた。当時は、13世紀半ばに アッバース朝がモンゴル軍の襲来で滅びた後、カ イロが政治・経済・文化においてイスラーム世界 の中心であった。王朝としては、アイユーブ朝、 マムルーク朝が栄え、イスラームの聖地たる2聖 都もその保護下にあった。また、アッバース朝カ リフの子孫もカイロで庇護され、「カリフ」と名
乗りながら宮廷の貴顕の1人として暮らしていた。 しかし、オスマン朝は1453年にコンスタンチノ ープル(今日のイスタンブル)を征服し、ビザン ツ帝国を滅ぼしたため、一気に勢威があがった。 コンスタンチノープル攻略は、ウマイヤ朝もアッ バース朝も志しながら手が届かなかった「夢」で あったから、それを達成したオスマン朝がイスラ ーム的な正統性を手にしたのは当然でもあった。 ただし、版図の位置からいっても、この時点では ビザンツ帝国の後継者としての色彩も強い。それ が、世紀後にアラブ地域に進撃し、1517年にシリ アを、次いでエジプトを支配下に収めた。2聖都 の保護者ともなり、名実ともに、中心部における イスラーム王朝としての地位を固めたのであった。 後に(19世紀になってから)、エジプトを征服 したセリム1世がアッバース朝カリフから「カリ フ位」を譲り受けた、という伝説が流布されるよ うになった。それゆえにオスマン朝スルターンは イスラーム世界の頂点に立つカリフでもある、と いう物語が喧伝された。しかし、これは西洋列強 に対して劣勢になっていたオスマン朝が、自分の 正統性を補強し、イスラーム世界の支持を集める ために広めた物語と考えられる。16世紀において は、オスマン朝は誰にも負けない覇権を有してお り、宗教的には、マムルーク朝滅亡とともに名目 的な「アッバース朝カリフ」がいなくなる中で、 最強の称号ともいえる「2聖都の守護者」を名乗 り得た。これ以上の何が必要であったであろうか。
王権者と法学者
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迎えた。多くの王朝の版図、あるいは2つの王朝 の版図の間で誰の権力も及ばない地域などが混在 してイスラーム世界が作られるようになったので ある。そのような中で、多様な地域が「イスラー ム」という共通性を持っていたのは、具体的には イスラーム法が広がったからであり、イスラーム 法の担い手としての法学者たちが地位を確立し、 その社会的機能を浸透させていったからであった。 法学者たちは、王朝がイスラーム法を守るなら ば、権力者たちを認め、支持するという立場を取 った。これに対して、王権者の側でも、法学者を 保護し、彼らのアドバイスを求めることで、イス ラーム的な正統性を確保する政策を取った。とく に、オスマン朝の場合、初期には体制を支える官 僚・書記が不足していたため、法学者たちから人 材を供給することになった。15世紀以降は、バル カン半島の征服地などから少年を徴用し、官僚・ 軍人を育てる制度(デヴシルメ制)も生まれたが、 法学者を体制の擁護者や裁判官として重用する仕 組みも発展した。たとえば、15世紀後半から、法 学者の最高位として「シェイヒュル・イスラーム (イスラームの長老)」の称号が用いられ、彼の発 するファトワー(法学見解)が重視されるように なった。
ただし、オスマン朝において法学者が体制に組 み込まれたのに比べると、サファヴィー朝とシー ア派法学者の関係は、もう少し緊張感が高い。た とえば、法学者を統括する役職として「サドル」 という称号があり、サファヴィー朝の宮廷のサド ルは強大な権限を持ったが、かといってサドルが シーア派の教義や法学を支配できたわけではない。 シーア派の場合は、預言者ムハンマドの系譜を引 くイマームこそが正統な統治者、という考え方を 強く持っている。12イマーム・シーア派は、その 名の通り12人のイマームを認めるが、10世紀に最 後の12番目のイマームが不在(教義上は「隠れた 状態」)になってからは、誰がその代理を務める かという問題が生じた。サファヴィー朝がシーア 派を公式に採用したため、このような世俗権力を 是認する傾向も生じたが、その一方で法学者こそ
がイマームの代理人たるべき、という主張も続け られた。
実際問題として、シーア派は世俗権力を是認す るか否かで揺れ続け、20世紀に入ると、1925年に 成立したパフラヴィー朝を最初は是認していたの に、ついには深刻な対立関係に至った。1979年に は、法学者が率いる革命勢力はイランの王政を倒 すに至った。これと比べると、オスマン朝でもム ガル朝でも、あるいは他の王朝でも、スンナ派の 場合は、王権者と法学者の関係はより協調的であ ることが多い。
いずれにしても、サファヴィー朝も含めて、3 帝国の鼎立時代とはおおまかにいって、王権者と 法学者の協力なり同盟関係がイスラーム世界のあ り方を特徴づけた時期であった。11世紀以降に広 まった学院(マドラサ)制度によって、法学者た ちが弟子を育て、自分たちの再生産を行うことが 社会的に保証されるようになったが、それがさら に発展を遂げたのであった。
法学者たちは法学派を形成し、自分たちの知識・ 知見・体験を伝承する。法学者と一般信徒を結ぶ ネットワークが作られ、それがそれぞれの地域の 法学派を強化する。一般信徒の支持は法学派が生 き延び、発展するために不可欠であるが、さらに、 公式の学派として王朝の保護が得られると、その 基盤が強化される。今日の中東や南アジアでハナ フィー法学派が優勢であるのはオスマン朝、ムガ ル朝のゆえであるし、イランやアゼルバイジャン が12イマーム・シーア派となったのは、サファヴ ィー朝のゆえであろう。その意味でも、近世の帝 国の鼎立は、現代につながる大きな意味を持って いる。