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第 8 章 統計力学への誘い
本章では、統計力学の入門事項を概説して、その雰囲気に触れること を目的とする。天下り的に認めてしまえば、定温熱平衡の統計力学の基本 法則は非常にシンプルである。「分配関数」と呼ばれる量が橋渡しとなっ て、微視的なエネルギー準位の熱分布と、巨視的な熱力学関数との間が 結ばれる。
8.1 統計力学の要点
8.1.1 基本法則 ( 正準分布 )
統計力学の基本法則は、次のように要約される。
温度T が一定に保たれた系を考える。十分に大きな熱浴に接した部分 系を想定すればよい。部分系の体積V と物質量 (粒子数) N は一定とし、 エネルギー固有値の組を{En} (n = 1, 2, 3, · · · ) とする。温度 T の下で、 部分系がエネルギーEnの状態にある確率は
✓ ✏
pn= 1 Q e
−En/kBT (8.1)
✒ ✑
で与えられる。これを「canonical 分布」または「正準分布」と呼ぶ∗。 Q は「分配関数」と呼ばれ、
Q =∑
n
e−En/kBT (8.2)
で定義される。これは、式(8.1) では確率 pnを∑npn= 1 のように規格化 しているだけに見えるが、それにとどまらない重要な役割を果たすこと を以下に見る。kBはBoltzmann 定数と呼ばれ、気体定数 R と Avogadro 数NAによりkB= R/NAで与えられる。
∗この他に、エネルギー一定の孤立系を扱う「小正準(micro canonical) 分布」、温度 一定で粒子数可変の開放系を扱う「大正準(grand canonical) 分布」がある。
補足 Feynmanの講義録† では、冒頭に上記を掲げ、次のように述べている。
「この基本法則は、統計力学の山頂にある。統計力学の課題の全貌は、この 頂上から滑降すること、すなわち基本法則を種々の具体例に適用すること、あ るいは、麓からこの頂上へ登ること、すなわち基本法則を導出し熱平衡や温度 といった概念を明らかにすること、のいずれかから成る。」
この「山頂」の喩えは、特に学習の過程で念頭に置くと有益であろう。本章 の主題は統計力学の化学への応用なので、前者のみを扱う。
8.1.2 熱力学との関係
上記のように、分配関数Q は微視的なエネルギー準位 Enから構成され
る。これと巨視的な熱力学関数との関係は、系のHelmholtz エネルギー F と分配関数 Q の関係として
✓ ✏
F = −kBT ln Q (8.3)
✒ ✑
で与えられる。
導出 まず、内部エネルギーU を (8.1) によるエネルギー期待値と同一視 することは自然だろう。
U =∑
n
pnEn = 1 Q
∑
n
Ene−βEn
ただし、β = 1/kBT とした。和の部分は、丁度 Q を β で微分したものに なっている。すなわち、
= −1 Q
∂Q
∂β = −
∂ ln Q
∂β = kBT
2∂ ln Q
∂T (8.4) となって、U が Q で表される。
ここで、熱力学で学習したGibbs-Helmholtz の式
∂
∂T ( G
T )
= −TH2
を思い出そう。これは、G → F 、H → U と置き換えてよい。
∂
∂T ( F
T )
= −TU2 (8.5)
右辺のU に式 (8.4) を代入すれば、式 (8.3) が直ちに得られる。
†R. P. Feynman, Statistical Mechanics: A Set of Lectures (Addison Wesley)
8.1. 統計力学の要点 73
補 足 復 習 も 兼 ね て 、式(8.5)を 導 い て お く。第 一 法 則dU = T dS + δW を F ≡ U − T SでLegendre変換すると
dF = −SdT + δW (8.6)
なので、S = −∂F/∂T となる。これをF = U − T Sに代入してSを消去する と、F = U + T∂F
∂T を得る。移項してT2で割ると−TF2 + T1∂F∂T = −TU2 となり、
左辺は1/T とF の積の微分になっていることが分かる。
式(8.3) は見た目が単純で美しいのみならず、基本法則 (8.1) と全ての 熱力学量を結び付ける。典型的な手続は次のようになる。ある微視的モデ ルから出発して、エネルギー固有値を系の体積と粒子数の関数En(V, N ) として求める。式(8.2) と式 (8.3) から、F は (T, V, N ) の関数として得ら れる。式(8.6) に相当する式 (2.5) dF = −SdT − P dV + µdN より、
S = −( ∂F∂T )
V,N
, P = −( ∂F
∂V )
T,N
, µ =( ∂F
∂N )
T,V
(8.7)
としてS, P, µ が求まるので、
U = F + T S, H = F + T S + P V, G = F + P V が全て求まる。すなわち、
✓ ✏
T, V, N を設定し、En(V, N ) が求まると、式 (8.3) の F から S, P, µ が 決まり、よってU, H, G が決まる。
✒ ✑
具体例を8.3 節で見る。
8.1.3 エントロピー
エントロピーは、式(8.7) の第 1 式で与えられる。これに式 (8.1) と (8.3) を用いると、
S = −kB∑
n
pnln pn (8.8)
となる。これが、正準分布におけるエントロピーの統計力学的表現である。 導 出 式 (8.1)–(8.4) お よ び 規 格 条 件
∑
npn = 1 を 用 い て 、S =
kB (
ln Q + T∂ ln Q
∂T )
= kB (
ln Q + U kBT
)
= kB (
ln Q + 1 kBT
∑
n
pnEn )
=
kB∑
n
pn (
ln Q + En kBT
)
= −kB
∑
n
pnln
(e−En/kBT Q
)
= −kB
∑
n
pnln pn
注 S = (U − F )/T から計算してもよい。上の二番目の等号以降になる。
8.2 分配関数の分離
分配則(x1+ x2)(y1+ y2) = x1y1+ x1y2 + x2y1+ x2y2 は一般に‡
∑
i
∑
j
xiyj = (
∑
i
xi
) (
∑
j
yj
)
と書ける。同様に、
∑
i
∑
j
exi+yj = (
∑
i
exi ) (
∑
j
eyj )
今、x, y の 2 自由度をもつ運動について、エネルギー準位が Ei,j = Eix+ Ejy
のような和の形に分解できるとする。このとき分配関数は Q =∑
i
∑
j
e−(Eix+Ejy)/kBT = (
∑
i
e−Eix/kBT ) (
∑
j
e−Ejy/kBT )
= QxQy
のように、各自由度についての分配関数Qx, Qyの積に因数分解される。 すなわち、
✓ ✏
全エネルギーが異なる自由度からの寄与の和に分離できるとき、全分 配関数は各自由度からの分配関数の積に因数分解される。
✒ ✑
このことは、3 次元の並進運動の分配関数を x, y, z 各方向の分配関数の積 として計算したり(次節で実行する)、分子の分配関数を並進、回転、振 動の各自由度の寄与に分解して考察する際の基礎となる。
‡∑
ixi,
∑
jyj が無限級数のときは、これらが絶対収束するという条件が要る。分 配関数の場合には、それは物理的に前提されるとしてよい。
8.3. 理想気体の分配関数 75
8.3 理想気体の分配関数
ここでは、理想気体のモデルとして「箱型ポテンシャル中の粒子」を 採用し、そのエネルギー準位から分配関数Q を計算してみよう。
長さL の一次元箱型ポテンシャル中の粒子 (質量は m) のエネルギー準 位は、
En = h
2
8mL2n
2 (n = 1, 2, · · · )
であったことを思い出そう。ε = h2/(8mL2) とおいて En ≡ εn2と書く。 分配関数における和をGauss 積分§で近似して、
q =
∞
∑
n=1
e−En/kBT ≃
∫ ∞ 0
e−(ε/kBT )n2dn =√ 2πmkBT
h2 L (8.9)
三次元では、エネルギーはx, y, z 各方向の寄与の和になるので、分配関 数は各自由度からの寄与の積になる。
✓ ✏
q = qxqyqz =( 2πmkBT h2
)3/2
V (8.10)
✒ ✑
V = L3は体積である。(簡単のため立方体としたが、直方体としても上 の結果は同じである。) N 粒子からなる理想気体では、全エネルギーは 各粒子エネルギーの和に分離されるので、上式のq を N 乗すればよい。 よって、全分配関数Q は VNに比例する。
補足 正確には、微視的粒子の区別不可能性を反映させるためにN !で割って、 Q = qN/N !とする。これは、気体が希薄で、量子数の組(nx, ny, nz)がN 個の 粒子について全て異なる場合に適用される。より一般には、Bose-Einstein統計 またはFermi-Dirac統計というものを考える。しかし、ここでの議論では上記の ようにQ ∝ VN だけが分れば十分である。
状態方程式 Q の V への依存性から圧力が計算される。式 (8.7) の第 2 式 に式(8.3) を用いて、
P = kBT Q
( ∂Q
∂V )
T
(8.11)
§∫∞
0 exp(−x2)dx =√π/2
これと、上で導いたQ ∝ VN より直ちに P = N kBT /V
を得る。これは、理想気体の状態方程式
P V = nRT (8.12)
に他ならない。Avogadro 数を NAとして、n = N/NAはモル数、R = NAkB
は気体定数である。
8.4 分子分配関数
8.4.1 分子の自由度
電子と原子核をひと括りに「原子」として扱う¶。個々の原子を独立に 見れば、自由度は各原子につき3 である。(3 次元空間内で一つの原子の 位置を指定するのに3 つの座標変数を用いる。) N 原子からなる分子で は、自由度の総数は3N となる。
多原子分子の自由度は、分子全体の「並進」と「回転」および分子内の
「振動」に分類される。分子全体の並進自由度は3、回転自由度は直線分 子ならば2、非直線分子ならば 3 である。(前者は重心座標を決める変数 の数、後者は回転軸の数による。) 残りが分子内振動自由度であるから、 N 原子からなる分子が直線分子ならば振動自由度は 3N − 5、非直線分子 ならば3N − 6 である。
例えば、水分子H2O の振動自由度数は 3 × 3 − 6 = 3 である。これら は、二つのOH 結合の伸縮振動∥およびHOH 角の変角振動で表される。
8.4.2 並進
前節の理想気体に関する分配関数の式(8.10) が、そのまま分子の並進 自由度の分配関数になる。質量m は分子全体の質量である。
¶
すなわち電子の自由度は無視する。
∥対称性があるため、二つのOH 結合が同時に伸びる対称伸縮と、一方が伸びたら他 方が縮む反対称伸縮の2 種類の「基準振動」で記述される。
8.4. 分子分配関数 77
8.4.3 振動
分子振動の分配関数を求めるために、調和振動子で近似する。このと き、振動の角振動数をω、振動数を ν とすると、エネルギー準位は
Envib = ¯hω (
n + 1 2
)
= hν (
n + 1 2
)
(n = 0, 1, 2, · · · ) (8.13)
となる。(以下、簡単のため右肩の添字 vib は適宜省略する。) エネルギー 準位が等間隔であることが、調和振動子の特徴である。
補足 振動の平衡位置からの変位をxとし、(換算)質量をm、力の定数をkと すると、変位による力はF = −kx、ポテンシャルエネルギーV (x)と角振動数 ωおよび振動数νは
V (x) = k 2x
2, ω = 2πν =√ k
m
である。ただし、多原子分子の場合に座標と質量を設定する方法については、も う少し考察を要する。
式(8.13) より、振動の分配関数は qvib =
∞
∑
n=0
e−En/kBT = e−hν/2kBT
∞
∑
n=0
(e−hν/kBT)n
となる。最右辺の和の部分は初項1、公比 e−hν/kBT の等比級数であるか
ら、結局✓ ✏
qvib = e
−hν/2kBT
1 − e−hν/kBT
✒ ✑
を得る。
補足 式(8.4)により内部エネルギーへの振動運動の寄与を計算する。これには
β = 1/kBTとおいて
q = e
−βhν/2
1 − e−βhν と書き直してから、式(8.4)下の脚注のように、
U = −1q∂β∂q
を計算すればよい。結果は
✓ ✏
Uvib= hν 2
1 + e−βhν 1 − e−βhν
✒ ✑
となる。kBT ≫ hνであるような高温ではβhν ≪ 1なのでe−βhν ≃ 1 − βhνと 近似できて、
U ≃ β1 = kBT (kBT ≫ hν)
となる。このように、高温において内部エネルギーへの分子振動の寄与は、振 動数(振動の種類)によらず温度エネルギーに等しくなる。これを「古典極限(高 温極限)における等分配則」と呼ぶ。言い換えると、分子の内部振動には様々な 種類(振動数)があるが、
✓ ✏
高温では全ての振動自由度に温度エネルギーkBT が等しく分配される。
✒ ✑
逆に低温T → 0 (β → ∞)ではe−βhν → 0なのでU → hν/2となる。よって、 低温では振動励起状態n ≥ 1の分布は失なわれ、最低エネルギーのE0 = hν/2 のみが残る。(E0はゼロ点振動エネルギーと呼ばれる。)
自習課題 分子の回転運動の分配関数について調べよ。また、多くの場 合には電子エネルギーの分配関数は考えない。その理由を考察せよ。
8.5 平衡定数
分配関数の化学への応用例として、平衡定数との関係を見ておこう。例 えば分子の異性化などを表す簡単な化学平衡
A ⇀↽ B
を考える。平衡定数K は、濃度を [A], [B] として、K = [B]/[A] である。 適 当 に エ ネ ル ギ ー 原 点 を と り、A と B のエネルギー準位をまとめて Ei (i = 1, 2, · · · ) と書く。全分子数を N とすると、エネルギー Eiをも つ分子数niは、式(8.1) より
ni = N pi = N Q e
−Ei/kBT
8.5. 平衡定数 79
これをもとに、分子A の数を nA= N
Q
∑
i∈A
e−Ei/kBT = N
QQA (8.14) と表す。i ∈ A は、Eiが分子A に属することを示す。第二の等号で A の分 配関数QAを定義した。分子B についても同様とする。これより直ちに、
K = nB nA
= QB QA
(8.15)
を得る。
ここで、式(8.3) のように、分子 A の Helmholtz エネルギー FAをQA = e−FA/kBT で定義する。B についても同様とする。すると、
✓ ✏
K = QB QA
= e−∆F/kBT (8.16)
✒ ✑
となる。∆F は反応 Helmholtz エネルギー ∆F = FB− FAである。
補足 この式は、6.2節の式(6.7)と基本的に等価である。再掲しておくと、 K = e−∆G⊖/RT ⇔ ∆G⊖= −RT ln K
GibbsエネルギーとHelmholtzエネルギーの違いは、定圧と定積のどちらで考え ているかによる。統計力学では、定積条件の方が微視的なモデルを設定し易い。
次に、分子A の最低エネルギー準位を E0Aと書いて、これを基準に測っ たエネルギーEi− E0Aを使うことにする。このとき式(8.14) は
nA = N Q e
−EA0/kBT ∑ i∈A
e−(Ei−E0A)/kBT = N Q e
−E0A/kBTQ˜
A (8.17)
と書き換えられる。第二の等号で、新たな分配関数Q˜Aを定義した。これ を「分子分配関数」と呼ぶことにする。B についても同様とする。この とき平衡定数は
✓ ✏
K = Q˜B Q˜A
e−∆E0/kBT (8.18)
✒ ✑
となる。∆E0は最低分子エネルギーの差∆E0 = E0B− E0Aである。 式(8.18) と (8.16) を比較すると、∆F と ∆E0の違いが分子分配関数の 比Q˜B/ ˜QA で表される。これは、エントロピーの寄与を含んでいる。
8.6 古典統計力学
物質の微視的な振舞い(構造と動力学) を支配する基本原理は量子論で ある。よって、前節までに述べたような、量子準位に立脚する統計力学 が基本的である。しかしながら、室温程度に高い温度における多くの化 学現象は、古典力学での記述が良い近似となる∗∗。特に、量子準位の決 定が現実的に困難であるような複雑さを持つ系では、古典論あるいは古 典極限の統計力学が便利である場合が多い。
8.6.1 古典論の分配関数
座標r、運動量 p の関数として古典的Hamilton 関数 H(p, r) が与えら れたとき、この系の古典的な正準分配関数は、
✓ ✏
Q = 1 hf
∫
· · ·
∫
e−H(p,r)/kBTdp dr (8.19)
✒ ✑
で定義される。f は自由度数、h は Planck 定数である。量子論の式 (8.2) と比べると、エネルギー準位Enの代りにHamilton 関数、状態に関する 和の代りに位相空間に関する積分(を hf で割ったもの) となっている。 注意 古典力学ではPlanck定数は現れないはずだが、次節で見るように、因子 1/hf を含めることで、理想気体について量子力学による分配関数と整合させる ことが出来る。また、この因子によって右辺の積分が無次元となる点も都合が よい。この因子に定性的意味付けをするならば、位相空間の分解能が自由度あ たりhよりも微細になり得ないことを反映していると解釈できる。量子論によ り座標と運動量の間には不確定性関係があるからである。
物理量A(p, r) の統計平均は、Boltzmann 因子を重みとする期待値の積
分として✓ ✏
⟨A⟩ = 1 Q
1 hf
∫
· · ·
∫
A(p, r)e−H(p,r)/kBTdp dr (8.20)
✒ ✑
で計算される。Q が規格化因子となっているのは量子論の場合の式 (8.1) と同様である。
∗∗何故そうなるのかを探求することは、現代的な課題である。
8.6. 古典統計力学 81
補足 N 個の同種粒子を含む場合には、同種粒子の区別不可能性を反映させる
ために1/N !の因子を入れる。エントロピーを示量的にするにはこの因子が必要
となるが、ここでは省略する。
8.6.2 自由粒子の古典的分配関数
質量m の自由粒子の Hamilton 関数は H(p, r) = |p|
2
2m = 1 2m(p
2
x+ p2y + p2z
) (8.21)
この粒子は体積V の箱の中にあるとする。式 (8.19) における運動量 p に ついての積分は、各自由度について
∫ ∞
−∞
e−p2/2mkBTdp =√2πmkBT
を与える。また、H が座標 r に依存しないので、r に関する積分は体積 を与える。
∫ dr =
∫ ∫ ∫
dx dy dz = V よって、式(8.19) は
Q =( 2πmkBT h2
)3/2
V (8.22)
となる。これは、箱の中の粒子の量子エネルギー準位から求めた式(8.10) と一致している。またこれにより、古典分配関数(8.19) に 1/hf の因子を 含めたのが妥当だったことが確認される。