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Ernst Czerny, „Gustav Klimt und die ägyptische Kunst“, Österreichisches Bundesdenkmalamt(Hrsg.), in:

ドキュメント内 Microsoft Word - 提出 本論.docx (ページ 52-126)

Österreichische Zeitschrift für Kunst und Denkmalpflege, 63.2009, 3/4, pp. 259-277, 360-361. Ernst Czerny, „Gustav Klimt und die Ägyptische Kunst“, in: Gustav Klimt Franz Matsch und Ernst Klimt im Kunsthistorischen Museum, Otmar Rychlik(Hrsg.), Edition Kunst Agentur, Wien, 2012, pp. 73-84.

43

Auguste Mariette, Album du Musee de Boulaq, Moures, Le Cairo, 1871. Prisse d’Avennes, Atlas de l’art

Egyption(Atlas of Egyptian art), Zeitouna, Cairo, 1991. (Reprint.)

指摘されていないモティーフであるが、対になる《古代ギリシアⅡ》のアテネ像との関係 を考慮して、正面を向き、右手を伸ばし、左足を曲げるポーズを取らねばならなかったよ うに思われる。また、黒髪に金色の装飾は、古代エジプト芸術の棺の装飾として珍しいも のではなく、実際に隣の《古代エジプト芸術Ⅱ》の部分の棺に同様の装飾をみてとること が可能であり、特定の源泉を必要としなかった可能性は高い。この女性像の背後には、エ ジプトの建築様式に倣ったくぼみ(Hohlkehle)がみられ、円柱飾りと共にハゲワシの描写 がなされているが、本来、くぼみ部分にハゲワシの描写はなされるものではない。という のも、一般的に羽根つき太陽(両側に羽の付いた丸い円盤状のモティーフ)が、部屋の出 入り口の上部のくぼみに設置され、監視するような役割を担っていたからである。加えて、

美術史美術館のエジプト展示室Ⅰの天井には、完成図と同一のハゲワシの描写がなされて いる(図 3−46)。宝石を埋め込んだネクベトを表すハゲワシの装飾品(図 3−47a,47b)を、

つまり二つの天井画とセル型の金色の枠に宝石を埋め込んだ羽、胴の部分、ハゲワシの頭 部等、それぞれ必要な部分を組み合わせることにより、このモティーフが誕生した44。女性 像の背後の円柱飾りは、恐らく羽根つき太陽を意識しながらも、美術史美術館の天井に描 かれているハゲワシを取り入れることで、美術館の重要性を表すことに成功した。両者を 比べてみるならば、二つのモティーフを融合させて新たに創りだすのではなく、パズルの ように必要な部分を組み合わせて、モティーフを創りだしていることが一目瞭然である。

また《古代エジプト芸術Ⅱ》の転写スケッチ(240)と完成作を比較すると、左隅に設置 されている白い彫刻が描かれていない点を除き、転写スケッチには中央の棺のヒエログリ フのような装飾がなされていないことも含めて両者は一致する。この場面は個々の手本の モティーフを組み合わせたというよりは、発掘調査の報告書に掲載されている写真の一部

(図 3−48)をそのまま取り入れて完成図の構図としている。写真では完成作の左隅に置か れているような彫刻が写っており、また白黒写真により棺のヒエログリフも極めて見えに くい状態となっているからである。これらのモティーフの源泉となった文献、写真といつ、

どのような形で接触したのか、現段階では明確にされていないが、作品の素材や専門家の 助言を参考に多様な情報を得ていたと推測される。そのため制作過程から、本作品におけ るクリムト独自の創造、着想を見て取ることは難しく、素描、転写スケッチ段階でクリム ト独自のイメージを作り上げる必要はなかったと考えられる。これはエジプト芸術に限ら ず、美術史美術館の階段上のクリムト作品全体に言えることである。

3-6 まとめ

44

Ernst Czerny, op, cit., p. 260.

本論では、ウィーン大学講堂、天井画に取りかかる以前の 1880 年代後半から 90 年代前 半に制作された壁画、及び水彩画とそれに付随する素描との関係について考察を試み、そ れにより現存する素描が完成図の該当するモティーフとほぼ同一のポーズ、状態で描写さ れていることが明らかとなった。作品毎に細かな変化が生じてはいるが、本論で考察を加 えたブルク劇場の階段室の天井画や《旧ブルク劇場の観客席》及び美術史美術館、階段上 の壁画の素描に共通してみられる特徴を以下のように指摘できる。

それは、完成段階に直接つながる、制作に必要な下書きとして、人物像のポーズを創り だす創造的というよりもむしろ、機能的な役割を素描が担っていたということである。ま た、素描と完成作の関係から、たとえ源泉となるモティーフに改良を加え、異なる形態を 創りだす場合に際しても、素描を制作する時点で人物像のポーズ、配置等の細かな点に至 るまで決定していたように思われる。これらの素描から、クリムトが人物像を描いている が、1900 年前後の素描に生じているような、人間の身体に意識を向け、それをどのように 捉えて、表現するのかという問題に関心を寄せていたのではない点が窺える。この点から これら3点の作品に付随する素描の役割もまた、構図やモティーフの描き方に画家の創造 性が多少認められたとはいえ、1880 年代前半までの素描の役割を基本的に引き継いでいる。

画業初期に制作された素描は、完成作に対しての忠実な準備下絵、あるいは確認する場と して機能しており、そのような準備素描を基に制作されたこれら 3 作品の成功により、ク リムトは次の学科絵という記念すべき作品を描く機会が与えられ、そこで素描のあり方を 大きく変えることになる。

4

章 学科絵《医学》における素描の役割

4-1

はじめに

グスタフ・クリムトは、

1894

年にウィーン大学講堂の天井画1(通称

:

学科絵)2、《哲学

(最終版)》(図

0-1

)、《医学(最終版)》(図

0-2

)、《法学(最終版)》(図

0-3

)の正式な注 文を受けて制作を開始する3。学科絵の制作依頼の経緯に関しては次節にて詳細に扱うが、

クリムトは、色付きの油彩下絵として 1897 年から構想スケッチ《哲学》(油彩、カンヴァ ス)(図

4-1

)、《医学》(油彩、カンヴァス)(図

4-2

)の制作に取りかかり、

1898

年に《法 学》(油彩、カンヴァス)(図

4-3

)を含めて 3 作品同時に大学側に提出した。他方、1894 年 の注文を受け 1897 年に構想スケッチの制作に取り組むまで、《医学》に付随する素描の中 に 1894 年に描いたとされるものが残されていること、また 1896 年に天井画に関するプロ グラムの構想が提出されていることから、クリムトは天井画としてのプログラムを考慮し ながら、個々の作品制作のための準備を進めていたと考えられる4。1898 年に、この構想ス ケッチが大学側から修正付きではあるが、承認がなされた後、《哲学》(図

4-4、 477

)、《医 学》(図

4-5

605

)の転写スケッチが

1898

年に、そして《法学》(図

4-6

942

)の転写ス ケッチが

1902

年にそれぞれ提出された。以上の準備段階を経て完成した作品は、それぞれ 分離派展にて、《哲学》が

1900

年、《医学》が

1901

年、《法学》が

1903

年に展示され、こ れを完成年とする。しかし一度完成してからも

1907

年まで繰り返し修正がなされた。《哲 学》が分離派展に展示された

1900

年以後、《医学》、《法学》と展示され、1907 年の最終的 な状態までの画面の変化は、分離派展の展覧会にて数回展示された際に撮影されたモノク ロ写真で残されている5

学科絵の最初の作品である《哲学》が初めて公に展示された際に、作品を巡る論争が生

1オーストリア政府により中央画「闇に打ち勝つ光」(1000×500cm)、4学科を表す《哲学》、《医学》、《法

学》、《神学》(各400×300cm)、そして天井の隅を飾る16枚の三角間のパネルの制作を依頼される。Alice

Strobl, „Zu den Fakultätsbildern von Gustav Klimt“, in: Albertina-Studien, Heft4, 1964, p. 139. ; Herbert Giese,

„Franz von Matsch Leben und Werk 1861-1942“, Dissertation, Universität Wien, Wien, 1977. p. 202.

2学科絵は通常クリムトが制作した《哲学》、《医学》、《法学》を指す。

Strobl, „Zu den Fakultätsbildern von Gustav Klimt“, op. cit., p. 139.

3 シュトローブルによる素描では《医学》のそれぞれの段階、第

1

段階(

Unvollendeter 1. Zustand

)、第

2

階(Erster auf der 10. Secessions-Ausstellung gezeigter Zustand)、第

3

段階(Zweiter auf der Klimt-Kollektive

gezeigter Zustand

)、最終段階(

Endzustand

)の白黒写真が掲載されている。本論では、《医学》に際して、

便宜上、完成版と表記されている場合は第

2

段階、完成作と表記されている場合は最終段階、完成段階と 表記されている場合は、初版から最終版までの全体を指す。

Alice Strobl, Gustav Klimt. Die Zeichnungen. Band

Ⅰ; 1878-1903, Galerie Welz, Salzburg, 1980, pp. 168-170.

4

Strobl, „Zu den Fakultätsbildern von Gustav Klimt“, op. cit., pp. 141- 143.

5作品の制作年、完成年、提出年はカタログ・レゾネ参考にしている。また、

Strobl

1964

)の学科絵の制 作、及び完成年の一覧表もまた参考にしている。

Fritz Novotny, Johannes Dobai, Gustav Klimt, Friedrich

Welz(Hrsg.), Galerie Welz, Salzburg, 1975(2. Aufl.), pp. 302-303, pp. 312-317, p. 328. Strobl, „Zu den

Fakultätsbildern von Gustav Klimt“, op. cit., p. 151.

じた。この論争は作品に描写されている人物像、主題表現の解釈に端を発し、講堂に設置 すべきか否か、ウィーン大学の教授の間に激しい対立を生じさせ、賛否両論を巡り一般大 衆をも巻き込む政治問題にまで発展する。これにより学科絵は、広く一般にその名が知ら れるようになった6。クリムトが

1905

年に学科絵を買い戻すことにより、論争に終止符が 打たれるが、完成後、一度も天井に設置されることなく、第二次世界大戦中に完成作《哲 学》、《医学》、《法学》の全て、《哲学》、《法学》の構想スケッチが焼失している7。そのため

《医学》の構想スケッチを除き、これら焼失した作品を知る手立てとして、モノクロ写真 しか残されていない。

このような学科絵を研究する意義として以下

2

点を挙げ、本論を始める。

第一に、

1

章にて述べたように学科絵制作期間における制作を取り巻く状況が、他の作品 の制作時期と比べ、重要と判断される点である。学科絵の制作期間(

1894-1907

)は、近代 絵画において注目すべき

1900

年前後、特にウィーン分離派(

1897-1905

)の設立、活動期 間と重なる。分離派の展覧会、『ヴェル・サクルム』の刊行等8を通じて、国内外の出品作品 からのモティーフや構図、作品解釈に関する直接的な影響だけでなく、同時代の数多くの 作品が一堂に会することによって生じる多様な刺激を間断なく受けていたと判断して差し 支えない。また、

1900

年前後といえば、制作を取り巻く環境による様々な外的要因が複雑 に絡み合っていたことが、クリムトの画家としての歩み、またその評価にも現れていた。

例えば、リーダーとして積極的に関与していたウィーン分離派からの脱退、同時代の芸術 家と同様に、当時の社会状況(オーストリア・ハンガリー二重帝国の終焉に向かう流れ)

に少なからず影響を受けていたこと9、また、ウィーンのアカデミーの教授に二度(

1893

1901

)推薦されるが、最終的な皇帝の任命を受けられなかったこと10、《哲学》がパリ万博

1900

)にて金賞の獲得やベルリン分離派に推薦され、評価される一方、国内では、特に 注文主であるウィーン大学芸術委員会を中心に批判されていたことなどがあげられる11。 第

2

に、画業内で中心的な作品である学科絵を研究対象と定めることにより、クリムト が画家として自身を確立した画行後半に考察が及ぶ点である。クリムトは学科絵の制作に

6 クリムトが学科絵の下絵を文部省、ウィーン大学の両芸術委員会に下絵を提出した際に求められていた 構図やモティーフの修正を、完成作に行っていなかったために生じた。続く《医学》、《法学》の公開に際 しても同様の論争は続いた。Strobl, „Zu den Fakultätsbildern von Gustav Klimt“, op. cit., pp. 142. 143. 152.

7

Gottfried Fliedl, Gustav Klimt, Taschen, Köln, 2003, p. 88. (G.

フリードゥル『グスタフ・クリムト』

TASCHEN

2003

年、

88

)

8

Marian Bisanz-Prakken, Heiliger Frühling: Gustav Klimt und die Anfänge der Wiener Secession 1895-1905, Brandstätter, Wien, 1999, pp. 11-33.

9

Werner Hofmann, Gustav Klimt und die Wiener Jahrhundertwende, Philo

Philo Fein Arts, Hamburg, 2008, pp.

7-14

10

Fliedl, op. cit., p. 49.(フリードゥル、前掲書、49

頁)

11Ibid., p. 232.

ドキュメント内 Microsoft Word - 提出 本論.docx (ページ 52-126)

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