2 戦 伝
3 I 二
両者の関係は、下記のようになっている。
(1)友納友次郎の「教授の系統
J
における、 「静的の記述J
(部分練習)→「記載的 の記述」、 「属生的記述」→「描寓的記述」が、 『最新小皐綴方教授細目』では「観 たま〉を書き表すこと」にまとめられる。( 2 ) r
叙情的の記述jが、峰地光重の「感じを行べることJ
に対応する。r
日記文の 指導」、 「書簡文の指導J
が、それぞれ「日記のかきかたJ
、 「書簡文の書きかたJ
に対応する。また、 「評論的傾向J
→「評論的の記述」も、 「考へを述べることJ
と 照応する。( 3 )
r
動的の記述J
(部分練習)→「叙事的の記述J
、 「惇記文の指導J
、 「戦記文 の指導」が、 「時間の順序に述べること」に一本化する。(4)
r
説明的の記述」、 「解説文の指導」が、 「事物のわけを説明することJに収数 する。このように挙げてみると、峰地光重の基本的指導教材は、友納友次郎の多岐にわたる綴 り方教材を
7
項目に集約したことが歴然としている。一方、附帯的指導教材は、基本的指導教材とはどういうところが異なるのであろうか。
『最新小皐綴方教授細目』には、下記のように略述している。
r
(指導教材は)分ちて基本的指導教材、附帯的指導教材の二っとする。前者は教授細 目の上に一軍元として配嘗し、後者は細目の上には文話として記載し、又別に草稿標準、推敵標準の名の下に各皐年に配嘗して、創作教材指導教材の慮理の場合に教授するのであ る。
J < 注
54)一結局、基本的指導教材は創作教材と並んでー単元として配当されるのに対し、附帯的 指導教材はそれらの単元の中で必要に応じて文話として、また草稿や推敵の基準として活 用されるのである。大正13 (1924)年の「綴方教育の史的考察並にその新傾向
J
では、基 本的指導教材を「生活指導J< 注
55)の教材、附帯的指導教材を「表現指導J< 注
56)の 教材と呼び、両者の主・副を一層明確にしている。そして、生活指導教材が、 「見童の(価 値ある)文化生活ーたとえば『観たままを書く』という生活ーを指導する教材J < 注
57)(括弧も、例示も、考察者が加えたもの)であるのに比して、表現指導教材は「表現の心
30
理を根底として選定すべき
J
(注58) としている。表現の心理については「フヰドラー」〈注59)の「直観、設展、表現の三段をとるといふ説をとりたい
J
(注60) としている。そこから6項目を引き出している。ただし、『最新小皐綴方教授細目Jl (大正 10年)と「綴 方教育の史的考察並に新傾向Jでは、その項目が左記のように幾分違っている。
『最新小皐綴方教授細目』 「綴方教育の史的考察並に新傾向」
1.物を観ること、特色を捉へること て一一一ー
1
物を観ること 直観 (観察のしかた、精叙、略叙) ¥2
文の組立方(文の中心・首尾、結構) ¥ ¥ 2
特 色 を と ら う メ フ ア 稜 展3 .
文の段落(腹案のしかた、段落のき3
文の組立りかた)
4.
文の調子(句のきり方、績け方、五一一一一4
文 の 調 子 ¥ ¥彩、句讃貼の打方) ¥¥¥
5.
比輸のしかた(聯想と比時5
比 喰 一 一 一 一 一 一 表 現6 .
推蔽のしかた(貫感と推敵6
推蔽フヰドラーの説に基づいたといっても、どこまでを直観、発展、表現とするかは、 『最 新小皐綴方教授細目』を作成した後も、上のように揺れている。それにしても、ここで友 納友次郎の「教授の系統」表にまぎれ込んでいた「思想の纏め方表し方」→「作者の態度 を養ふことj→「構想の指導」という系列を、表現の心理(文章表現過程)に着目して別 の原理として独立させることができたのである。峰地光重としてはやっと友納友次郎の掲 げた綴り方教材組織を手がかりにしつつも、乗り越えたという感慨の湧くものであったろ
フ。
以上のように見てくると、 峰地光重が提出した綴り方教材組織論は、
①目的としては芦田恵之助の人生科としての綴り方の着想に拠りつつも、
②綴り方教材の二大別においては、芦田恵之助・友納友次郎(綴文力の啓培の用語で、
「写生
J
主義綴り方・友納友次郎・花田甚五郎・長崎県女子師範附小ら綴る態度に着目し、綴文力を伸ばそうとする思潮を生かそうと考えていたかもしれない)の両説とも生かし、
③最も具体的な基本的指導教材(後に生活指導教材)、附帯的指導教材(後に表現指導 教材)の区分は、むしろ友納友次郎の「教授の系統」を手がかりにして、新たな綴り方教
授系統案にしよう(注
6
1)としたのである。したがって、実際の綴り方教授細目は、友納友次郎の綴り方教授細目を精読しながら作 成したに違いあるまい。実際の手がかりは友納友次郎の説述に拠ったとすれば、よく似た 写生主義綴り方や花田甚五郎・長崎県女子師範附小の説との関連に思い至り、共通の源と してシュミーダーに着目するに至ったのではなかろうか。随意選題論争を乗り越えるため にも、峰地光重は先行の友納友次郎がなぜこのような綴り方教材組織論を提案するに至っ たか、遡らざるを得なかったのである。
おわりに
本稿から導き出される結論は、下記の四点になろう。
1.シュミーダ一作文教材組織論については、その内容・目的(位置づけ)も、日本に取 り入れられた書名・発行年も、紹介された時期(明治期か大正期か、紹介した人も含め て)、教育現場で、いつからどのように活用され始めたかも明らかではない。
2 .
ただし、シュミーダーの原著が明治4 1
(19 0 8 )
年に出されたものとの証言が、長崎県女 子師範附小(前川宇吉)の『本質の上に立てる最新綴り方教授Jl (大正5
(19 1 6 )
年9
月) にあり、シュミーダーの1 1
段階の内容も、花田甚五郎の『新潮を汲める綴り方教授の貫 際Jl (大正5
(19 1 6 )
年7
月)や前川宇吉の著書に掲載されたものが、予め紹介された ものに、それぞれの著者の解釈を加えた第二次資料(長崎県女子師範附小のばあい、花 田甚五郎の見方を取り入れたものも含む)と考えれば、了解はできる。そして、大正期 に輩出した、綴文力育成をめざした綴り方教材組織論(駒村徳害・五味義武の写生主義 綴り方教材組織、友納友次郎の綴り方教材組織、及び花田甚五郎・前川宇吉の綴り方教 材組織)の酷似性を説明できるのは、峰地光重のすべてシュミーダーの思潮を汲んだも のという推理だけである。峰地光重自身が自らの綴り方教材組織を主に友納友次郎に拠 って作り上げており、淵源に遡る洞察がなし得たのであろう。3 .
以上の考察を通して、競る力の育成をめざす幾つもの綴り方教材組織論はすべて「シ ユミーダーの思潮を汲んだもの」という峰地光重の推理は、次のように補強できょう。( 1
)シュミーダーの著書はおそらく明治4 1
(19 0 8 )
年に出版され、当時ドイツに留 学していた教育研究者によって、ほどなく日本に訳出・紹介された。その教育研究者 は、奈良女高師教授真田幸憲に比定されるほど著名で、シュミーダーに言及した著書 も、ずいぶん普及した。シュミーダーも、大正5
(19 1 6 )
年の時点では、 「かの有名なJ32
と冠しておかしくないほど周知の存在になっていた。
(2 )シュミーダ一説の訳出・紹介によって教育現場による活用の素地が得られ、創意 を加えたのは駒村徳害・玉味義武の写生主義綴り方の教材組織論であり、単純化して、
普及を容易にしたのは友納友次郎の綴り方教材組織論である。花田甚五郎と長崎県女 子師範附小は、シュミーダ一説によることを明記するが、当然日本に訳出・紹介され たものを通してであろうし、そこに各々のつけ加えもしている。実際には、写生主義 綴り方や友納友次郎の系統化の原理にも学んでいる可能性がある。したがって、公刊 された代表的な書物は、大正3 (1
9 1 4 )
年から大正5
(19 1 6 )
年に出ているが、摂取 され始めた時点は、明治期にまで遡られる余地もある。4.
峰地光重の推理を証明するには、以下の3
点にわたって解明する必要がある。(1)明治
4 1
(19 0 8 )
年と目されるシュミーダーの原書を探し、訳出して、書名や文章 本 質 観 / 綴 り 方 教 授 の 目 的 / 発 達 段 階 を ふ ま え た 初 等 綴 り 方 教 授 全 体 へ の 展 望 / 綴り方教授系統化の原理/具体的な綴り方教材配列を明らかにする。
( 2
)日本に初めて訳出・紹介したのは、誰で、何年に、どういう書物にどのように(ど のくらいの詳しさで)記したのかを突き止める。( 3)現場の綴り方教育実践者がいつごろからシュミーダ一説に学び、どのように活用 していったか、その経緯とそこで創造されたものは何かを探る。
(注〉
1 峰地光重著『文化中心国語新教授法』上巻、教育研究会、大正
1 4
(19 2 5 )
年 10月2 3
日発行、
2 5 3 " " ' 2 5 7
ペ ー ジ2
峰地光重稿「綴方教育の史的考察並にその新傾向J
~国語教育』第 9 巻第 12 号、育英 書院、大正13(19 2 4 )
年1 2
月1日発行、4 2 " " ' 4 3
へ。ーシキ3 同上誌、
4 2
へ.ーシe4
花田甚五郎著『新潮を汲める綴方教授の貫際』教育新潮研究会、大正5
(19 1 6 )
年7
月
2 8
日発行、2 0 " " ' 2 1
イーシe5
向上書、2 4
へ。ーシe6 棋山栄次校関、須甲理喜・丸田栄太郎・前川宇吉共著『本質の上に立てる最新綴り方 教授』金港堂書籍、大正
5
(19 1 6 )
年9
月2 0
日発行、2 4
イーシ守7
綴方教育の史的考察並にその新傾向J ~国語教育』第 9 巻第 12 号、 42 へ。ーシ。8 W新潮を汲める綴方教授の貫際~ 27へ.ー
γ
9 向上書、 22へ。ーシや
1 0
向上書、 22へ。ーシ辛 口 向上書、 24へ。ーシ守12 真田幸憲著『新時代の教育』目黒書店、大正 13(1924)年9月 27日発行、 「緒言
J
2へ。ーシ手13 向 上 書 「 緒 言
J 1
。へ} γ
。 な お 、 著 書 (5
) の 『 西 洋 見 物 お 土 産 話 』 目 黒 書 庖 、 大 正 11 (1922)年5
月 12日発行、全221へ。ーシ守によれば、初めにアメリカに行き、シカゴと ニューヨークで一年半ほど研究に従事し、大正 10(19 2
1)年になって、イギリス→フラ ンス→ドイツに約一か月ずつ滞在して帰国している。すべて船旅で、移動に何か月も費 やしている。 ドイツが主要な留学先でないことも、ここで明瞭になってくる。なお、帰 国して文部省に提出した報告書も『米国に於ける教員養成法』で、あった。(真田幸憲稿「最近米国に於ける師範教育の状況J
W
教 育 界 』 第 21巻 第4号、明治教育社、大正 11 (1922)年4月3日発行、 18へ。ーシ守に拠る。)14 向上書、本文7""""8へ。ーシ守
15 真田幸憲著「綴方教授に就て
J
W教育貫験界』第31巻 第7号、東京育成会、大正2(1913) 年4
月5
日発行、 14""""18ヘ。ーシ守16
r
綴方教授に就てJ W教育費験界』第31巻 第7号、 18ヘ。}シ守 17 W文化中心園語新教授法』上巻、 256へ。ーシや18 友納友次郎著『貫際的研究になれる讃方綴方の新主張』目黒書居、大正3 (1914)年
5
月20日発行、 全500へ。ーシ守19 綴方教育の史的考察並にその新傾向J W園語教育』第9巻 第 12号、 41へ。]シや 20 友納友次郎著『教師の貫習を主としたる綴方教授法講話』同文館、大正7 (1918)年
11月15日発行、全556へ。}シ守
21 花田甚五郎稿「シユミーダーの説に基きたる新綴方教授法
J
W国 語 教 育 』 第1巻 第1 号、育英書院、大正5
(1916)年1
月1
日発行、 53""""58イサや22 峰地光重著『綴方教育設達史』啓文社、昭和 14(1939)年6月 15日発行、 130へ。ーシ守 23 向上誌、 130イーシ守
24 向上誌、 131イサや 25 同上誌、 132ヘ。ーシ守
34
26 向上誌、 132"""133イー
γ
27 友納友次郎著『私の綴方教授』目黒書庖 大正 10(1921)年 11月28日発行、全484 ヘーシ
28 ~賓際的研究になれる讃方綴方の新主張Jl 281へ。ーシ守 29 向上書、 282へ。ーシ守
30 向上書、 284へ。ー
γ
31 向上書、 294へ.ーシ寺 32 向上書、 391へ.ーシ守 33 同上書、 348へ。ーシや 34 向上書、 409へ.ーシ守
35 ~新潮を汲める綴方教授の貫際Jl 24"""25へ。ーシ守 36 向上書、 26ヘ。ーシ寺
37 綴方教育の史的考察並にその新傾向
J
~国語教育』第 9 巻第 12 号、 40 へ。ーシ守38 向上誌、 46ヘ。ーシ守
39 ~綴方教育設達史Jl 138へ。ーシ寺
40 田上新吉著『生命の綴方教授』目黒書庖、大正 10(1921)年10月25日発行、全660 ヘーシ
41 峰地光重著『最新小皐校綴方教授細目』児童研究社、大正 10(1921)年8月 18日発 行、 全68へ.ーシ守
42 秋田喜三郎著『見童中心図語の新皐習法』明治図書、大正 11(1922)年4月25日発 行、 全394へ.ーシ守
43 奥野圧太郎著『綴方指導の原理と其貫際』文化書房、大正13(1924)年7月
8
日発 行、 全348へ。ーγ44 綴方教育の史的考察並にその新傾向
J
~園語教育』第 9 巻第 12 号、 46"""47 イサ守 45 向上誌、 47へ .‑ : /
46 向上誌、 48ぷーシ守
47 芦田恵之助著『綴り方教授に関する敬師の修養』育英書院、大正4 (1915)年
5
月5
日発行、全474へ.ーシ¥「第四章 教授について」において「教科や教材がいかに多様に互っても、児童の人 生に結びつけて皐ぶことによって、 j軍然たる一教科として解することが出来よう。 J