食事、飢饉の後。
19世紀の後半は強烈かつ迅速な商業化の時代であって、これは生活水準が特に貧民の間で 一般的に向上したことによって推進・維持された過程であった。
したがって、階層の底辺における食事のパターンは、店で買う食べ物の消費の著しい増加 に伴って多様化した。
同時に、道路網の改善とともに鉄道網が継続的に拡大することで、地方における商品の配 分や商業製品の増えつつある需要が促された。
食料雑貨店の数が増えたことで、自給自足から生み出された食料への選択肢が提供された。 この時代、白イースト菌で発酵されたパン屋のパン(これは伝統的には金持ちの特権で あった)が、より安価なアメリカ小麦を輸入した結果として、ますます人気となった。 この発展が、製粉技術のさらなる改善と相まって、パン屋が使う精製された小麦粉の量を 決めた。
白いパンは自家製のパンよりも尊ばれ、また特別な時に食べられるものだった。
それにもかかわらず、国内では 19 世紀末から、暖炉で焼かれたより多くの種類のパンが 優勢になった。
3つの発展が合わさって、家でパンを焼く伝統を強固に打ち立てることを容易にした。 グルテンの豊富なアメリカ小麦の有用性は、化学酵母の利用が増えたことと相まり、ポッ トオーブンや bastible がより広く利用されたことと結びついて、ふっくらした小麦ソーダ パンの上手な製造を可能にした。
ポットオーブンは、火の上にぶら下げられてそのフタの上に(石炭(泥炭?)などの)燃 え残りを置く物で、多機能の焼き道具であった。
ポットオーブンとともに、小麦食品すなわち小麦粉とブレッドソーダとバターミルクとが 自宅でパンを焼くために基本的に必要なものだった。それと、追加で酪農製品――卵、ミ ルク、バター――は特別な場のケーキを豊かにするので用意された。
トウモロコシの食事(インディアンや黄色人種の食事(イエローミール))は、局所化し た飢饉を引き止めるまたは軽減する試みで 1799 年に初めて導入され、「大飢饉」の間救 援用の食事として大規模に使われたが、基盤を保持した。
それはトウモロコシパンやトウモロコシポリッジやトウモロコシゆで団子の生産に使われ、 そしてこれらは 20 世紀に入ってかなり経つまでいくつかの地域の地方食の特徴として
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残った。
19世紀の終わりまでに、地方の民衆(特に並の収入に比べてはるかに貧しい人々)の食事 経済はあるシステムによってバランスが保たれていた。そのシステムは市場の供給に回さ れた家庭製の商品と、より多くの食料の購入や経済的地代や家庭の必要品やストックや種 を援助する販売から得られる収入との均衡を監視している。
1,2匹の豚やバターやイモや卵や鶏肉の販売は、小麦粉や白い「店で作った」パン、イエ ローミール、紅茶、砂糖、塩魚、そして脂肪の多いアメリカのベーコンの購入を念頭に置 いていた。
市場の力に対する興味深い反応の中で、比較的質の高い自家製のベーコンは市場に送られ、 市場で良い見返りを得た。一方でより安くて品質の劣ったアメリカのベーコンは家庭で利 用するために買われた。
最貧の家庭、特に非常に貧しい西海岸では、ベーコンは特別な場合にだけ許されるもので あった。そしてよい使いみちでは全ての部分を使う。脂肪は溶かしてキャベツの上に注ぐ か、またはミルクと小麦粉と一緒にゆでてジャガイモのためのホワイトソースを作るかだ。
19世紀末、地方の食事の変化は「密集地方委員会」(1891 年設立)の働きと「農業・技 術教育部局」(1899 年設立)の制度的介入とによって促進されもした。
いずれの団体も、農業生産高と販売用食品の質とを教育と実際的な指導とを通して改善し ようと努めた。
国内水準では、食料経済は改善すべきだと認識もされ、どんなに小さな小作地でさえ食卓 に並ぶより多様な栄養豊富な食べ物を生産するよう奨励された。
旅する調理法指導者たちは実践的な調理やコテージ(田舎屋?)の庭の産物の最も有益な 活用法に関してアドバイスした。
養鶏場もまた、より生産的な家畜を導入しようとしたり食卓と市場との両方に行く卵の品 質と新鮮さを高めようとしたりする試みとともに、改善の対象と認識された。
20世紀前半の間は、地方の食事は、前にも増して商業的な力の影響を受けやすいものでは あったけれども、家庭製の商品と地方の生産とに大きく依存したものであった。
家庭で加工した肉に加えて、ジャガイモ、オートミール、輸入されたインドの食事、
(Indian meal,たぶんイエローミールのこと)、バターミルク、サワーミルクそしてバ
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ターが主食であり、そして特に豚肉は標準として残った。
豚の屠殺の後の日々は新鮮な肉で祝宴を行い、そして当然のことながら、アイルランドの foodways(食事のバラエティー?)はこれらの生産物を扱う時に最も創造的であった。
その食事は、その時手に入る野生の食べ物(ベリーやマッシュルームやオランダガラシや ウサギなど、ある時期にしか存在しない物)とともに、季節の変化に従う。一方で沿岸部 の食事は、魚や甲殻類や海藻、そして時として海の鳥やその卵、などへの傾向(好み)に よって区別された。
祭りの機会は、新鮮な肉や新鮮な鶏肉(特にガンや店で買った贅沢品)を pattern に取り 入れたいという願望によって保たれた。一方で断食の期間はジャガイモとシンプルなホワ イトソースとともに摂られる塩漬けの魚に集中して、断食は固守された。
開かれた暖炉の前での調理は 20 世紀の後半まで依然として地方のかなりの割合の世帯の 特徴であって、それによって過去の行為との継続感を促したが、同時に一方では現代的な 技術革新との距離感や乖離感を助長した。
都市では、食料生産の商業化と工業化が進んでいたので、多様な商品(多くは高品質で加 工処理されたものだが、疑わしい品質のものもあった。)をより簡単に手に入れられるよ うになった。
地方の傾向と同じように、都市の貧民は精製された白パンにますます依存するようになっ た。この白パンは薄く引き延ばされるか、ラードで揚げられるか、安い工場製のジャムと 一緒に食べられるか、だった。
そのうち、パンと紅茶は都会の貧民の集団の中で一定のものとなった。この高品質で改善 されたが栄養価の乏しい単純な炭水化物の食事は、20 世紀のアイルランド都市の不健康の 水準と地方特有の病気とを悪化させたのだろうと信じられている。
19世紀を通じてのしっかりとした工場を基盤としたベーコン保存の産業の設立と成長は、 家庭と外国市場の両方に商品を供給していたが、熱心に貿易に取り組んでいた都市で豚の くず肉やカット済みの品質の悪い肉の有用性を増大させた。
店は新鮮な肉と塩漬けのくず肉や臓物の販売に特化した。
家庭ではこれらは単にゆでられるか、ジャガイモと食用の根菜と一緒にシチューにされた。
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都市にいる収入が良い人々にとってさえ、料理形式と味の好みはおおむね依然として保守 的でおなじものを繰り返すことが多い。
牛肉や羊肉や豚肉や鶏肉、そしてたまにウサギが煮られるかシチューにされるか焼かれる かで、わずかの種類の根菜かキャベツ、そして欠かすことのできないジャガイモとともに 振る舞われたのである。
リンゴやルバーブのケーキやタルトは頻繁に現れた。
しかし、食事の多様化は、調理済み・パッケージ入り・缶詰にされた多様な食品がより多 く手に入ることとその利用に見られた。
商業的に生産された多様な菓子類が享受された。一方でマカロニやサゴやトウモロコシ粉 やセモリーナやタピオカのような穀物製品がとろみつけ、そしてミルクプリンの基礎成分 として食事にかなり浸透してきた。
そのうち、それらが「病弱者用の食事」として宣伝されていたという事実に加えて薄味や 偏在が認識されて、それらは悪口を言われ結果的には排除された。
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