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(資料3)笛譜

*この笛の楽譜は 記念誌 f日本の大 地に舞う中野七頭 舞~ (125126頁) に掲載されている。

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[注および参考文献]

1)中野七頭舞の由来については、中野七頭舞保存会の 20周年記念誌 f日本の大地に舞う中野七頭舞

~さらなる罷進を目指して~ (7885頁)に餅始者の孫、工藤竜山による詳しい紹介が掲載されて いる。

2)岩泉町立小本小学校『平成920周年七頭舞記念文集』に転載された中野七頭舞保存会会長山 本憧蓄が岩泉民間伝承研究会編 i85いわいず、み ふ る さ と ノ ‑‑rJ (昭和 60年)に寄稿した 11頁 にわたる文章には復活の様子が書かれている。

3)ビデオ

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中野七頭舞の 20周年』は、中野七頭舞の 20周年記念イベントに呼応してアサヒプロダ クツによって製作されたもので、第1部ドキュメント編 (90分)と第2部稽古編 (120)の部分か らなる優れた記録および練習とデオである。

4)前掲2)の山本の文章、 4頁。 5)前掲2)の山本の文章、 9真。

6)前掲 1)の20周年記念誌の巻末に掲載された中野七頭舞保存会会員名簿には、平成8年 8月1B 付けで、新会長として阿部一雄の名前が明記されている。

7)前掲 2)の『平成920用年七頭舞記本文集』に転載された元小本小学校教諭の千田任男が岩泉 民間伝承研究会編 i85いわいずみ ふるさとノートJ(昭和 60年)に寄稿した文、「郷土芸能『七 頭舞』に取り組んで クラブ活動から教材化へJ(全6頁の文)に、当時の千田の気持ちが読み取 れる。

8)向上、 8頁。

9)  W日本の大地に舞う中野七頭舞』については、巻末の年表の中から重要な事項を抜粋した。小本 小学校の W20周年七頭舞記念文集』には小本小学校の取り組みだけが記載されている。

10)20周年記念ビデオ『日本の大地に舞う中野七頭舞』の企画・著作は中野七頭舞保存会で製作・著 作は(有)アサヒプロダクツである。

11)岡昌洋一 i2002年夏、畏舞を学びなおす旅j東京民族舞踊教育研究会のホームページ (http://www2s.biblobe.ne.jpi^minbuken/20061月現在)に掲載、 7頁。

12)三浦真由美・佐々木愛香のレポート「故郷の伝統を学び、自分を知る。 自分が踊り続ける意義

"‑' J 1頁。なおこのレポートは、 A 4用紙 11枚の頁の記入のないもので、インターネットの情報 と中野七頭舞会長の阿部一雄と 2002年の中野七頭舞講習会参加者へのインタビューをまとめたも のである。

13)小本中学校の状況については、 2005年l丹 27(木)小本中学校の菊池良子校長への産接および竜 話取材による。

14)高知子卒業研究「音大生による自本音楽の学習 岩手県の芸能中野七頭舞に取り組んで"‑'Jは、 国立音楽大学においてマイクロフッシュで、保存されている。

15)藤忠ゼミで中野七頭舞に取り組み始めた頃のいきさつは、前掲 1)の書 (27頁)に藤田自身が中野 七頭舞20周年に向けて寄稿した短い祝辞に書かれている。

16)前掲14)の論文、 13‑28頁。

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6.

中里七ツ舞に関する基礎研究

中里七ツ舞については、「小本小学校と四つの『七つ物 ~J の項において簡単に触れた。本研 究は、当初、中野七頭舞に焦点を当てていたが、研究の進捗の中で、本研究の大きな柱の一つで ある実践的研究の対象としては、次のような理由から中里七ツ舞が適切であると判断した。

①中野七頭舞に関する研究が進んでおり、新たな研究成果が求めにくい。

中野七頭舞は、すでに岩泉の中野地区以外にも全面的に多くの団体に継承されており、民俗芸 詣とは思えないほど効率的な踊りの指導方法が確立している。また前項で述べたように国立音楽 大学の藤田ゼミが関係したことから、お磯子のリズムやメロディーの楽譜化といった音楽面の研 究も進んでおり、今後、新たな研究的発見を求めるのは難しいと思われた。

さらにこれまで多くの研究者や団体からの協力を求められてきた中野七頭舞保存会会長の阿部 一雄は、個人的な研究への協力に対しては消撞的な姿勢を示した。多数の個人や団体からの問い 合わせや講習会参加および各地の大学からのフィールドワークの依頼などが多く、間部にとって 研究協力という形の外部との接触はむしろマイナス要因に感じられるようになったのではないか

と推測できる。阿部会長の心情を尊重して研究協力への依頼を控えることにした。

②中盟七ツ舞の魅力に惹かれ、かつ保存会会長の協力が得られた。

小本小学校における取材時に中野七頭舞に匹敵すると思われる中里七ツ舞に出会い、筆者はこ の舞に強い関心を抱いた。一度も外部に継承されることなく、中盟の小さな集落で宝のように守 られてきた美しい中里七ツ舞とそれを懸命に舞う子どもたちの真鎚な表情と真撃な姿が印象深く 心に浸透すると共に、その騒動的な中里七ツ舞の魅力に惹かれたのである。幸いにも農業に携わ りながらも宮古高等学校で書道の非常勤講師を勤める中里七ツ舞保存会の武田由紀子会長は、岩 手大学教育学部書道科の出身者であったため、岩手大学所属の筆者に対しても協力的な姿勢を示 してくれた。実践的な研究においては、保存会会長の協力が不可欠であり、研究推進のための現 実的な可能性から考えても、中里七ツ舞研究が最も研究対象として適切であった。

③中里七ツ舞と黒森神楽の関係の深さを感じさせられた。

中里七ツ舞を創始した武田新九割は後に大牛内七ツ舞も創始しているが、この両者の舞には「五 方の矢Jが含まれている。「五方の矢Jとは、黒森神楽において神社仏閣の落成式や新築祝いで 舞う儀式色の強い御堂入りという舞に含まれている演自である。この御堂入りの基本的な所作が シットギ櫛子に反映され、シットギ獅子経由で中野七頭舞が誕生したことを考えると、中堅七ツ 舞は黒森神楽の御堂入りから葎接影響を受けた舞ではないかと思われた。残念なことに中里七ツ 舞の「五方の矢Jは現在伝承されておらず、今は詳細な伝承史を知る者もいないため、このこと を立証する術はないが、黒森神楽を想起させる神聖な中里七ツ舞に研究意欲をかき立てられた。

このような三つの理由から、本研究のサブテーマを拡げた研究内容になった。しかし中里七ツ 舞に焦点を当てることで、中野七頭舞から「七つ物J研究へと研究範臨が広がり、結果的に本研 究のねらいの一つであった剣舞系の「七つ物J研究にもつなげることができた。

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1.中里地涯における中里七ツ舞の由来と伝承

中里七ツ舞は、岩手県の北沿岸や県北地域で伝承されている民俗芸能「七つ物Jの一つである。

地域の教育力の低下や総合的な学習の学校教育への導入によって、学校が地域の民俗芸能の伝 承に関与するケースが増えている。しかし少子化による魔校や学校統合によって、それまで学校 で伝承していた芸能が中断したり、統合先の学校で伝承せざるを得なくなるという実態が見られ る。 2003年に少子化のため廃校になった中里小学校もそのような学校の一つである。しかし幸 いにも中堅小学校で伝承していた中里地毘の中里七ツ舞は途絶えることなく、今では梅の幸に葱 まれた美しい陸中海岸国立公器に面した小本地芭にある小本小学校において伝承されている。

(1)中里地区と中里七ツ舞

中型地区は、現在、主に武田と竹1Eの2つの苗字の一族からなる集落である。小本Jr

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の下流の 平坦地に古くから開けた集落の一つであり、今ものどかな田園風景が広がる 46戸の小さな集落 である。主な産業は稲作中心の農業や林業で、ダイコンやニンジンなどの野菜や椎茸栽培、酪農 も行われている。採石場、土木建設会社、運送会社、水産加工場などの事業所、役場や農業協同 組合などもあり、地域住民の多くは勤めに出ている。

このような中里地区だが、その昔の歴史を繕いてみると、南部議とのつながりが深かったよう である。中里の本名は小笠顕であるが、中里は南部家の四天王の 1人であり、代々普代格の家柄 であった。 1591(天正 19)年に太樹秀吉の奥州仕置きの九戸政美討伐に当たり南部信連方とし て参戦し、功績をあげて信誼の地方支配者記置転換の際に中里村 88石3斗の知行を与えられ、

当時の慣例に則って小笠原から村名の中里を名乗るようになった。中型は正吉中虫嘉兵衛から正 規中里半兵衛と続いていくが、南部家と中里家は家臣関係から血縁関係に転ずることになる。す なわち少年期を中島と中野の間にあった越廼り館で過ごしたという 26代南部信直の子どもの 27 代信濃守利直に中里の正吉の長女が御妾となり八戸藩初代直房君を産んでいる。また正吉の長男 正規の三女は高部三十代信濃守行信公の御妾になり八弥君を産んでいる 1)。したがって南部藩と 縁戚関係にあった中里地区は、この地域の他の部落に比べて知行面で恵まれていたようである。

しかし 1814(文化 11)年には、中里村他二村の地頭、中里治右衛門の法外な課税と領内の吾姓 の取り扱いを不服として、竹花斎太率いる中里・中島・摂待の三村 98人が地頭の排斥と新蔵地 編入を盛岡藩に直訴するという百姓ー撲も起きている。結果的にー撲は成功し、訴願要求は百パ ーセント受け入れられたが、一撲の首謀者である斎太は倍名辺牛滝に追放になり、老齢や服役中 の労苦や掃途の旅疲れなどが重なって1816(文化13)年に死去している2)

中里地区の歴史の一端を垣間見てきたが、近年は若者が中里地震外に出て行くようになり、次 第に地域住畏の高齢化が進んでいる。老人が増える一方で中里地区の子どもは減少し、中里小学 校はとうとう 2003(平成 15)年に魔校になり、小本地匿の小本小学校に統合されてしまった。

このとき中塁小学校で伝承されていた中里七ツ舞は、すでに統合されていた中島七ツ舞や小本 小学校分校の大牛内七ツ舞と共に、小本小学校においても中野七頭舞に吸収されることなく、中 里地区の子どもたちによって伝承されることになった。しかしながら近年の中里地互の児童減の

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